209.「桶狭間」の城砦群 その1

近年、桶狭間の戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきたのです。

イントロダクション

桶狭間の戦いといえば、まだ尾張国の一大名だった織田信長が、駿河・遠江・三河三カ国の太守・今川義元を討ち取った戦いとして有名です。戦いのイメージとしては、「桶狭間」という地名から、谷間で行われた野戦という印象が一般的でしょう。また、兵の少ない軍勢が、奇襲で大軍を打ち破ったという印象もあると思います。

桶狭間古戦場公園の織田信長・今川義元像

しかし近年、この戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきました。

今回は、桶狭間の戦いの背景と、その展開についての従来説・現時点での定説・最近出された新設をご紹介するとともに、戦いにまつわる城砦群もご紹介したいと思います。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(桶狭間の戦いと城砦群)

桶狭間への道

織田信長は、1534年(天文3年)織田信秀の嫡男として勝幡(しょばた)城で生まれました(参考資料①②より、以下番号のみ記載)。信秀は、尾張の守護代の重臣(清州三奉行)の一人でしたが、人望と経済力により、大きな勢力になっていました(①)。また信長が成長する間、当時の戦国大名としては珍しく、居城を勝幡→那古野→古渡→末森と移していて、信長にも影響を与えたと言われています(③)。他国に対しても威勢を示していて、例えば三河に対しては、1547年(天文16年)には岡崎城を攻め、松平広忠を降伏させています(嫡男竹千代が人質に)。また、美濃にも攻め込みますが大敗しています(1544年)。やがて、三河方面で太原雪斎率いる今川勢の攻勢が始まると、美濃の斎藤道三と和睦、信長と道三の娘(濃姫)が結婚することになります。(①)

織田信秀木像、萬松寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そんな中、信秀は病に倒れ、1552年(天文21年)までに亡くなりました。そのときは天皇による停戦勧告(1550年)により今川とも一時的に平和が保たれていましたが、尾張国内は不安定でした。実はこのとき信長は完全に家督を継承していたわけではなく、弟の信勝には本城・末森城や柴田勝家など重臣の大半が付いていたのです(信長は1542年から那古野城主、下記補足1)。信秀法要(葬儀または法事)のとき、信長がバサラな格好で焼香を投げつけた一方、信勝は家督継承者にふさわしい佇まいで座っていたというエピソードもそれを表しています。(ときに信長19歳、①②)

(補足1)一、末盛の城、勘十郎公(信勝)へまいり、柴田権六・佐久間治右衛門、此外歴々相添へ御譲りなり(「信長公記」原文)

また、信長の家(織田弾正忠家)の上位の守護代家の一つ(織田大和守家)も清州城に健在でした。この状況下で、織田方の山口教継が今川方に寝返り、鳴海城などに立てこもりました。また、守護斯波氏の家臣(小守護代)の坂井大膳(さかいたいぜん)らも今川方につこうとしていました。(①)

これに対し、信長は敢然と今川方に反抗し、赤塚の戦い、萱津の戦いにより、今川義元への対決姿勢を示しました(1552年)。尾張・美濃国境の聖徳寺で、斎藤道三と会見し、バサラの恰好から正装に変身し、自慢の長槍隊・鉄炮隊を見せつけたのは翌年のことです。そして、坂井大膳・織田大和守家によるクーデター(守護殺害)に乗じて、清州城を攻め、ここに入城したのです(中市場の戦い、1553年)。協力者の叔父・信光が亡くなると、信長は尾張下四郡を支配下に置きました(①)

試練はまだ続きます。1556年(弘治2年)、舅の斎藤道三が、その子の義龍に討たれたのです。この事件後、斎藤氏と尾張のもう一つの守護代家・織田伊勢守家(岩倉)が、反信長に転じます。そしてこの状況を見た信長家臣(林秀貞ら)まで、弟の信勝をかついで敵対してきたのです。この危機においても、信長は稲生の戦いで勝利し、1558年(永禄元年)には織田伊勢守家にも勝利しました。これにより尾張をほぼ統一したのです。この裏では、守護の斯波氏を追放し、信勝も粛清しています。(①)

斎藤道三肖像画、常在寺蔵・東京大学史料編纂所模写 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その頃、今川方でも軍師の太原雪斎が亡くなって混乱状態にありました(1557年織田・今川間で再度の停戦成立)。しかし尾張における今川の拠点として、鳴海城の外、調略により大高城を手に入れていました。(1559年、①③)近年この大高城が注目されています。当時、この城は海に接していて、ここからは陸海両方から、信長の本拠地・清州城や商港・熱田に迫ることができるのです。城自体も巨大な空堀に囲まれていて、当時としては最先端の防御力を備えていました。(③④)実際、桶狭間の戦いのときには、今川方の軍船千艘が、大高城の下の河口まで乗り入れています(下記補足2)。この城は尾張確保のホットスポットだったのです。

(補足2)河内二の江の入道、うぐいらの服部友定は、義元に味方するといって、軍船千艘ばかり、海上に蜘蛛の子を散らしたように並べ、大高城の下、黒末川の河口まで乗り入れた(⑤)

「「尾州大高城図」(国立国会図書館デジタルコレクション)

信長は、今川方の補給を防ぎ、監視するため、鳴海城の近くに丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、大高城には鷲津砦・丸根砦を築きました。また都に上洛し、そのことを通じ、六角氏と結んで背後を固め、最新の武器も調達したとも考えられています(③)。

城砦群の位置

1560年、永禄3年5月12日、今川義元は尾張攻略のために自ら駿府を出陣しました。具体的には、大高城・鳴海城への後詰を行うことです。家督はそれまでに息子の氏真に譲っていました。その軍勢は2万5千と言われています。(①④)今川重臣(関口氏純)の書状にも、義元は尾張国の「境目」地域に出陣する、と書かれているので、最現在では上洛説は否定されています(➉)。しかし、義元は貴族が都で使う塗輿に乗って出陣しているので、あわよくばと思っていたかもしれません(③)。一方、27歳になっていた信長の兵力は3千でした。(①④)信長が追い詰められていたのか、それとも義元が出陣せざるをえなくなったのか、見方は分かれますが、尾張の重要拠点をめぐる戦いが起こったことは確かでしょう。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
今川義元肖像画、高徳寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

従来説・桶狭間の戦い(迂回奇襲説)

まず従来説として「日本戦史 桶狭間役」に基づき、戦の経緯を追ってみましょう。内容としては「迂回・奇襲説」になります。このときの義元の目的は都への上洛でした(下記補足3)。5月18日、今川軍は沓掛城にて翌日の分担を定め、翌19日明け方から松平元康らが、丸根・鷲津砦を攻撃、これを落として大高城に入りました。

(補足3)今川義元近隣諸国ノ方サニ無事ナルヲ好時機ト為シ京師ニ詣リ将軍足利義輝ニ謁シ以テ威名ヲ揚ケント欲シ永禄三年五月朔日出兵ノ令ヲ領邑諸将士ニ発ス蓋シ沿道諸国ノ我行ヲ遮ル者ヲ伐ントスルナリ(⑥)

旧日本陸軍参謀本部「日本戦史 桶狭間役」(Google Booksより)

織田方は今川方に対処するため、清州城で軍議を開いていました。家老たちは、兵が少ない状況での野戦を避け、籠城策を主張しましたが、信長は城外で戦うことを決します。しかし18日夜、丸根砦より警報が来ても動かず、翌19日未明(午前2時頃)になって突然出陣を命じたのです。そして朝、熱田神宮を経由して鳴海方面に向かう途中、丸根・鷲津砦から立ち上る煙を見て、その陥落を知りました。織田軍は、丹下砦を経由し、善照寺砦に集結しました。

善照寺砦跡

織田軍の一部、佐々政次ら(3百人)は、鷲津砦を落とした今川隊に対し攻撃を仕掛けましたが、散々に打ち破られました(政次も討死)。これを見た信長は憤激に絶えず、敵前の中島砦に進もうとしますが、家老が必死に止めました。そのとき、梁田政綱の間者が、義元の本体は大高城に入るため、桶狭間に向かっていて、その近くの田楽狭間で休息していると告げました。政綱は、敵は勝利により油断していて、兵を潜め、不意に本隊を攻撃すれば、必ず討ち取ることができると進言したのです(下記補足4)。信長はこの策を取り、迂回路を通って義元に迫りました。

(補足4)政綱乃チ信長ニ勧メテ曰ク東軍霎時(しょうじ)ニ両砦ヲ陥レ必ス驕リテ備エサラン今兵ヲ潜メテ其不意ニ出テ本軍ヲ擣(つ)カハ義元ヲ獲ル必セリト(⑥)

案の定、義元本隊は勝利に浮かれ、酒宴を催し、警備を怠っていました。しかも織田軍が迫った正午ごろ、俄かに暴風雨となり、その接近は気づかれず、その間に山に潜みました。そして雨が上がったところで(午後2時ころ)義元めがけて突撃、見事首級を挙げたのです。この戦いでの一番の戦功は、義元を討ち取った者(毛利秀高または新介)ではなく、梁田政綱でした(沓掛城及び三千貫)。

「尾州桶狭間合戦」、歌川豊宣作(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大軍を少人数の奇襲で打ち負かすという、日本人好みのストーリーだったことで、この説は長い間史実と信じられてきました。しかし現在では信頼できないものとされています。多くの部分は、後世の軍記物などからのフィクションによって構成されたものだったからです。従来説を作った参謀本部はこのストーリーを、明治の新興日本の弱小軍隊が大国に勝利するために採るべき戦術の模範例として創作したのです。(⑦⑧)

定説・桶狭間の戦い(正面攻撃説)

次に現在定説となっている正面攻撃説(藤本正行氏による)をご紹介します。この説は、信長家臣・太田牛一が著した信長の伝記で信頼性があるとされる「信長公記」を基にしています。従来説と違いが大きいところを述べてみます。なお、義元出陣の目的は、大高・鳴海城への補給と、織田方による封鎖の解除と考えられています。

「信長公記」、陽明文庫蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

まず今川軍ですが、義元は5月17日に沓掛城に到着、19日朝まで滞在したとしています。そして18日夜から松平元康隊が大高城に兵糧を入れています。(⑦⑧、補足5)

(補足5)五月十七日、一、今川義元沓懸に参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、(「信長公記」原文)

一方、清州城の信長は、家老たちとは世間話だけで帰宅させました。家老たちは信長を嘲笑していました。夜明け方、砦が攻撃されていると聞くと、信長は「敦盛」の舞を舞いました。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」という有名な場面です。そして出陣したのです。

ここから織田軍が善照寺砦に集結したところに飛びます。このとき今川義元は「桶狭間山」に陣を張っていたのです。つまり義元がいたのは谷間の低地ではないのです。また、元康隊には大高城で休息を取らせていました。(⑦⑧下記補足6)

(補足6)御敵今川義元は四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり。(中略)今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高に兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依て、人馬の息を休め、大高に居陣なり。(「信長公記」原文)

そして、佐々政次らが討ち取られた場面を、義元も上から見て、勝利の謡をうたったのです。つまり織田・今川両軍は真正面に対峙していたことになります(下記補足7)。

(補足7)是を見て、義元が矛先には天魔鬼神も忍(たまる)べからず。心地はよしと悦んで、緩々(ゆるゆる)として謡をうたはせ陣を居(すえ)られ候。(「信長公記」原文)

善照寺砦や中島砦方面の眺望がきく高根山からの景色

信長はといえば、家老が止めるのも聞かず、迂回どころか、敵の目下の中島砦に向かったのです。そして家臣たちにこう訓示しました。「皆、よく聞けよ。今川の兵は、宵に腹ごしらえをして夜どおし行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手を焼き、辛労して疲れている者どもだ。こっちは新手の兵である。少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は点にある。」しかし、眼前の敵は砦を攻めた兵ではないはずなので、これは信長の誤認とされています(⑤⑦⑧)。

中島砦跡付近

織田軍が山際まで進んだ時に暴風雨となり、雨は敵の顔、味方の後方に降りかかりました(東向き)。「沓掛の峠」のクスノキが雨で、東の方に倒れたほどです。雨が止むと信長は「それ、掛かれ、掛かれ」と叫び攻めかかりました。敵は後ろに崩れ、本陣に対して五度も攻撃を加え、ついに義元を討ち取ったのです(⑤)。これが「正面攻撃」たるゆえんです。

「沓掛の峠」かと思われる場所

しかしこの定説においても疑問点は残ります。主なものを3つ挙げます。
1,信長が、正面の義元の軍を「疲れている者」としたのは本当に誤認だったのか(⑦)。そうだとしても、わざわざ伝記に書く必要があるのか。
2.義元が織田軍を見下ろしたとされる一帯と、現在「桶狭間古戦場」とされる一帯は1km以上離れている。織田軍が押したとしても、離れすぎてはいないか。
3.義元は5月17日に沓掛城に着いて、19日まで宿泊したことになっているが、18日はなにをやっていたのか。

新説・桶狭間の戦い(後退追撃説)

これらの疑問点に答えるものとして最近出されたのが、義元が大高城に入城し、城確保という目的を果たしたので撤退していたという説です(かぎや散人による)。この説では、今川方だった徳川家臣・大久保彦左衛門の「三河物語」も活用しています。

「三河物語」に書かれた義元の行動は、5月17日に知立(池鯉鮒)に着き、翌18日に大高城に行って丸根砦を巡検し、軍議の結果、19日に元康に攻めさせたと解釈できるというのです(①⑦、下記補足8)。

(補足8)永禄三年五月十九日に義元は、(前日に)知立から手順どおりに大高城に行って、丸根砦をつくづくと巡検して、諸大名を集めて少し長い時間、軍評定を行って、それならば攻め取ろうと(中略)もとから逸る気持ちの松平元康だったので、丸根砦に押寄せ攻めたてた(「三河物語」、現代語訳は⑦より)

ここからは想定になりますが、義元は、救援にかけつけるであろう信長を討つために、古くからある小川道を通って、鳴海方面を一望できる漆山に布陣したと考えられます。しかし信長は来ず、砦は陥落し、当初の目的は果たしたので、大高城には元康を置き、義元は撤退を決めたのです。これも古くからの長坂道を通って高根山に至ります。ここからは善照寺砦も見えるので、敵勢を討ち取り、義元が謡をうたったのはこの場所と考えられます。そこから更に撤退して、現・桶狭間古戦場付近(桶狭間村)の山に至ったのです。

桶狭間周辺の起伏地図

漆山付近からの眺望

この状況は「三河物語」の記述からある程度裏付けられます。三河の兵士たちは、義元が討ち取られる前から撤退を急いでいた、及び織田軍を山から見下ろしていたという記述がみられるのです(①⑦、下記補足9)。

(補足9)(石川六左衛門尉がいうは)「ここに押しよせたなら、すぐに棒山を攻め落とし、番手を早く入れかえ、いったん退却しなくてはならなかったのを、あまりにぐずぐずしていて、決断が遅れた。よい結果にはなるまい。すぐに帰陣せよ」
(石川六左衛門尉が織田の軍勢を見て)「敵の人数は少なく見積もっても五千はある」という。そのときみなが笑って「どうして五千もあろうか」という。そのとき六左衛門尉笑って、「みなさまは人の数のみかたをご存じない。高いところにいる敵を下から見上げたときはすくない人数も多くにみえるものだし、また下にいる敵を高いところから見下ろすと多くの軍勢もすくなくみえるものだ。」(⑨)

信長は、今川軍が大高城から山の上を撤退していたのを、追っていたのです。ですので、信長の訓示は誤解でもなんでもなかったのです。信長は今川軍と同じ長坂道を登っていくつもりでしたが、ここで暴風雨となり、方針を変えます。その頃は間道だった現・東海道を東へ進み、太子ヶ根(現在の大将ヶ根交差点付近)と呼ばれるところに至ります。ここであれば、沓掛の峠で倒れるクスノキも見ることができたはずです。ここから南に折れ、谷筋(現・釜ヶ谷)を通って義元本陣に突入しました。この攻撃は雨を利用した「迂回・奇襲」策でもあったのです(①⑦)。

大将ヶ根交差点

個人的には、義元はこんなに危ない目に合うなら、大高城にいたはずではないかと思ってしまいます。実は、江戸時代から同じ議論があったそうです(①、補足10)。一体、義元の意図はなんだったのか、上洛か、尾張奪取か、信長征伐か、大高城に絞っていたのか、古くて新しいこの議論がますます活発になってほしいと思います。

(補足10)「一説には十八日に義元が大高城へ行き、大高城で評議をして丸根・鷲津の両砦を落としたあと、桶狭間山の北に陣を敷くというものがあるが、この説は間違っている。もし義元が丸根・鷲津の砦を攻め落としたら、鳴海にも近いため、善照寺砦や中島砦を攻め取れそうなものだし、さらに熱田方面へ侵攻することもできよう。そしてまた、敵地だからと用心するなら大高城に入っていればいいのに、なぜそこから後退して桶狭間の山の上などに陣を置いたというのか。そんな行動は理解できないゆえ、この説は間違っている」(尾張藩主従医・山崎真人「桶狭間合戦記」、現代語訳は①より)

大高城跡

リンク、参考情報

①「若き信長の知られざる半生/水野誠志朗著」ぴあ株式会社
②「中世武士選書10 織田信長の尾張時代/横山住雄著」戒光祥出版
③「英雄たちの選択「ここまでわかった!若き信長の「桶狭間の戦い」」」NHK BS放送
④「ブラタモリ「なぜ織田信長は“桶狭間の戦い“に勝てたのか?」NHK放送
⑤「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑥「日本戦史 桶狭間役」旧日本陸軍参謀本部
⑦「歴史群像157号 新解釈・桶狭間の戦い/かぎや散人・水野誠志朗著」Gakken
⑧「信長の戦国軍事学/藤本正行著」洋泉社
⑨「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
➉「織田信長 戦国時代の「正義」を貫く/柴裕之著」平凡社

「「桶狭間」の城砦群 その2」に続きます。

96.飫肥城 その1

宮崎県日南市にある飫肥は、飫肥城跡と、武家屋敷や城下町の町割りや雰囲気を残す人気のある観光地になっています。「南九州の小京都」とも言われ、1977年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉の産地としても知られています。

イントロダクション

宮崎県日南市にある飫肥は、飫肥城跡と、武家屋敷や城下町の町割りや雰囲気を残す人気のある観光地になっています。「南九州の小京都」とも言われ、1977年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉の産地としても知られています。

復元された飫肥城大手門
旧本丸の飫肥杉

一方、飫肥城は「南九州型城郭」といわれるシラス台地に築かれた城の代表的なものの一つです。しかし、志布志城や佐土原城のように荒々しい台地の削り跡が残る城に比べると、飫肥城はずいぶん洗練されているように見えます。それはどうしてでしょうか。

志布志城の搦手口
佐土原城の大手口

もちろん、前者は江戸時代初期に廃城になり、飫肥城は幕末まで続いたという理由があります。しかしそれに加えて、飫肥城そのものと、飫肥藩の歴史が関わっているように思います。その背景には、ほとんどの期間城主だった伊東氏の栄光・凋落、そして復活劇があったのです。

飫肥城の旧本丸

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立地と歴史

初期の飫肥城と争奪戦

飫肥は、日向国南部にあり、志布志とともに重要な拠点でした。志布志は港として繁栄しましたが、飫肥の近くにも油津(当時は「油浦」)がありました。室町時代には遣明船の中継地点になり、戦国時代になると海外貿易も行われました。志布志を含めた南日向の沿岸地域は、領主たちの争奪戦の対象になったのです。(参考資料①②より、以下番号のみ記載)

日南市の範囲と城の位置

飫肥は戦国時代前期から、島津氏の一族である豊州家島津氏が治めていました(一時新納氏、③)。そして志布志も、島津本家の家督争いに乗じて豊州家島津氏が手に入れました(1538年)。しかし戦国時代後期になると、南日向の重要性から、北からは伊東氏が、南からは肝付氏が侵攻してくるのです。

飫肥城がいつ築かれたか定かではありませんが、遅くとも、豊州家島津氏の初代・島津季久(すえひさ)が飫肥の領主になった頃(15世紀中頃)には築かれたと考えられています(③)。初期の城の姿もはっきりしませんが、一般的にシラス台地に築かれた城は、台地を削りながら築かれるので、同じような高さと規模の曲輪が立ち並ぶ「群郭式城郭」の特徴があります。江戸時代以来飫肥城と言われる場所は、本丸・大手門の辺りに集中していますが、地形図を見ると、曲輪がその名前とともにずっと広がっていたことがわかります。飫肥城も当初は、他のシラス台地の城、知覧城や志布志城のような外観をしていたのかもしれません。

代表的なシラス台地の城の一つ、知覧城の航空写真、南九州市ウェブサイトより引用
志布志城の航空写真、現地説明パネルより

飫肥城周辺の起伏地図、曲輪名は参考情報➉より

伊東氏は南北朝時代に北朝方として日向国に派遣されて以来、日向国中部で着々と勢力を広げてきました。1484年から伊東祐国が2度飫肥城を包囲していますが、本格的に飫肥攻めを行ったのは、伊東義祐(よしすけ)です(約25年間、③)。義祐(生年:1513年~没年:1585年)の特徴の一つは、その官位の高さです。伊東氏は伝統的な九州の大名家(大友・島津・菊池・少弐など)ではないので、それまでは「大和守」が慣例でした。義祐は将軍家などに工作を行い、とんとん拍子に出世しました。
・1541年(天文10年):従五位下・大膳大夫
・1542年(天文11年):従四位下
・1561年(永禄4年):従三位(公卿)、相判衆(将軍に近侍する役柄)
それ相応の物入りだったことはもちろんですが、当時の将軍家(足利義晴・義輝)にとっても、遠隔地大名に栄典を与えることで、将軍権威の浮揚を図ったのです(①)。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

義祐は、早くから仏門に入っていたので「三位入道」と呼ばれました。優れた文人でもあったらしく、京都の文化を本拠地の佐土原に導入したそうです。当然武人としても秀でていなければ戦国の世は乗り切れないので、「日(日向)、薩(薩摩)、隅(大隅)三州太守」と称して領土を拡大しました。そして同じように「三州太守」と称していた島津氏と対決したのです(④)。

伊東氏の栄光と凋落

義祐は1543年(天文12年)頃、初めて飫肥に侵攻して以来、なんと約25年もの期間をかけて飫肥城を手に入れました。整理すると三次にわたって飫肥城攻めを行ったとのことです。
第一次(1543年頃~):島津貴久からの援軍により撃退された
第二次(1551年~):島津本家が肝付氏に敗れ飫肥から引き上げ、伊東氏が飫肥城の一角を奪った。1562年豊州家は伊東氏に一旦引き渡すが、隙をみて奪回
第三次(1563年~):戦いは膠着状態になるが、島津本家からの援軍が少ないときに伊東氏が攻勢をかけ大勝、1568年に豊州家は都城に撤退。(③⑤)
その間将軍・足利義輝が調停に乗り出したのですが、伊東氏は「将軍義政から三カ国守護に任ぜられ、飫肥・庄内は伊東領」だと主張、島津氏も「自らが三国守護で伊東の飫肥・庄内の権益は虚言だ」と反論し、失敗しました(①)。

結果、義祐は人生の多くをかけて飫肥を攻略し、伊東氏史上、最大領土を得て全盛期を迎えました。本城・佐土原城(または都於郡城)を中心に、飫肥城を含む48の支城を支配したことで「伊東四十八城」と呼ばれました。飫肥城には息子の祐兵(すけたけ、三男)を配置しました(③)。

伊東祐兵肖像画、日南市教育委員会蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかしこの栄光は長くは続きませんでした。飫肥城攻略のわずか4年後(1572年)、島津義弘の飯野・加久藤城を攻めた大軍の伊東軍は、小勢の島津軍に大敗しました(木崎原合戦)。島津氏は伊東氏家臣の調略、城の攻略を急速に進めます。
1573年:須木城の米良氏などを調略
1576年:高原城を攻略
そして1577年(天正3年)野尻城の伊東重臣・福永氏を調略すると、一気に伊東氏の本拠(都於郡)に攻め込みました。他の多くの家臣も離反したことで、義祐・祐兵は一戦も交えずに、縁戚のある大友氏の下に落ち延びました。飫肥城も放棄されました(①)その途中の財部城の落合氏も離反していたため、一行は高千穂の山岳地帯を進みました。折しも真冬で吹雪の中の逃避行であったといいます。(④)この出来事は「伊東崩れ」「日向崩れ」と呼ばれています。

島津義弘肖像画、尚古集成館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊東氏一行は大友宗麟に保護されますが、翌年(1578年)大友氏が伊東領奪回を名目に出陣した耳川の戦いで島津氏に大敗してしまいます。居づらくなった伊東一行はわずか20名ほどで四国伊予の河野氏家臣(大内氏)のもとに移りました。祐兵の妻(松寿院)を奪い取られそうになり、脱出したとも言われています。伊予での暮らしは貧しく、家臣は酒造り、機織りをしてしのぎました。(⑥)

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて祐兵は仕官しましたが、義祐は仏僧・文人であったため、気ままな旅暮らしをしていました。ところが現在の山口県あたりで家臣とはぐれてしまいます。祐兵の屋敷のあった堺に向けて船に乗ったところ、体調を崩し、堺についたところで行き倒れになってしまいました。その噂を聞きつけた家人たちによって屋敷に運ばれますが、ついに享年73で亡くなりました。1585年のことで「三位入道」波乱の人生でした。(⑥)

伊東氏の復活劇、飫肥藩の成立

伊東祐兵が仕官したのは、中国攻めを行っていた織田信長の家臣・羽柴秀吉でした。本能寺の変が起こる半年前のことでした(1582年)。まさに秀吉が天下統一に乗り出さんとするタイミングだったのです。遠縁の秀吉家臣(伊東掃部介)の仲介で一旦断られますが、秀吉に直接目通りすると、即時仕官が決まったそうです(下記補足1)。

(補足1)秀吉の言葉「いかにもたくましい勇士である(「日向記」)」「これから中国地方の毛利氏を攻めるにあたり、九州から自分を頼ってくる者があるとは、目出度い(「川崎私記」)(現代語訳は飫肥城松の丸展示より)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

祐兵(1559年生まれ)の同年配には、大谷吉継(同年)、石田三成(60年)、福島正則(61年)、加藤清正(62年)などがいました。当初は30人扶持(「日向記」)でしたが、彼らと出世を競い合い、仕官翌年には500石を得ています。そして1587年(天正15年)の九州平定には、豊臣秀長が総大将、黒田官兵衛(孝高、如水)が指揮する軍の配下で日向国に攻め入っています。道案内ということもあったのでしょう。その結果、戦後の論功行賞で飫肥を与えられ、10年ぶりに飫肥城に戻ってくることになったのです(石高2万8千石余→後に検地で5万7千石余→分知により5万1千石余)。放浪時代に世話になった大内氏も重臣として迎えられました。(③⑥)

しかし旧城主の上原氏が城をなかなか明け渡さず、祐兵の入城は翌年になってしまいました(①)。また家臣(川崎家)の記録には、取次ぎを行う黒田官兵衛が秀吉から不興をかったために「祐兵は飫肥城を与えられたものの、大封を得られず2万石余に留まり、「残念至極の事」」と記されています(⑥)。

黒田如水肖像画、崇福寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佑兵は関ヶ原の戦い前に病気になり、跡継ぎの祐慶(すけのり)が九州で東軍に参加することで、領地を安堵され、これが飫肥藩になります。飫肥の地は、蛇行する酒谷川に三方を囲まれた要害の地で、その背後のシラス台地に城が築かれていました。飫肥城の近代化は、まずこの2代に間に行われました。群郭式の城の中で、本丸、中の丸、松尾の丸などが中核の曲輪群として整備されました(⑤)。松尾の丸に残る石垣は、この当時のものと考えられます(⑦)。

江戸時代に城、城下町として整備された範囲、飫肥城歴史資料館にて展示
左側が松尾の丸の石垣

ところで因縁の島津氏との関係ですが、幕府・各藩と協調の方針をとった島津義弘が健在のころは良好でした。幕府が島津征伐を計画している噂が流れると、義弘は飫肥藩に真偽を問い合わせ、伊東祐慶は母・松寿院などからの情報をもとに噂を否定、急いで上洛して将軍に挨拶するよう勧めています。(⑥)

飫肥城を守り、現代へ継承

飫肥藩は、伊東氏14代によって幕末維新まで治められました(最後の代は知藩事、⑧)。しかし困難はありました。まず地震の被害です。17世紀後半、3度に渡って大地震が起こり(1662、1680、1684年)石垣が破損したほか、藩主寝所下に地割れが生じ、本丸建物が維持できなくなりました。そこで、中の丸を新本丸とし、大改修が行われました。(⑤)現在見られる城内の石垣の大半は地震後に改修されたものです(⑨)。
1691年:石垣完成、1693年:新本丸御殿完成、1713年:大手門完成(③⑨)同時期に二階櫓も建築(⑤)

本丸石垣
大手門(建物は復元)

次には薩摩藩との確執が挙げられます。島津義弘が亡くなると(1619年)飫肥藩と薩摩藩の間で境目論争が起こり(1624頃~)再び険悪な関係になります。この論争は幕府の裁定により飫肥藩の勝訴に終わるのですが(1675年)両藩の緊張関係は幕末まで続きました。飫肥藩は領内の要所に藩士を配置し続ける体制をとっていました。また興味深いことに、薩摩側(都城島津邸)には江戸後期の飫肥城本丸内の配置を記した絵図が残っています。(③⑥)薩摩藩の密偵が潜入し、情報収集していたのでしょう。

薩摩側が持っていた飫肥城の絵図、飫肥城歴史資料館にて展示

一方、先ほどの境目論争に勝訴したことで、飫肥藩は豊かな山林資源を確保しました。飫肥杉です。実は江戸中期までは松や楠の巨木だったのですが、枯渇してしまったので、藩民をあげて飫肥杉の大植林を行ったのです。成長が早く、船材に適していました。飫肥杉は、江戸後期から昭和時代まで、飫肥の経済をけん引する産業になりました。その飫肥杉などが積み出されたのが、戦国時代まで海外貿易で栄えた油津です。切り出した木材を港まで運ぶために「油津堀川」が開削されました。(②③)これらが藩の財政を支えましたが、藩士の生活はきびしかったようです。藩ができたときに、かつて大大名だったときの家臣を大勢召し抱えたため、石高ににしては藩士の数が多かったからです。

飫肥杉植林の様子、飫肥城歴史資料館にて展示
油津堀川の様子、飫肥城歴史資料館にて展示

幕末が近くなると、藩校・振徳堂が開設されました。ここから輩出された人物で有名なのは、日露戦争のポーツマス条約を締結した明治時代の外務大臣・小村寿太郎でしょう。現在、小村寿太郎記念館なども飫肥観光スポットの一つになっています。幕末維新の飫肥を支えた重要人物としては、家老の平部嶠南(ひらべきょうなん)が挙げられます。1868年、鳥羽伏見の戦いでの幕府の敗戦を聞くと、彼は薩摩藩に新政府への恭順の意を示し、薩摩藩家老(桂久武)と面会し、関係改善を果たしました。ただし、飫肥藩の兵は警戒されて、前線には出されなかったそうです。また、明治になって城の建物が撤去され、石垣も撤去される入札が実施されると聞いた嶠南は、石垣だけは残す努力をしたそうです。これも、現在の城や町の佇まいを残すことにつながっているのでしょう。(③)

修復、復元された振徳堂
小村寿太郎(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

①「地域から見た戦国150年 九州・琉球の戦国史/福島金治著」ミネルヴァ書房
「飫肥杉の積出港として賑わった油津の流通産業」みなと事業研究事業ウェブサイト
③ 飫肥城歴史資料館展示
④「三位入道/松本清張著」講談社「奥州の二人」より
⑤「九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編」吉川弘文館
⑥ 飫肥城松尾の丸展示
⑦「歴史群像シリーズ よみがえる日本の城18」学研
⑧ 飫肥城パンプレット
⑨ 飫肥城現地説明パネル
➉ 「古地図から読み解く飫肥城」戦国を歩こう

「飫肥城 その2」に続きます。

197.志布志城 その1

今回は、鹿児島県東部、志布志市にあった城、志布志城をご紹介します。この地には志布志津があって古代以来栄えていました。志布志城は、この地を治める拠点だったのです。城そのものにもシラス台地に作られた大規模な山城だったという大きな特徴があります。

イントロダクション

今回は、鹿児島県東部、志布志市(しぶしし)にあった城、志布志城をご紹介します。少しユニークな地名と感じるかもしれませんし、志布志市埋蔵文化財センターにある城の模型を見るとすごいインパクトを感じます。現代の視点で見ると、ここには志布志港があり、重要港湾と中核国際港湾に指定されています。全国の港湾の中で、原木の輸出額1位、飼料用とうもろこし輸入額2位(2024年実績)とのことです(参考資料①より、以下番号のみ記載)。大型フェリー「さんふらわあ」も就航しています。実はこの港は、平安時代末期に荘園(島津荘)の港として開かれ、「志布志津」と呼ばれていました。中世には国内のみならず国際貿易も行われました、領主たちは、貿易で利益を上げられ、兵員・物資輸送にも有利な港があるこの地を巡って争いました。志布志城は、この地を治める拠点だったのです(②など)。

志布志城(内城)の模型、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
志布志港に停泊するフェリー「さんふらわあ」

城そのものにも大きな特徴があります。それはシラス台地に作られた大規模な山城だったということです。シラス台地が広がる南九州には、同じような特徴を持つ城が多く築かれました。本編では、そのシラス台地に築かれた城の特徴を説明します。次に、志布志を巡って争った領主たちの栄枯盛衰を見てみます。それから志布志城そのものにフォーカスします。最後に、戦国時代から江戸時代にかけて、地域と城がどうなったのかをお話しします。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(シラス台地に築かれた名城・志布志城の歴史)

シラス台地に築かれた城

シラス台地は、火山の流出物などが堆積しててきた南九州特有の地形です。その土壌は「白い砂」という意味の「シラス」と呼ばれています。シラスはサラサラしてやわらかく、水の浸食によって台地の縁に崖ができます。乾燥した状態では安定し、崩れる時も崖の上部が落下するだけで、大規模な山崩れは起きにくい性質があります。領主たちはこの性質を利用して、台地を削り、深い空堀とそれに隔てられた曲輪による山城を築きました(②)。志布志にあるシラス台地に登ってみると、市街地や港を一望することができます。このような場所は、城を築くのにうってつけだったのでしょう。

志布志市の範囲と城の位置

志布志のシラス台地

このように南九州のシラス台地上に作らられた山城群は「南九州型城郭」と呼ばれています。またその作り方から、同じくらいの標高に独立した曲輪が群れをなして立ち並ぶことから「群郭式城郭」とも呼ばれます(②)。志布志城の模型を見てみても、中心部の本丸はあるものの、突出した位置や規模ではないことがわかります。「南九州型城郭」の代表的なものとしては、志布志城のほか、知覧城、佐土原城、飫肥城、人吉城などが挙げられます。

知覧城の航空写真、南九州市ウェブサイトより引用

ここからだんだん志布志城の方に話を移していくと、志布志城は、実際には4つの城(内城、松尾城、高城、新城)の集合体でした。先ほどからの城の模型は、戦国時代にかけて中心的な拠点になった内城(うちじょう)のものです。4つの城のうち、松尾城が最初に築かれ、次第に拡大・変化していったと考えられます(②)。現在、ビジターが通常見学できるのは、内城と松尾城です(志布志観光特産品協会での情報)。

4つの志布志城、現地説明パネルより

それから、この志布志という地名の由来ですが、この名前は「志(こころざし)」+「布(織物)」+「志」というように分解できます、そしてこれは、天智天皇がこの地を訪れたときの逸話によるというのです。天智天皇は、その地の女主人からも、仕えている者からも織物を献上されたそうです。天皇は大変喜び、身分の上下に関係なく志があついということで、この地は「志布志」であると言ったそうです(③)。この伝説が事実かどうかはともかく、この地と名前は長い歴史を持っているのでしょう。

地名発祥の地、献上橋

領主たちの栄枯盛衰

志布志城の正確な築城年代は不明ですが、南北朝時代(1336年)に肝付氏の配下が守っていた記録があるので、南北朝争乱の中で築城され、以後拡大していったと考えられます。その初代の肝付氏から始まって、江戸時代初期に廃城になるまで、志布志城の領主氏族はなんと6回も交替したのです(②④)
1.肝付氏:~1336年?
2.楡井氏:1338年?~1351年
3.畠山氏:1351年~1357年
4.新納氏:1357年~1538年
5.豊州家島津氏:1538年~1562年
6.肝付氏:1562年~1576年
7.島津氏:1576年~

これを3つに分類すると、最初は南北朝争乱によるものです。2番目の楡井氏は南朝方に属していました。当主の楡井頼仲は、志布志城のうち、松尾城を拠点とし、大慈寺を創建するなど地域で勢力を伸ばしました。一方、北朝方としては、日向国(宮崎県)を任せられた畠山直顕(日向守護職)が、志布志(当時は日向国)や大隅国(鹿児島県東部)に勢力を伸ばしてきました。1351年、畠山氏は楡井氏を破り、志布志城を手に入れました。楡井頼仲は二度奪回を図りますが失敗し、ついには自害しました。頼仲の墓は今も大慈寺にあります。ところで、大隅は本来、北朝方としても島津氏(奥州家、大隅守護職)のテリトリーでした。1357年、島津氏の助けを得た新納実久は、志布志城の松尾城にいて、内城に入った畠山直顕と対陣し、これを破りました。直顕は北方へ撤退していきました。その後、約180年間にわたり、新納氏の支配が続きます(②④)。

楡井頼仲が創建した大慈寺
楡井頼仲の墓
新納氏の時代に城を守った隈田原兄弟とされる仁王像(宝満寺跡)

状況が次に動いたのは戦国時代中期(16世紀前半)でした。薩摩の島津氏に家督争いが起こったときです。その頃島津氏には、本家(奥州家)の他、伊作家(相州家を継ぐ)・薩州家・豊州家などがありました。力が衰えていた本家14代・勝久は、伊作家に協力を求め、当主・忠良の子・貴久を養子とし、本家15代目としました(1526年、大永6件)。ところが、実権を握ろうとしていた薩州家当主・実久がこれに反発すると、勝久は貴久への継承を撤回しました。ここに、本家・伊作家・薩州家三つ巴の構想が始まったのです。貴久が権力を確立するまでには10年以上かかりました(1540年頃)。その過程で、薩州家の実久は、豊州家・島津忠朝、肝付兼続などに呼びかけを行い、志布志に集まりました(1535年、天文4年)。ところが志布志城の新納忠茂は、貴久側と連携していて応じなかったため、連合軍に攻撃され、降伏しました(1538年)。ここに長きに渡った新納氏の支配が終わり、豊州・島津氏が新しい領主になりました(②④⑤⑦)。

島津貴久肖像画、尚古集成館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし戦国の動乱が九州全体を覆うと、また事態が変わります。日向の伊東氏が南に侵攻を始め、それに呼応して肝付氏が島津氏からの独立を図ったのです。その狭間にいた豊州家島津氏は、挟み撃ちに合う形になりました。1562年(永禄5年)飫肥城が伊東氏により落城すると、肝付氏も志布志に侵攻しました。当主の肝付兼続は1564年に志布志に移り住み(隠居所)2年後に亡くなるまで過ごしました。1567年には豊州・薩摩家は駆逐され、肝付氏は大隅の戦国大名になりました。肝付氏は、伊東氏の助力を得ながら島津氏に対抗していきますが、その伊東氏の援軍が到着したときの志布志城(内城)の姿を再現したのが、志布志市埋蔵文化財センターの模型です(②④)。このときが城の全盛期だったのかもしれません。

肝付兼続の墓(志布志市内、江戸時代の再建)

志布志城の築城と完成

それでは、最終的に志布志城の中心になった内城を題材に、城がどう作られたか追っていきましょう。まず、川(前川)に沿って南北に延びるシラス台地の先端を、深い堀(堀切)で切り離します。これによって地続きに攻められるのを防ぐことができます。次に山や斜面を削り、建物を建てる曲輪を作ります。さらに空堀によって複数の曲輪を隔てます。これが本丸を中心とした部分です。それに続いて中野久尾(なかのくび)部分が作られ、最後に大野久尾(おおのくび)部分が作られたと考えられます(③)。同じ部分でも、いくつもの曲輪とそれを隔てる空堀によって成り立っていました。

城周辺の起伏地図

本丸部分の造成、志布志市埋蔵文化財センター資料より
内城全体の造成、志布志市埋蔵文化財センター資料より

完成した志布志城(内城)は、多くの曲輪と深い空堀から成り立っていました。曲輪は土塁によって囲まれ、入口は狭い「虎口」だけになっていました。シラス台地に作られた城の典型例です。城そのものの出入口として大手口(正面)と搦手口(裏面)がありました。内城だけでも、南北約500m、東西約250mに及びました(本丸標高54m、比高約50m)。敵がこの城を攻めるとき、どちらから入っても、深い空堀から曲輪に攻め登ることは不可能です。空堀の堀底道を進み、虎口から攻め入るしかありません。そのため大軍で攻めても長蛇の列になり、列の先頭しか戦うことができません。しかも堀底にいる軍は、常に曲輪からの攻撃にさらされてしまいます(②④)。

志布志城(内城)の模型全景、大手口は左手、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
上記模型の搦手口、真ん中下から深い空堀を進みます。

例えば、城の大手口から本丸を目指して攻めるとしましょう。するとまず、大手口の右側にある曲輪(矢倉場)から攻撃を受けることになります。そこを突破して本丸登城口に着くと、今度は左右の曲輪から攻撃を受けます。先に行くと、道は二手に分かれていてどちらに進んでいいかわかりません。運よく正しい右側の道に進んでも、なんと4方向から攻撃を受けるのです。なんとかそこを突破し、堀底道を進んでも常に左右の曲輪から攻撃されます。やがて、本丸下段の虎口に近づきますが、さらに本丸上段からの反撃が加わります。このように、多くの曲輪と曲がりくねった空堀を組み合わせることで、高い防御力を持つことになったのです(④)。

上記模型の大手口部分、すぐ右側に矢倉場があります
上記模型の本丸登城口部分、深い堀底道が続きます
上記模型の高い物見台があるところが本丸下段、その奥が本丸上段

この城は山城で、戦いのときに立てこもるためでしたので、城主は普段は城の外で生活していました。当然、志布志津による貿易の恩恵を受けていたでしょう。志布志城跡からも、生活道具・武具類のほか、海外製陶磁器・国内陶器・銭が出土しています(②⑥)。兵士は駐留していたのでしょうが、領主や上級武士も一時生活していたか、大事なものをここにしまっていたのかもしれません。

志布志の行く末

肝付氏の統治も長く続きませんでした。島津貴久の跡を継いだ島津義久が、大隅に侵攻してきたからです。実は、肝付兼続の存命中(1566年)には元の本拠地である高山城(こうやまじょう)が落城していたのです。肝付氏自身も、1573年(天正元年)北方の北郷氏を攻めたときに大敗し(国合原の戦い)、伊東氏も前年の木崎原(きざきばる)合戦で島津氏に大敗していました。地域のパワーパランスが大きく崩れたのです。兼続の跡を継いでいた(2代後)肝付兼亮(かねあき)は、義母で兼続の妻である御南(おなみ)の進言などにより、1574年に島津氏に降伏しました。御南は、島津氏の先代・貴久の姉でもありました。そして1576年から志布志は島津領(代官・鎌田氏が統治)になりました。島津氏の支配が安定すると、江戸時代の「一国一城令」(1615年)までには志布志城は廃城になったと考えられます(②④⑤⑦)。

その代わりに、防衛拠点として「志布志麓(ふもと)」が置かれました。「麓」とは、薩摩藩が領内統治や防衛のために、各地に藩士を住まわせた拠点です。約120ヶ所あったと言われています。志布志は他藩(高鍋藩)との境目にあったので、引き続き重要拠点だったのです。現在、志布志城跡の山麓に武家屋敷跡が残っていて「志布志麓庭園」として公開されています(福山氏庭園、平山氏庭園、天水氏庭園)(⑧など)。

代表的な麓、出水麓の模型、黎明館にて展示
福山氏屋敷
福山氏庭園
天水氏庭園

そして志布志の港の方ですが、鎖国中の江戸時代でも、志布志はある意味国際貿易港でした。なんと密貿易を行う場だったというのです。「密貿易屋敷」には隠し部屋があり、秘密の商談が行われていたようです。また、地下室もあって、そこから秘密の通路で海に出ることができたと言われています。もちろん国内や琉球との交易は公に繁盛していました。志布志はやはり、昔からずっと港として繁栄してきた地だったのです(③)。

密貿易屋敷の模型、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
密貿易屋敷跡

リンク、参考情報

①「志布志港の貿易状況について」2025年5月22日長崎税関
②志布志市埋蔵文化財センターリーフレット
③志布志市埋蔵文化財センター展示
④志布志市埋蔵文化財センター説明資料
⑤「地域から見た戦国150年 九州・琉球の戦国史/福島金治著」ミネルヴァ書房
⑥志布志城跡現地説明パネル
志布志城跡、志布志市公式ホームページ
国指定文化財 志布志麓庭園、志布志市公式ホームページ

「志布志城 その2」に続きます。

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