181.小倉城 歴史編

小倉城には、再建された天守がありますが、細川忠興が城の大改修を行ったときに建てたオリジナル天守とは全然違う姿をしています。また、小倉の近くでは有名な「巌流島の決闘」も行われました。しかし有名な謎に包まれているのです。両者の真の姿を追ってみたいと思います。

イントロダクション

今回は、小倉城をご紹介します。前回、明石城をご紹介しましたが、明石城を築いた小笠原忠真が移ってきた先が小倉城だったのです。その際、明石の城や町に関わった宮本武蔵も一緒に移ってきて、小倉にも足跡を残しました。また、明石以前の修行時代には、小倉のすぐ近くで有名な「巌流島の決闘」が行われました。しかし実はこの出来事は、有名な割には謎に包まれているのです。その真の姿はどうだったのかひも解いてみたいと思います。

巌流島にある佐々木小次郎(左)宮本武蔵(右)像

小倉城の方は戦国時代から存在が確かめられていますが、関ヶ原の戦い後に小倉藩藩主となった細川忠興が大改修を行いました。そのときに天守も築かれるのですが、現在、その場所には再建された天守が建っています。しかし実はこの天守も、全然違う姿だったのです。城全体も幕末の動乱、近代以降の開発により、ほとんどが失われてしまっているので、こちらも真の姿を探っていく必要がありそうです。

小倉城の再建天守

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(小倉城と巌流島の決闘、真の姿とは?)

小倉城の築城と大改修

小倉を含む北九州地域は、関門海峡に面し、九州の玄関口として海上交通の要衝でした。小倉には鎌倉時代から城が築かれたという伝承がありますが、同時代の記録があるのは戦国時代からです。1569年(永禄12年)に毛利元就が「小倉津」に「平城」を築き部下(南条勘兵衛尉)に守備させたというものです(下記補足1)当時は北九州をめぐって毛利氏と・大友氏が争っていたのです。(段落全体①②を参考、以下番号のみ記載)

(補足1)永禄十一年戊辰八月上旬、(中略)翌年筑前表可有陣替之由、到芸州註進之、故元就御父子三人、輝元長府江御着陣、警固船数百艘乗浮之、為通路小倉津構平城、伯州南条勘兵衛尉被差籠、在津(1578年、天正6年「宗像大社辺津宮置札」)

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州平定がなされると、秀吉は近習の毛利勝信(もとは森吉成といったが、秀吉の命により改姓)に小倉の地を与えました。勝信は小倉城の改修に着手し、石垣を積み、建物には金箔瓦を載せました。現在も本丸一部に当時の石垣が残り、瓦の一部も見つかっています。ただし城の範囲は、小倉津がある紫川河口の西岸、後の本丸・松の丸・北の丸くらいと考えられています。しかし勝信は、関ヶ原の戦いで西軍に属したので改易になってしまいます。(段落全体①②⑥)

毛利勝信時代の多聞口横の石垣(右手前)、photoACより
毛利勝信時代の鬼瓦(一部)、小倉城天守内にて展示

関ヶ原後は、細川忠興が豊前一国と豊後の一部、30万石(表高)でこの地に入ってきました。細川氏はそれまで京都近辺にいたので、「思ヒ之外遠国」と感じたそうです。忠興は最初は黒田氏がいた中津城に入りましたが、1602年(慶長7年)に小倉城の大改修を始め、その年の内に本丸が完成したので本拠地として移りました。隣国の黒田氏・毛利氏への備えと、水陸交通の利便性を考慮したと思われます。天守の建築まで、その後更に数年を要しました。(段落全体①②⑥)

細川忠興肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊前国の範囲と城の位置

忠興は、城の範囲も大幅に拡張しました。城の中心部があった部分について、河口デルタの地形を利用し、東側の紫川と西側の板櫃川を天然の堀として、南側(海岸線から1.5~1.8kmの場所)に外堀を掘り、この中を「西曲輪」としました。その間は中堀・内堀など堀が幾重にも巡っています。更に紫川に東から流れ込む寒竹川(かんたけがわ、現在の神嶽川)も堀として活用し、そこから海に向かって外堀を作りました(現在の砂津川)。その中は「東曲輪」として町人地となりました(その後「帯曲輪」も追加)。その結果、全体は南北約1.6km、東西約1.75kmの広大な惣構えの城になりました。周囲は約8kmにも及んだそうです。その出入口は10ヶ所あり、門司往還とつながる門司口、長崎街道につながる到津(いとうづ)口など、主要街道と連動していました(下記補足2)。敵に攻められた時には、これらの出入口を堅く閉じ、堀を溢れさせる戦術を考えていたそうです。(段落全体①③④⑥)

(下記補足2)小倉城10口(④)
・門司口~門司往還
・中津口~中津街道
・香春口~秋月街道
・到津口~長崎街道
・溜池口~唐津街道
・他に、富野口、篠崎口、蟹喰口、紺屋町口、清水口

「小倉藩士屋敷絵図」、城の全体の姿がわかります、現地説明板より

小倉城が本格的に整備されているとき、近くで起こった出来事が、後に有名になる「巌流島の決闘」です。

「巌流島の決闘」真の姿は?

「巌流島の決闘」は、一般には1612年(慶長17年)の頃とされていますが、実ははっきりしないのです。武蔵が書いたとされる「五輪書」では、修業時代は13歳から28、9歳までとなっていますが、「巌流島」のことは一言も書かれていません。初めてこのことが出てくるのは、武蔵没後に養子の伊織が建てた「小倉碑文」です。ところがここにも時期は書かれていません。その後の諸説により、小倉に細川氏がいた頃だろうとされているのです。

小倉碑文 (licensed by 速日 via Wikimedia Commons)

一般的には一対一の決闘で、長い太刀と「燕返し」の技を持つ佐々木小次郎が待つ島に、舟の櫂を削って作った木刀を持った武蔵はわざと遅れて到着したとされます。怒って刀の鞘を海に投げ捨てた小次郎に対し「小次郎敗れたり」と言った武蔵のセリフも知られています。ところが一番古い「小倉碑文」には、兵術の達人で三尺の真剣を持つ「岩流」と、武蔵が同時に会して、武蔵が木刀の一撃で倒したということくらいしか書かれていないのです(下記補足3)。「佐々木小次郎」の名もなく、合っているのは場所と勝敗と、刀の種類くらいです。

(補足3)小倉に兵術の達人で岩流と名乗る者がいたので、武蔵は彼に試合を申し込んだ。岩流は真剣で戦おうと言ったが、武蔵は「そちらは真剣で、私は木刀でその術を尽くそう」とこたえた。堅く約束をして長門と豊前の際の舟島で、両者同時に会した。岩流は三尺の真剣を手にやってきて、命を顧みず術を尽した。武蔵は木刀の一撃をもってこれを殺した。電光もなお遅いとおもわせるような早業であった。そこで俗に、舟島を改めて岩流島というようになった。(「小倉碑文」、現代語訳は⑤より)

小倉城天守内の宮本武蔵展示

その後書かれた多くの「武蔵伝」の中で、比較的信憑できる史料(「兵法大祖武州玄信公伝来」)ではどうなっているでしょうか。
・成立:1727年(享保12年)福岡藩・立花専太夫著
・時期:武蔵19歳のとき
・相手と武装:長府の者・津田小次郎、通称「巌流」、二尺七寸の青江の刀
・武蔵の境遇・武装:摂津国あたりから豊前にやってきた、舟の櫂を四尺に切った木刀、刃には二寸釘多数
・到着:武蔵が待ち、小次郎が小舟で到着
・周囲:武蔵と入魂の「門司の城主何某(細川越中守家臣)ほか見物人多数
・勝敗:武蔵の木刀2撃(頭)で、小次郎絶命

「武蔵伝」で最も普及していると言われる「二天記」ではどうでしょうか。
・成立:1778年(安永5年)肥後八代・豊田景英著
・時期:武蔵29歳、慶長17年4月
・相手と武装:越前出身・岩流佐々木小次郎、細川忠興に召し抱えられ、三尺余の刀(備前長光)
・武蔵の境遇・武装:都から豊前にやってきた、舟の櫂を削って作った木刀
・到着:小次郎が忠興の船で先に到着、武蔵が小舟で遅れて到着、怒った小次郎に「小次郎負たり」
・周囲:検使警固の者たち
・勝敗:武蔵の木刀2撃(頭・脇腹)後、武蔵が小次郎の様子を伺うが、絶命か

熊本藩の家老の家の記録(「沼田家記」)にはとんでもない記述があります。
・成立:1672年(寛文12年)編さん
・時期:細川氏重臣・沼田氏が門司にいたとき
・相手:小次郎と申す者、豊前で岩流の兵法の師範
・武蔵の境遇:豊前で二刀兵法の師範
・到着:(特に記述なし)
・周囲:武蔵方の弟子が数人隠れていた
・勝敗:小次郎は武蔵に打たれるが蘇生、その後武蔵の弟子たちにより打たれ絶命

これらの共通項は、現・巌流島で武蔵と岩流(巌流)が勝負をして武蔵が勝ったということだけです。結局、一番古い「小倉碑文」に戻ってしまうような感じですが、仮にこの決闘が武蔵29歳(1612年、慶長17年)のときのことだとすると、2年後に始まる大坂の陣を機に、修行時代を終わらせたのかもしれません。(セクション全体⑤)

現在の巌流島

小倉城、真の姿は?

現在再建され、小倉のシンボルとなっている天守ですが、オリジナルは1610年、慶長15年11月、天守五段目に「不動尊の御札」を納めて完成となりました。当時も城郭最大の建築物で、城主の権力と富の象徴であり、籠城の際の最後の砦として築かれました。残念ながらこの天守は、1837年(天保8年)の火災で焼失してしまいました。残された史料が少なく、外観も4重なのか5重なのか議論がありましたが、現在では4重5階だったという結論になっています。(段落全体①③)

オリジナル天守の模型、小倉城天守内にて展示

建物の高さは22.8メートルで、一階部分の面積は当時日本最大級の広さでした。現在の天守と違って、最上階を除いて屋根の破風はなく、「層塔型」という四角い箱を積み上げたようなシンプルなスタイルでした。特徴的なのは、四階と五階の間に屋根がなく、しかも五階が四階より張り出していました。これは「唐造り」と呼ばれますが、回りを黒戸板で囲っていて、当時は「黒段」と呼ばれていました。細川忠興自慢の天守だったようです。この天守の様式は、他の城の天守にも影響を与え、例として津山城、高松城が挙げられます。また現在残る天守台石垣も藩主の自慢で、安定させるよう「輪取り(石垣をわざと内側に湾曲させる)」や「顎止め(下部の石垣をやや張り出させる)」などの技法が使われています。石垣の高さは18.8mあるので、天守全体では約42mにもなったのです。(段落全体①③⑥)

小倉城創建当時の天守規模比較、小倉城天守内にて展示
天守を含む津山城の古写真、明治初期、松平国忠撮影 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城天守の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天守が置かれた位置も重要で、本丸の北東側にあって、この方面(虎ノ門)から本丸を目指して攻めてくる敵に対して、次の門(北口門、大手前門)の手前で攻撃することができました。更に大手門まで攻められたとしても、攻撃できる位置に作られたのです。(段落全体①)

「豊前国小倉城絵図」の城中心部分、出展:国立公文書館

このように城を完成させた細川忠興ですが、次の代の忠利の1632年(寛永9年)に熊本藩の加藤忠広が改易となり、細川氏はその後釜になりました。小倉城には明石から、小笠原忠真が移ってきました(明石10万石→15万石、一族を合わせると30万石余)。譜代大名として「九州探題(九州の外様大名監視の任)」を期待されたのです。もちろん家老の宮本伊織とその養父・宮本武蔵も一緒です。(段落全体①③)

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は、明石から小倉に来たときの宮本武蔵についても、記録が少ないのです。唯一知られるのは島原の乱(「有馬陣」)への参陣です。武蔵は55歳になっていました。藩主・小笠原忠真、養子の伊織(侍大将兼惣軍奉行)とともに出陣しました。1638年、寛永15年2月28、29日の総攻撃直後に出された武蔵書状によると、一揆軍の投げた石に当たり、足が立たなくなったとのことです。(下記補足4)もっともこの書状は一種の戦功証明書でもあるため、武蔵自身が前線に出て、勇敢に戦いの場に臨んだということも主張していると考えられます。

(補足4)(私のことを)おもいつきいただき、お手紙忝く存じます。さて、倅伊織(の戦功)がお耳に立ちましたこと、大変よろこばしく存じています。私の方は老足のほど御推量ください。貴侯様の仰せのように、御家中衆へも私の手先から(互いの戦功の証人となるように)約束いたしました。ことに貴方様父子(有馬直純・康純)ともに、本丸まで早々に(攻め上られ)たことには驚きました。私も(攻め上りましたが、一揆軍の投げた)石に当たり、足が立たなくなりましたので(上使松平信綱様の)御目見えにも伺候しませんでした。では、重ねて御意を得たいと存じます。即刻ご返事まで。
 玄信(花押)
(有馬直純宛宮本武蔵書状、現代語訳は⑤より)

島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

その2年後(1640年)、武蔵は細川忠利の招きにより熊本に移りました。その際の家老(長岡興長)宛て武蔵書状によると、島原の乱以前から交流があり、乱後の武蔵は江戸・上方にいたことがわかります(以下補足5)。このことから、小笠原氏下の小倉時代には、家老・宮本伊織の養父としてかなり自由に動き回っていたと想像できます。(以上⑤)

(補足5)一筆申し上げます。有馬陳(陣)の折りには御使者を寄越され、殊に御音信(贈り物)など御気遣いいただき、過分の極みと存じております。私はその後江戸や上方におりましたが、今こちらに参っておりますのは御不審におもわれることでしょう。少しばかり用事がありましたのでやって参りました。逗留いたしますので祇候いたしたいとおもいます。恐惶謹言。
 (寛永十七年)七月十八日 玄信(花押)
(長岡佐渡守興長宛宮本武蔵書状、現代語訳は⑤より)

宮本武蔵肖像画、島田美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後、小笠原氏は10代にわたり幕末まで小倉藩と小倉城を統治しました。天守最上階には大太鼓が置かれ、事が起きたとき、城下の人々に急を告げていたそうです。城下町は交通の要所として繁栄し、商人・旅人・参勤交代の大名の宿場にもなりました。中でも、諸街道の起点であり、紫川河口近くにかかって「西曲輪」と「東曲輪」を結ぶ常盤橋周辺は特に賑わいました。その辺りは湊でもあったので、多くの船も停泊していました。1859年(安政6年)小倉に一泊した長岡藩士・河井継之助はその様子を記しています。(下記補足6,以上①④)

(補足6)「城下へ入りてより大橋(常盤橋)を渡り、宿屋までは余程長かりし様に覚ゆ。大橋は則ち船着にて、此の辺り随一に賑やかなり。宿屋も其の近辺なり」(「塵壺」)

小笠原流流鏑馬のジオラマ、小倉城天守内にて展示
常盤橋のジオラマ、小倉城天守内にて展示

しかし幕末以降、小倉と城は大きな試練を迎えることになります。

小倉城炎上から天守再建まで

1866年(慶応2年)第二次長州征討が起こり、小倉口の戦いで小倉藩領が戦場になったのです。幕府方は小倉を本営とし、小倉藩の親戚、唐津藩・小笠原長行(ながみち)が征長軍総督となっていました。軍勢は小倉藩に、援軍の熊本・久留米・柳川藩などを加え約2万でした。しかし小倉藩では前年に藩主(小笠原忠幹、ただよし)が亡くなり、跡継ぎの4歳の幼君(豊千代丸)を重臣たちが補佐する体制だったのです。長州勢は千人でしたが、高杉晋作に率いられた奇兵隊などの精鋭でした。慶応2年6月17日、長州勢の奇襲により戦いが始まり、27日の3度目の攻撃は、熊本藩勢の反撃により撃退されました。(段落全体①⑦)

小笠原長行肖像画、国立国会図書館デジタルコレクションより (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが7月30日、大坂城での将軍・徳川家茂病没の知らせを受けた総督・小笠原長行が、突然逃げ帰ってしまったのです(富士山艦で長崎へ)。それを知った諸藩も国元に引き上げました。小倉藩は孤立してしまったのです。重臣たちはその日の夜評定を開き、単独での防戦は困難で、城を「開城」し、要害に籠って防戦するとの結論に達しました。翌8月1日、城には火がつけられ、3万の住民たちも避難しました。この突然の大事件は「丙寅御変動(へいいんごへんどう)」として語り継がれますが、幕府による九州支配の崩壊も現していました。小倉城は長州藩により占領されますが、幼君は熊本藩に身を寄せ、藩士たちは領内の香春(かわら)を拠点に翌年1月まで長州勢と戦いました(下記補足7、段落全体①⑦)。

(補足7)小倉藩は居城の小倉城を自焼し、領地を侵害されても、なお死力を尽くして代々の幕府の恩に報いた。力尽き、万策尽きるまで長州藩と戦った小倉藩の働きは「実に義を重んずるの挙動なり」と言える。他日、徳川幕府の歴史を編纂する者は、この小倉藩の事績を大書、特書するべきである(山県有朋「懐旧記事」、現代語訳は①)

当時の瓦版「九州小倉合戦図」、出典:文化庁文化遺産オンライン

明治維新後、小倉を含む北九州地域には、国防の要衝として軍隊やその施設が多く配備されました。小倉城内に限ると主には以下のように推移しました。
・1898年(明治31年):本丸に第12師団司令部開設(1925年久留米に移転)
・1925年(大正15年):松の丸に野戦重砲兵第2旅団司令部
・1928年(昭和3年):上記司令部が小倉連隊区司令部とともに旧第12師団司令部庁舎に移転
・1933年(昭和8年):三の丸跡を含む区域に小倉工廠設置
・1937年(昭和12年):本丸跡に西部防衛司令部設置(1940年福岡に移転)
中でも小倉工廠は、関東大震災で壊滅した東京工廠が移転してできたもので、西日本最大級の軍事工場でした。この工場は「小倉陸軍造兵廠」という名前になりますが、ここが1945年(昭和20年)8月9日、米軍B29爆撃機「ボックスカー」による原子爆弾投下の第一目標地になったのです。(段落全体①⑧)

小倉工廠配置図、北九州平和のまちミュージアムにて展示
国立アメリカ空軍博物館に展示されるボックスカー (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「ボックスカー」は、3回爆撃航程をとりましたが、「もや」と「煙」で目標が見えなかったため、第二目標地の長崎に向かったのです。一般にこれは天候のためと言われてきましたが、実は前日(8月8日)にとなりの八幡市(当時)で大空襲(犠牲者約2900人)があり、その被害による煙だったという説が出てきています(他にも八幡製鉄所による煙幕説もあり)。現在、三の丸跡には「原爆犠牲者慰霊平和祈念碑」があります。(段落全体⑧)

三の丸にある原爆犠牲者慰霊平和祈念碑

戦後、小倉城跡はアメリカ軍により接収され、その駐留は1959年(昭和34年)まで続きました。返還を受けた小倉市(当時)は、勝山公園として城跡を整備することにしました。その目玉として、天守が焼亡以来122年ぶりに再建されました(鉄筋コンクリート造)。その天守の屋根には、かつては存在しなかった破風がいくつも付けられました。オリジナルの外観を正確に復元はしていないものの、以前と同じ場所に建てられたものとして「復興天守」に分類されています。設計者の方(藤岡通夫氏)は当初、4重5階の層塔型としてオリジナルに近い形にしたかったようですが、地元の要望により設計変更せざるをえなかったとのことです。(下記補足8、段落全体①④)

(補足8)依頼者である会社(小倉観光株式会社)の人から各重に破風がないのは天守らしくない、破風がなく観光客に訴える力がないと強硬に責められるので、仕方なくくっつけたが、やはり本当はない方がよかったのだ(「小倉城 小倉城調査報告書」より天守完成時の座談会での設計者の説明とされる内容)

小倉城の復興天守

私の感想

現在の小倉城天守を見ると、ぱっと見、大阪城天守を連想します。小倉城天守を再建した当時は、天守と言えば、派手な飾りがあるものという常識があったのかもしれません。現在であれば、破風がないオリジナルデザインの方が、史跡という意味以外に、個性的でかえって人気が出るかもしれません。しかし現在の小倉城天守は、そのときの人々の考えを反映した、昭和時代の史跡とも言えるのではないでしょうか。

大阪城天守

リンク、参考情報

①「小倉城と城下町/北九州市立自然史・歴史博物館編」海鳥社
②「日本の城改訂版第95号」デアゴスティーニジャパン
③ 小倉城天守内外展示
④ 小倉城 公式サイト
⑤「人物叢書 宮本武蔵/大倉隆二」吉川弘文館
⑥「よみがえる日本の城20」学研
⑦「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
⑧ 北九州平和のまちミュージアム展示

「小倉城 現地編」に続きます。

58.明石城 歴史編

明石城は江戸時代、交通の要所・明石海峡近くに築かれた城です。同じ播磨国にあった姫路城と比べると目立たないかもしれません。しかし実は、現在残っている三重櫓2基は、全国に残っている三重櫓12基のうちの2つなのです。また、城や城下町の建設には、あの播磨国出身とされる宮本武蔵が関わったというのです。これらの地域や人物が、どのように明石城に結びついていったのか、歴史を追ってみましょう。

イントロダクション

兵庫県の明石といえば、本州と淡路島の間にある明石海峡、そこにかかる明石海峡大橋、そして海峡でとれる明石鯛、明石ダコ、タコを使った明石焼などが連想されるでしょう。海峡付近は、陸側でも六甲山地が海岸に迫っているので、海・陸ともに往来が集中する東西交通の要衝地域でした(下記参考資料①、以下番号のみ記載)。明石城は江戸時代、その地域に築かれた城です。同じ播磨国にあった姫路城と比べると目立たないかもしれません。しかし実は、現在残っている三重櫓2基は、全国に残っている三重櫓12基のうちの2つなのです。築城を行ったのは信濃国出身の大名・小笠原忠真(おがさわらただざね)なのですが、その築城の経緯も興味深く、その建物の多くは、伏見城や、かつて明石にあった船上(ふなげ)城などからの移築と言われています。また、城や城下町の建設には、あの播磨国出身とされる宮本武蔵が関わったというのです。これらの人物や以前の城が、どのように明石城に結びついていったのか、歴史を追ってみましょう。

明石海峡と明石海峡大橋
現存する坤櫓(左)と巽櫓(右)

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立地と歴史

明石城前史

ときは1582年(天正10年)、本能寺の変が起こり、豊臣(羽柴)秀吉が天下統一を進めていく頃に遡ります。秀吉は1585年(天正13年)、高山右近に明石の地を与え(下記補足1)、その際に船上城が築城されたと考えられています。その前後には、秀吉が四国攻めや九州攻めのために、明石で船を動員していたと思われる記録があります。船上城はその港湾(明石川岸)に隣接して築かれたようです。この城は、大阪湾防衛及び全国統一のための水軍拠点だったと考えられます。また、南蛮貿易のための窓口としても期待されていたのでしょう。高山右近はキリシタン大名として有名で、宣教師を常駐させ、キリスト教を広めていました。しかし、彼は1587年(天正15年)の「バテレン追放令」をきっかけに領地を没収され、追放されてしまいました。(段落全体②)

(補足1)一、今朝早々より、秀吉和州へ御越也、此中、国わけ、国がへ以下有之、和州筒井伊賀国へ被遣、和州へ美濃守殿被遣之、高山右近播州明石へ、(以下略)(「顕如上人貝塚御座所日記」)

城の位置

その後、船上城は豊臣氏の直轄となり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後は、播磨国を治めた池田氏の支城になり、1615年(元和元年)の「一国一城令」により城から屋敷扱いになりました。本丸には天守や多聞塀があったという記録があります(下記補足2)。(以上②)現在城跡と思われる範囲は、ほとんどが住宅地となり、本丸の一部だったとされる農地を、となりの船上西公園から見学できるのみです。周辺での発掘調査により堀跡や遺物が発見されています(②)。

(補足2)城構多門塀を掛け小き殿主も有之候(「小笠原忠真一代覚書乾」)

船上城の想像地図(現地説明パネルより)
船上西公園から見える船上城本丸の一部

小笠原忠真の家系は、戦国時代まで信濃守護を務めた名門です。曾祖父の小笠原長時が武田信玄に信濃を追われ、その子・貞慶とともに各地を流浪したのです。武田が滅び、本能寺の変が起こると、貞慶は信濃に戻り、旧領(深志、のちの松本)を回復したのです。その後紆余曲折がありますが、小笠原氏は徳川家康に仕え、関ヶ原後は、貞慶の子で忠真の父・秀政が松本8万石の大名になっていました(1613年~)。秀政の妻は家康の孫(松平信康の娘)でした。(段落全体③)

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、忠真(当時は忠政)は、父・秀政と兄・忠修(ただなが)ともに幕府方として出陣しました。5月6日の若江の戦いにおいて、小笠原隊に大坂方の木村重成隊が近づいたため、戦おうとしましたが、となりの榊原康勝隊の軍監・藤田信吉が、伏兵が控えていると思い、止めたのです。それが結果的に戦機を逃したことになり、秀政は徳川秀忠から叱責を受けました。翌7日の天王寺口の戦いでは、小笠原隊は名誉挽回のため遮二無二戦うことになり、秀政と忠修が戦没、忠真も重傷を負うことになってしまったのです。(以上「西方城 その1」より)

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一人の主役である宮本武蔵は、謎と脚色に満ちた人物ですが、本人が書いたとされる「五輪書(ごりんのしょ)」によれば、1584年(天正12年)に播磨国で生まれました(下記補足3)。有名な「吉岡一門との決闘」「巌流島の決闘」などの武者修業は、13歳から28、9歳の頃(1596年~1612年)と言っています(下記補足4)。

(補足3)「兵法之道二天一流と号し、数年鍛錬之事、始て書物に顕さむと思、時寛永二捨年(1643年)十月上旬の比、九州肥後之地岩戸山に上り、天を拝し、仏前に向、生国幡磨(播磨)之武士新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六拾。」(「五輪書」序文)

(補足4)「われ若年之昔より兵法之道に心を懸け、十三歳にして始て勝負をす。・・・其ほど十三より二十八九迄の事也。(「五輪書、地の巻」)

宮本武蔵肖像画、島田美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

修業時代が終わった後、大坂夏の陣では、幕府方の水野勝成勢のうち、勝成嫡男の勝俊付きの騎馬武者として出陣しました。そのとき、名のある武将を討ち取ることはなかったが、大木刀を持って雑兵をなぎ伏せたという記録があります(下記補足5)。5月6日の道明寺の戦いで、武蔵は、水野軍が本多忠政を救援するのに貢献したとみられていて、それが戦後の縁につながります。(段落全体④)

(補足5)「宮本武蔵は兵法の名人なり。・・・大坂の時、水野日向守が手に付、三間程のしないの差物に釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者と書ける。よき覚ハなし。何方にて有けん橋の上にて、大木刀を持、雑人を橋の左右へなぎ伏ける様子見事なりし、と人々誉ける。」(「黄耇雑録」)

水野勝成肖像画、賢忠寺蔵  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

明石城築城

大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした幕府は、戦後、更に西国の外様大名に備えるため、領地替えを行いました(1617年、元和3年)。播磨国は丸ごと池田氏が治めていましたが、当主(光政)が幼いといういう理由で鳥取に移されました。その代わりとして、姫路には、徳川四天王の一人・本多忠勝の子・本多忠政を持ってきました(桑名10万石→15万石)。そして、姫路の後衛となる明石に、生き残った小笠原忠真を松本から移したのです(松本藩8万石→明石藩10万石)。命をかけた働きが、将軍・徳川秀忠に認められたのです。(以上②)更にその2年後(1619年)には、安芸・備後の外様の大大名・福島正則が改易になり、そのうちの備後国福山に水野勝成が入っています。(以上「福山城 その1」より)

本多忠政肖像画  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

小笠原忠真は、当初船上城に入城しました。しかしこの城は低地にあったため、西方からの攻撃に対する防衛には不利でした。また「一国一城令」により建物の多くは取り壊されていました。将軍・秀忠は1618年(元和4年)、忠真に対して新城の築城を命じます。同時に忠真の妻の父であった姫路城主・本多忠政の指導を仰ぐことになり、共同で新城の候補地を探すことになりました。候補地としては「人丸山」「和坂」「塩屋」の3か所がありましたが、最終的には「人丸山」に決定しました。そして城の縄張り(設計)の共同で行い、将軍・秀忠の許可を得たのです。(段落全体②⑤⑥⑦)

城周辺の起伏地図

宮本武蔵はどうしていたかというと、同じ頃(1617~8年)、水野勝成の家臣、中山志摩之助の息子・三木之助を養子として、本多忠政の跡継ぎ・忠刻(ただとき)に仕えさせていました。大坂の陣がきっかけだったと見られます。また、少し後になりますが(1626年頃)、武蔵の養子としてはこちらの方が有名な、宮本伊織が小笠原忠真の近習になり(15歳)、その5年後には20歳で家老に出世しています。(以上④)武蔵は、本多忠刻の剣術指南役で姫路にいたが、明石城築城を機に、明石藩の客分として迎えられたと考えられます(⑦⑧)。

築城は、幕府主導で急ピッチで進められました。幕府は費用援助(銀千貫目)とともに3人の奉行人を派遣し、主に城の基礎部分を担当しました(「本丸・二の丸・三の丸の石垣・土居・塀の普請」)。小笠原は主に建物部分を担当しました(「矢倉・門・塀・家造りの普請」)。石垣工事が1619年、元和5年1月に始まり、その年のうちに一旦完成し、翌年忠真が移ってきました。廃城になった城の建物をリサイクルしたことも早期完成につながりました。但し周辺部分(侍町の惣堀・土居、三の丸の一部の石垣)は7、8年かかったそうです。なお、本丸には天守台が築かれ、熊本城クラスの五重天守が立つ規模です。中津城の天守を移す計画があったそうですが、ついに天守は実現しませんでした。。(段落全体②⑤⑥⑦⑨)

天守台石垣

宮本武蔵は何を担当したかと言うと、まず城下町の町割りを行ったとされています。城下町は東西約2.3kmで、山陽道を取り込みました。外堀によって武家屋敷と町人地が明確に区分され、近世的な城下町となりました。また、藩主・忠真のために城内に庭園を造りました(御樹木屋敷の庭園)。名石・名木を各地から集め、築山・茶屋・御座敷・滝・鞠場(蹴鞠をする場)を1年余りかけて完成させました。城跡である現在の明石公園には、武蔵が作った庭の一部が再現されています。(以上⑧)更に、二の丸に上がる階段は、かなり広くピッチが大きいように見えますが、これは武蔵がこの階段を、馬の歩幅に合わせるよう提案したためと言われています(➉)。これだと人間の敵が攻めてくるときにはかえって登りにくいということでしょうか。

明石城ジオラマ、手前が城下町(明石市立文化博物館にて展示)
再現「武蔵の庭園」
二の丸への石段

近世に造られた新城

明石城は近世になって新たに作られた城なので、自然の地形を生かしつつ、完成された築城術を見ることができます。台地の突出部には西から、高石垣で囲まれた西の丸(後の「稲荷郭」)、本丸、二の丸、三の丸(築城当時)が整然と並べられ、土橋や門で仕切られていました。台地南下の低地(築城当時は「大曲輪」と呼ばれた)には藩主の下屋敷が配置され、東西と南側を内堀が囲み、その三方に枡形をもった門がありました。城の北側は、自然地形の谷と「剛ノ池」によって守られていました。敵が攻めてきたときにはこの池の堰を切って、周囲を水浸しにする作戦も考えられていたといいます。(段落全体⑨⑪⑫)

明石城ジオラマの城部分(明石市立文化博物館にて展示)

本丸には御殿があり、天守はないものの、四隅に方角を表す名前の三重櫓が建てられました。このうち、坤櫓は伏見城の櫓を、巽櫓は船上城の櫓を移したものと伝えられています(下記補足6)。特に坤櫓は一番大きく、天守台に近く、二重目には豪華な二重破風があることなどから、実質的に天守の役割を果たしたと見られます。4つの櫓は天守台がある西側を除いて多聞櫓で連結されていました。(段落全体②⑤⑥⑦➉)

(補足6)「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」(「小笠原忠真年譜」)

坤櫓(南側)
坤櫓(南側)、2重目が二重破風になっています

ところが1631年(寛永8年)本丸下の台所から出火し、本丸御殿が焼失しました。以後御殿は再建されず、本丸下に藩主の居館として「居屋敷(いやしき)」を建て、内堀で囲みました。その周辺が「三の丸」となり、従来の内堀は「中堀」と呼ばれるようになります。(従来の三の丸は「東の丸」、以上②⑤)このとき櫓群も被災しました。現在残る坤櫓・巽櫓はこのときに再建されたものです。櫓の間は土塀で連結され、現在見られる姿になりました(土塀の大半は現代の復元)。(以上⑥)ただし坤櫓は現在でも移築の痕跡が見られることから(⑦)、元の部材を活用したのかもしれません。

土塀で連結された坤櫓(左)と巽櫓(右)

時期ははっきりしませんが、城の北側にも剛ノ池から水が引かれた桜堀などが設けられ、更にその北側には北の丸も築かれ、防御を固めました。最終的には三重櫓4基、二重櫓6基、平櫓10基を擁する城になりました。(以上⑤)1691年に長崎出島から江戸に向かったドイツ人の医者・博物学者のケンペルは、明石城の美しい姿を記録しています(②、下記参考7)。現在私たちが見ることができる城跡の姿とそう変わらなかったのかもしれません。

(補足7)明石の後に美しき城あり。その内部も周囲も、高き樹に籠めたれば、白亜の壁にある其の二面だけ輝きて見え、四つの城壁には中央及び両端に四方形なる高き三重の矢倉を飾としたり。(「江戸参府紀行」)

播磨国明石城絵図(出典:国立公文書館)

その後

火災があった直後の1632年(寛永9年)、小笠原忠真は、豊前国小倉に転封になりました。宮本武蔵も、養子で家老の伊織とともに小倉に移ったと考えられます(④)。その後しばらくの間、明石藩主は目まぐるしく変わりました。そして江戸中期に越前大野藩から移ってきた越前松平氏の一族が幕末まで藩と城を統治したのです。(⑬)
・1632~33年:(幕府直轄)
・1633~39年:戸田松平氏(譜代大名、2代、7万石)
・1639~49年:大久保氏(譜代大名、1代、7万石)
・1649~79年:藤井松平氏(譜代大名、2代、7→6.5万石)
・1679~82年:本多氏(譜代大名、1代、6万石)
・1682年~:越前松平氏(明石松平氏)(親藩、10代、6→8万石)
城は後継の大名たちによって維持されましたが、幕末になると状況が変わってきました。

幕末時の藩主・松平慶憲 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

1853年(嘉永6年)のペリー艦隊の江戸湾の入口・浦賀への来航に続いて、翌年(1854年)にはロシアのディアナ号が大阪湾に侵入してきました。このときから幕府も大阪湾防備に動き出すようになります。幕府の命により、明石藩でも台場が作られましたが、その代表的なものが舞子台場です。その場所は、瀬戸内海から大阪湾に船が侵入する場合に通過する明石海峡の目の前でした。1863年(文久3年)、幕府は明石藩に、一万両を貸し付けるので舞子台場を堅牢に改築するよう命じました。その設計・現場の指揮にあたったのが、当時神戸にいた勝海舟でした。台場の雛形を藩に手渡したメンバーの中には、海舟の塾生だった坂本龍馬がいました。台場は翌年から翌々年にかけて完成しましたが、実際に使われることはなかったようです。(段落全体②⑭)明石藩は1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方でしたが、その後新政府方に明石城を引き渡したため、ここでも戦いが起こることはありませんでした(⑨)。

「天保山魯船図」(出典:文化遺産オンライン)
舞子台場跡
勝海舟 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
坂本龍馬 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

明治維新後、明石城は廃城となり、外堀などは埋められ、建物は取り壊されていきました。最後に残っていたのが4基の三重櫓です。城跡を管理していた兵庫県は、1881年(明治14年)8月、これらの櫓の解体も決定し、まず艮櫓が学校の用材として解体されました。これに憤激したのが旧明石藩士たちでした。県庁に嘆願書を出し、聞き入れられないときは、籠城の上、櫓に火をかけ、運命を共にすると言い出したのです。彼らにとって、自分たちの精神的シンボルが失われることに抵抗したようです。西南戦争(1877年)からあまり時が経っていないときで、世間から注目を浴びました(下記補足8)。その結果、1883年(明治16)から城跡は、民営の「明石公園」として保存されることになったのです。(段落全体⑥⑮)

(補足8)「士族は県庁の処分に不平を抱き、終に旧藩士の他国他郷にある者まで招きよせ、去る十四日に大評定を開きたり、其議は旧藩の諸士より猶県庁へ嘆願書を捧げ、夫にても聞届けられぬ時は、最早や絶体絶命の時節到来なりとて、中にも昔なら城代とも云ふべき林某は、いかに各々にも願意の貫徹せずして弥々当城破却の命下らば、其時は最先かけ城に火をかけ、潔く櫓と共に一片の焔となり、名をば後代に留めんが如何にと、思ひ切て云放ちし有様は、天晴れ篭城の覚悟とも云ふべく、(以下略)」(明治14年8月23日東京日日新聞記事)

明石公園入口

リンク、参考資料

「明石の宿場」明石民俗文化財調査団(明石市立図書館 明石郷土の記憶デジタル版)
② 発掘された明石の歴史展「船上城から明石城へ」明石市
③「戦国信濃と小笠原貞慶/志村平治著」戒光祥出版
④「人物叢書 宮本武蔵/大倉隆二」吉川弘文館
⑤「日本の城改訂版第88号」デアゴスティーニジャパン
⑥「史跡明石城跡保存活用計画」令和2年9月 兵庫県
明石公園公式ホームページ
⑧ 明石城巽櫓内展示
⑨ 明石市立文化博物館展示
➉ 明石城現地ガイドの方
⑪「戦国の城/香川元太郎著」ワン・パブリッシング
文化遺産データベース 明石城跡
⑬「明石城の歴史」パンフレット
文化遺産オンライン 明石藩舞子台場跡
⑮「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

「明石城 現地編」に続きます。

174.大内氏館・高嶺城 歴史編

山口市といえば「西の京」と呼ばれていて、小京都のイメージがあります。よって城郭とは少し離れた印象もあるのですが、実は「大内氏館」「高嶺城」が連名で日本城郭協会の続日本100名城に指定されています。また、幕末にはそのものズバリという名前の「山口城」という城もあったのです。

イントロダクション

山口市といえば「西の京」と呼ばれていて、小京都のイメージがあります。よって城郭とは少し離れた印象もあるのですが、実は「大内氏館(おおうちしやかた)」「高嶺城(こうのみねじょう)」が連名で日本城郭協会の続日本100名城に指定されています。また、幕末にはそのものズバリという名前の「山口城」という城もあったのです。

大内氏館跡
高嶺城跡
山口城跡

そこで今回は、「西の京」を作り上げた大内氏の歴史から始めて、山口にあった3つの主要な城、大内氏館、高嶺城、山口城を築かれた時代順にご紹介したいと思います。

城周辺の起伏地図

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(西の京・山口の3つのメジャーな城とは?)

大内氏の発展

大内氏の先祖については、百済国聖明王(しょうみょうおう)の第三子・琳聖太子(りんしょうたいし)が周防国多々良浜に到着し、611年(推古天皇19年)に聖徳太子に謁見し、多々良という姓を賜ったという伝承があります。しかしこの伝承は、大内氏の時代から変化していて(下記補足1)、実際には先祖が朝鮮半島から帰化した者の後裔という程度のかすかな伝承をもとに作られたと推測されます。(段落全体下記参考①より、以下番号のみ記載)

(補足1)
1399年(応永6年)大内義弘による:
「先祖は本百済の始祖高氏の後裔で、難を避けて日本に渡ったものである」
1404年(応永11年)大内盛見による:
「氷上山興隆寺は大内家の先祖百済国琳聖太子によって推古朝に草創されたものである」
大内政弘時代:琳聖太子は百済王の末裔・聖明王の第三子で、611年に来朝した。多々良浜に着いたのち、荒陵で聖徳太子に謁し、大内県を采邑とし、多々良の姓を賜った。

「たたら(踏鞴)」は製錬に使うふいごのことで、周防国府周辺には「多々良」という地名が見られることから、大内氏の祖先が多々良氏を称する半島からの帰化氏族で、先進的な製錬技術をもたらして、沙婆県(さばのあがた)に定着、そのすぐれた技術から地方政庁に徴用され、平安時代には周防国佐波郡(さばぐん)達良郷(たたらごう)で勢力を築いたことが考えられます。そして、本家は吉敷郡大内村を本拠とし、「大内」を名乗るようになりました。鎌倉時代、大内氏は周防国の有力在庁官人、鎌倉幕府の御家人、六波羅探題の一員という複数の立場を持っていました。(段落全体①)

周防国の範囲と拠点の位置

南北朝時代に大内氏を表舞台に出したのが、大内弘世(ひろよ)です。弘世は南北朝動乱の中で、南朝・北朝方を渡り歩き、周防・長門の守護に任じられたのです。更に安芸・石見も勢力を伸ばし始めました(石見守護にも任命)。その子・大内義弘は、ときの将軍・足利義満との関係は当初良好で、義満の厳島詣(1389年)に随行したり、山名氏を討伐した明徳の乱では、幕府方として活躍しました(1391年)。領国としても、周防・長門に加え、石見・豊前・和泉・紀伊の守護になりました(+安芸国東西条)。ところが1399年(応永6年)義弘は義満と対立し、堺で戦いとなり討たれてしまうのです(応永の乱)。(以上②)乱の原因は、義満が義弘の勢力を削ごうとしていたからとも、九州で戦没した義弘の弟(満弘)に恩賞がなかったとも言われます。義弘は関東公方・足利満兼と同盟を組み、義満の政道を諫めるため戦うことを決意しました(下記補足2)。しかし結局満兼は動かず、義弘は孤立してしまったのです。(下記補足3,以上②③)

(補足2)足利満兼檄文「天命を奉り、暴乱を討つ、まさに国を鎮めて民を安んぜしめんとす」

(補足3)戦いの前の義弘の言葉「一旦の恨みをもって相公(義満)の御高恩を忘れ奉るの間、天命の攻め遁るべからず、運命の尽きぬる上は討ち死にせん事必定たるべし」
討ち死に前の義弘の言葉「天下無双の名将大内左京権大夫義弘入道ぞ、吾れと思はん者ども、討ち取りて相公の御目に懸けよ」(「応永記」)

大内弘世像

現在、国宝として残る瑠璃光寺五重塔は、義弘の弟の盛見(もりみ)が義弘の供養のために建てた塔です(盛見没後の1442年頃完成)。大内氏の守護国は周防・長門2カ国に削減されますが、また盛り返していきます。(以上②)ところで、大内氏の本拠地が山口に移る(山口開府)のは弘世の時代と言われてきましたが、最近は否定的です。義弘の時代になって、本拠地はいまだ大内だが、家臣団再編成のため新たな本拠地を必要とし、山口に館が築かれたという段階のようです。(下記補足4、以上③)

(補足4)義満の随行者に見知らぬ法師が大内について答える場面
「へいへい(平々)としたる里の侍るに、館どもあまた造り並べて、東西南北、一門・他門扶持人数を知らず、家居ことがら尋常なる躰也、四方大略深山にて、おのづから無双の切所なり、遠近皆分国・分領也、数ヶ国の集なれば、田舎ながらも興ある在所と見えたり」
大内氏の祖先とともに百済から渡来した不動明王像を「この京兆(義弘)の山口の館の持仏堂に安置」した
(「鹿苑院西国下向記」)

瑠璃光寺五重塔

大内氏の繁栄と大内氏館

大内氏館がいつ設置されたかは諸説ありますが、調査によれば、14世紀からの遺構・遺物がみられるので(④)、義弘の時代なのかもしれません。山口が本拠として定着したのは、義弘の次の盛見の時代と考えられます。このとき山口の北辺に、精神的な守りの地として、五重塔がある香積寺(こうしゃくじ、現・瑠璃光寺)及び国清寺(こくしょうじ、現・洞春寺)が建立されました。15世紀中頃の当主、大内教弘・政弘父子の時代には館も整備されます。(以上③)館の北方に築かれた「築山館(つきやまやかた)」は、教弘の隠居所とされています(②④)。また、政弘は家督を受け継ぐ前から自らの居館を持ち、父子の居館が並び立つ形になっていました。これは京都の将軍の「花の御所」をまねたものです。(以上③)大内氏館は内郭・外郭に区分され、内郭部分は最盛期には約150m四方の大きさでした(⑨)。

大内盛世肖像画、常栄寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

現在龍福寺となっている大内氏館内郭の航空写真

「築山館」の史跡指定範囲、山口市歴史民俗資料館にて展示
将軍亭「花の御所」、上杉本陶版「洛中洛外圖」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦国時代の幕開けとなる応仁・文明の乱(1467~77年)が終り、政弘が京都から戻ってくると、館と山口は更に変貌をとげました。大内氏館は堀と土塁に囲まれ、枯山水の庭、池泉庭園がある豪華なものになっていました。政弘は将軍のように家臣に君臨し、彼らを山口に住まわせました(下記補足5)。町人も集まることにより、山口は南北の小路が発達した町になったのです。祇園会も行われました。(段落全体③)雪舟や連歌師の宗祇などの文化人が山口にやってきたのもこの頃です(②)。

(補足5)家臣を山口に集住させる法令文
「諸人在山口衆、たとへ一日たりといへども、密々の儀をもって在宅の輩、上聞に達することあらば、その人数を注し置き、御暇言上の時、おのおの申し次ぐべからざるなり、これにより、重ねて内々をもって在郷せしむる族においては、永く御家人を放たるべきの由、仰せ出さるところなり(文明18年「大内氏掟書」

大内氏館跡の復元土塁
大内氏館跡の復元枯山水
「大内氏時代山口古図」(部分)、山口県文書館蔵
常栄寺雪舟庭

大内氏の勢力も、盛見のときに石見・豊前(+東西条)を回復、教弘のときには筑前国守護になり、国際貿易港・博多を支配に治め、日明貿易に参入しました。(以上②)大内氏館の池泉庭園には、貿易で手に入れたと思われる、その当時大変珍しいソテツが植えられていました。その庭園を望む「会所」で賓客たちを招いて宴会が開かれました。庭園の池からは宴会で使った大量の京風「かわらけ」が発見されています。(以上⑤)

大内氏館跡復元池泉庭園、ソテツも植えられています
大内氏館で使われたかわらけ(右二列)、山口市歴史民俗資料館にて展示

その大内氏館で行われたイベントで最大と思われるものが、1500年、明応9年3月5日に行われました。ときの当主は大内義興(よしおき)で、政変で京都を追われた10代将軍・足利義稙を迎えて行われた宴会です。料理は31以上の膳、110以上の品数で、中世最大級の宴会と言われています。料理には、瀬戸内海では採れない伊勢エビ・数の子・ホヤ・ホッケあって、大内氏のネットワーク力を見せつけました。義稙が館に入ったのは14時頃、帰ったのは翌朝4時頃でした。義稙は流浪中も現職の将軍と称していたので、山口に亡命室町幕府が存在したとも言えるのです。1508年(永正5年)義興は義稙とともに上洛し、義稙を正式に将軍職に復帰させました。義興も恩賞として山城国守護になり、遣明船独占の権利を与えられました。義興が亡くなると(1529年、享禄元年)現在壮大な石垣が残る凌雲寺が菩提寺とされました。(段落全体②⑤)

大内義興肖像画、山口県立山口博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利義稙肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「大内氏のおもてなし料理」、山口市歴史民俗資料館の企画展示
凌雲寺跡

次の代の大内義隆のとき、大内氏は全盛期を迎えます。領土は安芸・備後にまで及び、歴代最大となります。朝廷とも結びつきを強め、官位官職も将軍より高位の従二位・参議にまで上りました。義隆は文化文芸にも関心が高く、多くの公家や文化人などが山口を訪れました。フランシスコ・ザビエルもその一人です。ところが、その栄華はあっと言う間に崩壊してしまうのです。(段落全体②)

大内義隆肖像画、龍福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
フランシスコ・ザビエル肖像画、神戸市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

毛利氏・大内氏の興亡と高嶺城

1551年、天文20年8月28日、重臣の陶隆房らのクーデターが起こり、義隆主従は無防備の館から退去し、日本海から船で逃れようとしたが果たせませんでした。義隆は現・長門市の大寧寺で自害しました(9月1日)。このクーデターの大きなきっかけは、1543年(天文12年)の尼子氏に対する出雲遠征の失敗でした。それでも客人をもてなす宴会は続きました。家臣たちには奢侈を禁止したにも関わらず・・・(段落全体⑥、下記補足6)

(補足6)天文14年壁書
「殿中ならびに私の饌、近年殊に過麗に及ぶと云々。ただに先達の法に背くのみならず、内には以て兵器の貯えを忘れ、外には以て、撫民の謀を失う。自今以後に至っては、二汁・三菜を過ぐべからず。但し殿中の節日、又は外人来客の時は、制の限りにあらざるの由、仰によって壁書件の如し。
   天文十四年卯月日  奉行衆中」

陶晴賢(隆房)像、「続英雄百人一首」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

義隆に重用された相良武任ら文治派と、隆房ら武断派の対立が深まります。実は隆房の陰謀はクーデターの2年ほど前から、他の重臣(杉重矩)から進言があったり、噂にもなっていたのですが、義隆はなんの手も打ちませんでした。この頃(天文12年2~5月)毛利元就が山口を訪問し、義隆・隆房ら重臣たちと交流しました。大内内部の動向を探る目的もあったのでしょう。こうする間に杉重矩や老臣・内藤興盛も隆房に同調するようになりました。クーデターが起こる年になって、義隆はようやく元就に助力を頼む密書を送りますが(下記補足7)、前年には既に隆房の手が回っていました。義隆はクーデターが起こった後でも、隆房以外の重臣の加担を信じなかったそうです。

(補足7)毛利元就宛大内義隆密書
「家中の事、若し錯乱に及ぶに於ては、国面々合力あるべくの由、申し遣わし候。定て別儀あるべからず候。諸勢また遅々すべからず候。猶委細、(大田)隆通申すべく候。恐々謹言
 正月廿七日 義隆(花押)」

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

翌年(1552年)、義隆の甥で大友宗麟の弟(大友晴英)が、大内義長として擁立され山口入りしました。彼はこの地で政務を行ったので、館は継続したと考えられます。ところが、陶隆房改め陶晴賢が1555年(天文24年)の厳島の戦いで毛利元就に討たれると、今後は毛利氏対大内氏のフェーズに入ってくるのです。内輪でも重臣同士(杉氏・内藤氏)の軍勢が衝突し山口は兵火に包まれます。(以上②④)来日した宣教師のルイス・フロイスがこの辺りの出来事を記録しています(下記補足8)。そんな中で義長が毛利侵攻に備え築城を始めたのが高嶺城です(1556年頃)。

(補足8)豊後国主(大友義鎮)の弟大内八郎殿(義長)は善意の若者であった。それゆえ彼は山口において国守の位にあげられると、司祭たちに友情を示した。(略)すなわち彼は、デウスの教えに役立つように街路や通路に立札を立て、その教えを聞こうとする者は、なんら咎められることなくキリシタンになってもよいと布告するよう家臣に命じた。(略)この頃、当国のある有力な殿が、新しい国主ならびにその味方の殿たちに対して叛起し、国内に大いなる損害と混乱を及ぼした。その結果、山口の市はふたたび放火され、非常に密集していたため数時間で全焼してしまい・・・(➉第14章(第1部16章))

高嶺城は、大内氏館や山口の城下町を眼下に眺めることができる、山口盆地の北縁の丘陵の一つ・鴻ノ嶺(標高338m)に築かれた城です。義長はいったんこの城に入ったものの、普請は進まず、籠城用の食料も不足したため、1557年(弘治3年)3月、長府にある別の城(勝山城)に逃れました。しかしその城も毛利方に攻められ、翌月城近くの寺(長福寺、現・功山寺)で自害しました。主のいなくなった山口には毛利方(吉見勢)が入りました。大内氏館跡の調査によると、火災の痕跡があり、16世紀中頃までしか使われていないので、この頃までに廃絶したと考えられます。その跡地には、毛利隆元によって義隆の菩提寺・龍福寺が建てられました(隆元妻は大内義隆養女)。(段落全体②④)

高嶺城赤色立体模型、山口市歴史民俗資料館にて展示
高嶺城跡からの眺め
龍福寺

もし高嶺城がもっと早く、義隆の時代に築かれていたらどうなっていたでしょうか。もちろん籠城しても援軍がなければどうにもなりませんが・・・伝統的な有力戦国大名の本拠には、他にも今川氏館、大友氏館のような無防備なものが見られます。よもや攻められることはないと思っていたのでしょうか・・・

高嶺城は毛利氏の支城として整備されました。峰伝いに曲輪が築かれ、主郭周辺には石垣も積まれました。やがて毛利氏と大友氏が対立するようになると、1569年(永禄12年)大友氏の支援を受けた大内輝弘が山口に侵攻してきました。輝弘は、大内氏館があった龍福寺に本陣を置き、今度は毛利勢が籠る高嶺城を包囲しました。しかし毛利の援軍が駆け付けたことで断念、大友氏の豊後に戻ろうとしますが、退路を断たれ、またも自害することになってしまったのです。(段落全体②④)

高嶺城の縄張り図、現地説明パネルより
主郭の石垣

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は、周防・長門2カ国に減封されましたが(長州藩)、当主の毛利輝元は、新本拠地の萩城築城の前、高嶺城に滞在しました(1603年)。家臣も山口に仮住まいしていました。山口は兵乱により衰亡していましたが、まだ重要な町だったのです。萩城完成後も、在番役が置かれました。しかし1615年の「一国一城令」でついに廃城になりました。(段落全体④⑦)彼らが山口に戻ってくるのは260年後になります。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

幕末の城・山口城

長州藩が幕末に山口に築いた城はずばり「山口城」と呼ばれています。

「幕末山口市街図」(部分)、山口県文書館蔵

「攘夷」の急先鋒だった長州藩は、1863年(文久3年)本拠地を萩から山口に移しました。萩城は海岸にあるので、外国艦の砲撃にさらされる恐れがあったことと、山口は藩領の中心部にあったからです。長州藩は幕府に対して、藩主の居所を移すだけで新城の築城はしないと申請しました(下記補足9)。しかし実態は違いました。「屋形」と言う名目で翌年(1864年)に新城の建設を始めたのです。しかもそれは、大小砲での戦争を想定した八角形の西洋式城郭だったのです。(段落全体⑧)

(補足9)幕府への移城の申請書
「しかしながら山口の儀は、全く以て城構え等仕り候儀にては御座なく、真の土居取り立て、手近に召遣い候家来ばかり差し置き候て、指月(萩城)の儀は番兵こめおき、城下警衛厳重に申し付け、藩鎮の任、これもその節を遂げ奉り度く」

「山口御屋形差図」(部分)、山口県文書館蔵

しかし同じ年に第一次長州征討が起こり、長州藩は幕府に降伏したので、その講和条件として城は破却されてしまいました。藩主は萩に引っ込みました。1864年(元治元年)高杉晋作の挙兵をきっかけに幕府に対抗する方針に転換すると、翌年(1865年)藩主は再度山口に移り、城も修築されたのです。(段落全体⑧)

山口城は、山口盆地の北側に立地していて、背後に香山が控えていました。平地を望む高台に築かれたわけです。西洋式城郭ということで、従来の天守・櫓・高石垣はなく、中心部には御屋形(御殿)があり、城域は土塁・水堀・柵で仕切られていました。不整形は八角形の角には砲台が築かれていたと考えられます。見せるための城ではなく、政治・軍事の機能に特化していたのです。(段落全体④)

山口城縄張り図、現地説明パネルより

明治維新になると、居城としての役目は終り、山口藩藩庁(1870年、明治3年)になり、現在残る旧山口藩庁門(藩庁御本門)が完成します。翌年(1871年)の廃藩置県により山口県庁になり、それが現在も同じ場所にある県庁につながっていきます。

旧山口藩庁門
山口県政資料館(旧県庁舎及び県会議事堂)

リンク、参考情報

①「中世武士選書14 大内義弘/松岡久人著」戒光祥出版
②「西国一の御屋形様 大内氏がわかる本 入門編・興亡編」山口市
③「ミネルヴァ日本評伝選 大内義弘/平瀬直樹著」ミネルヴァ書房
④「山陰・山陽の名城を歩く 広島・山口編」吉川弘文館
⑤「英雄たちの選択「戦国大名のおもてなし戦略~大内義興の野望~」NHK BS放送
⑥「中世武士選書20 大内義隆/米原正義著」戒光祥出版
⑦「毛利氏の御家騒動 折れた三本の矢/光成準治著」平凡社
⑧「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
「城びと【理文先生のお城学校】歴史編第29回 大内氏とその居館」
➉「完訳フロイス日本史6 大友宗麟編Ⅰ/松田毅一・川崎桃太訳」中公文庫

「大内氏館・高嶺城 現地編」に続きます

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