イントロダクション
戦国時代の天下人といえば、誰しも「信長・秀吉・家康」を思い浮かべるでしょう。しかし最近ではその前に「三好長慶」が戦国最初の天下人だったのではないかと言われています。当時「天下」とは必ずしも「日本全国」のことではなく京都を中心とした畿内を指していました。長慶はその地域を、室町幕府の足利将軍家の権威なくして治めた初めての「天下人」だったのです。それは歴史上、画期的なことでした。それが後の三英傑につながっていったと評価されています。

その長慶の畿内での代表的な居城が、芥川山(あくたがわさん)城と飯盛(いいもり)城でした。両方とも戦国の動乱期に築かれた山城です。芥川山城は、長慶が将軍に頼らない三好政権を確立したときに居城としました。彼はそこで政務を行い、まるで中央政庁のように機能したのです。その後も三好氏の本拠地になりました。飯盛城は、長慶が将軍・足利義輝と妥協しながらも、領国を拡大し、三好氏のポジションを高め、亡くなるまで居城としました。広大な山上を石垣が覆っていて、長慶の権威を象徴していた城です。


今回の記事では、長慶が天下人となるまでの経緯、天下人としての活躍と2つの城、その後の三好氏と城について歴史を追ってみます。
今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。
立地と歴史(戦国最初の「天下人」三好長慶と2つの居城)
天下人への道
三好氏はもともと、阿波守護家の細川氏に仕える家臣の家柄でした。阿波守護家は管領を務めた細川本家(京兆家)に次ぐランクで、室町幕府の政治にも関与していました。長慶の先祖はその主君に付き従う側近だったようです。1485年(文明17年)、長慶の曾祖父・三好之長が京都で徳政一揆を引き起こした人物として登場します。やがて幕府内部は、将軍家・細川家・畠山家が分裂し、相争う状態になります。阿波守護家と三好氏もそれに巻き込まれていくのです。こういった状況から「戦国時代」という呼び名が生まれたそうです(下記補足1)。(段落全体下記①を参考、以下番号のみ記載)
(補足1)「(中国の春秋)戦国の世の時の如し」(近衛尚通「後法成寺関白記」)

そのときのだいたいの対立構図は以下の通りでした。
11代将軍・足利義澄~細川澄元~畠山義英(義就流)
VS
前将軍・足利義稙~細川高国~畠山尚順・稙長(政長流)+大内義興
1508年(永正5年)、足利義稙は大内勢などの大軍で上洛し、将軍の座に復帰しますが、義澄・澄元方も反抗を開始します(1511年)。そのとき澄元が当てにしたのが実家の阿波守護家でした(澄元は、細川本家前代・政元の養子、高国も野州家からの養子)。三好之長は京都で細川高国勢と戦いますが敗れ、切腹して果てました(1520年)。とはいえ之長は、無名だった三好氏の名を知らしめ、発展の基礎を作りました(段落全体①)
之長の跡は、孫の元長が継ぎました。そのときは12代将軍・足利義晴を擁した管領・細川高国の全盛期でした。阿波に逃れていた足利義澄の子義維(よしつな、将軍を解任された義稙の養子でもあった)や、細川澄元の子・晴元は、捲土重来を期して、1526年(大永6年)堺に渡りました。阿波守護・細川氏之、三好元長も一緒でした。義維は「堺公方」とよばれ、義晴方と対峙したのです。(段落全体①)

そのときの対立構図は以下の通りです。
足利義維~細川晴元~細川氏之+三好元長~畠山義堯(よしたか、義就流)
VS
12代将軍・足利義晴~管領・細川高国~六角定頼
1531年(享禄4年)元長は細川高国を打ち破り、自害に追い込みました。しかし、将軍・足利義晴と和睦したかった細川晴元と、元長を含む、足利義維を将軍にしたい勢力との間で内部分裂が起こりました。その翌年、晴元は本願寺の一向一揆を動員し、なんと味方であるはずの元長を堺で攻撃し、自害させたのです。元服前の長慶(千熊丸、せんくままる)も堺にいましたが、阿波に落ち延びました。(段落全体①)
足利義晴と細川晴元は和睦しますが、今度は一向一揆を制御しきれなくなり、晴元がその討伐を命じたのが、なんと長慶だったのです。細川氏に仕える長慶は従うしかなかったのです。長慶は畿内(大坂)に渡り、本願寺と和睦を成立させました。そして、摂津の越水(こしみず)城主として畿内で勢力を拡大させ、父の仇である細川晴元への下剋上に進んでいきます。将軍・義晴が六角定頼の方を重用し、晴元が反乱の戦後処理に失敗(側近・三好宗三の娘婿の池田信正を自害させ、財産を奪おうとしたとされる)したのを機に、国人(地元領主)の利益を守るとして挙兵したのです。そして細川高国の跡継ぎ・氏綱を擁立し、畠山氏を代表する遊佐長教と同盟して江口の戦いで晴元方を打ち破りました(1549年、天文18年)。晴元と足利義晴・その子で新将軍の義輝は京都を退去、連合軍が京都を支配したのです。(段落全体①②)

それに対して将軍・義輝が採った策は刺客を送ることでした。長慶は2度襲われ、遊佐長教は討たれてしまったのです。それでも長慶は、将軍を支えていた六角氏が代替わりすると(定頼→義賢)義輝と和睦する道を選びました。和睦に反対する細川晴元は没落しました(出家して若狭へ)。私情を捨てた長慶の決断により将軍家と管領家が統一されます(畠山氏も統一)。長慶自身も将軍の直臣(御供衆)になり、細川氏を後見する立場(氏綱と晴元の子で跡継ぎの昭元)にもなりました(1552年、天文22年)。ところが多くの幕臣も支持した幕府内統一に反して、将軍・義輝がまたも長慶を討とうとしたので、長慶は義輝を近江・朽木へ追放したのです(1553年、天文22年)。その替りとして長慶は、阿波にいた足利義維に上洛を促しましたが応じませんでした。そこで長慶はついに、足利将軍家の誰も擁立せず、自らの力だけで京都や畿内の支配(室町幕府に拠らない中央政権)に乗り出しました。戦国時代初めて「天下人」が誕生したのです。(段落全体①②⑥)
この長慶の活躍をバックアップしたのが、優秀な家臣団です。まず、阿波時代から長慶を支えた存在として、その弟たちが挙げられます(三好四兄弟)。
・三好実休(元長次男):三好氏の出身地・阿波を守護、後に南河内も支配
・安宅冬康(元長三男):淡路の安宅氏の養子になり、水軍を率いた
・十河一存(元長四男):讃岐の国人・十河氏の養子、和泉の岸和田城主
また畿内で新たに召し抱えた家臣団の代表は松永久秀でしょう。江戸時代以降、その所業(以下)が大悪人のように言われてきましたが、事実無根か、それなりの事情がありました。
・主君(三好義興)を討ったこと(事実は病死、久秀は悲嘆にくれた)
・将軍(足利義輝)を討ったこと(実際には子の久通が関与)
・奈良の大仏を焼いたこと(敵(三好三人衆など)が東大寺に布陣していた)
(段落全体②)

天下の政庁、芥川山城
同じ頃(1553年、天文22年8月)、長慶は跡継ぎの義興とともに芥川山城に入城しました(②)。芥川山城は、京都と大坂間の高槻丘陵の三好山(標高183m)に築かれた、摂津国最大の山城です。最初は、三好氏とも戦った細川高国が1516年までに築きました。それを受けついだのが細川晴元、そして三好長慶です。実は長慶は入城直前にこの城を攻め、より標高が高い帯仕山(おびしやま、192m)に布陣しました。城は落城するのですが、兵糧攻めによるもので、長慶は城自体の強さは認識したものと思われます。城は、丘陵の西北端に築かれ、二方向を摂津峡に囲まれ、山の斜面が急で、自然の障壁を利用しました。それに土塁・堀切などを加工することで、尾根や山下からの攻撃を防いでいました。(以上➂④)
城の位置 城周辺の起伏地図芥川山城の特徴の一つは、細川時代から山上に居館があったことです。他の山城でのケース(天文年間後半)よりかなり早いとされますが、当時の畿内での戦局がいかに過酷であったも表しています。主郭(本丸)には礎石の御殿が築かれ、長慶がここで政務を行ったと思われます。建物は、後の信長以後の時代にような瓦葺きではなく、一部瓦を使った(雁振瓦)を使った杮葺きだったようです。もう一つの特徴は、長慶時代に作られたとされる石垣です。当時は、石垣技術をもつ職人集団を動員できる権力者は限られていたのです。現在も、大手付近の石垣が残っていて、城主の権威を表していたと考えられます。(段落全体➂④⑤)



更に特筆されるのは、長慶は在京せず、芥川山城に留まって政務を行ったことです。幕府や朝廷の秩序から自由な立場をとるためだったのでしょう。朝廷や村落からの訴えは、重臣たち(松永久秀・三好長逸ら)によって長慶に取り次がれました。山麓に居館や城下町はなく、彼らは日常的に山上の城で暮らしていました。この城が「天下の政庁」になったのです。(段落全体②④)
1559年(永禄2年)に城近くの郡家(ぐんげ)村と真上(まかみ)村との間で水争いが起こったとき、長慶は現場検証を行わせ、郡家村の勝訴としました。その裁きは、幕府の奉行・家臣ではなく、自らの名前で行っています。(下記補足2,以上④⑤)このようなケースは、京都がある山城国でもありました(今里村・上植野村、下記補足3)。つまり、在地からは長慶の実力に裏付けされた裁きが求められていたのです。(以上②④)
(補足2)
今度当所と真上申し給う井手床の事、双方指図をもって、訴論に及ぶといえども、互いに証跡なし、真上支え申すは、往古より彼の井手▢▢無きの旨申す、渕底を究めんがため、検使等を差し遣わす、見さしむの処、年々の井手の跡顕然の上は、当所理運の旨に任せ、絵図の如く井手を構え、水便を専用すべき者也、仍って件の如し、
永禄弐
五月十九日 長慶(花押)
郡家惣中
(三好長慶裁許状、「郡家財産区所蔵文書」)
(補足3)
当所と上々(植)野が申し結ぶ井内領内川井手の事、糾明の淵底を遂げる処、上野の申し分は其の理無きの上は、先々の如く今井蕪木用水を進退せしむべき者也、仍って状件の如し、
天文廿三
六月十八日 長慶(花押)
今里村惣中
(「能勢久嗣家文書」)

朝廷も京都を単独で支配する長慶に近づきました。長慶と義輝と同じ位(従四位下、1533年)として、禁裏(皇居)の修理も命じました(1556年)。1558年(弘治4年)、正親町天皇の即位に伴う改元(永禄元年)がありましが、天皇はそのことを長慶に相談しても、義輝には何も知らせませんでした。これは将軍としては大事件で、天皇から武家の代表として認められないことを意味します。義輝は激怒、新年号を使わず挙兵したのです。ここで長慶が行った決断は、義輝との再度の和睦でした。京都に戻った義輝には翌年、織田信長・長尾景虎などが謁見を求めて上洛してきました。地方大名にとって将軍の権威はまだ必要とされていたのです。(以上①②)長慶は、名より実をとる決断をしたのではないでしょうか。

天下人の「石垣の城」、飯盛城
再び幕府に組み込まれた長慶ですが、今度は三好勢力の領国拡大に乗り出します。畠山氏の内紛に介入し、1560年(永禄3年)に畠山高政を追放し、河内国を平定、重臣の松永久秀も大和国を平定しました。旧主君の細川氏以外の守護国にも領国を拡大したのです。最盛期には、畿内・阿波を中心に、13か国(一部を含む)にも及びました。この三好氏の姿勢は周辺大名にも衝撃を与えました(下記補足4)。(段落全体①②⑥)
(補足4)「三好といひけるもの、畿内を心のまゝにして、伊セ入(いり)なとゝ物言喧しかりければ、城あまたきつかせなとし給ふ」(北畠国永の和歌集より)
それと並行して、三好一門の家格向上にも努めました。主なものを挙げてみます。
・三好長逸(ながやす)、三好義興、松永久秀が従四位下に(将軍・義輝、長慶と同格)
・三好長慶、義興、実休(長慶弟)を御相伴衆に(各地域の有力大名並み)
・三好長慶、義興、松永久秀に桐御紋の使用許可(将軍家並み)
もともと三好氏は陪臣だったのが、ついに将軍家並みの家格になったのです。しかもそれまでは上杉謙信や北条氏のように、上位の家の名跡を継承したのに対し、三好氏とその家臣の松永氏はそのままで、従来の家格秩序を塗り替えたのです。しかし、この変化に関東の領主たちが不満を持っていたことも記録されています(下記補足5)。(段落全体①②⑥)
(補足5)「是れは皆、国家を治めらるべきため御刷(察)し候、然る時は、此の義は関東中においても、誹判あるべからず候」(北条氏康が不満をなだめたとされる言葉、「歴代古案」)
長慶は、河内を平定すると、その地の山城・飯盛城に居城を移しました。同時に家督を三好義興に譲り、芥川山城を任せました。新たに加えた地域を支配し、淀川を挟んで義興を「大御所」として後見し、大和の松永久秀も支援することを意図したと考えられます。また山麓には水陸の交通網が発達していて、三好氏の根拠地の一つだった堺ともつながっていました。(段落全体⑥⑦)
飯盛城の位置と河内国の範囲飯盛城は、現・大阪府と奈良県の境になる生駒山地の北西にある飯盛山(標高314m)に築かれた河内国最大の山城でした(東西約400✕南北約700m)。畠山氏家臣出身の木沢長政が1530年(享禄3年)に整備し、長慶の前は畠山家臣・安見宗房が城主でした。城の北と西側が急斜面で自然の障壁になっていて、南と東側に堀などを多く作って守りを固めました。登城道は東側にあったと考えられます。(段落全体⑦⑧)

城は北から「御体塚(ごたいづか)曲輪」「高櫓郭(たかやぐら)曲輪」「千畳敷(せんじょうじき)曲輪」を中心とした3つのエリアに分かれていました。そのうち高櫓曲輪が最も標高が高く、そこから北側の曲輪群は面積も狭いため、戦になったときに使う「詰城」だったと考えられます。御体塚曲輪は、通常は兵が駐屯できるよう平らにするところ、わざと岩盤を残していることから、宗教施設であったと思われます。長慶は、自分の祖先とする源義光を祀る新羅社を勧請しているので、それがここにあった可能性があります。千畳敷曲輪は面積が広く、居住空間であったと考えられます。長慶はこの城でも城下町を作らなかったので、ここの屋敷に普段は住んでいたのでしょう。長慶は連歌を愛好していて、入城の翌年には文化人を城に招いて「飯盛千句」が催されました。その歌には城からの眺望や、畿内の名所が詠みこまれたそうです。(段落全体②⑦⑧)


それからなんといっても飯盛城の特徴は、芥川山城では部分的だった石垣がほぼ全域に用いられていることです。特に登城道だったと考えられる東側に集中しています。登城者に対して、城と長慶の威厳を示したと考えられます。安土城などの信長の城以前の「石垣の城」は大変珍しく、こういった面からも長慶は先駆けていたのです。この城からは京都から大阪平野を越えて淡路島まで一望することができます。逆にこの範囲に暮らす人々からは、飯盛城の威容が意識されたでしょう。また、長慶はキリスト教の布教を認め、家臣も入信者がいて、その中には高山右近の父(高山飛騨守)もいました。城下町はありませんでしたが、城下には彼らが住む集落や教会もあったそうです。(段落全体⑦⑧)


長慶と城の最期
盤石に見えた三好政権でしたが、意外と早く崩れていきます。絶頂期の1561年(永禄4年)和泉を守る3番目の弟、十河一存(そごうかずまさ)が病没します。それをきっかけに畠山高政と六角義賢が反旗を翻します。翌年、1番目の弟・実休がその戦い(久米田の戦い)で討たれてしまいました。そして、そのまた翌年(1563年)には跡継ぎの義興まで芥川山城で病没しまうのです。十河一存の子・三好義継が、養子として長慶の跡継ぎになりました。1564年、永禄7年5月、長慶はもう一人の弟、安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛城に呼び、成敗しました。三好氏の分裂を防ぐためだったとも言われます。ところがその2ヶ月後(7月4日)長慶も亡くなってしまいます。その詳細は不明です。(段落全体①)

長慶没後、三好氏は分裂します。1565年(永禄8年)三好義継は、将軍御所を襲い、将軍・足利義輝を討ち取りました。実は長慶生前から、義輝と三好氏の対立が再燃していて、義継が最初から将軍を討ち、取って代わることを考えていたという説があります。別の将軍を立てようとしなかったからです。それに反抗したのが重臣の三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)です。彼らは足利義維の子・義栄を14代将軍として擁立しました(1568年、永禄11年)。三好義継は、先に失脚していた松永久秀と結び、三人衆と対立しました。足利義昭と織田信長の上洛は、この状況下、義継・久秀と連携することで実現したのです。(段落全体①)

1568年、永禄11年9月30日、義昭と信長は京都(洛中)に入る前に、芥川山城に入城しました。それまで三人衆の一人・三好長逸がいましたが、退去していました。彼らは10月14日まで滞在し、それから入京したのです。芥川山城は、このときも三好氏の本城であり畿内の政庁と認識されていたのです。その滞在には信長が三好氏の地位を継承したと知らしめる意味がありました。城は義昭の側近、和田惟政に与えられました。惟政は居城を平城の高槻城に移し、芥川山城には高山飛騨守を入れました。その後徐々に機能を停止し役割を終えたと考えられます。(以上①④)飯盛城は三好義継に与えられましたが、彼を最後の城主として廃城になりました(翌年高屋城に移動、1573年に信長に反抗し戦没)。(以上①⑧)

信長は上洛を果たすと、義昭は信長に副将軍か管領職を勧めたり、織田氏の主君である斯波氏の家督(武衛・左兵衛督)をつがせようとしましたが、信長は辞退しました。しかし長慶も拝領した「桐御紋」は受け取りました。これは、幕府から自立した権力を志向したからとも言われますが、信長が長慶の先例を見て、諸大名の反発を避けながら、自らの家格向上を狙ったとも言えます。長慶はいろんな意味で信長以下三英傑の先駆者だったのです。近代の歴史学者・中村考也氏は長慶のことを「深沈なる思慮と、周到なる用意と、富裕なる温情」と評しています。(段落全体②)

リンク、参考情報
①「三好一族-戦国最初の「天下人」/天野忠幸著」中公新書
②「ミネルヴァ日本評伝選 三好長慶/天野忠幸著」ミネルヴァ書房
➂「歴史群像55号 戦国の堅城 摂津・芥川山城/中井均監修」学習研究社
④「史跡 芥川城跡パンプレット」高槻市
⑤ 高槻市立しろあと歴史館展示
⑥「歴史群像166号 三好長慶伝/天野忠幸著」学習研究社
⑦「歴史群像166号 戦国の城 河内・飯盛城/中西裕樹著」学習研究社
⑧「三好長慶と大東市の中世 -飯盛城はそのとき―」大東市歴史民俗資料館
「芥川山城 現地編」に続きます。























































































