74.岩国城 その1

岩国城の歴史は、どうやら吉川広家の武将人生と大きく関係しているようです。今回はまず、広家の関ヶ原の戦い前後の動向をチェックしてから、岩国城の築城、そして早すぎる「廃城」をご説明したいと思います。最後は、「陣屋」としての岩国城のその後、そして錦帯橋の歴史にも触れていきます。

イントロダクション

岩国といえば、まず錦帯橋を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。また岩国城といえば、その天守が錦帯橋の背景として、セットで思い浮かべる人もおられるでしょう。しかし、その天守は現代になって再建されたもので、実際には天守を含む城は、公式にはわずか7年しか存在しなかったのです。城主だった吉川氏は、城の一部を「陣屋」として存続させました。

錦帯橋と背景の岩国城再建天守

岩国城を築いたのは、吉川氏の初代当主・広家でした。広家といえば、関ヶ原の戦いで西軍方の主家・毛利勢を参戦させず、東軍の勝利にも関わらず、大名家として存続させた「救世主」という評価があります。しかし一方、西軍は敗退し、毛利氏は大幅に領地を減らされたこともあって、当時から「裏切者」との見方もされてきました。現時点で振り返ってみた場合、どういうことが言えるでしょうか。

岩国城の歴史は、どうやら吉川広家の武将人生と大きく関係しているようです。そこで、今回はまず、広家の関ヶ原の戦い前後の動向をチェックしてから、岩国城の築城、そして早すぎる「廃城」をご説明したいと思います。最後は、「陣屋」としての岩国城のその後、そして錦帯橋の歴史にも触れていきます。

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立地と歴史(吉川広家と岩国城の歴史)

実は迷っていた?関ヶ原前の吉川広家

吉川広家は1561年(永禄4年)、吉川元春の三男として生まれました(参考資料①より、以下番号のみ記載)。吉川元春は、毛利元就の次男で、三男の小早川隆景とともに、主家の毛利氏が中国地方の大大名になることに貢献しました。戦国時代末期の毛利当主は、元就の孫・輝元でした。豊臣秀吉による天下統一のフェーズになると、毛利氏は秀吉に味方し、領土を安堵されましたが、その代わりに容赦なく戦いに動員されました。1586年(天正14年)に始まった九州平定において、元春と跡継ぎの長男・元長が相次いで病没してしまうのです(①)。元長が亡くなった翌年(1588年)、広家は吉川家を継ぎました。広家は月山戸田城を居城とし、朝鮮侵攻に動員されるのですが、その最中(1597年、慶長2年)、小早川隆景が亡くなっています。つまり、秀吉没後の関ヶ原の戦い直前には、広家は、主家を支える毛利一門の最重要人物いう立場になっていたのです。

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1600年、慶長5年6月、五大老筆頭の徳川家康は、上洛を拒否した上杉景勝を征伐するために出陣しました(会津征伐)。毛利輝元・吉川広家にも参加を命じたのです。しかし、石田三成たち奉行衆は、その隙を狙って家康排除のために挙兵しました。安国寺恵瓊は、奉行衆とともに輝元を説得し、「西軍」の総大将に担ぎ上げました。7月19日輝元は、以前家康がいた(③)大坂城西の丸に入城しました。広家は西軍に身を置きながら、毛利氏の取次だった黒田如水経由で親交があった黒田長政を通して、密かに「東軍」の家康に連絡を取りました。西軍の勝利はありえないと確信していたのです。広家は(事実かどうかは別として)「輝元様の大坂城入城は家康様打倒計画とは無縁ですべて恵瓊の企てである(④)」と釈明しました。8月までに、西軍による伏見城、安濃津城攻めがありましたが、立場上広家も参加せざるを得ませんでした。そして、関ヶ原近くの南宮山に、毛利勢の総大将・毛利秀元とともに着陣したのです。黒田長政は当然、広家の行動に疑いを持ちました。広家は、他の重臣(福原弘俊)と諮り、毛利家存続のためには東軍に内通するしかないと決断しました。合戦前日の9月14日、東軍に人質を差し出し、合戦では中立を守るという条件で、毛利領はそのまま安堵されるという約束を取り付けました(下記補足1)。合戦当日、広家は最前線に陣取り、後方(長宗我部軍)から毛利秀元に催促が来ても、一切動かせませんでした。関ヶ原合戦は周知の通り、わずか一日で東軍の大勝利に終わりました。広家は合戦直後の17日、それまでの事情を記した「関ヶ原始末書」を輝元に提出しています。(段落全体①②)。

(補足1)9月14日付吉川広家・福原広俊宛井伊直政・本多忠勝起請文
一.輝元に対して、家康が粗略にしないこと。
一.吉川広家と福原広俊が家康に忠節を尽くすうえは、家康が粗略にしないこと。
一.忠節が明らかになれば、家康の直書を輝元に渡すこと(分国の安堵も相違なし)。
(「毛利家文書」、現代語訳は⑦より)

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし最近の研究によると、広家は必ずしも一貫した態度をとっていた訳ではないようです。順を追って、根拠を示します(段落全体③)。
1.決起当初の7月14日付の家康家臣・榊原康政宛の広家書状案文(発送されなかった)は、毛利氏の西軍参加は恵瓊の独断である旨を知らせようとした内容でしたが、実際は後日作成されたか、内容が事実と異なる(輝元も了解していた)可能性があります。
2.現在確認できる東軍との最初の接触は、7月28日頃駿府に届いた広家の書状(詳細内容不明)、発送したのは7月25日頃とみられます。西軍は19日に伏見城攻撃を開始しましたが、城代・鳥居元忠らの頑強な抵抗にあっていました。その返事として、8月8日付黒田長政宛徳川家康書状(下記補足2)、8月17日付広家宛黒田長政宛書状(下記補足3)が送られました。

(補足2)吉川殿からの書状を詳細に読みました。(広家の)ご弁明については、もれなく了解しました。輝元とは兄弟のように相談して決めることとしていたので、(今回の行動を)不審に思っていたところ、(反徳川闘争の企てを)知らなかったということを聞いて、気が晴れました。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

(補足3)このたびの決起について、輝元はご存じなかったのですね。安国寺が一人で企てたことであると、家康公も認識されました。そこで、輝元に対して、このことを念には念を入れておっしゃって、家康公と(輝元とが)懇意になるように、(広家の)工夫が最も大切です。あなた次第で、こちらは私が調えます。合戦でこちらが勝利した後では、講和することも不可能ですので、前もってご油断しないで思案されることが道理に叶っていると思います。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

3.上記に対する広家の返答は直ちにはなく、黒田長政が8月25日に督促の書状(下記補足4)を送っています。この頃は8月1日に伏見城が落城し、戦闘が一段落していました。

(補足4)先の書状で申し入れましたが、届きましたか。とにかく、毛利家が存続するように(あなたが)ご思案されることが道理に叶っています。詳しいことを記したご返事の書状を送ってください。(中略)家康が早くも駿河国府中まで出陣したという情報が、昨夜届きました(実際には9月1日江戸出発)。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

8月23日東軍が西軍の岐阜城を攻略、そして翌日西軍も東軍の安濃津城を落としたものの大損害を出しました。広家勢も300人以上もの死傷者を出しています(⑤)。黒田如水からも9月3日付で家康との講和を勧める書状が送られてきました(⑥、下記補足5)。このような状況と、家康西上の情報を得て、交渉を再開したものと考えられます。

(補足5)家康が西上しているとの噂です。間違いないでしょう。家康が来る方面にあなた(広家)が居られるので、大変心配しています。失敗しないように判断することが大事です。上方の軍勢はすべて家康に同心するようですので、あなたの(判断が)大事です。(「吉川家文書」、現代語訳は⑥より)

毛利輝元も実際には阿波や伊予への侵攻を行っていましたが、一方で家康とも何らかの連絡を取っていたようです。そして現地に対しても、家老の一人・福原広俊を通じて状況を把握し、コントロールを行っていました。吉川広家の動きも「小早川秀秋と西軍から離反する」という噂になっていたので、把握していたと見るべきでしょう。つまり、毛利勢はどのみちどちらにもつけない状態でした。広家が東軍との交渉を主導していたことは確かですが、その他の勢力も虚々実々の駆け引きを行っていたのです。(参考③⑥)

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関ヶ原後、岩国築城へ

関ヶ原後、毛利輝元は領地安堵を前提に、大坂城を退去しました。ところが、家康が大坂入城後に精査したところ、輝元は中立的立場ではなく、西軍の盟主として行動していたことが発覚しました。家康は激怒し、毛利の全領地を没収し、そのうち周防・長門の二カ国を広家に与えることにしたのです。しかし広家が、切々と毛利本家の存続を懇願した結果、10月10日、家康はその二カ国を、毛利輝元・秀就(ひでなり)父子に与える誓書を書きました(補足6)。広家に対しては、輝元に命じて、周防国の東部を割譲させました。これが岩国築城につながります。(①)

(補足6)周防、長門の両国を据え置くこと、輝元・秀就父子の身命には異議のないこと、(大坂城をめぐる)虚説について究明すること(毛利輝元・秀就宛徳川家康誓書、毛利博物館蔵、現代語訳は①より)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかしこの経緯の元ネタは、吉川家の記録(「吉川家譜」)にしかなく、歴史家によると、後に吉川家が藩内での家格を高めるために作ったものだろうとされています。つまり、家康は毛利の抵抗を恐れて、輝元が大坂城を退去するまでは所領安堵を匂わせておいて、退去後にそれを反故にしたのです。輝元としても、関ヶ原敗戦で権威が失墜し、抵抗する力もなく、減封を拒否することは不可能でした。せめて実子の秀就の地位を保証されることで妥協したものと考えられます(それまでの跡継ぎは養子の秀元だった)。(段落全体③)

これでは、広家は窮地に落とされたことになります。見方によっては、西軍敗北だけでなく、毛利の大減封(約119→30万石)の一大原因を作ったことになってしまうからです。広家自身も、独立大名格から毛利家臣扱いになり、石高も減らされました(約11万5千→3万4千石)。(参考③)広家は関ヶ原の翌年に、輝元宛に長文の書状を認め、思いを伝えようとしていますが(下記補足7、④)、その当時の広家の苦しい立場を反映しているのではないでしょうか。

(補足7)毛利輝元様
このたび、関ヶ原の合戦の和睦は整い、私ども満足しております。私のこの戦いにおける行動が西軍大敗の一因と世間で批判されていることは遺憾に思います。私は和睦が成立した後に申し開きをしたいと思っておりましたが、これまで時間がかかりましたので今まで出来ませんでしたが、一書をもって一部始終申し上げます。(④、冒頭部分)

実は、この頃の広家には、毛利から出奔しようとした形跡があるのです。一つは、関ヶ原の年の11月に、黒田長政が広家を自分の藩に誘っていると取れる書状が残っているのです(下記補足8)。その3年後には、広家が独立大名になる交渉が行われた形跡もあります(下記補足9)。実際に毛利家臣は総じて大幅減封になっていたので、出奔する者もいたのです。しかし広家は最終的に毛利に残る決断をしました。(段落全体③)

(補足8)慶長5年11月18日付吉川広家宛黒田長政書状(一部)
ご知行などについて、かねての首尾と異なる状況になりましたら、私の領内においてでも提供いたしますので、ご心配されませんように。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

(補足9)慶長8年7月16日付吉川広家宛末長良昧書状(一部)
先日の箇条書きについて、大部分は決着しましたので、ご安心ください。江戸において長政は私へ「広家に対して知行を与えるとのことだ」と言われましたので、恐れ多いことですが、喜ばしいことと存じ申し上げます。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

毛利氏の新領国となった長州藩は、萩城を本城とし、国境については東に吉川広家を、西に以前の跡継ぎだった毛利秀元を配置しました。広家は萩城の縄張りに関わったと言われています。広家・秀元は、毛利家臣でありながら、独立大名的な性格も持っていました。その一つが、居城の設置を許可されたことでした。秀元の居城は櫛崎城で、広家の場合、それが岩国城だったのです。(以上③)もしかすると、広家の残留条件だったのかもしれません。

萩城天守の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長州藩(現山口県)の範囲と城の位置

堅固な城、しかし突然の「廃城」

岩国城は大きく蛇行する錦川に囲まれた標高約210mの城山を中心に築かれました。川を下れば港(今津)に近く、川の対岸には山陽道・石州街道が通っていました。つまり、城の地は水上交通、陸上交通の結節点だったのです。そこは「横山」と呼ばれていて、広家の祖父・毛利元就は1557年、中国平定(大内氏討伐)のとき、ここを本陣にしました。広家の当時は、寺(永興寺)があったものの荒廃していました。(段落全体⑧⑨)

城周辺の起伏地図

当時、新規築城の山城は珍しく、さらなる戦いが起こると想定していたのかもしれません。ただし居館(御土居)部分は山麓にあって、工事はこちらから始まりました(1603年)。山上部分は本丸・北の丸・二の丸を中心に総石垣で築かれ、枡形、連結された櫓群、空堀などで守られた近世城郭となりました。完成は1608年(慶長13年)とされています。(段落全体➉)

山上部分の縄張り図、岩国城天守内にて展示

広家が、岩国城の縄張りについて出した細かい指示が記録として残っています。これによると、広家が縄張りに精通し強いこだわりを持っていたこと、実践的な構造だけでなく、見栄えも重視していたことがわかります。(段落全体③、下記補足10)

(補足10)慶長9年5月28日付吉川広家条々写(一部)
一.南の小丸くびの門の位置については、地形にあわせて設置せよ。東の方の尾崎側でも構わない。
一.尾くび左の櫓は、麓からの見える場所なので、長い方を見せるのが適切である。
一.天守は御庄側の切り立った部分を延ばした場所を防御するためのものである。また、一つには、山頂部の平地があまりに広いため、本丸部の段差を大きくして、二の丸を防御するためにも、本丸内におさめて石垣を築造することは当然であるので、両方の用途を対照して判断し、適切に造成せよ。
一.天守の大きさは六間×八間とすべきである。東西を長辺として普請しなさい。
一.天守と尾くびの櫓を連結する石垣について、時間・労力を費やしてでも、切り立った部分を延ばすので、丁寧にじっくりと申し付けなさい。(「藩中諸家古文書纂」、現代語訳は③より)

天守は4重6階で、3重目の上部分(4階)が下部分(3階)より張り出していました。4重目も同じようになっています。この形式は「南蛮造」「唐造」と呼ばれる珍しいものです。他には小倉城、高松城天守が同様の形式でした。(以上➉)現在再建されている天守は、観光のため、錦帯橋が望める位置に築かれましたが、もとは櫓があった場所でした。また再建天守は、天守の古図(「天守構造図」)を基に設計されています。また、オリジナルの天守台は元の場所に復元されています。(以上⑧)よって、オリジナルの天守がどんな風だったかイメージすることはできます。

岩国城再建天守
復元されたオリジナルの天守台

ところが、その城の命は、わずか7年で終わりました。豊臣氏が滅亡した1615年(慶長20年)、幕府は「一国一城令」を制定しました。大名が居住する城郭を除いて、すべて廃城にせよという厳しいものでした。文字通りとれば、周防国には他に城はないので取り壊す必要はないという理屈も成り立ちます。しかし、同じような立場の毛利秀元は居城(櫛崎城)を取り壊していて、毛利本家の意向もあり、吉川氏も従わざるをえなかったとされます。(段落全体①③)山上の城部分が破却され、山麓の居館部分が「陣屋」として継続しました。

山麓の居館「御土居」跡

ただし、山上については、建物は除去されたものの、石垣の壊し方には特徴があります。現在、街道がある西側では徹底的に破却されたと見えるものの、居館・城下町がある東側ではかなり残っているのです。これは石垣がいつ壊されたかによりますが(島原の乱後という説もある)、広家の考えによるものかもしれません。実際、彼は表の目立つ箇所のみ石垣を崩すという形式的な破城で済まそうとしているのです(下記補足11)。(以上③⑧➉)広家は、唯々諾々と従っていたわけではないのです。心血を注いで築いた城を少しでも残そうとする意志と、難局を乗り切ってきた戦国大名としての意地を感じるのです。

(補足11)元和元年10月9日付家臣宛吉川広家書状(一部)
諸国の城を破却することについて、続いて情報を収集したところ、おそらく石垣まで破却するとのことです。そこで、岩国城の石垣についてももう少し崩すのがよいだろうと思います。(中略)また、城の表の方をとくに崩すのが適切なのではないでしょうか。人数が足りなければ、十~十五日間のことですので、皆々、雇傭しなさい。これは公儀のことですので、いずれにせよ、山麓からも城の方からもよく見比べて破却しなさい。(岩国徴古館蔵、現代語訳は③より)

北の丸西側の石垣
本丸東側の石垣

その後の「岩国藩」

吉川広家は、1625年(寛永2年)65歳で亡くなりました。広家の領地は、現代では、長州藩の支藩「岩国藩」として吉川氏に代々受け継がれていったと理解されています。しかし当時は、毛利氏一族の支藩(長府藩、清末藩、徳山藩)は大名格(従五位下以上)として公に認められた一方、岩国藩は家臣扱いのままでした。(以上①参考)長州藩設立以来の因縁かと思ってしまいますが、実際には将軍との距離感(お目見え・江戸在府期間・官位など)で決まっていったようです(⑪)。岩国藩は、その家格を上げるため運動を続けていくことになります。広家が自ら大名になることを拒絶してまで毛利本家の危機を救ったとする物語は、その一環でできたと考えられます(③)。それが岩国藩が関わってできた軍記物「陰徳太平記」など(他には「関ヶ原軍記大成」など)によって広まっていったのです(③⑪)。

そんな中で、3代目藩主・吉川 広嘉(ひろよし)は、有名な錦帯橋を創建しました。城から錦川の対岸には城下町がありましたが、錦川は暴れ川で、2代・広正が架けた橋が、たった2年で洪水により流出していました。流れない橋は架けられないかと広嘉は考えたのです。各地の名橋を見聞し、人材を集めました。そして、1673年(延宝元年)に初代・錦帯橋が架けられたのです。流されないために橋台の数を押さえ、かつ石積みで強固にし、アーチ型の木製の橋梁部を渡し、全く独創的な橋になりました。実は初代は8ヶ月に流出してしまうのですが、改良・再建(1674年)したものが276年間保たれたのです(改良、補強、補修、定期的な架け替えが行われた)。残念ながら1950年の台風が原因で流出してしまいますが、また再建され、現在も変わらぬ姿を見せています。(段落全体①)

吉川 広嘉像
錦帯橋の橋台
葛飾北斎「諸国名橋奇覧」より「すほうの国きんたいはし」、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

時代は幕末、12代藩主・吉川経幹(つねまさ)のときに飛びます。長州藩は幕府に反抗したので、東国境の岩国が、戦いの最前線になったのです。岩国藩と経幹はその立地や立場から重要な役割を果たしました。1864年(元治元年)の第一次長州征討では、幕府と長州藩との講和の折衝役を務めました。1866年(慶応2年)の第二次長州征討では「芸州口」として国境が戦場になりました。数の上では圧倒的に不利だったため、経幹は山上の城跡に籠城することまで考えたそうです。幕府軍の先鋒は井伊・榊原隊で関ヶ原のときのような兵装でした。その再現を狙っていたのかもしれません。しかし、長州・岩国隊は今回は結束し、武器の性能も上回っていました。幕府軍を撃退したのです。岩国隊はその後も活躍し、1868年(明治元年)経幹は、新政府から大名格(従五位下)に任じられました。ここに岩国藩の悲願が達成されたのですが、そのときすでに経幹は亡くなっていたのです(死が伏せられていた)。その地位は子(経健)が受け継ぎましたが、1871年(明治4年)には廃藩置県を迎えることになるのです(吉川家は子爵、男爵に)。(段落全体①)

吉川経幹 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

①「岩国を築いた英智の三藩主/藤井淳史著」吉川報效会
「吉川広家公没後400年記念 開館30周年記念展 第三期 広家の関ケ原」吉川史料館
③「毛利氏の御家騒動 折れた三本の矢/光成準治著」平凡社
④「吉川広家自筆覚書案(慶長6年、毛利輝元宛書状下書き、現代語訳は「吉川史料館たより第91号」による)
⑤「吉川史料館たより第74号」
⑥「関ヶ原前夜 西国大名たちの戦い/光成準治著」日本放送出版協会
⑦「黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原/渡邊大門著」角川選書
⑧「山陰・山陽の名城を歩く 広島・山口編」吉川弘文館
⑨「吉川史料館たより第84号」
➉「歴史群像シリーズ よみがえる日本の城7」学研
⑪「シリーズ・織豊大名の研究4 吉川広家/光成準治編著」戒光祥出版

「岩国城 その2」に続きます。

41.駿府城 その1

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。

立地と歴史(家康が3回住んだ城)

イントロダクション

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。一回目のときは今川氏の城で、二回目に家康自身の城になったのですが、このときまでの城の姿は謎に満ちているのです。それに大御所時代に築かれた巨大な天守は、短期間で燃えてしまい、日本最大と言われる天守台も明治期に壊されてしまいました。しかし近年発掘調査が行われ、明らかになりつつあります。この記事では、家康が住んでいた3つの時代毎に、駿府城の歴史と謎をご説明したいと思います。家康後の歴史もあります。

駿府城になる徳川家康銅像

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竹千代がいた今川氏の城

室町時代に駿河国守護だった今川氏が、いつ本拠地を駿府に置いたのかははっきりしません。しかし四代目の範政が、将軍・足利義教を「府中」に迎えているので、これ以降本拠であったことは確実です。駿府は、南を駿河湾、残り三方を山に囲まれていて、鎌倉のような地形になっています。要所には支城が築かれて、防御を固めていました。しかし、本拠にあった今川館(いまがわやかた)は、堀や土塁に囲まれてはいるものの、京都の公方亭のような華やかな建物だったと考えられています。今川氏の全盛期には、駿府は日本有数の平和で繁栄した街だったからです。

駿河国の範囲と駿府城の位置

城周辺の起伏地図

将軍亭「花の御所」、上杉本陶版「洛中洛外圖」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その今川館があった場所ははっきりとはわかっていません。現在残る本丸辺りだろうとも思えますが、城は後世かなり改変されてしまっているからです。発掘調査で発見された遺構や、文献資料などから、本丸・二の丸の範囲にあったことは確実なのですが、もっと絞れば、二の丸坤櫓辺りだろうとする意見があります。この辺が城内では標高が高く、富士山を望むような建物の配置になっていたと推定されるからです。この近くには、室町時代以来と思われる「四足御門」という名前の門が江戸時代までありました。

今川館の推定範囲(緑の線内)、駿府城東御門内にて展示

1549年(天文18年)、11代当主・今川義元の下、全盛期だった駿府城に、8歳の竹千代こと家康が、松平氏の人質としてやってきました。これまでこの「人質」時代は、家康の一生のなかで忍耐のときと捉えられてきましたが、実際には制限はあっても充実した生活を送っていたようです。有名な安倍川の石合戦のエピソードのほか、この頃から鷹狩りをしていました。そして今川氏からも配下の中で優遇され、元服後に義元から一字をもらって「元康」と名乗り、妻も義元の姪と言われる築山殿でした。更に「軍師」である太原雪斎から直接教育を受けました。家康は、今川氏の重臣となるよう期待されていたのでしょう。1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いの前には、今川氏の拠点、大高城に兵糧を運び入れる働きをしました。ところが、大将の義元が織田信長に討ち取られてしまったのです。家康はこれをきっかけに独立大名となります。

復元された「竹千代手習いの間」、駿府城巽櫓内にて展示

義元を失った今川氏は、凋落の道を辿ります。北は武田信玄、西は家康から圧迫を受け、1568年(永禄11年)ついに信玄は駿河侵攻を開始しました。後継ぎの今川氏真はそれに対峙しようとしますが、重臣の離反が相次ぎ、一戦も交えずに、西の掛川城に退去しました。駿府には武田軍が攻め込み、当時の駿府城・今川館も炎上しました。一つの時代が終わったことを象徴する出来事でした。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣大名・家康の城

織田信長が本能寺の変で倒れた後、家康は5か国を領有する大大名になっていました。当時の本拠地は浜松城でした。1584年(天正12年)には、天下人となる羽柴秀吉に小牧・長久手の戦いで対峙しました。その翌年(1585年、天正13年)、家康は駿府に本拠地を移しました。これは拡大した領国範囲に対応したものと言えますが、秀吉との再度の戦いに備えたものとも考えられます。その範囲は現在の本丸・二の丸程度でした。家臣の松平家忠の日記には、その築城過程が記録されています。築城は天正13年7月に始まり、翌年12月に家康が入城しました(下記補足1)。このときの城の姿は、それまでの浜松城などと同様、土造りの城であったと想定されています。家康は、本格的な石垣を築く技術や職人集団を持っていなかったのです。1587年、天正15年2月に城は一旦完成しました(「家忠日記」「当代記」)。

駿府城の航空写真(国土地理院)、二の丸ライン(赤線)を付加
家康時代の浜松城の想像図、現地説明パネルより

(補足1)「駿河府中普請」のため、家忠が出張(「家忠日記」天正十三年八月十四日付)「御かまへ二のくるわ堀(二の丸の堀)普請候」(同天正十五年二月五日付)「殿様今日駿へ御座候由候」(同天正十五年十二月四日付)

家忠日記(複製)、駿府城東御門内に展示

ところが、それと同時に新たな工事の準備が始まりました。石垣の工事でした(下記補足2)。その直前、1586年、天正14年10月、家康が上洛し秀吉に臣従していました。それを境に始まったのです。「石垣の城」を築かなかった家康に、豊臣政権が関与したことが記録上からも伺えます(下記補足3)。更には、「てんしゅ(天守)の材木を準備したという記録も見られます(下記補足4)。しかし記録からでは、石垣や天守の規模はわかりません。

(補足2)「城普請出来候、石とり候(「家忠日記」天正十七年二月付)」「来一日より駿河御城御普請候由、酒左衛門督(酒井忠次)より申来候」(同天正十五年九月十七日付)
(補足3)「てんしゅの才木てつたい普請あたり候」(「家忠日記」天正十六年五月十二日付)
(補足4)「駿河府中の石垣の普請あり、去る去る年より、事始めあると雖も、上方不快の間、指て事行ず。いま、秀吉公入魂せしめたまい、普請宜々、出来の間、浜松より北の方をも引越し給う。」(「当代記」天正十五年丁亥二月付)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

2016年、大御所時代の天守台の発掘調査が行われましたが、その下から天正時代の当時としては巨大な天守台と、大量の廃棄された金箔瓦が発見されました。天守台の大きさは秀吉の大坂城をもしのぎ、天下人クラスのものでした。そのため、当初は家康が築いたものとはされず、家康が関東に移った後駿府に来た、中村一氏のときに築かれたのではないかとされました。一氏は秀吉の家臣(当時は秀次家老)だったので、秀吉の肩入れで築かれたということです。関東周辺には、秀吉の家臣による総石垣・金箔瓦の天守がいくつも築かれ、家康包囲網ともいうべき城郭ネットワークが構成されました。駿府城もその一つと考えられたのです。見つかった金箔瓦は一か所に廃棄されていて、家康が再度城を築くときに意図的に壊されたとも言えるのです。

発掘された天正期の天守台
出土した金箔瓦、駿府城東御門内にて展示
中村一氏像、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところがまた事態は一変します。2019年に天守台に付随する小天守台が発見されたのです。これは家康家臣の記録の一つ「小傳主(小天守)を築く」と一致するということになったのです(下記補足5)。にわかにこの巨大天守は家康が築いたという可能性が出てきたのです。学者の中には、この時期に家康が独力で石垣・天守を築く能力を身に着けたと考える人もいます。しかし一方で、一連の石垣・天守工事は小田原合戦準備のため短期間で終わっていて、その間にこれだけのものを築けたのかという疑問もあります。また、家康が関東に移った当初の江戸城はとても質素で、豪華な石垣や天守は関ヶ原合戦の後と考えられているので、それとの整合性はどうなのでしょうか。それから見つかった金箔瓦は、織田系・豊臣系両方の特徴を示していて、独自性が感じられます。このことは家康築城説に有利なのかもしれません。発掘調査は2020年に終了しましたが、今後の研究成果が期待されます。

(補足5)「小傳主てつたい普請當候」(「家忠日記」天正十七年二月十一日付)

駿府城の金箔瓦(複製)、左側が豊臣系、右側が織田系の特徴をもつ、駿府城東御門内にて展示

天下人・大御所の城

関ヶ原合戦の勝利、征夷大将軍就任により天下人となった家康は、1605年(慶長10年)早くも将軍職を後継ぎの秀忠に譲りました。その隠居城となったのが駿府城です。馴染みのある地で余生を楽しむという感じも受けますが、実際には自由な立場で天下の政権運営を行うためでした。家康は将軍時代、ほとんど上方の伏見城にいたので、江戸との中間点で、両方目配せができる場所を選んだのでしょう。また、大坂城の豊臣方が西国大名とともに江戸を攻める場合、防衛線にもなりうる拠点でした。1607年(慶長12年)、天下普請により新たな築城が始まりました。その範囲は、現在の三の丸が追加される形と考えられますが、中身は大改修となりました。三の丸のラインが二の丸以内とずれているのは、城下から見て、富士山と天守が同時に視界に入る仕掛けと言われます。慶長12年中にほぼ完成していましたが、12月22日、本丸・天守が全焼してしまいました。これは奥女中の火の不始末が原因とされますが、火事は度々起きていて、豊臣方の策謀ではないかという説もあります。再建工事が直ちに開始され、翌1608年、慶長13年8月14日に家康が入城しています。

駿府城の航空写真(国土地理院)、三の丸ライン(緑線)を付加
石垣工事のジオラマ、駿府城東御門内にて展示

城の中で際立つのは、まず天守台です。2016年からの発掘調査の結果、一番下の部分(基底部)で東西約63m、南北約69m、という日本最大規模であったことがわかりました。残っている記録(陸軍実測図)によると、最も高い部分(天端)でも東西約48m、南北約50mで、最盛期の江戸城・大坂城をしのぐものでした。また、天守は天守台一杯に築かれたのではなく、周りを櫓と渡櫓が囲み、中心部に天守が立つという珍しいスタイルでした(環立式)。天守の建物は6重7階で、高さは約33mありました。屋根には貴重な銅瓦(+金属瓦)が用いられていました(家康時代の江戸城も銅瓦を使用)。ただしどんな外観だったかは、詳細な設計図がなく、短期間で焼失したため(1610年完成、1635年焼失)、よくわかっていません。いくつか絵図が残されていますが、異なった描き方をされています。今後の研究の進展が待たれます。

発掘された慶長期の天守台
天守台模型、駿府城東御門内にて展示
駿府城天守の模型、発掘情報館「きゃっしる」にて展示

城全体ですが、平城であっても三重の堀で囲まれ、戦いに備えていました。西側の方が標高が高く攻められやすいため、防御が厳重でした。三の丸西側には門がなく、二の丸西側の清水御門は上げ下ろしができる跳ね橋だったようです。坤櫓のような櫓も厳重に守りを固めていました。他の方角にある門も、大鉄砲等も破壊されにくい、内枡形構造となっていました。そのうちの一つ、東御門が現在復元されています。その他、城内を仕切るための仕切石垣も採用されていました。駿府城独特のものとしては、本丸堀と二の丸堀をつなぐ水路が作られ、堀の水位を保てるようになっていました。また、天守台には、全国的に珍しい井戸が設けられ、籠城にも備えていました。

駿府城模型、駿府城東御門内にて展示
復元された坤櫓
復元された東御門
二の丸水路

一方で大御所・家康がいた駿府城は、日本の政治の中心地の一つになりました。家康が生活し、政務を執ったのは本丸御殿です。本田正純などが側近として仕え、江戸の秀忠と分担して二元政治を行っていました。そのうち軍事・外交に関しては家康が取り仕切っていたため、駿府には、諸大名だけでなく、外国使節も訪れ、日本の首都機能の一翼を担うような都市になりました。1609年(慶長14年)からは、家康十男・頼宜が駿府城主になり、家康と一緒に過ごしました。1614年(慶長19年)、大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件が起こり、家康が、弁明のために駿府城に来た片桐且元には面会せず、後から来た大蔵卿には面会することで、豊臣方の分断を図ったというエピソードは有名です。家康は、大坂冬・夏の陣とも駿府城から出陣し、豊臣氏を滅ぼした翌年(1616年、元和2年)に亡くなった場所も駿府城でした。

家康の洋時計(複製)、発掘情報館「きゃっしる」にて展示
徳川頼宜肖像画、和歌山県立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

徳川頼宜は、1619年(元和5年)に和歌山に移っていきました。その後、秀忠の三男・忠長が駿府城主になりますが(1624年、寛永元年)、兄の3代将軍・家光により改易されました(1632年、寛永9年)。以降は幕府直轄になり、城代が置かれました。城外には城を警備する加番も置かれました。幕府の「聖地」を守るお役目です。1634年(寛永11年)には家光の宿泊所として使われましたが、翌年の火災で天守・御殿・櫓などが全焼、天守は再建されませんでした。その後も地震などで度々被害があり、将軍の上洛もなくなったことで、本丸御殿などの規模は縮小していきました。

加番の一つ、三加番の屋敷跡

そして幕末の動乱を迎えたとき、駿府城は再び注目を浴びました。鳥羽・伏見の戦いの後、新政府の東征軍が組織され、江戸に向かって行軍してきたのです。そのときは江戸の「最後の将軍」徳川慶喜は恭順の方針であり、名古屋城を擁する尾張藩も新政府に付いていました。最期の駿府城代・本多正納(まさもり)は城を開け渡ざるをえませんでした。1868年、慶応4年3月、新政府の拠点となった駿府に、慶喜・勝海舟の使者として山岡鉄舟がやってきました。彼は、新政府参謀の西郷隆盛と面会し、江戸開城の条件交渉を行いました。それが有名な勝・西郷会見につながったのです。江戸開城が成ると、慶喜を継いだ徳川家達(いえさと)が駿府藩主として駿府城に入城しました。家康の子孫がまた戻ってきたのです(廃藩置県後は東京に移住)。慶喜も水戸謹慎後は、駿府改め静岡に移住し、1897年(明治30年)まで暮らしました。

西郷・山岡会見の史跡碑
明治初期の徳川家達

明治時代になると、城は陸軍が管轄していましたが、建物は売却され、城内は荒れ果てていきました。三の丸の部分は市街地化しました。1889年(明治22年)になってようやく「廃城」扱いになり静岡市に払下げされましたが、その使い道は陸軍の誘致でした。1896年(明治29年)にはついに天守台が崩され、本丸堀が埋められました。二の丸以内が歩兵第34連隊の敷地になったのです。戦後は都市公園「駿府公園」として再出発しますが、堀の埋め立てや石垣の破壊が続いていました。1975年(昭和50年)から発掘調査が行われ、それから史跡として注目されるようになります。その到達点として、1996年(平成8年)東御門・巽櫓復元、2014年(平成26年)の坤櫓の復元があります。公園の名前も2012年(平成24年)に「駿府城公園」に変更されています。

駿府城の復元された巽櫓

「駿府城 その2」に続きます。

98.今帰仁城 その1

今回からまた沖縄シリーズの始まりです。最大級のグスクの一つ、今帰仁城(なきじんじょう)をご紹介します。以前、琉球王国につながる浦添城や、琉球統一を果たした尚巴志のことをご紹介しましたが、今帰仁城は、そのころ並び立っていた北山王国の本拠地だったのです。北山王国は、浦添城の中山王国や、南山王国とともに、貿易によって栄えたのですが、尚巴志によって滅ぼされてしまったために、その歴史ははっきりとはわからないのです。今回は、今帰仁城について、定説とされるもの以外にも、情報を集めましたので、その歴史ストーリーを考えてみたいと思います。

Introduction

今回からまた沖縄シリーズの始まりです。最大級のグスクの一つ、今帰仁城(なきじんじょう)をご紹介します。以前、琉球王国につながる浦添城や、琉球統一を果たした尚巴志のことをご紹介しましたが、今帰仁城は、そのころ並び立っていた北山王国の本拠地だったのです。北山王国は、浦添城の中山王国や、南山王国とともに、貿易によって栄えたのですが、尚巴志によって滅ぼされてしまったために、その歴史ははっきりとはわからないのです。今回は、今帰仁城について、定説とされるもの以外にも、情報を集めましたので、その歴史ストーリーを考えてみたいと思います。

今帰仁城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史

三山時代と北山王国

グスクが築かれる前、沖縄の多くの人たちは、漁労・狩猟・採集を中心とした生活を送っていたと考えられています。沖縄の時代区分では「貝塚時代」と呼ばれています。日本本土では、この地域から輸入した貝製品や、貝を加工した螺鈿細工が重宝されました。

螺鈿細工を使った中尊寺金色堂の柱、東北歴史博物館にて展示

11世紀ころからは、貿易の恩恵が沖縄全体に及んできました。中国との貿易もさかんになり、高価な中国製陶磁器が輸入される一方、沖縄からは夜光貝や硫黄が輸出されました。その結果「按司(あじ」)」と呼ばれるたくさんの有力領主たちが現れ、グスクを築きます。琉球王国が成立するまでの時代は「グスク時代」と呼ばれています。

14世紀になると、沖縄本島では有力な按司のもと、3つの王国が成立しました。今帰仁城を本拠地とした北山王国、浦添城の中山王国、島添大里城の南山王国です。王国の本拠地になった大型グスクの建設も、その動きに沿ったものと考えられます。

グスクの位置

浦添城跡
島添大里城跡

同じ頃、中国では明が建国されました。創立者の洪武帝は、反対勢力や倭寇を取り締まるために「海禁」政策(私的な海外貿易や海外渡航の禁止)を実行しました。また、漢民族が再建した王朝の正当性(以前の「元」は異民族国家)を示すため、日本を含む周りの国々に、宗主国(明)への朝貢を求めたのです(招撫使)。1372年には中山王国に使節が送られました。当時の王、察度は直ちにその弟を進貢使として明に派遣しています。続いて、南山王や北山王も明への朝貢を始めました。この時代はグスク時代の中でも、特に「三山時代」と呼ばれています。

洪武帝肖像画、国立故宮博物院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここから北山王国と今帰仁城を、外部の記録から追ってみます。中国の史書(「明実録」)によると、北山王は1383年から1415年の間に、19回明と交易を行っています。その間の王は、怕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の3代です。公的な場では、馬や硫黄などを献上し、冠帯衣服や貨幣などを賜っていました。きっと、他の場所でも色々なものを交易していたのでしょう。ただ、中山王国と比べると、回数はだいぶ劣りますので、それが国力の差になっていったとも考えられます。

「進貢船図」、沖縄県立博物館・美術館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

次に、琉球国最古の現存地図を見てみます。真ん中には初期の首里城の姿が描かれていて、15世紀中ごろの状況と考えられています。この頃は、北山王国はなくなっているのですが、北(上)の方に、今帰仁城が「伊麻奇時利(いまきじり)城」として載っているのです。もう一つ注目は「雲見泊」として現在の運天港も記載されていることです。運天港は那覇港と並ぶ天然の良港だったのです。

「琉球國図」、沖縄県立博物館・美術館蔵

今までのストーリーは、いかがだったでしょうか。客観的なデータのおかげで、北山王国や今帰仁城の存在と繁栄が理解いただけたと思います。ただ、グスクの名前が今と全然ちがっていて、今でも漢字とその読み方が変わっているのが気になります。「新参者の統治」という意味の「いまきじり」が、「みやきせん」→「いまきじり」→「なきじん」と変化してきたと言われます。しかし他にも、最初から「みやきせん」と呼んでいたのではないかという説や、語源についても、魚が寄り付く場所という意味の「なきずみ」であるという説もあります。名前だけでも奥が深いものです。

今帰仁城の伝説と実態

次は外部からはわからない、王国とグスクの生い立ちを、沖縄内部の情報から探りましょう。地元の言い伝えや琉球王国の史書によると、はるか昔、天帝の子孫・天孫氏が首里城を築いてから、その流れをくむ者が、今帰仁城主になったとされています。これは、神話ということなのでしょう(前北山時代)。

次に出てくるのは、浦添城のときにもご紹介した源為朝で、なんと彼は運天港に上陸したというのです。ここにも為朝伝説があるのです。そして、その子が琉球王に、孫が今帰仁城主になったそうです。13世紀くらいのことになるでしょうか(中北山時代)。そしてその後、一つの王国が3つに分かれたというストーリーです(後北山時代)。

源為朝を描いた江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

続いて、今帰仁城の発掘成果をご紹介します。これまでに中心部の主郭などが発掘され、グスクには、4つの時代区分があることがわかりました。主郭の様子を時代順にご説明します。まず第1期です(13世紀末~14世紀前期)。時期は、先ほどの伝承では2番目の終わり頃でしょうか。発掘した結果では、その頃にグスクができたことになります。館は掘立柱で、防御のための柵で囲われていて、周りも本格的石垣ではなく、石積や版築による土塁でした。使っていた土器も、地元産が多かったとのことです。

第1期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
第1期の出土土器(沖縄産)、現地説明パネルより

次が第2期です(14世紀中期)。時期は、三山時代に入った頃です。大発展した感じです。中にはグスクらしい礎石建ての正殿が建てられ、規模が大きくなって、周りに石垣も築かれました。中国産の陶磁器の使用も増えてきました。

第2期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
第2期出土の青磁環耳瓶(中国産、今帰仁村歴史文化センターにて展示

そして最盛期の第3期です(14世紀後半~15世紀前期)。北山王国が明と交易をおこなっていた時期と一致しています。規模も最大になったのですが、なによりも、出土した当時の交易品が、その繁栄を表しています。

第3期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
主郭で発掘された中国銭、今帰仁村歴史文化センターにて展示

特にびっくりするが、以下の出土品です。これら6つの中国産青磁碗は、土の中からそのまま出てきたのです。意図的に埋められていたようです。重要な祈りの儀式が行われたのかもしれません。

中国産青磁一括出土品、今帰仁村歴史文化センターにて展示

グスク全体の規模としても、このときまでに並行して拡張され、10の曲輪を持つとされる、沖縄屈指の大型グスクになったと考えられます。

今帰仁城模型、今帰仁村歴史文化センターにて展示

そして、優美な石垣も築かれたのです。本土の城と違って、当時はこの石垣の上を直接、兵士が走り回っていたそうです。塀とか櫓はなかったとのことです。

大隅(うーしみ)の石垣

王国と今帰仁城の生い立ちストーリー、いかがだったでしょうか。為朝伝説にも夢があっておもしろいのですが、発掘の成果などから考えると、やはり小さな按司が、貿易などで成長して、王国を築いたと思えます。現在のところ、この見解が定説になっています。

北山王国の滅亡

いよいよ、クライマックスです。実は北山王国滅亡のストーリーも、尚巴志の琉球統一のプロセスとともに、2つの説があるのです。定説の方からご説明します。こちらのプロセスは、琉球国史書のうち、新しい方の記載をもとにしています(「中山世譜」など)。古い史書の記載を、中国の記録などと照合し、改めているとのことです。こちらは、尚巴志が北山王国(1416年)、南山王国(1429年)の順に攻略しています。

定説での北山王・攀安知(はんあんち)は、武勇に優れていましたが、淫逆無道であったとされます。彼は、重臣の本部平原(もとぶていばら)とともに、中山王国を攻めることを計画します。北山配下の按司たちは、そのことを中山王・思昭に告げたのです。思昭の子・尚巴志が、按司たちと今帰仁城を攻めることになりました。尚巴志軍は優勢でしたが、堅固な城を攻めあぐね、計略を用います。重臣の本部平原を買収したのです。平原は、攀安知を城外で戦うように仕向け、城に火を放ちました。異変に気付いた攀安知は、平原を伝家の宝剣「千代金丸」で成敗しますが、時すでに遅し・・・。悲運を嘆き、グスクを守護する霊石を切りつけ、自害しようとしてもなぜか切れなかったので、宝剣を川に投げ捨て、別の刀で自害しました。これが定説による今帰仁落城のストーリーです。悪人は滅ぶべくして滅ぶ、みたいな筋書です。

グスクの守護岩があったといわれる御嶽・テンチジアマチジ

次は「異説」として、古い史書(「中山世鑑」)による統一プロセスをご紹介します。この説では、北山攻略をもって琉球統一(1422年)としていますが、事実としてその後も南山王国が明と交易をしています(1429年まで)。だから定説では修正されたのですが、この時期の南山は、尚巴志の傀儡だったという意見もあるのです。こちらも捨てたものではないように思います。それに城攻めの内容は、中国の史書とは関係ないのに、全然ニュアンスが違うのです。

異説では、北山王国が存在するうちに琉球統一が進んでいて、配下の按司も中山王国に服属していきました。劣勢となった攀安知は、一族郎党を集め、彼らを鼓舞し、中山と最後の決戦をすべく、城の防備を固めました(下記補足1)。それを周りの按司たちから聞いた尚巴志は、今帰仁城に大軍で攻め寄せます。しかし堅固な城は、いくら攻めてもなかなか落ちません。そこで尚巴志軍は一計を案じます。その地を知る按司が、夜裏側(グスクの南西側)から忍び寄り、グスクに火を放ったのです。それを合図に総攻撃が始まりました。最期を悟った攀安知は、尚巴志軍に突撃、ついには宝剣で切腹し、引き抜いた剣でグスクを守護するイベの岩を切り刻み、剣を川に投げました(下記補足2)。定説と比べると潔い最期と感じます。

(補足1)「今の人々の多くは心変わりして、我が方は小勢となったが、多数を恐れて一戦もせずに降参するのは、如何にも口惜しいことだ。そして、山北国をうち建てた祖先に恥をさらすことにもなる。さあ、中山の軍は攻め寄せて来るがよい。これを一蹴して手柄を見せようではないか。攻め寄せる中山軍がたとえ数万騎あろうと、これを打ち破ることは雑作もないことだ。もし命運尽きて、この戦に敗れることがあれば、そのときは潔く自害して、名を後世に残そうぞ。さあ者共、仕度をせよ。怖気づいて世の笑いものになるな」(山北王(攀安知)のことば、「訳注 中山世鑑」より)

(補足2)「さあ、イベも、そしてイベにおわす神も供に冥土に旅立ちましょう」(山北王(攀安知)のことば、「訳注 中山世鑑」より)

城の裏側(南側)を守っていた志慶真門(しじまじょう)跡

その剣はその後、中山王に献上され、現在国宝になっています。2つのストーリー、いかがだったでしょうか。もちろん定説の重みは感じますが、どちらも沖縄の伝承がもとであれば、古い方が事実を伝えているかもしれないし、異説の方が真に迫っているようにも思えます。皆さんはどうお感じでしょうか。

宝剣「千代金丸(複製)」、今帰仁村歴史文化センターにて展示

その後

北山王国を滅ぼした尚巴志は、次男の尚忠を、北山監守として今帰仁城に置きました。尚忠は、尚巴志が亡くなると、琉球国王を継いだ人物です。今帰仁城は、琉球統一後も、重要な拠点であり続けたのです。この監守制度は、王統が第二尚氏になっても続き、第二監守時代と呼ばれています。一世から十四世まで続き、「山北今帰仁城監守来歴碑記」にその由来が刻まれています。

「山北今帰仁城監守来歴碑記」今帰仁村歴史文化センターにて保管

発掘調査による時代区分だと第4期に当たります。この時代にも監守の住居と思われる建物がありました。面白いのは、この時代のものとして、ベトナム製・タイ製の陶磁器や、本土の備前焼も出土していることです。

第4期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
ベトナム製陶磁器
備前焼

ところが、第二監守五世・向克祉(しょうかくし)の時代に大事件が起こるのです。1609年、薩摩藩の島津氏による琉球侵攻があったのです。慶長14年3月7日、約3千名の薩摩軍は、80艘以上の船に乗り出航しました。7日に奄美大島に到着、まず奄美諸島を制圧します。ここは、琉球王国の支配下にありましたが、この侵攻をきっかけに薩摩藩の直轄地になりました。薩摩軍が次に向かったのが、運天港でした。3月25日のことです。そして薩摩軍が滞在した数日間のうちに、今帰仁城や城下が放火されたととれる記録があります(下記補足3)。更にその間に、北山監守の向克祉が謎の最期を遂げるのです。29日、薩摩軍は浦添、那覇方面に向かいました。今帰仁城は廃城になり、北山監守は城下、そして首里に移っていきました。

(補足3)今きじんの城は無人であるらしい。不意に掃討を開始し、方々へ放火などした。(「琉球渡海日々記」、現代語訳は「広報なきじん」より)

現在の運天港
主郭にある火神の祠

グスク跡には火神(ひのかん)の祠が建てられ、祈りの場所になりました。ようやく静かな時を迎えたと言えるでしょう。監守の石碑が建てられたのもこの時代のことです。文化財として注目されるようになったのは、戦後のことでした。1972年には国の史跡に指定され、2000年には世界文化遺産に登録されました。並行して現存する石垣の修復、失われた石垣の復元など、史跡整備も進められました。それで私たちが今、すばらしいグスクを見学できるのです。

「今帰仁城 その2」に続きます。

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