58.明石城 現地編

今回はまず、明石城正面の入口から入って、本丸まで行ってみます。次に、本丸に残る櫓を見学して、丘の上の曲輪群を進みます。それから、表からは目立たない、城の裏側の防御の仕組みも見学しましょう。最後は、城下町から港を巡り、明石海峡にある舞子台場跡まで行ってみます。

イントロダクション

今、明石駅のホームの上にいます。ここから、明石城の2つの三重櫓がばっちり見えます。左側が坤櫓、右側が巽櫓です。最初からなかなか壮観です。でも城の石垣は右側にずっと続いています。そちらの方にも行ってみようと思います。

明石駅ホーム上から見える明石城
2基の現存三重櫓
坤櫓
巽櫓
二の丸・東の丸に続く石垣

駅前に降りてきました。駅前がもう堀になっています(中堀)。城跡の明石公園に進みます。アクセスはすごくいいです。

明石駅前
振り返るともう中堀です

公園の入口にもすぐ着きます。今回はまず、正面の入口から入って、本丸まで行ってみます。次に、本丸に残る櫓を見学して、先ほどホームで見た丘の上の曲輪群を進みます。それから、表からは目立たない、城の裏側の防御の仕組みも見学しましょう。最後は、城下町から港を巡り、明石海峡にある舞子台場跡まで行ってみます。

明石公園入口

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(明石の城から城下町・明石海峡めぐり)

近そうで遠い本丸

城周辺の航空写真

城の正門だった太鼓門跡から入っていきます。さすが正門だけあって、堂々とした枡形です。かつては正面と、曲がった先にそれぞれ門がありました(定ノ門・能ノ門)。石垣だけでも、城の中は全然見えません。奥の門の二階には、時刻を知らせる太鼓(「とき打ち太鼓」)があって、それが名前の由来になっています。現在、門を抜けたところには、太鼓打ちロボットがいたり、明石公園サービスセンターがあります。

太鼓門跡
太鼓打ちロボット
明石公園サービスセンター

本丸を目指して、進みましょう。今歩いている所は、台地下の三の丸で、左手にはかつて、お殿様の居館「居屋敷」がありました。右手には現在、一部再現された「武蔵の庭園」があります。

三の丸
武蔵の庭園

どんどん、巽櫓が迫ってきます。本丸はすぐ近くにありそうです。しかし、まだまだ本丸は遠いのです。右手にある、武蔵の提案(馬の歩幅ピッチ)が取り込まれたという階段は、二の丸にしか行かないのです。左手の石垣に沿って、回り込んでいく必要があるのです。これは長い道のりになりそうです。石垣が二段構えになっています。敵だったらこうしている間にやられてしまうでしょう。

巽櫓
本丸・帯郭の石垣

今度は坤櫓が見えてきました。ここでやっと、本丸への入口となるのです。まだまだなにかありそうですが、進んでいきましょう。

坤櫓
本丸への入口

ここでも、坤櫓が立ちはだかっています。さらに進んでいくと、すごい壁が現れました。これが天守台です。建物はないのにこの威圧感です。石垣だけでも十分防御陣地になったのではないでしょうか。しかも後ろには櫓も控えているのです。

立ちはだかる坤櫓
天守台
天守台と坤櫓

一応難所を突破したとして、次は、台地上の稲荷郭です。台地上の曲輪と言っても、本丸よりは低くなっています。しかも、本丸の入口は一番奥にあるのです。そして、最後の角を曲がるところにも乾櫓があったのです。櫓も天守台も、効果的に配置されていました。やっと本丸の埋門跡に到着です。

稲荷郭
乾櫓
本丸埋門跡

三重櫓と丘上の曲輪

本丸周辺の地図

これから本丸をまわりますが、来たときとは反対方向に見ていきたいと思います。今度は城を守る方から見てみます。まず、乾櫓跡に向かいます。案内はありませんが、角のところだと思います。

本丸
乾櫓跡

次は、天守台です。なんだか簡単に入って行けてしまいます。来る時に見た壁のような姿とは全然違います。上は広いですし、守備兵にとっては使いやすかったのではないでしょうか。坤櫓もすぐ近くです。本丸に来る時に通った稲荷郭もお見通しです。

天守台
天守台の上
天守台から見た坤櫓
天守台から稲荷郭を見下ろしています

いよいよ坤櫓に近づきます。内側に石垣がないせいか、気品を感じます。城内最大規模の櫓で、天守の代わりを果たしたと考えられています。内側なのに屋根の飾り(二重破風)がかっこいいところもいいです。さすが実質の天守です。

坤櫓(内側)

この日は坤櫓の中には入れなかったのですが、向こうの巽櫓には入ることができました。その前に手前の展望台からの景色を楽しみます。街が一望できます!これから行く巽櫓に、明石海峡大橋も見えます。

展望台
展望台からの眺め(南側)
展望台からの眺め(東側、巽櫓と明石海峡大橋)

巽櫓に入ります。見学できるのは一階部分だけになりますが、説明パネルや、部材みたいなものがたくさんあります。格子窓がありますので、外を眺めてみましょう。西側の窓からは二の丸の方が見えます。武蔵提案の石段もあります。

巽櫓(内側)
巽櫓(内部)
巽櫓からの眺め(東側、二の丸)

今度は正面の南側を見てみましょう。三の丸が見えるのですが、櫓の一階からでもこんなによく見えのかと思ってしまいます。先ほど櫓を見上げた場所が眼下にあります。

巽櫓からの眺め(南側、三の丸)

ところで、この櫓には筋違がたくさんあって、バリバリに補強されています。これらは、明治か昭和の大修理のときに取り付けられたそうです。このおかげで阪神・淡路大震災を耐えられたかもしれないとのことです。

巽櫓の補強材

続いて、本丸から細い土橋を渡って、二の丸に進みます。更に、東の丸に進みます。石垣の上を延々と歩く感じです。国旗掲揚のポールが見えてきました。ここは、東の丸の端で、ここにも櫓があったのです。だいぶ進んだので、ここから見る海峡大橋は、心なしか、大きく見えます。

本丸・二の丸間の土橋
二の丸・東の丸間の門跡
石垣の天端部分
国旗掲揚塔がある櫓跡
櫓跡から見た明石海峡大橋

自然を生かした防御

今、東の丸の隅まで来ていますが、ここから城の裏側に進みます。東の丸の奥には、門跡が2つあります。ここも、重要地点だったのです。今回は北側の方から出ます。

東の丸の2つの門跡、左側が北側に出る方

門跡から出たところを、下っていきます。道は、自然散策路みたいになっています。でも、左手は石垣、右手は堀に囲まれています。

門跡を出て、右下に下ります
城の裏側を進む道

城の裏側にもこんなに高石垣があります。二の丸の裏側だと思います。

二の丸の高石垣

二の丸と本丸を隔てる大堀切までやってきました。向こうに見えるのは巽櫓です。更に本丸の手前の方には艮櫓がありました。先ほど歩いた本丸・二の丸間の土橋から下ってみると、堀切を作って、わざと狭い通路にしていたのがわかります。

大堀切
土橋から大堀切に下る階段

更に、堀を越えて北に進んでいくと、北の丸の石垣が残っています。こんなところまで城が続いていたことがわかります。

北の丸石垣

お時間があれば、更に北西の方の、剛ノ池に行ってみることもおすすめです。これも城を守った自然の障壁です。

剛ノ池

戻る途中では、坤櫓の正面の姿が良く見えます。これは、ますますかっこいいです!

坤櫓(正面である西側)

武蔵の城下町、海舟・龍馬の台場へ

最後のセクションはまず、宮本武蔵が町割りをしたと言われる城下町を、城の中堀から、その場所らしいアイテムをチェックしながら、明石港まで行ってみます。この中堀から南側、右手の方に武家屋敷があったのです。道路を渡ったところに、その遺構があります。明石藩の家老を務めていた家の長屋門です。こちらも船上城から移築されたと言われています。もしかして、一回再建された櫓より古いかもしれません。

中堀
織田家長屋門

武家屋敷と町人地の堺目の外堀は、現在の国道2号線辺りだったそうです。

国道2号線

町人地代表としては、魚の棚商店街に来てみました。いかにも町人地らしい雰囲気です。明石鯛もあります。

魚の棚商店街
明石鯛が並びます

明石港は」、意外に近いところにあります。基本的な位置は、江戸時代と変わらないようです。この先には、江戸時代以来の灯台が残されています。

明石港
明石港旧灯台(photoAC)

旧西国街道沿いにも古い町並みがあります。

大蔵の街並み

そして、今回の最終目的地、明石海峡に到着しました。海峡と大橋、素晴らしい景色です!船が通っていて、今も交通の要所です。舞子台場跡は、明石海峡大橋の西側にあるので、橋をくぐって右手に移動します。

明石海峡
明石海峡大橋

台場跡に着きました。ほんとうに海峡が目の前にあります。勝海舟・坂本龍馬が関わった台場です。だいたい、西半分のところを見学できるようになっています。それでは見てみましょう。

舞子台場跡

大砲風のベンチがあります。その先には「天端の石敷き」とありますが、大砲が据えられたか、壁の基礎だったとのことです。

大砲風のベンチ
天端の石敷き

海岸の方を見てみましょう。石垣があります。こちらもオリジナルだそうです。台場の形は残っているのです。明石海峡は、いろんなものが集まる場所なのです。

台場の石垣

私の感想

最近、全国各地で大きな災害が発生しています。多くの人々や町が被災しているのは痛ましいですし、城や史跡もダメージを受けてしまっています。ほんとうに悲しいことです。しかし、明石城やその周りをめぐってみて、災害に対する備えをしていたり、阪神・淡路大震災からも復興した姿を見ることができました。被災した各地も、時間はかかっても復興できるのです。復興に少しでも協力するとともに、復興する姿もレポートしていきたいです。

復興した明石城
巽櫓の筋違

リンク、参考情報(追加分)

・「史跡明石城跡石垣の修理と歴史判断」村上裕道氏資料

「明石城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

58.明石城 歴史編

明石城は江戸時代、交通の要所・明石海峡近くに築かれた城です。同じ播磨国にあった姫路城と比べると目立たないかもしれません。しかし実は、現在残っている三重櫓2基は、全国に残っている三重櫓12基のうちの2つなのです。また、城や城下町の建設には、あの播磨国出身とされる宮本武蔵が関わったというのです。これらの地域や人物が、どのように明石城に結びついていったのか、歴史を追ってみましょう。

イントロダクション

兵庫県の明石といえば、本州と淡路島の間にある明石海峡、そこにかかる明石海峡大橋、そして海峡でとれる明石鯛、明石ダコ、タコを使った明石焼などが連想されるでしょう。海峡付近は、陸側でも六甲山地が海岸に迫っているので、海・陸ともに往来が集中する東西交通の要衝地域でした(下記参考資料①、以下番号のみ記載)。明石城は江戸時代、その地域に築かれた城です。同じ播磨国にあった姫路城と比べると目立たないかもしれません。しかし実は、現在残っている三重櫓2基は、全国に残っている三重櫓12基のうちの2つなのです。築城を行ったのは信濃国出身の大名・小笠原忠真(おがさわらただざね)なのですが、その築城の経緯も興味深く、その建物の多くは、伏見城や、かつて明石にあった船上(ふなげ)城などからの移築と言われています。また、城や城下町の建設には、あの播磨国出身とされる宮本武蔵が関わったというのです。これらの人物や以前の城が、どのように明石城に結びついていったのか、歴史を追ってみましょう。

明石海峡と明石海峡大橋
現存する坤櫓(左)と巽櫓(右)

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史

明石城前史

ときは1582年(天正10年)、本能寺の変が起こり、豊臣(羽柴)秀吉が天下統一を進めていく頃に遡ります。秀吉は1585年(天正13年)、高山右近に明石の地を与え(下記補足1)、その際に船上城が築城されたと考えられています。その前後には、秀吉が四国攻めや九州攻めのために、明石で船を動員していたと思われる記録があります。船上城はその港湾(明石川岸)に隣接して築かれたようです。この城は、大阪湾防衛及び全国統一のための水軍拠点だったと考えられます。また、南蛮貿易のための窓口としても期待されていたのでしょう。高山右近はキリシタン大名として有名で、宣教師を常駐させ、キリスト教を広めていました。しかし、彼は1587年(天正15年)の「バテレン追放令」をきっかけに領地を没収され、追放されてしまいました。(段落全体②)

(補足1)一、今朝早々より、秀吉和州へ御越也、此中、国わけ、国がへ以下有之、和州筒井伊賀国へ被遣、和州へ美濃守殿被遣之、高山右近播州明石へ、(以下略)(「顕如上人貝塚御座所日記」)

城の位置

その後、船上城は豊臣氏の直轄となり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後は、播磨国を治めた池田氏の支城になり、1615年(元和元年)の「一国一城令」により城から屋敷扱いになりました。本丸には天守や多聞塀があったという記録があります(下記補足2)。(以上②)現在城跡と思われる範囲は、ほとんどが住宅地となり、本丸の一部だったとされる農地を、となりの船上西公園から見学できるのみです。周辺での発掘調査により堀跡や遺物が発見されています(②)。

(補足2)城構多門塀を掛け小き殿主も有之候(「小笠原忠真一代覚書乾」)

船上城の想像地図(現地説明パネルより)
船上西公園から見える船上城本丸の一部

小笠原忠真の家系は、戦国時代まで信濃守護を務めた名門です。曾祖父の小笠原長時が武田信玄に信濃を追われ、その子・貞慶とともに各地を流浪したのです。武田が滅び、本能寺の変が起こると、貞慶は信濃に戻り、旧領(深志、のちの松本)を回復したのです。その後紆余曲折がありますが、小笠原氏は徳川家康に仕え、関ヶ原後は、貞慶の子で忠真の父・秀政が松本8万石の大名になっていました(1613年~)。秀政の妻は家康の孫(松平信康の娘)でした。(段落全体③)

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、忠真(当時は忠政)は、父・秀政と兄・忠修(ただなが)ともに幕府方として出陣しました。5月6日の若江の戦いにおいて、小笠原隊に大坂方の木村重成隊が近づいたため、戦おうとしましたが、となりの榊原康勝隊の軍監・藤田信吉が、伏兵が控えていると思い、止めたのです。それが結果的に戦機を逃したことになり、秀政は徳川秀忠から叱責を受けました。翌7日の天王寺口の戦いでは、小笠原隊は名誉挽回のため遮二無二戦うことになり、秀政と忠修が戦没、忠真も重傷を負うことになってしまったのです。(以上「西方城 その1」より)

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一人の主役である宮本武蔵は、謎と脚色に満ちた人物ですが、本人が書いたとされる「五輪書(ごりんのしょ)」によれば、1584年(天正12年)に播磨国で生まれました(下記補足3)。有名な「吉岡一門との決闘」「巌流島の決闘」などの武者修業は、13歳から28、9歳の頃(1596年~1612年)と言っています(下記補足4)。

(補足3)「兵法之道二天一流と号し、数年鍛錬之事、始て書物に顕さむと思、時寛永二捨年(1643年)十月上旬の比、九州肥後之地岩戸山に上り、天を拝し、仏前に向、生国幡磨(播磨)之武士新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六拾。」(「五輪書」序文)

(補足4)「われ若年之昔より兵法之道に心を懸け、十三歳にして始て勝負をす。・・・其ほど十三より二十八九迄の事也。(「五輪書、地の巻」)

宮本武蔵肖像画、島田美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

修業時代が終わった後、大坂夏の陣では、幕府方の水野勝成勢のうち、勝成嫡男の勝俊付きの騎馬武者として出陣しました。そのとき、名のある武将を討ち取ることはなかったが、大木刀を持って雑兵をなぎ伏せたという記録があります(下記補足5)。5月6日の道明寺の戦いで、武蔵は、水野軍が本多忠政を救援するのに貢献したとみられていて、それが戦後の縁につながります。(段落全体④)

(補足5)「宮本武蔵は兵法の名人なり。・・・大坂の時、水野日向守が手に付、三間程のしないの差物に釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者と書ける。よき覚ハなし。何方にて有けん橋の上にて、大木刀を持、雑人を橋の左右へなぎ伏ける様子見事なりし、と人々誉ける。」(「黄耇雑録」)

水野勝成肖像画、賢忠寺蔵  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

明石城築城

大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした幕府は、戦後、更に西国の外様大名に備えるため、領地替えを行いました(1617年、元和3年)。播磨国は丸ごと池田氏が治めていましたが、当主(光政)が幼いといういう理由で鳥取に移されました。その代わりとして、姫路には、徳川四天王の一人・本多忠勝の子・本多忠政を持ってきました(桑名10万石→15万石)。そして、姫路の後衛となる明石に、生き残った小笠原忠真を松本から移したのです(松本藩8万石→明石藩10万石)。命をかけた働きが、将軍・徳川秀忠に認められたのです。(以上②)更にその2年後(1619年)には、安芸・備後の外様の大大名・福島正則が改易になり、そのうちの備後国福山に水野勝成が入っています。(以上「福山城 その1」より)

本多忠政肖像画  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

小笠原忠真は、当初船上城に入城しました。しかしこの城は低地にあったため、西方からの攻撃に対する防衛には不利でした。また「一国一城令」により建物の多くは取り壊されていました。将軍・秀忠は1618年(元和4年)、忠真に対して新城の築城を命じます。同時に忠真の妻の父であった姫路城主・本多忠政の指導を仰ぐことになり、共同で新城の候補地を探すことになりました。候補地としては「人丸山」「和坂」「塩屋」の3か所がありましたが、最終的には「人丸山」に決定しました。そして城の縄張り(設計)の共同で行い、将軍・秀忠の許可を得たのです。(段落全体②⑤⑥⑦)

城周辺の起伏地図

宮本武蔵はどうしていたかというと、同じ頃(1617~8年)、水野勝成の家臣、中山志摩之助の息子・三木之助を養子として、本多忠政の跡継ぎ・忠刻(ただとき)に仕えさせていました。大坂の陣がきっかけだったと見られます。また、少し後になりますが(1626年頃)、武蔵の養子としてはこちらの方が有名な、宮本伊織が小笠原忠真の近習になり(15歳)、その5年後には20歳で家老に出世しています。(以上④)武蔵は、本多忠刻の剣術指南役で姫路にいたが、明石城築城を機に、明石藩の客分として迎えられたと考えられます(⑦⑧)。

築城は、幕府主導で急ピッチで進められました。幕府は費用援助(銀千貫目)とともに3人の奉行人を派遣し、主に城の基礎部分を担当しました(「本丸・二の丸・三の丸の石垣・土居・塀の普請」)。小笠原は主に建物部分を担当しました(「矢倉・門・塀・家造りの普請」)。石垣工事が1619年、元和5年1月に始まり、その年のうちに一旦完成し、翌年忠真が移ってきました。廃城になった城の建物をリサイクルしたことも早期完成につながりました。但し周辺部分(侍町の惣堀・土居、三の丸の一部の石垣)は7、8年かかったそうです。なお、本丸には天守台が築かれ、熊本城クラスの五重天守が立つ規模です。中津城の天守を移す計画があったそうですが、ついに天守は実現しませんでした。。(段落全体②⑤⑥⑦⑨)

天守台石垣

宮本武蔵は何を担当したかと言うと、まず城下町の町割りを行ったとされています。城下町は東西約2.3kmで、山陽道を取り込みました。外堀によって武家屋敷と町人地が明確に区分され、近世的な城下町となりました。また、藩主・忠真のために城内に庭園を造りました(御樹木屋敷の庭園)。名石・名木を各地から集め、築山・茶屋・御座敷・滝・鞠場(蹴鞠をする場)を1年余りかけて完成させました。城跡である現在の明石公園には、武蔵が作った庭の一部が再現されています。(以上⑧)更に、二の丸に上がる階段は、かなり広くピッチが大きいように見えますが、これは武蔵がこの階段を、馬の歩幅に合わせるよう提案したためと言われています(➉)。これだと人間の敵が攻めてくるときにはかえって登りにくいということでしょうか。

明石城ジオラマ、手前が城下町(明石市立文化博物館にて展示)
再現「武蔵の庭園」
二の丸への石段

近世に造られた新城

明石城は近世になって新たに作られた城なので、自然の地形を生かしつつ、完成された築城術を見ることができます。台地の突出部には西から、高石垣で囲まれた西の丸(後の「稲荷郭」)、本丸、二の丸、三の丸(築城当時)が整然と並べられ、土橋や門で仕切られていました。台地南下の低地(築城当時は「大曲輪」と呼ばれた)には藩主の下屋敷が配置され、東西と南側を内堀が囲み、その三方に枡形をもった門がありました。城の北側は、自然地形の谷と「剛ノ池」によって守られていました。敵が攻めてきたときにはこの池の堰を切って、周囲を水浸しにする作戦も考えられていたといいます。(段落全体⑨⑪⑫)

明石城ジオラマの城部分(明石市立文化博物館にて展示)

本丸には御殿があり、天守はないものの、四隅に方角を表す名前の三重櫓が建てられました。このうち、坤櫓は伏見城の櫓を、巽櫓は船上城の櫓を移したものと伝えられています(下記補足6)。特に坤櫓は一番大きく、天守台に近く、二重目には豪華な二重破風があることなどから、実質的に天守の役割を果たしたと見られます。4つの櫓は天守台がある西側を除いて多聞櫓で連結されていました。(段落全体②⑤⑥⑦➉)

(補足6)「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」(「小笠原忠真年譜」)

坤櫓(南側)
坤櫓(南側)、2重目が二重破風になっています

ところが1631年(寛永8年)本丸下の台所から出火し、本丸御殿が焼失しました。以後御殿は再建されず、本丸下に藩主の居館として「居屋敷(いやしき)」を建て、内堀で囲みました。その周辺が「三の丸」となり、従来の内堀は「中堀」と呼ばれるようになります。(従来の三の丸は「東の丸」、以上②⑤)このとき櫓群も被災しました。現在残る坤櫓・巽櫓はこのときに再建されたものです。櫓の間は土塀で連結され、現在見られる姿になりました(土塀の大半は現代の復元)。(以上⑥)ただし坤櫓は現在でも移築の痕跡が見られることから(⑦)、元の部材を活用したのかもしれません。

土塀で連結された坤櫓(左)と巽櫓(右)

時期ははっきりしませんが、城の北側にも剛ノ池から水が引かれた桜堀などが設けられ、更にその北側には北の丸も築かれ、防御を固めました。最終的には三重櫓4基、二重櫓6基、平櫓10基を擁する城になりました。(以上⑤)1691年に長崎出島から江戸に向かったドイツ人の医者・博物学者のケンペルは、明石城の美しい姿を記録しています(②、下記参考7)。現在私たちが見ることができる城跡の姿とそう変わらなかったのかもしれません。

(補足7)明石の後に美しき城あり。その内部も周囲も、高き樹に籠めたれば、白亜の壁にある其の二面だけ輝きて見え、四つの城壁には中央及び両端に四方形なる高き三重の矢倉を飾としたり。(「江戸参府紀行」)

播磨国明石城絵図(出典:国立公文書館)

その後

火災があった直後の1632年(寛永9年)、小笠原忠真は、豊前国小倉に転封になりました。宮本武蔵も、養子で家老の伊織とともに小倉に移ったと考えられます(④)。その後しばらくの間、明石藩主は目まぐるしく変わりました。そして江戸中期に越前大野藩から移ってきた越前松平氏の一族が幕末まで藩と城を統治したのです。(⑬)
・1632~33年:(幕府直轄)
・1633~39年:戸田松平氏(譜代大名、2代、7万石)
・1639~49年:大久保氏(譜代大名、1代、7万石)
・1649~79年:藤井松平氏(譜代大名、2代、7→6.5万石)
・1679~82年:本多氏(譜代大名、1代、6万石)
・1682年~:越前松平氏(明石松平氏)(親藩、10代、6→8万石)
城は後継の大名たちによって維持されましたが、幕末になると状況が変わってきました。

幕末時の藩主・松平慶憲 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

1853年(嘉永6年)のペリー艦隊の江戸湾の入口・浦賀への来航に続いて、翌年(1854年)にはロシアのディアナ号が大阪湾に侵入してきました。このときから幕府も大阪湾防備に動き出すようになります。幕府の命により、明石藩でも台場が作られましたが、その代表的なものが舞子台場です。その場所は、瀬戸内海から大阪湾に船が侵入する場合に通過する明石海峡の目の前でした。1863年(文久3年)、幕府は明石藩に、一万両を貸し付けるので舞子台場を堅牢に改築するよう命じました。その設計・現場の指揮にあたったのが、当時神戸にいた勝海舟でした。台場の雛形を藩に手渡したメンバーの中には、海舟の塾生だった坂本龍馬がいました。台場は翌年から翌々年にかけて完成しましたが、実際に使われることはなかったようです。(段落全体②⑭)明石藩は1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方でしたが、その後新政府方に明石城を引き渡したため、ここでも戦いが起こることはありませんでした(⑨)。

「天保山魯船図」(出典:文化遺産オンライン)
舞子台場跡
勝海舟 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
坂本龍馬 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

明治維新後、明石城は廃城となり、外堀などは埋められ、建物は取り壊されていきました。最後に残っていたのが4基の三重櫓です。城跡を管理していた兵庫県は、1881年(明治14年)8月、これらの櫓の解体も決定し、まず艮櫓が学校の用材として解体されました。これに憤激したのが旧明石藩士たちでした。県庁に嘆願書を出し、聞き入れられないときは、籠城の上、櫓に火をかけ、運命を共にすると言い出したのです。彼らにとって、自分たちの精神的シンボルが失われることに抵抗したようです。西南戦争(1877年)からあまり時が経っていないときで、世間から注目を浴びました(下記補足8)。その結果、1883年(明治16)から城跡は、民営の「明石公園」として保存されることになったのです。(段落全体⑥⑮)

(補足8)「士族は県庁の処分に不平を抱き、終に旧藩士の他国他郷にある者まで招きよせ、去る十四日に大評定を開きたり、其議は旧藩の諸士より猶県庁へ嘆願書を捧げ、夫にても聞届けられぬ時は、最早や絶体絶命の時節到来なりとて、中にも昔なら城代とも云ふべき林某は、いかに各々にも願意の貫徹せずして弥々当城破却の命下らば、其時は最先かけ城に火をかけ、潔く櫓と共に一片の焔となり、名をば後代に留めんが如何にと、思ひ切て云放ちし有様は、天晴れ篭城の覚悟とも云ふべく、(以下略)」(明治14年8月23日東京日日新聞記事)

明石公園入口

リンク、参考資料

「明石の宿場」明石民俗文化財調査団(明石市立図書館 明石郷土の記憶デジタル版)
② 発掘された明石の歴史展「船上城から明石城へ」明石市
③「戦国信濃と小笠原貞慶/志村平治著」戒光祥出版
④「人物叢書 宮本武蔵/大倉隆二」吉川弘文館
⑤「日本の城改訂版第88号」デアゴスティーニジャパン
⑥「史跡明石城跡保存活用計画」令和2年9月 兵庫県
明石公園公式ホームページ
⑧ 明石城巽櫓内展示
⑨ 明石市立文化博物館展示
➉ 明石城現地ガイドの方
⑪「戦国の城/香川元太郎著」ワン・パブリッシング
文化遺産データベース 明石城跡
⑬「明石城の歴史」パンフレット
文化遺産オンライン 明石藩舞子台場跡
⑮「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

「明石城 現地編」に続きます。

50.彦根城 その2

彦根城表門橋の前にいます。前回の記事では、駅からここまでの見どころや、城の初期から後に作られた表御殿や、玄宮楽々園の現地の様子もご紹介していますので、今回は、初期に築かれた彦根山の上の、お城の中心部に行ってみます。その頃は、戦に備えた城作りが行われたので、要害堅固な城の様子を、たっぷりとご紹介します。

特徴、見どころ

Introduction

彦根城表門橋(おもてもんばし)の前にいます。前回の記事では、駅からここまでの見どころや、城の初期から後に作られた表御殿や、玄宮楽々園の現地の様子もご紹介していますので、今回は、初期に築かれた彦根山の上の、お城の中心部に行ってみます。その頃は、戦に備えた城作りが行われたので、要害堅固な城の様子を、たっぷりとご紹介します。同じ城の中でも、目的によって全然違う作られ方がされているということです。まずは、山を登っていきなり現れる大堀切を見学しましょう。次は、重要文化財になっている天秤櫓や太鼓門櫓を通ったり、中にも入ってみましょう。そして、国宝天守のきれいな外観や、現存天守ならではの内装を楽しみましょう。最後は、穴場として、西の丸三重櫓や、彦根山の周りを歩いてみます。

表門橋

城周辺の航空写真

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

いきなりの大堀切

内堀にかかる表門橋を渡ると、その内側が主郭(第一郭)になります。渡った所に石垣がありますが、表門の跡です。今でもなにげに厳重に感じます。その脇には、登り石垣もあります。

主郭の範囲を描いた絵図、現地説明パネルより
表門跡
表門脇の登り石垣

入っていくと右側が表御殿(彦根城博物館)で、今回は券売所から左側に向かいます。表門坂です、表御殿ができてからは主要な登城ルートだったのでしょう。わざと石段の長さを変え、登りにくくしていました。急な上に、なんだか余計に疲れるように思います。敵だったら、足元を見ているうちに、攻撃されてしまうでしょう。

表門坂

やっと坂を登ったら、いきなりの大堀切です!圧倒されます。この大堀切の右側(北側)が本丸に通じる太鼓丸、左側(南側)が鐘の丸です。太鼓丸を守っているのが、重要文化財の天秤櫓です。本丸に行くには、鐘の丸に入って、正面に見える廊下橋を渡って、太鼓丸に進む必要があります。廊下橋は、かつては屋根付きだったようです。敵が攻めてきたときは橋は落としてしまうでしょうから、両側から攻められるだけになってしまいます。向こう側(西側)は、大手門に続く坂ですので、ここは最重要の防衛ポイントでした。

大堀切(南側)
大堀切周辺の絵図(現地説明パネル)に進行ルートを追記

鐘の丸に進みましょう。ここに入るにも、石段と枡形の組み合わせになっています。ここで滞留していたら、後ろの天秤櫓から攻撃されてしまうでしょう。橋を渡るどころではありません。鐘の丸の名前は、当初時刻を知らせる鐘楼があった(後に太鼓丸に移転)ことにちなむとのことです。

鐘の丸の入口(石段と枡形)

鐘の丸の中は、今は何もないので目立ちませんが、かつては大広間御殿と御守殿という2つの建物がありました。御守殿は、徳川秀忠の娘・和子(まさこ)が、後水尾天皇に嫁ぐときに、宿泊所として建てられたそうです(実際には使われず)。それに、ここは山の南端に当たるので、防衛上も重要な場所だったのです。ここからは、城の入口の一つ佐和口などが見渡せます。

鐘の丸の内部
鐘の丸からの眺め

天秤櫓と太鼓門櫓

それでは、廊下橋をわたって、天秤櫓に迫りましょう。名前の通りのユニークな櫓です。完全に左右対称ではないそうですが、両側の登城口から攻めてくる敵に対応するための形でしょう。あと面白いのが、江戸後期にこの櫓を大修理したことで、右側(東側)の古い石垣と、左側(西側)の新しい石垣のコントラストを見られることです。橋の上からも堀切が良く見えます。かつては屋根付きだったとしたら、ここからでも攻撃できそうです。橋を落とすタイミングと方法はどうだったのでしょうか。

天秤櫓
右側の古い方の石垣
左側の新しい方の石垣
廊下橋から見た大堀切

櫓の中も、通常公開されています。この櫓は平面上ではコの字型になっていて、その端っこから入っていきます。この櫓は、長浜城から移築されたと言われていますが、意外と中はシンプルな感じです。実用性重視だからでしょうし、実際には倉庫として使われたそうです。木材を削った跡が荒々しくていいです。作りとしては、敵が攻めてくる外側(南側)の壁を分厚くしてあります。格子窓から外を見ると、廊下橋がばっちり見えます。狭間や石落としがないように見えますが、埋められている隠し狭間がありました。使うときだけ開けられるようになっていたそうです。

天秤櫓内部
荒々しい木材の削り跡
外側の壁は厚く作られています
格子窓から見た廊下橋
隠し狭間

天秤櫓があるところが太鼓丸で、次が本丸への最後の関門、これも重要文化財の太鼓門櫓です。左側に時の鐘(時報鐘)を見ながら進みましょう。門の前に枡形がありますが、一部は山の岩盤がそのまま使われています。この門をくぐるときも、攻撃されそうな感じで一杯です。

太鼓丸を進みます
太鼓門櫓

太鼓門櫓はかつて、この山にあったお寺の山門を利用したと言われましたが、調査の結果、やはりどこかのお城から移されたとわかりました。この櫓にも入ることができます。外側に対しては厳重に監視できるようになっていますが、内側に対しては開けっ広げです。これは、かつてここに登城の合図を知らせる太鼓が置かれ、よく聞こえるようにこうなったと言われています。

太鼓門櫓の入口
太鼓門櫓内部
格子窓から外側を見ています
内側に向かって開放されています

本丸に入ったら、いよいよ天守ですが、その前に、ちょっと景色を楽しみましょう。着見櫓跡です。違う字で「月見櫓」とも書くそうですが、やはり見張りをする場所だったのでしょう。ここからは、城の周辺が一望できます。佐和山城跡の山もよく見えます。そちらに行った時には、彦根城を眺めました。両方行ってお互いを見てみると、すごく達成感があります。

着見櫓跡
櫓跡から見た佐和山城跡
佐和山城跡から見た彦根城

国宝天守を満喫

さて、現存12天守、国宝5天守の一つの彦根城天守です。他の城の天守と比べて大きくはないけれど、すごく気品を感じます。3重3階で、建物の高さは15.5メートルですが、多くの装飾がバランスよく配置されています。こちらの面だけでも、破風と呼ばれる屋根の装飾が5つも付いています。窓も、格式の高い「華頭窓」を2階と3階に使っていますし、3階の廻縁と高欄は、外に出ることができない飾りなのです。

彦根城天守
唐破風
入母屋破風
切妻破風

それから、この天守は大津城天守を移築したと言われますが、調査の結果、5階の建物を3階に改装したことが分かっています。わざわざ3階にした理由の一つとして、彦根城天守の平面は長方形になっているので、それに合わせてサイズを変更したことが考えられます。

天守内部では、移築を示すホゾ穴痕が見られるそうです
前身建物推定図、天守内部にて展示
着見櫓跡から見た天守、平面が長方形なのがわかります

それでは天守に入りましょう。ビジターの順路は、まず地下室から一階に上がります。ものものしい鉄の扉があります。

地下室と一階の間の鉄扉

天守の各階は「入側(武者走り)」という廊下のような通路に囲まれています。さすが本物だけあって「鉄砲狭間」「矢狭間」だらけです。ここも天秤櫓と一緒で、隠し狭間になっています。入側をずっと回りこんで、真ん中の身舎(もや、内室)に入って行きます。

天守一階の入側
矢狭間と鉄砲狭間
入側を回り込んで身舎に入っていきます
こちらは二階の身舎

二階、三階に上がるときには、ものすごく急な階段を昇ります。江戸時代のオリジナルですから、頑張りましょう。

二階から三階への階段

三階は最上階なので、屋根の木組みを見ることができます。巧の技という感じがします。下の方を見ると、破風の内側に「隠し部屋」があります。それから、最上階までしっかり狭間があるのもわかります。廻縁は飾りなので外には出られませんが、窓から外の景色を楽しめます。

天守三階(最上階)
屋根裏の木組み
隠し部屋に入るための引き戸
回縁には出られません
窓からの景色(琵琶湖方面)

穴場?西の丸三重櫓など

最後のセクションは「穴場」としていますが、見どころ満載です。まずは西の丸です。これまでご紹介したところに比べ、人気はありません。また櫓が見えてきました。重要文化財の西の丸三重櫓です。こんなところにも重要文化財があるのです。城の北側を守る要の櫓でした。

閑散としている西の丸
西の丸三重櫓

この櫓の中にも入ることができます。この櫓も小谷城から移されたという伝承があるのですが、調査では、移築の痕跡は見られなかったそうです。幕末に大修理されているので、それ以前は移築された建物があったかもしれません。他の現存建物よりは新しめなのです。格子窓から琵琶湖が見えます。それに、ここの狭間は塞がれていません。かつては琵琶湖の水辺がもっと入り込んでいたそうで、そこから攻めてくる敵にすぐ対応できるよう、このようにしたそうです。この櫓の前面(北側)にも大堀切があるのですが、残念ながら、そこの通路は通行止めになっています。

西の丸三重櫓内部
格子窓からの眺め
この櫓の狭間は最初から開けられています
櫓前の大堀切(以前の撮影)

天守の方に戻って、裏側の西の丸水手御門跡を通って山を下ります。天守に附櫓と多聞櫓が付いています。こちら側を守るために加えられたのでしょう。裏側っぽいところなのに、斜面の石垣がすごいです。下る途中に井戸曲輪がありますので、こちらも重要な場所だったのです。

天守と附櫓
天守の多聞櫓に続く石垣(右側)と井戸曲輪(左側)

山を下ると黒門口なのですが、山裾を進みます。かなり飛ばして、一番北の山崎曲輪まで来ました。初期の頃、重臣の木俣守勝がここに住んで、さっきの西の丸三重櫓に通っていました。ここにも幕末まで三重櫓があったそうです。現在は山崎門跡が残っています。

黒門跡
この付近にも登り石垣があります
内堀と石垣沿いを進みます
山崎曲輪
山崎門跡

ここから折り返していきましょう。自然の山っぽくなっています。タヌキもいました。また、登り石垣が見えてきました。ここが一番分かりやすい気がします。上の方に建物が見えます。西の丸三重櫓です。この石垣と連携して城を守っていたのがよくわかります。

彦根山のタヌキ
西の丸三重櫓下の登り石垣

どんどん進んでいきましょう。今は梅林になっているところは、初期の頃は重臣屋敷、その後は米蔵として使われていました。

梅林

大手門坂に着きました。ここを登っていくと、最初に見た大堀切です。大手門跡も近くにあります。やはりここにも登り石垣があります。建物はないけれど、すごい枡形で、さすが大手門らしい場所です。

大手門坂
大手門跡上の登り石垣
大手門跡

大手門橋を渡って、内堀の外に出ましょう。堀の内側の石垣が変わっています。鉢巻石垣と腰巻石垣で、土塁を挟んでいます。石材を節約しながら土塁を強化するやり方です。他では江戸城などで見られるそうです。江戸城は幕府のお膝元だから、彦根城はやはり幕府の肝いりなのです。スタート地点の表門橋に戻ってきました。山の上に登ったと思ったら、最後は一周してしまいました。

鉢巻石垣と腰巻石垣
表門橋が見えてきました

関連史跡、名物

今日は、内堀の中の見どころを、駆け足でご紹介しましたが、彦根城は中堀までしっかり残っていますので、お時間があれば、その周りを歩いてみるのもいいと思います。天守や三重櫓を眺めながら歩けるのもいいです。

京橋口門跡
旧西郷屋敷長屋門
中堀から見える天守
中堀から見える西の丸三重櫓

最後は、ひこにゃんの登場です。

表御殿(復元)に現れたひこにゃん

リンク、参考情報

国宝 彦根城、公式ウェブサイト
・「歴史群像名城シリーズ6 彦根城」学研
・「中世武士選書39 井伊直政/野田浩子著」戒光祥出版
・「幕末維新の個性6 井伊直弼/母利美和著」吉川弘文館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「彦根城を極める/中井均著」サンライズ出版
・「城の科学/萩原さちこ著」ブルーバックス

これで終わります、ありがとうございました。

「彦根城その1」に戻ります。

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