58.明石城 歴史編

明石城は江戸時代、交通の要所・明石海峡近くに築かれた城です。同じ播磨国にあった姫路城と比べると目立たないかもしれません。しかし実は、現在残っている三重櫓2基は、全国に残っている三重櫓12基のうちの2つなのです。また、城や城下町の建設には、あの播磨国出身とされる宮本武蔵が関わったというのです。これらの地域や人物が、どのように明石城に結びついていったのか、歴史を追ってみましょう。

イントロダクション

兵庫県の明石といえば、本州と淡路島の間にある明石海峡、そこにかかる明石海峡大橋、そして海峡でとれる明石鯛、明石ダコ、タコを使った明石焼などが連想されるでしょう。海峡付近は、陸側でも六甲山地が海岸に迫っているので、海・陸ともに往来が集中する東西交通の要衝地域でした(下記参考資料①、以下番号のみ記載)。明石城は江戸時代、その地域に築かれた城です。同じ播磨国にあった姫路城と比べると目立たないかもしれません。しかし実は、現在残っている三重櫓2基は、全国に残っている三重櫓12基のうちの2つなのです。築城を行ったのは信濃国出身の大名・小笠原忠真(おがさわらただざね)なのですが、その築城の経緯も興味深く、その建物の多くは、伏見城や、かつて明石にあった船上(ふなげ)城などからの移築と言われています。また、城や城下町の建設には、あの播磨国出身とされる宮本武蔵が関わったというのです。これらの人物や以前の城が、どのように明石城に結びついていったのか、歴史を追ってみましょう。

明石海峡と明石海峡大橋
現存する坤櫓(左)と巽櫓(右)

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立地と歴史

明石城前史

ときは1582年(天正10年)、本能寺の変が起こり、豊臣(羽柴)秀吉が天下統一を進めていく頃に遡ります。秀吉は1585年(天正13年)、高山右近に明石の地を与え(下記補足1)、その際に船上城が築城されたと考えられています。その前後には、秀吉が四国攻めや九州攻めのために、明石で船を動員していたと思われる記録があります。船上城はその港湾(明石川岸)に隣接して築かれたようです。この城は、大阪湾防衛及び全国統一のための水軍拠点だったと考えられます。また、南蛮貿易のための窓口としても期待されていたのでしょう。高山右近はキリシタン大名として有名で、宣教師を常駐させ、キリスト教を広めていました。しかし、彼は1587年(天正15年)の「バテレン追放令」をきっかけに領地を没収され、追放されてしまいました。(段落全体②)

(補足1)一、今朝早々より、秀吉和州へ御越也、此中、国わけ、国がへ以下有之、和州筒井伊賀国へ被遣、和州へ美濃守殿被遣之、高山右近播州明石へ、(以下略)(「顕如上人貝塚御座所日記」)

城の位置

その後、船上城は豊臣氏の直轄となり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後は、播磨国を治めた池田氏の支城になり、1615年(元和元年)の「一国一城令」により城から屋敷扱いになりました。本丸には天守や多聞塀があったという記録があります(下記補足2)。(以上②)現在城跡と思われる範囲は、ほとんどが住宅地となり、本丸の一部だったとされる農地を、となりの船上西公園から見学できるのみです。周辺での発掘調査により堀跡や遺物が発見されています(②)。

(補足2)城構多門塀を掛け小き殿主も有之候(「小笠原忠真一代覚書乾」)

船上城の想像地図(現地説明パネルより)
船上西公園から見える船上城本丸の一部

小笠原忠真の家系は、戦国時代まで信濃守護を務めた名門です。曾祖父の小笠原長時が武田信玄に信濃を追われ、その子・貞慶とともに各地を流浪したのです。武田が滅び、本能寺の変が起こると、貞慶は信濃に戻り、旧領(深志、のちの松本)を回復したのです。その後紆余曲折がありますが、小笠原氏は徳川家康に仕え、関ヶ原後は、貞慶の子で忠真の父・秀政が松本8万石の大名になっていました(1613年~)。秀政の妻は家康の孫(松平信康の娘)でした。(段落全体③)

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、忠真(当時は忠政)は、父・秀政と兄・忠修(ただなが)ともに幕府方として出陣しました。5月6日の若江の戦いにおいて、小笠原隊に大坂方の木村重成隊が近づいたため、戦おうとしましたが、となりの榊原康勝隊の軍監・藤田信吉が、伏兵が控えていると思い、止めたのです。それが結果的に戦機を逃したことになり、秀政は徳川秀忠から叱責を受けました。翌7日の天王寺口の戦いでは、小笠原隊は名誉挽回のため遮二無二戦うことになり、秀政と忠修が戦没、忠真も重傷を負うことになってしまったのです。(以上「西方城 その1」より)

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一人の主役である宮本武蔵は、謎と脚色に満ちた人物ですが、本人が書いたとされる「五輪書(ごりんのしょ)」によれば、1584年(天正12年)に播磨国で生まれました(下記補足3)。有名な「吉岡一門との決闘」「巌流島の決闘」などの武者修業は、13歳から28、9歳の頃(1596年~1612年)と言っています(下記補足4)。

(補足3)「兵法之道二天一流と号し、数年鍛錬之事、始て書物に顕さむと思、時寛永二捨年(1643年)十月上旬の比、九州肥後之地岩戸山に上り、天を拝し、仏前に向、生国幡磨(播磨)之武士新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六拾。」(「五輪書」序文)

(補足4)「われ若年之昔より兵法之道に心を懸け、十三歳にして始て勝負をす。・・・其ほど十三より二十八九迄の事也。(「五輪書、地の巻」)

宮本武蔵肖像画、島田美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

修業時代が終わった後、大坂夏の陣では、幕府方の水野勝成勢のうち、勝成嫡男の勝俊付きの騎馬武者として出陣しました。そのとき、名のある武将を討ち取ることはなかったが、大木刀を持って雑兵をなぎ伏せたという記録があります(下記補足5)。5月6日の道明寺の戦いで、武蔵は、水野軍が本多忠政を救援するのに貢献したとみられていて、それが戦後の縁につながります。(段落全体④)

(補足5)「宮本武蔵は兵法の名人なり。・・・大坂の時、水野日向守が手に付、三間程のしないの差物に釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者と書ける。よき覚ハなし。何方にて有けん橋の上にて、大木刀を持、雑人を橋の左右へなぎ伏ける様子見事なりし、と人々誉ける。」(「黄耇雑録」)

水野勝成肖像画、賢忠寺蔵  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

明石城築城

大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした幕府は、戦後、更に西国の外様大名に備えるため、領地替えを行いました(1617年、元和3年)。播磨国は丸ごと池田氏が治めていましたが、当主(光政)が幼いといういう理由で鳥取に移されました。その代わりとして、姫路には、徳川四天王の一人・本多忠勝の子・本多忠政を持ってきました(桑名10万石→15万石)。そして、姫路の後衛となる明石に、生き残った小笠原忠真を松本から移したのです(松本藩8万石→明石藩10万石)。命をかけた働きが、将軍・徳川秀忠に認められたのです。(以上②)更にその2年後(1619年)には、安芸・備後の外様の大大名・福島正則が改易になり、そのうちの備後国福山に水野勝成が入っています。(以上「福山城 その1」より)

本多忠政肖像画  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

小笠原忠真は、当初船上城に入城しました。しかしこの城は低地にあったため、西方からの攻撃に対する防衛には不利でした。また「一国一城令」により建物の多くは取り壊されていました。将軍・秀忠は1618年(元和4年)、忠真に対して新城の築城を命じます。同時に忠真の妻の父であった姫路城主・本多忠政の指導を仰ぐことになり、共同で新城の候補地を探すことになりました。候補地としては「人丸山」「和坂」「塩屋」の3か所がありましたが、最終的には「人丸山」に決定しました。そして城の縄張り(設計)の共同で行い、将軍・秀忠の許可を得たのです。(段落全体②⑤⑥⑦)

城周辺の起伏地図

宮本武蔵はどうしていたかというと、同じ頃(1617~8年)、水野勝成の家臣、中山志摩之助の息子・三木之助を養子として、本多忠政の跡継ぎ・忠刻(ただとき)に仕えさせていました。大坂の陣がきっかけだったと見られます。また、少し後になりますが(1626年頃)、武蔵の養子としてはこちらの方が有名な、宮本伊織が小笠原忠真の近習になり(15歳)、その5年後には20歳で家老に出世しています。(以上④)武蔵は、本多忠刻の剣術指南役で姫路にいたが、明石城築城を機に、明石藩の客分として迎えられたと考えられます(⑦⑧)。

築城は、幕府主導で急ピッチで進められました。幕府は費用援助(銀千貫目)とともに3人の奉行人を派遣し、主に城の基礎部分を担当しました(「本丸・二の丸・三の丸の石垣・土居・塀の普請」)。小笠原は主に建物部分を担当しました(「矢倉・門・塀・家造りの普請」)。石垣工事が1619年、元和5年1月に始まり、その年のうちに一旦完成し、翌年忠真が移ってきました。廃城になった城の建物をリサイクルしたことも早期完成につながりました。但し周辺部分(侍町の惣堀・土居、三の丸の一部の石垣)は7、8年かかったそうです。なお、本丸には天守台が築かれ、熊本城クラスの五重天守が立つ規模です。中津城の天守を移す計画があったそうですが、ついに天守は実現しませんでした。。(段落全体②⑤⑥⑦⑨)

天守台石垣

宮本武蔵は何を担当したかと言うと、まず城下町の町割りを行ったとされています。城下町は東西約2.3kmで、山陽道を取り込みました。外堀によって武家屋敷と町人地が明確に区分され、近世的な城下町となりました。また、藩主・忠真のために城内に庭園を造りました(御樹木屋敷の庭園)。名石・名木を各地から集め、築山・茶屋・御座敷・滝・鞠場(蹴鞠をする場)を1年余りかけて完成させました。城跡である現在の明石公園には、武蔵が作った庭の一部が再現されています。(以上⑧)更に、二の丸に上がる階段は、かなり広くピッチが大きいように見えますが、これは武蔵がこの階段を、馬の歩幅に合わせるよう提案したためと言われています(➉)。これだと人間の敵が攻めてくるときにはかえって登りにくいということでしょうか。

明石城ジオラマ、手前が城下町(明石市立文化博物館にて展示)
再現「武蔵の庭園」
二の丸への石段

近世に造られた新城

明石城は近世になって新たに作られた城なので、自然の地形を生かしつつ、完成された築城術を見ることができます。台地の突出部には西から、高石垣で囲まれた西の丸(後の「稲荷郭」)、本丸、二の丸、三の丸(築城当時)が整然と並べられ、土橋や門で仕切られていました。台地南下の低地(築城当時は「大曲輪」と呼ばれた)には藩主の下屋敷が配置され、東西と南側を内堀が囲み、その三方に枡形をもった門がありました。城の北側は、自然地形の谷と「剛ノ池」によって守られていました。敵が攻めてきたときにはこの池の堰を切って、周囲を水浸しにする作戦も考えられていたといいます。(段落全体⑨⑪⑫)

明石城ジオラマの城部分(明石市立文化博物館にて展示)

本丸には御殿があり、天守はないものの、四隅に方角を表す名前の三重櫓が建てられました。このうち、坤櫓は伏見城の櫓を、巽櫓は船上城の櫓を移したものと伝えられています(下記補足6)。特に坤櫓は一番大きく、天守台に近く、二重目には豪華な二重破風があることなどから、実質的に天守の役割を果たしたと見られます。4つの櫓は天守台がある西側を除いて多聞櫓で連結されていました。(段落全体②⑤⑥⑦➉)

(補足6)「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」(「小笠原忠真年譜」)

坤櫓(南側)
坤櫓(南側)、2重目が二重破風になっています

ところが1631年(寛永8年)本丸下の台所から出火し、本丸御殿が焼失しました。以後御殿は再建されず、本丸下に藩主の居館として「居屋敷(いやしき)」を建て、内堀で囲みました。その周辺が「三の丸」となり、従来の内堀は「中堀」と呼ばれるようになります。(従来の三の丸は「東の丸」、以上②⑤)このとき櫓群も被災しました。現在残る坤櫓・巽櫓はこのときに再建されたものです。櫓の間は土塀で連結され、現在見られる姿になりました(土塀の大半は現代の復元)。(以上⑥)ただし坤櫓は現在でも移築の痕跡が見られることから(⑦)、元の部材を活用したのかもしれません。

土塀で連結された坤櫓(左)と巽櫓(右)

時期ははっきりしませんが、城の北側にも剛ノ池から水が引かれた桜堀などが設けられ、更にその北側には北の丸も築かれ、防御を固めました。最終的には三重櫓4基、二重櫓6基、平櫓10基を擁する城になりました。(以上⑤)1691年に長崎出島から江戸に向かったドイツ人の医者・博物学者のケンペルは、明石城の美しい姿を記録しています(②、下記参考7)。現在私たちが見ることができる城跡の姿とそう変わらなかったのかもしれません。

(補足7)明石の後に美しき城あり。その内部も周囲も、高き樹に籠めたれば、白亜の壁にある其の二面だけ輝きて見え、四つの城壁には中央及び両端に四方形なる高き三重の矢倉を飾としたり。(「江戸参府紀行」)

播磨国明石城絵図(出典:国立公文書館)

その後

火災があった直後の1632年(寛永9年)、小笠原忠真は、豊前国小倉に転封になりました。宮本武蔵も、養子で家老の伊織とともに小倉に移ったと考えられます(④)。その後しばらくの間、明石藩主は目まぐるしく変わりました。そして江戸中期に越前大野藩から移ってきた越前松平氏の一族が幕末まで藩と城を統治したのです。(⑬)
・1632~33年:(幕府直轄)
・1633~39年:戸田松平氏(譜代大名、2代、7万石)
・1639~49年:大久保氏(譜代大名、1代、7万石)
・1649~79年:藤井松平氏(譜代大名、2代、7→6.5万石)
・1679~82年:本多氏(譜代大名、1代、6万石)
・1682年~:越前松平氏(明石松平氏)(親藩、10代、6→8万石)
城は後継の大名たちによって維持されましたが、幕末になると状況が変わってきました。

幕末時の藩主・松平慶憲 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

1853年(嘉永6年)のペリー艦隊の江戸湾の入口・浦賀への来航に続いて、翌年(1854年)にはロシアのディアナ号が大阪湾に侵入してきました。このときから幕府も大阪湾防備に動き出すようになります。幕府の命により、明石藩でも台場が作られましたが、その代表的なものが舞子台場です。その場所は、瀬戸内海から大阪湾に船が侵入する場合に通過する明石海峡の目の前でした。1863年(文久3年)、幕府は明石藩に、一万両を貸し付けるので舞子台場を堅牢に改築するよう命じました。その設計・現場の指揮にあたったのが、当時神戸にいた勝海舟でした。台場の雛形を藩に手渡したメンバーの中には、海舟の塾生だった坂本龍馬がいました。台場は翌年から翌々年にかけて完成しましたが、実際に使われることはなかったようです。(段落全体②⑭)明石藩は1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方でしたが、その後新政府方に明石城を引き渡したため、ここでも戦いが起こることはありませんでした(⑨)。

「天保山魯船図」(出典:文化遺産オンライン)
舞子台場跡
勝海舟 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
坂本龍馬 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

明治維新後、明石城は廃城となり、外堀などは埋められ、建物は取り壊されていきました。最後に残っていたのが4基の三重櫓です。城跡を管理していた兵庫県は、1881年(明治14年)8月、これらの櫓の解体も決定し、まず艮櫓が学校の用材として解体されました。これに憤激したのが旧明石藩士たちでした。県庁に嘆願書を出し、聞き入れられないときは、籠城の上、櫓に火をかけ、運命を共にすると言い出したのです。彼らにとって、自分たちの精神的シンボルが失われることに抵抗したようです。西南戦争(1877年)からあまり時が経っていないときで、世間から注目を浴びました(下記補足8)。その結果、1883年(明治16)から城跡は、民営の「明石公園」として保存されることになったのです。(段落全体⑥⑮)

(補足8)「士族は県庁の処分に不平を抱き、終に旧藩士の他国他郷にある者まで招きよせ、去る十四日に大評定を開きたり、其議は旧藩の諸士より猶県庁へ嘆願書を捧げ、夫にても聞届けられぬ時は、最早や絶体絶命の時節到来なりとて、中にも昔なら城代とも云ふべき林某は、いかに各々にも願意の貫徹せずして弥々当城破却の命下らば、其時は最先かけ城に火をかけ、潔く櫓と共に一片の焔となり、名をば後代に留めんが如何にと、思ひ切て云放ちし有様は、天晴れ篭城の覚悟とも云ふべく、(以下略)」(明治14年8月23日東京日日新聞記事)

明石公園入口

リンク、参考資料

「明石の宿場」明石民俗文化財調査団(明石市立図書館 明石郷土の記憶デジタル版)
② 発掘された明石の歴史展「船上城から明石城へ」明石市
③「戦国信濃と小笠原貞慶/志村平治著」戒光祥出版
④「人物叢書 宮本武蔵/大倉隆二」吉川弘文館
⑤「日本の城改訂版第88号」デアゴスティーニジャパン
⑥「史跡明石城跡保存活用計画」令和2年9月 兵庫県
明石公園公式ホームページ
⑧ 明石城巽櫓内展示
⑨ 明石市立文化博物館展示
➉ 明石城現地ガイドの方
⑪「戦国の城/香川元太郎著」ワン・パブリッシング
文化遺産データベース 明石城跡
⑬「明石城の歴史」パンフレット
文化遺産オンライン 明石藩舞子台場跡
⑮「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

「明石城 現地編」に続きます。

174.大内氏館・高嶺城 歴史編

山口市といえば「西の京」と呼ばれていて、小京都のイメージがあります。よって城郭とは少し離れた印象もあるのですが、実は「大内氏館」「高嶺城」が連名で日本城郭協会の続日本100名城に指定されています。また、幕末にはそのものズバリという名前の「山口城」という城もあったのです。

イントロダクション

山口市といえば「西の京」と呼ばれていて、小京都のイメージがあります。よって城郭とは少し離れた印象もあるのですが、実は「大内氏館(おおうちしやかた)」「高嶺城(こうのみねじょう)」が連名で日本城郭協会の続日本100名城に指定されています。また、幕末にはそのものズバリという名前の「山口城」という城もあったのです。

大内氏館跡
高嶺城跡
山口城跡

そこで今回は、「西の京」を作り上げた大内氏の歴史から始めて、山口にあった3つの主要な城、大内氏館、高嶺城、山口城を築かれた時代順にご紹介したいと思います。

城周辺の起伏地図

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立地と歴史(西の京・山口の3つのメジャーな城とは?)

大内氏の発展

大内氏の先祖については、百済国聖明王(しょうみょうおう)の第三子・琳聖太子(りんしょうたいし)が周防国多々良浜に到着し、611年(推古天皇19年)に聖徳太子に謁見し、多々良という姓を賜ったという伝承があります。しかしこの伝承は、大内氏の時代から変化していて(下記補足1)、実際には先祖が朝鮮半島から帰化した者の後裔という程度のかすかな伝承をもとに作られたと推測されます。(段落全体下記参考①より、以下番号のみ記載)

(補足1)
1399年(応永6年)大内義弘による:
「先祖は本百済の始祖高氏の後裔で、難を避けて日本に渡ったものである」
1404年(応永11年)大内盛見による:
「氷上山興隆寺は大内家の先祖百済国琳聖太子によって推古朝に草創されたものである」
大内政弘時代:琳聖太子は百済王の末裔・聖明王の第三子で、611年に来朝した。多々良浜に着いたのち、荒陵で聖徳太子に謁し、大内県を采邑とし、多々良の姓を賜った。

「たたら(踏鞴)」は製錬に使うふいごのことで、周防国府周辺には「多々良」という地名が見られることから、大内氏の祖先が多々良氏を称する半島からの帰化氏族で、先進的な製錬技術をもたらして、沙婆県(さばのあがた)に定着、そのすぐれた技術から地方政庁に徴用され、平安時代には周防国佐波郡(さばぐん)達良郷(たたらごう)で勢力を築いたことが考えられます。そして、本家は吉敷郡大内村を本拠とし、「大内」を名乗るようになりました。鎌倉時代、大内氏は周防国の有力在庁官人、鎌倉幕府の御家人、六波羅探題の一員という複数の立場を持っていました。(段落全体①)

周防国の範囲と拠点の位置

南北朝時代に大内氏を表舞台に出したのが、大内弘世(ひろよ)です。弘世は南北朝動乱の中で、南朝・北朝方を渡り歩き、周防・長門の守護に任じられたのです。更に安芸・石見も勢力を伸ばし始めました(石見守護にも任命)。その子・大内義弘は、ときの将軍・足利義満との関係は当初良好で、義満の厳島詣(1389年)に随行したり、山名氏を討伐した明徳の乱では、幕府方として活躍しました(1391年)。領国としても、周防・長門に加え、石見・豊前・和泉・紀伊の守護になりました(+安芸国東西条)。ところが1399年(応永6年)義弘は義満と対立し、堺で戦いとなり討たれてしまうのです(応永の乱)。(以上②)乱の原因は、義満が義弘の勢力を削ごうとしていたからとも、九州で戦没した義弘の弟(満弘)に恩賞がなかったとも言われます。義弘は関東公方・足利満兼と同盟を組み、義満の政道を諫めるため戦うことを決意しました(下記補足2)。しかし結局満兼は動かず、義弘は孤立してしまったのです。(下記補足3,以上②③)

(補足2)足利満兼檄文「天命を奉り、暴乱を討つ、まさに国を鎮めて民を安んぜしめんとす」

(補足3)戦いの前の義弘の言葉「一旦の恨みをもって相公(義満)の御高恩を忘れ奉るの間、天命の攻め遁るべからず、運命の尽きぬる上は討ち死にせん事必定たるべし」
討ち死に前の義弘の言葉「天下無双の名将大内左京権大夫義弘入道ぞ、吾れと思はん者ども、討ち取りて相公の御目に懸けよ」(「応永記」)

大内弘世像

現在、国宝として残る瑠璃光寺五重塔は、義弘の弟の盛見(もりみ)が義弘の供養のために建てた塔です(盛見没後の1442年頃完成)。大内氏の守護国は周防・長門2カ国に削減されますが、また盛り返していきます。(以上②)ところで、大内氏の本拠地が山口に移る(山口開府)のは弘世の時代と言われてきましたが、最近は否定的です。義弘の時代になって、本拠地はいまだ大内だが、家臣団再編成のため新たな本拠地を必要とし、山口に館が築かれたという段階のようです。(下記補足4、以上③)

(補足4)義満の随行者に見知らぬ法師が大内について答える場面
「へいへい(平々)としたる里の侍るに、館どもあまた造り並べて、東西南北、一門・他門扶持人数を知らず、家居ことがら尋常なる躰也、四方大略深山にて、おのづから無双の切所なり、遠近皆分国・分領也、数ヶ国の集なれば、田舎ながらも興ある在所と見えたり」
大内氏の祖先とともに百済から渡来した不動明王像を「この京兆(義弘)の山口の館の持仏堂に安置」した
(「鹿苑院西国下向記」)

瑠璃光寺五重塔

大内氏の繁栄と大内氏館

大内氏館がいつ設置されたかは諸説ありますが、調査によれば、14世紀からの遺構・遺物がみられるので(④)、義弘の時代なのかもしれません。山口が本拠として定着したのは、義弘の次の盛見の時代と考えられます。このとき山口の北辺に、精神的な守りの地として、五重塔がある香積寺(こうしゃくじ、現・瑠璃光寺)及び国清寺(こくしょうじ、現・洞春寺)が建立されました。15世紀中頃の当主、大内教弘・政弘父子の時代には館も整備されます。(以上③)館の北方に築かれた「築山館(つきやまやかた)」は、教弘の隠居所とされています(②④)。また、政弘は家督を受け継ぐ前から自らの居館を持ち、父子の居館が並び立つ形になっていました。これは京都の将軍の「花の御所」をまねたものです。(以上③)大内氏館は内郭・外郭に区分され、内郭部分は最盛期には約150m四方の大きさでした(⑨)。

大内盛世肖像画、常栄寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

現在龍福寺となっている大内氏館内郭の航空写真

「築山館」の史跡指定範囲、山口市歴史民俗資料館にて展示
将軍亭「花の御所」、上杉本陶版「洛中洛外圖」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦国時代の幕開けとなる応仁・文明の乱(1467~77年)が終り、政弘が京都から戻ってくると、館と山口は更に変貌をとげました。大内氏館は堀と土塁に囲まれ、枯山水の庭、池泉庭園がある豪華なものになっていました。政弘は将軍のように家臣に君臨し、彼らを山口に住まわせました(下記補足5)。町人も集まることにより、山口は南北の小路が発達した町になったのです。祇園会も行われました。(段落全体③)雪舟や連歌師の宗祇などの文化人が山口にやってきたのもこの頃です(②)。

(補足5)家臣を山口に集住させる法令文
「諸人在山口衆、たとへ一日たりといへども、密々の儀をもって在宅の輩、上聞に達することあらば、その人数を注し置き、御暇言上の時、おのおの申し次ぐべからざるなり、これにより、重ねて内々をもって在郷せしむる族においては、永く御家人を放たるべきの由、仰せ出さるところなり(文明18年「大内氏掟書」

大内氏館跡の復元土塁
大内氏館跡の復元枯山水
「大内氏時代山口古図」(部分)、山口県文書館蔵
常栄寺雪舟庭

大内氏の勢力も、盛見のときに石見・豊前(+東西条)を回復、教弘のときには筑前国守護になり、国際貿易港・博多を支配に治め、日明貿易に参入しました。(以上②)大内氏館の池泉庭園には、貿易で手に入れたと思われる、その当時大変珍しいソテツが植えられていました。その庭園を望む「会所」で賓客たちを招いて宴会が開かれました。庭園の池からは宴会で使った大量の京風「かわらけ」が発見されています。(以上⑤)

大内氏館跡復元池泉庭園、ソテツも植えられています
大内氏館で使われたかわらけ(右二列)、山口市歴史民俗資料館にて展示

その大内氏館で行われたイベントで最大と思われるものが、1500年、明応9年3月5日に行われました。ときの当主は大内義興(よしおき)で、政変で京都を追われた10代将軍・足利義稙を迎えて行われた宴会です。料理は31以上の膳、110以上の品数で、中世最大級の宴会と言われています。料理には、瀬戸内海では採れない伊勢エビ・数の子・ホヤ・ホッケあって、大内氏のネットワーク力を見せつけました。義稙が館に入ったのは14時頃、帰ったのは翌朝4時頃でした。義稙は流浪中も現職の将軍と称していたので、山口に亡命室町幕府が存在したとも言えるのです。1508年(永正5年)義興は義稙とともに上洛し、義稙を正式に将軍職に復帰させました。義興も恩賞として山城国守護になり、遣明船独占の権利を与えられました。義興が亡くなると(1529年、享禄元年)現在壮大な石垣が残る凌雲寺が菩提寺とされました。(段落全体②⑤)

大内義興肖像画、山口県立山口博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利義稙肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「大内氏のおもてなし料理」、山口市歴史民俗資料館の企画展示
凌雲寺跡

次の代の大内義隆のとき、大内氏は全盛期を迎えます。領土は安芸・備後にまで及び、歴代最大となります。朝廷とも結びつきを強め、官位官職も将軍より高位の従二位・参議にまで上りました。義隆は文化文芸にも関心が高く、多くの公家や文化人などが山口を訪れました。フランシスコ・ザビエルもその一人です。ところが、その栄華はあっと言う間に崩壊してしまうのです。(段落全体②)

大内義隆肖像画、龍福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
フランシスコ・ザビエル肖像画、神戸市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

毛利氏・大内氏の興亡と高嶺城

1551年、天文20年8月28日、重臣の陶隆房らのクーデターが起こり、義隆主従は無防備の館から退去し、日本海から船で逃れようとしたが果たせませんでした。義隆は現・長門市の大寧寺で自害しました(9月1日)。このクーデターの大きなきっかけは、1543年(天文12年)の尼子氏に対する出雲遠征の失敗でした。それでも客人をもてなす宴会は続きました。家臣たちには奢侈を禁止したにも関わらず・・・(段落全体⑥、下記補足6)

(補足6)天文14年壁書
「殿中ならびに私の饌、近年殊に過麗に及ぶと云々。ただに先達の法に背くのみならず、内には以て兵器の貯えを忘れ、外には以て、撫民の謀を失う。自今以後に至っては、二汁・三菜を過ぐべからず。但し殿中の節日、又は外人来客の時は、制の限りにあらざるの由、仰によって壁書件の如し。
   天文十四年卯月日  奉行衆中」

陶晴賢(隆房)像、「続英雄百人一首」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

義隆に重用された相良武任ら文治派と、隆房ら武断派の対立が深まります。実は隆房の陰謀はクーデターの2年ほど前から、他の重臣(杉重矩)から進言があったり、噂にもなっていたのですが、義隆はなんの手も打ちませんでした。この頃(天文12年2~5月)毛利元就が山口を訪問し、義隆・隆房ら重臣たちと交流しました。大内内部の動向を探る目的もあったのでしょう。こうする間に杉重矩や老臣・内藤興盛も隆房に同調するようになりました。クーデターが起こる年になって、義隆はようやく元就に助力を頼む密書を送りますが(下記補足7)、前年には既に隆房の手が回っていました。義隆はクーデターが起こった後でも、隆房以外の重臣の加担を信じなかったそうです。

(補足7)毛利元就宛大内義隆密書
「家中の事、若し錯乱に及ぶに於ては、国面々合力あるべくの由、申し遣わし候。定て別儀あるべからず候。諸勢また遅々すべからず候。猶委細、(大田)隆通申すべく候。恐々謹言
 正月廿七日 義隆(花押)」

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

翌年(1552年)、義隆の甥で大友宗麟の弟(大友晴英)が、大内義長として擁立され山口入りしました。彼はこの地で政務を行ったので、館は継続したと考えられます。ところが、陶隆房改め陶晴賢が1555年(天文24年)の厳島の戦いで毛利元就に討たれると、今後は毛利氏対大内氏のフェーズに入ってくるのです。内輪でも重臣同士(杉氏・内藤氏)の軍勢が衝突し山口は兵火に包まれます。(以上②④)来日した宣教師のルイス・フロイスがこの辺りの出来事を記録しています(下記補足8)。そんな中で義長が毛利侵攻に備え築城を始めたのが高嶺城です(1556年頃)。

(補足8)豊後国主(大友義鎮)の弟大内八郎殿(義長)は善意の若者であった。それゆえ彼は山口において国守の位にあげられると、司祭たちに友情を示した。(略)すなわち彼は、デウスの教えに役立つように街路や通路に立札を立て、その教えを聞こうとする者は、なんら咎められることなくキリシタンになってもよいと布告するよう家臣に命じた。(略)この頃、当国のある有力な殿が、新しい国主ならびにその味方の殿たちに対して叛起し、国内に大いなる損害と混乱を及ぼした。その結果、山口の市はふたたび放火され、非常に密集していたため数時間で全焼してしまい・・・(➉第14章(第1部16章))

高嶺城は、大内氏館や山口の城下町を眼下に眺めることができる、山口盆地の北縁の丘陵の一つ・鴻ノ嶺(標高338m)に築かれた城です。義長はいったんこの城に入ったものの、普請は進まず、籠城用の食料も不足したため、1557年(弘治3年)3月、長府にある別の城(勝山城)に逃れました。しかしその城も毛利方に攻められ、翌月城近くの寺(長福寺、現・功山寺)で自害しました。主のいなくなった山口には毛利方(吉見勢)が入りました。大内氏館跡の調査によると、火災の痕跡があり、16世紀中頃までしか使われていないので、この頃までに廃絶したと考えられます。その跡地には、毛利隆元によって義隆の菩提寺・龍福寺が建てられました(隆元妻は大内義隆養女)。(段落全体②④)

高嶺城赤色立体模型、山口市歴史民俗資料館にて展示
高嶺城跡からの眺め
龍福寺

もし高嶺城がもっと早く、義隆の時代に築かれていたらどうなっていたでしょうか。もちろん籠城しても援軍がなければどうにもなりませんが・・・伝統的な有力戦国大名の本拠には、他にも今川氏館、大友氏館のような無防備なものが見られます。よもや攻められることはないと思っていたのでしょうか・・・

高嶺城は毛利氏の支城として整備されました。峰伝いに曲輪が築かれ、主郭周辺には石垣も積まれました。やがて毛利氏と大友氏が対立するようになると、1569年(永禄12年)大友氏の支援を受けた大内輝弘が山口に侵攻してきました。輝弘は、大内氏館があった龍福寺に本陣を置き、今度は毛利勢が籠る高嶺城を包囲しました。しかし毛利の援軍が駆け付けたことで断念、大友氏の豊後に戻ろうとしますが、退路を断たれ、またも自害することになってしまったのです。(段落全体②④)

高嶺城の縄張り図、現地説明パネルより
主郭の石垣

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は、周防・長門2カ国に減封されましたが(長州藩)、当主の毛利輝元は、新本拠地の萩城築城の前、高嶺城に滞在しました(1603年)。家臣も山口に仮住まいしていました。山口は兵乱により衰亡していましたが、まだ重要な町だったのです。萩城完成後も、在番役が置かれました。しかし1615年の「一国一城令」でついに廃城になりました。(段落全体④⑦)彼らが山口に戻ってくるのは260年後になります。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

幕末の城・山口城

長州藩が幕末に山口に築いた城はずばり「山口城」と呼ばれています。

「幕末山口市街図」(部分)、山口県文書館蔵

「攘夷」の急先鋒だった長州藩は、1863年(文久3年)本拠地を萩から山口に移しました。萩城は海岸にあるので、外国艦の砲撃にさらされる恐れがあったことと、山口は藩領の中心部にあったからです。長州藩は幕府に対して、藩主の居所を移すだけで新城の築城はしないと申請しました(下記補足9)。しかし実態は違いました。「屋形」と言う名目で翌年(1864年)に新城の建設を始めたのです。しかもそれは、大小砲での戦争を想定した八角形の西洋式城郭だったのです。(段落全体⑧)

(補足9)幕府への移城の申請書
「しかしながら山口の儀は、全く以て城構え等仕り候儀にては御座なく、真の土居取り立て、手近に召遣い候家来ばかり差し置き候て、指月(萩城)の儀は番兵こめおき、城下警衛厳重に申し付け、藩鎮の任、これもその節を遂げ奉り度く」

「山口御屋形差図」(部分)、山口県文書館蔵

しかし同じ年に第一次長州征討が起こり、長州藩は幕府に降伏したので、その講和条件として城は破却されてしまいました。藩主は萩に引っ込みました。1864年(元治元年)高杉晋作の挙兵をきっかけに幕府に対抗する方針に転換すると、翌年(1865年)藩主は再度山口に移り、城も修築されたのです。(段落全体⑧)

山口城は、山口盆地の北側に立地していて、背後に香山が控えていました。平地を望む高台に築かれたわけです。西洋式城郭ということで、従来の天守・櫓・高石垣はなく、中心部には御屋形(御殿)があり、城域は土塁・水堀・柵で仕切られていました。不整形は八角形の角には砲台が築かれていたと考えられます。見せるための城ではなく、政治・軍事の機能に特化していたのです。(段落全体④)

山口城縄張り図、現地説明パネルより

明治維新になると、居城としての役目は終り、山口藩藩庁(1870年、明治3年)になり、現在残る旧山口藩庁門(藩庁御本門)が完成します。翌年(1871年)の廃藩置県により山口県庁になり、それが現在も同じ場所にある県庁につながっていきます。

旧山口藩庁門
山口県政資料館(旧県庁舎及び県会議事堂)

リンク、参考情報

①「中世武士選書14 大内義弘/松岡久人著」戒光祥出版
②「西国一の御屋形様 大内氏がわかる本 入門編・興亡編」山口市
③「ミネルヴァ日本評伝選 大内義弘/平瀬直樹著」ミネルヴァ書房
④「山陰・山陽の名城を歩く 広島・山口編」吉川弘文館
⑤「英雄たちの選択「戦国大名のおもてなし戦略~大内義興の野望~」NHK BS放送
⑥「中世武士選書20 大内義隆/米原正義著」戒光祥出版
⑦「毛利氏の御家騒動 折れた三本の矢/光成準治著」平凡社
⑧「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
「城びと【理文先生のお城学校】歴史編第29回 大内氏とその居館」
➉「完訳フロイス日本史6 大友宗麟編Ⅰ/松田毅一・川崎桃太訳」中公文庫

「大内氏館・高嶺城 現地編」に続きます

74.岩国城 その1

岩国城の歴史は、どうやら吉川広家の武将人生と大きく関係しているようです。今回はまず、広家の関ヶ原の戦い前後の動向をチェックしてから、岩国城の築城、そして早すぎる「廃城」をご説明したいと思います。最後は、「陣屋」としての岩国城のその後、そして錦帯橋の歴史にも触れていきます。

イントロダクション

岩国といえば、まず錦帯橋を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。また岩国城といえば、その天守が錦帯橋の背景として、セットで思い浮かべる人もおられるでしょう。しかし、その天守は現代になって再建されたもので、実際には天守を含む城は、公式にはわずか7年しか存在しなかったのです。城主だった吉川氏は、城の一部を「陣屋」として存続させました。

錦帯橋と背景の岩国城再建天守

岩国城を築いたのは、吉川氏の初代当主・広家でした。広家といえば、関ヶ原の戦いで西軍方の主家・毛利勢を参戦させず、東軍の勝利にも関わらず、大名家として存続させた「救世主」という評価があります。しかし一方、西軍は敗退し、毛利氏は大幅に領地を減らされたこともあって、当時から「裏切者」との見方もされてきました。現時点で振り返ってみた場合、どういうことが言えるでしょうか。

岩国城の歴史は、どうやら吉川広家の武将人生と大きく関係しているようです。そこで、今回はまず、広家の関ヶ原の戦い前後の動向をチェックしてから、岩国城の築城、そして早すぎる「廃城」をご説明したいと思います。最後は、「陣屋」としての岩国城のその後、そして錦帯橋の歴史にも触れていきます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(吉川広家と岩国城の歴史)

実は迷っていた?関ヶ原前の吉川広家

吉川広家は1561年(永禄4年)、吉川元春の三男として生まれました(参考資料①より、以下番号のみ記載)。吉川元春は、毛利元就の次男で、三男の小早川隆景とともに、主家の毛利氏が中国地方の大大名になることに貢献しました。戦国時代末期の毛利当主は、元就の孫・輝元でした。豊臣秀吉による天下統一のフェーズになると、毛利氏は秀吉に味方し、領土を安堵されましたが、その代わりに容赦なく戦いに動員されました。1586年(天正14年)に始まった九州平定において、元春と跡継ぎの長男・元長が相次いで病没してしまうのです(①)。元長が亡くなった翌年(1588年)、広家は吉川家を継ぎました。広家は月山戸田城を居城とし、朝鮮侵攻に動員されるのですが、その最中(1597年、慶長2年)、小早川隆景が亡くなっています。つまり、秀吉没後の関ヶ原の戦い直前には、広家は、主家を支える毛利一門の最重要人物いう立場になっていたのです。

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1600年、慶長5年6月、五大老筆頭の徳川家康は、上洛を拒否した上杉景勝を征伐するために出陣しました(会津征伐)。毛利輝元・吉川広家にも参加を命じたのです。しかし、石田三成たち奉行衆は、その隙を狙って家康排除のために挙兵しました。安国寺恵瓊は、奉行衆とともに輝元を説得し、「西軍」の総大将に担ぎ上げました。7月19日輝元は、以前家康がいた(③)大坂城西の丸に入城しました。広家は西軍に身を置きながら、毛利氏の取次だった黒田如水経由で親交があった黒田長政を通して、密かに「東軍」の家康に連絡を取りました。西軍の勝利はありえないと確信していたのです。広家は(事実かどうかは別として)「輝元様の大坂城入城は家康様打倒計画とは無縁ですべて恵瓊の企てである(④)」と釈明しました。8月までに、西軍による伏見城、安濃津城攻めがありましたが、立場上広家も参加せざるを得ませんでした。そして、関ヶ原近くの南宮山に、毛利勢の総大将・毛利秀元とともに着陣したのです。黒田長政は当然、広家の行動に疑いを持ちました。広家は、他の重臣(福原弘俊)と諮り、毛利家存続のためには東軍に内通するしかないと決断しました。合戦前日の9月14日、東軍に人質を差し出し、合戦では中立を守るという条件で、毛利領はそのまま安堵されるという約束を取り付けました(下記補足1)。合戦当日、広家は最前線に陣取り、後方(長宗我部軍)から毛利秀元に催促が来ても、一切動かせませんでした。関ヶ原合戦は周知の通り、わずか一日で東軍の大勝利に終わりました。広家は合戦直後の17日、それまでの事情を記した「関ヶ原始末書」を輝元に提出しています。(段落全体①②)。

(補足1)9月14日付吉川広家・福原広俊宛井伊直政・本多忠勝起請文
一.輝元に対して、家康が粗略にしないこと。
一.吉川広家と福原広俊が家康に忠節を尽くすうえは、家康が粗略にしないこと。
一.忠節が明らかになれば、家康の直書を輝元に渡すこと(分国の安堵も相違なし)。
(「毛利家文書」、現代語訳は⑦より)

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし最近の研究によると、広家は必ずしも一貫した態度をとっていた訳ではないようです。順を追って、根拠を示します(段落全体③)。
1.決起当初の7月14日付の家康家臣・榊原康政宛の広家書状案文(発送されなかった)は、毛利氏の西軍参加は恵瓊の独断である旨を知らせようとした内容でしたが、実際は後日作成されたか、内容が事実と異なる(輝元も了解していた)可能性があります。
2.現在確認できる東軍との最初の接触は、7月28日頃駿府に届いた広家の書状(詳細内容不明)、発送したのは7月25日頃とみられます。西軍は19日に伏見城攻撃を開始しましたが、城代・鳥居元忠らの頑強な抵抗にあっていました。その返事として、8月8日付黒田長政宛徳川家康書状(下記補足2)、8月17日付広家宛黒田長政宛書状(下記補足3)が送られました。

(補足2)吉川殿からの書状を詳細に読みました。(広家の)ご弁明については、もれなく了解しました。輝元とは兄弟のように相談して決めることとしていたので、(今回の行動を)不審に思っていたところ、(反徳川闘争の企てを)知らなかったということを聞いて、気が晴れました。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

(補足3)このたびの決起について、輝元はご存じなかったのですね。安国寺が一人で企てたことであると、家康公も認識されました。そこで、輝元に対して、このことを念には念を入れておっしゃって、家康公と(輝元とが)懇意になるように、(広家の)工夫が最も大切です。あなた次第で、こちらは私が調えます。合戦でこちらが勝利した後では、講和することも不可能ですので、前もってご油断しないで思案されることが道理に叶っていると思います。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

3.上記に対する広家の返答は直ちにはなく、黒田長政が8月25日に督促の書状(下記補足4)を送っています。この頃は8月1日に伏見城が落城し、戦闘が一段落していました。

(補足4)先の書状で申し入れましたが、届きましたか。とにかく、毛利家が存続するように(あなたが)ご思案されることが道理に叶っています。詳しいことを記したご返事の書状を送ってください。(中略)家康が早くも駿河国府中まで出陣したという情報が、昨夜届きました(実際には9月1日江戸出発)。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

8月23日東軍が西軍の岐阜城を攻略、そして翌日西軍も東軍の安濃津城を落としたものの大損害を出しました。広家勢も300人以上もの死傷者を出しています(⑤)。黒田如水からも9月3日付で家康との講和を勧める書状が送られてきました(⑥、下記補足5)。このような状況と、家康西上の情報を得て、交渉を再開したものと考えられます。

(補足5)家康が西上しているとの噂です。間違いないでしょう。家康が来る方面にあなた(広家)が居られるので、大変心配しています。失敗しないように判断することが大事です。上方の軍勢はすべて家康に同心するようですので、あなたの(判断が)大事です。(「吉川家文書」、現代語訳は⑥より)

毛利輝元も実際には阿波や伊予への侵攻を行っていましたが、一方で家康とも何らかの連絡を取っていたようです。そして現地に対しても、家老の一人・福原広俊を通じて状況を把握し、コントロールを行っていました。吉川広家の動きも「小早川秀秋と西軍から離反する」という噂になっていたので、把握していたと見るべきでしょう。つまり、毛利勢はどのみちどちらにもつけない状態でした。広家が東軍との交渉を主導していたことは確かですが、その他の勢力も虚々実々の駆け引きを行っていたのです。(参考③⑥)

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関ヶ原後、岩国築城へ

関ヶ原後、毛利輝元は領地安堵を前提に、大坂城を退去しました。ところが、家康が大坂入城後に精査したところ、輝元は中立的立場ではなく、西軍の盟主として行動していたことが発覚しました。家康は激怒し、毛利の全領地を没収し、そのうち周防・長門の二カ国を広家に与えることにしたのです。しかし広家が、切々と毛利本家の存続を懇願した結果、10月10日、家康はその二カ国を、毛利輝元・秀就(ひでなり)父子に与える誓書を書きました(補足6)。広家に対しては、輝元に命じて、周防国の東部を割譲させました。これが岩国築城につながります。(①)

(補足6)周防、長門の両国を据え置くこと、輝元・秀就父子の身命には異議のないこと、(大坂城をめぐる)虚説について究明すること(毛利輝元・秀就宛徳川家康誓書、毛利博物館蔵、現代語訳は①より)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかしこの経緯の元ネタは、吉川家の記録(「吉川家譜」)にしかなく、歴史家によると、後に吉川家が藩内での家格を高めるために作ったものだろうとされています。つまり、家康は毛利の抵抗を恐れて、輝元が大坂城を退去するまでは所領安堵を匂わせておいて、退去後にそれを反故にしたのです。輝元としても、関ヶ原敗戦で権威が失墜し、抵抗する力もなく、減封を拒否することは不可能でした。せめて実子の秀就の地位を保証されることで妥協したものと考えられます(それまでの跡継ぎは養子の秀元だった)。(段落全体③)

これでは、広家は窮地に落とされたことになります。見方によっては、西軍敗北だけでなく、毛利の大減封(約119→30万石)の一大原因を作ったことになってしまうからです。広家自身も、独立大名格から毛利家臣扱いになり、石高も減らされました(約11万5千→3万4千石)。(参考③)広家は関ヶ原の翌年に、輝元宛に長文の書状を認め、思いを伝えようとしていますが(下記補足7、④)、その当時の広家の苦しい立場を反映しているのではないでしょうか。

(補足7)毛利輝元様
このたび、関ヶ原の合戦の和睦は整い、私ども満足しております。私のこの戦いにおける行動が西軍大敗の一因と世間で批判されていることは遺憾に思います。私は和睦が成立した後に申し開きをしたいと思っておりましたが、これまで時間がかかりましたので今まで出来ませんでしたが、一書をもって一部始終申し上げます。(④、冒頭部分)

実は、この頃の広家には、毛利から出奔しようとした形跡があるのです。一つは、関ヶ原の年の11月に、黒田長政が広家を自分の藩に誘っていると取れる書状が残っているのです(下記補足8)。その3年後には、広家が独立大名になる交渉が行われた形跡もあります(下記補足9)。実際に毛利家臣は総じて大幅減封になっていたので、出奔する者もいたのです。しかし広家は最終的に毛利に残る決断をしました。(段落全体③)

(補足8)慶長5年11月18日付吉川広家宛黒田長政書状(一部)
ご知行などについて、かねての首尾と異なる状況になりましたら、私の領内においてでも提供いたしますので、ご心配されませんように。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

(補足9)慶長8年7月16日付吉川広家宛末長良昧書状(一部)
先日の箇条書きについて、大部分は決着しましたので、ご安心ください。江戸において長政は私へ「広家に対して知行を与えるとのことだ」と言われましたので、恐れ多いことですが、喜ばしいことと存じ申し上げます。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

毛利氏の新領国となった長州藩は、萩城を本城とし、国境については東に吉川広家を、西に以前の跡継ぎだった毛利秀元を配置しました。広家は萩城の縄張りに関わったと言われています。広家・秀元は、毛利家臣でありながら、独立大名的な性格も持っていました。その一つが、居城の設置を許可されたことでした。秀元の居城は櫛崎城で、広家の場合、それが岩国城だったのです。(以上③)もしかすると、広家の残留条件だったのかもしれません。

萩城天守の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長州藩(現山口県)の範囲と城の位置

堅固な城、しかし突然の「廃城」

岩国城は大きく蛇行する錦川に囲まれた標高約210mの城山を中心に築かれました。川を下れば港(今津)に近く、川の対岸には山陽道・石州街道が通っていました。つまり、城の地は水上交通、陸上交通の結節点だったのです。そこは「横山」と呼ばれていて、広家の祖父・毛利元就は1557年、中国平定(大内氏討伐)のとき、ここを本陣にしました。広家の当時は、寺(永興寺)があったものの荒廃していました。(段落全体⑧⑨)

城周辺の起伏地図

当時、新規築城の山城は珍しく、さらなる戦いが起こると想定していたのかもしれません。ただし居館(御土居)部分は山麓にあって、工事はこちらから始まりました(1603年)。山上部分は本丸・北の丸・二の丸を中心に総石垣で築かれ、枡形、連結された櫓群、空堀などで守られた近世城郭となりました。完成は1608年(慶長13年)とされています。(段落全体➉)

山上部分の縄張り図、岩国城天守内にて展示

広家が、岩国城の縄張りについて出した細かい指示が記録として残っています。これによると、広家が縄張りに精通し強いこだわりを持っていたこと、実践的な構造だけでなく、見栄えも重視していたことがわかります。(段落全体③、下記補足10)

(補足10)慶長9年5月28日付吉川広家条々写(一部)
一.南の小丸くびの門の位置については、地形にあわせて設置せよ。東の方の尾崎側でも構わない。
一.尾くび左の櫓は、麓からの見える場所なので、長い方を見せるのが適切である。
一.天守は御庄側の切り立った部分を延ばした場所を防御するためのものである。また、一つには、山頂部の平地があまりに広いため、本丸部の段差を大きくして、二の丸を防御するためにも、本丸内におさめて石垣を築造することは当然であるので、両方の用途を対照して判断し、適切に造成せよ。
一.天守の大きさは六間×八間とすべきである。東西を長辺として普請しなさい。
一.天守と尾くびの櫓を連結する石垣について、時間・労力を費やしてでも、切り立った部分を延ばすので、丁寧にじっくりと申し付けなさい。(「藩中諸家古文書纂」、現代語訳は③より)

天守は4重6階で、3重目の上部分(4階)が下部分(3階)より張り出していました。4重目も同じようになっています。この形式は「南蛮造」「唐造」と呼ばれる珍しいものです。他には小倉城、高松城天守が同様の形式でした。(以上➉)現在再建されている天守は、観光のため、錦帯橋が望める位置に築かれましたが、もとは櫓があった場所でした。また再建天守は、天守の古図(「天守構造図」)を基に設計されています。また、オリジナルの天守台は元の場所に復元されています。(以上⑧)よって、オリジナルの天守がどんな風だったかイメージすることはできます。

岩国城再建天守
復元されたオリジナルの天守台

ところが、その城の命は、わずか7年で終わりました。豊臣氏が滅亡した1615年(慶長20年)、幕府は「一国一城令」を制定しました。大名が居住する城郭を除いて、すべて廃城にせよという厳しいものでした。文字通りとれば、周防国には他に城はないので取り壊す必要はないという理屈も成り立ちます。しかし、同じような立場の毛利秀元は居城(櫛崎城)を取り壊していて、毛利本家の意向もあり、吉川氏も従わざるをえなかったとされます。(段落全体①③)山上の城部分が破却され、山麓の居館部分が「陣屋」として継続しました。

山麓の居館「御土居」跡

ただし、山上については、建物は除去されたものの、石垣の壊し方には特徴があります。現在、街道がある西側では徹底的に破却されたと見えるものの、居館・城下町がある東側ではかなり残っているのです。これは石垣がいつ壊されたかによりますが(島原の乱後という説もある)、広家の考えによるものかもしれません。実際、彼は表の目立つ箇所のみ石垣を崩すという形式的な破城で済まそうとしているのです(下記補足11)。(以上③⑧➉)広家は、唯々諾々と従っていたわけではないのです。心血を注いで築いた城を少しでも残そうとする意志と、難局を乗り切ってきた戦国大名としての意地を感じるのです。

(補足11)元和元年10月9日付家臣宛吉川広家書状(一部)
諸国の城を破却することについて、続いて情報を収集したところ、おそらく石垣まで破却するとのことです。そこで、岩国城の石垣についてももう少し崩すのがよいだろうと思います。(中略)また、城の表の方をとくに崩すのが適切なのではないでしょうか。人数が足りなければ、十~十五日間のことですので、皆々、雇傭しなさい。これは公儀のことですので、いずれにせよ、山麓からも城の方からもよく見比べて破却しなさい。(岩国徴古館蔵、現代語訳は③より)

北の丸西側の石垣
本丸東側の石垣

その後の「岩国藩」

吉川広家は、1625年(寛永2年)65歳で亡くなりました。広家の領地は、現代では、長州藩の支藩「岩国藩」として吉川氏に代々受け継がれていったと理解されています。しかし当時は、毛利氏一族の支藩(長府藩、清末藩、徳山藩)は大名格(従五位下以上)として公に認められた一方、岩国藩は家臣扱いのままでした。(以上①参考)長州藩設立以来の因縁かと思ってしまいますが、実際には将軍との距離感(お目見え・江戸在府期間・官位など)で決まっていったようです(⑪)。岩国藩は、その家格を上げるため運動を続けていくことになります。広家が自ら大名になることを拒絶してまで毛利本家の危機を救ったとする物語は、その一環でできたと考えられます(③)。それが岩国藩が関わってできた軍記物「陰徳太平記」など(他には「関ヶ原軍記大成」など)によって広まっていったのです(③⑪)。

そんな中で、3代目藩主・吉川 広嘉(ひろよし)は、有名な錦帯橋を創建しました。城から錦川の対岸には城下町がありましたが、錦川は暴れ川で、2代・広正が架けた橋が、たった2年で洪水により流出していました。流れない橋は架けられないかと広嘉は考えたのです。各地の名橋を見聞し、人材を集めました。そして、1673年(延宝元年)に初代・錦帯橋が架けられたのです。流されないために橋台の数を押さえ、かつ石積みで強固にし、アーチ型の木製の橋梁部を渡し、全く独創的な橋になりました。実は初代は8ヶ月に流出してしまうのですが、改良・再建(1674年)したものが276年間保たれたのです(改良、補強、補修、定期的な架け替えが行われた)。残念ながら1950年の台風が原因で流出してしまいますが、また再建され、現在も変わらぬ姿を見せています。(段落全体①)

吉川 広嘉像
錦帯橋の橋台
葛飾北斎「諸国名橋奇覧」より「すほうの国きんたいはし」、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

時代は幕末、12代藩主・吉川経幹(つねまさ)のときに飛びます。長州藩は幕府に反抗したので、東国境の岩国が、戦いの最前線になったのです。岩国藩と経幹はその立地や立場から重要な役割を果たしました。1864年(元治元年)の第一次長州征討では、幕府と長州藩との講和の折衝役を務めました。1866年(慶応2年)の第二次長州征討では「芸州口」として国境が戦場になりました。数の上では圧倒的に不利だったため、経幹は山上の城跡に籠城することまで考えたそうです。幕府軍の先鋒は井伊・榊原隊で関ヶ原のときのような兵装でした。その再現を狙っていたのかもしれません。しかし、長州・岩国隊は今回は結束し、武器の性能も上回っていました。幕府軍を撃退したのです。岩国隊はその後も活躍し、1868年(明治元年)経幹は、新政府から大名格(従五位下)に任じられました。ここに岩国藩の悲願が達成されたのですが、そのときすでに経幹は亡くなっていたのです(死が伏せられていた)。その地位は子(経健)が受け継ぎましたが、1871年(明治4年)には廃藩置県を迎えることになるのです(吉川家は子爵、男爵に)。(段落全体①)

吉川経幹 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

①「岩国を築いた英智の三藩主/藤井淳史著」吉川報效会
「吉川広家公没後400年記念 開館30周年記念展 第三期 広家の関ケ原」吉川史料館
③「毛利氏の御家騒動 折れた三本の矢/光成準治著」平凡社
④「吉川広家自筆覚書案(慶長6年、毛利輝元宛書状下書き、現代語訳は「吉川史料館たより第91号」による)
⑤「吉川史料館たより第74号」
⑥「関ヶ原前夜 西国大名たちの戦い/光成準治著」日本放送出版協会
⑦「黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原/渡邊大門著」角川選書
⑧「山陰・山陽の名城を歩く 広島・山口編」吉川弘文館
⑨「吉川史料館たより第84号」
➉「歴史群像シリーズ よみがえる日本の城7」学研
⑪「シリーズ・織豊大名の研究4 吉川広家/光成準治編著」戒光祥出版

「岩国城 その2」に続きます。

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