160.飯盛城 現地編

大阪府の四条畷駅前に来ています。ここから飯盛城跡に向けて出発します。城の防御の仕組みや景色も楽しみますが、飯盛城は「石垣の城」として有名になってきましたので、石垣探しもやってみたいと思います。

ここに行くには

大阪府の四条畷駅前に来ています。ここから飯盛城跡に向けて出発します。

四条畷駅前

ここで大東市発行の河内飯盛山ハイキングマップを拝借します。現在城跡を見学するには、飯盛山ハイキングコースを通って行きます。今回は、四条畷駅を出発する「飯盛山展望コース」と呼ばれるルートで登って、野崎駅に向かう「七曲りコース」で下りますが、野崎駅手前の大東市立歴史民俗資料館をゴールにします。

河内飯盛山ハイキングマップ、大東市発行

とりあえず登り口の四条畷神社まで行きます。駅からの道が参道になっています。四条畷神社は、南北朝時代の四条畷の戦いで敗れ自害した楠木正行を祀っている神社です。

四条畷神社の参道
神社と背後の飯盛山

神社に着きました。登る前に、これも大東市発行の城跡案内図を見てみます。城の防御の仕組みや景色も楽しみますが、飯盛城は「石垣の城」として有名になってきましたので、ハイキングコースから見られる範囲になりますが、石垣探しもやってみたいと思います。

四条畷神社
飯盛城跡案内図、大東市発行

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

城周辺の航空写真

いりなり登山ですごい景色

神社の裏手の方から登っていきます。飯盛山は標高が314メートルあるので、麓からは300メートル近くの登りになります。急な坂です。自然の障壁を自ら体感です。

飯盛山登山道

景色が良くなってきました。休憩所まであと100メートルとあります。まだ登りは続きますが、なんとか休憩所に着きました。ここは、北の方にある曲輪で、数字の番号で「Ⅵ郭」というそうです。城の案内図だと端っこに着いたという感じです。

中腹からの眺め
休憩所への案内
Ⅵ郭(史跡碑があるので、別名「史跡碑郭」)

まずは景色を楽しみましょう。いきなりすごい景色です。芥川山城からも見えた大阪のビル群が見えます。(残念ながら芥川山城跡(三好山)の位置はわかりませんでした)

Ⅵ郭からの眺め(大阪方面)

少し北側に移動すると、京都方面も見えます。ズーム画像ですが、京都タワーらしきものも見えました。

京都タワーか

山城で石垣探し

次に現れるのが、堀切です。敵が攻めてくるであろう北側と守りの南側では全然高さがちがいます。芥川山城にあった大堀切と一緒です。

堀切

続いて最初の石垣です。次の曲輪に登っていく途中にあるのです。見つかった石垣にも番号が付けられていて、こちらは「石垣18」とのことです。

石垣18

次の曲輪はⅤ郭「御体塚郭」です。ゴツゴツした岩があって、名前も意味深です。もともと宗教施設として作られたと考えられていて、名前の由来は、亡くなった三好長慶を仮埋葬したことだそうです。

Ⅴ郭「御体塚郭」

次の石垣はここから下ったところにあります。「石垣14」とあります。現在は目立たないところにありますが、往時の登城道は、今回来たのと逆の東側にあったと考えられます。この石垣はその登城道に沿っていたらしいのです。少し移動すると、かつては石垣14から続いていたと思われる「石垣15」が見えます。

石垣14
石垣15(中央奥)

石垣探しの続きは、曲輪の側面のハイキングコースをずっとたどって、もっともよく残っていると言われる石垣に行ってみます(「石垣1と69」)。途中の分岐点を左に行きます。山腹を通るので、見上げると他の石垣をいくつか見つけることができます。目的の石垣が見えてきました。「石垣1」で、長さ約24メートル、高さは最大で約2.6メートルあります。一部は崩落防止対策がされています。なんとか維持して、できたら元の姿を見てみたいものです。この下にもう一段あって、それが、長さ約44メートル残っている「石垣69」です。ただ、それはハイキングコースの下にあるのです。位置関係は大東市立歴史民俗資料館で展示されている写真で確認できます。

分岐点
山腹を進むハイキングコース
石垣1
石垣1(ズーム画像)
石垣69写真、大東市立歴史民俗資料館にて展示
石垣1(上)69(下)写真、大東市立歴史民俗資料館にて展示

先ほどの分岐点に戻って、もう一つ石垣を見てみます。Ⅲ郭という曲輪の西側にある石垣です。(「石垣6・7」)こちらは山麓などから見える位置に築いて、城主の権威を示そうとしたと考えられます。ただ、この石垣も保護が必要な状態になっていて、近くに立入ることはできず、遠巻きに眺めるしかありません。石垣たちには是非ともがんばってほしいです。

石垣6・7

山頂に到着、まだ石垣探し

いよいよⅡ郭(本郭)に行きます。「展望台曲輪」とも呼ばれるそうです。曲輪への階段を昇っていくのですが、その前に曲輪脇にある石垣をチェックします(「石垣3・4」)。下に見える道はさき程歩いたルートなので、下から見上げた石垣だったかもしれません。この一段下にも石垣がありました。(「石垣54」)石垣が段々に積み上げられていたことがわかります。

Ⅱ郭への階段、石垣は左脇にあります
石垣3・4
石垣54

Ⅱ郭に登っていくと、展望台があります。ここも素晴らしい景色です。「大阪眺望之図」という案内板を見ると、明石海峡大橋や大阪城が見えるとあります。さっそく探してみると、明石海峡大橋が見えます。三好長慶の時代はあの場所も領国の範囲内でした。大阪城も見つかりましたが、意外と小さく感じます。周りに高層ビル群があるからでしょう。

展望台があるⅡ郭、その向こうがⅠ郭
展望台からの眺め
「大阪眺望之図」
明石海峡大橋(ズーム画像)
大阪城(ズーム画像)

そして、最高地点のⅠ郭(高櫓郭)です。最初の頃通った、四条畷神社に祀られている楠木正行の銅像があります。かつては名前の通り、櫓が立っていたのかもしれません。

Ⅰ郭にある楠木正行銅像

城の範囲を大きく2つに分けると、このⅠ郭から北が防御空間で、それより南の曲輪が居住空間になっていました。つまりこれから行くところが境目ということになります。まず、細い通路を下っていくと、土橋になっています。両脇の堀切で細くしているのです。芥川山城にもありました。城を守る定番アイテムです。

土橋

更に下ると、ちょっと開けたところに出ます。実は、ここも堀切だったのです。かつてはここも、すごく深かったのでしょう。

堀切

ここからもう一か所、石垣を見に行ってみます。下の方にある「石垣94」です。道路の下にあるのですが、道路側から見学することができます。この辺りにも登城道が通っていたと考えられています。

石垣94

こうやって見てくると、石垣は天守や櫓を支えるものという、従来ありそうなイメージとは違います。技術的な違いもあるのでしょうが、ここでは曲輪そのものを支えたり、通路の壁として見せている感じがします。三好長慶の石垣の城、とても個性的です。

長慶がいた千畳敷

それでは、居住空間だったⅧ郭(千畳敷郭)に進みましょう。すごそうな建物がありますが、曲輪の一部にNHKのFM送信所が建てられているのです。建物を越えていきます。やっと曲輪らしいところに出ました。しかも今までの曲輪より広い感じです。この曲輪は盛り土をして広げられたのです。建物の礎石や、茶道具など生活用具も発見されています。きっとこの曲輪のどこかに長慶の御殿があったのでしょう。

NHK・FM送信所
Ⅷ郭(千畳敷郭)

更に南に進みます。行先が2つあります。右に行くとⅨ郭(南丸)、左に行くと出入口の虎口です。まず、南丸の方に行ってみます。ここは、城の南側の守りを固める曲輪で、虎口を攻める敵を側面攻撃することもできました。行き止まりになってしまいました。最南端にある曲輪なので仕方ないです。

左に行くと虎口、右に行くとⅨ郭(南丸)
Ⅸ郭(南丸)

さっきのところに戻って、虎口から出ましょう。門は上の方にあったと考えられています。ここにも石垣があります。虎口と石垣がセットになっているのです。一部しか残っていませんが、大きな石を使っていて、鏡石の役割があったのではないかと言われています。さすが戦国最初の天下人の城です。信長の安土城の門にも大石が使われていました。飯盛城は、後の天下人に引き継がれた城でもあったのです。

虎口と石垣30・31
安土城黒金門跡

帰りは、予定通り七曲りコースで下ります。カーブがたくさんあって、七曲りどころではないのですが、その分、傾斜が抑えられているのでしょう。麓の街が見えてきました。城の時代には城下町はありませんでしたが、長慶はキリスト教の布教を認めたので、周辺には教会が建てられました。(三箇・岡山など)そして宣教師は本国に長慶が日本の統治者であると伝えたのです。

七曲りコース

ゴールの大東市立歴史民俗資料館に到着しました。ここでは、城や地元の歴史などを学ぶことができます。

大東市立歴史民俗資料館

リンク、参考情報(追加分)

・大東市立歴史民俗資料館展示
・「飯盛城跡石垣ガイド」大東市・四条畷市教育委員会
・「よみがえる飯盛城~「天下人」三好長慶最後の居城」Youtube大東市公式ちゃんねる
・「クローズアップ飯盛城2022」Youtube四条畷市公式動画チャンネル

「芥川山城・飯盛城 歴史編」に戻ります。
「芥川山城 現地編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

159.芥川山城 現地編

大阪府の高槻駅前に来ています。芥川山城跡はここから距離がありますので、今回はパスで行くことにしました。市営バスの塚脇行きに乗って、15分くらいのバス旅です。

ここに行くには

大阪府の高槻駅前に来ています。芥川山城跡はここから距離がありますので、今回はパスで行くことにしました。市営バスの塚脇行きに乗って、15分くらいのバス旅です。

塚脇行き高槻市営バス

塚脇バス停で降ります。ここから、三好山の山頂にある、芥川山城・主郭を目指します。途中から周遊コースになるのですが、大手石垣が残る「大手筋ルート」を進みます。

塚脇バス停
三好山(城跡)へのルートマップ(高槻市ウェブサイトより引用)

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

城周辺の地図

大手筋ルートへ進む

バス停から通りを渡ったところの道に入ります。坂が急になってきました。

バス停から住宅街を進みます

周りが山っぽくなってくると、周遊ルートの分岐点に着きます。

周遊ルートの分岐点

右側の山道入口のところに「三好山へ40分」とあります。ついついこちらに進んでしまいそうになりますが、大手石垣(大手筋ルート)へは、ここで左に進む必要があります。

山道入口にある案内

左側の舗装道を進むと「山頂・主郭」の案内があります。迷わず進みましょう。

「山頂・主郭」への案内

途中には石垣もあって、城のものかと思ってしまいますが、ほとんどが農業用に積まれたもののようです。

途中にある石垣

いよいよ山の中に入ってきて、左奥の方に誘導されますが、案内は「大堀切・土塁」とあります。こちらは新たに加わったルートのようで、大手石垣に行くには、右手に進みます。

「大堀切・土塁」へのルート

右手に行くと、猪除けの柵があり、開け閉めをして進みます。

猪除けの柵

その先は谷筋なので、足元にも気を付けて歩いていくと、大手石垣が現れました。

大手石垣

大手石垣と大堀切・土塁を見学

この城で石垣は何ヶ所か見つかっていますが、ビジターが通常見学できるのはここだけだそうです。下の方に石が転がっていて、元は大手石垣として積まれていたのでしょう。現在は、真ん中が崩れてしまっていますが、当然続いていましたし(約12m)、高さも現在(2m前後か)の倍くらいあったのではという意見があります。

大手石垣
下の方に転がっている石
真ん中が崩れている石垣

上に登っていき、山の上の通路に出ました。

山の上の通路

もう少し進むと、急に視界が開けました。主郭の下の方にある曲輪です(曲輪11)。せっかくなので、主郭の前に「大堀切・土塁」まで行ってみたいと思います。先ほど左に枝分かれしたルートの行先です。

曲輪11

一旦、主郭への登り口まで行ってみます。右に行くと主郭ですが、今は左の方に下ります。

左に行くと大堀切・土塁、右に行くと主郭

大堀切・土塁まで下ってきました。左側の土塁と、右側の大堀切で、尾根伝いに攻めてくる敵を防いでいました。更に右側の曲輪との落差がものすごいです。

大堀切(真ん中)・土塁(左)

改めて主郭の方に登っていきます。きつい登りです。

上の曲輪への通路

平らなところに出ました。大堀切の上にある田ノ丸(曲輪12)です。ここは、城の南西側を守る要の曲輪でした。ここから大堀切は下すぎて全然見えません。

田ノ丸(曲輪12)
田ノ丸から下を見ています

長慶のいる主郭に到着

主郭に向けて、登ります。主郭の周りは、曲輪が段のようになっています。例えば、主郭の手前下にある曲輪(曲輪3)では、「塼(せん)」と呼ばれる建物の外壁を支える基礎材料や、硯がいくつか発見されています。蔵があったと考えられています。

曲輪3
曲輪3で発掘された塼(高槻市立しろあと歴史館にて展示)

最後の登りで主郭に到着です!まずはどうしても景色に期待してしまいます。すばらしい眺めです。右手に大阪のビル群も見えます。それから、長慶のもう一つの居城、飯盛城があった山(飯盛山)ですが、正面に見える低い方の山だと思います。2つの城が向かい合っていたのです。

主郭(下段)
三好山と三好長慶のディスプレイ
主郭からの眺め
飯盛山(手前)

続いて、主郭の奥の方(上段)に行ってみましょう。その途中に三好長慶公祭祀祠というお堂があるのですが、これがけっこう重要なのです。三好長慶は、近くの村の水争いの裁決を行いましたが、なんとその裁決は江戸時代も有効だったのです。水の権利を保障された村(郡家村)の人々は、長慶を神として城跡の山に祀りました。それが今ある祠に引き継がれています。地元の人たちにとって三好長慶はまるで今でも現役のようです。

三好長慶公祭祀祠
三好長慶水論裁許井手絵図・裁許状(高槻市立しろあと歴史館にて展示)

主郭の奥の方には、長慶もいたであろう御殿がありました。発掘調査によると、御殿が立っていた礎石や、宴会で使用されたと思われる皿(かわらけ)が見つかっています。御殿そのものについては、屋根の天辺に乗せる瓦(雁振瓦)だけ見つかっていて、残りは板葺きだっただろうとの意見があります。信長、秀吉に比べるとまだ質素だったようです。

主郭御殿跡周辺
主郭で見つかった雁振瓦(中央奥)、かわらけ(中央手前)、高槻市立しろあと歴史館にて展示

主郭の周りはどうなっているかというと、ロープが張ってあって、ものすごい急坂で危険ということなのでしょう。この下は、摂津峡がぐるりと取り囲んでいるはずです。

主郭周囲

塚脇ルートから撤収

大手筋ルートの終点まで戻ってきました。先ほど登ってきたところです。ここから、枝分かれしている塚脇ルートを通って撤収します。城の東側を通るルートです。

右側が大手筋ルート、左側が塚脇ルート

進んでいく右手には、案内はありませんが、通称「出丸」という主郭周辺に次ぐ曲輪群があります。主郭の反対側から大手道を守っていたのでしょう。関門のようなところに至りました。「出丸」エリアの出入口と思われます。

「出丸」エリアの虎口か

反対側からここに入ってみましょう。反対側の手前が、すごく細い通路になっています。堀切に挟まれた土橋です。簡単に入れないようになっていたのです。土橋を渡ってみると、左側(南)は谷、右側(北)は堀という感じです。先ほどの関門は虎口だったのでしょう。

土橋

土橋の更に手前にも防御の仕組みがあります。南側の斜面に注目です。なにか盛り上がっています。斜面を移動してくる敵を防ぐための、竪土塁です。

竪土塁

その東側にも曲輪群がありました。土塁に囲まれた比較的小規模なもので、居住地区か、兵の駐屯する場所として使われたのではないかと言われています。現在は、その多くが農地や墓地などに転用されているそうです。

東側の曲輪群

その先に行くとまた石垣がありますが、ぱっと見、城の時代のものに思えてしまいます。下っていくときの景色もなかなかいいです。城があったときもこのように見えたのでしょうか。

途中にある石垣
下りの景色

最初の分岐点に着きました。ここにある案内を見たら、無事戻ってきたと感じました。

最初の分岐点にある案内

バスは循環ルートなので帰りも同じ所から乗ります。駅に着いたら、向こう側にある高槻市立しろあと歴史館に行ってみるのもいいと思います。館内には芥川山城(芥川城)についての展示のほか、この場所にあった高槻城についての展示もあります。和田惟政、高山右近、そして江戸時代の高槻藩に引き継がれました。

高槻市立しろあと歴史館
高槻城の模型、高槻市立しろあと歴史館にて展示

リンク、参考情報(追加分)

・「大阪府中世城館事典/中西裕樹著」戒光祥出版

「芥川山城・飯盛城 歴史編」に戻ります。
「飯盛城 現地編」に続きます。

208.屋嶋城

今日は、徳島城を見学に行った足で、高松駅に来ています。高松城は以前ご紹介しているので、この近くに行ける城は他にないでしょうか?そういえば、屋島に城の門が復元されたと聞いたことがあります。源平合戦で有名なところですが、古代山城の一つだったとのことです。

Introduction

今日は、徳島城を見学に行った足で、高松駅に来ています。高松城は以前ご紹介しているので、この近くに行ける城は他にないでしょうか?そういえば、屋島に城の門が復元されたと聞いたことがあります。源平合戦で有名なところですが、古代山城の一つだったとのことです。以前九州の大野城の勉強をしたときにも、名前が出てきました。この記事では、最初に古代山城、および屋嶋城の歴史に関するご説明をして、それから現地をご案内したいと思います。

高松駅

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(古代山城と屋嶋城)

大宰府と大野城が作られる少し前の、7世紀前半、朝鮮半島には3つの国が並び立っていました(高句麗・新羅・百済)。中国大陸では、618年に統一王朝の唐が成立し、朝鮮半島に勢力を伸ばそうとしていました。唐はまず、新羅と同盟して、百済を滅ぼします(660年)。百済の遺民は国の復興を目指し、友好関係にあった倭国(以下日本と表記)に救援を要請しました。皇太子で実力者だった中大兄皇子は援軍を送る決意をし、その結果起こったのが白村江の戦いだったのです(663年)。しかし日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗しました。その結果を受けて、皇子が恐れたのが、唐・新羅による日本侵攻でした。皇子は、日本の防衛体制を整備していくのです。

白村江の戦いの図l (incensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

朝廷の正史「日本書紀」によれば、敗戦の翌年(664年)、に対馬・壱岐・筑紫などに防人と烽火を配備し、警備体制を作りました。また九州北部に、防衛線として水城を築きました。そして665年には、百済からの亡命官僚を派遣して、水城の背後に、大野城、基肄城を築城したのです。

水城跡
大野城跡
基肄城跡

その後も整備は進み、朝鮮への最前線の対馬(金田城)からお膝元の大和(高安城)まで、城を築きました(667年)(下記補足3)。その中に屋嶋城があります。

(補足3)(天智天皇6年11月) 倭(やまと)国高安城(たかやすのき)・讃吉(さぬき)国山田郡の屋嶋城(やしまのき)、対馬国の金田城(かなたのき)を築く。(日本書紀)

主要な古代山城の位置

古代山城または朝鮮式山城は、朝鮮で確立し、百済からの亡命者の指導のもとに、日本に導入された築城方式によって築かれました。先ほどご説明した通り、朝鮮半島では内乱や外国からの侵攻が続いていました。この築城方式は、土塁や石垣によって山を囲ってしまうというやり方で、当時の朝鮮の人たちは、敵軍が攻めてくると、その山城に逃げ込み、敵の補給を切れるのを待って、反撃に転じるという戦法を取っていました。一旦逃げ込む先として準備していたのです。その城の中には、倉庫などを建てて、備蓄もしていたのでしょう。この方式が、唐・新羅の連合軍による侵攻に備える日本にも、導入されたのです。

屋島の地形図を見ると「メサ」と呼ばれる特徴的な地形になっています。テーブル状の台地で、山上が平らで、周囲は急な崖に囲まれています。山を丸ごと囲い込む古代山城にはうってつけの地形だとわかります。結局唐などの侵攻はなかったので、城はすぐ廃城になったと思われ、長い間「幻の城」と呼ばれてきました。1998年になって本格的に発掘調査が始められました。その結果などから、全長約7kmの城壁のうち、人工的なものは約1割と考えられています。屋島の自然の地形を最大限生かしたのでしょう。その人工的なものの中で、最大の発見が、これからご案内する城門です。これにより、屋嶋城の実在が証明され、古代山城の中でも最大級の門とのことです。しかし、この城の全貌はまだまだベールに包まれているのです。それでは現地に向けて出発しましょう。

屋島周辺の起伏地図

復元された城門

ここに行くには(自然と歴史の地・屋島へ)

今回のご案内は、電車とバスを使って、お気軽に行けるコースをご紹介します。高松から、電車で屋島駅に向かいます。屋島が見えてくるのですが、特徴的な地形だとわかります。古代山城にはもってこいです。

車窓から見える屋島

駅に着いたら、バスに乗り替えます。結構混んでいます。人気の観光地でなのでしょう。

屋島駅
屋島山上行きバス


急な坂を登っていたはわかりましたが、思ったより、すぐに着いてしまいました。ほんとうに上は、まっ平です。

バスで登っています
山上の駐車場に到着

これから、駐車場から近い範囲を、歩いて屋島山上を回りながら、復元された城門を見学することにします。

屋島山上(南嶺)案内図

駐車場からは、第八十四番札所の屋島寺に向かう人が多いのですが、違う方向に行きます。ずっとまっすぐの道で、本当に平らだと感じます。もうすぐ東側の崖に着きます。説明パネルがあります。「源平屋島合戦史跡 案内図」というタイトルです。

屋島寺(東大門)
まっすぐの道を進みます
東側の崖に到着
「源平屋島合戦史跡 案内図」


この眼下に見える一帯が、古戦場なのです。那須与一が海辺で扇の的を射たところだから、山の上ではないと思っていましたが、あの場所での出来事だったと初めて知りました。

古戦場の眺め

特徴、見どころ

城門に到着、見学!

いよいよ城門に向かいますが、今歩いている道はお遍路道にもなっています。85番目の札所に向かう分岐点があります。

八十五番札所への分岐点


目指す城門は、西側の崖にあるのですが、この辺は屋島の南嶺の山上部分が細くなっているので、そんなに遠くはありません。逆に、そういうところだからこそ、門を作ったのかもしれません。もう案内が見えてきました。

道はまだ崖の東側を進んでいます
程なく崖の西側に着きました、門の案内があります

ここから少し下っていきます。なんだか、風の音がして、風雲急を告げているようです。視界が急に開けてきました、すごい景色です!山の西側が一望できます。ちょうど夕方になってきているので、神秘的にも感じます。

門に向かって下ります
城門に到着です
城門からの眺め

修復された城門石垣をよく見るためには、さらに階段を下ります。さすが、よく整備されています。下ってから石垣を見上げると、崖と一緒に立ちはだかっているように見えます。城壁は約6メートルの高さで、崖の前に築かれています。

階段を下ります
城門石垣

右手前の登山道から改めて近づいてみましょう。門の建物もあったはずですが、残念ながらその痕跡はほとんど残っていなかったそうです。それでも、戦国時代の城のような石垣が、1300年以上も前に築かれていたことはすごいと思います。しかし短期間で廃城になって、石垣の技術も城とともに幻になって、一旦忘れられてしまったのでしょう。

右手前の登山道を上がったところです

門の作り方として注目なのは、懸門です。入口に、高い段差を設けて入りにくいようにしています。当時は梯子がかけられていたと考えられます。

懸門

もう一つは門の中に入ったところで、甕城(おうじょう)といいます。岩盤が敵の行く手を阻み、左側に進ませるようになっています。敵がその通り進んだら、周りから兵士が側面攻撃するのです。近世の城の枡形みたいなものです。

甕城

実は全部が屋嶋城?

帰り道は、屋島寺に寄ってみましょう。参道が見えてきました。お遍路の人は、左側から登ってきます。右側にあるのが仁王門です。そのルートに合流しましょう。

屋島寺の参道に突き当たります
こちらからお遍路の人が登ってきます
仁王門

四天門、重要文化財の本堂、と進みます。このお寺自体、屋嶋城が廃城になった後、北嶺から南嶺に移されたとも言われます。狸伝説のお寺でもあります。

四天門
本堂
狸石像

せっかくなので、北側の眺めを見に行きましょう。駐車場から、北西側に回り込んでいきます。北嶺が見えます。

駐車場から北側の眺め、右側が北嶺

今度は、海が一望できます。高松の海岸が良く見えます、ここにも「屋島城跡」と表示があります。唐突感はありますが、屋島中が城だったということでしょう。今後、屋嶋城の謎がだんだん明らかになるかもしれません。

南嶺北西側からの眺め
ここにも「屋島城跡」とあります

リンク、参考情報

・屋嶋城詳細へ、高松市公式ホームページ もっと高松

これで終わります、ありがとうございました。

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