78.丸亀城 歴史編

丸亀城といえば、丸ごと石垣に覆われた山の上に、現存12天守の一つが乗っているといったイメージがあると思います。実際、標高66mの亀山に、4段の石垣があわせて約60mの高さに積まれています。「高さ日本一の石垣」「石垣の名城」と称されています。

イントロダクション

丸亀城といえば、丸ごと石垣に覆われた山の上に、現存12天守の一つが乗っているといったイメージがあると思います。実際、標高66mの亀山に、4段の石垣があわせて約60mの高さに積まれています。「高さ日本一の石垣」「石垣の名城」と称されています。(段落全体下記①を参考、以下番号のみ記載)

丸亀城の高石垣と天守

最初にこの城を本格的に築いたのは、豊臣大名の生駒氏ですが、その当時の痕跡はほとんど残っていないのです。現在目にする高石垣は、生駒氏の後に城主になった山崎家治が築き始めたものです。山崎家治は、大大名ではなく、全国的にはあまり知られていませんが、統治能力に優れ、「築城の名手」でもあったのです。そんな隠れた功労者の足跡を追ってみる必要がありそうです。

その後、京極氏が丸亀藩を受け継ぎ、城を完成させます。そして、現代まで高石垣と天守などは残されました。2018年、豪雨・台風の影響により、南西側の三の丸・帯曲輪の石垣が大規模に崩落しました。そのこと自体は大変痛ましいことで、」現在(2026年10月)も復旧に向けて工事が進められています。しかしその中で、高石垣に関する新たな事実も判明したのです。今回は、丸亀城の歴史とともに、高石垣の「ひみつ」についても迫ってみたいと思います。

石垣復旧工事現場

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(丸亀城、日本一の石垣のひみつ)

生駒氏による丸亀築城

丸亀城がある讃岐平野(丸亀平野)は、ほとんど起伏がない平野ですが、ところどころ孤立した山地や丘陵地があります。これらは「おむすび山」と呼ばれ、太古の火山活動と浸食により形作られました。「讃岐富士」と呼ばれる飯野山(いいのやま、標高422m)がその代表です。城が築かれた亀山も同じようなプロセスでできたと考えられますが、標高はずっと低かったので、かえって築城の適地とされたのかもしれません、(②③)

城周辺の起伏地図

丸岡城から見える「讃岐富士」こと飯野山

丸亀城の前身は、室町・戦国期に細川氏の家臣・奈良氏が支城として築いたと言われています。。しかし本格的な築城は、1587年(天正15年)に生駒親正が讃岐国の大名になってからです。1597年(慶長2年)から5年かけて、親正とその子・一正が築いたのが丸亀城です。親正は本城・高松城、一正が支城・丸亀城に入りました。1602年(慶長7年)に一正が跡を継いで高松城に移りました。丸亀城には子の正俊が入ったと考えられます(一時城代が置かれた)。1610年(慶長15年)に正俊が跡を継ぎ、高松城に移りますが、その代に丸亀から商人を移して、高松の「丸亀町(まるがめまち)」を作ったとされています。(段落全体②④)

城の位置

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
生駒一正肖像画、龍源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

生駒時代の丸亀城については、絵図が残されています(「諸国居城図 讃州丸亀」、丸亀市立資料館展示)。それによると、山上には4段の曲輪があり、天守は現在の本丸北端ではなく、真ん中の方にありました。また、現在はないものとして、山上と麓をつなぐ2つの登り石垣が設けられています。これは、生駒氏が参陣した朝鮮侵攻のときに現地で築かれた倭城の縄張りから取り入れたのかもしれません。(②④⑤)

「諸国居城図 讃州丸亀」(上が北側)、丸亀市立資料館展示

残念ながら生駒期の遺構はほとんど残っていません。本丸で見つかった埋没石垣のほか、東南山麓に残っている野面積みの古風な石垣は、元は生駒時代に築かれたと考えられるものの、多く(基底部分以外)は江戸時代以降に積み直されたものとのことです。(②④)

東南山麓の野面積み石垣

生駒氏3代目の正俊は大坂の陣に出陣しますが、豊臣氏滅亡後の一国一城令により、丸亀城は一旦廃城になったと考えられます。1627年(寛永4年)の幕府隠密の記録(「讃岐伊予土佐阿波探索書」)に丸亀城の記述はなく、1633年(寛永10年)頃の讃岐国絵図に丸亀城は描かれていません。(以上②④⑤⑮)やがて4代目の高俊のとき、藩内での内部対立「生駒騒動」が起こり、生駒氏は改易となってしまいました(1640年、寛永17年)。丸亀城は廃城になったまま、次の主を迎えることになります。

隠れた「築城の名手」山崎家治

山崎氏は近江出身で、家治の祖父(片家)の代に豊臣秀吉によって大名に取り立てられました。父の家盛は因幡国若桜藩主になり、家治はその2代目でした。父を継いだ直後の大坂の陣で戦功を上げ、備中国成羽(なりわ)藩に加増転封になりました(1617年、元和3年、3→3.5万石)。そこから彼は幕府に忠勤を尽し、大いに評価されることになるのです(下記)。藩内においても新田開発を進めました。
・1619年:備後三原城城番(福島氏改易時)
・1620~27年:大坂城石垣修築(現在も天守入口右下石垣に刻印あり、⑮)
・1634年:伊予松山城城番(蒲生氏改易時)
・1636年:江戸城外堀石垣普請
そのとき築かれた江戸城外堀の石垣は、小石川後楽園に移設されていて、山崎家の刻印とともに見学することができます。
(段落全体⑥⑯)

小石川後楽園西側築地塀
山崎家の刻印

島原の乱後には、幕府から天草地方の復興を託され、肥後富岡藩に転封になりました(1638年、寛永15年、4.2万石)。実際、領地はかなり荒廃していました(総高の4分の1近く、そのため幕府が補償として銀三百貫目を家治に与えている)。家治は富岡城の再建、城下町の整備(海の埋立、町割り)を行いました。しかし、農民の逃亡や流行病が発生、奉公人も集まらず、かなり苦労したようです。(段落全体⑰)

富岡城(photoACより)

1641年(寛永18年)家治は、西讃岐5万3千石の領主になりました(丸亀藩)。当時そこには城はなかったので、丸亀城を再興することにしました。幕府は家治に対し、銀300貫を提供し、参勤交代も免除、城の構造は幕府の指図に従うよう指示しました。(下記補足1、以上②④⑦)こうして現在までに残る「石垣の名城」の建設が始まったのです。この時期の大規模な築城は異例で、山崎氏は財力のある大大名でもなく、幕府のバックアップによるものでした(⑧)。また、石垣を築いたのは、羽坂重三郎と伝えられています(⑮)。このような築城の狙いとしては、瀬戸内海の交通の監視のほか、島原の乱後のキリシタン蜂起に備えるものであったとも言われます(⑨)。家治は城下町の拡大、新田開発も進めました(⑮)。

(補足1)
猶以差上候木形絵図之外
城普請無用候 以上

丸亀城取立候ニ付而(丸亀城取立候について、)
銀三百貫目被下之候(銀三百貫目これを下され候、) 
則大坂御金奉行衆江(すなわち大坂御金奉行衆え、)
添状相調越候間可被(添状相調え越候間受け取らるべく候、)
請取候然者差当普請(然れば差し当たり普請の外は、)
之外者以連々可申付之旨(連々以て申しつくべきの旨)
被仰出候因茲当年(仰せいだされ候、因って当年)
参勤之儀被成御赦置候間(参勤の儀は御赦し置きなされ候間、)
可被得其意候 恐々謹言(其意を得られ可く候、恐々謹言)
 二月六日
     阿部對馬守 重次(花押)
     阿部豊後守 忠秋(花押)
     松平伊豆守 信綱(花押)
山崎甲斐守殿
(寛永20年2月6日 幕府老中連署状、山崎家文書)

山崎家治宛て幕府老中連署状、丸亀市立資料館にて展示

藩が1645年(正保2年)に幕府に提出した絵図(「正保城絵図」)によると、既に現在の縄張と似たものになっています。天守は本丸北側にあり、これが現存する天守につながると考えられます。違っている所としては、登り石垣がまだあります(一例)。(以上④⑦)それからこの時点では工事はまだまだ進行中で、例えば、三の丸南西の坤櫓の石垣は描かれていません。

「讃岐国丸亀絵図」(「正保城絵図」、上が北側)、出展:国立公文書館
上記絵図の三の丸南西、坤櫓部分

その石垣は、その4年後(1649年、慶安2年)に家治の跡継ぎ・山崎俊家に対して修築許可が出ているので、その間に築いたものが破損していたことがわかります(下記補足2)。1657年(明暦3年)頃の山崎時代の丸亀城郭図を見ると、その櫓と石垣は完成しています。(以上⑤➉)

(補足2)
 以上
圓亀之城三丸坤之(丸亀の城の三の丸坤の)
角石垣破損付而(角の石垣破損について、)
同所之櫓毀之石垣(同所の櫓の壊れた石垣の)
築直之櫓立之事(築き直し、櫓立てること、)
幷親父甲斐守代(並びに親甲斐守家治が)
伺 上意候普請之(上意を伺ってあった)
所々之内石垣櫓門(所々の普請の内、石垣・櫓門)
多門山下之屋敷(・多門・山下の屋敷構えの)
構之石垣等同東南(石垣等、同じく東南の)
之方堀浚之事(堀浚えの事、)
絵図之通得其意候(絵図のとおり其意を得候、)
最前被守奉書之(もっとも前の奉書の趣を守られ、)
旨普請以連々(普請連々以て)
可被申付候恐々(申し付けられ可く候、)
謹言

慶安二丑
正月廿三日
  阿部豊後守 忠秋(花押)
  阿部對馬守 重次(花押)
  松平伊豆守 信綱(花押)
山崎志摩守殿
(慶安2年正月23日 幕府老中連署状、山崎家文書)

山崎俊家宛て幕府老中連署状、丸亀市立資料館にて展示
山崎時代の丸亀城郭図(上が北側)、丸亀市立資料館展示
上記絵図の三の丸南西、坤櫓部分

その間、初代の家治(1648年、慶安元年)2代目の俊家(1651年、慶安5年)が亡くなり、その後を3歳で継いだ治頼まで8歳で亡くなっていました(1657年、明暦3年)。築城工事はずっと続いていたものの、城主の山崎氏が世継ぎがないことで改易になってしまったのです。(段落全体⑦)

京極氏による城の完成

1658年(万治元年)、播磨国龍野から京極高和が6万(余)石で丸亀に入りました。高和は幕府の許可を得て改修を続け(補足3)、1660年(万治3年)に天守を完成させたとされています。天守は現在は単独で立っていますが、当時は渡櫓によって他の櫓(姫櫓など)と連結されていました。(段落全体②⑤)

(補足3)
円亀城、此の以前、山崎甲斐守木形絵図を以て、先御代(家光)の上意を得、普請申し付け候処、山上の櫓六か所、山下の櫓四か所は、櫓台の石垣これを築き、櫓建の事、山上東の方の石垣、山下居屋敷廻りの石垣、同三か所の虎口石垣築の事、其外多門塀立の事、未首尾につき普請これ有り度きの由承り届け候、次に、山下の塀艮より坤迄の間埋候、同惣構の堀北方の外三方埋候に付て、浚えの事、絵図書付の通り、其意を得候、連々以て普請申し付らる可く候、恐々謹言
 万治三子三月二十六日
  稲葉美濃守 (花押)
  阿部豊後守 (花押)
  松平伊豆守 (花押)
  酒井雅樂頭 (花押)
京極刑部少輔殿
(慶安3年3月26日 幕府老中連署状、丸亀市立資料館蔵)

京極高知肖像画、丸亀市立資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現存天守
天守模型(右側は姫櫓)、中津万象園にて展示

2代目の高豊のときの1670年(寛文10年)城の大手を北に定め、門や枡形を整備しました。この大手門は現存しています。この時代に城と城下町がほぼ完成しました。城は、最高所に本丸、東に一段下がったところに二の丸があり、石垣上の建物が連結していました。更に三の丸・帯曲輪が取り巻き、それらを支える石垣は3~4段に巡っていました。京極氏の統治は幕末まで7代続きます。(段落全体②⑤)

大手門
丸亀城木図写真、丸亀市立資料館にて展示

藩主の居館は京極氏時代に山麓に建てられましたが(⑮)、高豊は1688年(貞享4年)藩主別邸と庭園を造りました。これが「中津万象園」です。京極氏の出身地である近江の琵琶湖をかたどった池があり、近江八景になぞらえた8つの島を配置しています。1500本以上の老松も見事です。(以上⑦)

中津万象園

城下町は生駒・山崎・京極時代を通じて拡張しました。江戸中期から流行した金毘羅信仰により、丸亀は金刀比羅宮に向かう参詣客の寄港地として大変賑わいました。参詣客の増加に伴い港も整備されました。新しい船着き場として、1806年(文化3年)に福島湛甫が、1833年(天保4年)に新堀湛甫(しんぼりたんぽ)が構築されました。このうち新堀湛甫は現在も港として使われていて、照明・目印のために建てられた3基の青銅製燈籠のうち1基が残っています(2基は戦中に回収)。(以上⑦⑮)

金毘羅講燈籠

1859年、安政6年9月、長岡藩士の河井継之助は、金刀比羅宮へ向かう途中、丸亀に立ち寄り、その様子を記しています。(下記補足4)

(補足4)少し寝ると思いしに、はや丸亀へ着く。暁七ツ前の由。晴故に、月星照りかがやきて、風景妙なり。十里の海上、早きには感心のものなり。丸亀の船宿へ入りけれども、出来合い飯もなき様子故、支度を直して直ちに出懸ける。
廿日 晴 早き故、月はあれども、しかと湊の様子も分からず、城を左にして金毘羅さして行ける、丸亀は高の割より、城市共に宜敷様に思わる。此の辺は相応に土地も開け、左に讃岐富士、小さき山なれども形は好、先に見る江州のぬかで山に能く似たる山なり。其の外、形の好き小山数々あり。砂糖の草、往来に植えけるを見るに、黍に似たりと聞けれども、すすきの穂なきものの様なり。莖を取りて拵える由。(中略)金毘羅の手前五六町此の方にて、日漸く出。新たに見る所故か、風景面白く覚ゆ。さすがの街道、路幅も広く、所々に堂ありて、茶をわかす処あり、其の前に必ず石籠あり。(河井継之助旅日記「塵壺」、現地河井継之助顕彰碑より)

新堀湛甫にある河井継之助顕彰碑
丸亀市内の金毘羅街道沿いに残る石燈籠

その後(明らかになった高石垣の真実)

明治維新後、城は陸軍の管轄となり(1872年、明治6年~)、建物は取り壊されていきました。それでも、天守・大手門などが地元の要望により残されました。1919年(大正8年)には山上部が亀山公園となり公開されました。戦後は、公園整備が進み、天守・大手門が国の重要文化財に、内堀以内が国の史跡に指定されています。(段落全体②⑤⑧)

2018年(平成30年)7月から10月にかけて、大雨や台風の影響により、丸亀城南西部の帯曲輪・三の丸石垣が崩落しました。それまでも変形が激しく、解体修理を行うことになっていた箇所でした。もともと谷地形であり、築城当初から雨水が集まりやすい場所で、クラック(亀裂)が発生していました。豪雨により水圧が上がり、帯曲輪がまず崩落、押さえを失った三の丸も崩落したのです。(②⑪)

崩落前の写真、現地説明パネルより
崩落後の写真、現地説明パネルより

丸亀市は更なる崩落を防ぐため、応急対策工事(押え盛土、斜面安定、石垣撤去、表面排水)を行い、グランドアンカーなどで斜面を固定させながら、1万2千個近く(11,746個)の石垣の石を回収しました(解体含む、以上⑪)。これらはそのまま使える石、別の場所に使う「転用石材」に分類され、「新石材」とともに石垣復旧工事に使われます。(以上⑫)

解体回収された隅石
出番を待つ新石材

その工事のための準備・調査の中で見つかったのが埋没石垣です。その一部(「埋没石垣1」)は、山崎氏時代に一旦築いた後に崩れた石垣である可能性が高いとのことです。また、石垣を安定させる「栗端止(ぐりはと)」「敷金(しきがね)」「胴木(どうぎ)」といった仕組みや部材が使われていることがわかりました。(以上⑤➉)胴木は通常湿潤な環境で使われるので、当時から水が集まる場所と認識されていたと考えられます。江戸時代から苦労していたのでしょう。

埋没石垣1

そして何よりも大きな発見は、帯曲輪石垣の内側にある三の丸坤櫓跡の石垣の高さがわかったことです。それまで、三の丸の石垣は帯曲輪石垣の天辺辺りから立ち上がり、17mくらいの高さだと想定されていました。それが今回、石垣取外しの結果、31mもの高さと判明したのです。これは単独の石垣としては、日本で2番目の高さになります。(下記補足4、以上⑬)丸亀城を再興した山崎家治は、1位の大坂城の石垣工事にも参加しています。また「築城の名手」として家治より有名な藤堂高虎は、3位の伊賀上野城を築き、大坂城では縄張り・石垣工事に関わっています。両者とも「築城の名手」というにふさわしいのではないでしょうか。

(補足4)近世城郭の単独石垣高ランキング
・1位:徳川大坂城本丸東側 32m
・2位:丸亀城三の丸坤櫓台 31m
・3位:伊賀上野城本丸東側 30m

三の丸坤櫓石垣の高さがわかる展示、丸亀城石垣崩落復旧整備事業PR館にて展示

これまで全国で実施された石垣修理工事では、30mを超える石垣を修復した実績はなく、未知の経験を含む復旧工事になります(⑬)。2026年(令和8年)現在、三の丸石垣の基礎工事が行われ、年度中に帯曲輪・三の丸石垣の途中(標高それぞれ22m、26m)まで積み上げる予定です。(⑭)復旧工事の完了は2030年度末(2031年3月)とのことです。(①)

復旧工事現場

リンク、参考情報

① 丸亀城、丸亀市公式ホームページ
②「史跡丸亀城跡保存活用計画」令和3年3月 丸亀市
③ おむすび山の秘密、ビジネス香川
④「四国の名城を歩く 徳島・香川編」吉川弘文館
⑤ 丸亀市立資料館展示
⑥ Wikipedia
⑦「いにしえのときを刻む丸亀城」丸亀市観光協会
⑧ 丸亀城石垣崩落復旧整備事業PR館での説明
⑨「幕府に遠慮しながらも大きく見せたい「丸亀城」天守の涙ぐましさ──世界とつながっている日本の城 第12回」 
➉「丸亀城管理室だより(No.5・11・13)」丸亀城文化財保存活用課
⑪「丸亀城管理室だより(No.12・17・19)」丸亀城文化財保存活用課
⑫ 丸亀城石垣復旧工事パンフレット
⑬「丸亀城管理室だより(No.15)」丸亀城文化財保存活用課
⑭「丸亀城管理室だより(No.24)」丸亀城文化財保存活用課
⑮「新編 丸亀市史」
⑯「成羽町史」
⑰「苓北町史」

「丸亀城 現地編」に続きます。

148.浜松城 歴史編

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。

イントロダクション

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。(以上下記①を参考、以下番号のみ記載)

浜松城にある徳川家康像

しかし、家康在城時代には数々の困難に見舞われました。三方原合戦、妻と子の粛清、本能寺の変、小牧・長久手の戦いなどです。このうち、浜松城と関連し、家康の生涯唯一の大敗と言われているのが「三方原合戦」です。この戦いは、家康が城を築く以前からの武田信玄との関係が伏線になっています。よって、浜松城と三方原合戦をメインストーリーとして展開していきたいと思います。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また現在残っている古風な石垣と、元あった天守は、家康と江戸時代の大名たちの間に城主になった堀尾吉晴が築いたとされています。最後の方では、その吉晴と江戸時代の大名たちの時代も触れてみます。

再建天守と現存石垣

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立地と歴史(浜松城と三方原合戦)

家康、遠江国に進出

1560年(永禄3年)桶狭間合戦が起こり、今川義元が織田信長に討ち取られると、今川方部将だった家康は岡崎城に入りました。これをもって家康自立と思ってしまいますが、実はこれは今川当主・氏真の許可・指示によるものだったのです。事実、家康は翌年(1561年)まで織田方と戦っています。しかし家康は苦戦し、氏真からの援軍もなかった(当時上杉謙信に対抗する北条氏の方に援軍を送っていた)ため、織田信長との同盟に踏み切ったのです。氏真は三河侵攻を計画しますが、間の遠江国で「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる反乱が起こり、それどころではなくなりました(三河侵攻のために課税したのに実施しなかったことが一因と言われます)。一方、家康のお膝元でも「三河一向一揆」が起こります。しかし1566年(永禄9年)までに一揆を鎮圧し、三河国を統一しました(永禄9年12月29日、徳川三河守家康)。(段落全体②)

「集外三十六歌仙」の今川氏真  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1568年(永禄11年)、前年に美濃を平定した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛しようとしていました。彼はそのことについて、上杉・武田・朝倉の了解を取り付けていました。問題は、留守中に今川に背後を衝かれる可能性です。そのため、信長は武田の今川攻めを認めたのです。その一翼を担ったのが家康です。徳川と武田は、今川攻めに関わる同盟を結びました。その内容は、大井川を境に駿河を武田、遠江を徳川が領有するというものでした(下記補足1)。(段落全体②)

(補足1)扨(さて)又、甲斐ノ武田之信玄ト仰合て、家康ハ遠江ヲ河切に取給え、我ハ駿河ヲ取ント仰合て、両国へ出給ふ(「三河物語」永禄十一年・第二中)
さて、甲斐の国の武田信玄を連絡をとって「家康は遠江を大井川までとれ、わたしは駿河をとろう」と申しあわせて、駿河・遠江両国へ出陣した(現代語訳③)

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

両軍は一斉に今川領に侵攻しました。武田軍は駿河に侵攻、今川氏真は掛川(懸川)城に退去しました。しかし今川と同盟を維持していた北条氏の反撃を受けます(一旦駿河から撤退)。一方、徳川軍の遠江侵攻は順調で、二俣城・引間(曳馬)城・高天神城などを開城させ、氏真が籠る掛川城を包囲しました。実は武田は、徳川との境界線を遠江の天竜川と考えていたらしく、遠江にも出兵してきましたが、家康が信玄に抗議し、撤兵させました。(下記補足2)家康が強気に出られる状況だったのです。(段落全体③)

(補足2)家康は使いをやった。「大井川を境に、駿河を信玄の領分、大井川を境に遠江が(家康の)領分と定まっているのに、秋山が出陣してきたのは横車を押すことになる。すぐに引きかえされよ」とおっしゃった。(「三河物語」現代語訳③)

現在の掛川城

1569年、永禄12年5月、家康は今川・北条と和睦し、掛川城も開城となり、今川氏真は北条氏に引き渡されました。ここに遠江国はほぼ家康の支配下に入りました。しかしこの和睦は武田との盟約違反でした。翌年(1570年、元亀元年)、家康は武田信玄と断交、信玄の宿敵・上杉謙信と同盟を結びました。信玄は激怒、ところが何もできませんでした。ここで家康と開戦すれば、織田・上杉・北条から一斉に攻められる可能性があったからです。信玄のこの憤懣は三方原合戦の伏線になっていきます。

浜松築城

遠江を支配することになった家康は、支配を安定させ、武田の脅威に備えるため、国府があった見付に居城を移すことにし、築城工事を始めました(城之崎城)。しかし途中で中止しました。仮に信玄と戦うことになった場合、西側の天竜川を背後にする「背水の陣」になってしまうためと言われます。町としての発展や、本国・三河や織田信長との連携も考慮したのでしょう。また、信玄が家康が見付に本拠を置くことを有利とみてほくそ笑み、信長がその危うさを悟って家康を説得したとする史料まであります(下記補足3)。そこで家康は、川の西側の「浜松荘(はままつのしょう)」の中心であった「引間城」「引間(曳馬)宿(ひくまのしゅく)」の地に居城を作り直すことにしました。これが浜松城で、1570年(元亀元年)のことでした。家康は29歳から45歳(1586年)までここを本拠にしました。(段落全体②④⑤⑥、下記補足4)

(補足3)右のやうす甲州へ聞え家康様を信玄ことことしく御ほめの由、上方へももれ聞へて信長公より御異見有て、見付の新城やめさせられ候、(「石川正四見聞集」)

(補足4)然間、見付之国府ヲ御住所に被成、城ヲ取、原に各々屋敷取ヲシテ住マせ給ひケルガ、爰(ここ)ハ不被可然トテ、浜松え引カせラレ給ひて、御城ヲコシラエ給ひ、御住所ヲ定サせ給ふ(「三河物語」)

遠江国の範囲と浜松城の位置

見付の城(城之崎城)跡

元あった引間城は、宿場を見下ろす丘陵に築かれ、水堀に囲まれていました。更には、東側は当時あった天竜川のもう一本の本流(小天竜)、北側は崖地帯、南から東にかけては低湿地という自然の障壁によって守られていました。家康は、西側の丘陵地帯に城域を拡大し、そちらを中心部とし、名も「浜松城」と改めました。引間城の地は「古城」と呼ばれ、新城の一部になりました。城は更に南に拡大していきます。(段落全体⑥)

城周辺の起伏地図

家康時代の浜松城の姿ははっきりしません。しかも城の本格的な改修が始まるのは1577年(天正5年)です。三方原合戦(1572年)のころは、武田侵攻に備え支城網の改修を優先していたと考えられます。それでも、合戦に敗れ家康が城に撤退したときの記録に「西の門」「大手の門」古城にあった「玄黙口」というのが出てくるので(下記補足5)、新城に古城が取り込まれた形にはなっていたのでしょう。(段落全体⑤⑥)やがて武田との戦いの中で、武田築城術を取り込み、浜松城にも生かしていったと考えられます。例えば「横堀」の採用により、北側の「佐左曲輪」や南側の出丸を取り込んだことが挙げられます。(以上⑤⑥)東海道も城近くに付け替え、城下町も造られました。(②)家康により拡張された浜松城は、江戸時代天守曲輪・本丸・二の丸・西端城曲輪・清水曲輪・作左曲輪・出丸等の範囲と考えられます。(⑦)

(補足5)三方ヶ原を退き西の門からは入られず、遥かに大手の門より門外に乗廻し、東に向ひ北に至て、玄黙口より入られた(「鳥居家中興譜」)

家康在城時の浜松城のイメージ図、現地説明パネルより

家康の居住空間は、最高地点の現・天守曲輪だったと考えられますが、面積は狭く、自然地形を生かしたものでした。また、城は土造りで、曲輪は土塁で囲まれ、屋敷も板葺きだったと想定されています。その頃、織田信長や有力家臣は瓦葺きの天守・石垣を持った城を築いていました。徳川氏はそのような城を築かせる技術者集団をまだ使うことができなかったのです。家康が石垣の城を築くのは、次の居城・駿府城からになります。(段落全体⑤⑥⑦)

家康在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

決戦!三方原

1571年(元亀2年)信玄は領国内で大動員を開始しました。翌年にかけては北条との同盟を復活させました。一方、織田との同盟を強化すると見せかけながら、家康家臣の調略も行っていました。1572年、元亀3年10月、ついに信玄は出陣、遠江に侵攻しました。信玄は「三ヶ年の鬱憤を散じるため」と喧伝しています。それだけ家康を恨んでいたのです。信玄はまず要衝の高天神城を確保、掛川城を孤立させて、西に進みました。家康はこれ以上の落城・家臣の離反を防ぐため、天竜川を越えて出陣しました。しかし不利と見て撤退しようとしたところ、武田軍の動きが速く、追いつかれてしまい、一言坂合戦が起こりました。ここで家康の窮地を救ったのが本多忠勝です。この様子を武田家臣(小松右近助の近習)が歌に詠んでいます(下記補足6)。家康は無事浜松に戻りましたが、以前築城した見付まで武田に制圧されました。(段落全体②)

(補足6)家康に すぎたるものハふたつあり からのかしらに 本多平八(「軍艦」)

高天神城跡
一言坂の戦跡
本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田の別働隊(山県・秋山勢)も北遠江・奥三河に侵入しました。長篠城・井伊谷(いいのや)が武田の手に落ちました。そして信玄本隊は、天竜川をさかのぼり、徳川方の要衝・二俣城も11月末日(晦日)に落城させました。浜松城は、北・東を包囲され、連絡道は西の浜名湖(今切)経由だけになってしまったのです。(段落全体②)

長篠城跡

信玄は二俣城を本陣とし、12月22日に再び動き出しました。武田軍は浜松城を目指しているかに見えましたが、北西の三方原台地に上がりました。徳川方は、武田の目標が本国三河にあると想定しました。家康は直ちに出陣し、その途上で軍議を行いました(下記補足7,従来は浜松城で軍議を行ったという記述が多かった)。しかしすぐ開戦になったわけではなく、徳川軍は武田軍を追いながら機会を伺っていたのです(台地(祝田坂)を下り始めるのを待っていたようです)。(段落全体②➉)

(補足7)元亀三年壬申十二月廿二日、家康、浜松より三理に及で打出させ給いて、御合戦を可被成と仰けれバ、各々年寄共の申上けるハ、今日之御合戦、如何に御座可有候う哉、敵之人数を見奉るに、三万余と見申候、其上、信玄ハ老武者と申、度々の合戦になれたる人なり、御味方はわづか八千之内外御座可有哉と申上けれバ、其儀ハ何共あれ、多勢にて我屋敷之背戸をふミきりて通らんに、内に有ながら、出てとがめざる者哉あらん、負くれバとて、出てとがむべし、そのごとく、我国をふミきりて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉、菟角、合戦をせずしてハおくまじき、陣ハ多勢・無勢にハよるべからず、天道次第と仰せけれバ、各々是非に不及とて、押寄けり、(「三河物語」)
元亀三年十二月二十二日、家康は敵が浜松から三里のところまでやってきて、出撃する。「一合戦しよう」とおっしゃると、年寄たちが皆「今日の合戦はどうでしょうか。敵の人数は三万あまりと思われます。信玄は熟練の武者でもあり、たびたびの合戦をへた手だれの者です。しかも、味方はわずかに八千ほどでございますから」と申し上げる。「そのことはしょうがない。多勢が自分の屋敷の裏口をふみ破って通ろうとしているのに、家のなかにいて、でてとがめだてしない者があろうか。負けたら負けたときと、でてとがめるであろう。それと同じで、自分の国をふみ破って通るのに、多勢だからといってどうして、出陣して、とがめないでおかりょうか。ともかく合戦をしないでは、おかれまい。戦さは多勢無勢で結果が決まるわけではない。天運のままだ」とおっしゃると、みなもあれこれいうこともなく、攻めよせた。(現代語訳③)

三方原古戦場碑

最近の説では、開戦のきっかけは、武田軍が再度進路を変更し、浜名湖の半島にある堀江城に向かったこととされます。織田信長の伝記「信長公記」にそれを裏付ける記述があります(下記補足8)。堀江城は浜名湖水運を掌握する要所であり、もし敵の手に落ちると浜松城が完全に孤立してしまいます。信玄の狙いはそこにあり、家康としては絶対阻止しなければならなかったのです。(段落全体②)

(補足8)これは遠江方面でのことである。十一月下旬、武田信玄が二俣の城を包囲した、という徳川家康からの報告が到着した。そこで、信長の家老衆、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元を大将として、軍勢を浜松へ参陣させた。しかし、すでに二俣の城は落城し、その勢いに乗って武田信玄は堀江の城をめざして進軍していた。(⑧)

徳川方の人数は、徳川約8千に織田援軍を加えると約1万1千、武田方は「三河物語」に3万とありましたが、約2万ではないかと言われます。いずれにせよ徳川方が不利です。信玄も慎重に様子を見ていたため、合戦が始まったのは午後4時頃(申刻)でした。足軽同士の小競り合いから本格的な戦いに発展したようです。天候は曇りから雪になり、酷寒の中での合戦でした。合戦の様子も「三河物語」に描写されています(下記補足9)。徳川方は善戦したものの、武田方の反撃で中央を突破、分断され、後は各個撃破されていきました。決着がついたのは午後6時頃(酉刻)と言われます。(段落全体②)

(補足9)信玄はたびたびの合戦に場慣れしていたので、すぐに魚鱗の陣をしき敵に向かった。家康は鶴翼の陣をしいたが、小勢だったので、手薄とみえた。信玄はまず足軽たちを送り、小石を投げさせた。それを家康の軍は相手にせず、いっせいに切ってかかると、早速一陣二陣を打ち破る。つづいて敵は新手を向けてきたが、その新手も破って、信玄の本陣に殺到した。信玄の本陣からも、いっせいに鬨の声をあげて攻めかかる。わずか八千の兵だったので、三万余の大敵と、粉骨砕身せりあったが、信玄の本陣に攻めかえされて、敗退した。(③)

徳川家康本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示
武田信玄本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

家康主従は、夜の闇のなか、一体になって撤退しました。家康の身代わりや殿になって討たれた家臣もいました(成瀬藤蔵、夏目広次、本多忠真など)。家康自身も、敵の待ち伏せにあい、自分の弓で射倒し、窮地を脱したといいます(下記補足10)。

(補足10)家康は、戦線の中央部を切り破られ、乱戦に巻き込まれた。左へ逃げて、三方ガ原の崖ぎわの一本道を退却した。敵は先回りして待ち受け、戦いを挑んだ。それを家康は馬上から弓で射倒し、駆け抜けて、浜松へ帰城した。この時に限らず、家康の弓の腕前は今に始まったことではなかった。(⑧)

敗走する家康主従のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

徳川方は大混乱に陥っていて、浜松城では家康が討たれたとの虚報が飛び交っていました。討たれた人数は、織田軍の大将の一人・平手汎秀を含め、約千名と言われています。浜松城に帰れなかった家臣も大勢いたようです(主な者・下記補足11)。浜松各地には家康が隠れた,匿われたという伝承が多くありますが、このことが元になっているのかもしれません。

(補足11)
・榊原康政:家康とはぐれ、西島に逃れた
・水野信元(織田援軍):今切の渡(浜名湖)または岡崎まで逃走
・中河兄弟:懸川城に逃れた
・山田平一郎:岡崎城に逃れ、家康が討たれたと知らせた

家康が城に戻った場所と言われる玄黙口

武田軍は追撃を続け、浜松城に迫りました。これを食い止めた場所が、浜松城北方の要害・犀ヶ崖です。崖の手前に留まった武田軍に対し、大久保忠世・天野康景の鉄砲隊が夜襲をかけました。混乱した武田の兵が崖に落ちたと伝えられています。(⑨)

犀ヶ崖
反撃する徳川軍鉄砲隊のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

武田軍は深追いをせず、翌12月23日には、目標としていた堀江城を攻撃しましたが落とせず、翌年元亀4年2月に野田城を攻略しました。ここから渥美半島の方に向かっても、浜松城と三河国を分断することができます。しかし武田軍が次に向かったのは、逆方向の長篠城でした。信玄の病のためと言われます。4月12日、信玄は信濃への撤退の途中で亡くなりました。家康と浜松城は、絶対絶命の危機を脱したのです。(②)

堀尾氏による改修、そして出世城へ

1586年(天正14年)、5か国の太守となっていた家康は、居城を東の駿府城に移しました。浜松城は家臣の菅沼定政に預けました(城代)。そして1590年(天正18年)に徳川氏が関東に移されると、浜松には豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が入城しました。秀吉の家康に対する備えの一環でした。現在残る天守曲輪・本丸の石垣は、この時代に築かれたと考えられています。天守門脇には巨石が配され、豊臣政権の権威を見せつけました。一方、天守曲輪西側の「屏風折れの石垣」は、城から側面攻撃ができるようにした実戦的な作りです。記録はありませんが、天守台石垣の上には天守も築かれたと考えられます(当時の瓦が見つかっています)。現在ある再建天守(3重)より大きく、堀尾氏が後に築いた松江城を参考に、4重天守が想定されています。2代目の忠氏のとき(吉晴は隠居)1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでの武功により、堀尾氏は加増転封となりました(12→24万石)。(段落全体④⑤)

堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
天守門の石垣
屛風折れの石垣
堀尾吉晴在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

江戸時代になると、浜松城は浜松藩の本拠、譜代大名の城として、なんと10家・22代の城主が入れ替わりました(下記補足12、家康からだと25代)。その中から老中6人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を輩出し「出世城」と呼ばれるようになります。なかでも天保の改革で有名な水野忠邦は、家康にあやかりたいと浜松城主に志願したと言われます。忠邦は見事老中に出世するのですが、失脚すると転封になり、以前の井上氏が復帰しています。(段落全体⑤⑪)

(補足12)歴代浜松城主となった大名家(江戸時代、⑪)
・1601~09年:桜井松平氏(1代、5万石)
・1609~19年:水野氏(1代、2.5→3.5万石)
・1619~38年:高力氏(1代、3.1→3万石)
・1638~44年:大給松平氏(1代、3.5万石)乗寿が老中
・1644~78年:太田氏(2代、3.5→3.2万石)
・1678~1702年:青山氏(3代、5万石)宗俊が老中
・1702~29年:本庄松平氏(2代、7万石)
・1729~49年:大河内・長沢松平氏(2代、7万石)信祝が老中
・1749~58年:本庄松平氏(再任・2代、7万石)
・1758~1817年:井上氏(3代、6万石)正経が老中
・1817~45年:水野氏(2代、6→7万石)忠邦が老中
・1845~68年:井上氏(再任・2代、6万石)正直が老中

水野忠邦肖像画、東京都立大学図書情報センター蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天守は早期に失われたようで、天守曲輪には天守門と裏門の埋門だけが残りました。本丸には鉄門や富士見櫓などがありました(建物については不明)。二の丸には城主屋敷や藩庁があり、藩政の中心になっていました。その南側には三の丸が整備され、侍屋敷が置かれ、南端に大手門が築かれました。その大手門を基点に東海道が設定され、その街道沿いには町屋が形成されました。(段落全体⑦⑪⑫)

江戸時代(廃城時点)の城中枢部想像図、現地説明パネルより
浜松城略絵図(安政年間)、現地説明パネルより

リンク、参考情報

①「市長コラム 平成24年4月」浜松市ウェブサイト
②「新説 家康と三方原合戦/平山優著」NHK出版新書
③「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
④「静岡の城/加藤理文著」サンライズ出版
⑤「東海の名城を歩く 静岡編/中井均・加藤理文編」吉川弘文館
⑥「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
⑦「浜松城の変遷」浜松市ウェブサイト
⑧「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑨ 犀ヶ崖資料館展示
➉「徳川家康と9つの危機/河合敦著」PHP新書
⑪「浜松市史」
⑫ 浜松城展示

「浜松城 現地編」に続きます。

159.芥川山城 160.飯盛城 歴史編

戦国時代の天下人といえば、誰しも「信長・秀吉・家康」を思い浮かべるでしょう。しかし最近ではその前に「三好長慶」が戦国最初の天下人だったのではないかと言われています。その長慶の畿内での代表的な居城が、芥川山城と飯盛城でした。

イントロダクション

戦国時代の天下人といえば、誰しも「信長・秀吉・家康」を思い浮かべるでしょう。しかし最近ではその前に「三好長慶」が戦国最初の天下人だったのではないかと言われています。当時「天下」とは必ずしも「日本全国」のことではなく京都を中心とした畿内を指していました。長慶はその地域を、室町幕府の足利将軍家の権威なくして治めた初めての「天下人」だったのです。それは歴史上、画期的なことでした。それが後の三英傑につながっていったと評価されています。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その長慶の畿内での代表的な居城が、芥川山(あくたがわさん)城と飯盛(いいもり)城でした。両方とも戦国の動乱期に築かれた山城です。芥川山城は、長慶が将軍に頼らない三好政権を確立したときに居城としました。彼はそこで政務を行い、まるで中央政庁のように機能したのです。その後も三好氏の本拠地になりました。飯盛城は、長慶が将軍・足利義輝と妥協しながらも、領国を拡大し、三好氏のポジションを高め、亡くなるまで居城としました。広大な山上を石垣が覆っていて、長慶の権威を象徴していた城です。

芥川山城の想像図、現地説明パネルより
飯盛城の模型、大東市歴史民俗資料館にて展示

今回の記事では、長慶が天下人となるまでの経緯、天下人としての活躍と2つの城、その後の三好氏と城について歴史を追ってみます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(戦国最初の「天下人」三好長慶と2つの居城)

天下人への道

三好氏はもともと、阿波守護家の細川氏に仕える家臣の家柄でした。阿波守護家は管領を務めた細川本家(京兆家)に次ぐランクで、室町幕府の政治にも関与していました。長慶の先祖はその主君に付き従う側近だったようです。1485年(文明17年)、長慶の曾祖父・三好之長が京都で徳政一揆を引き起こした人物として登場します。やがて幕府内部は、将軍家・細川家・畠山家が分裂し、相争う状態になります。阿波守護家と三好氏もそれに巻き込まれていくのです。こういった状況から「戦国時代」という呼び名が生まれたそうです(下記補足1)。(段落全体下記①を参考、以下番号のみ記載)

(補足1)「(中国の春秋)戦国の世の時の如し」(近衛尚通「後法成寺関白記」)

三好之長肖像画、見性寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そのときのだいたいの対立構図は以下の通りでした。
11代将軍・足利義澄~細川澄元~畠山義英(義就流)
    VS
前将軍・足利義稙~細川高国~畠山尚順・稙長(政長流)+大内義興
1508年(永正5年)、足利義稙は大内勢などの大軍で上洛し、将軍の座に復帰しますが、義澄・澄元方も反抗を開始します(1511年)。そのとき澄元が当てにしたのが実家の阿波守護家でした(澄元は、細川本家前代・政元の養子、高国も野州家からの養子)。三好之長は京都で細川高国勢と戦いますが敗れ、切腹して果てました(1520年)。とはいえ之長は、無名だった三好氏の名を知らしめ、発展の基礎を作りました(段落全体①)

之長の跡は、孫の元長が継ぎました。そのときは12代将軍・足利義晴を擁した管領・細川高国の全盛期でした。阿波に逃れていた足利義澄の子義維(よしつな、将軍を解任された義稙の養子でもあった)や、細川澄元の子・晴元は、捲土重来を期して、1526年(大永6年)堺に渡りました。阿波守護・細川氏之、三好元長も一緒でした。義維は「堺公方」とよばれ、義晴方と対峙したのです。(段落全体①)

三好元長肖像画、見性寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そのときの対立構図は以下の通りです。
足利義維~細川晴元~細川氏之+三好元長~畠山義堯(よしたか、義就流)
    VS
12代将軍・足利義晴~管領・細川高国~六角定頼
1531年(享禄4年)元長は細川高国を打ち破り、自害に追い込みました。しかし、将軍・足利義晴と和睦したかった細川晴元と、元長を含む、足利義維を将軍にしたい勢力との間で内部分裂が起こりました。その翌年、晴元は本願寺の一向一揆を動員し、なんと味方であるはずの元長を堺で攻撃し、自害させたのです。元服前の長慶(千熊丸、せんくままる)も堺にいましたが、阿波に落ち延びました。(段落全体①)

足利義晴と細川晴元は和睦しますが、今度は一向一揆を制御しきれなくなり、晴元がその討伐を命じたのが、なんと長慶だったのです。細川氏に仕える長慶は従うしかなかったのです。長慶は畿内(大坂)に渡り、本願寺と和睦を成立させました。そして、摂津の越水(こしみず)城主として畿内で勢力を拡大させ、父の仇である細川晴元への下剋上に進んでいきます。将軍・義晴が六角定頼の方を重用し、晴元が反乱の戦後処理に失敗(側近・三好宗三の娘婿の池田信正を自害させ、財産を奪おうとしたとされる)したのを機に、国人(地元領主)の利益を守るとして挙兵したのです。そして細川高国の跡継ぎ・氏綱を擁立し、畠山氏を代表する遊佐長教と同盟して江口の戦いで晴元方を打ち破りました(1549年、天文18年)。晴元と足利義晴・その子で新将軍の義輝は京都を退去、連合軍が京都を支配したのです。(段落全体①②)

足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それに対して将軍・義輝が採った策は刺客を送ることでした。長慶は2度襲われ、遊佐長教は討たれてしまったのです。それでも長慶は、将軍を支えていた六角氏が代替わりすると(定頼→義賢)義輝と和睦する道を選びました。和睦に反対する細川晴元は没落しました(出家して若狭へ)。私情を捨てた長慶の決断により将軍家と管領家が統一されます(畠山氏も統一)。長慶自身も将軍の直臣(御供衆)になり、細川氏を後見する立場(氏綱と晴元の子で跡継ぎの昭元)にもなりました(1552年、天文22年)。ところが多くの幕臣も支持した幕府内統一に反して、将軍・義輝がまたも長慶を討とうとしたので、長慶は義輝を近江・朽木へ追放したのです(1553年、天文22年)。その替りとして長慶は、阿波にいた足利義維に上洛を促しましたが応じませんでした。そこで長慶はついに、足利将軍家の誰も擁立せず、自らの力だけで京都や畿内の支配(室町幕府に拠らない中央政権)に乗り出しました。戦国時代初めて「天下人」が誕生したのです。(段落全体①②⑥)

この長慶の活躍をバックアップしたのが、優秀な家臣団です。まず、阿波時代から長慶を支えた存在として、その弟たちが挙げられます(三好四兄弟)。
・三好実休(元長次男):三好氏の出身地・阿波を守護、後に南河内も支配
・安宅冬康(元長三男):淡路の安宅氏の養子になり、水軍を率いた
・十河一存(元長四男):讃岐の国人・十河氏の養子、和泉の岸和田城主
また畿内で新たに召し抱えた家臣団の代表は松永久秀でしょう。江戸時代以降、その所業(以下)が大悪人のように言われてきましたが、事実無根か、それなりの事情がありました。
・主君(三好義興)を討ったこと(事実は病死、久秀は悲嘆にくれた)
・将軍(足利義輝)を討ったこと(実際には子の久通が関与)
・奈良の大仏を焼いたこと(敵(三好三人衆など)が東大寺に布陣していた)
(段落全体②)

三好実休肖像画、妙国寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下の政庁、芥川山城

同じ頃(1553年、天文22年8月)、長慶は跡継ぎの義興とともに芥川山城に入城しました(②)。芥川山城は、京都と大坂間の高槻丘陵の三好山(標高183m)に築かれた、摂津国最大の山城です。最初は、三好氏とも戦った細川高国が1516年までに築きました。それを受けついだのが細川晴元、そして三好長慶です。実は長慶は入城直前にこの城を攻め、より標高が高い帯仕山(おびしやま、192m)に布陣しました。城は落城するのですが、兵糧攻めによるもので、長慶は城自体の強さは認識したものと思われます。城は、丘陵の西北端に築かれ、二方向を摂津峡に囲まれ、山の斜面が急で、自然の障壁を利用しました。それに土塁・堀切などを加工することで、尾根や山下からの攻撃を防いでいました。(以上➂④)

城の位置

城周辺の起伏地図

芥川山城の特徴の一つは、細川時代から山上に居館があったことです。他の山城でのケース(天文年間後半)よりかなり早いとされますが、当時の畿内での戦局がいかに過酷であったも表しています。主郭(本丸)には礎石の御殿が築かれ、長慶がここで政務を行ったと思われます。建物は、後の信長以後の時代にような瓦葺きではなく、一部瓦を使った(雁振瓦)を使った杮葺きだったようです。もう一つの特徴は、長慶時代に作られたとされる石垣です。当時は、石垣技術をもつ職人集団を動員できる権力者は限られていたのです。現在も、大手付近の石垣が残っていて、城主の権威を表していたと考えられます。(段落全体➂④⑤)

城想像図(現地説明パネル)の主郭部分
城想像図(現地説明パネル)の石垣部分
大手石垣

更に特筆されるのは、長慶は在京せず、芥川山城に留まって政務を行ったことです。幕府や朝廷の秩序から自由な立場をとるためだったのでしょう。朝廷や村落からの訴えは、重臣たち(松永久秀・三好長逸ら)によって長慶に取り次がれました。山麓に居館や城下町はなく、彼らは日常的に山上の城で暮らしていました。この城が「天下の政庁」になったのです。(段落全体②④)

1559年(永禄2年)に城近くの郡家(ぐんげ)村と真上(まかみ)村との間で水争いが起こったとき、長慶は現場検証を行わせ、郡家村の勝訴としました。その裁きは、幕府の奉行・家臣ではなく、自らの名前で行っています。(下記補足2,以上④⑤)このようなケースは、京都がある山城国でもありました(今里村・上植野村、下記補足3)。つまり、在地からは長慶の実力に裏付けされた裁きが求められていたのです。(以上②④)

(補足2)
今度当所と真上申し給う井手床の事、双方指図をもって、訴論に及ぶといえども、互いに証跡なし、真上支え申すは、往古より彼の井手▢▢無きの旨申す、渕底を究めんがため、検使等を差し遣わす、見さしむの処、年々の井手の跡顕然の上は、当所理運の旨に任せ、絵図の如く井手を構え、水便を専用すべき者也、仍って件の如し、
  永禄弐
    五月十九日  長慶(花押)
   郡家惣中
(三好長慶裁許状、「郡家財産区所蔵文書」)

(補足3)
当所と上々(植)野が申し結ぶ井内領内川井手の事、糾明の淵底を遂げる処、上野の申し分は其の理無きの上は、先々の如く今井蕪木用水を進退せしむべき者也、仍って状件の如し、
 天文廿三
   六月十八日   長慶(花押)
  今里村惣中
(「能勢久嗣家文書」)

三好長慶水論裁許井手絵図・裁許状、高槻市立しろあと歴史館にて展示

朝廷も京都を単独で支配する長慶に近づきました。長慶と義輝と同じ位(従四位下、1533年)として、禁裏(皇居)の修理も命じました(1556年)。1558年(弘治4年)、正親町天皇の即位に伴う改元(永禄元年)がありましが、天皇はそのことを長慶に相談しても、義輝には何も知らせませんでした。これは将軍としては大事件で、天皇から武家の代表として認められないことを意味します。義輝は激怒、新年号を使わず挙兵したのです。ここで長慶が行った決断は、義輝との再度の和睦でした。京都に戻った義輝には翌年、織田信長・長尾景虎などが謁見を求めて上洛してきました。地方大名にとって将軍の権威はまだ必要とされていたのです。(以上①②)長慶は、名より実をとる決断をしたのではないでしょうか。

正親町天皇肖像画、泉涌寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下人の「石垣の城」、飯盛城

再び幕府に組み込まれた長慶ですが、今度は三好勢力の領国拡大に乗り出します。畠山氏の内紛に介入し、1560年(永禄3年)に畠山高政を追放し、河内国を平定、重臣の松永久秀も大和国を平定しました。旧主君の細川氏以外の守護国にも領国を拡大したのです。最盛期には、畿内・阿波を中心に、13か国(一部を含む)にも及びました。この三好氏の姿勢は周辺大名にも衝撃を与えました(下記補足4)。(段落全体①②⑥)

(補足4)「三好といひけるもの、畿内を心のまゝにして、伊セ入(いり)なとゝ物言喧しかりければ、城あまたきつかせなとし給ふ」(北畠国永の和歌集より)

それと並行して、三好一門の家格向上にも努めました。主なものを挙げてみます。
・三好長逸(ながやす)、三好義興、松永久秀が従四位下に(将軍・義輝、長慶と同格)
・三好長慶、義興、実休(長慶弟)を御相伴衆に(各地域の有力大名並み)
・三好長慶、義興、松永久秀に桐御紋の使用許可(将軍家並み)
もともと三好氏は陪臣だったのが、ついに将軍家並みの家格になったのです。しかもそれまでは上杉謙信や北条氏のように、上位の家の名跡を継承したのに対し、三好氏とその家臣の松永氏はそのままで、従来の家格秩序を塗り替えたのです。しかし、この変化に関東の領主たちが不満を持っていたことも記録されています(下記補足5)。(段落全体①②⑥)

(補足5)「是れは皆、国家を治めらるべきため御刷(察)し候、然る時は、此の義は関東中においても、誹判あるべからず候」(北条氏康が不満をなだめたとされる言葉、「歴代古案」)

長慶は、河内を平定すると、その地の山城・飯盛城に居城を移しました。同時に家督を三好義興に譲り、芥川山城を任せました。新たに加えた地域を支配し、淀川を挟んで義興を「大御所」として後見し、大和の松永久秀も支援することを意図したと考えられます。また山麓には水陸の交通網が発達していて、三好氏の根拠地の一つだった堺ともつながっていました。(段落全体⑥⑦)

飯盛城の位置と河内国の範囲

飯盛城は、現・大阪府と奈良県の境になる生駒山地の北西にある飯盛山(標高314m)に築かれた河内国最大の山城でした(東西約400✕南北約700m)。畠山氏家臣出身の木沢長政が1530年(享禄3年)に整備し、長慶の前は畠山家臣・安見宗房が城主でした。城の北と西側が急斜面で自然の障壁になっていて、南と東側に堀などを多く作って守りを固めました。登城道は東側にあったと考えられます。(段落全体⑦⑧)

大東市歴史民俗資料館展示の模型は、城を西側から見ています

城は北から「御体塚(ごたいづか)曲輪」「高櫓郭(たかやぐら)曲輪」「千畳敷(せんじょうじき)曲輪」を中心とした3つのエリアに分かれていました。そのうち高櫓曲輪が最も標高が高く、そこから北側の曲輪群は面積も狭いため、戦になったときに使う「詰城」だったと考えられます。御体塚曲輪は、通常は兵が駐屯できるよう平らにするところ、わざと岩盤を残していることから、宗教施設であったと思われます。長慶は、自分の祖先とする源義光を祀る新羅社を勧請しているので、それがここにあった可能性があります。千畳敷曲輪は面積が広く、居住空間であったと考えられます。長慶はこの城でも城下町を作らなかったので、ここの屋敷に普段は住んでいたのでしょう。長慶は連歌を愛好していて、入城の翌年には文化人を城に招いて「飯盛千句」が催されました。その歌には城からの眺望や、畿内の名所が詠みこまれたそうです。(段落全体②⑦⑧)

御体塚曲輪
城を東側から見た想像図、大東市パンフレットより、千畳敷曲輪は手前側

それからなんといっても飯盛城の特徴は、芥川山城では部分的だった石垣がほぼ全域に用いられていることです。特に登城道だったと考えられる東側に集中しています。登城者に対して、城と長慶の威厳を示したと考えられます。安土城などの信長の城以前の「石垣の城」は大変珍しく、こういった面からも長慶は先駆けていたのです。この城からは京都から大阪平野を越えて淡路島まで一望することができます。逆にこの範囲に暮らす人々からは、飯盛城の威容が意識されたでしょう。また、長慶はキリスト教の布教を認め、家臣も入信者がいて、その中には高山右近の父(高山飛騨守)もいました。城下町はありませんでしたが、城下には彼らが住む集落や教会もあったそうです。(段落全体⑦⑧)

残存石垣の写真、大東市歴史民俗資料館にて展示
高櫓曲輪のとなり、本郭(展望台曲輪)からの眺め

長慶と城の最期

盤石に見えた三好政権でしたが、意外と早く崩れていきます。絶頂期の1561年(永禄4年)和泉を守る3番目の弟、十河一存(そごうかずまさ)が病没します。それをきっかけに畠山高政と六角義賢が反旗を翻します。翌年、1番目の弟・実休がその戦い(久米田の戦い)で討たれてしまいました。そして、そのまた翌年(1563年)には跡継ぎの義興まで芥川山城で病没しまうのです。十河一存の子・三好義継が、養子として長慶の跡継ぎになりました。1564年、永禄7年5月、長慶はもう一人の弟、安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛城に呼び、成敗しました。三好氏の分裂を防ぐためだったとも言われます。ところがその2ヶ月後(7月4日)長慶も亡くなってしまいます。その詳細は不明です。(段落全体①)

三好義興肖像画(模本)、京都大学総合博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長慶没後、三好氏は分裂します。1565年(永禄8年)三好義継は、将軍御所を襲い、将軍・足利義輝を討ち取りました。実は長慶生前から、義輝と三好氏の対立が再燃していて、義継が最初から将軍を討ち、取って代わることを考えていたという説があります。別の将軍を立てようとしなかったからです。それに反抗したのが重臣の三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)です。彼らは足利義維の子・義栄を14代将軍として擁立しました(1568年、永禄11年)。三好義継は、先に失脚していた松永久秀と結び、三人衆と対立しました。足利義昭と織田信長の上洛は、この状況下、義継・久秀と連携することで実現したのです。(段落全体①)

三好義継肖像画、京都市立芸術大学芸術資料館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1568年、永禄11年9月30日、義昭と信長は京都(洛中)に入る前に、芥川山城に入城しました。それまで三人衆の一人・三好長逸がいましたが、退去していました。彼らは10月14日まで滞在し、それから入京したのです。芥川山城は、このときも三好氏の本城であり畿内の政庁と認識されていたのです。その滞在には信長が三好氏の地位を継承したと知らしめる意味がありました。城は義昭の側近、和田惟政に与えられました。惟政は居城を平城の高槻城に移し、芥川山城には高山飛騨守を入れました。その後徐々に機能を停止し役割を終えたと考えられます。(以上①④)飯盛城は三好義継に与えられましたが、彼を最後の城主として廃城になりました(翌年高屋城に移動、1573年に信長に反抗し戦没)。(以上①⑧)

足利義昭坐像、等持院霊光殿蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

信長は上洛を果たすと、義昭は信長に副将軍か管領職を勧めたり、織田氏の主君である斯波氏の家督(武衛・左兵衛督)をつがせようとしましたが、信長は辞退しました。しかし長慶も拝領した「桐御紋」は受け取りました。これは、幕府から自立した権力を志向したからとも言われますが、信長が長慶の先例を見て、諸大名の反発を避けながら、自らの家格向上を狙ったとも言えます。長慶はいろんな意味で信長以下三英傑の先駆者だったのです。近代の歴史学者・中村考也氏は長慶のことを「深沈なる思慮と、周到なる用意と、富裕なる温情」と評しています。(段落全体②)

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

①「三好一族-戦国最初の「天下人」/天野忠幸著」中公新書
②「ミネルヴァ日本評伝選 三好長慶/天野忠幸著」ミネルヴァ書房
➂「歴史群像55号 戦国の堅城 摂津・芥川山城/中井均監修」学習研究社
④「史跡 芥川城跡パンプレット」高槻市
⑤ 高槻市立しろあと歴史館展示
⑥「歴史群像166号 三好長慶伝/天野忠幸著」学習研究社
⑦「歴史群像166号 戦国の城 河内・飯盛城/中西裕樹著」学習研究社
⑧「三好長慶と大東市の中世 -飯盛城はそのとき―」大東市歴史民俗資料館

「芥川山城 現地編」に続きます。
「飯盛城 現地編」に続きます。

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