202.宇都宮城 その1

栃木県宇都宮市は人口50万人以上を要する北関東最大の都市であり、「餃子の街」としても知られ、最近では国内では75年ぶりの路面電車開業で話題となりました。宇都宮の起源は、ここに古代から鎮座する宇都宮二荒山神社の門前町であるとされています。宇都宮城の始まりはこの神社より下りますが、神社と深い関係がありました。

立地と歴史

話題の多い街

栃木県宇都宮市は人口50万人以上を要する北関東最大の都市であり、「餃子の街」としても知られ、最近では国内では75年ぶりの路面電車(LRT)開業で話題となりました。宇都宮の起源は、ここに古代から鎮座する宇都宮二荒山(うつのみやふたあらやま)神社の門前町であるとされています。宇都宮城の始まりはこの神社より下りますが、神社と深い関係がありました。

宇都宮市の範囲と城の位置

宇都宮餃子の老舗店
宇都宮LRT
宇都宮二荒山神社

宇都宮氏の時代

言い伝えによると、藤原宗円(ふじわらそうえん)という僧が前九年の役のとき(1063年)源頼義に随行し、敵を調伏した功績により、宇都宮二荒山神社の別当に任じられ、宇都宮氏の始祖として神社の南に館を構えたのがその始まりとされています。この言い伝えに確証はないのですが、宇都宮氏の当主は武家の当主でありながら、代々別当を兼ねていたので、ありえない話でもないと思われます。当初の城は、現在も市内を流れる田川沿いにあり(奥州街道も川沿いを通っていました)、そこから神社に通勤していたという説があります。一方、当初から現在の宇都宮城本丸付近にあったという説もあります。その辺りでは高台にあたり、館を築くのにふさわしい場所だからです。宇都宮氏の時代は約500年にも渡るので、川沿いから高台に徐々に移ってきたということも考えられます。

前九年合戦絵巻、出展:文化遺産オンライン
宇都宮市内の地図に、当初の館の位置(2説)をプロット

12〜16世紀の約500年間、宇都宮氏は宇都宮がある下野国で君臨しました。その支族は、他国(豊前、伊予など)にも領地を得て全国的に繁栄しました。常陸国(現在の茨城県)にあった笠間城を治めた笠間氏も宇都宮氏の一族です。また、地元の下野国では、飛山城を本拠とした芳賀氏などの重臣によって支えられていました。16世紀後半の戦国時代に最後の当主となる宇都宮国綱は、関東地方制覇を狙う北条氏の攻勢を防ぐため、本拠地を山城の多気城に移しました。しかし、1590年の天下人・豊臣秀吉の関東侵攻により北条氏が滅ぼされ、事なきを得ます。秀吉は、包囲していた北条氏の本拠地・小田原城から宇都宮城に移動し、そこで関東及び東北地方の戦後処置を行いました(宇都宮仕置)。

笠間城跡
飛山譲跡
多気城跡
小田原城

国綱は小田原攻めに参陣していたため領地を安堵され、その後は秀吉の国内統一事業、朝鮮侵攻に動員されます。ところが1597年、秀吉により突然改易となってしまいます(宇都宮崩れ)。その要因としては、秀吉との間の取次であった浅野長政からの養子の話を断ったからとか、長政が検地を行ったところ申告値と全く異なっていたからとか言われています。いずれにしろ、国綱本人には全く突然の話であって、結局は政権中枢(秀吉〜長政ライン)に翻弄された結果でした。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅野長政肖像画、東京大学史料編纂蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

宇都宮城釣天井事件

徳川幕府が政権を握った江戸時代には、宇都宮は幕府にとって最重要地点の一つとなりました。東北地方に通ずる奥州街道上の拠点だけでなく、幕府の始祖・徳川家康を祀った日光東照宮へ向かう日光街道への分岐点にもなったからです。1601年以来、幕府は家康の娘・加納御前の子、奥平家昌を宇都宮城主(宇都宮藩主)としていました。家昌が亡くなると1619年に、その子・忠昌は幼少という理由で古河藩に転封となり、本多正純が代わりとなりました。これは時の将軍・徳川秀忠の決断でしたが、秀忠の姉である加納御前は大いに不満でした。本多正純は、父・正信とともに家康を支えた優秀な官僚でしたが、正純自身に戦手柄はなく、家康が亡くなったことで世代も変わり、幕府関係者から疎まれていました。また直接的には、加納御前の娘が嫁いでいた大久保氏が改易となった事件に正純が関わっていたことで、加納御前から恨まれていました。もしかすると加納御前は、自分の孫(忠昌)が正純の差し金で宇都宮から追い出されたと思っていたかもしれません。

奥平家昌肖像画、奥平神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
加納御前肖像画、光国寺蔵、岐阜市ホームページから引用
当時の人物相関図

それでも正純はその能力を生かし、1622年に予定されていた秀忠の日光社参に備えて、宇都宮城と街を大改修しました。まず城や町を拡張し、多くの曲輪と水堀を整備しました。東北地方と日光がある北側に大手門が作られ、その前には徳川一門らしい丸馬出しが築き防御を固めました。本丸は、他の有名な城と違って土造りで、天守もありませんでしたが、土塁の上には5つの櫓が聳えていました。その中に将軍の専用宿所(御成御殿)を造営したのもこの時と言われています。奥州街道は、城の防衛と街の拡張のため、城の更に西と北を迂回するように再設定されました。正純は、宇都宮を短期間で、将軍の逗留にふさわしい場所にすることに成功したのです。

江戸中期の宇都宮城古地図、本丸と大手門の場所を付記 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇都宮城本丸の模型、宇都宮城ものしり館にて展示
再設定された奥州街道

その1622年、秀忠の日光社参のとき(秀忠にとって3回目)、有名な宇都宮釣天井事件が起こります。秀忠は4月12日江戸を立ち、岩槻、古河、宇都宮、今市に宿泊し、16日に日光に到着しました。ところが帰路も宇都宮に宿泊する予定でしたが、19日に近くの壬生城に一泊しただけで急いで江戸に戻りました。これは、加納御前が秀忠に城に不審な点があると注進したためと言われています。同時に幕府の使者が宇都宮城を訪れ検分しましたが、不審な点は見つかりませんでした。その4ヶ月後、正純が改易となった最上氏の山形城に受取りの使者として出向いたとき、正純自身の改易を告げられました。その理由は、以前の福島氏改易時に正純が秀忠に的外れな意見をしたとか、宇都宮拝領時に不満を言った程度のことでした。要するに秀忠とその側近、及び加納御前が正純を排除するための仕掛けだったわけです。その当時、正純が秀忠の甥、松平忠直と結託して謀反を起こすという噂もあり、これらが後に、正純が秀忠を殺害するために、宿所湯殿に釣天井を仕掛けたという説話となりました。

秀忠の日光社参のルート(往路)
山形城跡

その後宇都宮城(藩)には、加納御前の望み通り、奥平忠昌が復帰しました。彼の2回目の治世46年の間に、将軍による全社参19回のうち実に13回(うち10回は3代将軍・家光)が行われました。将軍の権威を示すため、その行列は十数万人に及びましたが、幕府・関係大名・領民の負担も大変なもので、1663年の4代将軍・家綱(通算16回目)以降は財政不足でしばらく途絶えました。その間、本丸の御成御殿は取り壊されてしまいました。1728年、8代将軍・吉宗が65年ぶりに社参を行ったときには、宿所は藩主が住む二の丸御殿を使ったそうです。

奥平忠昌肖像画、奥平神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日光東照宮
「千代田之御表」、神橋を渡る将軍一行を描いた浮世絵、「東京都立図書館デジタルアーカイブ」より
現在の神橋

宇都宮城の戦い

城にとっての大事件が江戸時代末期にも起こりました。そのとき各藩は「尊皇」⇔「佐幕」、「攘夷」⇔「開国」という価値観の中で揺れ動いていましたが、宇都宮藩では尊皇攘夷思想に影響を受けた重臣の県勇記(あがたゆうき)が藩政を引っ張っていました。彼の主君は親藩の戸田氏であったため、幕府に従っていましたが、幕府に反抗した天狗党に頼られるなど、その舵取りには苦労しました。そして明治維新となり幕府が瓦解すると、県はいち早く新政府と連絡を取り、支持を表明しました。そのこと自体は良かったのですが、それが思いもしない困難につながります。旧幕府から脱走した2千名超の新鋭装備の軍隊が、大鳥圭介・土方歳三らに率いられ、日光経由で幕府を支持していた東北諸藩と連絡しようとしていたのです。彼らの主要ターゲットの一つが、新政府の拠点・宇都宮城でした。

大鳥圭介、幕末の頃の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
土方歳三写真、田本研造撮影、1868年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

旧幕府軍は作戦を立て、城の東側の田川から攻撃をすることにしました。この川は外堀として城の防御に組み込まれていましたが、この川を越えてしまえば本丸までは近く、城の弱点となっていたのです。4月19日、旧幕府軍は城下町に放火し、川にかか橋を渡って城に攻め寄せました。特に梁瀬橋を渡った下河原門周辺で激戦が起こりました。城は、県有記率いる宇都宮藩士と彦根藩・烏山藩などからの援兵によって守られていました。しかし藩兵はこのとき頻発していた農民による打ち壊しへの対応で疲弊していて、他藩の兵士も少なく、劣勢に立たされました。守備側は、一旦城から撤退し、後日取り戻すことを決断します。城の建物に自ら火をかけ、主君(戸田忠恕、とだただゆき)を逃がした後、主君の親族である館林藩を頼って落ち延びました。その日の夜は、火が燃えさかる中、城はほぼ無人の状態になったのです。

下河原門での戦い
現在の梁瀬橋
下河原門跡

翌日、土方と大鳥が宇都宮城に入城しました。廃墟となった城内で見たのは、物をあさっている町民と、恐らく打ち壊しの罪で囚われていた農民でした。彼らを退去させ、規律を破った兵を処分した後、旧幕府軍は戦利品を手に宴会をするのですが、大鳥や土方にとって数少ない勝利の瞬間でした。23日には増援を得た新政府軍が城の西側から反撃を開始、松が嶺門で激戦が展開されました。土方はこの戦いで負傷してしまいます。新政府軍は大砲による攻撃に加え、城の南側からも攻めることで、城から旧幕府軍を追い出しました。藩主・県有記を含む宇都宮藩士はこのとき館林にいて、残念ながら奪還作戦には参加できませんでした。

松が嶺門での戦い
松が嶺門跡

「宇都宮城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

178.Noshima Castle Part1

Noshima Castle was located on Noshima Island, which is in a narrow strait called Miyakubo-Seto, and part of the Geiyo Islands in the Seto Inland Sea. It was also built and operated by the Noshima-Murakami Clan, one of the three Murakami Navies which were very active around these islands.

Location and History

Murakami Navies, Excellent Guides of Seto Inland Sea

Noshima Castle was located on Noshima Island, which is in a narrow strait called Miyakubo-Seto, and part of the Geiyo Islands in the Seto Inland Sea. It was also built and operated by the Noshima-Murakami Clan, one of the three Murakami Navies which were very active around these islands. Before modern times, sailing along the coast was a major way of transportation. Seto Inland Sea was one of the most important sea routes, which connected central and western Japan. However, the Geiyo Islands area has lots of islands and narrow straits, which made the sea currents fast and difficult. For example, in Kurushima Strait, the direction and speed of the current frequently changes mainly due to the pull of the moon. Ships are still now required to follow instructions from the sea traffic center and its traffic signals.

The Kurushima Strait

The location of the castle

In the Middle Ages, boatmen and pilots, who sailed there, were required to have great competence instead. In addition, sailing alone could be very dangerous at that time as the police power of the central government was still weak. Each area was governed by a local lord or others, such as pirates. People at that time thought travelers should pay a toll when they passed others’ territories. The Murakami Navies, which were also some of the local lords, came out to guarantee safe travel to ships around the islands. The earliest record about them in 1349 says the Noshima-Murakami Clan guarded the sea around Yuge Island. Their system was roughly as follow: they escorted ships which had paid protection money (basically 10% of the value of the cargo), otherwise, they became pirates by chasing the ship using their boats called Kobayabune (meaning “small fast boat”).

The restored Kobayabune boat, exhibited by Murakami KAIZOKU Museum

Home of Noshima-Murakami Clan

The navies were eventually divided into three clans: the Innoshima-Murakami, Noshima-Murakami, and Kurushima-Murakami Clans. Their territories were based on the northern, middle, and southern Geiyo Islands respectively. Noshima is a small island in the Miyakubo-Seto Strait which is between Ushima Island to the north and Oshima Island to the south. The strait was on one of the shortest paths for ships to pass through the Seto Inland Sea. However, the speed of the current is at most around 10 knots and kept changing constantly. The sea around the island is shallow and kept swirling, which is uncontrollable for regular ships. For the navy members, Noshima is about 300m away from Oshima Island where they usually live, so they could communicate verbally. That meant they could immediately ask or provide help to each other in the event of an emergency. From the top of Noshima, they were able to see the whole strait, beacon fires on mountains of Oshima Island and even Shikoku Island over Oshima between the mountains. Overall, it was suitable for the home base of the Noshima-Murakami Clan.

The diorama of the area around Noshima Island (marked by the red circle), exhibited by Murakami KAIZOKU Museum
The Oshima Island seen from Noshima Castle Ruins, can we communicate with voice?
The ruins of Koga Yashiki residence in the Oshima Island, which was said to have been the residence of the Noshima-Murakami Clan

They operated Noshima Castle on the island between the 14th and 16th Centuries. Several enclosures and buildings were built after leveling the land. The navy members lived in or were stationed at the site not only to guard the strait, but also to trade and fish. The defensive systems of the castle were few, excluding artificial vertical cliffs on the sides, because its sea barrier was strong. Instead, they constructed harbors, landing places and maintenance yards at the seaside. On the other hand, the island didn’t provide water, food and other supplies they needed, which had to be brought from other islands.

The imaginary drawing of Noshima Castle, exhibited by Murakami KAIZOKU Museum

“Largest Pirates of Japan”

The Murakami Navies also often joined battles to support other warlords. In the case of the Noshima-Murakami Clan, it had a good relationship with the Kobayakawa Clan, a branch of the Mori Clan which was the greatest warlord in the Chugoku Region nearby. They needed the superior navy power to survive during the harsh Sengoku Period. Other warlords, such as the Otomo Clan, also invited the Noshima-Murakami Clan. When it once switched to the Otomo’s side, the Kobayakawa Clan, which also had a navy, attacked and blocked Noshima Castle by interrupting the supplies (laying siege) to the castle until it returned to the Kobayakawa’s side.

The portrait of Takakage Kobayakawa who was the clan’s lord at that time, owned by Beisanji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

The power of the Noshima-Murakami Clan reached its peak when Takeyoshi Murakami was the lord during the late 16th Century. The most popular battle his navy fought in was the First Battle of Kizugawaguchi between the Mori and Oda Clans in 1576. In this battle, the Mori’s navies, supported by the Takeyoshi’s navy, who tried to bring supplies to Ishiyama Honganji Temple (currently Osaka Castle), and blocked by the Oda’s navies. Tekayoshi’s navy attacked the Oda’s ships with bombs, which eventually burned and sank. The supply operation was a success. In 1586, a Portugal missionary, Luis Frois visited Noshima Castle while sailing the Seto Inland Sea. He recorded in his book “The History of Japan” that they were the largest group of pirates. His crew was given a passport-flag which would guaranteed his safe voyage considerably.

The imaginary drawing of the First Battle of Kizugawaguchi, exhibited by Murakami KAIZOKU Museum
The imaginary drawing of Luis Frois‘s visit to Noshima Castle, exhibited by Murakami KAIZOKU Museum
One of the remaining passport-flags, owned by Yamaguchi Prefectural Archives (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Sudden Ending of Navies and Castle

The three Murakami Navies basically cooperated with each other, however, they eventually took different paths. The Kurushima-Murakami Clan switched to the Oda’s side through the invitation of Hideyoshi Hashiba, who would later be the ruler. Therefore, Takeyoshi occupied the Kurushima’s territory. However, this would be a misfortune for him. In the process of the unification of Japan by Hideyoshi, he was asked to return it to the Kurushima by Hideyoshi. He seemed to want to maintain his clan’s independence. However, when the Kobayakawa Clan, which was the current boss of the Noshima-Murakami Clan, was transferred to the Kushu Region by Hideyoshi, Takeyoshi finally had no choice but to leave all his territories including Noshima Castle.

The current Noshima Castle Ruins, seen from the Oshima Island

To be continued in “Noshima Castle Part2”

178.能島城 その1

能島城は、瀬戸内海の芸予諸島のうち、宮窪瀬戸と呼ばれる狭い海峡の真ん中に位置する能島にあった城です。この城は、芸予諸島で活躍した3つの村上水軍の一つ、能島村上氏によって築かれ使われていました。

立地と歴史

瀬戸内海航路の案内役、村上水軍

能島城は、瀬戸内海の芸予諸島のうち、宮窪瀬戸と呼ばれる狭い海峡の真ん中に位置する能島にあった城です。この城は、芸予諸島で活躍した3つの村上水軍の一つ、能島村上氏によって築かれ使われていました。近代以前において、沿岸航海は主要な交通手段の一つでした。瀬戸内海は、最も重要な航路の一つであり、畿内と西日本をつないでいました。しかし、芸予諸島には数多くの島があり、その間の狭い海峡により、海流は急速かつ複雑となっています。例えば来島海峡では、海流の向きとスピードは、主に月の引力により頻繁に変わります。ここを通る船は今でも海上交通センターの指示や信号に従って航行する必要があります。

城の位置

来島海峡

中世において瀬戸内海のような海を航行する際には、優秀な水夫や水先案内人が必要とされました。更には、当時は単独で航行すること自体が危険な行為になりかねませんでした。中央政権の警察力がまだ貧弱だったからです。それぞれの地方は、その地の領主か、場合によっては海賊ような者によって治められていたのです。また、当時の人たちは、他人の領地を通り過ぎる時には通行料を払うべきという感覚も持っていました。村上水軍もその地方領主の一部であったのですが、瀬戸内海を航行する船の安全を保証する存在として台頭しました。彼らについての最も早い記録として、1349年に能島村上氏が弓削島周辺の警備を行ったというものがあります。彼らの警備システムは次のようなものでした。警護料(基本的には積荷の10%だったと言われています)を支払った船に対しては安全な航路を案内する一方、支払わない船に対しては小早船(こばやぶね)と呼ばれる高速艇で追いかけ、海賊行為を働くというものでした。

復元された小早船、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

能島村上氏の本拠地として築城

村上水軍はやがて、3つの氏族に分かれていきました。因島村上氏、能島村上氏、来島村上氏です。彼らの勢力圏はそれぞれ、芸予諸島の北側、中間、南側に当たりました。能島は宮窪瀬戸にある小さな島で、北方の鵜島、南方の大島に挟まれた場所にありました。宮窪瀬戸は、瀬戸内海を通る最も最短のルートの一つの途中にあったのです。ところが、その地点の海流のスピードは最大で10ノットに及び、絶えず変化しています。また、能島周辺の海は浅瀬で渦を巻いていて、不慣れな船は制御不能に陥ってしまいます。水軍のメンバーにとっては能島は、彼らが普段暮らしていた大島から約300m沖合にあって、大声で連絡が取りあえる範囲内でした。緊急事態が発生したときにも、お互いに助け合う態勢が取りやすくなっていたのです。能島の頂部からは海峡の全体を見渡すことができ、大島にある山の上で焚かれた烽火や、大島の山あいを超えて四国までも見通すことができました。能島村上氏の本拠地としてうってつけの場所だったのです。

能島周辺のジオラマ(能島部分に赤丸を付加)、今治市村上海賊ミュージアムにて展示
能島から見た対岸の大島、大声が届くかどうか
大島にある「幸賀屋敷」と呼ばれる能島村上氏が住んでいた場所

能島城は、14世紀から16世紀の間に存在していました。島は整地され、その上にはいくつもの曲輪や建物が築かれました。水軍の兵士はそこに住むか、あるいは駐屯していて、海峡を防御していただけでなく、交易や漁業にも従事していました。城を防衛する仕組みは少なく、島の側面に人工的に切岸が設けられた程度でした。島を囲む海そのものが障壁となっていたからです。代わりに、島の海岸には船着き場、荷上場、メンテナンス場などが設けられました。一方で、島には水、食料、その他必要な資材は一切なかったため、他の島から運び込む必要がありました。

能島城の想像図、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

「日本最大の海賊」となる

村上水軍はまた、他の戦国大名を支援して戦いに参加することもありました。能島村上氏の場合は、近くの中国地方で最大の戦国大名であった毛利氏の支族、小早川氏と友好関係を築いていました。シビアな戦国時代を生き残るためには、強力な村上水軍の力が必要とされたのです。大友氏などの他の戦国大名も、能島村上氏に味方になるよう働きかけました。そして能島村上氏が一時、大友氏側に乗り換えたことがあったのですが、小早川氏は自身の水軍によって能島城を攻撃、包囲して、城への補給を断つ作戦に出ました。そのことで能島村上氏は、小早川氏側に再び戻ってきたという事件もありました。

当時の小早川氏の当主、小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

能島村上氏の力は16世紀後半、村上武吉(むらかみたけよし)が当主のときにピークに達しました。彼の水軍が参加した中で最も有名な戦いといえば、1576年に毛利氏と織田氏との間で起きた第一次木津川口の戦いでしょう。この戦いでは、武吉の水軍(武吉の弟によって率いられていました)も加わった毛利水軍が、石山本願寺(現在の大坂城)に兵糧を運び込もうとしますが、織田水軍に妨害されていました。村上水軍は、焙烙(ほうろく)と呼ばれた爆弾を織田軍の船に投げ入れ、爆発させ沈めたのです。水軍による補給作戦は成功しました。1586年、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは瀬戸内海を航行中に能島城に立ち寄りました。フロイスは著書「日本史」の中で「彼らは日本最大の海賊である」と述べています。フロイス一行は過所船旗(かしょせんき)と呼ばれる通行許可証をもらい受け、それによって広範囲の安全な航海を保証されたのです。

第一次木津川口の戦いの想像図、今治市村上海賊ミュージアムにて展示
ルイスフロイス来訪時の想像図、今治市村上海賊ミュージアムにて展示
現存する過所船旗の一つ、山口県文書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

水軍と城の突然の終焉

3つの村上水軍家は、基本的にはお互いに協調していましたが、やがて違う道を歩むことになります。来島村上氏は、後に天下人となる羽柴秀吉の勧誘により、織田氏側に付きました。これにより、武吉は来島村上氏の領土を占領しました。ところが、これが彼にとっての不幸につながります。やがて秀吉による天下統一が進んでいくと、武吉は秀吉から来島村上氏への領土返還を要求されました。武吉は村上一族の独立維持ということを願っていたようなのですが、それも叶わなくなります。能島村上氏のその時の主君であった小早川氏が秀吉によって九州地方に転封となったとき、武吉も能島城を含む、全て領地から離れなければならなくなったのです。

大島から見た能島城跡

「能島城その2」に続きます。