204.佐和山城 その2

今回この記事では、彦根駅から佐和山城跡まで徒歩でいく場合の道順をご紹介します。城跡がある佐和山は、彦根駅の東口方面となります。改札から東口に出る途中に、石田三成と佐和山上のディスプレイがあって、気分が盛り上がります。東口から出たすぐのところに佐和山城跡の標識があります。

ここに行くには

今回この記事では、彦根駅から佐和山城跡まで徒歩でいく場合の道順をご紹介します。城跡がある佐和山は、彦根駅の東口方面となります。改札から東口に出る途中に、石田三成と佐和山上のディスプレイがあって、気分が盛り上がります。東口から出たすぐのところに佐和山城跡の標識があります。

彦根駅内の石田三成と佐和山城のディスプレイ
彦根駅東口
東口前の標識

駅から見て、駅前通りを左(北)に進み、突き当たった所を左に曲がります。案内版もあります。車道は高架になって鉄道を越えますが、われわれは脇道を進みます。

駅前通り
通りの突き当たり
脇道を歩いていきます

踏切を渡ると、また案内板がありますので、右に曲がって高架をくぐります。すると、道が二又に分かれますので、左の方に進みます。わかりづらいですが、左側のポールの上に案内が表示されています。

踏切
右に曲がったところです
二又に分かれる地点

そこからは、水路に沿って道が進むので、迷うことはないと思います。右手に佐和山も見えてきます。

水路に沿って進みます
佐和山

そのうちに公園らしい風景になってきて、佐和山城跡の看板が見えます。東山公園です。天守の模型や駐車場もあって、着いたような感覚になりますが、城跡はもう少し先です。

道は公園に至ります
「佐和山城跡」の看板
東山公園

先に進むときれいな道に出ます。井伊家の菩提寺、清凉寺・龍潭寺が並んでいます。そして、城跡登り口(ハイキングコース入口)に到着です。

お寺が並ぶ道
清涼寺
城跡登り口(ハイキングコース入口)周辺

特徴、見どころ

ハイキングコースに挑む!

佐和山城は歴史が長いので、山の峰上に多くの曲輪(区画)が作られました。城跡にはハイキングコース設定されていますが、カバーしているのは、曲輪群の一部です。山はお寺の所有になっているので、コースを外れないようにしましょう。コースの最初の部分は、城の北側を走っていた昔の街道と重なっているようです。

佐和山城城跡マップ、「佐和山城跡のご案内」彦根観光協会パンフレットより引用

それでは、ハイキングコースに進みましょう。ハイキングコースは、龍潭寺の境内を通るので、時間制限があります。石田三成像がお出迎えです。そして、寺の山門を入っていきます。

ハイキングコース入口
ハイキングコースの注意書き
石田三成像
龍潭寺山門

山に入るときに見える谷の部分は自然物に見えますが、敵の移動を防ぐための竪堀だったようです。自然の谷を利用して、更に加工したのかもしれません。

山の入口にある竪堀

少し登ると、切通しに着きます。街道が山の峰を抜けていくためと、城にとっては端っこを守る意味もあったのでしょう。関ケ原の戦い後の佐和山城攻めのときには、この道の両側から東軍が攻めてきたそうです。

切通し

ここからハイキングコースは山の峰を登っていきます。城としては「西の丸」に当たり、3段の曲輪で構成されていました。各段の間には、それぞれ竪堀も掘られていました。東軍に攻められた時には、河瀬織部という三成の家臣が守っていたそうです。

峰の上を登っていきます
西の丸上段に残る竪堀

まず、下段の曲輪に着きます。「塩硝櫓跡」という標柱があり、その後ろには大穴が開いています。説明パネルには「塩櫓」とありましたので、塩か火薬の蔵だったのでしょう。

西の丸下段曲輪(塩硝櫓跡)
説明パネルには「塩櫓」とあります

登り続けると、「西の丸」の説明パネルがある上段曲輪に着きます。上の方に、土塁の高まりのようなものがあるので、行ってみましょう。土塁が壁のようになっています。そこから見ると、上段曲輪がお見通しです。どんな風に守っていたかがわかります。

「西の丸」説明パネル
背後にある土塁の高まり
土塁の壁
土塁から上段曲輪を見ています

本丸に到着!

いよいよ本丸に行きますが、そこまでは本当にハイキングです。本丸には残念ながら、お城らしさは全然ありません。城の石碑があるくらいです。彦根城築城のときに、建物・石垣ごと持ち去られてしまったのですから仕方ないでしょう。

本丸にある石碑

しかし、山麓からの高さは130メートルくらいありますので、景色はすばらしいです。彦根城もばっちり見えます(本丸から西方)。

本丸から見える彦根城

北の方の景色もすばらしく、琵琶湖がきれいです。

本丸から見える琵琶湖

登ってきたのと反対側に「南口降り口」の案内板があります。城跡マップ(ハイキングコース)には、別の登山口の案内はありませんが、マップ上の「隅石垣」の方向なので、そちらに行ってみましょう。

「南口降り口」の案内板
本丸南側の地図、滋賀県教育委員会「埋蔵文化財活用ブックレット5(近江の城郭1) 佐和山城跡」より引用

本丸を下ると、少し平らなところに出ます。「石垣」という標柱がありますが、「隅石垣」のことを言っているのでしょう。そちらの方向に行くと、四角い大石が2つあります。これが隅石垣で、本丸石垣隅の基礎部分と考えられます。よく残っていたと思いますが、埋もれていたか、取り出すのが危険だったのか、どうなのでしょう。

「石垣」の標柱
隅石垣

もう一つ下るとまた平らな場所があって、その先が「千貫井」です。山の上にあるので「千貫」の価値があるほど貴重な井戸だったのでしょう。それで長い籠城戦にも耐えられたのです。しかし、現場は荒れている感じがします。戦前(第二次大戦前)に掘り返されてしまった影響もあるのでしょう(「近江佐和山城・彦根城」による情報)。

千貫井

千貫井から戻ったところの平地が、ハイキングコースの最後のポイント「登城道」のようです。近くには「女郎谷」という案内もあります。関ケ原後のこの城での戦いのとき、本丸には石田三成の父・正継たちがいて、よく敵を防いでいました。ところが敵に内応する者が出て、天守は炎上、正継たちは自害しました。そして逃げ惑う子女たちが身を投げたのが、この先にある女郎谷だということです。

「登城道」と思われる場所
「女郎谷」の案内

ハイキングコースは「登城道」から同じ道を戻る設定になっているので、コース入口に戻ります。

プラスアルファにチャレンジ!

駅への帰り道に他のスポットにも行ってみましょう。まず「石田三成屋敷跡」があります。来るときに通った東山公園のところを曲がって、山の方に行きます。下から見た「佐和山城跡」看板の裏を通っていきます。

東山公園、この手前を左(山の方)に曲がります
城跡看板の裏を通ります

しばらく行くと、石垣が見えてきます。城跡への案内板がありますが、ちょっと変です。その近くに「石田三成屋敷跡」の石碑がありました。例の石垣は史跡ではないようです。もしあったら彦根城に持っていかれてしまったでしょうから。

謎の石垣
石垣の前には案内板
石垣から少し離れたところに石碑があります
石田三成屋敷跡

本日最後のチャレンジは登山道「南口」探しです。旧中山道の国道8号線に出たら、登山口らしい場所がありました。「石田三成 佐和山城跡」という案内板がありますが、「南口」とは書かれていません。位置関係から言えば、ここが南口なのでしょう。

登山道南口?
現地にある案内板

閉鎖はされていませんし、近くに法華丸(曲輪の一つ)がありますので、少しだけ行ってみましょう。竹林がきれいです。段々に整地されていますので、これが法華丸の一部ではないでしょうか。

竹林に囲まれた遺跡
法華丸跡か?

私の感想

佐和山城は「徹底的に破壊された」とよく言われますが、残っているものは意外とあるということがわかりました。今後整備されて見学できる場所が増えるといいと思います。実は、大手門跡にも行ってみたかったのですが、今回は彦根駅からの徒歩であり、遠くなるのでパスしました。次の機会に行ってみたいです。

大手門跡、彦根観光協会ホームページから引用

また、琵琶湖を擁する滋賀県は、今でも多くの名物(近江牛、鮒ずし、赤こんにゃく、ニジマス、サラダパン、バウムクーヘンなど)があり、豊かな国と言えるでしょう。

琵琶湖岸
近江牛料理の一例

これで終わります。ありがとうございました。
「佐和山城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

204.佐和山城 その1

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

立地と歴史

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。彦根駅をスタート地点とした場合、彦根城は西口から向かいます。佐和山城(跡)は、東口の方に行くと、佐和山城の案内と、城があった佐和山が目に入ってきます。それでは、佐和山城といえば、何を思い浮かべるかというと、やはり「石田三成」ということになるでしょう。「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近と佐和山の城」という俗謡が有名です。しかし、この城は三成の時代のもっと前から、重要な役割を果たしていたのです。そして、その役割は変化しながら三成に受け継がれたのです。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

彦根城
佐和山城跡

南北近江の境目の城

佐和山城があった近江国(現在の滋賀県)は、京都に近く、早くから産業(農漁工商)や交通(水陸)が発達していました。よって領主や城の数も多く、室町時代には南近江・北近江それぞれに守護が置かれ、分割統治されていました。南近江は六角氏、北近江は京極氏で、北近江の範囲は京極5郡(伊香・浅井・坂田・犬上・愛知)と呼ばれたりしました。戦国時代になると、家臣の浅井氏が京極氏に取って代わり、戦国大名として六角氏と対立しました。佐和山城は、その南北近江の国境近くにあり(位置としては坂田郡)、両勢力の争奪の対象となりました。似たような位置づけの城としては、近くの鎌刃城が挙げられます。

近江国の範囲と城の位置

鎌刃城跡

佐和山城が最初に築かれたのは、鎌倉時代に遡ると言われています(下記補足1)。「境目の城」として現れるのは、1552年(天文21年)のことです。当時は六角氏の勢力が大きく、佐和山城は六角氏が有していました。その年に当主の六角定頼が亡くなると、跡継ぎの義賢は佐和山城を拠点(後詰)に北近江の浅井久政領に攻め込みます。ところが、逆に久政の反撃を受け、佐和山城は浅井氏のものになりました。その後、両者は攻防や和睦を繰り返しますが、佐和山城はおおむね浅井氏が維持しました。1561年(永禄4年)以後は、浅井氏の重臣、磯野員昌が最前線の城として守っていました。

(補足1)佐保山(佐和山)ハ昔佐々貴十代ノ屋形太郎判官定綱ノ六男佐保六郎時綱居住ノ所ナリ(淡海温故録)

江戸時代の浮世絵に描かれた六角義賢  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅井久政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代の浮世絵に描かれた磯野員昌 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

六角氏の観音寺城、浅井氏の小谷城・鎌刃城は、早くから石垣が導入された事例として知られています。もしかすると、佐和山城にもこのころから石垣が築かれていたかもしれません。

小谷城の石垣
鎌刃城の石垣

信長の近江国での居城

やがて織田信長が台頭すると、佐和山城も新たな局面を迎えます。浅井家の当時の当主、浅井長政は信長と同盟を結び、1568年(永禄11年)の信長上洛時には、宿敵の六角義賢を駆逐しました。このとき、信長は佐和山城に入り、長政と初対面したと伝わります。ところが、2年後の1570年(元亀元年)に信長が朝倉氏を攻めると、突如長政は信長に敵対します。同年6月、信長・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で姉川の戦いが起こり、信長方が勝利しました。磯野員昌は翌年2月まで、佐和山城に籠城しますが、ついに降伏開城しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

以降、信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配置しました。佐和山城は、東西日本を結ぶ東山道が傍を通っていて、当時の信長の本拠地・岐阜城と京都の中間点に当たりました。信長にとっても重要な拠点だったのです。それだけでなく、信長は佐和山城に頻繁に滞在しました。信長の伝記「信長公記」には、元亀2年以後13回も信長が滞在した記録があります。同国に自身の本拠、安土城を築くまでは、佐和山城を近江国での居城としていたのです。

丹羽長秀肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特に、1573年(元亀4年)5月からは、大船建造のため、2ヶ月も滞在しています(下記補足2)。この当時は、琵琶湖の付属湖の一つ、松原内湖(まつばらないこ)が、佐和山城のすぐ近くまで入り込んでいました。その松原で、信長は陣頭指揮を取り、長さ約53メートル、幅約13メートルもの当時としては巨船を建造したのです。信長は早速、7月6日にその船で坂本まで乗り付け、26日には高島攻めにも使いました。ところが、その大船の活躍の記録はそれきりで、3年後には解体され、十艘の小舟に作り替えられてしまったのです(下記補足3)。湖で使うには大きすぎて、入れる港や場所が限られたためです。それでもその後、城主の丹羽長秀は安土城普請の総奉行となり、大船建造の棟梁・岡部又右衛門は天主建築の大工頭を務めました。

(補足2)五月廿二日、佐和山に御座を移され、多賀・山田山中の材木をとらせ、佐和山山麓の松原へ勢利川通り引下し、国中鍛冶、番匠、杣(そま)を召し寄せ、御大工岡部又右衛門棟梁にて、舟の長さ三十間・横七間、櫨(ろ)を百挺立てさせ、艫舳(ともえ)に矢蔵を上げ、丈夫に致すべきの旨、仰せ聞かせられ、在佐和山なされ、油断なく夜を日に継仕候間、程なく、七月五日出来訖。事も生便敷(おびただしき)大船上下耳目を驚かす、案のごとく(信長公記)

(補足3)先年佐和山にて作置かせられ候大船、一年公方様御謀反の砌、一度御用に立てられ、此上は大船入らず、の由候て、猪飼野甚介に仰付けられ取りほどき、早舟十艘に作りをかせられ(信長公記)

大船の模型、安土城考古博物館にて展示

信長は後に、安土城を中心とする琵琶湖岸の城郭ネットワークを構築し、支城には重臣を配置します。佐和山城は水上交通の拠点でもあったので、その中でも最重要の支城の一つになりました。佐和山城跡からは、信長時代のものと思われる瓦片(コビキA)が発見されています。瓦葺きの建物があったということです。他の琵琶湖岸の支城、坂本城には「天主」があったという記録があるのと、信長が長期滞在していることから、佐和山城にもこの頃から「天主」があってもおかしくはありません。一歩譲って、石垣の上に、信長のための御殿はあったのでしょう。

安土城天主模型、安土城郭資料館にて展示

秀吉領国の最前線→そして三成登場

1582年(天正10年)本能寺の変が起き、信長が明智光秀に討たれますが、その後は豊臣(羽柴)秀吉が天下統一を進めます。1584年(天正12年)に、徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起きたときには、近江国は秀吉領の最前線に当たりました(味方の池田氏が美濃国にいましたが)。佐和山城には、秀吉の重臣・堀秀政が入っていました。秀政が出陣するときには、多賀秀種を城代としていました。秀種は、後に大和国(奈良県)の宇田松山城を整備したことでも知られています。この頃「広間之作事」を行ったという記録があるので、佐和山城の拡張も行ったのでしょう。(堀秀政書状、多賀文書)

堀秀政肖像画、長慶寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
多賀秀種肖像画、石川県立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇陀松山城跡

翌年には、近江国に当時の秀吉の後継者候補・豊臣秀次の居城・八幡山城が築かれました。佐和山城には、秀次を補佐する堀尾吉晴が配置されました。吉晴は、後に浜松城の天守・石垣を整備した人物です。家康との緊張関係は続いていたため、佐和山城も更に強化されたと見るべきでしょう。関ケ原の戦いのときには天守があったことが記録されていますが(伊達家文書・結城秀康書状)吉晴の時代までに整備されていたのではないかという意見もあります。天守は5層であったという伝承もありますが(西明寺絵馬)、山上の天守なので3層程度であろうという推定もあります(中井均氏など)。

八幡山城跡
堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浜松城の復興天守と現存石垣
佐和山の山麓にある5層天守の模型

1590年(天正18年)の小田原合戦により秀吉の天下統一がなされると、家康が関東に移り、秀次とその家老たちも東海地方に移っていきました。秀吉の家康に対する前線が東に移動したことになります。その空いた近江国は秀吉の直轄領になりますが、その代官として佐和山城を任されたのが石田三成だったのです(彼自身の領地は美濃国にありました)。そして文禄の役(朝鮮侵攻)の後、1595年(文禄4年)頃、佐和山城を含む北近江の大名(約20万石)となりました。三成は文禄の役のとき、他の奉行とともに朝鮮に渡り、中央と現地との調整に奔走していて、その論功とも考えられます。

石田三成肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三成自身は秀吉を支える最側近であり(秀吉が病のときには片時も離れることを許さなかったといいます)、政権の奉行として国内外の政策(各大名の取次・指導、太閤検地、朝鮮侵攻など)に多忙であり、城にはほとんどいませんでした。そのため城を守っていたのは、父親の正継や兄の正澄でした。領地の統治は、家臣の嶋左近などに任せていました。

石田正継肖像画(写)、妙心寺寿聖院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、その方針については、三成が1596年(文禄5年)に領内に発布した掟書が残されています。
その掟書には、主には以下のことが定められていました。
・領主側の夫(人足)遣いの制限
・検地帳記載者に対する耕作権の保証
・年貢率の決定プロセスの明示化
・升の公定と統一
・身分確定と居住地の固定化
・百姓訴訟権の保証(目安)など
領民として認められる権利と、それに対応する義務が明確化されていました。他の大名と比べ、きめ細かさが際立っていて、三成が優れた官僚・民政家だったことが伺われます。三成の時代には、城全体を惣構(土塁・堀)で囲んだという記録があり(須藤通光書状)これが城の完成形と言われています。大手門や城下町は、もともと東側の山麓にありました。しかし、三成の居館は西側にあったとされるので、城の大手や城下町が、西側に移動または拡張したとも考えられます。

「佐和山城古図」彦根市立図書館蔵

井伊家つなぎの城

秀吉が亡くなると、三成は豊臣政権の中枢である5奉行の一人となりました。ところが、いわゆる「三成襲撃事件」の収拾策として、佐和山に隠退となりました。その後はご存じの通り、西軍の総大将として、1600年(慶長5年)9月15日、関ケ原で家康と戦い敗れてしまいました。しかし、総大将は大坂を動かなかった毛利輝元であり、三成は現地司令官として悪戦苦闘したという見方もあります。三成は佐和山城に戻れず、北近江の領内に潜伏しているところを捕縛され、京都で斬首となりました(嶋左近は関ケ原で戦死)。佐和山城は、関ケ原の2日後、東軍に包囲され落城しました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦後、三成の領地は、家康の筆頭家老ともいうべき井伊直政に与えられました。今度は、大坂に居座る豊臣家に対する最前線・包囲網という位置づけでした。やはり、この地は家康にとっても重要な拠点だったのでしょう。そして、家康と井伊家は、新しい拠点として彦根城を築城します。しかし、井伊直政は当初、佐和山城に入城し、1602年(慶長7年)にそこで亡くなったのです。直政の家老たちの屋敷も、佐和山の山上にありました。彦根城を築城したのは、跡継ぎの直継なのです。

井伊直政肖像画、彦根城博物館 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐和山城の建物や石垣は、彦根城に部材として転用されました(下記補足4、5)。佐和山の南側の斜面は、不自然にえぐられていますが、石垣を搬出する経路だったのではないかという意見があります(中井均氏)。三成の城であったため、徹底的に破壊されたとの見解が多いですが、むしろ利用されたと言うべきでしょう。佐和山城の役割は、彦根城に引き継がれたのです。佐和山の山麓には、井伊家の菩提寺である清凉寺と龍潭寺が建てられ、山自体も「御山」として彦根藩により維持されました。山は今でも、両寺の所有となっています。

(補足4)石垣ノ石櫓門等マテ佐和山・大津・長浜・安土ノ古城ヨリ来ル(井伊年譜)

(補足5)本丸之天守茂只今之より高ク御拝領之後御切落シ被遊候由、九間御切落とも云又七間とも申候実説相知レかたく(古城御山往昔咄聞集書)

城周辺の起伏地図

清涼寺
龍潭寺

リンク、参考情報

・「近江佐和山城・彦根城/城郭談話会」サンライズ出版
・「近江の山城を歩く/中井均編著」サンライズ出版
・「佐和山城跡のご案内」彦根観光協会パンフレット
・「よみがえる日本の城22」学研
・「石田三成伝/中野等著」吉川弘文館
・「歴史群像153号、戦国の城 近江佐和山城」学研
・「信長と家臣団の城/中井均著」角川選書
・「週刊日本の城改訂版第21号」デアゴスティーニジャパン
・「堀尾氏ゆかりの城館を辿る」堀尾吉晴公共同研究会
・「佐和山城と石田三成/米原市柏原宿歴史館」稲枝地区公民館講座資料
・「文化財教室シリーズ124 近世の古城Ⅲ 佐和山城」滋賀県文化財保護協会
・「埋蔵文化財活用ブックレット5(近江の城郭1) 佐和山城跡」滋賀県教育委員会」
・「びわこの考湖学22・23」産経新聞滋賀版
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫

「佐和山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

20.佐倉城 その2

例えば、JRの佐倉駅から佐倉城跡に向かう場合、駅からだと、ちょっとした丘のように見えるのですが、坂を登ってみると、丘の上は意外と広くてびっくりされるかもしれません。他の方から来られる方も、台地上にある城を実感していただきたいです。

特徴、見どころ

例えば、JRの佐倉駅から佐倉城跡に向かう場合、駅からだと、ちょっとした丘のように見えるのですが、坂を登ってみると、丘の上は意外と広くてびっくりされるかもしれません。他の方から来られる方も、台地上にある城を実感していただきたいです。

跡がある丘陵地帯からJR佐倉駅から見ています
駅から丘陵に登る薬師坂

大手門から本丸へ

それでは、大手門跡から城の中心部に向かいましょう。大手門については、土塁が一部残っています。

大手門跡
大手門の古写真、現地説明パネルより
一部残っている大手門の土塁

大手門の内側には、広大な東惣曲輪などがありました。今は学校用地や、駐車場などもある自由広場になっています。自由広場の手前には「佐倉城址公園センター」があって、城についての展示を行っています。自由広場には、幕末には三の丸御殿、そして堀田正睦が晩年を過ごした松山御殿がありました。

自由広場
佐倉城址公園センター

ここから先が、防御が重視された城の中心部、現在の佐倉城址公園です。まずは、空堀が現れます。きれいに整備されていますが、往時はもっと深かったようです。

公園入口の空堀
公園の入口

まずは三の門跡に着きます。ここが城の中心部への第一関門だったのでしょう。三の門の内側が三の丸で、重臣たちの屋敷地だったそうです。三の丸にはくぼんでいる部分があって、これは空堀を埋めた跡のようです。また、開国を進めたタウンゼント・ハリスと堀田正睦の銅像も佇んでいます。

三の門跡
三の門の古写真、現地説明パネルより
空堀の後
タウンゼント・ハリスと堀田正睦の銅像

次が、二の丸の入口、二の門跡です。二の門の中が二の丸で、幕末より前には藩主の御殿(対面所)がありました。奥の方(北西側)には城米蔵があって、年貢米を収納していました。今でも、城米蔵ものと思われる礎石が残っています。

二の門跡
二の門の古写真、現地説明パネルより
二の丸御殿跡
城米蔵のものと思われる礎石群

さて、いよいよ本丸です、空堀を渡って入口の一の門跡に向かいます。

一の門跡
一の門の古写真、現地説明パネルより

本丸から台地下へ

本丸は周りを土塁に囲まれていて、包まれ感があります。ここは台地の西端に当たるので、奥まで来たという感じがします。ここにも御殿があったのですが、徳川家康が休息したということで、使われたのはセレモニーがあったときくらいでした。

本丸内部
本丸の模型、佐倉城址公園センターにて展示

土塁の上を歩くことができます。一の門跡の方から歩いていくと、まず銅櫓(どうやぐら、あかがねやぐら)跡を通ります。この櫓には伝承があって、江戸城から移築され、しかもそれは江戸城を最初に築いた太田道潅の館「静勝軒」だったとのことです。

銅櫓跡
銅櫓の古写真、現地説明パネルより
銅櫓の模型、佐倉城址公園センターにて展示

次に進んでいくと、天守跡の土台があります。天守は、この土台の上に直接建てられ、片側が土塁にかかっていました。それもあって、外側からは3階、内側からは4階に見えたそうです。当時は「御三階」などと呼ばれていました。天守は、武器を収納する役所や武器庫として使われました。焼失したきっかけも、盗賊が鉄砲を盗みに来たためとのことです(提灯を置き忘れていた)。

天守跡
天守模型、佐倉城址公園センターにて展示

本丸にはもう一つ、角櫓がありました。この櫓も伝承付きで、おそらくは千葉氏の本佐倉城(「将門山なる根古屋城」)から移築されてきたというものです。早くに老朽化して、江戸時代に大修理が行われたそうです。

角櫓跡

本丸の台所門(裏門)跡から外に出ましょう。この門は普段は締め切りだったそうです。

台所門(本丸裏門)跡
台所門模型、佐倉城址公園センターにて展示

ここから、台地の斜面を下っていきます。結構急なのですが、これも佐倉城らしいところです。中腹には道が巡っていますが、これが帯曲輪です。もともとは空堀だったのが、埋まってこのようになったと言われています。そこから本丸を見上げると、すごく高さがあります。わざわざ石垣を作らなくても、これで十分とも思います。

台地を下っていきます。
帯曲輪
帯曲輪から本丸を見上げています

帯曲輪の外側には、南側の出丸(清水出丸)があります。出丸の外を歩いてみると、水堀に囲まれていて、強力な陣地だったことがわかります。カッコよささえ感じます。出丸の外からだと中の様子はわかりづらいですが、中からは外の様子はお見通しです。

南出丸(内部)
南出丸(外観)
南出丸中から外を見ています

帯曲輪に戻って、西側の出丸にも行くことができます。この帯曲輪は、江戸時代当時も、木に覆われて外からわからなかったそうです。西出丸の水堀も土塁も良く残っています。出丸の出入口には「薬医門」という門があります。城の建物だったのですが、一旦別の場所に移築され、元はどの場所にあったかわからないそうです。

西出丸
西出丸の土塁
薬医門

馬出し、空堀を見学

今度は台地の北側に回り込んで、「愛宕坂」から台地に登ってみましょう。ここには城の裏門(搦手門)である田町門がありました。国立歴史民俗博物館への入口でもあります。城の「椎木曲輪」が丸々博物館の敷地になっているからです。もともとこの曲輪は、武家屋敷として使われ、日本陸軍が駐留したときには、兵舎の敷地になっていました。城の特徴(台地上の広い敷地)を生かし、ずっと有効に使われているのです。

愛宕坂
田町門跡
日本陸軍の兵舎だった時代の椎木曲輪模型、国立歴史民俗博物館にて展示

国立歴史民俗博物館は、床面積だけでも3万5千㎡もあり、日本歴史を5つの時代区分で展示しています。しっかり見ようと思ったら一日がかりになりますので、佐倉城跡見学と併せてスケジューリングされてはいかがでしょう。

国立歴史民俗博物館
多賀城の模型、国立歴史民俗博物館にて展示
一乗谷朝倉氏館の模型、国立歴史民俗博物館にて展示

佐倉城の見どころに戻ると、椎木門の前にあった馬出しが復元されています。陸軍によって一旦埋められましたが、発掘調査後、復元されました。周りを囲む現在の空堀は、オリジナルより浅くなっています(5.6m→3m)。長方形の形をしているので「角馬出」とも呼ばれています(長辺121m、短辺40m)。基本的には防御陣地なので、入口は正面にはなく、門につながる根元のところにあります。ここから反撃することもできたのです。

椎木門前の馬出し

椎木門跡から、三の丸に入っていきましょう。また二の丸、本丸へ進んで行くこともできるのですが、左(東)に向かってまた台地を下りましょう。下ったところが「姥ヶ池」です。名前の由来は、江戸時代に家老の娘の乳母(姥)が、その娘を誤って溺れさせてしまい、自身も池に身を投げたという逸話によります。元は湧水とも用水とも言われますが、大手門側と裏門側のルートを分断して、守り易くする役目があったと言われています。江戸時代の頃から「カキツバタ」や「蛙合戦」の名所にもなっていたそうです。

椎木門跡
椎木門の古写真、現地説明パネルより
姥ヶ池

姥ヶ池から大手門跡の方に戻る通路があるのですが、かつての空堀を利用しています。途中から枝分かれするルートがあるのですが、そちらはまだ本当の空堀の底のままです。通路の方に戻って進むと、最初の公園の入口のところに出ます。

空堀を利用した通路
枝分かれした部分は、空堀のままです

武家屋敷、佐倉順天堂まで行ってみよう

今度は、お城の外に出て「佐倉武家屋敷」に行ってみましょう。武家屋敷がある(現)宮小路町は、江戸時代には中級クラスの武士の屋敷地になっていました。現在ここでは、当時からあったものに、上級・下級クラスの屋敷を移築して、合わせて3棟を公開しているのです。

佐倉武家屋敷通り

当時の武家屋敷は官舎のような扱いで、基本的には藩によって維持されていました。武士のクラスによって異なる作りになっていましたが、身分の差をつけるためだけでなく、藩の懐事情も反映していたようです。

旧河原家住宅(上級クラス)
玄関が立派です
旧但馬家住宅(中級クラス)
座敷は立派です
旧武居家住宅(下級クラス)
質素な座敷です

それから、武士たちの通勤路だったと思われる「ひよどり坂」を歩いてみることもおすすめです。

ひよどり坂

最後は佐倉順天堂記念館です。佐藤泰然が開いた医学塾兼診療所の建物の一部が保存されていて、その歴史展示や遺物とともに公開されています。この場所は城下町の外れで、城からかなり離れています。その理由としては、泰然が藩医として招かれたわけではなかったことが挙げられます。他には、泰然の父親が、時の権力者・水野忠邦の政策(三方領地替え)に反対していて、泰然が活動しづらくなっていたのを、堀田正睦が救ったという事情を反映しているのではないかという意見もあります。

佐倉順天堂記念館
佐藤泰然像

当時の佐倉順天堂の模型が展示してあり、規模が大きかったことがわかります。学んだ塾生は、延べ千人を超えるそうです。

佐倉順天堂の模型

当時の治療のメニューと料金表(療治定)が掲げられています。外科手術がメインだったのですが、当時は麻酔に危険性があったため、使わなかったそうです。当時の患者さんは、治りたい一心で耐えたとのことです。

療治定

佐倉順天堂は、東京の順天堂大学の基になりました。しかし、このとなりに今でも「佐倉順天堂」医院が開業しています。佐倉の伝統と改革は受け継がれているのです。

「順天堂」額

私の感想

最初は普通の公園のように見えましたが、回れば回るほど、お城のことがわかってきました。全国的にお城の建物の復元ブームになっていますが、佐倉城跡は敷地がちゃんと保存されているので、活用の仕方はじっくり考えればいいと思います。それに、建物はなくても、城跡の楽しみ方はあるとも感じました。

これで終わります。ありがとうございました。
「佐倉城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。