87.肥前名護屋城 その1

秀吉の最大にして最後の野望

立地と歴史

朝鮮侵攻のための巨大な陣城

肥前名古屋城は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻を進めるために築かれた陣城で、九州北西部にありました。秀吉は、16世紀後半に天下統一を成し遂げた天下人として知られています。彼は、1590年の小田原征伐にて、小田原城に立てこもる北条氏を下すことで統一を完成させました。ところが、天下統一の間もない1591年に、秀吉は中国征服を宣言し、日本中の大名たちにその準備をするよう命じました。秀吉配下の多くの大名や武士たちも、この新たな領地が得られる計画に賛同しました。天下統一後の戦がない中、日本国内では新たな領地を得ることができなかったからです。

城の位置

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

秀吉はまた、朝鮮に近い九州の地に陣城を築くよう大名たちに命じました。これが肥前名護屋城です。陣城とはそもそも一回限りで使われ、単純な作りでした。秀吉はかつて小田原征伐のときに、もう一つの豪華に作られた陣城である石垣山城を築きました。ところが、肥前名護屋城はさらに大きく、強力に作られました。その大きさは、秀吉の本拠地の大坂城に次ぐほどでした。この城の建設は、大名たちによる割り普請の結果、わずか8ヶ月で完了しました。約120の大名たちが集まり、城の周りに彼ら自身のための陣屋の建設も行いました。この城が築かれた場所は、もともと単なる漁村でした。ところが、ここは極めて短期間に日本有数の都市になったのです。20万人近くの兵士たちがこの軍事都市から朝鮮に渡り、10万人以上の人たちがここに留まりました。

石垣山城跡
大坂城
肥前名護屋城、城下町、各大名の陣屋敷地の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

豪華かつ強力な作りの城

肥前名護屋城の一番高い場所には、天守と御殿を伴う本丸がありました。登城ルートは五つありました。主なものとしては、大手口、搦手口、そして山里口が挙げられます。大手口は、南方から本丸の東側にあった三の丸に、東出丸を経由して通っていました。本丸の大手門は、この三の丸に向かって開いていました。搦手口は、本丸の西側にあった二の丸の外側から始まっていました。ところが、このルートは直接本丸には至らず、その南側を回り込んで東側の三の丸に通じていました。歴史家の中には、こちらの方がより防御がしっかりしているため、搦手口こそが本当の大手口であったのではと推測しています。山里口は、三の丸より低く、またその北側にあった山里丸に通じていました。茶室が付属した秀吉の居館が、手前の方に建てられました。全ての曲輪は石垣で囲まれており、城を強固にするとともに、秀吉の権威を見せつけていました。

名護屋城模型の本丸及び天守部分
現地案内図に3つの主要登城ルートを加筆
名護屋城模型の秀吉居館部分(手前の方)

長引く戦いと秀吉の死による挫折

朝鮮侵攻は1592年に始まりました(文禄の役)。この戦いはもとは中国征服が目的でしたが、必然的にその途上にある朝鮮で戦いが起こりました。日本軍は、最初は短期間のうちに朝鮮のほとんどを占領しました。秀吉は、肥前名護屋城に居座り、そこから軍を指揮していました。彼はそのよい知らせを聞き、満足した様子で、中国と朝鮮をどのように分割するかということまで計画しました。ところが、中国の明王朝から派遣された援軍や、朝鮮の義勇兵や水軍による反撃により戦線は南朝鮮で膠着しました。1593年には明王朝からの使節が停戦交渉のために肥前名護屋城を訪れました。

1592年の釜山鎮の戦いを描いた「釜山鎮殉節図」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本の軍船、安宅船の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)
明軍の武器、フランキ砲の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

この交渉は長期間続きました。しかし決裂し、1597年に戦いが再び朝鮮南部で起こりました(慶長の役)。戦意に乏しい日本軍は、無益な戦争を明軍と戦わねばなりませんでした。朝鮮の無辜の人民も多く殺されました。1598年の秀吉の死の直後、ようやく日本軍は朝鮮から引き上げました。この戦いの失敗は、豊臣氏の凋落と徳川幕府の設立を早める結果となりました。肥前名護屋城は、撤退とともに廃城となり、静かな場所へと戻っていきました。

1597年の蔚山城の戦いを描いた「蔚山籠城図屏風」部分、 福岡市立博物館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「肥前名護屋城図屏風」、佐賀県立名護屋城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「肥前名護屋城その2」に続きます。

185.Karatsu Castle Part3

How can we evaluate the Terasawa Clan’s achievement?

Later History

After the Meiji Restoration, Karatsu Castle was abandoned and all the buildings of the castle were demolished. Most of the castle area was turned into the city area, but the mountain part became Maizuru Park in 1877. The Imitation Main Tower was built and opened in 1966 as new Karatsu Castle. Since then, the castle site has been a modern tourist attraction as well as a historical spot.

The Imitation Main Tower of Katatsu Castle
The Imitation Main Tower seen from the outside of the Main Enclosure

My Impression

I didn’t have a good impression of the Terasawa Clan because of the result of the Shimabara Rebellion. The founder of the clan, Hirotaka seemed to be loyal to the Tokugawa Shogunate in his new territory called Amakusa. I guess his oppression was a way for him to do so like the Matsukura Clan at Shimabara Castle and Nobutoshi Sanada at Numata Castle. I also think we should evaluate what he did in Karatsu and Amakusa separately. He at least built Karatsu Castle and the foundation of Karatsu City. I also recommend enjoying Karatsu pottery Hirotaka promoted, which is still a well-known product in the city.

Shimabara Castle
The ruins of Numata Castle
One of the masterpieces of Karatsu pottery called Platter with Pine Tree, owned by the Metropolitan Museum (licensed by the Metropolitan Museum via Wikimedia Commons)

How to get There

I recommend using a car when you visit the castle.
It is about 15 minutes away from Nijo-Shikaka IC on the Nishi-Kyushu Expressway.
You can park at the parking lot near the entrance of the castle.
By train, It takes about 20 minutes on foot from Karatsu Station.
To get to Karatsu Station from Fukuoka: Take the Fukuoka City Subway on the Kuko Line, transfer to the JR Chikuhi Line at Meihama Station.
From Tokyo or Osaka to Fukuoka: Take the Shinkansen super express or plane.

That’s all. Thank you.
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185.唐津城 その3

寺沢氏の業績をどう評価すればよいのでしょうか。

その後

明治維新後、唐津城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されました。城のほとんどの部分は市街地になっていきましたが、山の部分は1877年に舞鶴公園となりました。模擬天守が建設され、新しい唐津城として開業したのは1966年のことです。それ以来、城は現代の観光地であり、史跡でもあるのです。

唐津城の模擬天守
模擬天守を本丸外側から

私の感想

私は、島原の乱の結果から寺沢氏に対してはよい印象を持っていませんでした。寺沢家の初代、広高は新しい領地である天草で徳川幕府に忠誠を尽くそうとしたように思います。彼が天草で行った圧政は、それを示すため取った方法と考えられ、同じようなことを島原城の松倉氏や沼田城の真田信利も行っていました。また、広高が唐津で行ったことと、天草で行ったことは分けて評価するべきとも思うのです。彼は、少なくとも唐津城を築き、唐津市の礎を作ったのです。それから、広高が奨励した唐津焼は今でも唐津市の名産になっています。ご覧になってはいかがでしょう。

島原城
沼田城跡
唐津松文大皿、メトロポリタン美術館蔵 (licensed by the Metropolitan Museum via Wikimedia Commons)

ここに行くには

この城に行くには、車を使うことをお勧めします。
西九州自動車道の二丈鹿家(にじょうしかか)ICから約15分かかります。
城入口近くにある駐車場に駐車することができます。
電車では、唐津駅から歩いて約20分かかります。
福岡から唐津駅まで:福岡市地下鉄の空港縁に乗って、姪浜(めいはま)駅でJR筑肥線に乗り換えてください。
東京または大阪から福岡まで:新幹線か飛行機に乗ってください。

リンク、参考情報

唐津城 施設利用案内、唐津市文化事業団
唐津城、唐津観光協会
・「よみがえる日本の城21」
・「日本の城改訂版第95号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
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