201.武蔵松山城 その2

武蔵松山城の比高は40mくらいしかありません。そのため、この城では特徴ある防御システムを構築していました。それは、この城の主要部約2万7千㎡のうち、半分以上が堀か切岸に割り当てられていたということです。

現地案内

現在武蔵松山城跡は、これも有名な史跡である吉見百穴のとなりにあり、駐車場などビジターが訪れやすい環境が整っています。城跡は今でも市野川に囲まれていますが、周りには道路または歩道を通っています。

城周辺の航空写真

城跡を囲む市野川

岩山を活用した史跡群

城があった城山の側面は岩がむき出しになっていて、城以外の史跡もあります(岩室観音堂、第二次世界大戦中の地下軍需工場跡、現代の岩窟ホテル跡)。

岩室観音堂
地下軍需工場跡
岩窟ホテル跡

特に岩室観音堂は、城があったときから存在し(現在の建物は江戸時代に再建)、観音堂建物は岩の上に直接建てられています。「懸造り」と呼ばれる珍しい形式です。観音堂の奥は谷間となっていて、城の搦手道の一つであったと言われています(現在は通行禁止)。通行禁止箇所の手前には、ハート形の岩穴(胎内くぐり)があり、ここをくぐると安産・所願成就のご利益があると言われています。

観音堂の建物
山の岩が建物の基礎になっています
観音堂裏手の谷間
ハート型の胎内くぐり

3つの出入口

現在の城跡には概ね3つの出入口があります(大手口、根古屋口、搦手口)。このうち、歩きやすいのは根古屋口、距離が短いのは搦手口なのですが、おすすめは大手口です。城の防御システムがよくわかるからです。大手口に行くには、吉見百穴駐車場から出て左に曲がり坂を登っていきます。先に根古屋口入口を通り過ぎます(わかりずらいですが)。右側に「松山城跡」という看板が見えたら右に曲がって小径に入ります。右手の山側にもう1回看板が見えてきますが、ここが大手口の入口です。

城周辺地図、赤破線は駐車場から大手口までの道のり

右側の坂を登っていきます
こちらは根古屋口
ここを右折します
まっすぐ進みます
大手口に到着です

特徴、見どころ

特徴ある防御システム

武蔵松山城の比高(麓から頂上までの高さ)は40mくらいしかありません。更に大手口まである程度登っているので、ここからだともっと低いでしょう。そのため、この城では特徴ある防御システムを構築していました。それは、この城の主要部約2万7千㎡のうち、半分以上が堀か切岸に割り当てられていたということです。守備兵が使用できる平坦面は、約3分の1しかありませんでした。また、守備兵が駐屯する曲輪は通常は土塁に囲まれているのですが、この城にはほとんどそれがなく、代わりに柵が使われていたようです。平坦面をなるべく多くするためと、城からの見通しをよくするためでした。堀には土橋がほとんどなく、城の中心部に行くにはアップダウンを繰り返す必要があったのです。

城跡の案内写真、エンジ色の筋が堀のライン、現地説明版より

主要な曲輪には標柱や説明板がありますが、通路は山道のままで、休憩施設はありません。この城跡は現時点では私有地なので仕方ないでしょう。大手口から入って最初の主要曲輪は、曲輪4です。この曲輪は、現在は単なる平地ですが、先の方を見ると、深い空堀の向こうに三ノ曲輪が一段高い位置に見えます。もし曲輪4が敵に占領されても、三ノ曲輪から守備兵が有利な位置から反撃できるようになっています。

山道を進みます
曲輪4、この写真でもわかる通りこの曲輪には土塁があったそうです、向こうに見えるのは三ノ曲輪
三ノ曲輪から見た曲輪4

通路でもある空堀

その空堀は今でも人が通れるようになっていますが、最後の城主、松平氏のときには大手道だったと言われています。そのためか、根古屋口からのルートはこの堀にも通じていて、堀への入口部分は防衛のためジグザグになっています。曲輪4もその方向に張り出していて(進行方向右側、北側)、先端に櫓でもあったのではないでしょうか

曲輪4と三ノ曲輪間の空堀
根古屋口からのルート、左に曲がると堀に入っていけます
堀への入口
現地案内図に、根古屋口から空堀への通路を追記(赤矢印)
曲輪4の突出部
曲輪4から空堀への通路を見下ろしています

「武蔵松山城その3」に続きます。
「武蔵松山城その1」に戻ります。

87.肥前名護屋城 その2

壮大な秀吉の野望の跡

特徴、見どころ

大手口から三の丸へ

現在、肥前名護屋城跡は歴史公園としてよく整備されています。もし車で城跡を訪れるようでしたら、公園のすぐそばにある佐賀県立名護屋城博物館の駐車場に停めることができます。観光客は通常、最初は大手口から歩いて城跡に入っていきます。一目でどんなにこの城跡が巨大なのかわかると思います。また、大規模な石垣がいまだに城跡を囲んでいるのも見ることができます。しかし、それらの多くがV字型に崩されています。実はこれは意図的にそうされているのです。それから、大手口から進んで東出丸に歩いて行くと、ルートはそこからほとんど180度曲がって三の丸に至ります。

大手口付近から見える城跡
大手口
V字型に破壊された石垣
東出丸
東出丸から見た大手口ルート
ルートは反転して三の丸に向かいます
名護屋城博物館の模型写真に大手口ルートを追記

防御の要、三の丸

三の丸は防御の要だったと考えられます。この曲輪は本丸のとなりにあり、大手口ルートと搦手口ルートの双方がここに集まっているからです。搦手口からの入口は、今でも大きな櫓跡や巨石を使った石垣に囲まれています。この曲輪の中には井戸の跡があり、この井戸は籠城に備えて作られたのでしょう。

三の丸
「肥前名護屋城図屏風」に描かれた三の丸(現地説明板より)
搦手口ルートからの入口
入口から見た搦手口ルート
井戸跡

城の中心部、本丸

それから石段を歩いて、石垣に囲まれ互い違いになっている大手門跡を通り、本丸に入っていきます。本丸はとても大きいのですが、城の記念碑がある以外は空き地になっています。どんな建物が建てられていたかを示す平面展示がいくつかあります。例えば、南西隅櫓や多聞櫓について、礎石、砂利敷き、舗装などによって表現しています。

本丸周辺の地図

本丸へ向かいます
本丸
南西隅櫓跡
多聞櫓跡

天守台石垣は曲輪の北西隅にあります。その石垣自体は少ししか残っていませんが、そこからは玄界灘や城周辺の地域を見渡すことができます。

天守台
石垣は少ししか残っていません
天守台からの眺め

「肥前名護屋城その3」に続きます。
「肥前名護屋城その1」に戻ります。

87.肥前名護屋城 その1

秀吉の最大にして最後の野望

立地と歴史

朝鮮侵攻のための巨大な陣城

肥前名古屋城は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻を進めるために築かれた陣城で、九州北西部にありました。秀吉は、16世紀後半に天下統一を成し遂げた天下人として知られています。彼は、1590年の小田原征伐にて、小田原城に立てこもる北条氏を下すことで統一を完成させました。ところが、天下統一の間もない1591年に、秀吉は中国征服を宣言し、日本中の大名たちにその準備をするよう命じました。秀吉配下の多くの大名や武士たちも、この新たな領地が得られる計画に賛同しました。天下統一後の戦がない中、日本国内では新たな領地を得ることができなかったからです。

城の位置

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

秀吉はまた、朝鮮に近い九州の地に陣城を築くよう大名たちに命じました。これが肥前名護屋城です。陣城とはそもそも一回限りで使われ、単純な作りでした。秀吉はかつて小田原征伐のときに、もう一つの豪華に作られた陣城である石垣山城を築きました。ところが、肥前名護屋城はさらに大きく、強力に作られました。その大きさは、秀吉の本拠地の大坂城に次ぐほどでした。この城の建設は、大名たちによる割り普請の結果、わずか8ヶ月で完了しました。約120の大名たちが集まり、城の周りに彼ら自身のための陣屋の建設も行いました。この城が築かれた場所は、もともと単なる漁村でした。ところが、ここは極めて短期間に日本有数の都市になったのです。20万人近くの兵士たちがこの軍事都市から朝鮮に渡り、10万人以上の人たちがここに留まりました。

石垣山城跡
大坂城
肥前名護屋城、城下町、各大名の陣屋敷地の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

豪華かつ強力な作りの城

肥前名護屋城の一番高い場所には、天守と御殿を伴う本丸がありました。登城ルートは五つありました。主なものとしては、大手口、搦手口、そして山里口が挙げられます。大手口は、南方から本丸の東側にあった三の丸に、東出丸を経由して通っていました。本丸の大手門は、この三の丸に向かって開いていました。搦手口は、本丸の西側にあった二の丸の外側から始まっていました。ところが、このルートは直接本丸には至らず、その南側を回り込んで東側の三の丸に通じていました。歴史家の中には、こちらの方がより防御がしっかりしているため、搦手口こそが本当の大手口であったのではと推測しています。山里口は、三の丸より低く、またその北側にあった山里丸に通じていました。茶室が付属した秀吉の居館が、手前の方に建てられました。全ての曲輪は石垣で囲まれており、城を強固にするとともに、秀吉の権威を見せつけていました。

名護屋城模型の本丸及び天守部分
現地案内図に3つの主要登城ルートを加筆
名護屋城模型の秀吉居館部分(手前の方)

長引く戦いと秀吉の死による挫折

朝鮮侵攻は1592年に始まりました(文禄の役)。この戦いはもとは中国征服が目的でしたが、必然的にその途上にある朝鮮で戦いが起こりました。日本軍は、最初は短期間のうちに朝鮮のほとんどを占領しました。秀吉は、肥前名護屋城に居座り、そこから軍を指揮していました。彼はそのよい知らせを聞き、満足した様子で、中国と朝鮮をどのように分割するかということまで計画しました。ところが、中国の明王朝から派遣された援軍や、朝鮮の義勇兵や水軍による反撃により戦線は南朝鮮で膠着しました。1593年には明王朝からの使節が停戦交渉のために肥前名護屋城を訪れました。

1592年の釜山鎮の戦いを描いた「釜山鎮殉節図」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本の軍船、安宅船の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)
明軍の武器、フランキ砲の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

この交渉は長期間続きました。しかし決裂し、1597年に戦いが再び朝鮮南部で起こりました(慶長の役)。戦意に乏しい日本軍は、無益な戦争を明軍と戦わねばなりませんでした。朝鮮の無辜の人民も多く殺されました。1598年の秀吉の死の直後、ようやく日本軍は朝鮮から引き上げました。この戦いの失敗は、豊臣氏の凋落と徳川幕府の設立を早める結果となりました。肥前名護屋城は、撤退とともに廃城となり、静かな場所へと戻っていきました。

1597年の蔚山城の戦いを描いた「蔚山籠城図屏風」部分、 福岡市立博物館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「肥前名護屋城図屏風」、佐賀県立名護屋城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「肥前名護屋城その2」に続きます。