78.丸亀城 現地編

丸亀駅前に来ています。ここから、丸亀城に向けて出発します。商店街、市役所に沿って行けば、どんどん城が迫ってきます。大手口の前に着きました。この城は、見どころがてんこ盛りなので、丸ごとめぐっていきます。

イントロダクション

丸亀駅前に来ています。ここから、丸亀城に向けて出発しますが、もう天守を見学できます。ビルの合間から天守が見えるのです。

丸亀駅
ビルの合間から見える天守

これならば方角はまちがわないので、商店街を進みます。大きな通りに出ますが、かつてはここが外堀でした。その通りに沿って市役所の方に行きます。お堀端を歩いている感じです。城の石垣の山が見えてきました。

商店街を抜けたところがかつての外堀
正面に見える丸亀城

今度は市役所に沿って行けば、どんどん城が迫ってきます。城めぐりへの期待も高まってきます。大手口の前に着きました。この城は、見どころがてんこ盛りなので、丸ごとめぐっていきます。

迫ってくる丸亀城
大手口

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(「石垣の名城」丸亀城 丸ごとめぐり)

城周辺の航空写真

大手口から三の丸へ

内堀を渡って、大手口に入ります。まず、高麗門形式の「大手二の門」です。中は、広い枡形になっていて、鏡石もあります。そして櫓門形式の「大手一の門」です。定番ですが、、やはり威厳を感じます。

大手二の門
大手二の門
大手一の門

門を抜けたら左手の坂を登ります。「見返り坂」という急勾配の長い坂(長さ150m、斜度約10度)で、時々立ち止まって振り返ってしまうことから名づけられたそうです。確かにどのくらい来たか、振り返ってみたくなってしまいます。

見返り坂
見返り坂を振り返る

でも早速、登った御褒美があります。三の丸北側の高石垣で、高さは20メートル以上あります。隅のラインは「扇の勾配」と呼ばれていて、美しいです。

三の丸北側の高石垣

三の丸へは、まだ坂が続きます。しかも両側から攻められそうな感じです。やっと着いたと思ったら、また素晴らしいものが見えます。讃岐富士(飯野山)です。

三の丸への坂
三の丸から見える讃岐富士

奥の方には櫓跡があります。月見櫓跡です。ここからは、讃岐富士だけでなく、城の裏手もばっちり見えます。搦手口です。

讃岐富士と月見櫓跡
月見櫓跡から見える搦手口

三の丸の表側もチェックしてみましょう。ここにも櫓跡のような場所があります。三の丸東張出石垣といって、建物はなかったようです。ここも眺望がすばらしいです。先ほどの高石垣が並び立っています。

三の丸東張出石垣
三の丸東張出石垣からの眺め
三の丸東張出石垣から見える高石垣

三の丸・二の丸で石垣・景色三昧

次はそのまま二の丸に行く人が多いのですが、もっと石垣と景色を楽しみたいので、まだ三の丸を巡ります。二の丸入口(大手)の脇の方を進みます。向こうに見えるのは、二の丸の鬼門櫓(番頭櫓)跡の石垣です。三の丸の上は景色もいいですが、二の丸の石垣が迫って、ものものしい感じです。

二の丸大手
二の丸鬼門櫓跡石垣

もっとものものしいところもあります。高石垣の上です。下にいる人が全然見えないほどです。

三の丸上
高石垣上

天守のすぐ下の、二の丸のもう一つの入口(搦手)を過ぎます。次は、戌亥櫓(七間櫓)跡です。ここも、いい景色です。

二の丸搦手
戌亥櫓跡

三の丸の最後は、坤櫓(水手櫓)跡です。しかしその場所は、2018年に石垣が崩落したところです。行けるところまで行ってみましょう。立入禁止となっていますが、上から復旧現場を見学できるスペースがあります。石垣を積み始めたところのように見えます(2026年8月中旬時点)。

三の丸から見た本丸、坤櫓跡は右手奥
立入禁止箇所
石垣崩落復旧現場
復旧現場(ズーム)

二の丸大手入口に戻って、二の丸に入っていきます。これも頑丈そうな門跡です。

二の丸大手の石垣
二の丸内部

二の丸のおすすめは井戸です。この井戸は、深さが65メートルもあって、今でも水をたたえています。なんと石垣を築いた石工(羽坂重三郎)が、ここで亡き者にされたという伝説もあるのです。

二の丸井戸
二の丸井戸の底

次は先ほど下から見た、鬼門櫓跡です。一段上がると、景色がどう変わるのでしょか。讃岐富士から、瀬戸大橋までもよく見えます。

鬼門櫓跡
鬼門櫓跡からの眺め

二の丸搦手入口にも行ってみます。これもさっき下から見ています。この入口は、長崎櫓のほか、天守によっても守られていたのです。確かに石落としがこちらを向いています。

二の丸搦手
二の丸搦手を守る天守
石落とし

本丸から天守の中へ

これから天守がある本丸に乗り込みます。本丸の門跡から入っていきます。かつては天守と櫓群が連結していましたが、現在は天守単独でお出迎えです。現存の3重天守のなかで一番小さいとは言いますが、城下から見える北側に、長い面や、破風を配置して大きく見せています。本丸からは反対側になりますが、すごく優美に見えます。

本丸門跡
現存天守(南面)

天守の中に入ります。まず、天守一階です。すごい柱の数で、50本もあるそうです。荒々しく加工されていて、時代を感じます。天守を囲む壁は「太鼓壁」といって、漆喰が分厚く塗られています。

天守一階
太鼓壁

そして、内部外側の武者走りの、特に北側に防御の仕掛けが集中しています。矢や鉄砲で攻撃するための狭間が並んでいます。更に先ほど下から見た「石落とし」です。

狭間と石落とし

二階に行きます。オリジナルだけあって、急階段です。二階に上がったら、ちょっと外を見てみましょう。目の前に屋根が見えて、唐破風のところのようです。内部の見どころとしては、大砲狭間(おおづつさま)があります。

二階への階段
二階から見た唐破風
大砲狭間

ついに、最上階です。一番上なので、コンパクトな空間ですが、ここからの景色に期待してしまいます。丸亀の街と海が一望です。

天守三階
天守三階からの眺め

本丸の櫓跡にも行ってみましょう。本丸からは「こんぴらさん」がある象頭山も見えます。一番人気に見える姫櫓跡に行ってみます。ここからは、先ほどの象頭山から、城の西側がずうっと見渡せます。丸亀城は、全方位対応なのです。

姫櫓跡
姫櫓跡からの眺め、象頭山は左側

搦手口、そして復旧現場へ

帰りは、三の丸まで戻って、搦手口から山を下ります。城の裏口ということですが、そんな感じではないのです。途中にも玉櫓跡があって、振り返ると、二の丸五番櫓跡が控えています。更に下った先には栃の木門跡があります。とても裏門とは思えない厳重さです。これは、京極氏が大手門を北側に作るまでは、こちらの南側が大手だったということがあるのでしょう。

搦手口、奥が五番櫓跡
栃の木門跡

山を下りきったところには、古風な石垣(東南山麓の野面積み石垣)があります。上にある石垣とのコントラストが良いです。

東南山麓の野面積み石垣(下の方)

搦手門跡はシンプルです。周りも土塁になっていて、石垣で固めている場所とは雰囲気が違います。

搦手門跡
この城では珍しいかもしれない土塁

次は、石垣崩落復旧現場です。2018年に崩落した南西部分の石垣復旧工事が行われています。「石垣復旧PR館(略称)」では、崩落から現在までの復旧状況がわかる展示を行っています。PR館屋上からは、復旧現場全体を見渡すことができます。傍らには江戸時代に損傷したと考えられ、今回掘り出された「埋没石垣」も展示されています。復旧が無事進むよう祈ります。現場を見ながら、大手口の方に戻っていきます。

石垣復旧PR館
PR館屋上から見た復旧現場
埋没石垣
復旧現場全体

最後は、山麓にあった藩主御殿の門を見学します。御殿そのものは、明治の初めに焼失し、門と番所などがなんとか残りました。これからも大事にしてほしいです。

玄関先御門(御殿表門)

関連史跡

余勢をかって「こんぴらさん」(金刀比羅宮)まで来てみました。御本宮まで785段登りました。ここからは讃岐富士がよく見えます。もっと上に行けば、丸亀城が見えるかもしれません。

金刀比羅宮・御本宮
御本宮から見える讃岐富士

がんばって奥社までトータル1368段登っていくと、鳥居の脇から丸亀城が見えました!「石垣の名城」というのがここからでもわかります。満願成就した気分です。うどんもおいしいことでしょう。

金刀比羅宮・奥社
奥社から見える丸亀城(ズーム画像)

リンク、参考情報(追加分)

・丸亀城パンフレット

「丸亀城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

78.丸亀城 歴史編

丸亀城といえば、丸ごと石垣に覆われた山の上に、現存12天守の一つが乗っているといったイメージがあると思います。実際、標高66mの亀山に、4段の石垣があわせて約60mの高さに積まれています。「高さ日本一の石垣」「石垣の名城」と称されています。

イントロダクション

丸亀城といえば、丸ごと石垣に覆われた山の上に、現存12天守の一つが乗っているといったイメージがあると思います。実際、標高66mの亀山に、4段の石垣があわせて約60mの高さに積まれています。「高さ日本一の石垣」「石垣の名城」と称されています。(段落全体下記①を参考、以下番号のみ記載)

丸亀城の高石垣と天守

最初にこの城を本格的に築いたのは、豊臣大名の生駒氏ですが、その当時の痕跡はほとんど残っていないのです。現在目にする高石垣は、生駒氏の後に城主になった山崎家治が築き始めたものです。山崎家治は、大大名ではなく、全国的にはあまり知られていませんが、統治能力に優れ、「築城の名手」でもあったのです。そんな隠れた功労者の足跡を追ってみる必要がありそうです。

その後、京極氏が丸亀藩を受け継ぎ、城を完成させます。そして、現代まで高石垣と天守などは残されました。2018年、豪雨・台風の影響により、南西側の三の丸・帯曲輪の石垣が大規模に崩落しました。そのこと自体は大変痛ましいことで、」現在(2026年10月)も復旧に向けて工事が進められています。しかしその中で、高石垣に関する新たな事実も判明したのです。今回は、丸亀城の歴史とともに、高石垣の「ひみつ」についても迫ってみたいと思います。

石垣復旧工事現場

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(丸亀城、日本一の石垣のひみつ)

生駒氏による丸亀築城

丸亀城がある讃岐平野(丸亀平野)は、ほとんど起伏がない平野ですが、ところどころ孤立した山地や丘陵地があります。これらは「おむすび山」と呼ばれ、太古の火山活動と浸食により形作られました。「讃岐富士」と呼ばれる飯野山(いいのやま、標高422m)がその代表です。城が築かれた亀山も同じようなプロセスでできたと考えられますが、標高はずっと低かったので、かえって築城の適地とされたのかもしれません、(②③)

城周辺の起伏地図

丸岡城から見える「讃岐富士」こと飯野山

丸亀城の前身は、室町・戦国期に細川氏の家臣・奈良氏が支城として築いたと言われています。。しかし本格的な築城は、1587年(天正15年)に生駒親正が讃岐国の大名になってからです。1597年(慶長2年)から5年かけて、親正とその子・一正が築いたのが丸亀城です。親正は本城・高松城、一正が支城・丸亀城に入りました。1602年(慶長7年)に一正が跡を継いで高松城に移りました。丸亀城には子の正俊が入ったと考えられます(一時城代が置かれた)。1610年(慶長15年)に正俊が跡を継ぎ、高松城に移りますが、その代に丸亀から商人を移して、高松の「丸亀町(まるがめまち)」を作ったとされています。(段落全体②④)

城の位置

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
生駒一正肖像画、龍源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

生駒時代の丸亀城については、絵図が残されています(「諸国居城図 讃州丸亀」、丸亀市立資料館展示)。それによると、山上には4段の曲輪があり、天守は現在の本丸北端ではなく、真ん中の方にありました。また、現在はないものとして、山上と麓をつなぐ2つの登り石垣が設けられています。これは、生駒氏が参陣した朝鮮侵攻のときに現地で築かれた倭城の縄張りから取り入れたのかもしれません。(②④⑤)

「諸国居城図 讃州丸亀」(上が北側)、丸亀市立資料館展示

残念ながら生駒期の遺構はほとんど残っていません。本丸で見つかった埋没石垣のほか、東南山麓に残っている野面積みの古風な石垣は、元は生駒時代に築かれたと考えられるものの、多く(基底部分以外)は江戸時代以降に積み直されたものとのことです。(②④)

東南山麓の野面積み石垣

生駒氏3代目の正俊は大坂の陣に出陣しますが、豊臣氏滅亡後の一国一城令により、丸亀城は一旦廃城になったと考えられます。1627年(寛永4年)の幕府隠密の記録(「讃岐伊予土佐阿波探索書」)に丸亀城の記述はなく、1633年(寛永10年)頃の讃岐国絵図に丸亀城は描かれていません。(以上②④⑤⑮)やがて4代目の高俊のとき、藩内での内部対立「生駒騒動」が起こり、生駒氏は改易となってしまいました(1640年、寛永17年)。丸亀城は廃城になったまま、次の主を迎えることになります。

隠れた「築城の名手」山崎家治

山崎氏は近江出身で、家治の祖父(片家)の代に豊臣秀吉によって大名に取り立てられました。父の家盛は因幡国若桜藩主になり、家治はその2代目でした。父を継いだ直後の大坂の陣で戦功を上げ、備中国成羽(なりわ)藩に加増転封になりました(1617年、元和3年、3→3.5万石)。そこから彼は幕府に忠勤を尽し、大いに評価されることになるのです(下記)。藩内においても新田開発を進めました。
・1619年:備後三原城城番(福島氏改易時)
・1620~27年:大坂城石垣修築(現在も天守入口右下石垣に刻印あり、⑮)
・1634年:伊予松山城城番(蒲生氏改易時)
・1636年:江戸城外堀石垣普請
そのとき築かれた江戸城外堀の石垣は、小石川後楽園に移設されていて、山崎家の刻印とともに見学することができます。
(段落全体⑥⑯)

小石川後楽園西側築地塀
山崎家の刻印

島原の乱後には、幕府から天草地方の復興を託され、肥後富岡藩に転封になりました(1638年、寛永15年、4.2万石)。実際、領地はかなり荒廃していました(総高の4分の1近く、そのため幕府が補償として銀三百貫目を家治に与えている)。家治は富岡城の再建、城下町の整備(海の埋立、町割り)を行いました。しかし、農民の逃亡や流行病が発生、奉公人も集まらず、かなり苦労したようです。(段落全体⑰)

富岡城(photoACより)

1641年(寛永18年)家治は、西讃岐5万3千石の領主になりました(丸亀藩)。当時そこには城はなかったので、丸亀城を再興することにしました。幕府は家治に対し、銀300貫を提供し、参勤交代も免除、城の構造は幕府の指図に従うよう指示しました。(下記補足1、以上②④⑦)こうして現在までに残る「石垣の名城」の建設が始まったのです。この時期の大規模な築城は異例で、山崎氏は財力のある大大名でもなく、幕府のバックアップによるものでした(⑧)。また、石垣を築いたのは、羽坂重三郎と伝えられています(⑮)。このような築城の狙いとしては、瀬戸内海の交通の監視のほか、島原の乱後のキリシタン蜂起に備えるものであったとも言われます(⑨)。家治は城下町の拡大、新田開発も進めました(⑮)。

(補足1)
猶以差上候木形絵図之外
城普請無用候 以上

丸亀城取立候ニ付而(丸亀城取立候について、)
銀三百貫目被下之候(銀三百貫目これを下され候、) 
則大坂御金奉行衆江(すなわち大坂御金奉行衆え、)
添状相調越候間可被(添状相調え越候間受け取らるべく候、)
請取候然者差当普請(然れば差し当たり普請の外は、)
之外者以連々可申付之旨(連々以て申しつくべきの旨)
被仰出候因茲当年(仰せいだされ候、因って当年)
参勤之儀被成御赦置候間(参勤の儀は御赦し置きなされ候間、)
可被得其意候 恐々謹言(其意を得られ可く候、恐々謹言)
 二月六日
     阿部對馬守 重次(花押)
     阿部豊後守 忠秋(花押)
     松平伊豆守 信綱(花押)
山崎甲斐守殿
(寛永20年2月6日 幕府老中連署状、山崎家文書)

山崎家治宛て幕府老中連署状、丸亀市立資料館にて展示

藩が1645年(正保2年)に幕府に提出した絵図(「正保城絵図」)によると、既に現在の縄張と似たものになっています。天守は本丸北側にあり、これが現存する天守につながると考えられます。違っている所としては、登り石垣がまだあります(一例)。(以上④⑦)それからこの時点では工事はまだまだ進行中で、例えば、三の丸南西の坤櫓の石垣は描かれていません。

「讃岐国丸亀絵図」(「正保城絵図」、上が北側)、出展:国立公文書館
上記絵図の三の丸南西、坤櫓部分

その石垣は、その4年後(1649年、慶安2年)に家治の跡継ぎ・山崎俊家に対して修築許可が出ているので、その間に築いたものが破損していたことがわかります(下記補足2)。1657年(明暦3年)頃の山崎時代の丸亀城郭図を見ると、その櫓と石垣は完成しています。(以上⑤➉)

(補足2)
 以上
圓亀之城三丸坤之(丸亀の城の三の丸坤の)
角石垣破損付而(角の石垣破損について、)
同所之櫓毀之石垣(同所の櫓の壊れた石垣の)
築直之櫓立之事(築き直し、櫓立てること、)
幷親父甲斐守代(並びに親甲斐守家治が)
伺 上意候普請之(上意を伺ってあった)
所々之内石垣櫓門(所々の普請の内、石垣・櫓門)
多門山下之屋敷(・多門・山下の屋敷構えの)
構之石垣等同東南(石垣等、同じく東南の)
之方堀浚之事(堀浚えの事、)
絵図之通得其意候(絵図のとおり其意を得候、)
最前被守奉書之(もっとも前の奉書の趣を守られ、)
旨普請以連々(普請連々以て)
可被申付候恐々(申し付けられ可く候、)
謹言

慶安二丑
正月廿三日
  阿部豊後守 忠秋(花押)
  阿部對馬守 重次(花押)
  松平伊豆守 信綱(花押)
山崎志摩守殿
(慶安2年正月23日 幕府老中連署状、山崎家文書)

山崎俊家宛て幕府老中連署状、丸亀市立資料館にて展示
山崎時代の丸亀城郭図(上が北側)、丸亀市立資料館展示
上記絵図の三の丸南西、坤櫓部分

その間、初代の家治(1648年、慶安元年)2代目の俊家(1651年、慶安5年)が亡くなり、その後を3歳で継いだ治頼まで8歳で亡くなっていました(1657年、明暦3年)。築城工事はずっと続いていたものの、城主の山崎氏が世継ぎがないことで改易になってしまったのです。(段落全体⑦)

京極氏による城の完成

1658年(万治元年)、播磨国龍野から京極高和が6万(余)石で丸亀に入りました。高和は幕府の許可を得て改修を続け(補足3)、1660年(万治3年)に天守を完成させたとされています。天守は現在は単独で立っていますが、当時は渡櫓によって他の櫓(姫櫓など)と連結されていました。(段落全体②⑤)

(補足3)
円亀城、此の以前、山崎甲斐守木形絵図を以て、先御代(家光)の上意を得、普請申し付け候処、山上の櫓六か所、山下の櫓四か所は、櫓台の石垣これを築き、櫓建の事、山上東の方の石垣、山下居屋敷廻りの石垣、同三か所の虎口石垣築の事、其外多門塀立の事、未首尾につき普請これ有り度きの由承り届け候、次に、山下の塀艮より坤迄の間埋候、同惣構の堀北方の外三方埋候に付て、浚えの事、絵図書付の通り、其意を得候、連々以て普請申し付らる可く候、恐々謹言
 万治三子三月二十六日
  稲葉美濃守 (花押)
  阿部豊後守 (花押)
  松平伊豆守 (花押)
  酒井雅樂頭 (花押)
京極刑部少輔殿
(慶安3年3月26日 幕府老中連署状、丸亀市立資料館蔵)

京極高知肖像画、丸亀市立資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現存天守
天守模型(右側は姫櫓)、中津万象園にて展示

2代目の高豊のときの1670年(寛文10年)城の大手を北に定め、門や枡形を整備しました。この大手門は現存しています。この時代に城と城下町がほぼ完成しました。城は、最高所に本丸、東に一段下がったところに二の丸があり、石垣上の建物が連結していました。更に三の丸・帯曲輪が取り巻き、それらを支える石垣は3~4段に巡っていました。京極氏の統治は幕末まで7代続きます。(段落全体②⑤)

大手門
丸亀城木図写真、丸亀市立資料館にて展示

藩主の居館は京極氏時代に山麓に建てられましたが(⑮)、高豊は1688年(貞享4年)藩主別邸と庭園を造りました。これが「中津万象園」です。京極氏の出身地である近江の琵琶湖をかたどった池があり、近江八景になぞらえた8つの島を配置しています。1500本以上の老松も見事です。(以上⑦)

中津万象園

城下町は生駒・山崎・京極時代を通じて拡張しました。江戸中期から流行した金毘羅信仰により、丸亀は金刀比羅宮に向かう参詣客の寄港地として大変賑わいました。参詣客の増加に伴い港も整備されました。新しい船着き場として、1806年(文化3年)に福島湛甫が、1833年(天保4年)に新堀湛甫(しんぼりたんぽ)が構築されました。このうち新堀湛甫は現在も港として使われていて、照明・目印のために建てられた3基の青銅製燈籠のうち1基が残っています(2基は戦中に回収)。(以上⑦⑮)

金毘羅講燈籠

1859年、安政6年9月、長岡藩士の河井継之助は、金刀比羅宮へ向かう途中、丸亀に立ち寄り、その様子を記しています。(下記補足4)

(補足4)少し寝ると思いしに、はや丸亀へ着く。暁七ツ前の由。晴故に、月星照りかがやきて、風景妙なり。十里の海上、早きには感心のものなり。丸亀の船宿へ入りけれども、出来合い飯もなき様子故、支度を直して直ちに出懸ける。
廿日 晴 早き故、月はあれども、しかと湊の様子も分からず、城を左にして金毘羅さして行ける、丸亀は高の割より、城市共に宜敷様に思わる。此の辺は相応に土地も開け、左に讃岐富士、小さき山なれども形は好、先に見る江州のぬかで山に能く似たる山なり。其の外、形の好き小山数々あり。砂糖の草、往来に植えけるを見るに、黍に似たりと聞けれども、すすきの穂なきものの様なり。莖を取りて拵える由。(中略)金毘羅の手前五六町此の方にて、日漸く出。新たに見る所故か、風景面白く覚ゆ。さすがの街道、路幅も広く、所々に堂ありて、茶をわかす処あり、其の前に必ず石籠あり。(河井継之助旅日記「塵壺」、現地河井継之助顕彰碑より)

新堀湛甫にある河井継之助顕彰碑
丸亀市内の金毘羅街道沿いに残る石燈籠

その後(明らかになった高石垣の真実)

明治維新後、城は陸軍の管轄となり(1872年、明治6年~)、建物は取り壊されていきました。それでも、天守・大手門などが地元の要望により残されました。1919年(大正8年)には山上部が亀山公園となり公開されました。戦後は、公園整備が進み、天守・大手門が国の重要文化財に、内堀以内が国の史跡に指定されています。(段落全体②⑤⑧)

2018年(平成30年)7月から10月にかけて、大雨や台風の影響により、丸亀城南西部の帯曲輪・三の丸石垣が崩落しました。それまでも変形が激しく、解体修理を行うことになっていた箇所でした。もともと谷地形であり、築城当初から雨水が集まりやすい場所で、クラック(亀裂)が発生していました。豪雨により水圧が上がり、帯曲輪がまず崩落、押さえを失った三の丸も崩落したのです。(②⑪)

崩落前の写真、現地説明パネルより
崩落後の写真、現地説明パネルより

丸亀市は更なる崩落を防ぐため、応急対策工事(押え盛土、斜面安定、石垣撤去、表面排水)を行い、グランドアンカーなどで斜面を固定させながら、1万2千個近く(11,746個)の石垣の石を回収しました(解体含む、以上⑪)。これらはそのまま使える石、別の場所に使う「転用石材」に分類され、「新石材」とともに石垣復旧工事に使われます。(以上⑫)

解体回収された隅石
出番を待つ新石材

その工事のための準備・調査の中で見つかったのが埋没石垣です。その一部(「埋没石垣1」)は、山崎氏時代に一旦築いた後に崩れた石垣である可能性が高いとのことです。また、石垣を安定させる「栗端止(ぐりはと)」「敷金(しきがね)」「胴木(どうぎ)」といった仕組みや部材が使われていることがわかりました。(以上⑤➉)胴木は通常湿潤な環境で使われるので、当時から水が集まる場所と認識されていたと考えられます。江戸時代から苦労していたのでしょう。

埋没石垣1

そして何よりも大きな発見は、帯曲輪石垣の内側にある三の丸坤櫓跡の石垣の高さがわかったことです。それまで、三の丸の石垣は帯曲輪石垣の天辺辺りから立ち上がり、17mくらいの高さだと想定されていました。それが今回、石垣取外しの結果、31mもの高さと判明したのです。これは単独の石垣としては、日本で2番目の高さになります。(下記補足4、以上⑬)丸亀城を再興した山崎家治は、1位の大坂城の石垣工事にも参加しています。また「築城の名手」として家治より有名な藤堂高虎は、3位の伊賀上野城を築き、大坂城では縄張り・石垣工事に関わっています。両者とも「築城の名手」というにふさわしいのではないでしょうか。

(補足4)近世城郭の単独石垣高ランキング
・1位:徳川大坂城本丸東側 32m
・2位:丸亀城三の丸坤櫓台 31m
・3位:伊賀上野城本丸東側 30m

三の丸坤櫓石垣の高さがわかる展示、丸亀城石垣崩落復旧整備事業PR館にて展示

これまで全国で実施された石垣修理工事では、30mを超える石垣を修復した実績はなく、未知の経験を含む復旧工事になります(⑬)。2026年(令和8年)現在、三の丸石垣の基礎工事が行われ、年度中に帯曲輪・三の丸石垣の途中(標高それぞれ22m、26m)まで積み上げる予定です。(⑭)復旧工事の完了は2030年度末(2031年3月)とのことです。(①)

復旧工事現場

リンク、参考情報

① 丸亀城、丸亀市公式ホームページ
②「史跡丸亀城跡保存活用計画」令和3年3月 丸亀市
③ おむすび山の秘密、ビジネス香川
④「四国の名城を歩く 徳島・香川編」吉川弘文館
⑤ 丸亀市立資料館展示
⑥ Wikipedia
⑦「いにしえのときを刻む丸亀城」丸亀市観光協会
⑧ 丸亀城石垣崩落復旧整備事業PR館での説明
⑨「幕府に遠慮しながらも大きく見せたい「丸亀城」天守の涙ぐましさ──世界とつながっている日本の城 第12回」 
➉「丸亀城管理室だより(No.5・11・13)」丸亀城文化財保存活用課
⑪「丸亀城管理室だより(No.12・17・19)」丸亀城文化財保存活用課
⑫ 丸亀城石垣復旧工事パンフレット
⑬「丸亀城管理室だより(No.15)」丸亀城文化財保存活用課
⑭「丸亀城管理室だより(No.24)」丸亀城文化財保存活用課
⑮「新編 丸亀市史」
⑯「成羽町史」
⑰「苓北町史」

「丸亀城 現地編」に続きます。

148.浜松城 現地編

浜松駅から少し離れた「連尺交差点」に来ています。国道が交わっていてすごい交通量です。ここは江戸時代も、東海道が曲がり、その先も姫街道になっていました。今も昔も交通の要所なのです。その手前には堀を隔てて、大手門がありました。

イントロダクション

浜松駅から少し離れた「連尺交差点」に来ています。国道が交わっていてすごい交通量です。ここは江戸時代も、東海道が曲がり、その先も姫街道になっていました。今も昔も交通の要所なのです。その手前には堀を隔てて、大手門がありました。

連尺交差点
大手門跡

通りを進んでいくと、浜松市役所があります。この辺りからが二の丸でした。市役所は現代の御殿といったところでしょうか。向こうには天守も見えます。少し先には、ここから左に行くと「浜松城公園」という案内があります。

浜松市役所の向こうに見える天守
浜松城公園の案内

ただ、今回はいろんな時代からの史跡を紹介したいので、まずは、浜松城の出発点となった「引間城跡」に行ってみます。

城周辺の地図

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(浜松城と三方原合戦 現地ツアー)

城の出発点・引間城

更に進んでいき、最初の信号を渡って、脇道に入っていきます。この辺りは、浜松城時代は「古城」と呼ばれた引間城の堀だったようです。やがて、道路が曲がっているところがあります。これが城門の跡で、「霜垂口(しもだれぐち)」と案内があります。

霜垂口

今度は来た方に戻って、旧引間城の本丸に行ってみます。現在そこには、明治時代に創建された元城町東照宮があります。また傍らには「二公像」として、徳川家康に加え、豊臣秀吉の像まであります。少年時代の秀吉が、仕えていた今川家臣の松下加兵衛とともにここを訪れたという説明があります。家康築城の20年近く前とのことです。

元城町東照宮(引間城本丸跡)
二公像

ここから天守は見えるのかチェックしたところ、間にある建物の上に、なんとか見えました。

引間城跡から見える天守

戻りは、もう一つの門跡を通ります。けっこう下っていきます。曲輪の側面が、崖のようになっているのがわかります。その途切れる辺りが城門の跡で、「玄黙口(げんもくぐち)」と呼ばれています。三方原合戦で敗れた家康が、ここに退却したそうです。きっと厳重な構えだったのでしょう。

曲輪の側面
玄黙口

改めて、城の中心部に向かいます。

古風な石垣と再建天守

それでは、さっき通った案内のところから入っていきます。案内の辺りに二の丸裏門があって、通路がある場所は、御殿のど真ん中だったようです。

二の丸を貫く通路

通路が突き当たりますが、実は、ここはもう本丸です。本丸が半分くらい崩されてしまっているのです。ではどうやって天守に行くかというと、突き当たった左右どちらからでも行くことができます。今回は右側(北側)から回り込んでみます。そこからの登り口は、山の上のお城に行くという雰囲気があります。

北側から中心部への登り口

ずっと登っていくと、天守と石垣が見えてきました。反対側は富士見櫓の跡です。名前からして富士山が見えたのでしょうし、説明パネルにも富士山の写真があります。今日はちょっと残念という感じです。

天守と石垣
富士見櫓跡

石垣を見ながら、残された本丸に下っていくと、若き日の徳川家康公像があります。

若き日の徳川家康公像

いよいよ、天守曲輪に行きます。まず現れる石垣は、上に櫓があった感じです。その上では、石垣が築かれたとされる堀尾氏時代の櫓跡が発見されています。石垣は、古風で荒々しい野面積みです。復元された天守門(2014年に木造で復元)ともよく合っています。

かつて櫓があった石垣
復元された天守門

脇にある巨石も迫力があります。鏡石ということなのでしょう。天守曲輪に入ったら、改めて再建天守(1958年鉄筋コンクリート造で再建)を眺めます。元あった天守はもっと大きかったということですが、確かに天守台の石垣が余っています。どうして石垣に合わせて再建しなかったかというと、予算不足だったようです。

天守門脇の巨石
再建天守

天守に入りましょう。現在の入口手前にかつては付櫓があったと考えられます。中は資料館として2021年にリニューアルされました。おすすめは地下にある井戸です。天守を築いたとされる堀尾氏が、後に築いた松江城天守の地下にも井戸があります。

地下にある井戸

一階は若き家康の足跡、二階は浜松城の歴史の展示があります。一番上(三階)はやはり展望台です。三方原は北の方、さっき行った引間城は東の方に見えます。

天守一階の展示
天守東側の眺め

曲輪群の痕跡を探る

これから周りの曲輪に行きますが、その前に天守曲輪の屏風折れの石垣を見学します。埋門の跡から天守曲輪の外側に出ます。一旦下ってから、屏風折れの石垣にアクセスします。側面攻撃ができるよう折り曲げ、実戦的に作ったといわれますが、今では優雅にも見えます。土塁の上の部分に築いた「鉢巻石垣」の造りです。石垣自体を屏風折れにするのは全国的にも珍しいそうです。

埋門跡
屏風折れの石垣
石垣自体を折り曲げています

それでは、北側にあった「作左曲輪」の跡に行ってみましょう。「作左」とは「日本一短い手紙」で有名な家康の重臣、本多作左衛門重次のことです。三方原合戦の後になりますが(1579年、天正7年)、作左曲輪の工事をしたと考えられる記録があります。城の重要拠点の守りを任されていたのです。現在は主に学校の敷地になっていますので、雰囲気を感じるべく、近くの展望広場に行ってみます。幟が立っていて、曲輪という雰囲気があります。早速天守が見えるかチェックしてみます。方角が変わると、違った形に見えます。

作左曲輪跡
展望広場
展望広場から見える天守

天守曲輪の南側に戻ってきました。次は、更に南側にある出丸の跡に行ってみます。まず遠くから見てみると、建物がたっています。出丸の跡は、図書館の敷地になっているのです。図書館の曲輪に登っていきます。「浜松城出丸跡」という案内があります。図書館があるのはいいとしても、天守の見え方をチェックしたいところです。裏手の駐車場がいいようです。見えました。方角は逆ですが、さっきの展望広場と同じように見えます。一番最初の「古城」引間城を含めて、さまざまな曲輪が城を囲んで守っていたのがわかります。

出丸跡(遠景)
図書館への入口
出丸跡の案内
出丸跡から見える天守

「三方原」の史跡を巡る

城周辺の地図

最後のセクションでは、城の近く(市役所南バス停)からバスに乗って、三方原古戦場まで行ってみます。約10km、20分くらいのバス旅です。三方原墓園バス停で降りると、古戦場碑はすぐ近くにあります。ここで合戦があったのだろうと思ってしまいますが、実は、それがよくわからないのです。なんと主戦場について4つも説があり、場所もバラバラなのです(根洗松、大谷、小豆餅、大柴原)。

遠州鉄道のバス
三方原合戦古戦場碑

ここはいさぎよく撤退しましょう。家康が撤退したときの伝説地をめぐります。反対側のバスに乗って、葵町バス停で降ります。この付近には「小豆餅」という地名があり、家康が小豆餅を食べた場所とされています。今も小豆餅を売っている店があります。家康は、追手が迫ったので代金を払わず行ってしまいました。店のおばあさんは怒って家康を追いかけました。代金取立てまでを追ってみます。

葵町バス停
「小豆餅」の住所表示
小豆餅を売っている店

歩きやすい道を選び、バス通りに並行する廃線跡の通りを歩きます(軽便通り、奥山線跡)。ところで、家康が撤退したのは夜だったのですが、お店はやっていたのかとも思ってしまいます。ただ、伝説は伝説として楽しむのがよいのでしょう。バス通りに戻ると、「銭取」バス停がありました。小豆餅~銭取間は約2kmの道のりでした。

軽便通り
「銭取」バス停

次はバスに乗って「さいが崖」で降ります。徳川軍が反撃した場所です。ここにも伝説があって、崖に布を渡して橋に見せかけ、誤った多くの武田兵が崖に落ちたというものです。それにちなんだ「布橋」という地名もあります。崖の下には行けないそうですが、見晴台があるので見学します。草木が茂っていますが、なんとか底は見えます。こういう自然の地形も活用して城を守っていたのです。隣接する犀ヶ崖資料館では、合戦のジオラマなどを楽しめます。

「さいが崖」バス停
犀ヶ崖
浜松市犀ヶ崖資料館
三方原合戦のジオラマ

ここから先はまた歩きます。さっきの廃線跡のルートが遊歩道になっているのです。この道を行けば、浜松城公園に出られるとのことです。公園に着いたところで、見覚えがある小山がありました。最初に行った「古城」の引間城跡です。三方原合戦の後、家康が戻ったのはそこにある城門でした。よって、その場所をゴールにしました。そういえば城の方でも、わざと城門を開いてかがり火をたき、追撃してきた武田軍をかえって警戒させたという伝説がありました。(空城の計)浜松城は、歴史と伝説に彩られた城だと思いました。

廃線跡の遊歩道(亀山トンネル跡)
「古城」引間城跡
家康が戻ったとされる玄黙口

「浜松城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

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