148.浜松城 歴史編

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。

イントロダクション

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。(以上下記①を参考、以下番号のみ記載)

浜松城にある徳川家康像

しかし、家康在城時代には数々の困難に見舞われました。三方原合戦、妻と子の粛清、本能寺の変、小牧・長久手の戦いなどです。このうち、浜松城と関連し、家康の生涯唯一の大敗と言われているのが「三方原合戦」です。この戦いは、家康が城を築く以前からの武田信玄との関係が伏線になっています。よって、浜松城と三方原合戦をメインストーリーとして展開していきたいと思います。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また現在残っている古風な石垣と、元あった天守は、家康と江戸時代の大名たちの間に城主になった堀尾吉晴が築いたとされています。最後の方では、その吉晴と江戸時代の大名たちの時代も触れてみます。

再建天守と現存石垣

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(浜松城と三方原合戦)

家康、遠江国に進出

1560年(永禄3年)桶狭間合戦が起こり、今川義元が織田信長に討ち取られると、今川方部将だった家康は岡崎城に入りました。これをもって家康自立と思ってしまいますが、実はこれは今川当主・氏真の許可・指示によるものだったのです。事実、家康は翌年(1561年)まで織田方と戦っています。しかし家康は苦戦し、氏真からの援軍もなかった(当時上杉謙信に対抗する北条氏の方に援軍を送っていた)ため、織田信長との同盟に踏み切ったのです。氏真は三河侵攻を計画しますが、間の遠江国で「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる反乱が起こり、それどころではなくなりました(三河侵攻のために課税したのに実施しなかったことが一因と言われます)。一方、家康のお膝元でも「三河一向一揆」が起こります。しかし1566年(永禄9年)までに一揆を鎮圧し、三河国を統一しました(永禄9年12月29日、徳川三河守家康)。(段落全体②)

「集外三十六歌仙」の今川氏真  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1568年(永禄11年)、前年に美濃を平定した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛しようとしていました。彼はそのことについて、上杉・武田・朝倉の了解を取り付けていました。問題は、留守中に今川に背後を衝かれる可能性です。そのため、信長は武田の今川攻めを認めたのです。その一翼を担ったのが家康です。徳川と武田は、今川攻めに関わる同盟を結びました。その内容は、大井川を境に駿河を武田、遠江を徳川が領有するというものでした(下記補足1)。(段落全体②)

(補足1)扨(さて)又、甲斐ノ武田之信玄ト仰合て、家康ハ遠江ヲ河切に取給え、我ハ駿河ヲ取ント仰合て、両国へ出給ふ(「三河物語」永禄十一年・第二中)
さて、甲斐の国の武田信玄を連絡をとって「家康は遠江を大井川までとれ、わたしは駿河をとろう」と申しあわせて、駿河・遠江両国へ出陣した(現代語訳③)

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

両軍は一斉に今川領に侵攻しました。武田軍は駿河に侵攻、今川氏真は掛川(懸川)城に退去しました。しかし今川と同盟を維持していた北条氏の反撃を受けます(一旦駿河から撤退)。一方、徳川軍の遠江侵攻は順調で、二俣城・引間(曳馬)城・高天神城などを開城させ、氏真が籠る掛川城を包囲しました。実は武田は、徳川との境界線を遠江の天竜川と考えていたらしく、遠江にも出兵してきましたが、家康が信玄に抗議し、撤兵させました。(下記補足2)家康が強気に出られる状況だったのです。(段落全体③)

(補足2)家康は使いをやった。「大井川を境に、駿河を信玄の領分、大井川を境に遠江が(家康の)領分と定まっているのに、秋山が出陣してきたのは横車を押すことになる。すぐに引きかえされよ」とおっしゃった。(「三河物語」現代語訳③)

現在の掛川城

1569年、永禄12年5月、家康は今川・北条と和睦し、掛川城も開城となり、今川氏真は北条氏に引き渡されました。ここに遠江国はほぼ家康の支配下に入りました。しかしこの和睦は武田との盟約違反でした。翌年(1570年、元亀元年)、家康は武田信玄と断交、信玄の宿敵・上杉謙信と同盟を結びました。信玄は激怒、ところが何もできませんでした。ここで家康と開戦すれば、織田・上杉・北条から一斉に攻められる可能性があったからです。信玄のこの憤懣は三方原合戦の伏線になっていきます。

浜松築城

遠江を支配することになった家康は、支配を安定させ、武田の脅威に備えるため、国府があった見付に居城を移すことにし、築城工事を始めました(城之崎城)。しかし途中で中止しました。仮に信玄と戦うことになった場合、西側の天竜川を背後にする「背水の陣」になってしまうためと言われます。町としての発展や、本国・三河や織田信長との連携も考慮したのでしょう。また、信玄が家康が見付に本拠を置くことを有利とみてほくそ笑み、信長がその危うさを悟って家康を説得したとする史料まであります(下記補足3)。そこで家康は、川の西側の「浜松荘(はままつのしょう)」の中心であった「引間城」「引間(曳馬)宿(ひくまのしゅく)」の地に居城を作り直すことにしました。これが浜松城で、1570年(元亀元年)のことでした。家康は29歳から45歳(1586年)までここを本拠にしました。(段落全体②④⑤⑥、下記補足4)

(補足3)右のやうす甲州へ聞え家康様を信玄ことことしく御ほめの由、上方へももれ聞へて信長公より御異見有て、見付の新城やめさせられ候、(「石川正四見聞集」)

(補足4)然間、見付之国府ヲ御住所に被成、城ヲ取、原に各々屋敷取ヲシテ住マせ給ひケルガ、爰(ここ)ハ不被可然トテ、浜松え引カせラレ給ひて、御城ヲコシラエ給ひ、御住所ヲ定サせ給ふ(「三河物語」)

遠江国の範囲と浜松城の位置

見付の城(城之崎城)跡

元あった引間城は、宿場を見下ろす丘陵に築かれ、水堀に囲まれていました。更には、東側は当時あった天竜川のもう一本の本流(小天竜)、北側は崖地帯、南から東にかけては低湿地という自然の障壁によって守られていました。家康は、西側の丘陵地帯に城域を拡大し、そちらを中心部とし、名も「浜松城」と改めました。引間城の地は「古城」と呼ばれ、新城の一部になりました。城は更に南に拡大していきます。(段落全体⑥)

城周辺の起伏地図

家康時代の浜松城の姿ははっきりしません。しかも城の本格的な改修が始まるのは1577年(天正5年)です。三方原合戦(1572年)のころは、武田侵攻に備え支城網の改修を優先していたと考えられます。それでも、合戦に敗れ家康が城に撤退したときの記録に「西の門」「大手の門」古城にあった「玄黙口」というのが出てくるので(下記補足5)、新城に古城が取り込まれた形にはなっていたのでしょう。(段落全体⑤⑥)やがて武田との戦いの中で、武田築城術を取り込み、浜松城にも生かしていったと考えられます。例えば「横堀」の採用により、北側の「佐左曲輪」や南側の出丸を取り込んだことが挙げられます。(以上⑤⑥)東海道も城近くに付け替え、城下町も造られました。(②)家康により拡張された浜松城は、江戸時代天守曲輪・本丸・二の丸・西端城曲輪・清水曲輪・作左曲輪・出丸等の範囲と考えられます。(⑦)

(補足5)三方ヶ原を退き西の門からは入られず、遥かに大手の門より門外に乗廻し、東に向ひ北に至て、玄黙口より入られた(「鳥居家中興譜」)

家康在城時の浜松城のイメージ図、現地説明パネルより

家康の居住空間は、最高地点の現・天守曲輪だったと考えられますが、面積は狭く、自然地形を生かしたものでした。また、城は土造りで、曲輪は土塁で囲まれ、屋敷も板葺きだったと想定されています。その頃、織田信長や有力家臣は瓦葺きの天守・石垣を持った城を築いていました。徳川氏はそのような城を築かせる技術者集団をまだ使うことができなかったのです。家康が石垣の城を築くのは、次の居城・駿府城からになります。(段落全体⑤⑥⑦)

家康在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

決戦!三方原

1571年(元亀2年)信玄は領国内で大動員を開始しました。翌年にかけては北条との同盟を復活させました。一方、織田との同盟を強化すると見せかけながら、家康家臣の調略も行っていました。1572年、元亀3年10月、ついに信玄は出陣、遠江に侵攻しました。信玄は「三ヶ年の鬱憤を散じるため」と喧伝しています。それだけ家康を恨んでいたのです。信玄はまず要衝の高天神城を確保、掛川城を孤立させて、西に進みました。家康はこれ以上の落城・家臣の離反を防ぐため、天竜川を越えて出陣しました。しかし不利と見て撤退しようとしたところ、武田軍の動きが速く、追いつかれてしまい、一言坂合戦が起こりました。ここで家康の窮地を救ったのが本多忠勝です。この様子を武田家臣(小松右近助の近習)が歌に詠んでいます(下記補足6)。家康は無事浜松に戻りましたが、以前築城した見付まで武田に制圧されました。(段落全体②)

(補足6)家康に すぎたるものハふたつあり からのかしらに 本多平八(「軍艦」)

高天神城跡
一言坂の戦跡
本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田の別働隊(山県・秋山勢)も北遠江・奥三河に侵入しました。長篠城・井伊谷(いいのや)が武田の手に落ちました。そして信玄本隊は、天竜川をさかのぼり、徳川方の要衝・二俣城も11月末日(晦日)に落城させました。浜松城は、北・東を包囲され、連絡道は西の浜名湖(今切)経由だけになってしまったのです。(段落全体②)

長篠城跡

信玄は二俣城を本陣とし、12月22日に再び動き出しました。武田軍は浜松城を目指しているかに見えましたが、北西の三方原台地に上がりました。徳川方は、武田の目標が本国三河にあると想定しました。家康は直ちに出陣し、その途上で軍議を行いました(下記補足7,従来は浜松城で軍議を行ったという記述が多かった)。しかしすぐ開戦になったわけではなく、徳川軍は武田軍を追いながら機会を伺っていたのです(台地(祝田坂)を下り始めるのを待っていたようです)。(段落全体②➉)

(補足7)元亀三年壬申十二月廿二日、家康、浜松より三理に及で打出させ給いて、御合戦を可被成と仰けれバ、各々年寄共の申上けるハ、今日之御合戦、如何に御座可有候う哉、敵之人数を見奉るに、三万余と見申候、其上、信玄ハ老武者と申、度々の合戦になれたる人なり、御味方はわづか八千之内外御座可有哉と申上けれバ、其儀ハ何共あれ、多勢にて我屋敷之背戸をふミきりて通らんに、内に有ながら、出てとがめざる者哉あらん、負くれバとて、出てとがむべし、そのごとく、我国をふミきりて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉、菟角、合戦をせずしてハおくまじき、陣ハ多勢・無勢にハよるべからず、天道次第と仰せけれバ、各々是非に不及とて、押寄けり、(「三河物語」)
元亀三年十二月二十二日、家康は敵が浜松から三里のところまでやってきて、出撃する。「一合戦しよう」とおっしゃると、年寄たちが皆「今日の合戦はどうでしょうか。敵の人数は三万あまりと思われます。信玄は熟練の武者でもあり、たびたびの合戦をへた手だれの者です。しかも、味方はわずかに八千ほどでございますから」と申し上げる。「そのことはしょうがない。多勢が自分の屋敷の裏口をふみ破って通ろうとしているのに、家のなかにいて、でてとがめだてしない者があろうか。負けたら負けたときと、でてとがめるであろう。それと同じで、自分の国をふみ破って通るのに、多勢だからといってどうして、出陣して、とがめないでおかりょうか。ともかく合戦をしないでは、おかれまい。戦さは多勢無勢で結果が決まるわけではない。天運のままだ」とおっしゃると、みなもあれこれいうこともなく、攻めよせた。(現代語訳③)

三方原古戦場碑

最近の説では、開戦のきっかけは、武田軍が再度進路を変更し、浜名湖の半島にある堀江城に向かったこととされます。織田信長の伝記「信長公記」にそれを裏付ける記述があります(下記補足8)。堀江城は浜名湖水運を掌握する要所であり、もし敵の手に落ちると浜松城が完全に孤立してしまいます。信玄の狙いはそこにあり、家康としては絶対阻止しなければならなかったのです。(段落全体②)

(補足8)これは遠江方面でのことである。十一月下旬、武田信玄が二俣の城を包囲した、という徳川家康からの報告が到着した。そこで、信長の家老衆、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元を大将として、軍勢を浜松へ参陣させた。しかし、すでに二俣の城は落城し、その勢いに乗って武田信玄は堀江の城をめざして進軍していた。(⑧)

徳川方の人数は、徳川約8千に織田援軍を加えると約1万1千、武田方は「三河物語」に3万とありましたが、約2万ではないかと言われます。いずれにせよ徳川方が不利です。信玄も慎重に様子を見ていたため、合戦が始まったのは午後4時頃(申刻)でした。足軽同士の小競り合いから本格的な戦いに発展したようです。天候は曇りから雪になり、酷寒の中での合戦でした。合戦の様子も「三河物語」に描写されています(下記補足9)。徳川方は善戦したものの、武田方の反撃で中央を突破、分断され、後は各個撃破されていきました。決着がついたのは午後6時頃(酉刻)と言われます。(段落全体②)

(補足9)信玄はたびたびの合戦に場慣れしていたので、すぐに魚鱗の陣をしき敵に向かった。家康は鶴翼の陣をしいたが、小勢だったので、手薄とみえた。信玄はまず足軽たちを送り、小石を投げさせた。それを家康の軍は相手にせず、いっせいに切ってかかると、早速一陣二陣を打ち破る。つづいて敵は新手を向けてきたが、その新手も破って、信玄の本陣に殺到した。信玄の本陣からも、いっせいに鬨の声をあげて攻めかかる。わずか八千の兵だったので、三万余の大敵と、粉骨砕身せりあったが、信玄の本陣に攻めかえされて、敗退した。(③)

徳川家康本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示
武田信玄本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

家康主従は、夜の闇のなか、一体になって撤退しました。家康の身代わりや殿になって討たれた家臣もいました(成瀬藤蔵、夏目広次、本多忠真など)。家康自身も、敵の待ち伏せにあい、自分の弓で射倒し、窮地を脱したといいます(下記補足10)。

(補足10)家康は、戦線の中央部を切り破られ、乱戦に巻き込まれた。左へ逃げて、三方ガ原の崖ぎわの一本道を退却した。敵は先回りして待ち受け、戦いを挑んだ。それを家康は馬上から弓で射倒し、駆け抜けて、浜松へ帰城した。この時に限らず、家康の弓の腕前は今に始まったことではなかった。(⑧)

敗走する家康主従のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

徳川方は大混乱に陥っていて、浜松城では家康が討たれたとの虚報が飛び交っていました。討たれた人数は、織田軍の大将の一人・平手汎秀を含め、約千名と言われています。浜松城に帰れなかった家臣も大勢いたようです(主な者・下記補足11)。浜松各地には家康が隠れた,匿われたという伝承が多くありますが、このことが元になっているのかもしれません。

(補足11)
・榊原康政:家康とはぐれ、西島に逃れた
・水野信元(織田援軍):今切の渡(浜名湖)または岡崎まで逃走
・中河兄弟:懸川城に逃れた
・山田平一郎:岡崎城に逃れ、家康が討たれたと知らせた

家康が城に戻った場所と言われる玄黙口

武田軍は追撃を続け、浜松城に迫りました。これを食い止めた場所が、浜松城北方の要害・犀ヶ崖です。崖の手前に留まった武田軍に対し、大久保忠世・天野康景の鉄砲隊が夜襲をかけました。混乱した武田の兵が崖に落ちたと伝えられています。(⑨)

犀ヶ崖
反撃する徳川軍鉄砲隊のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

武田軍は深追いをせず、翌12月23日には、目標としていた堀江城を攻撃しましたが落とせず、翌年元亀4年2月に野田城を攻略しました。ここから渥美半島の方に向かっても、浜松城と三河国を分断することができます。しかし武田軍が次に向かったのは、逆方向の長篠城でした。信玄の病のためと言われます。4月12日、信玄は信濃への撤退の途中で亡くなりました。家康と浜松城は、絶対絶命の危機を脱したのです。(②)

堀尾氏による改修、そして出世城へ

1586年(天正14年)、5か国の太守となっていた家康は、居城を東の駿府城に移しました。浜松城は家臣の菅沼定政に預けました(城代)。そして1590年(天正18年)に徳川氏が関東に移されると、浜松には豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が入城しました。秀吉の家康に対する備えの一環でした。現在残る天守曲輪・本丸の石垣は、この時代に築かれたと考えられています。天守門脇には巨石が配され、豊臣政権の権威を見せつけました。一方、天守曲輪西側の「屏風折れの石垣」は、城から側面攻撃ができるようにした実戦的な作りです。記録はありませんが、天守台石垣の上には天守も築かれたと考えられます(当時の瓦が見つかっています)。現在ある再建天守(3重)より大きく、堀尾氏が後に築いた松江城を参考に、4重天守が想定されています。2代目の忠氏のとき(吉晴は隠居)1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでの武功により、堀尾氏は加増転封となりました(12→24万石)。(段落全体④⑤)

堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
天守門の石垣
屛風折れの石垣
堀尾吉晴在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

江戸時代になると、浜松城は浜松藩の本拠、譜代大名の城として、なんと10家・22代の城主が入れ替わりました(下記補足12、家康からだと25代)。その中から老中6人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を輩出し「出世城」と呼ばれるようになります。なかでも天保の改革で有名な水野忠邦は、家康にあやかりたいと浜松城主に志願したと言われます。忠邦は見事老中に出世するのですが、失脚すると転封になり、以前の井上氏が復帰しています。(段落全体⑤⑪)

(補足12)歴代浜松城主となった大名家(江戸時代、⑪)
・1601~09年:桜井松平氏(1代、5万石)
・1609~19年:水野氏(1代、2.5→3.5万石)
・1619~38年:高力氏(1代、3.1→3万石)
・1638~44年:大給松平氏(1代、3.5万石)乗寿が老中
・1644~78年:太田氏(2代、3.5→3.2万石)
・1678~1702年:青山氏(3代、5万石)宗俊が老中
・1702~29年:本庄松平氏(2代、7万石)
・1729~49年:大河内・長沢松平氏(2代、7万石)信祝が老中
・1749~58年:本庄松平氏(再任・2代、7万石)
・1758~1817年:井上氏(3代、6万石)正経が老中
・1817~45年:水野氏(2代、6→7万石)忠邦が老中
・1845~68年:井上氏(再任・2代、6万石)正直が老中

水野忠邦肖像画、東京都立大学図書情報センター蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天守は早期に失われたようで、天守曲輪には天守門と裏門の埋門だけが残りました。本丸には鉄門や富士見櫓などがありました(建物については不明)。二の丸には城主屋敷や藩庁があり、藩政の中心になっていました。その南側には三の丸が整備され、侍屋敷が置かれ、南端に大手門が築かれました。その大手門を基点に東海道が設定され、その街道沿いには町屋が形成されました。(段落全体⑦⑪⑫)

江戸時代(廃城時点)の城中枢部想像図、現地説明パネルより
浜松城略絵図(安政年間)、現地説明パネルより

リンク、参考情報

①「市長コラム 平成24年4月」浜松市ウェブサイト
②「新説 家康と三方原合戦/平山優著」NHK出版新書
③「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
④「静岡の城/加藤理文著」サンライズ出版
⑤「東海の名城を歩く 静岡編/中井均・加藤理文編」吉川弘文館
⑥「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
⑦「浜松城の変遷」浜松市ウェブサイト
⑧「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑨ 犀ヶ崖資料館展示
➉「徳川家康と9つの危機/河合敦著」PHP新書
⑪「浜松市史」
⑫ 浜松城展示

「浜松城 現地編」に続きます。

159.芥川山城 160.飯盛城 歴史編

戦国時代の天下人といえば、誰しも「信長・秀吉・家康」を思い浮かべるでしょう。しかし最近ではその前に「三好長慶」が戦国最初の天下人だったのではないかと言われています。その長慶の畿内での代表的な居城が、芥川山城と飯盛城でした。

イントロダクション

戦国時代の天下人といえば、誰しも「信長・秀吉・家康」を思い浮かべるでしょう。しかし最近ではその前に「三好長慶」が戦国最初の天下人だったのではないかと言われています。当時「天下」とは必ずしも「日本全国」のことではなく京都を中心とした畿内を指していました。長慶はその地域を、室町幕府の足利将軍家の権威なくして治めた初めての「天下人」だったのです。それは歴史上、画期的なことでした。それが後の三英傑につながっていったと評価されています。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その長慶の畿内での代表的な居城が、芥川山(あくたがわさん)城と飯盛(いいもり)城でした。両方とも戦国の動乱期に築かれた山城です。芥川山城は、長慶が将軍に頼らない三好政権を確立したときに居城としました。彼はそこで政務を行い、まるで中央政庁のように機能したのです。その後も三好氏の本拠地になりました。飯盛城は、長慶が将軍・足利義輝と妥協しながらも、領国を拡大し、三好氏のポジションを高め、亡くなるまで居城としました。広大な山上を石垣が覆っていて、長慶の権威を象徴していた城です。

芥川山城の想像図、現地説明パネルより
飯盛城の模型、大東市歴史民俗資料館にて展示

今回の記事では、長慶が天下人となるまでの経緯、天下人としての活躍と2つの城、その後の三好氏と城について歴史を追ってみます。

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立地と歴史(戦国最初の「天下人」三好長慶と2つの居城)

天下人への道

三好氏はもともと、阿波守護家の細川氏に仕える家臣の家柄でした。阿波守護家は管領を務めた細川本家(京兆家)に次ぐランクで、室町幕府の政治にも関与していました。長慶の先祖はその主君に付き従う側近だったようです。1485年(文明17年)、長慶の曾祖父・三好之長が京都で徳政一揆を引き起こした人物として登場します。やがて幕府内部は、将軍家・細川家・畠山家が分裂し、相争う状態になります。阿波守護家と三好氏もそれに巻き込まれていくのです。こういった状況から「戦国時代」という呼び名が生まれたそうです(下記補足1)。(段落全体下記①を参考、以下番号のみ記載)

(補足1)「(中国の春秋)戦国の世の時の如し」(近衛尚通「後法成寺関白記」)

三好之長肖像画、見性寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そのときのだいたいの対立構図は以下の通りでした。
11代将軍・足利義澄~細川澄元~畠山義英(義就流)
    VS
前将軍・足利義稙~細川高国~畠山尚順・稙長(政長流)+大内義興
1508年(永正5年)、足利義稙は大内勢などの大軍で上洛し、将軍の座に復帰しますが、義澄・澄元方も反抗を開始します(1511年)。そのとき澄元が当てにしたのが実家の阿波守護家でした(澄元は、細川本家前代・政元の養子、高国も野州家からの養子)。三好之長は京都で細川高国勢と戦いますが敗れ、切腹して果てました(1520年)。とはいえ之長は、無名だった三好氏の名を知らしめ、発展の基礎を作りました(段落全体①)

之長の跡は、孫の元長が継ぎました。そのときは12代将軍・足利義晴を擁した管領・細川高国の全盛期でした。阿波に逃れていた足利義澄の子義維(よしつな、将軍を解任された義稙の養子でもあった)や、細川澄元の子・晴元は、捲土重来を期して、1526年(大永6年)堺に渡りました。阿波守護・細川氏之、三好元長も一緒でした。義維は「堺公方」とよばれ、義晴方と対峙したのです。(段落全体①)

三好元長肖像画、見性寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そのときの対立構図は以下の通りです。
足利義維~細川晴元~細川氏之+三好元長~畠山義堯(よしたか、義就流)
    VS
12代将軍・足利義晴~管領・細川高国~六角定頼
1531年(享禄4年)元長は細川高国を打ち破り、自害に追い込みました。しかし、将軍・足利義晴と和睦したかった細川晴元と、元長を含む、足利義維を将軍にしたい勢力との間で内部分裂が起こりました。その翌年、晴元は本願寺の一向一揆を動員し、なんと味方であるはずの元長を堺で攻撃し、自害させたのです。元服前の長慶(千熊丸、せんくままる)も堺にいましたが、阿波に落ち延びました。(段落全体①)

足利義晴と細川晴元は和睦しますが、今度は一向一揆を制御しきれなくなり、晴元がその討伐を命じたのが、なんと長慶だったのです。細川氏に仕える長慶は従うしかなかったのです。長慶は畿内(大坂)に渡り、本願寺と和睦を成立させました。そして、摂津の越水(こしみず)城主として畿内で勢力を拡大させ、父の仇である細川晴元への下剋上に進んでいきます。将軍・義晴が六角定頼の方を重用し、晴元が反乱の戦後処理に失敗(側近・三好宗三の娘婿の池田信正を自害させ、財産を奪おうとしたとされる)したのを機に、国人(地元領主)の利益を守るとして挙兵したのです。そして細川高国の跡継ぎ・氏綱を擁立し、畠山氏を代表する遊佐長教と同盟して江口の戦いで晴元方を打ち破りました(1549年、天文18年)。晴元と足利義晴・その子で新将軍の義輝は京都を退去、連合軍が京都を支配したのです。(段落全体①②)

足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それに対して将軍・義輝が採った策は刺客を送ることでした。長慶は2度襲われ、遊佐長教は討たれてしまったのです。それでも長慶は、将軍を支えていた六角氏が代替わりすると(定頼→義賢)義輝と和睦する道を選びました。和睦に反対する細川晴元は没落しました(出家して若狭へ)。私情を捨てた長慶の決断により将軍家と管領家が統一されます(畠山氏も統一)。長慶自身も将軍の直臣(御供衆)になり、細川氏を後見する立場(氏綱と晴元の子で跡継ぎの昭元)にもなりました(1552年、天文22年)。ところが多くの幕臣も支持した幕府内統一に反して、将軍・義輝がまたも長慶を討とうとしたので、長慶は義輝を近江・朽木へ追放したのです(1553年、天文22年)。その替りとして長慶は、阿波にいた足利義維に上洛を促しましたが応じませんでした。そこで長慶はついに、足利将軍家の誰も擁立せず、自らの力だけで京都や畿内の支配(室町幕府に拠らない中央政権)に乗り出しました。戦国時代初めて「天下人」が誕生したのです。(段落全体①②⑥)

この長慶の活躍をバックアップしたのが、優秀な家臣団です。まず、阿波時代から長慶を支えた存在として、その弟たちが挙げられます(三好四兄弟)。
・三好実休(元長次男):三好氏の出身地・阿波を守護、後に南河内も支配
・安宅冬康(元長三男):淡路の安宅氏の養子になり、水軍を率いた
・十河一存(元長四男):讃岐の国人・十河氏の養子、和泉の岸和田城主
また畿内で新たに召し抱えた家臣団の代表は松永久秀でしょう。江戸時代以降、その所業(以下)が大悪人のように言われてきましたが、事実無根か、それなりの事情がありました。
・主君(三好義興)を討ったこと(事実は病死、久秀は悲嘆にくれた)
・将軍(足利義輝)を討ったこと(実際には子の久通が関与)
・奈良の大仏を焼いたこと(敵(三好三人衆など)が東大寺に布陣していた)
(段落全体②)

三好実休肖像画、妙国寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下の政庁、芥川山城

同じ頃(1553年、天文22年8月)、長慶は跡継ぎの義興とともに芥川山城に入城しました(②)。芥川山城は、京都と大坂間の高槻丘陵の三好山(標高183m)に築かれた、摂津国最大の山城です。最初は、三好氏とも戦った細川高国が1516年までに築きました。それを受けついだのが細川晴元、そして三好長慶です。実は長慶は入城直前にこの城を攻め、より標高が高い帯仕山(おびしやま、192m)に布陣しました。城は落城するのですが、兵糧攻めによるもので、長慶は城自体の強さは認識したものと思われます。城は、丘陵の西北端に築かれ、二方向を摂津峡に囲まれ、山の斜面が急で、自然の障壁を利用しました。それに土塁・堀切などを加工することで、尾根や山下からの攻撃を防いでいました。(以上➂④)

城の位置

城周辺の起伏地図

芥川山城の特徴の一つは、細川時代から山上に居館があったことです。他の山城でのケース(天文年間後半)よりかなり早いとされますが、当時の畿内での戦局がいかに過酷であったも表しています。主郭(本丸)には礎石の御殿が築かれ、長慶がここで政務を行ったと思われます。建物は、後の信長以後の時代にような瓦葺きではなく、一部瓦を使った(雁振瓦)を使った杮葺きだったようです。もう一つの特徴は、長慶時代に作られたとされる石垣です。当時は、石垣技術をもつ職人集団を動員できる権力者は限られていたのです。現在も、大手付近の石垣が残っていて、城主の権威を表していたと考えられます。(段落全体➂④⑤)

城想像図(現地説明パネル)の主郭部分
城想像図(現地説明パネル)の石垣部分
大手石垣

更に特筆されるのは、長慶は在京せず、芥川山城に留まって政務を行ったことです。幕府や朝廷の秩序から自由な立場をとるためだったのでしょう。朝廷や村落からの訴えは、重臣たち(松永久秀・三好長逸ら)によって長慶に取り次がれました。山麓に居館や城下町はなく、彼らは日常的に山上の城で暮らしていました。この城が「天下の政庁」になったのです。(段落全体②④)

1559年(永禄2年)に城近くの郡家(ぐんげ)村と真上(まかみ)村との間で水争いが起こったとき、長慶は現場検証を行わせ、郡家村の勝訴としました。その裁きは、幕府の奉行・家臣ではなく、自らの名前で行っています。(下記補足2,以上④⑤)このようなケースは、京都がある山城国でもありました(今里村・上植野村、下記補足3)。つまり、在地からは長慶の実力に裏付けされた裁きが求められていたのです。(以上②④)

(補足2)
今度当所と真上申し給う井手床の事、双方指図をもって、訴論に及ぶといえども、互いに証跡なし、真上支え申すは、往古より彼の井手▢▢無きの旨申す、渕底を究めんがため、検使等を差し遣わす、見さしむの処、年々の井手の跡顕然の上は、当所理運の旨に任せ、絵図の如く井手を構え、水便を専用すべき者也、仍って件の如し、
  永禄弐
    五月十九日  長慶(花押)
   郡家惣中
(三好長慶裁許状、「郡家財産区所蔵文書」)

(補足3)
当所と上々(植)野が申し結ぶ井内領内川井手の事、糾明の淵底を遂げる処、上野の申し分は其の理無きの上は、先々の如く今井蕪木用水を進退せしむべき者也、仍って状件の如し、
 天文廿三
   六月十八日   長慶(花押)
  今里村惣中
(「能勢久嗣家文書」)

三好長慶水論裁許井手絵図・裁許状、高槻市立しろあと歴史館にて展示

朝廷も京都を単独で支配する長慶に近づきました。長慶と義輝と同じ位(従四位下、1533年)として、禁裏(皇居)の修理も命じました(1556年)。1558年(弘治4年)、正親町天皇の即位に伴う改元(永禄元年)がありましが、天皇はそのことを長慶に相談しても、義輝には何も知らせませんでした。これは将軍としては大事件で、天皇から武家の代表として認められないことを意味します。義輝は激怒、新年号を使わず挙兵したのです。ここで長慶が行った決断は、義輝との再度の和睦でした。京都に戻った義輝には翌年、織田信長・長尾景虎などが謁見を求めて上洛してきました。地方大名にとって将軍の権威はまだ必要とされていたのです。(以上①②)長慶は、名より実をとる決断をしたのではないでしょうか。

正親町天皇肖像画、泉涌寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下人の「石垣の城」、飯盛城

再び幕府に組み込まれた長慶ですが、今度は三好勢力の領国拡大に乗り出します。畠山氏の内紛に介入し、1560年(永禄3年)に畠山高政を追放し、河内国を平定、重臣の松永久秀も大和国を平定しました。旧主君の細川氏以外の守護国にも領国を拡大したのです。最盛期には、畿内・阿波を中心に、13か国(一部を含む)にも及びました。この三好氏の姿勢は周辺大名にも衝撃を与えました(下記補足4)。(段落全体①②⑥)

(補足4)「三好といひけるもの、畿内を心のまゝにして、伊セ入(いり)なとゝ物言喧しかりければ、城あまたきつかせなとし給ふ」(北畠国永の和歌集より)

それと並行して、三好一門の家格向上にも努めました。主なものを挙げてみます。
・三好長逸(ながやす)、三好義興、松永久秀が従四位下に(将軍・義輝、長慶と同格)
・三好長慶、義興、実休(長慶弟)を御相伴衆に(各地域の有力大名並み)
・三好長慶、義興、松永久秀に桐御紋の使用許可(将軍家並み)
もともと三好氏は陪臣だったのが、ついに将軍家並みの家格になったのです。しかもそれまでは上杉謙信や北条氏のように、上位の家の名跡を継承したのに対し、三好氏とその家臣の松永氏はそのままで、従来の家格秩序を塗り替えたのです。しかし、この変化に関東の領主たちが不満を持っていたことも記録されています(下記補足5)。(段落全体①②⑥)

(補足5)「是れは皆、国家を治めらるべきため御刷(察)し候、然る時は、此の義は関東中においても、誹判あるべからず候」(北条氏康が不満をなだめたとされる言葉、「歴代古案」)

長慶は、河内を平定すると、その地の山城・飯盛城に居城を移しました。同時に家督を三好義興に譲り、芥川山城を任せました。新たに加えた地域を支配し、淀川を挟んで義興を「大御所」として後見し、大和の松永久秀も支援することを意図したと考えられます。また山麓には水陸の交通網が発達していて、三好氏の根拠地の一つだった堺ともつながっていました。(段落全体⑥⑦)

飯盛城の位置と河内国の範囲

飯盛城は、現・大阪府と奈良県の境になる生駒山地の北西にある飯盛山(標高314m)に築かれた河内国最大の山城でした(東西約400✕南北約700m)。畠山氏家臣出身の木沢長政が1530年(享禄3年)に整備し、長慶の前は畠山家臣・安見宗房が城主でした。城の北と西側が急斜面で自然の障壁になっていて、南と東側に堀などを多く作って守りを固めました。登城道は東側にあったと考えられます。(段落全体⑦⑧)

大東市歴史民俗資料館展示の模型は、城を西側から見ています

城は北から「御体塚(ごたいづか)曲輪」「高櫓郭(たかやぐら)曲輪」「千畳敷(せんじょうじき)曲輪」を中心とした3つのエリアに分かれていました。そのうち高櫓曲輪が最も標高が高く、そこから北側の曲輪群は面積も狭いため、戦になったときに使う「詰城」だったと考えられます。御体塚曲輪は、通常は兵が駐屯できるよう平らにするところ、わざと岩盤を残していることから、宗教施設であったと思われます。長慶は、自分の祖先とする源義光を祀る新羅社を勧請しているので、それがここにあった可能性があります。千畳敷曲輪は面積が広く、居住空間であったと考えられます。長慶はこの城でも城下町を作らなかったので、ここの屋敷に普段は住んでいたのでしょう。長慶は連歌を愛好していて、入城の翌年には文化人を城に招いて「飯盛千句」が催されました。その歌には城からの眺望や、畿内の名所が詠みこまれたそうです。(段落全体②⑦⑧)

御体塚曲輪
城を東側から見た想像図、大東市パンフレットより、千畳敷曲輪は手前側

それからなんといっても飯盛城の特徴は、芥川山城では部分的だった石垣がほぼ全域に用いられていることです。特に登城道だったと考えられる東側に集中しています。登城者に対して、城と長慶の威厳を示したと考えられます。安土城などの信長の城以前の「石垣の城」は大変珍しく、こういった面からも長慶は先駆けていたのです。この城からは京都から大阪平野を越えて淡路島まで一望することができます。逆にこの範囲に暮らす人々からは、飯盛城の威容が意識されたでしょう。また、長慶はキリスト教の布教を認め、家臣も入信者がいて、その中には高山右近の父(高山飛騨守)もいました。城下町はありませんでしたが、城下には彼らが住む集落や教会もあったそうです。(段落全体⑦⑧)

残存石垣の写真、大東市歴史民俗資料館にて展示
高櫓曲輪のとなり、本郭(展望台曲輪)からの眺め

長慶と城の最期

盤石に見えた三好政権でしたが、意外と早く崩れていきます。絶頂期の1561年(永禄4年)和泉を守る3番目の弟、十河一存(そごうかずまさ)が病没します。それをきっかけに畠山高政と六角義賢が反旗を翻します。翌年、1番目の弟・実休がその戦い(久米田の戦い)で討たれてしまいました。そして、そのまた翌年(1563年)には跡継ぎの義興まで芥川山城で病没しまうのです。十河一存の子・三好義継が、養子として長慶の跡継ぎになりました。1564年、永禄7年5月、長慶はもう一人の弟、安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛城に呼び、成敗しました。三好氏の分裂を防ぐためだったとも言われます。ところがその2ヶ月後(7月4日)長慶も亡くなってしまいます。その詳細は不明です。(段落全体①)

三好義興肖像画(模本)、京都大学総合博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長慶没後、三好氏は分裂します。1565年(永禄8年)三好義継は、将軍御所を襲い、将軍・足利義輝を討ち取りました。実は長慶生前から、義輝と三好氏の対立が再燃していて、義継が最初から将軍を討ち、取って代わることを考えていたという説があります。別の将軍を立てようとしなかったからです。それに反抗したのが重臣の三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)です。彼らは足利義維の子・義栄を14代将軍として擁立しました(1568年、永禄11年)。三好義継は、先に失脚していた松永久秀と結び、三人衆と対立しました。足利義昭と織田信長の上洛は、この状況下、義継・久秀と連携することで実現したのです。(段落全体①)

三好義継肖像画、京都市立芸術大学芸術資料館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1568年、永禄11年9月30日、義昭と信長は京都(洛中)に入る前に、芥川山城に入城しました。それまで三人衆の一人・三好長逸がいましたが、退去していました。彼らは10月14日まで滞在し、それから入京したのです。芥川山城は、このときも三好氏の本城であり畿内の政庁と認識されていたのです。その滞在には信長が三好氏の地位を継承したと知らしめる意味がありました。城は義昭の側近、和田惟政に与えられました。惟政は居城を平城の高槻城に移し、芥川山城には高山飛騨守を入れました。その後徐々に機能を停止し役割を終えたと考えられます。(以上①④)飯盛城は三好義継に与えられましたが、彼を最後の城主として廃城になりました(翌年高屋城に移動、1573年に信長に反抗し戦没)。(以上①⑧)

足利義昭坐像、等持院霊光殿蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

信長は上洛を果たすと、義昭は信長に副将軍か管領職を勧めたり、織田氏の主君である斯波氏の家督(武衛・左兵衛督)をつがせようとしましたが、信長は辞退しました。しかし長慶も拝領した「桐御紋」は受け取りました。これは、幕府から自立した権力を志向したからとも言われますが、信長が長慶の先例を見て、諸大名の反発を避けながら、自らの家格向上を狙ったとも言えます。長慶はいろんな意味で信長以下三英傑の先駆者だったのです。近代の歴史学者・中村考也氏は長慶のことを「深沈なる思慮と、周到なる用意と、富裕なる温情」と評しています。(段落全体②)

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

①「三好一族-戦国最初の「天下人」/天野忠幸著」中公新書
②「ミネルヴァ日本評伝選 三好長慶/天野忠幸著」ミネルヴァ書房
➂「歴史群像55号 戦国の堅城 摂津・芥川山城/中井均監修」学習研究社
④「史跡 芥川城跡パンプレット」高槻市
⑤ 高槻市立しろあと歴史館展示
⑥「歴史群像166号 三好長慶伝/天野忠幸著」学習研究社
⑦「歴史群像166号 戦国の城 河内・飯盛城/中西裕樹著」学習研究社
⑧「三好長慶と大東市の中世 -飯盛城はそのとき―」大東市歴史民俗資料館

「芥川山城 現地編」に続きます。
「飯盛城 現地編」に続きます。

181.小倉城 歴史編

小倉城には、再建された天守がありますが、細川忠興が城の大改修を行ったときに建てたオリジナル天守とは全然違う姿をしています。また、小倉の近くでは有名な「巌流島の決闘」も行われました。しかし有名な謎に包まれているのです。両者の真の姿を追ってみたいと思います。

イントロダクション

今回は、小倉城をご紹介します。前回、明石城をご紹介しましたが、明石城を築いた小笠原忠真が移ってきた先が小倉城だったのです。その際、明石の城や町に関わった宮本武蔵も一緒に移ってきて、小倉にも足跡を残しました。また、明石以前の修行時代には、小倉のすぐ近くで有名な「巌流島の決闘」が行われました。しかし実はこの出来事は、有名な割には謎に包まれているのです。その真の姿はどうだったのかひも解いてみたいと思います。

巌流島にある佐々木小次郎(左)宮本武蔵(右)像

小倉城の方は戦国時代から存在が確かめられていますが、関ヶ原の戦い後に小倉藩藩主となった細川忠興が大改修を行いました。そのときに天守も築かれるのですが、現在、その場所には再建された天守が建っています。しかし実はこの天守も、全然違う姿だったのです。城全体も幕末の動乱、近代以降の開発により、ほとんどが失われてしまっているので、こちらも真の姿を探っていく必要がありそうです。

小倉城の再建天守

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(小倉城と巌流島の決闘、真の姿とは?)

小倉城の築城と大改修

小倉を含む北九州地域は、関門海峡に面し、九州の玄関口として海上交通の要衝でした。小倉には鎌倉時代から城が築かれたという伝承がありますが、同時代の記録があるのは戦国時代からです。1569年(永禄12年)に毛利元就が「小倉津」に「平城」を築き部下(南条勘兵衛尉)に守備させたというものです(下記補足1)当時は北九州をめぐって毛利氏と・大友氏が争っていたのです。(段落全体①②を参考、以下番号のみ記載)

(補足1)永禄十一年戊辰八月上旬、(中略)翌年筑前表可有陣替之由、到芸州註進之、故元就御父子三人、輝元長府江御着陣、警固船数百艘乗浮之、為通路小倉津構平城、伯州南条勘兵衛尉被差籠、在津(1578年、天正6年「宗像大社辺津宮置札」)

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州平定がなされると、秀吉は近習の毛利勝信(もとは森吉成といったが、秀吉の命により改姓)に小倉の地を与えました。勝信は小倉城の改修に着手し、石垣を積み、建物には金箔瓦を載せました。現在も本丸一部に当時の石垣が残り、瓦の一部も見つかっています。ただし城の範囲は、小倉津がある紫川河口の西岸、後の本丸・松の丸・北の丸くらいと考えられています。しかし勝信は、関ヶ原の戦いで西軍に属したので改易になってしまいます。(段落全体①②⑥)

毛利勝信時代の多聞口横の石垣(右手前)、photoACより
毛利勝信時代の鬼瓦(一部)、小倉城天守内にて展示

関ヶ原後は、細川忠興が豊前一国と豊後の一部、30万石(表高)でこの地に入ってきました。細川氏はそれまで京都近辺にいたので、「思ヒ之外遠国」と感じたそうです。忠興は最初は黒田氏がいた中津城に入りましたが、1602年(慶長7年)に小倉城の大改修を始め、その年の内に本丸が完成したので本拠地として移りました。隣国の黒田氏・毛利氏への備えと、水陸交通の利便性を考慮したと思われます。天守の建築まで、その後更に数年を要しました。(段落全体①②⑥)

細川忠興肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊前国の範囲と城の位置

忠興は、城の範囲も大幅に拡張しました。城の中心部があった部分について、河口デルタの地形を利用し、東側の紫川と西側の板櫃川を天然の堀として、南側(海岸線から1.5~1.8kmの場所)に外堀を掘り、この中を「西曲輪」としました。その間は中堀・内堀など堀が幾重にも巡っています。更に紫川に東から流れ込む寒竹川(かんたけがわ、現在の神嶽川)も堀として活用し、そこから海に向かって外堀を作りました(現在の砂津川)。その中は「東曲輪」として町人地となりました(その後「帯曲輪」も追加)。その結果、全体は南北約1.6km、東西約1.75kmの広大な惣構えの城になりました。周囲は約8kmにも及んだそうです。その出入口は10ヶ所あり、門司往還とつながる門司口、長崎街道につながる到津(いとうづ)口など、主要街道と連動していました(下記補足2)。敵に攻められた時には、これらの出入口を堅く閉じ、堀を溢れさせる戦術を考えていたそうです。(段落全体①③④⑥)

(下記補足2)小倉城10口(④)
・門司口~門司往還
・中津口~中津街道
・香春口~秋月街道
・到津口~長崎街道
・溜池口~唐津街道
・他に、富野口、篠崎口、蟹喰口、紺屋町口、清水口

「小倉藩士屋敷絵図」、城の全体の姿がわかります、現地説明板より

小倉城が本格的に整備されているとき、近くで起こった出来事が、後に有名になる「巌流島の決闘」です。

「巌流島の決闘」真の姿は?

「巌流島の決闘」は、一般には1612年(慶長17年)の頃とされていますが、実ははっきりしないのです。武蔵が書いたとされる「五輪書」では、修業時代は13歳から28、9歳までとなっていますが、「巌流島」のことは一言も書かれていません。初めてこのことが出てくるのは、武蔵没後に養子の伊織が建てた「小倉碑文」です。ところがここにも時期は書かれていません。その後の諸説により、小倉に細川氏がいた頃だろうとされているのです。

小倉碑文 (licensed by 速日 via Wikimedia Commons)

一般的には一対一の決闘で、長い太刀と「燕返し」の技を持つ佐々木小次郎が待つ島に、舟の櫂を削って作った木刀を持った武蔵はわざと遅れて到着したとされます。怒って刀の鞘を海に投げ捨てた小次郎に対し「小次郎敗れたり」と言った武蔵のセリフも知られています。ところが一番古い「小倉碑文」には、兵術の達人で三尺の真剣を持つ「岩流」と、武蔵が同時に会して、武蔵が木刀の一撃で倒したということくらいしか書かれていないのです(下記補足3)。「佐々木小次郎」の名もなく、合っているのは場所と勝敗と、刀の種類くらいです。

(補足3)小倉に兵術の達人で岩流と名乗る者がいたので、武蔵は彼に試合を申し込んだ。岩流は真剣で戦おうと言ったが、武蔵は「そちらは真剣で、私は木刀でその術を尽くそう」とこたえた。堅く約束をして長門と豊前の際の舟島で、両者同時に会した。岩流は三尺の真剣を手にやってきて、命を顧みず術を尽した。武蔵は木刀の一撃をもってこれを殺した。電光もなお遅いとおもわせるような早業であった。そこで俗に、舟島を改めて岩流島というようになった。(「小倉碑文」、現代語訳は⑤より)

小倉城天守内の宮本武蔵展示

その後書かれた多くの「武蔵伝」の中で、比較的信憑できる史料(「兵法大祖武州玄信公伝来」)ではどうなっているでしょうか。
・成立:1727年(享保12年)福岡藩・立花専太夫著
・時期:武蔵19歳のとき
・相手と武装:長府の者・津田小次郎、通称「巌流」、二尺七寸の青江の刀
・武蔵の境遇・武装:摂津国あたりから豊前にやってきた、舟の櫂を四尺に切った木刀、刃には二寸釘多数
・到着:武蔵が待ち、小次郎が小舟で到着
・周囲:武蔵と入魂の「門司の城主何某(細川越中守家臣)ほか見物人多数
・勝敗:武蔵の木刀2撃(頭)で、小次郎絶命

「武蔵伝」で最も普及していると言われる「二天記」ではどうでしょうか。
・成立:1778年(安永5年)肥後八代・豊田景英著
・時期:武蔵29歳、慶長17年4月
・相手と武装:越前出身・岩流佐々木小次郎、細川忠興に召し抱えられ、三尺余の刀(備前長光)
・武蔵の境遇・武装:都から豊前にやってきた、舟の櫂を削って作った木刀
・到着:小次郎が忠興の船で先に到着、武蔵が小舟で遅れて到着、怒った小次郎に「小次郎負たり」
・周囲:検使警固の者たち
・勝敗:武蔵の木刀2撃(頭・脇腹)後、武蔵が小次郎の様子を伺うが、絶命か

熊本藩の家老の家の記録(「沼田家記」)にはとんでもない記述があります。
・成立:1672年(寛文12年)編さん
・時期:細川氏重臣・沼田氏が門司にいたとき
・相手:小次郎と申す者、豊前で岩流の兵法の師範
・武蔵の境遇:豊前で二刀兵法の師範
・到着:(特に記述なし)
・周囲:武蔵方の弟子が数人隠れていた
・勝敗:小次郎は武蔵に打たれるが蘇生、その後武蔵の弟子たちにより打たれ絶命

これらの共通項は、現・巌流島で武蔵と岩流(巌流)が勝負をして武蔵が勝ったということだけです。結局、一番古い「小倉碑文」に戻ってしまうような感じですが、仮にこの決闘が武蔵29歳(1612年、慶長17年)のときのことだとすると、2年後に始まる大坂の陣を機に、修行時代を終わらせたのかもしれません。(セクション全体⑤)

現在の巌流島

小倉城、真の姿は?

現在再建され、小倉のシンボルとなっている天守ですが、オリジナルは1610年、慶長15年11月、天守五段目に「不動尊の御札」を納めて完成となりました。当時も城郭最大の建築物で、城主の権力と富の象徴であり、籠城の際の最後の砦として築かれました。残念ながらこの天守は、1837年(天保8年)の火災で焼失してしまいました。残された史料が少なく、外観も4重なのか5重なのか議論がありましたが、現在では4重5階だったという結論になっています。(段落全体①③)

オリジナル天守の模型、小倉城天守内にて展示

建物の高さは22.8メートルで、一階部分の面積は当時日本最大級の広さでした。現在の天守と違って、最上階を除いて屋根の破風はなく、「層塔型」という四角い箱を積み上げたようなシンプルなスタイルでした。特徴的なのは、四階と五階の間に屋根がなく、しかも五階が四階より張り出していました。これは「唐造り」と呼ばれますが、回りを黒戸板で囲っていて、当時は「黒段」と呼ばれていました。細川忠興自慢の天守だったようです。この天守の様式は、他の城の天守にも影響を与え、例として津山城、高松城が挙げられます。また現在残る天守台石垣も藩主の自慢で、安定させるよう「輪取り(石垣をわざと内側に湾曲させる)」や「顎止め(下部の石垣をやや張り出させる)」などの技法が使われています。石垣の高さは18.8mあるので、天守全体では約42mにもなったのです。(段落全体①③⑥)

小倉城創建当時の天守規模比較、小倉城天守内にて展示
天守を含む津山城の古写真、明治初期、松平国忠撮影 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城天守の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天守が置かれた位置も重要で、本丸の北東側にあって、この方面(虎ノ門)から本丸を目指して攻めてくる敵に対して、次の門(北口門、大手前門)の手前で攻撃することができました。更に大手門まで攻められたとしても、攻撃できる位置に作られたのです。(段落全体①)

「豊前国小倉城絵図」の城中心部分、出展:国立公文書館

このように城を完成させた細川忠興ですが、次の代の忠利の1632年(寛永9年)に熊本藩の加藤忠広が改易となり、細川氏はその後釜になりました。小倉城には明石から、小笠原忠真が移ってきました(明石10万石→15万石、一族を合わせると30万石余)。譜代大名として「九州探題(九州の外様大名監視の任)」を期待されたのです。もちろん家老の宮本伊織とその養父・宮本武蔵も一緒です。(段落全体①③)

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は、明石から小倉に来たときの宮本武蔵についても、記録が少ないのです。唯一知られるのは島原の乱(「有馬陣」)への参陣です。武蔵は55歳になっていました。藩主・小笠原忠真、養子の伊織(侍大将兼惣軍奉行)とともに出陣しました。1638年、寛永15年2月28、29日の総攻撃直後に出された武蔵書状によると、一揆軍の投げた石に当たり、足が立たなくなったとのことです。(下記補足4)もっともこの書状は一種の戦功証明書でもあるため、武蔵自身が前線に出て、勇敢に戦いの場に臨んだということも主張していると考えられます。

(補足4)(私のことを)おもいつきいただき、お手紙忝く存じます。さて、倅伊織(の戦功)がお耳に立ちましたこと、大変よろこばしく存じています。私の方は老足のほど御推量ください。貴侯様の仰せのように、御家中衆へも私の手先から(互いの戦功の証人となるように)約束いたしました。ことに貴方様父子(有馬直純・康純)ともに、本丸まで早々に(攻め上られ)たことには驚きました。私も(攻め上りましたが、一揆軍の投げた)石に当たり、足が立たなくなりましたので(上使松平信綱様の)御目見えにも伺候しませんでした。では、重ねて御意を得たいと存じます。即刻ご返事まで。
 玄信(花押)
(有馬直純宛宮本武蔵書状、現代語訳は⑤より)

島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

その2年後(1640年)、武蔵は細川忠利の招きにより熊本に移りました。その際の家老(長岡興長)宛て武蔵書状によると、島原の乱以前から交流があり、乱後の武蔵は江戸・上方にいたことがわかります(以下補足5)。このことから、小笠原氏下の小倉時代には、家老・宮本伊織の養父としてかなり自由に動き回っていたと想像できます。(以上⑤)

(補足5)一筆申し上げます。有馬陳(陣)の折りには御使者を寄越され、殊に御音信(贈り物)など御気遣いいただき、過分の極みと存じております。私はその後江戸や上方におりましたが、今こちらに参っておりますのは御不審におもわれることでしょう。少しばかり用事がありましたのでやって参りました。逗留いたしますので祇候いたしたいとおもいます。恐惶謹言。
 (寛永十七年)七月十八日 玄信(花押)
(長岡佐渡守興長宛宮本武蔵書状、現代語訳は⑤より)

宮本武蔵肖像画、島田美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後、小笠原氏は10代にわたり幕末まで小倉藩と小倉城を統治しました。天守最上階には大太鼓が置かれ、事が起きたとき、城下の人々に急を告げていたそうです。城下町は交通の要所として繁栄し、商人・旅人・参勤交代の大名の宿場にもなりました。中でも、諸街道の起点であり、紫川河口近くにかかって「西曲輪」と「東曲輪」を結ぶ常盤橋周辺は特に賑わいました。その辺りは湊でもあったので、多くの船も停泊していました。1859年(安政6年)小倉に一泊した長岡藩士・河井継之助はその様子を記しています。(下記補足6,以上①④)

(補足6)「城下へ入りてより大橋(常盤橋)を渡り、宿屋までは余程長かりし様に覚ゆ。大橋は則ち船着にて、此の辺り随一に賑やかなり。宿屋も其の近辺なり」(「塵壺」)

小笠原流流鏑馬のジオラマ、小倉城天守内にて展示
常盤橋のジオラマ、小倉城天守内にて展示

しかし幕末以降、小倉と城は大きな試練を迎えることになります。

小倉城炎上から天守再建まで

1866年(慶応2年)第二次長州征討が起こり、小倉口の戦いで小倉藩領が戦場になったのです。幕府方は小倉を本営とし、小倉藩の親戚、唐津藩・小笠原長行(ながみち)が征長軍総督となっていました。軍勢は小倉藩に、援軍の熊本・久留米・柳川藩などを加え約2万でした。しかし小倉藩では前年に藩主(小笠原忠幹、ただよし)が亡くなり、跡継ぎの4歳の幼君(豊千代丸)を重臣たちが補佐する体制だったのです。長州勢は千人でしたが、高杉晋作に率いられた奇兵隊などの精鋭でした。慶応2年6月17日、長州勢の奇襲により戦いが始まり、27日の3度目の攻撃は、熊本藩勢の反撃により撃退されました。(段落全体①⑦)

小笠原長行肖像画、国立国会図書館デジタルコレクションより (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが7月30日、大坂城での将軍・徳川家茂病没の知らせを受けた総督・小笠原長行が、突然逃げ帰ってしまったのです(富士山艦で長崎へ)。それを知った諸藩も国元に引き上げました。小倉藩は孤立してしまったのです。重臣たちはその日の夜評定を開き、単独での防戦は困難で、城を「開城」し、要害に籠って防戦するとの結論に達しました。翌8月1日、城には火がつけられ、3万の住民たちも避難しました。この突然の大事件は「丙寅御変動(へいいんごへんどう)」として語り継がれますが、幕府による九州支配の崩壊も現していました。小倉城は長州藩により占領されますが、幼君は熊本藩に身を寄せ、藩士たちは領内の香春(かわら)を拠点に翌年1月まで長州勢と戦いました(下記補足7、段落全体①⑦)。

(補足7)小倉藩は居城の小倉城を自焼し、領地を侵害されても、なお死力を尽くして代々の幕府の恩に報いた。力尽き、万策尽きるまで長州藩と戦った小倉藩の働きは「実に義を重んずるの挙動なり」と言える。他日、徳川幕府の歴史を編纂する者は、この小倉藩の事績を大書、特書するべきである(山県有朋「懐旧記事」、現代語訳は①)

当時の瓦版「九州小倉合戦図」、出典:文化庁文化遺産オンライン

明治維新後、小倉を含む北九州地域には、国防の要衝として軍隊やその施設が多く配備されました。小倉城内に限ると主には以下のように推移しました。
・1898年(明治31年):本丸に第12師団司令部開設(1925年久留米に移転)
・1925年(大正15年):松の丸に野戦重砲兵第2旅団司令部
・1928年(昭和3年):上記司令部が小倉連隊区司令部とともに旧第12師団司令部庁舎に移転
・1933年(昭和8年):三の丸跡を含む区域に小倉工廠設置
・1937年(昭和12年):本丸跡に西部防衛司令部設置(1940年福岡に移転)
中でも小倉工廠は、関東大震災で壊滅した東京工廠が移転してできたもので、西日本最大級の軍事工場でした。この工場は「小倉陸軍造兵廠」という名前になりますが、ここが1945年(昭和20年)8月9日、米軍B29爆撃機「ボックスカー」による原子爆弾投下の第一目標地になったのです。(段落全体①⑧)

小倉工廠配置図、北九州平和のまちミュージアムにて展示
国立アメリカ空軍博物館に展示されるボックスカー (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「ボックスカー」は、3回爆撃航程をとりましたが、「もや」と「煙」で目標が見えなかったため、第二目標地の長崎に向かったのです。一般にこれは天候のためと言われてきましたが、実は前日(8月8日)にとなりの八幡市(当時)で大空襲(犠牲者約2900人)があり、その被害による煙だったという説が出てきています(他にも八幡製鉄所による煙幕説もあり)。現在、三の丸跡には「原爆犠牲者慰霊平和祈念碑」があります。(段落全体⑧)

三の丸にある原爆犠牲者慰霊平和祈念碑

戦後、小倉城跡はアメリカ軍により接収され、その駐留は1959年(昭和34年)まで続きました。返還を受けた小倉市(当時)は、勝山公園として城跡を整備することにしました。その目玉として、天守が焼亡以来122年ぶりに再建されました(鉄筋コンクリート造)。その天守の屋根には、かつては存在しなかった破風がいくつも付けられました。オリジナルの外観を正確に復元はしていないものの、以前と同じ場所に建てられたものとして「復興天守」に分類されています。設計者の方(藤岡通夫氏)は当初、4重5階の層塔型としてオリジナルに近い形にしたかったようですが、地元の要望により設計変更せざるをえなかったとのことです。(下記補足8、段落全体①④)

(補足8)依頼者である会社(小倉観光株式会社)の人から各重に破風がないのは天守らしくない、破風がなく観光客に訴える力がないと強硬に責められるので、仕方なくくっつけたが、やはり本当はない方がよかったのだ(「小倉城 小倉城調査報告書」より天守完成時の座談会での設計者の説明とされる内容)

小倉城の復興天守

私の感想

現在の小倉城天守を見ると、ぱっと見、大阪城天守を連想します。小倉城天守を再建した当時は、天守と言えば、派手な飾りがあるものという常識があったのかもしれません。現在であれば、破風がないオリジナルデザインの方が、史跡という意味以外に、個性的でかえって人気が出るかもしれません。しかし現在の小倉城天守は、そのときの人々の考えを反映した、昭和時代の史跡とも言えるのではないでしょうか。

大阪城天守

リンク、参考情報

①「小倉城と城下町/北九州市立自然史・歴史博物館編」海鳥社
②「日本の城改訂版第95号」デアゴスティーニジャパン
③ 小倉城天守内外展示
④ 小倉城 公式サイト
⑤「人物叢書 宮本武蔵/大倉隆二」吉川弘文館
⑥「よみがえる日本の城20」学研
⑦「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
⑧ 北九州平和のまちミュージアム展示

「小倉城 現地編」に続きます。

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