明石城は江戸時代、交通の要所・明石海峡近くに築かれた城です。同じ播磨国にあった姫路城と比べると目立たないかもしれません。しかし実は、現在残っている三重櫓2基は、全国に残っている三重櫓12基のうちの2つなのです。また、城や城下町の建設には、あの播磨国出身とされる宮本武蔵が関わったというのです。これらの地域や人物が、どのように明石城に結びついていったのか、歴史を追ってみましょう。
今回はまず大内文化や幕末の歴史が感じられる「香山公園」に向かいます。その次は、県庁エリアに移動して、山口城跡をご案内します。その後は、大内氏館跡や、築山跡に行って、最後は、高嶺城跡に登ります。
山口市といえば「西の京」と呼ばれていて、小京都のイメージがあります。よって城郭とは少し離れた印象もあるのですが、実は「大内氏館」「高嶺城」が連名で日本城郭協会の続日本100名城に指定されています。また、幕末にはそのものズバリという名前の「山口城」という城もあったのです。
今日は、錦川の畔に来ています。錦帯橋を見ながらも、岩国城の方も気になってしまいます。今回は、錦帯橋を渡って、山麓の居館跡を見学してから山の上に行きます。そして、吉川広家が築き、終わらせたお城がどうなっているかご案内します。再建天守に着いたら、山上からの景色を楽しみたいと思います。
岩国城の歴史は、どうやら吉川広家の武将人生と大きく関係しているようです。今回はまず、広家の関ヶ原の戦い前後の動向をチェックしてから、岩国城の築城、そして早すぎる「廃城」をご説明したいと思います。最後は、「陣屋」としての岩国城のその後、そして錦帯橋の歴史にも触れていきます。
今回は大高駅からスタートして、大高城を見学します。メニューとしては、義元が進んだかもしれない「義元の道」、そして織田信長が進んだであろう「信長の道」として区分してご案内します。最後は、桶狭間古戦場公園に行きつきます。
近年、桶狭間の戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきたのです。
皇居の乾通り一般公開に行ってみます。皇居の東側の通りを、桜の時期などに歩くことができるのです。桜見物もいいですが、その通りは、江戸城本丸の西側を通っているのです。以前、江戸城本丸こと、皇居東御苑に行きましたが、その時には見ることができなかった、本丸の別の姿を見学できるのです。これは行ってみるしかありません。
大手門から城跡の中心部を見て、シラス台地の城の痕跡を探します。続いて武家屋敷界隈を歩きますが、ここにもかつての城の痕跡があります。最後は、城下町を楽しみましょう。
宮崎県日南市にある飫肥は、飫肥城跡と、武家屋敷や城下町の町割りや雰囲気を残す人気のある観光地になっています。「南九州の小京都」とも言われ、1977年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉の産地としても知られています。
志布志城跡のうち、メインの内城に向けて出発します。まず、いきなり城に攻め入るイメージで、本丸を攻略します。その後も、城の奥の方をどんどん探ります。これはもう探検気分です。
今回は、鹿児島県東部、志布志市にあった城、志布志城をご紹介します。この地には志布志津があって古代以来栄えていました。志布志城は、この地を治める拠点だったのです。城そのものにもシラス台地に作られた大規模な山城だったという大きな特徴があります。
今回は、港をスタート地点にして、今治城に入城しましょう。そうすれば、海城らしさを感じられると思います。城の中心部分は、現在の天守がメインになりますが、当時の痕跡も探してみましょう。その後が、高虎築城術の神髄で、再建された櫓群を巡ってみます。最後は、内堀の外側を歩いてみます。今残っている範囲で、高虎築城術を感じられそうです。
