79.今治城 その1

今治と言えば、やはり今治城が思い当たります。そして今治城を築いたのが、加藤清正・黒田官兵衛と並ぶ築城の名手、藤堂高虎です。藤堂高虎と言えば、何度も主君を変えた武将としても知られていますが、その分、築城にかかわった城も多いのです。その中で今治城は、高虎の築城術が確立した金字塔とも言える存在だと思います。そこで今回は、藤堂高虎の武将人生を辿りながら、今治城築城までに至った経緯、今治城の特徴、そしてその後の今治城をご紹介します。

イントロダクション

前回は、能島城跡の島に上陸し、来島城跡を望む来島海峡まで来ました。これらの史跡は現在では愛媛県今治市域に当たります。今治と言えば、やはり今治城が思い当たります。そして今治城を築いたのが、加藤清正・黒田官兵衛と並ぶ築城の名手、藤堂高虎です。藤堂高虎と言えば、何度も主君を変えた武将としても知られていますが、その分、築城にかかわった城も多いのです。その中で今治城は、高虎の築城術が確立した金字塔とも言える存在だと思います。そこで今回は、藤堂高虎の武将人生を辿りながら、今治城築城までに至った経緯、今治城の特徴、そしてその後の今治城をご紹介します。

来島海峡
今治市域(地図素材サイト「マップイット」より)
今治城

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(藤堂高虎築城術の金字塔・今治城の歴史)

高虎の出世街道

藤堂高虎は1556年(弘治2年)、近江国犬上郡甲良荘藤堂村に生まれました(生年1556年~没年1630年)。藤堂氏は、公家の広橋氏に仕えてきた有力領主でした。また、当時の近江国は築城が盛んな国で(観音寺城・小谷城など)、近くには大工で有名な甲良家の存在がありました。こういった環境が後の高虎のコネクションや仕事に関わったものと思われます(参考資料①②より、以下番号のみ記載)。高虎自身の覚書などを基にした藩の記録類(「高山公実録」など)によれば、彼は幼少期から大柄、怪力で、成人後は身長約190センチ(六尺二寸)、体重は百キロを超えていたと言われます。当時の男子平均身長が約150センチなので「大巨人」のように見えたでしょう。母親(妙清院・とら)や子(高次)も大柄だったとのことです(①)。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そんな高虎は、その恵まれた体格をもって大名に仕官し、戦功を上げますが、主君に恵まれない不遇の時代が続きました(①③、下記補足1)。
1.浅井氏(15歳、1570年~17歳、1572年)
 姉川の戦い・小谷城籠城戦などに参戦、同僚と喧嘩・成敗して出奔
2.阿閉氏(~18歳、1573年)
 「らう(牢)人分」として仕官、同僚を成敗したため出奔
3.磯野氏(~20歳、1575年?)
 織田信長に降伏した磯野員昌(佐和山城主)に仕官、80石を拝領
4。織田氏(~21歳、1576年)
 佐和山城主になった信長の甥、信澄に仕官、戦功を上げたが80石のままだったのでまた浪人に
最初の頃は、高虎自身も相当荒くれ者だったように感じます。

(補足1)織田・浅井両将の軍、姉川の辺で合戦。浅井氏は敗北し、居城の小谷に退く。白雲君(虎高)は浅井家に従いてこの役に出陣。公(高虎)は志学の齢といえども、父君に伴なって姉川に赴き、この日、敵の首一級を得る。敗軍の武功はことに難しい(「親筆留書」)

江戸時代の浮世絵に描かれた磯野員昌 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして21歳のとき、5人目の主君として豊臣秀長に300石で仕官してから、運が開けてくるのです。そのとき秀長は、兄の秀吉とともに播州三木城攻めを行っていました(①、下記補足2)。秀長は並行して但馬国(兵庫県北部)の平定も行っていて、竹田城を本拠として、拠点城郭を整備しました。その中に有子山城があって、そこに築かれた高石垣は高虎が関与した可能性があります(①)。そうであれば、戦そのものだけでなく、築城という分野にもかかわっていたのです。その後は、天下統一にまい進する秀吉・秀長の下で出世街道を進みます(④)。
・1581年:3300石(但馬一揆をおさめた功)
・1583年:4600石(賤ヶ岳の戦いの功)
・1585年:紀伊国粉河1万石(紀州攻めの功)
・1587年:2万石(丹羽長秀の子、高吉を養子とする)

(補足2)やまと大納言殿へ御出成なされ、播州三木の城主別所小三郎・しやてい弐人、あき(安芸)のもり(毛利)ニしたかひ、秀吉公をそむき申し付けて、御おしよせ成され候処ニ(「藤堂家覚書」)

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
有子山城本丸の石垣

高虎が、秀長の重臣時代に築いた城の例としては、赤木城が挙げられます。1585年(天正13年)、秀吉・秀長は紀州攻めを行い、紀伊国は秀長の領地になりますが、その後も反抗する一揆勢を抑え込むために、高虎が築城したとされています(③、下記補足3)。コンパクトですが、技巧に富んだ総石垣の城で、高虎流築城の原点ともいえる城です(③)。

(補足3)吉野郡赤木というところに、高虎君が取り立て御座した城跡がある。今、ここに野長瀬某の末孫がいる。当時は高弐万石ほどの郷士であった。この者も高虎君に敵して戦死した(「高山公実録」のうち「累世記事」)

赤木城の石垣
赤木城の縄張り、現地説明パネルより

やがて徳川家康が秀吉に臣従すると、高虎は家康の京都屋敷建築の奉行になりました。高虎は、渡された設計図には警固に難点があるとして、独断で設計を変更しました。家康がこのことを尋ねると、高虎は「天下の武将である家康様に不慮のことがあれば、主人である秀長の不行届き、関白様の御面目にかかわると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興の節は御容赦なくお手討ちください」と答えました。家康は心遣いに感謝し、後の両者のきずなにつながったとのことです(③)。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小田原合戦後に秀長がなくなると、高虎は、秀長の養子・秀保に後見人として仕えました。朝鮮侵攻のときの、肥前名護屋の秀保の陣屋は、諸大名の中で最も大きいものでしたが、これも高虎が築いたと言われています(③)。高虎自身も水軍の大将の一人として朝鮮に渡ったのですが、1595年(文禄4年)秀保が17歳で亡くなると、秀長以来の大和豊臣家は断絶となりました。そこで高虎がとった行動は、主君の死を悼み、高野山に行って出家しようとしたことだったのです(①)。主家を断絶させた秀吉への反発だったのではという意見もあるそうです(③)。

豊臣秀保、「義烈百人一首」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
朝鮮侵攻に使われた安宅船の模型(名護屋城博物館にて展示)

独立大名になってから今治城築城まで

高虎の才能を惜しんだ秀吉は、使者を2回、高虎に派遣しました。2回目に派遣したのは、高虎と親しかった生駒親正(孫の正俊の正室が高虎の娘)で、その説得の結果、高虎は秀吉に仕えることになりました。後に高虎は、生駒高松藩の幼君・高俊の後見役になっています(①)。

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高虎は、伊予板島7万石の独立大名になりました。板島城に入城し、城を天守・石垣を備える近世城郭に改修しました。これが宇和島城になります。高虎が築いた天守が初代、現存する天守は2代目です。そして引き続き水軍大将として慶長の役にも参陣します。しかしこのとき、戦功をめぐって同じ伊予の大名・加藤嘉明といさかいを起こしました。関山沖の勝利の功労者は高虎であるという武将たちに対して、嘉明は自分が一番功労者であると言い張ったのです。「自分で武功を誇るより、同僚たちの意見を聞いたらどうだ」と反発したのです(④)。その朝鮮での戦功で、1万石加増となり、新領地で大洲城の改修も行いました。

宇和島城
右が高虎が築いた天守、現地説明パネルより
加藤嘉明肖像画、藤栄神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉が没すると、高虎は徳川家康に接近します。秀吉に恩義があるのにどうして豊臣に身を捧げなかったのかという批判がありますが、高虎の年譜「高山公実録」は「高虎の行動は、天下の形勢からみて、家康が天下を治めるに一番ふさわしい人物と考えたためである」と述べています(④)。家康も高虎を信頼していました。関ヶ原の戦いの前、上杉攻めから西上するとき、高虎は黒田長政・福島正則らの先発隊に入り、家康との連絡役を務めました。この戦いでは小早川秀秋の寝返りが有名ですが、高虎も、同郷(近江)の大名(脇坂安治・小川祐忠ら)の内応工作を担当したのです(①)。

脇坂安治肖像画、龍野神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関ヶ原後、高虎は伊予半国・20万石の大大名になりました。ところが、それまでの伊予は6つの大名によって分割されていて、負けた方が没落して、2つの大名に機械的に振り分けられたため、双方の領域は国内で入り乱れる結果になりました。そのもう一つの大名とは、因縁の加藤嘉明です(①③)。
・藤堂高虎(宇和郡など8万石)→20万石
・加藤嘉明(久米・温泉など10万石)→20万石
・小川祐忠(今治府中7万石)→西軍から東軍に寝返ったが領地没収
・安国寺恵瓊(和気郡6万石)→西軍参加により処刑
・来島康親(来島など1.4万石)→西軍参加により改易
・池田高祐(喜多郡1.2万石)→西軍参加により改易

高虎は、新たに得た東予地域の支配のため、そこにある国分山城を拠点にしようとしました。この地は古くは伊予の国府があり、その城は村上武吉が築城したと言われ、福島正則や前領主の小川祐忠も入っていました。ところが、その地域でさえ加藤氏と折半していたため、加藤氏も目と鼻の先に拠点・拝志城を築城するのです。そのような場所では領地全体の統治は難しく、芸予諸島の監視や水運の活用という面でも新しい拠点が必要と考えたのでしょう。それが今治城だったのです(①④、下記補足4)。

(補足4)国府の城は河野家代々の城地であったが、地勢要害で公の心にかなわなかったので、これを神君に報告して国府の城を廃し、今治に新城を築いてゆくゆくは居城にしようと石畳・堀溝・矩縄などに心を砕いた。というのも、今治の地は越智郡の海辺で、北は蒼海、東に国府川が流れ、西南は曠野にて平原の地である。海陸の通達が自在で、九州の通船はこの沖を漕がなければ船行することができない。(「公室年譜略」現代語訳は③より)

今治周辺の地図

今治城、何がすごい?

今治城が築かれる今治平野には、古くから国府があり、中世には「今治津」という港もありました。その港があっと考えられる川(浅川、あさかわ)と蒼社川(そうじゃがわ)に挟まれた砂浜に城が築かれました(⑤)。今治城の別名「吹揚城(ふきあげじょう)」は「砂が吹き揚げられてできた砂浜」に築かれた城という意味です。城は、1602年(慶長7年)から2年間かけて築かれました。

「正保今治城絵図(複製)」、城の右側が浅川、左側が蒼社川(今治城天守内にて展示)

今治城は「日本三大海城」の一つと言われています(あとの2つは高松城、中津城、別バターンもあり)。その名にふさわしく、三重の堀に囲まれ、海水が引かれました。以前の港の機能も引き継ぎ、城内の中堀北側に船入(港)が設けられました。中堀の内側は上級武士の屋敷地となりました。その内側の内堀は幅が54メートル(30間)もあります(④⑤)。

高松城
中津城

城の中心部は、シンプルな方形の本丸と二の丸が組み合わされていて、高虎築城術の特徴の一つです(③)。これによって、御殿の敷地が確保され、ある程度の人数も収容できます。シンプルな形の分、防御力が弱そうに見えますが、広い内堀の他、曲輪を高石垣とその上に建てられた櫓群で囲みました。もと砂浜だった土地の地盤を安定させるために、石垣のベースに「犬走り」とよばれるテラスが作られました。ここは城が攻められたときにも、楯を立てて防御に使われることになっていました(④)。石垣は自然石などを積む野面積みで、高虎の出身地・近江の「穴太衆」にちなむと考えられます(④)。更に出入口の門は、枡形構造で防御力を高めました。その先には角馬出しを付属させ、反撃能力も備えています(①)。

今治城の高石垣と櫓群
犬走りと野面積みの石垣
鉄御門の枡形、現地説明パネルより

また城のシンボルである天守も、新しい型式が今治城で導入されたと言われています。その天守(五重)は、本丸の中央に独立して築かれたと考えられています(①③)。そしてその形式とは層塔型天守です。それまでの天守は望楼型で、入母屋屋根を持つ主殿建築の上に望楼を乗せた複合建造物でした。構造的に弱く、使い勝手も悪かったのです。層塔型は、多層塔のような外観で、上層になるに従い徐々に狭くなる階を積み上げていきます。規格化された部材を組み上げるもので、構造的に強く、シンプルなので工期も短く、費用も安く済んだのです。天守台を方形に作れる技術の進歩も関係していました。城郭の中心は御殿に移っていくので、時代の流れにも沿っていました(①④)。

現在の今治城本丸(吹揚神社)
望楼型天守の例(犬山城)
層塔型天守の例(島原城)

しかしその天守は短期間で、移築されてしまいます。高虎が伊勢・伊賀に転封になったとき(1608年、慶長13年)、移動先の伊賀上野城に移すつもりが、天下普請で築かれることになった丹波亀山城の天守として幕府に献上することになったというのです。家康は大喜びだったそうです(③、下記補足5)。残念ながら今治城ではこの天守の痕跡は残っていないようです。天守台の石材も一緒に運ばれてしまったと考えられます。想定として、本丸の中央に独立天守として建てられたのではないかという意見があります(③)。

(補足5)亀山に御城普請あり。しかるところに、高虎公が今治の殿主を破壊して大坂につけ置くところの良材あり。高虎公の兼ねての御心中には、伊賀上野の殿主に組み建つべしと御用意ありけるところに、亀山の城郭が専なるによりて駿府へ仰せ上られけるは、幸いに今治の殿主は大坂にあり。この殿閣をそのままにして、丹州亀山に造立すべしと望ませたまう。大御所公は御喜悦の上意にて、高虎公にこれを任す(「高山公言行録」)

亀山城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この今治城の築城プランは、後の高虎自身の城や、幕府が主導する天下普請の城にも引き継がれました。例として、丹波篠山城、伊勢津城などが挙げられるでしょう(③)。層塔型天守の採用も、江戸城・大坂城などの天守の先駆けになりました(①)。今治城は、高虎築城術だけでなく、日本城郭史の画期になったのです。

篠山城の縄張り図、現地説明パネルより
江戸城寛永天守の模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示

その後の高虎と今治城

高虎の伊勢・伊賀への移動は、家康による大坂包囲網形成に連動していました。これは、豊臣氏や恩顧の西国大名を監視するために作られた城郭ネットワークです。高虎と姫路城の池田氏は豊臣恩顧であっても、積極的に包囲網作りに協力したのです。懸念のある大名はその範囲外に移動になりました。幕府の本城・江戸城拡張にも甲良大工の動員や石材の切り出しなどで貢献しました。また、江戸城(龍口)と駿府城(大手門正面)のすぐ近くに藩邸を与えられ、家康と密接な連絡を取っていました。その藩邸には度々「御成」もありました。家康の臨終に当たっては、高虎は来世での奉公を誓い、宗派替え(日蓮宗→天台宗)を行い、家康は有事の際は高虎を先鋒とするよう指示したそうです。後継ぎの徳川秀忠・家光にも信頼され、1620年(元和6年)の秀忠の娘・和子(まさこ)の入内には、朝廷との交渉役を務めました。その後は幕閣のような、西国大名の取次役をこなし、1630年(寛永7年)に75歳で亡くなりました(①)。

姫路城
徳川和子(東福門院)肖像画、光雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ちなみに、加藤嘉明とはどうなったかというと、1627年(寛永4年)会津藩・蒲生氏が改易になった時、その後釜として、高虎は自分の替わりに(高齢が理由)喜明を幕府に推挙したのです。喜明は大変感謝し、和解したそうです(④)。

今治城はどうなったかというと、高虎転封後は養子の高吉が今治城を預かりました(高虎22万石のうち2万石)。高吉(生年:1579年~没年:1670年)は、織田信長の重臣・丹羽長秀の三男として生まれ、豊臣秀長の養子になったのが、秀吉の甥・秀保が取って代わったため、高虎の養子にスライドしたのです(1587年)。ところが、1601年(慶長6年)、高虎46歳にして待望の嫡男・高次が生まれたため、微妙な立場になってしまいました。高虎は高吉に領地を分け与えるつもりでしたが、高虎が亡くなると、高次はそれを阻止し、高吉を家臣にしたのです。1635年(寛永12年)高吉は伊勢国に転封になり、最終的に名張陣屋に落ち着きました(名張藤堂家として存続、石高2万石)(④)。

藤堂高次肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後に、幕末まで今治藩主・城主になったのは久松松平氏でした。家康の母・於大が、家康を生んだ後に嫁いだのが久松氏でした。よって、於大が久松家で生んだ定勝も松平氏を名乗りました。今治に来たのは定勝の五男・定房で、石高は3万石でした。兄(次男)の定行もとなりの松山藩の藩主(15万石)になっています。彼らは家康の異父弟に当たるので、幕府から信頼されたのです。親藩大名として、四国大名の監視を期待されたのでしょう。明治維新のときの藩主は10代・定法(さだのり)でした。廃藩置県(1871年)により城は廃城になり、建物は撤去、堀も徐々に埋められていきました。しかし城内と城下町の港が、港湾都市・今治の発展の基礎になりました。

松平定勝肖像画、今治城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平定法 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク・参考資料

①「ミネルヴァ日本評伝選 藤堂高虎/藤田達夫著」ミネルヴァ書房
② 五目ひじき
③「図説・日本の城郭シリーズ④ 築城の名手・藤堂高虎/福井健二」戒光祥出版
④「今治城の謎/土井中照著」メイドインしまなみ事務局
⑤「海と高虎-瀬戸内が育んだ今治の歴史-」高虎サミットin今治実行委員会

「今治城 その2」に続きます。

178.能島城 その1

今回は村上海賊の城、能島城をご紹介します。現在「しまなみ海道」と呼ばれる芸予諸島の島にあった城です。「海賊」というのは古くからの用語です。しかし、現在の私たちがこの言葉から抱く「無法者」「略奪者」といった一方的なイメージとは異なります。室町・戦国時代には、彼らは普段は「海の領主」「警固役」といった存在で、戦さのときは水軍にもなりました。有力な「海賊」だった能島村上氏が築いたのが能島城で、島全体を要塞化して築いた「海城」の代表的なものの一つです。

イントロダクション

今回は村上海賊の城、能島城をご紹介します。現在「しまなみ海道」と呼ばれる芸予諸島の島にあった城です。「海賊」というのは古くからの用語です。しかし、現在の私たちがこの言葉から抱く「無法者」「略奪者」といった一方的なイメージとは異なります。室町・戦国時代には、彼らは普段は「海の領主」「警固役」といった存在で、戦さのときは水軍にもなりました。ときには略奪を行い、政治権力者にも反抗したので、「陸の領主」から見て「海賊」と呼ばれることになったようです。役に立つ場合は「警固衆」とも呼ばれていました。「水軍」という呼び方は江戸時代以降の用語だそうです(参考資料②⑦より、以下番号のみ記載)。有力な「海賊」だった能島村上氏が築いたのが能島城で、島全体を要塞化して築いた「海城」の代表的なものの一つです(⑦)。

しまなみ海道(来島大橋)
能島城跡

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立地と歴史(村上海賊と能島城の歴史)

瀬戸内海航路の案内役

村上氏は、瀬戸内海の芸予諸島を根拠にした典型的な海賊衆でした。近代以前、水運は最も効率的な交通手段で、瀬戸内海はその大動脈だったのです。しかし芸予諸島周辺の海流は急速かつ複雑であり、船を安全に航行させるには地元の海の民の誘導が必要でした。つまり「海賊」のニーズが一番ある場所だったのです。

芸予諸島の航路図、村上海賊ミュージアムにて展示

「海賊」村上氏の始まりははっきりしませんが、始祖は北畠顕家で、その子・村上師清が伊予に下向してきたという伝承があります。師清の三人の子(義顕・顕忠・顕長)がそれぞれ、能島・来島・因島の各村上氏に分かれていったとされています(「萩藩譜録」)。この3ヶ所は、それぞれ「沖乗り航路」「伊予地乗り航路」「安芸地乗り航路」という瀬戸内海航路を押さえる拠点でした(②③)。

北畠顕家肖像画、霊山神社蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

彼らが「海賊」として台頭したきっかけは、室町時代に小早川氏が芸予諸島に進出したことでした。小早川氏に侵入された荘園領主が、幕府などに訴えたとき、その警固を行ったのが村上氏だったのです。(1349年「東寺百合文書」が初出、「野島」に酒肴料」を支払っている、⑦)。その後、伊予の守護・河野氏と連携して、勢力を広げていきました(②)。時代が下ると、今度は村上氏が荘園を押領しています(⑦、下記補足1)。

(補足1)弓削島押領人の事、公方奉公小早川小泉方、海賊能島方、同山路方、此三人の内小泉専ら押領也」(1462年、寛正3年5月「東寺百合文書」)

彼らの警備システムは次のようなものでした。積荷の1割程度と言われる警固料を支払った船に対しては、「海賊」が同乗して安全な航路へ誘導するほか、他の「海賊」に襲われることもありませんでした。室町時代に日本を訪れた朝鮮の役人がそのように記録しています(下記補足2)。船に通行証のような旗(過所船旗)を立てることもありました。

(補足2)「瀬戸内海を東から西へ向かうなら東の海賊(大阪湾沿岸部)を一人船に乗せておけば西の海賊(芸予諸島周辺)が襲うことはない。西から東に向かう場合なら西の海賊を乗せておけばよい」(「老松堂日本行録」、①)

現存する過所船旗、山口県文書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一方、警固料を支払わない船に対しては「海賊」は略奪者になりました。因島村上家に残る記録(「武家万代記」)には、1551年(天文20年)に「関所破り」をした船を襲撃した話が載っています。将軍に献上する米を運ぶ船(「陶殿廻船」)が、海の関所・上関を(「切手」なしで)むりやり突破したため、その情報は「継船」で能島村上氏当主の・村上武吉にもたらされました。そこで能島・因島の海賊衆は、瀬戸内海の途中で待ち伏せ、関所破りの船が来たところで、鉄砲を撃ちかけ、軍船で乗り付け、焙烙玉を投げ入れ、制裁を加えた上で、荷を略奪したのです(④、下記補足3)。つまり、当時の多くの人たちは「海賊」の縄張りを通る者は、通行料を払うべきという感覚を持っていたのかもしれません。当時の旅行者にも、無理やり払わされた通行料を「礼銭」と記した記録があるそうです(⑦)。

戦う海賊衆、村上海賊ミュージアムにて展示

(補足3)大内・大友両家粮舟切り捕り候事
一.免符これ無き船、切り捕り候事、年々月々計り難き儀に御座候えども、それは記し難く候、天文廿年の冬、陶殿の廻船三十艘、米二千石余り積み、上方へ運送仕り候、上ノ関にて相究め申す所に、切手これ無く、宇賀嶋衆百人ばかり上乗り仕り候て推し通り申し候、古より嶋の作法にて通り難き由申し届け候へば、公方へ進上の米、其の上宇賀嶋上乗り仕り罷り通り候に、誰人にてとがめ申すと候て、要害へ鉄炮を打ち掛け通り申し候えども、多勢故通し申すの由、日の内に両嶋(能島・因島)へ継船申し来たり候、武慶(村上武吉)腹立て申され、切り捕り申すべき由申し談じ、(略)敵船瀬戸へ推し掛かり、少し帆をさげ申す時、陸より鉄炮を掛け申し候へば、楼に乗り申す者ども下へほろげ落ち申し、櫓をはやめ申し候時、能嶋貝を吹き立て、相図の旗を挙げ申し候えば、因ノ嶋も時の声にて推し掛かり申し候、敵船所柄、両島へも遠所なれば、加様は有間敷と油断仕り申し候故、以の外騒ぎ、俄に帆をさげ、能嶋方へ少し楫をむけ申し候を、因ノ嶋方弓・鉄炮にて射立て候えども、楼へ取り上り、鎗を取り申すものはこれ無く候て、どうかべ(胴壁)のかげにて弓・鉄炮を論じ申し候を、ヒシビシと乗り付け、ホウロクをなげ入れ申し候故、先船四・五艘造作もなく仕付け申し候、(略)左候て、粮舟共、残らず陸際へ引き上げ申し候も逃げ延び申すをば推し掛かり引き戻し、又は命を助け申し候はば船中の荷物残りなく進上申すべく候と、詫事申す船も御座候、昔より三島の作法に、警固の船を頼り通り過ぎ、関所を偽り申す事、罪過に行い申す法度にて候故、水夫共捕らえ候て、各額に焼印を当て候て赦し申し候、惣粮七千石切り捕り申し候、この運送は公方様へ進上の米にて御座候、しかしながら関所過書等もこれ無く、あまつさえ狼藉仕り候故、かくの如くに候事、(「武家万代記」)

能島城とは?

この城は、能島村上氏の拠点として、瀬戸内海を通る最短ルートの一つの途中、宮窪瀬戸にある周囲850m弱の能島に築かれました。近くの鯛崎島(周囲約250m)も橋でつながれて一体化していたと考えられています(④⑤)。発掘調査によれば、14世紀ころ築かれたとのことです(⑦)。

能島城+鯛崎島の想像図、村上海賊ミュージアムにて展示

もっとも、能島村上氏の本拠の館は、居住に適した伯方島か伊予大島にあったとも言われていて、その場合能島城は、周りと連携して機能する出城・番城の位置づけだったのでしょう(②)。また、能島から約1km離れた小島・見近島でも当時の集落跡や交易品が発掘されていて、物流基地だったのではないかとされています(④)。つまり、彼らは普段は海の民として交易や漁業も行っていたのです。

本拠地の候補地、伊予大島の幸賀屋敷跡
能島周辺のジオラマ、能島は真ん中の小島、見近島は情報の伯方・大島大橋の下、村上海賊ミュージアムにて展示
見近島から発掘された交易品、村上海賊ミュージアムにて展示

能島は整地されて曲輪が作られ、本丸には物見やぐら(井楼)があった可能性があります(⑤)。ここからは海峡の全体を見渡すことができ、大島にある山の上で焚かれた烽火や、大島の山あいを超えて四国までも見通すことができました(⑥)。二の丸・三の丸には住居や倉庫がありました。見張りのための兵が常駐していたのでしょう。海岸には荷上場(船だまり)、島の突端には出丸や鍛冶場などが設けられました。島の周り中には今でも、岩礁ピットと呼ばれる多数の柱穴が残っていて、桟橋や武者走りがあったと想定されています(④⑤)。最大のものは直径1メートルもあって、ここに柱を立てて出丸を作っていたのではないかという意見もあります(②)。一方で、島には水、食料、その他必要な資材は一切なかったため、他の島から運び込む必要がありました(⑥)。

能島城の模型、村上海賊ミュージアムにて展示
本丸からの眺め(北方向)
本丸からの眺め(南方向)
船だまりに残る岩礁ピット
直系1メートルの「謎の大穴」のレプリカ、村上海賊ミュージアムにて展示

能島城を含む、海賊の海城に必要な機能としては、
1.瀬戸を通る船を監視する
2.瀬戸を通る船に対して軍船を出動させる
3.軍船を島に係船する
ことが挙げられます(③)。
更に4番目として、城としての防御力も必要なのですが、能島城については島の側面に人工的な切岸が設けられた程度なのです。しかし瀬戸の潮流は最大10ノット前後(時速約18.5キロ)のスピードで乱流していて(⑤)、特に浅瀬では渦を巻き、不慣れな船なら制御不能に陥ってしまうほどです。海が堀の役割を果たしていたのです(②⑦)。ただし潮が緩いときもあるので、やはり防御力はあまり考慮されていなかったのではないかという指摘もあります(④)。また能島は、対岸の拠点・伊予大島から約300m沖合にあって、大声で連絡が取りあえる範囲内でした。緊急事態が発生したときにも、お互いに助け合う態勢が取りやすくなっていたのです(⑥)。

島の側面の切岸と思われる箇所
出丸の一つ「矢びつ」周辺の潮流
三の丸から見た伊予大島

村上武吉の時代

戦国時代も後半になると(16世紀中頃~)、村上氏の勢力はピークを迎えます。戦国大名の水軍として力を発揮したのです。能島村上氏では、村上武吉が当主のときでした。有名なところでは、まず1555年(天文24年)に毛利元就と陶晴賢が戦った厳島合戦が挙げられます。しかし確かな同時代史料が少なく、来島村上氏が毛利氏に味方した以外、能島・因島村上氏の動向ははっきりしないそうです(⑦)。(後の時代の史料には、2家の軍船が陶氏の軍船を次々に沈めたいう記事もあるそうですが、②)

村上武吉石像、村上海賊ミュージアムにて展示(photoAC)
毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

3つの村上氏はいつも同調していたわけではなく、武吉の能島家は独自の行動をとる傾向がありました。一時は、毛利氏と対立する九州の大友氏に接近し、ついには1571年(元亀2年)毛利及び因島・来島村上連動軍から攻撃を受けることになってしまいました(能島城合戦とも言われます)。中国地方では、尼子氏や浦上氏が毛利氏と戦っていて、大友氏と連携していました。能島村上氏は、その利害関係の中で自らの立場を判断したものと思われます。しかし結果的には和議を結び、以後は毛利水軍の一翼を担うようになりました(⑦)。

そして、毛利水軍としてもっとも有名な戦いが、1576年(天正4年)織田信長との第一次木津川口の戦いです。織田軍に包囲された石山本願寺に兵糧を運ぼうとしたところ、織田水軍と合戦になったのです。能島村上氏からは、武吉の嫡男・元吉が大将の一人として参加しています。織田軍は、櫓付の大船ほか約2、300艘の船で警固していました。毛利水軍は巧みな操船で敵船に近づき「ほうろく火矢」を投げ込み、ことごとく討ち果たしたそうです。(②⑦、下記補足4)

(補足4)海上は、ほうろく火矢などという物をこしらえ、御身方の船を取籠め、投げ入れ、投げ入れ、焼き崩し、多勢にかなわず、七五三兵衛、伊賀、伝内、野口、小畑、鎌太夫、鹿目介、この他歴々数輩討死候、西国の船は勝利を得、大坂へ兵粮入れ、西国人数打ち入るなり(「信長公記」)

村上元吉石像、村上海賊ミュージアムにて展示(photoAC)
第一次木津川口の戦い、村上海賊ミュージアムにて展示

後に豊臣秀吉による天下統一が進んでいるとき(1586年、天正14年)、宣教師のルイス・フロイスが堺から九州・臼杵まで船に乗ったとき、能島村上氏の領域を通行しました。彼は、恐らく武吉のことを指す「能島殿」を「日本最大の海賊」と呼んでいます(下記補足5)。そして彼ら一行も、能島殿から通行証を手渡されたのです(下記補足6)。

(補足5)我らは、ある島に到着した。その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や地所や船舶を有し、それらの船は絶えず(獲物を)襲っていた。この海賊は能島殿といい、強大な力を有していたので、他国の沿岸や海辺(の住民たち)は、(能島殿)によって破壊されることを恐れるあまり、彼に毎年、貢物を献上していた。(「フロイス日本史」)
(補足6)(能島殿)に対して、我らがその署名によって自由に通行できるよう、好意ある寛大な処置を求めた。(能島殿)は、その(派遣された)修道士に尊敬を払い、手厚くもてなし、彼らを自らの居城に招待した。そして己が好意をより高く売りつけようとして、いくらか躊躇しながら言った。「伴天連が、天下の主、関白殿の好意を得て赴かれるところ、某ごとき者の好意など必要ではござらぬ」と。だが修道士がしきりに懇願したので、彼は、怪しい船に出会ったときに見せるがよいとて、自分の紋章が入った絹の旗を署名を渡した。(同上)

ルイス・フロイス、能島を訪れる、村上海賊ミュージアムにて展示

「海賊」と能島城の最期

海賊衆を含む毛利水軍の大きな挫折となったのが、第一次から2年後の第二次木津川口の戦いです。再び本願寺を救援するために現れた毛利水軍に対し、織田水軍は、九鬼喜隆が指揮する6隻の大船に大鉄砲を積み、毛利方を駆逐しました。(下記補足7)なお、織田方の大船は「鉄の船」だった記録がありますが(下記補足8)、どこまで鉄板などを装備していたのかは不明です(⑦)。

(補足7)六層の大船に大鉄炮余多これあり、敵船を間近く寄せ付け、大将軍の舟と覚しきを大鉄炮を以て打ち崩し候へば、是れに恐れて、なかなか寄り付かず、数百艘を木津浦へ追い上せ、見物の者ども、九鬼右馬允手柄なりと感ぜぬはなかりけり(「信長公記」)
(補足8)堺浦へ近日伊勢より大船調い付き了ぬ、人数五千程乗る、横へ七間、竪へ十二、三間もこれ在り、鉄の船なり、てつはう(鉄砲)とをらぬ用意、事々敷儀なり、大坂へ取りより通路とむべき用と云々(「多聞院日記」天正6年7月20日条)

九鬼喜隆肖像画、毛常安寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして織田が毛利領に侵攻するようになると、海賊衆に対して、羽柴秀吉による調略の手が伸びてきます。それは、村上武吉・元吉父子も対象でした(下記補足9)。小早川隆景は21通もの書状を能島村上氏に送り、引き留め工作を行いました。結果、能島は残ったものの、来島村上氏が織田方に離反しました。毛利・能島方は、本拠地の来島城を攻撃、1583年(天正11年)に城は落城、当主の村上通総は秀吉の下に退去しました。これによって能島村上氏は最大の勢力圏を得たのです(東は備前児島・塩飽諸島。西は周防灘・豊後水道、②)

小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
村上通総肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

(補足9)秀吉は信長の命を受けて、能島来島から家臣をひとりずつ播州姫路の自陣にひそかに招いた。能島からは大野兵庫直政が出かけた。秀吉は、将来は四国を、当座は伊予十四郡を与えることを条件に武吉・元吉の忠節を求め、もし武吉・元吉が承知しないなら大野直政だけでも自軍に味方するように説得した。大野は、さっそく武吉・元吉に秀吉の条件を伝えたが、毛利家からも乃美宗勝を使者として懸命の説得があったので、結局秀吉とは手切れをし、毛利家に味方することになった。(「萩藩譜録」、現代語訳は⑦)

しかしこの状況は長続きしませんでした。天下人となった秀吉が、来島村上氏の帰還を要求してきたのです。四国攻めの後、伊予国の領主になった隆景の庇護の下、妥協が図られましたが、九州攻めの後(1588年、天正16年)、隆景が九州に転封になると、武吉・元吉も能島を離れることになりました。移動先は毛利領の周防屋代島と安芸能美島であったと考えられます(⑦)。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして追い打ちをかけたのが、秀吉の「海賊禁止令」です(下記補足10)。これは「海賊」行為を重ねてきびしく禁止している内容ですが、それを破っていたのは能島村上氏だったようなのです。禁止令に続けて、隆景宛て能島村上氏に対する秀吉の詰問状が発せられているからです。彼らは移った先でも「海賊」であり続けたのです。ついには九州に移住させられ、ここに「海賊」の時代は終わったのです。このときまでに能島城は廃城になったと思われます。能島村上氏の子孫は毛利氏長州藩の家臣(船手組頭)になりました。

(補足10)定
一.諸国海上において賊船の儀、堅く御停止成さるの処、今度備後・伊予両国の間伊津喜島にて、盗船仕るの族これある由聞こし食され、曲事に思し食す事、
一.国々浦々船頭・猟師、いづれも船つかひ候もの、其所の地頭・代官として速く相改め、向後、聊か以て海賊仕るまじき由誓紙申付け、連判をさせ、其国主取あつめ上申すべき事、
一.自今以後、給人・領主油断を致し、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ、曲事の在所知行以下、末代召上らるべき事、
 右条々堅く申付くべし、若し違背の族これあらば、忽ち罪科に処せらるべきもの也、
  天正十六年七月八日(秀吉朱印)(「早稲田大学所蔵文書」)
(補足11)能島が海賊行為をしているとの情報を聞いたが、それは言語道断の曲事である。本来なら当方で成敗するところであるが、小早川の持分であるから、隆景に処分を任せる。もし言い分があれば村上元吉を大坂に上らせよ。(天正16年9月8日付、小早川隆景宛て豊臣秀吉朱印状、現代語訳は⑦)

村上武吉の次男村上景親肖像画、長州藩の船手組頭になりました、村上海賊ミュージアム蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク・参考情報

①歴史群像41号「海の傭兵 戦国水軍/川戸貴史著」 学習研究社
②歴史群像74号「戦史検証 村上水軍興亡史/桐野作人著」学習研究社
③歴史群像179号「地形から読み解く瀬戸内の海賊城と近代要塞/坂井尚登著」ワン・パブリッシング
村上海賊ミュージアム
⑤能島城跡パンプレット
能島上陸&潮流クルーズ
⑦「瀬戸内の海賊 村上武吉の戦い/山内譲著」新潮選書
⑧「小早川隆景のすべて」新人物往来社編

「能島城 その2」に続きます。

41.駿府城 その1

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。

立地と歴史(家康が3回住んだ城)

イントロダクション

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。一回目のときは今川氏の城で、二回目に家康自身の城になったのですが、このときまでの城の姿は謎に満ちているのです。それに大御所時代に築かれた巨大な天守は、短期間で燃えてしまい、日本最大と言われる天守台も明治期に壊されてしまいました。しかし近年発掘調査が行われ、明らかになりつつあります。この記事では、家康が住んでいた3つの時代毎に、駿府城の歴史と謎をご説明したいと思います。家康後の歴史もあります。

駿府城になる徳川家康銅像

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

竹千代がいた今川氏の城

室町時代に駿河国守護だった今川氏が、いつ本拠地を駿府に置いたのかははっきりしません。しかし四代目の範政が、将軍・足利義教を「府中」に迎えているので、これ以降本拠であったことは確実です。駿府は、南を駿河湾、残り三方を山に囲まれていて、鎌倉のような地形になっています。要所には支城が築かれて、防御を固めていました。しかし、本拠にあった今川館(いまがわやかた)は、堀や土塁に囲まれてはいるものの、京都の公方亭のような華やかな建物だったと考えられています。今川氏の全盛期には、駿府は日本有数の平和で繁栄した街だったからです。

駿河国の範囲と駿府城の位置

城周辺の起伏地図

将軍亭「花の御所」、上杉本陶版「洛中洛外圖」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その今川館があった場所ははっきりとはわかっていません。現在残る本丸辺りだろうとも思えますが、城は後世かなり改変されてしまっているからです。発掘調査で発見された遺構や、文献資料などから、本丸・二の丸の範囲にあったことは確実なのですが、もっと絞れば、二の丸坤櫓辺りだろうとする意見があります。この辺が城内では標高が高く、富士山を望むような建物の配置になっていたと推定されるからです。この近くには、室町時代以来と思われる「四足御門」という名前の門が江戸時代までありました。

今川館の推定範囲(緑の線内)、駿府城東御門内にて展示

1549年(天文18年)、11代当主・今川義元の下、全盛期だった駿府城に、8歳の竹千代こと家康が、松平氏の人質としてやってきました。これまでこの「人質」時代は、家康の一生のなかで忍耐のときと捉えられてきましたが、実際には制限はあっても充実した生活を送っていたようです。有名な安倍川の石合戦のエピソードのほか、この頃から鷹狩りをしていました。そして今川氏からも配下の中で優遇され、元服後に義元から一字をもらって「元康」と名乗り、妻も義元の姪と言われる築山殿でした。更に「軍師」である太原雪斎から直接教育を受けました。家康は、今川氏の重臣となるよう期待されていたのでしょう。1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いの前には、今川氏の拠点、大高城に兵糧を運び入れる働きをしました。ところが、大将の義元が織田信長に討ち取られてしまったのです。家康はこれをきっかけに独立大名となります。

復元された「竹千代手習いの間」、駿府城巽櫓内にて展示

義元を失った今川氏は、凋落の道を辿ります。北は武田信玄、西は家康から圧迫を受け、1568年(永禄11年)ついに信玄は駿河侵攻を開始しました。後継ぎの今川氏真はそれに対峙しようとしますが、重臣の離反が相次ぎ、一戦も交えずに、西の掛川城に退去しました。駿府には武田軍が攻め込み、当時の駿府城・今川館も炎上しました。一つの時代が終わったことを象徴する出来事でした。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣大名・家康の城

織田信長が本能寺の変で倒れた後、家康は5か国を領有する大大名になっていました。当時の本拠地は浜松城でした。1584年(天正12年)には、天下人となる羽柴秀吉に小牧・長久手の戦いで対峙しました。その翌年(1585年、天正13年)、家康は駿府に本拠地を移しました。これは拡大した領国範囲に対応したものと言えますが、秀吉との再度の戦いに備えたものとも考えられます。その範囲は現在の本丸・二の丸程度でした。家臣の松平家忠の日記には、その築城過程が記録されています。築城は天正13年7月に始まり、翌年12月に家康が入城しました(下記補足1)。このときの城の姿は、それまでの浜松城などと同様、土造りの城であったと想定されています。家康は、本格的な石垣を築く技術や職人集団を持っていなかったのです。1587年、天正15年2月に城は一旦完成しました(「家忠日記」「当代記」)。

駿府城の航空写真(国土地理院)、二の丸ライン(赤線)を付加
家康時代の浜松城の想像図、現地説明パネルより

(補足1)「駿河府中普請」のため、家忠が出張(「家忠日記」天正十三年八月十四日付)「御かまへ二のくるわ堀(二の丸の堀)普請候」(同天正十五年二月五日付)「殿様今日駿へ御座候由候」(同天正十五年十二月四日付)

家忠日記(複製)、駿府城東御門内に展示

ところが、それと同時に新たな工事の準備が始まりました。石垣の工事でした(下記補足2)。その直前、1586年、天正14年10月、家康が上洛し秀吉に臣従していました。それを境に始まったのです。「石垣の城」を築かなかった家康に、豊臣政権が関与したことが記録上からも伺えます(下記補足3)。更には、「てんしゅ(天守)の材木を準備したという記録も見られます(下記補足4)。しかし記録からでは、石垣や天守の規模はわかりません。

(補足2)「城普請出来候、石とり候(「家忠日記」天正十七年二月付)」「来一日より駿河御城御普請候由、酒左衛門督(酒井忠次)より申来候」(同天正十五年九月十七日付)
(補足3)「てんしゅの才木てつたい普請あたり候」(「家忠日記」天正十六年五月十二日付)
(補足4)「駿河府中の石垣の普請あり、去る去る年より、事始めあると雖も、上方不快の間、指て事行ず。いま、秀吉公入魂せしめたまい、普請宜々、出来の間、浜松より北の方をも引越し給う。」(「当代記」天正十五年丁亥二月付)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

2016年、大御所時代の天守台の発掘調査が行われましたが、その下から天正時代の当時としては巨大な天守台と、大量の廃棄された金箔瓦が発見されました。天守台の大きさは秀吉の大坂城をもしのぎ、天下人クラスのものでした。そのため、当初は家康が築いたものとはされず、家康が関東に移った後駿府に来た、中村一氏のときに築かれたのではないかとされました。一氏は秀吉の家臣(当時は秀次家老)だったので、秀吉の肩入れで築かれたということです。関東周辺には、秀吉の家臣による総石垣・金箔瓦の天守がいくつも築かれ、家康包囲網ともいうべき城郭ネットワークが構成されました。駿府城もその一つと考えられたのです。見つかった金箔瓦は一か所に廃棄されていて、家康が再度城を築くときに意図的に壊されたとも言えるのです。

発掘された天正期の天守台
出土した金箔瓦、駿府城東御門内にて展示
中村一氏像、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところがまた事態は一変します。2019年に天守台に付随する小天守台が発見されたのです。これは家康家臣の記録の一つ「小傳主(小天守)を築く」と一致するということになったのです(下記補足5)。にわかにこの巨大天守は家康が築いたという可能性が出てきたのです。学者の中には、この時期に家康が独力で石垣・天守を築く能力を身に着けたと考える人もいます。しかし一方で、一連の石垣・天守工事は小田原合戦準備のため短期間で終わっていて、その間にこれだけのものを築けたのかという疑問もあります。また、家康が関東に移った当初の江戸城はとても質素で、豪華な石垣や天守は関ヶ原合戦の後と考えられているので、それとの整合性はどうなのでしょうか。それから見つかった金箔瓦は、織田系・豊臣系両方の特徴を示していて、独自性が感じられます。このことは家康築城説に有利なのかもしれません。発掘調査は2020年に終了しましたが、今後の研究成果が期待されます。

(補足5)「小傳主てつたい普請當候」(「家忠日記」天正十七年二月十一日付)

駿府城の金箔瓦(複製)、左側が豊臣系、右側が織田系の特徴をもつ、駿府城東御門内にて展示

天下人・大御所の城

関ヶ原合戦の勝利、征夷大将軍就任により天下人となった家康は、1605年(慶長10年)早くも将軍職を後継ぎの秀忠に譲りました。その隠居城となったのが駿府城です。馴染みのある地で余生を楽しむという感じも受けますが、実際には自由な立場で天下の政権運営を行うためでした。家康は将軍時代、ほとんど上方の伏見城にいたので、江戸との中間点で、両方目配せができる場所を選んだのでしょう。また、大坂城の豊臣方が西国大名とともに江戸を攻める場合、防衛線にもなりうる拠点でした。1607年(慶長12年)、天下普請により新たな築城が始まりました。その範囲は、現在の三の丸が追加される形と考えられますが、中身は大改修となりました。三の丸のラインが二の丸以内とずれているのは、城下から見て、富士山と天守が同時に視界に入る仕掛けと言われます。慶長12年中にほぼ完成していましたが、12月22日、本丸・天守が全焼してしまいました。これは奥女中の火の不始末が原因とされますが、火事は度々起きていて、豊臣方の策謀ではないかという説もあります。再建工事が直ちに開始され、翌1608年、慶長13年8月14日に家康が入城しています。

駿府城の航空写真(国土地理院)、三の丸ライン(緑線)を付加
石垣工事のジオラマ、駿府城東御門内にて展示

城の中で際立つのは、まず天守台です。2016年からの発掘調査の結果、一番下の部分(基底部)で東西約63m、南北約69m、という日本最大規模であったことがわかりました。残っている記録(陸軍実測図)によると、最も高い部分(天端)でも東西約48m、南北約50mで、最盛期の江戸城・大坂城をしのぐものでした。また、天守は天守台一杯に築かれたのではなく、周りを櫓と渡櫓が囲み、中心部に天守が立つという珍しいスタイルでした(環立式)。天守の建物は6重7階で、高さは約33mありました。屋根には貴重な銅瓦(+金属瓦)が用いられていました(家康時代の江戸城も銅瓦を使用)。ただしどんな外観だったかは、詳細な設計図がなく、短期間で焼失したため(1610年完成、1635年焼失)、よくわかっていません。いくつか絵図が残されていますが、異なった描き方をされています。今後の研究の進展が待たれます。

発掘された慶長期の天守台
天守台模型、駿府城東御門内にて展示
駿府城天守の模型、発掘情報館「きゃっしる」にて展示

城全体ですが、平城であっても三重の堀で囲まれ、戦いに備えていました。西側の方が標高が高く攻められやすいため、防御が厳重でした。三の丸西側には門がなく、二の丸西側の清水御門は上げ下ろしができる跳ね橋だったようです。坤櫓のような櫓も厳重に守りを固めていました。他の方角にある門も、大鉄砲等も破壊されにくい、内枡形構造となっていました。そのうちの一つ、東御門が現在復元されています。その他、城内を仕切るための仕切石垣も採用されていました。駿府城独特のものとしては、本丸堀と二の丸堀をつなぐ水路が作られ、堀の水位を保てるようになっていました。また、天守台には、全国的に珍しい井戸が設けられ、籠城にも備えていました。

駿府城模型、駿府城東御門内にて展示
復元された坤櫓
復元された東御門
二の丸水路

一方で大御所・家康がいた駿府城は、日本の政治の中心地の一つになりました。家康が生活し、政務を執ったのは本丸御殿です。本田正純などが側近として仕え、江戸の秀忠と分担して二元政治を行っていました。そのうち軍事・外交に関しては家康が取り仕切っていたため、駿府には、諸大名だけでなく、外国使節も訪れ、日本の首都機能の一翼を担うような都市になりました。1609年(慶長14年)からは、家康十男・頼宜が駿府城主になり、家康と一緒に過ごしました。1614年(慶長19年)、大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件が起こり、家康が、弁明のために駿府城に来た片桐且元には面会せず、後から来た大蔵卿には面会することで、豊臣方の分断を図ったというエピソードは有名です。家康は、大坂冬・夏の陣とも駿府城から出陣し、豊臣氏を滅ぼした翌年(1616年、元和2年)に亡くなった場所も駿府城でした。

家康の洋時計(複製)、発掘情報館「きゃっしる」にて展示
徳川頼宜肖像画、和歌山県立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

徳川頼宜は、1619年(元和5年)に和歌山に移っていきました。その後、秀忠の三男・忠長が駿府城主になりますが(1624年、寛永元年)、兄の3代将軍・家光により改易されました(1632年、寛永9年)。以降は幕府直轄になり、城代が置かれました。城外には城を警備する加番も置かれました。幕府の「聖地」を守るお役目です。1634年(寛永11年)には家光の宿泊所として使われましたが、翌年の火災で天守・御殿・櫓などが全焼、天守は再建されませんでした。その後も地震などで度々被害があり、将軍の上洛もなくなったことで、本丸御殿などの規模は縮小していきました。

加番の一つ、三加番の屋敷跡

そして幕末の動乱を迎えたとき、駿府城は再び注目を浴びました。鳥羽・伏見の戦いの後、新政府の東征軍が組織され、江戸に向かって行軍してきたのです。そのときは江戸の「最後の将軍」徳川慶喜は恭順の方針であり、名古屋城を擁する尾張藩も新政府に付いていました。最期の駿府城代・本多正納(まさもり)は城を開け渡ざるをえませんでした。1868年、慶応4年3月、新政府の拠点となった駿府に、慶喜・勝海舟の使者として山岡鉄舟がやってきました。彼は、新政府参謀の西郷隆盛と面会し、江戸開城の条件交渉を行いました。それが有名な勝・西郷会見につながったのです。江戸開城が成ると、慶喜を継いだ徳川家達(いえさと)が駿府藩主として駿府城に入城しました。家康の子孫がまた戻ってきたのです(廃藩置県後は東京に移住)。慶喜も水戸謹慎後は、駿府改め静岡に移住し、1897年(明治30年)まで暮らしました。

西郷・山岡会見の史跡碑
明治初期の徳川家達

明治時代になると、城は陸軍が管轄していましたが、建物は売却され、城内は荒れ果てていきました。三の丸の部分は市街地化しました。1889年(明治22年)になってようやく「廃城」扱いになり静岡市に払下げされましたが、その使い道は陸軍の誘致でした。1896年(明治29年)にはついに天守台が崩され、本丸堀が埋められました。二の丸以内が歩兵第34連隊の敷地になったのです。戦後は都市公園「駿府公園」として再出発しますが、堀の埋め立てや石垣の破壊が続いていました。1975年(昭和50年)から発掘調査が行われ、それから史跡として注目されるようになります。その到達点として、1996年(平成8年)東御門・巽櫓復元、2014年(平成26年)の坤櫓の復元があります。公園の名前も2012年(平成24年)に「駿府城公園」に変更されています。

駿府城の復元された巽櫓

「駿府城 その2」に続きます。

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