159.芥川山城 160.飯盛城 歴史編

戦国時代の天下人といえば、誰しも「信長・秀吉・家康」を思い浮かべるでしょう。しかし最近ではその前に「三好長慶」が戦国最初の天下人だったのではないかと言われています。その長慶の畿内での代表的な居城が、芥川山城と飯盛城でした。

イントロダクション

戦国時代の天下人といえば、誰しも「信長・秀吉・家康」を思い浮かべるでしょう。しかし最近ではその前に「三好長慶」が戦国最初の天下人だったのではないかと言われています。当時「天下」とは必ずしも「日本全国」のことではなく京都を中心とした畿内を指していました。長慶はその地域を、室町幕府の足利将軍家の権威なくして治めた初めての「天下人」だったのです。それは歴史上、画期的なことでした。それが後の三英傑につながっていったと評価されています。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その長慶の畿内での代表的な居城が、芥川山(あくたがわさん)城と飯盛(いいもり)城でした。両方とも戦国の動乱期に築かれた山城です。芥川山城は、長慶が将軍に頼らない三好政権を確立したときに居城としました。彼はそこで政務を行い、まるで中央政庁のように機能したのです。その後も三好氏の本拠地になりました。飯盛城は、長慶が将軍・足利義輝と妥協しながらも、領国を拡大し、三好氏のポジションを高め、亡くなるまで居城としました。広大な山上を石垣が覆っていて、長慶の権威を象徴していた城です。

芥川山城の想像図、現地説明パネルより
飯盛城の模型、大東市歴史民俗資料館にて展示

今回の記事では、長慶が天下人となるまでの経緯、天下人としての活躍と2つの城、その後の三好氏と城について歴史を追ってみます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(戦国最初の「天下人」三好長慶と2つの居城)

天下人への道

三好氏はもともと、阿波守護家の細川氏に仕える家臣の家柄でした。阿波守護家は管領を務めた細川本家(京兆家)に次ぐランクで、室町幕府の政治にも関与していました。長慶の先祖はその主君に付き従う側近だったようです。1485年(文明17年)、長慶の曾祖父・三好之長が京都で徳政一揆を引き起こした人物として登場します。やがて幕府内部は、将軍家・細川家・畠山家が分裂し、相争う状態になります。阿波守護家と三好氏もそれに巻き込まれていくのです。こういった状況から「戦国時代」という呼び名が生まれたそうです(下記補足1)。(段落全体下記①を参考、以下番号のみ記載)

(補足1)「(中国の春秋)戦国の世の時の如し」(近衛尚通「後法成寺関白記」)

三好之長肖像画、見性寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そのときのだいたいの対立構図は以下の通りでした。
11代将軍・足利義澄~細川澄元~畠山義英(義就流)
    VS
前将軍・足利義稙~細川高国~畠山尚順・稙長(政長流)+大内義興
1508年(永正5年)、足利義稙は大内勢などの大軍で上洛し、将軍の座に復帰しますが、義澄・澄元方も反抗を開始します(1511年)。そのとき澄元が当てにしたのが実家の阿波守護家でした(澄元は、細川本家前代・政元の養子、高国も野州家からの養子)。三好之長は京都で細川高国勢と戦いますが敗れ、切腹して果てました(1520年)。とはいえ之長は、無名だった三好氏の名を知らしめ、発展の基礎を作りました(段落全体①)

之長の跡は、孫の元長が継ぎました。そのときは12代将軍・足利義晴を擁した管領・細川高国の全盛期でした。阿波に逃れていた足利義澄の子義維(よしつな、将軍を解任された義稙の養子でもあった)や、細川澄元の子・晴元は、捲土重来を期して、1526年(大永6年)堺に渡りました。阿波守護・細川氏之、三好元長も一緒でした。義維は「堺公方」とよばれ、義晴方と対峙したのです。(段落全体①)

三好元長肖像画、見性寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そのときの対立構図は以下の通りです。
足利義維~細川晴元~細川氏之+三好元長~畠山義堯(よしたか、義就流)
    VS
12代将軍・足利義晴~管領・細川高国~六角定頼
1531年(享禄4年)元長は細川高国を打ち破り、自害に追い込みました。しかし、将軍・足利義晴と和睦したかった細川晴元と、元長を含む、足利義維を将軍にしたい勢力との間で内部分裂が起こりました。その翌年、晴元は本願寺の一向一揆を動員し、なんと味方であるはずの元長を堺で攻撃し、自害させたのです。元服前の長慶(千熊丸、せんくままる)も堺にいましたが、阿波に落ち延びました。(段落全体①)

足利義晴と細川晴元は和睦しますが、今度は一向一揆を制御しきれなくなり、晴元がその討伐を命じたのが、なんと長慶だったのです。細川氏に仕える長慶は従うしかなかったのです。長慶は畿内(大坂)に渡り、本願寺と和睦を成立させました。そして、摂津の越水(こしみず)城主として畿内で勢力を拡大させ、父の仇である細川晴元への下剋上に進んでいきます。将軍・義晴が六角定頼の方を重用し、晴元が反乱の戦後処理に失敗(側近・三好宗三の娘婿の池田信正を自害させ、財産を奪おうとしたとされる)したのを機に、国人(地元領主)の利益を守るとして挙兵したのです。そして細川高国の跡継ぎ・氏綱を擁立し、畠山氏を代表する遊佐長教と同盟して江口の戦いで晴元方を打ち破りました(1549年、天文18年)。晴元と足利義晴・その子で新将軍の義輝は京都を退去、連合軍が京都を支配したのです。(段落全体①②)

足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それに対して将軍・義輝が採った策は刺客を送ることでした。長慶は2度襲われ、遊佐長教は討たれてしまったのです。それでも長慶は、将軍を支えていた六角氏が代替わりすると(定頼→義賢)義輝と和睦する道を選びました。和睦に反対する細川晴元は没落しました(出家して若狭へ)。私情を捨てた長慶の決断により将軍家と管領家が統一されます(畠山氏も統一)。長慶自身も将軍の直臣(御供衆)になり、細川氏を後見する立場(氏綱と晴元の子で跡継ぎの昭元)にもなりました(1552年、天文22年)。ところが多くの幕臣も支持した幕府内統一に反して、将軍・義輝がまたも長慶を討とうとしたので、長慶は義輝を近江・朽木へ追放したのです(1553年、天文22年)。その替りとして長慶は、阿波にいた足利義維に上洛を促しましたが応じませんでした。そこで長慶はついに、足利将軍家の誰も擁立せず、自らの力だけで京都や畿内の支配(室町幕府に拠らない中央政権)に乗り出しました。戦国時代初めて「天下人」が誕生したのです。(段落全体①②⑥)

この長慶の活躍をバックアップしたのが、優秀な家臣団です。まず、阿波時代から長慶を支えた存在として、その弟たちが挙げられます(三好四兄弟)。
・三好実休(元長次男):三好氏の出身地・阿波を守護、後に南河内も支配
・安宅冬康(元長三男):淡路の安宅氏の養子になり、水軍を率いた
・十河一存(元長四男):讃岐の国人・十河氏の養子、和泉の岸和田城主
また畿内で新たに召し抱えた家臣団の代表は松永久秀でしょう。江戸時代以降、その所業(以下)が大悪人のように言われてきましたが、事実無根か、それなりの事情がありました。
・主君(三好義興)を討ったこと(事実は病死、久秀は悲嘆にくれた)
・将軍(足利義輝)を討ったこと(実際には子の久通が関与)
・奈良の大仏を焼いたこと(敵(三好三人衆など)が東大寺に布陣していた)
(段落全体②)

三好実休肖像画、妙国寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下の政庁、芥川山城

同じ頃(1553年、天文22年8月)、長慶は跡継ぎの義興とともに芥川山城に入城しました(②)。芥川山城は、京都と大坂間の高槻丘陵の三好山(標高183m)に築かれた、摂津国最大の山城です。最初は、三好氏とも戦った細川高国が1516年までに築きました。それを受けついだのが細川晴元、そして三好長慶です。実は長慶は入城直前にこの城を攻め、より標高が高い帯仕山(おびしやま、192m)に布陣しました。城は落城するのですが、兵糧攻めによるもので、長慶は城自体の強さは認識したものと思われます。城は、丘陵の西北端に築かれ、二方向を摂津峡に囲まれ、山の斜面が急で、自然の障壁を利用しました。それに土塁・堀切などを加工することで、尾根や山下からの攻撃を防いでいました。(以上➂④)

城の位置

城周辺の起伏地図

芥川山城の特徴の一つは、細川時代から山上に居館があったことです。他の山城でのケース(天文年間後半)よりかなり早いとされますが、当時の畿内での戦局がいかに過酷であったも表しています。主郭(本丸)には礎石の御殿が築かれ、長慶がここで政務を行ったと思われます。建物は、後の信長以後の時代にような瓦葺きではなく、一部瓦を使った(雁振瓦)を使った杮葺きだったようです。もう一つの特徴は、長慶時代に作られたとされる石垣です。当時は、石垣技術をもつ職人集団を動員できる権力者は限られていたのです。現在も、大手付近の石垣が残っていて、城主の権威を表していたと考えられます。(段落全体➂④⑤)

城想像図(現地説明パネル)の主郭部分
城想像図(現地説明パネル)の石垣部分
大手石垣

更に特筆されるのは、長慶は在京せず、芥川山城に留まって政務を行ったことです。幕府や朝廷の秩序から自由な立場をとるためだったのでしょう。朝廷や村落からの訴えは、重臣たち(松永久秀・三好長逸ら)によって長慶に取り次がれました。山麓に居館や城下町はなく、彼らは日常的に山上の城で暮らしていました。この城が「天下の政庁」になったのです。(段落全体②④)

1559年(永禄2年)に城近くの郡家(ぐんげ)村と真上(まかみ)村との間で水争いが起こったとき、長慶は現場検証を行わせ、郡家村の勝訴としました。その裁きは、幕府の奉行・家臣ではなく、自らの名前で行っています。(下記補足2,以上④⑤)このようなケースは、京都がある山城国でもありました(今里村・上植野村、下記補足3)。つまり、在地からは長慶の実力に裏付けされた裁きが求められていたのです。(以上②④)

(補足2)
今度当所と真上申し給う井手床の事、双方指図をもって、訴論に及ぶといえども、互いに証跡なし、真上支え申すは、往古より彼の井手▢▢無きの旨申す、渕底を究めんがため、検使等を差し遣わす、見さしむの処、年々の井手の跡顕然の上は、当所理運の旨に任せ、絵図の如く井手を構え、水便を専用すべき者也、仍って件の如し、
  永禄弐
    五月十九日  長慶(花押)
   郡家惣中
(三好長慶裁許状、「郡家財産区所蔵文書」)

(補足3)
当所と上々(植)野が申し結ぶ井内領内川井手の事、糾明の淵底を遂げる処、上野の申し分は其の理無きの上は、先々の如く今井蕪木用水を進退せしむべき者也、仍って状件の如し、
 天文廿三
   六月十八日   長慶(花押)
  今里村惣中
(「能勢久嗣家文書」)

三好長慶水論裁許井手絵図・裁許状、高槻市立しろあと歴史館にて展示

朝廷も京都を単独で支配する長慶に近づきました。長慶と義輝と同じ位(従四位下、1533年)として、禁裏(皇居)の修理も命じました(1556年)。1558年(弘治4年)、正親町天皇の即位に伴う改元(永禄元年)がありましが、天皇はそのことを長慶に相談しても、義輝には何も知らせませんでした。これは将軍としては大事件で、天皇から武家の代表として認められないことを意味します。義輝は激怒、新年号を使わず挙兵したのです。ここで長慶が行った決断は、義輝との再度の和睦でした。京都に戻った義輝には翌年、織田信長・長尾景虎などが謁見を求めて上洛してきました。地方大名にとって将軍の権威はまだ必要とされていたのです。(以上①②)長慶は、名より実をとる決断をしたのではないでしょうか。

正親町天皇肖像画、泉涌寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下人の「石垣の城」、飯盛城

再び幕府に組み込まれた長慶ですが、今度は三好勢力の領国拡大に乗り出します。畠山氏の内紛に介入し、1560年(永禄3年)に畠山高政を追放し、河内国を平定、重臣の松永久秀も大和国を平定しました。旧主君の細川氏以外の守護国にも領国を拡大したのです。最盛期には、畿内・阿波を中心に、13か国(一部を含む)にも及びました。この三好氏の姿勢は周辺大名にも衝撃を与えました(下記補足4)。(段落全体①②⑥)

(補足4)「三好といひけるもの、畿内を心のまゝにして、伊セ入(いり)なとゝ物言喧しかりければ、城あまたきつかせなとし給ふ」(北畠国永の和歌集より)

それと並行して、三好一門の家格向上にも努めました。主なものを挙げてみます。
・三好長逸(ながやす)、三好義興、松永久秀が従四位下に(将軍・義輝、長慶と同格)
・三好長慶、義興、実休(長慶弟)を御相伴衆に(各地域の有力大名並み)
・三好長慶、義興、松永久秀に桐御紋の使用許可(将軍家並み)
もともと三好氏は陪臣だったのが、ついに将軍家並みの家格になったのです。しかもそれまでは上杉謙信や北条氏のように、上位の家の名跡を継承したのに対し、三好氏とその家臣の松永氏はそのままで、従来の家格秩序を塗り替えたのです。しかし、この変化に関東の領主たちが不満を持っていたことも記録されています(下記補足5)。(段落全体①②⑥)

(補足5)「是れは皆、国家を治めらるべきため御刷(察)し候、然る時は、此の義は関東中においても、誹判あるべからず候」(北条氏康が不満をなだめたとされる言葉、「歴代古案」)

長慶は、河内を平定すると、その地の山城・飯盛城に居城を移しました。同時に家督を三好義興に譲り、芥川山城を任せました。新たに加えた地域を支配し、淀川を挟んで義興を「大御所」として後見し、大和の松永久秀も支援することを意図したと考えられます。また山麓には水陸の交通網が発達していて、三好氏の根拠地の一つだった堺ともつながっていました。(段落全体⑥⑦)

飯盛城の位置と河内国の範囲

飯盛城は、現・大阪府と奈良県の境になる生駒山地の北西にある飯盛山(標高314m)に築かれた河内国最大の山城でした(東西約400✕南北約700m)。畠山氏家臣出身の木沢長政が1530年(享禄3年)に整備し、長慶の前は畠山家臣・安見宗房が城主でした。城の北と西側が急斜面で自然の障壁になっていて、南と東側に堀などを多く作って守りを固めました。登城道は東側にあったと考えられます。(段落全体⑦⑧)

大東市歴史民俗資料館展示の模型は、城を西側から見ています

城は北から「御体塚(ごたいづか)曲輪」「高櫓郭(たかやぐら)曲輪」「千畳敷(せんじょうじき)曲輪」を中心とした3つのエリアに分かれていました。そのうち高櫓曲輪が最も標高が高く、そこから北側の曲輪群は面積も狭いため、戦になったときに使う「詰城」だったと考えられます。御体塚曲輪は、通常は兵が駐屯できるよう平らにするところ、わざと岩盤を残していることから、宗教施設であったと思われます。長慶は、自分の祖先とする源義光を祀る新羅社を勧請しているので、それがここにあった可能性があります。千畳敷曲輪は面積が広く、居住空間であったと考えられます。長慶はこの城でも城下町を作らなかったので、ここの屋敷に普段は住んでいたのでしょう。長慶は連歌を愛好していて、入城の翌年には文化人を城に招いて「飯盛千句」が催されました。その歌には城からの眺望や、畿内の名所が詠みこまれたそうです。(段落全体②⑦⑧)

御体塚曲輪
城を東側から見た想像図、大東市パンフレットより、千畳敷曲輪は手前側

それからなんといっても飯盛城の特徴は、芥川山城では部分的だった石垣がほぼ全域に用いられていることです。特に登城道だったと考えられる東側に集中しています。登城者に対して、城と長慶の威厳を示したと考えられます。安土城などの信長の城以前の「石垣の城」は大変珍しく、こういった面からも長慶は先駆けていたのです。この城からは京都から大阪平野を越えて淡路島まで一望することができます。逆にこの範囲に暮らす人々からは、飯盛城の威容が意識されたでしょう。また、長慶はキリスト教の布教を認め、家臣も入信者がいて、その中には高山右近の父(高山飛騨守)もいました。城下町はありませんでしたが、城下には彼らが住む集落や教会もあったそうです。(段落全体⑦⑧)

残存石垣の写真、大東市歴史民俗資料館にて展示
高櫓曲輪のとなり、本郭(展望台曲輪)からの眺め

長慶と城の最期

盤石に見えた三好政権でしたが、意外と早く崩れていきます。絶頂期の1561年(永禄4年)和泉を守る3番目の弟、十河一存(そごうかずまさ)が病没します。それをきっかけに畠山高政と六角義賢が反旗を翻します。翌年、1番目の弟・実休がその戦い(久米田の戦い)で討たれてしまいました。そして、そのまた翌年(1563年)には跡継ぎの義興まで芥川山城で病没しまうのです。十河一存の子・三好義継が、養子として長慶の跡継ぎになりました。1564年、永禄7年5月、長慶はもう一人の弟、安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛城に呼び、成敗しました。三好氏の分裂を防ぐためだったとも言われます。ところがその2ヶ月後(7月4日)長慶も亡くなってしまいます。その詳細は不明です。(段落全体①)

三好義興肖像画(模本)、京都大学総合博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長慶没後、三好氏は分裂します。1565年(永禄8年)三好義継は、将軍御所を襲い、将軍・足利義輝を討ち取りました。実は長慶生前から、義輝と三好氏の対立が再燃していて、義継が最初から将軍を討ち、取って代わることを考えていたという説があります。別の将軍を立てようとしなかったからです。それに反抗したのが重臣の三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)です。彼らは足利義維の子・義栄を14代将軍として擁立しました(1568年、永禄11年)。三好義継は、先に失脚していた松永久秀と結び、三人衆と対立しました。足利義昭と織田信長の上洛は、この状況下、義継・久秀と連携することで実現したのです。(段落全体①)

三好義継肖像画、京都市立芸術大学芸術資料館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1568年、永禄11年9月30日、義昭と信長は京都(洛中)に入る前に、芥川山城に入城しました。それまで三人衆の一人・三好長逸がいましたが、退去していました。彼らは10月14日まで滞在し、それから入京したのです。芥川山城は、このときも三好氏の本城であり畿内の政庁と認識されていたのです。その滞在には信長が三好氏の地位を継承したと知らしめる意味がありました。城は義昭の側近、和田惟政に与えられました。惟政は居城を平城の高槻城に移し、芥川山城には高山飛騨守を入れました。その後徐々に機能を停止し役割を終えたと考えられます。(以上①④)飯盛城は三好義継に与えられましたが、彼を最後の城主として廃城になりました(翌年高屋城に移動、1573年に信長に反抗し戦没)。(以上①⑧)

足利義昭坐像、等持院霊光殿蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

信長は上洛を果たすと、義昭は信長に副将軍か管領職を勧めたり、織田氏の主君である斯波氏の家督(武衛・左兵衛督)をつがせようとしましたが、信長は辞退しました。しかし長慶も拝領した「桐御紋」は受け取りました。これは、幕府から自立した権力を志向したからとも言われますが、信長が長慶の先例を見て、諸大名の反発を避けながら、自らの家格向上を狙ったとも言えます。長慶はいろんな意味で信長以下三英傑の先駆者だったのです。近代の歴史学者・中村考也氏は長慶のことを「深沈なる思慮と、周到なる用意と、富裕なる温情」と評しています。(段落全体②)

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

①「三好一族-戦国最初の「天下人」/天野忠幸著」中公新書
②「ミネルヴァ日本評伝選 三好長慶/天野忠幸著」ミネルヴァ書房
➂「歴史群像55号 戦国の堅城 摂津・芥川山城/中井均監修」学習研究社
④「史跡 芥川城跡パンプレット」高槻市
⑤ 高槻市立しろあと歴史館展示
⑥「歴史群像166号 三好長慶伝/天野忠幸著」学習研究社
⑦「歴史群像166号 戦国の城 河内・飯盛城/中西裕樹著」学習研究社
⑧「三好長慶と大東市の中世 -飯盛城はそのとき―」大東市歴史民俗資料館

「芥川山城 現地編」に続きます。

58.明石城 現地編

今回はまず、明石城正面の入口から入って、本丸まで行ってみます。次に、本丸に残る櫓を見学して、丘の上の曲輪群を進みます。それから、表からは目立たない、城の裏側の防御の仕組みも見学しましょう。最後は、城下町から港を巡り、明石海峡にある舞子台場跡まで行ってみます。

イントロダクション

今、明石駅のホームの上にいます。ここから、明石城の2つの三重櫓がばっちり見えます。左側が坤櫓、右側が巽櫓です。最初からなかなか壮観です。でも城の石垣は右側にずっと続いています。そちらの方にも行ってみようと思います。

明石駅ホーム上から見える明石城
2基の現存三重櫓
坤櫓
巽櫓
二の丸・東の丸に続く石垣

駅前に降りてきました。駅前がもう堀になっています(中堀)。城跡の明石公園に進みます。アクセスはすごくいいです。

明石駅前
振り返るともう中堀です

公園の入口にもすぐ着きます。今回はまず、正面の入口から入って、本丸まで行ってみます。次に、本丸に残る櫓を見学して、先ほどホームで見た丘の上の曲輪群を進みます。それから、表からは目立たない、城の裏側の防御の仕組みも見学しましょう。最後は、城下町から港を巡り、明石海峡にある舞子台場跡まで行ってみます。

明石公園入口

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(明石の城から城下町・明石海峡めぐり)

近そうで遠い本丸

城周辺の航空写真

城の正門だった太鼓門跡から入っていきます。さすが正門だけあって、堂々とした枡形です。かつては正面と、曲がった先にそれぞれ門がありました(定ノ門・能ノ門)。石垣だけでも、城の中は全然見えません。奥の門の二階には、時刻を知らせる太鼓(「とき打ち太鼓」)があって、それが名前の由来になっています。現在、門を抜けたところには、太鼓打ちロボットがいたり、明石公園サービスセンターがあります。

太鼓門跡
太鼓打ちロボット
明石公園サービスセンター

本丸を目指して、進みましょう。今歩いている所は、台地下の三の丸で、左手にはかつて、お殿様の居館「居屋敷」がありました。右手には現在、一部再現された「武蔵の庭園」があります。

三の丸
武蔵の庭園

どんどん、巽櫓が迫ってきます。本丸はすぐ近くにありそうです。しかし、まだまだ本丸は遠いのです。右手にある、武蔵の提案(馬の歩幅ピッチ)が取り込まれたという階段は、二の丸にしか行かないのです。左手の石垣に沿って、回り込んでいく必要があるのです。これは長い道のりになりそうです。石垣が二段構えになっています。敵だったらこうしている間にやられてしまうでしょう。

巽櫓
本丸・帯郭の石垣

今度は坤櫓が見えてきました。ここでやっと、本丸への入口となるのです。まだまだなにかありそうですが、進んでいきましょう。

坤櫓
本丸への入口

ここでも、坤櫓が立ちはだかっています。さらに進んでいくと、すごい壁が現れました。これが天守台です。建物はないのにこの威圧感です。石垣だけでも十分防御陣地になったのではないでしょうか。しかも後ろには櫓も控えているのです。

立ちはだかる坤櫓
天守台
天守台と坤櫓

一応難所を突破したとして、次は、台地上の稲荷郭です。台地上の曲輪と言っても、本丸よりは低くなっています。しかも、本丸の入口は一番奥にあるのです。そして、最後の角を曲がるところにも乾櫓があったのです。櫓も天守台も、効果的に配置されていました。やっと本丸の埋門跡に到着です。

稲荷郭
乾櫓
本丸埋門跡

三重櫓と丘上の曲輪

本丸周辺の地図

これから本丸をまわりますが、来たときとは反対方向に見ていきたいと思います。今度は城を守る方から見てみます。まず、乾櫓跡に向かいます。案内はありませんが、角のところだと思います。

本丸
乾櫓跡

次は、天守台です。なんだか簡単に入って行けてしまいます。来る時に見た壁のような姿とは全然違います。上は広いですし、守備兵にとっては使いやすかったのではないでしょうか。坤櫓もすぐ近くです。本丸に来る時に通った稲荷郭もお見通しです。

天守台
天守台の上
天守台から見た坤櫓
天守台から稲荷郭を見下ろしています

いよいよ坤櫓に近づきます。内側に石垣がないせいか、気品を感じます。城内最大規模の櫓で、天守の代わりを果たしたと考えられています。内側なのに屋根の飾り(二重破風)がかっこいいところもいいです。さすが実質の天守です。

坤櫓(内側)

この日は坤櫓の中には入れなかったのですが、向こうの巽櫓には入ることができました。その前に手前の展望台からの景色を楽しみます。街が一望できます!これから行く巽櫓に、明石海峡大橋も見えます。

展望台
展望台からの眺め(南側)
展望台からの眺め(東側、巽櫓と明石海峡大橋)

巽櫓に入ります。見学できるのは一階部分だけになりますが、説明パネルや、部材みたいなものがたくさんあります。格子窓がありますので、外を眺めてみましょう。西側の窓からは二の丸の方が見えます。武蔵提案の石段もあります。

巽櫓(内側)
巽櫓(内部)
巽櫓からの眺め(東側、二の丸)

今度は正面の南側を見てみましょう。三の丸が見えるのですが、櫓の一階からでもこんなによく見えのかと思ってしまいます。先ほど櫓を見上げた場所が眼下にあります。

巽櫓からの眺め(南側、三の丸)

ところで、この櫓には筋違がたくさんあって、バリバリに補強されています。これらは、明治か昭和の大修理のときに取り付けられたそうです。このおかげで阪神・淡路大震災を耐えられたかもしれないとのことです。

巽櫓の補強材

続いて、本丸から細い土橋を渡って、二の丸に進みます。更に、東の丸に進みます。石垣の上を延々と歩く感じです。国旗掲揚のポールが見えてきました。ここは、東の丸の端で、ここにも櫓があったのです。だいぶ進んだので、ここから見る海峡大橋は、心なしか、大きく見えます。

本丸・二の丸間の土橋
二の丸・東の丸間の門跡
石垣の天端部分
国旗掲揚塔がある櫓跡
櫓跡から見た明石海峡大橋

自然を生かした防御

今、東の丸の隅まで来ていますが、ここから城の裏側に進みます。東の丸の奥には、門跡が2つあります。ここも、重要地点だったのです。今回は北側の方から出ます。

東の丸の2つの門跡、左側が北側に出る方

門跡から出たところを、下っていきます。道は、自然散策路みたいになっています。でも、左手は石垣、右手は堀に囲まれています。

門跡を出て、右下に下ります
城の裏側を進む道

城の裏側にもこんなに高石垣があります。二の丸の裏側だと思います。

二の丸の高石垣

二の丸と本丸を隔てる大堀切までやってきました。向こうに見えるのは巽櫓です。更に本丸の手前の方には艮櫓がありました。先ほど歩いた本丸・二の丸間の土橋から下ってみると、堀切を作って、わざと狭い通路にしていたのがわかります。

大堀切
土橋から大堀切に下る階段

更に、堀を越えて北に進んでいくと、北の丸の石垣が残っています。こんなところまで城が続いていたことがわかります。

北の丸石垣

お時間があれば、更に北西の方の、剛ノ池に行ってみることもおすすめです。これも城を守った自然の障壁です。

剛ノ池

戻る途中では、坤櫓の正面の姿が良く見えます。これは、ますますかっこいいです!

坤櫓(正面である西側)

武蔵の城下町、海舟・龍馬の台場へ

最後のセクションはまず、宮本武蔵が町割りをしたと言われる城下町を、城の中堀から、その場所らしいアイテムをチェックしながら、明石港まで行ってみます。この中堀から南側、右手の方に武家屋敷があったのです。道路を渡ったところに、その遺構があります。明石藩の家老を務めていた家の長屋門です。こちらも船上城から移築されたと言われています。もしかして、一回再建された櫓より古いかもしれません。

中堀
織田家長屋門

武家屋敷と町人地の堺目の外堀は、現在の国道2号線辺りだったそうです。

国道2号線

町人地代表としては、魚の棚商店街に来てみました。いかにも町人地らしい雰囲気です。明石鯛もあります。

魚の棚商店街
明石鯛が並びます

明石港は」、意外に近いところにあります。基本的な位置は、江戸時代と変わらないようです。この先には、江戸時代以来の灯台が残されています。

明石港
明石港旧灯台(photoAC)

旧西国街道沿いにも古い町並みがあります。

大蔵の街並み

そして、今回の最終目的地、明石海峡に到着しました。海峡と大橋、素晴らしい景色です!船が通っていて、今も交通の要所です。舞子台場跡は、明石海峡大橋の西側にあるので、橋をくぐって右手に移動します。

明石海峡
明石海峡大橋

台場跡に着きました。ほんとうに海峡が目の前にあります。勝海舟・坂本龍馬が関わった台場です。だいたい、西半分のところを見学できるようになっています。それでは見てみましょう。

舞子台場跡

大砲風のベンチがあります。その先には「天端の石敷き」とありますが、大砲が据えられたか、壁の基礎だったとのことです。

大砲風のベンチ
天端の石敷き

海岸の方を見てみましょう。石垣があります。こちらもオリジナルだそうです。台場の形は残っているのです。明石海峡は、いろんなものが集まる場所なのです。

台場の石垣

私の感想

最近、全国各地で大きな災害が発生しています。多くの人々や町が被災しているのは痛ましいですし、城や史跡もダメージを受けてしまっています。ほんとうに悲しいことです。しかし、明石城やその周りをめぐってみて、災害に対する備えをしていたり、阪神・淡路大震災からも復興した姿を見ることができました。被災した各地も、時間はかかっても復興できるのです。復興に少しでも協力するとともに、復興する姿もレポートしていきたいです。

復興した明石城
巽櫓の筋違

リンク、参考情報(追加分)

・「史跡明石城跡石垣の修理と歴史判断」村上裕道氏資料

「明石城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

58.明石城 歴史編

明石城は江戸時代、交通の要所・明石海峡近くに築かれた城です。同じ播磨国にあった姫路城と比べると目立たないかもしれません。しかし実は、現在残っている三重櫓2基は、全国に残っている三重櫓12基のうちの2つなのです。また、城や城下町の建設には、あの播磨国出身とされる宮本武蔵が関わったというのです。これらの地域や人物が、どのように明石城に結びついていったのか、歴史を追ってみましょう。

イントロダクション

兵庫県の明石といえば、本州と淡路島の間にある明石海峡、そこにかかる明石海峡大橋、そして海峡でとれる明石鯛、明石ダコ、タコを使った明石焼などが連想されるでしょう。海峡付近は、陸側でも六甲山地が海岸に迫っているので、海・陸ともに往来が集中する東西交通の要衝地域でした(下記参考資料①、以下番号のみ記載)。明石城は江戸時代、その地域に築かれた城です。同じ播磨国にあった姫路城と比べると目立たないかもしれません。しかし実は、現在残っている三重櫓2基は、全国に残っている三重櫓12基のうちの2つなのです。築城を行ったのは信濃国出身の大名・小笠原忠真(おがさわらただざね)なのですが、その築城の経緯も興味深く、その建物の多くは、伏見城や、かつて明石にあった船上(ふなげ)城などからの移築と言われています。また、城や城下町の建設には、あの播磨国出身とされる宮本武蔵が関わったというのです。これらの人物や以前の城が、どのように明石城に結びついていったのか、歴史を追ってみましょう。

明石海峡と明石海峡大橋
現存する坤櫓(左)と巽櫓(右)

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史

明石城前史

ときは1582年(天正10年)、本能寺の変が起こり、豊臣(羽柴)秀吉が天下統一を進めていく頃に遡ります。秀吉は1585年(天正13年)、高山右近に明石の地を与え(下記補足1)、その際に船上城が築城されたと考えられています。その前後には、秀吉が四国攻めや九州攻めのために、明石で船を動員していたと思われる記録があります。船上城はその港湾(明石川岸)に隣接して築かれたようです。この城は、大阪湾防衛及び全国統一のための水軍拠点だったと考えられます。また、南蛮貿易のための窓口としても期待されていたのでしょう。高山右近はキリシタン大名として有名で、宣教師を常駐させ、キリスト教を広めていました。しかし、彼は1587年(天正15年)の「バテレン追放令」をきっかけに領地を没収され、追放されてしまいました。(段落全体②)

(補足1)一、今朝早々より、秀吉和州へ御越也、此中、国わけ、国がへ以下有之、和州筒井伊賀国へ被遣、和州へ美濃守殿被遣之、高山右近播州明石へ、(以下略)(「顕如上人貝塚御座所日記」)

城の位置

その後、船上城は豊臣氏の直轄となり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後は、播磨国を治めた池田氏の支城になり、1615年(元和元年)の「一国一城令」により城から屋敷扱いになりました。本丸には天守や多聞塀があったという記録があります(下記補足2)。(以上②)現在城跡と思われる範囲は、ほとんどが住宅地となり、本丸の一部だったとされる農地を、となりの船上西公園から見学できるのみです。周辺での発掘調査により堀跡や遺物が発見されています(②)。

(補足2)城構多門塀を掛け小き殿主も有之候(「小笠原忠真一代覚書乾」)

船上城の想像地図(現地説明パネルより)
船上西公園から見える船上城本丸の一部

小笠原忠真の家系は、戦国時代まで信濃守護を務めた名門です。曾祖父の小笠原長時が武田信玄に信濃を追われ、その子・貞慶とともに各地を流浪したのです。武田が滅び、本能寺の変が起こると、貞慶は信濃に戻り、旧領(深志、のちの松本)を回復したのです。その後紆余曲折がありますが、小笠原氏は徳川家康に仕え、関ヶ原後は、貞慶の子で忠真の父・秀政が松本8万石の大名になっていました(1613年~)。秀政の妻は家康の孫(松平信康の娘)でした。(段落全体③)

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、忠真(当時は忠政)は、父・秀政と兄・忠修(ただなが)ともに幕府方として出陣しました。5月6日の若江の戦いにおいて、小笠原隊に大坂方の木村重成隊が近づいたため、戦おうとしましたが、となりの榊原康勝隊の軍監・藤田信吉が、伏兵が控えていると思い、止めたのです。それが結果的に戦機を逃したことになり、秀政は徳川秀忠から叱責を受けました。翌7日の天王寺口の戦いでは、小笠原隊は名誉挽回のため遮二無二戦うことになり、秀政と忠修が戦没、忠真も重傷を負うことになってしまったのです。(以上「西方城 その1」より)

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一人の主役である宮本武蔵は、謎と脚色に満ちた人物ですが、本人が書いたとされる「五輪書(ごりんのしょ)」によれば、1584年(天正12年)に播磨国で生まれました(下記補足3)。有名な「吉岡一門との決闘」「巌流島の決闘」などの武者修業は、13歳から28、9歳の頃(1596年~1612年)と言っています(下記補足4)。

(補足3)「兵法之道二天一流と号し、数年鍛錬之事、始て書物に顕さむと思、時寛永二捨年(1643年)十月上旬の比、九州肥後之地岩戸山に上り、天を拝し、仏前に向、生国幡磨(播磨)之武士新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六拾。」(「五輪書」序文)

(補足4)「われ若年之昔より兵法之道に心を懸け、十三歳にして始て勝負をす。・・・其ほど十三より二十八九迄の事也。(「五輪書、地の巻」)

宮本武蔵肖像画、島田美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

修業時代が終わった後、大坂夏の陣では、幕府方の水野勝成勢のうち、勝成嫡男の勝俊付きの騎馬武者として出陣しました。そのとき、名のある武将を討ち取ることはなかったが、大木刀を持って雑兵をなぎ伏せたという記録があります(下記補足5)。5月6日の道明寺の戦いで、武蔵は、水野軍が本多忠政を救援するのに貢献したとみられていて、それが戦後の縁につながります。(段落全体④)

(補足5)「宮本武蔵は兵法の名人なり。・・・大坂の時、水野日向守が手に付、三間程のしないの差物に釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者と書ける。よき覚ハなし。何方にて有けん橋の上にて、大木刀を持、雑人を橋の左右へなぎ伏ける様子見事なりし、と人々誉ける。」(「黄耇雑録」)

水野勝成肖像画、賢忠寺蔵  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

明石城築城

大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした幕府は、戦後、更に西国の外様大名に備えるため、領地替えを行いました(1617年、元和3年)。播磨国は丸ごと池田氏が治めていましたが、当主(光政)が幼いといういう理由で鳥取に移されました。その代わりとして、姫路には、徳川四天王の一人・本多忠勝の子・本多忠政を持ってきました(桑名10万石→15万石)。そして、姫路の後衛となる明石に、生き残った小笠原忠真を松本から移したのです(松本藩8万石→明石藩10万石)。命をかけた働きが、将軍・徳川秀忠に認められたのです。(以上②)更にその2年後(1619年)には、安芸・備後の外様の大大名・福島正則が改易になり、そのうちの備後国福山に水野勝成が入っています。(以上「福山城 その1」より)

本多忠政肖像画  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

小笠原忠真は、当初船上城に入城しました。しかしこの城は低地にあったため、西方からの攻撃に対する防衛には不利でした。また「一国一城令」により建物の多くは取り壊されていました。将軍・秀忠は1618年(元和4年)、忠真に対して新城の築城を命じます。同時に忠真の妻の父であった姫路城主・本多忠政の指導を仰ぐことになり、共同で新城の候補地を探すことになりました。候補地としては「人丸山」「和坂」「塩屋」の3か所がありましたが、最終的には「人丸山」に決定しました。そして城の縄張り(設計)の共同で行い、将軍・秀忠の許可を得たのです。(段落全体②⑤⑥⑦)

城周辺の起伏地図

宮本武蔵はどうしていたかというと、同じ頃(1617~8年)、水野勝成の家臣、中山志摩之助の息子・三木之助を養子として、本多忠政の跡継ぎ・忠刻(ただとき)に仕えさせていました。大坂の陣がきっかけだったと見られます。また、少し後になりますが(1626年頃)、武蔵の養子としてはこちらの方が有名な、宮本伊織が小笠原忠真の近習になり(15歳)、その5年後には20歳で家老に出世しています。(以上④)武蔵は、本多忠刻の剣術指南役で姫路にいたが、明石城築城を機に、明石藩の客分として迎えられたと考えられます(⑦⑧)。

築城は、幕府主導で急ピッチで進められました。幕府は費用援助(銀千貫目)とともに3人の奉行人を派遣し、主に城の基礎部分を担当しました(「本丸・二の丸・三の丸の石垣・土居・塀の普請」)。小笠原は主に建物部分を担当しました(「矢倉・門・塀・家造りの普請」)。石垣工事が1619年、元和5年1月に始まり、その年のうちに一旦完成し、翌年忠真が移ってきました。廃城になった城の建物をリサイクルしたことも早期完成につながりました。但し周辺部分(侍町の惣堀・土居、三の丸の一部の石垣)は7、8年かかったそうです。なお、本丸には天守台が築かれ、熊本城クラスの五重天守が立つ規模です。中津城の天守を移す計画があったそうですが、ついに天守は実現しませんでした。。(段落全体②⑤⑥⑦⑨)

天守台石垣

宮本武蔵は何を担当したかと言うと、まず城下町の町割りを行ったとされています。城下町は東西約2.3kmで、山陽道を取り込みました。外堀によって武家屋敷と町人地が明確に区分され、近世的な城下町となりました。また、藩主・忠真のために城内に庭園を造りました(御樹木屋敷の庭園)。名石・名木を各地から集め、築山・茶屋・御座敷・滝・鞠場(蹴鞠をする場)を1年余りかけて完成させました。城跡である現在の明石公園には、武蔵が作った庭の一部が再現されています。(以上⑧)更に、二の丸に上がる階段は、かなり広くピッチが大きいように見えますが、これは武蔵がこの階段を、馬の歩幅に合わせるよう提案したためと言われています(➉)。これだと人間の敵が攻めてくるときにはかえって登りにくいということでしょうか。

明石城ジオラマ、手前が城下町(明石市立文化博物館にて展示)
再現「武蔵の庭園」
二の丸への石段

近世に造られた新城

明石城は近世になって新たに作られた城なので、自然の地形を生かしつつ、完成された築城術を見ることができます。台地の突出部には西から、高石垣で囲まれた西の丸(後の「稲荷郭」)、本丸、二の丸、三の丸(築城当時)が整然と並べられ、土橋や門で仕切られていました。台地南下の低地(築城当時は「大曲輪」と呼ばれた)には藩主の下屋敷が配置され、東西と南側を内堀が囲み、その三方に枡形をもった門がありました。城の北側は、自然地形の谷と「剛ノ池」によって守られていました。敵が攻めてきたときにはこの池の堰を切って、周囲を水浸しにする作戦も考えられていたといいます。(段落全体⑨⑪⑫)

明石城ジオラマの城部分(明石市立文化博物館にて展示)

本丸には御殿があり、天守はないものの、四隅に方角を表す名前の三重櫓が建てられました。このうち、坤櫓は伏見城の櫓を、巽櫓は船上城の櫓を移したものと伝えられています(下記補足6)。特に坤櫓は一番大きく、天守台に近く、二重目には豪華な二重破風があることなどから、実質的に天守の役割を果たしたと見られます。4つの櫓は天守台がある西側を除いて多聞櫓で連結されていました。(段落全体②⑤⑥⑦➉)

(補足6)「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」(「小笠原忠真年譜」)

坤櫓(南側)
坤櫓(南側)、2重目が二重破風になっています

ところが1631年(寛永8年)本丸下の台所から出火し、本丸御殿が焼失しました。以後御殿は再建されず、本丸下に藩主の居館として「居屋敷(いやしき)」を建て、内堀で囲みました。その周辺が「三の丸」となり、従来の内堀は「中堀」と呼ばれるようになります。(従来の三の丸は「東の丸」、以上②⑤)このとき櫓群も被災しました。現在残る坤櫓・巽櫓はこのときに再建されたものです。櫓の間は土塀で連結され、現在見られる姿になりました(土塀の大半は現代の復元)。(以上⑥)ただし坤櫓は現在でも移築の痕跡が見られることから(⑦)、元の部材を活用したのかもしれません。

土塀で連結された坤櫓(左)と巽櫓(右)

時期ははっきりしませんが、城の北側にも剛ノ池から水が引かれた桜堀などが設けられ、更にその北側には北の丸も築かれ、防御を固めました。最終的には三重櫓4基、二重櫓6基、平櫓10基を擁する城になりました。(以上⑤)1691年に長崎出島から江戸に向かったドイツ人の医者・博物学者のケンペルは、明石城の美しい姿を記録しています(②、下記参考7)。現在私たちが見ることができる城跡の姿とそう変わらなかったのかもしれません。

(補足7)明石の後に美しき城あり。その内部も周囲も、高き樹に籠めたれば、白亜の壁にある其の二面だけ輝きて見え、四つの城壁には中央及び両端に四方形なる高き三重の矢倉を飾としたり。(「江戸参府紀行」)

播磨国明石城絵図(出典:国立公文書館)

その後

火災があった直後の1632年(寛永9年)、小笠原忠真は、豊前国小倉に転封になりました。宮本武蔵も、養子で家老の伊織とともに小倉に移ったと考えられます(④)。その後しばらくの間、明石藩主は目まぐるしく変わりました。そして江戸中期に越前大野藩から移ってきた越前松平氏の一族が幕末まで藩と城を統治したのです。(⑬)
・1632~33年:(幕府直轄)
・1633~39年:戸田松平氏(譜代大名、2代、7万石)
・1639~49年:大久保氏(譜代大名、1代、7万石)
・1649~79年:藤井松平氏(譜代大名、2代、7→6.5万石)
・1679~82年:本多氏(譜代大名、1代、6万石)
・1682年~:越前松平氏(明石松平氏)(親藩、10代、6→8万石)
城は後継の大名たちによって維持されましたが、幕末になると状況が変わってきました。

幕末時の藩主・松平慶憲 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

1853年(嘉永6年)のペリー艦隊の江戸湾の入口・浦賀への来航に続いて、翌年(1854年)にはロシアのディアナ号が大阪湾に侵入してきました。このときから幕府も大阪湾防備に動き出すようになります。幕府の命により、明石藩でも台場が作られましたが、その代表的なものが舞子台場です。その場所は、瀬戸内海から大阪湾に船が侵入する場合に通過する明石海峡の目の前でした。1863年(文久3年)、幕府は明石藩に、一万両を貸し付けるので舞子台場を堅牢に改築するよう命じました。その設計・現場の指揮にあたったのが、当時神戸にいた勝海舟でした。台場の雛形を藩に手渡したメンバーの中には、海舟の塾生だった坂本龍馬がいました。台場は翌年から翌々年にかけて完成しましたが、実際に使われることはなかったようです。(段落全体②⑭)明石藩は1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方でしたが、その後新政府方に明石城を引き渡したため、ここでも戦いが起こることはありませんでした(⑨)。

「天保山魯船図」(出典:文化遺産オンライン)
舞子台場跡
勝海舟 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
坂本龍馬 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

明治維新後、明石城は廃城となり、外堀などは埋められ、建物は取り壊されていきました。最後に残っていたのが4基の三重櫓です。城跡を管理していた兵庫県は、1881年(明治14年)8月、これらの櫓の解体も決定し、まず艮櫓が学校の用材として解体されました。これに憤激したのが旧明石藩士たちでした。県庁に嘆願書を出し、聞き入れられないときは、籠城の上、櫓に火をかけ、運命を共にすると言い出したのです。彼らにとって、自分たちの精神的シンボルが失われることに抵抗したようです。西南戦争(1877年)からあまり時が経っていないときで、世間から注目を浴びました(下記補足8)。その結果、1883年(明治16)から城跡は、民営の「明石公園」として保存されることになったのです。(段落全体⑥⑮)

(補足8)「士族は県庁の処分に不平を抱き、終に旧藩士の他国他郷にある者まで招きよせ、去る十四日に大評定を開きたり、其議は旧藩の諸士より猶県庁へ嘆願書を捧げ、夫にても聞届けられぬ時は、最早や絶体絶命の時節到来なりとて、中にも昔なら城代とも云ふべき林某は、いかに各々にも願意の貫徹せずして弥々当城破却の命下らば、其時は最先かけ城に火をかけ、潔く櫓と共に一片の焔となり、名をば後代に留めんが如何にと、思ひ切て云放ちし有様は、天晴れ篭城の覚悟とも云ふべく、(以下略)」(明治14年8月23日東京日日新聞記事)

明石公園入口

リンク、参考資料

「明石の宿場」明石民俗文化財調査団(明石市立図書館 明石郷土の記憶デジタル版)
② 発掘された明石の歴史展「船上城から明石城へ」明石市
③「戦国信濃と小笠原貞慶/志村平治著」戒光祥出版
④「人物叢書 宮本武蔵/大倉隆二」吉川弘文館
⑤「日本の城改訂版第88号」デアゴスティーニジャパン
⑥「史跡明石城跡保存活用計画」令和2年9月 兵庫県
明石公園公式ホームページ
⑧ 明石城巽櫓内展示
⑨ 明石市立文化博物館展示
➉ 明石城現地ガイドの方
⑪「戦国の城/香川元太郎著」ワン・パブリッシング
文化遺産データベース 明石城跡
⑬「明石城の歴史」パンフレット
文化遺産オンライン 明石藩舞子台場跡
⑮「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

「明石城 現地編」に続きます。

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