202.宇都宮城 その2

現在、宇都宮城址公園は市の中心部で、とてもよく整備された観光スポットになっています。外側から見た城の姿は、土塁にそびえる櫓がかえってユニークで、印象に残ります。

その後

戊辰戦争によりほとんどの城の建物は焼失しましたが、一部の門は残り、堀や土塁も健在でした。明治時代の初期に日本陸軍により使用された時期もありましたが、他所に移転すると、徐々に売却され、市街地となっていきました。平地にあった城なので、都市発展のためにはやむを得ないことではあったでしょう。本丸の一部は公園となりましたが、堀は埋められ、土塁もほんの一部を残し消滅しました。その他の城の現存する遺物としては、二の丸にあったと思われる石垣と、三の丸の堀内側の土塁に立っていた「旭町の大イチョウ」くらいです。このイチョウの木は、第二次世界大戦のときの宇都宮空襲で火災に遭いながら生き残り、戦災復興のシンボルとなりました。

道路となっている百間堀跡
本丸に残る土塁の名残り
二の丸にあったと思われる石垣
「旭町の大イチョウ」

1983年(昭和53年)、本丸の公園部分が初めて遺跡として登録され、1989年(平成元年)から発掘調査が始まりました。折りしも、そのとき日本各地で、城や城跡を郷土の歴史遺産として見直し、可能な限り復元をめざす動きが起こっていました。宇都宮市は、日光社参のときの将軍の宿泊所となった御成御殿が存在した、江戸中期の本丸の姿を復元することにしたのです。できる限りの用地の買収、残された絵図などの資料の研究、復元方法の検討が行われました。そして、2007年(平成19年)3月、一部復元がなされた城跡は「宇都宮城址公園」としてオープンしました。

よみがえった宇都宮城

特徴、見どころ

土塁にそびえる櫓

現在、宇都宮城址公園は市の中心部で、とてもよく整備された観光スポットになっています。公園の範囲は本丸の西側に限られるため、復元された土塁とそれを囲む堀は、半月状の形をしています。また、その上に復元された櫓も、5つあった櫓のうち、「清明台」と「富士見櫓」の2つです。それでも、外側から見た城の姿は、土塁にそびえる櫓がかえってユニークで、印象に残ります。

本丸周辺の航空写真

土塁の上にそびえる清明台(手前)と富士見櫓(奥)
宇都宮城ものしり館展示の本丸模型の、赤い線から左側が復元された部分

復元された土塁と堀

土塁は高さがオリジナルと同じ約10m、長さは復元された範囲でも約230mあります。オリジナルはもちろん土を積み重ねていましたが、復元にあたっては安全基準の観点から、内部はコンクリート構造、外観のみ土塁状としています。完全復元ではありませんが、代わりに内部は、防災備蓄品倉庫や展示室として使われています。

外観復元された土塁
土塁内側にある防災備蓄品倉庫
宇都宮城ものしり館

堀は、オリジナルは幅20m以上、深さ6〜7mでしたが、復元時は安全のため狭く浅くし、保全のためコンクリートで覆われています。堀の水は、雨水の他、地下水をポンプでくみ上げていますが、地下水の鉄分による付着物が多く、うまく溜めきれないという問題が発生しているそうです。

復元された堀
干上がっているときの堀

公園の西には通りと駐車場があり、通行のため、堀には史実にはない橋と土塁には大きな入口が開いています。公園の中心部は広場になっていますが、かつてはここに本丸御成御殿がありました。恐らくほぼ同じ位置に清明館という交流施設がありますが、ここでも宇都宮に関する歴史展示室があります。その北側には清水門、南側には伊賀門がありましたが、この3つの建物も復元する計画とのことです。

公園西側の出入口
公園内部
清明館
清水門跡
伊賀門跡

土塁と櫓に上がってみる

土塁の上や櫓にも、ビジター用の階段を登って行くことができます(エレベータもあり)。例えば北側から登った場合、まず清明台に着きます。かつて本丸にあった5つの櫓はみな二階建てでしたが、この櫓が最も高い位置にあったため、天守の代用、つまり城のシンボルとされていました。最低限の安全及び利便設備を除き、なるべくオリジナルに近づくよう木造で復元されています。通常は一階にのみ入ることができます。明り取り、見張りのための格子窓や、防御のための鉄砲狭間から外を伺うこともできます。

土塁北側の階段
清明台
清明台内部
清明台の中にある鉄砲狭間
鉄砲狭間から外を見ています

もう一つの富士見櫓との間には城漆喰を塗った土塀も復元されています。「控え柱」という土塀を支える支柱も等間隔で復元されているので、真実味が増しています。塀には、丸い鉄砲狭間と、長方形の矢狭間もしっかり開けられています。

復元さらた土塀
控え柱と壁に開けられた狭間
鉄砲狭間から外を見ています
矢狭間から外を見ています

富士見櫓は、清明台と同様に復元されていますが、角地にあるからか、清明台よりも鉄砲狭間が多いようです。両櫓とも特定日に二階も開放されるとのことですが、そのとき天候に恵まれれば、富士山が何とか見えるそうです。

富士見櫓
外側から見た富士見櫓
富士見櫓の中に並ぶ鉄砲狭間

二重の堀があった南出入口

土塁の南側から降りて、公園の南出入口に向かうと、丸い石を使った石積みがあります。これは、二の丸と三の丸をつなぐ土橋の側面にあった石積みがここで発掘され、そのレプリカを展示したものです。発掘されたオリジナルの石積みは、保存のため埋め戻されました。かつてのお城では、この間に堀を渡って二の丸に、更に堀を渡って三の丸に至っていたのです。

公園の南出入口
土橋石積みのレプリカ
江戸中期の宇都宮城古地図、赤丸内が現在の公園南出入口周辺 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

私の感想

宇都宮には他にも見どころはありますが、やはり宇都宮城がないと何かしっくり来ないと感じました。宇都宮城釣天井事件や宇都宮城の戦いなど、城や宇都宮にとって辛い歴史もあり、一旦は城なしでここまで発展きたのですが、城を再生することで、新たな魅力が加わったのではないでしょうか。時間はかかるでしょうが、新しいニュースが届いたらまた訪問したいと思います。

土塁の上からの眺め

ここに行くには

車で行く場合:東北自動車道の鹿沼ICから約20分かかります。城址公園の駐車場を利用できます。
公共交通機関を使う場合は、JR宇都宮駅の西口バスターミナル38番のりばから関東バス「市内循環線(きぶな)」に乗り、「宇都宮城址公園入口」バス停で降りてください。歩いた場合は約25分かかります。
東京からJR宇都宮駅まで:東北新幹線に乗ってください。

駐車場がすぐ向かいにあります

リンク、参考情報

宇都宮城址公園・清明館、宇都宮市公式Webサイト
・「シリーズ藩物語 宇都宮藩/坂本俊夫著」現代書館
・「宇都宮城のあゆみ」宇都宮市教育委員会
・「よみがえる日本の城15」学研
・「日本の城改訂版第88号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「宇都宮城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

201.武蔵松山城 その3

戦国時代の関東地方の3大英雄、上杉謙信・武田信玄・北条氏康が、同じ戦いで一同に会した(または会しそうになった)のは、この城でのケースだけだったのではないでしょうか。

特徴、見どころ

防御の要、三ノ曲輪

次の三ノ曲輪は幅広い曲輪で、防御の要の位置にあるように見えます。進行方向左側(南側)にはこの城には珍しい土橋を経由して馬出しが設定されています。

城周辺の地図

現地案内図に、三ノ曲輪から馬出し、腰曲輪、二ノ曲輪に向かう通路へのルートを追記(赤矢印)
三ノ曲輪
三ノ曲輪から馬出しに至る通路
馬出し

更にその先には腰曲輪があるのですが、ほぼ通路のみという細さでまるで壁のようになっています(但し曲輪の上も周りも藪に覆われていて、外観上よくわからなくなっています)。腰曲輪の端の下方には井戸があったそうです。

腰曲輪の上は藪に覆われています
腰曲輪の外側も藪です

馬出しからは細い通路も出ていて、二ノ曲輪へのバイパスになっています。いずれも、防衛用と連絡用の用途で使われたと思われます。

馬出しから二ノ曲輪に向かう通路
通路から二ノ曲輪に向かう階段

二ノ曲輪から本曲輪へ

次の二ノ曲輪とその内側の空堀は、山頂の本曲輪を囲い込むように作られています。二ノ曲輪と本曲輪との間の空堀は城では最大のもので、双方を行き来するのにかなりのアップダウンを要します。

現地案内図に、三ノ曲輪から二ノ曲輪、二ノ曲輪から本曲輪に向かうルートを追記(赤矢印)
三ノ曲輪から二ノ曲輪へ
二ノ曲輪
二ノ曲輪から本曲輪との間の空堀を見下ろしています
空堀の底

そして本曲輪に到着です。曲輪の内部にはコンクリートの基礎が残っていて、現代になって神社が建てられ、そして撤去された跡です。(現代の搦手道はその神社の参道のようです。)ここでは発掘が行われ、土塁跡、火災や再造成の痕跡が見つかりました。また、本曲輪側からは二ノ曲輪に向かって櫓台が張り出しています(この上に城址碑があるのですが、2024年2月時点では立入禁止になっています)。

本曲輪に向かって登ります
本曲輪
コンクリートの基礎は神社跡
本曲輪から張り出している櫓台
2017年時点の櫓台跡の城址碑

本曲輪からの眺めは、周りに繁茂している木々のため、それ程よくありません。中心となる曲輪だけあって、近くの根古屋道沿いには兵糧倉跡、搦手道沿いには太鼓曲輪など、籠城を想定した名前の曲輪が連なっています。

本曲輪からの眺望
本曲輪と兵糧倉跡を結ぶ土橋
兵糧倉跡
城跡の搦手口

その後

武蔵松山城が廃城となった後、城があった地域は天領(幕府の直轄領)となりました。江戸時代には、城の城下町は宿場町として繁栄します。その後は川越藩領になり、最終的に前橋藩領となったときには飛び地であることから、町中に松山陣屋が置かれました。武蔵松山城跡はそのまま放置されていたようで、私有地(耕地)となっていましたが、主要部は1926(大正14)年に県の史跡に指定されました。その一方で、周辺部の曲輪群は戦後に市街地として開発され、その一部は武蔵丘短期大学のキャンパスとなっています。史跡に指定された区域では2003(平成15)年から発掘調査が2回行われています。その結果、武蔵松山城跡は2008(平成20)年に、菅谷館(城)跡、杉山城跡、小倉城跡とともに「比企城館跡群」として国の史跡に指定されました。

松山陣屋跡
かつて曲輪の一つだった武蔵丘短期大学
城跡から発掘された遺物、吉見町埋蔵文化財センターにて展示

関連史跡、名物

・吉見百穴(よしみひゃくあな)
武蔵松山城跡に隣接する吉見百穴は、古墳時代後期の横穴墓群です。加工しやすい凝灰岩の岩山の斜面に多数の墓穴が掘られ、その数は219個に及ぶとされています。当初は緑泥片岩で作られた蓋で覆われていましたが現在では失われ、山に多くの穴が開いているのが見えて、とても奇抜です。墓に使われたと判明したのは大正時代のことで、江戸時代には不思議な穴として「百穴」と呼ばれていました。武蔵松山城が現役だった戦国時代にはどうだったのでしょうか。一説には、武田信玄が城を攻めたときに、百穴を見て城の岩山を掘る戦法を思い付いたとされています。吉見百穴は第二次世界大戦中に都市部の空襲が激しくなったとき、地下軍需工場として利用されました(その箇所は2024年4月現在立入禁止)。軍需工場建設の際は、武蔵松山城跡も工区に含まれ、近くまで入り組んでいた市野川の流路が変更されました。

吉見百穴
戦国時代にこれらの穴は見えたのでしょうか
地下軍需工場跡
左側が現在の市野川、右側の道路が元の流路

・石戸城跡
謙信が武蔵松山城救援のために着陣した石戸城の跡は、現在の北本市石戸宿(住所地)にあります。その名の通り、鎌倉街道の宿場町の北側にあり、西側を流れる荒川(当時は入間川)の河岸段丘上にありました。また、東側は沼沢地であり、現在では北本自然観察公園になっています。まさに、交通の便と防御力を兼ね備えた城だったのです。この城は15世紀中頃に太田氏によって築城され、本拠地の岩槻城と武蔵松山城の中継地点として使われました。謙信が武蔵松山城を救援するための拠点として相応しい場所です。現在は藪に覆われた曲輪が堤防上の道沿いに残っているだけですが、立地の良さを実感できます。また、東側の自然観策公園内に、北条氏がこの城を攻めたときに一晩で築いたと言われる「一夜堤」があります。自然の障壁に守られていた城であったことがわかります。

石戸城周辺の地図

石戸城跡
堤防沿いの荒川旧流路
一夜堤

・やきとり(やきとん)
東松山市の名物の一つにやきとり(やきとん)があります。「やきとり」といっても、豚のカシラ肉を串焼きにして、みそだれをつけて食べるものです。昭和30年代に、当時は高級品だった肉としては安く手に入ったカシラ肉を、うまく活用して広まったそうです。

東松山名物「やきとん」

私の感想

岩山の上の城であるにもかかわらず、とことん土造りにこだわっているところが、いかにも東国の城らしいと思いました。しかも防御のため、ほぼ空堀や切岸の築造に特化しているのが潔く、弱点(高さがあまりない)を克服し、利点(激しいアップダウンで敵を疲弊させる)にしていることに敬意さえ覚えます。しかし1点だけお願いしたいことがあるとすれば、この城の歴史をもっとPRしていただきたいことです。戦国時代の関東地方の3大英雄、上杉謙信・武田信玄・北条氏康が、同じ戦いで一同に会した(または会しそうになった)のは、私が知る限り、この城でのケースだけだったのではないでしょうか。それ以外にも、この城には多くのエピソードがあります。それらを知ってもらうことで、この城の魅力がより広まるのではないでしょうか。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏康肖像画、小田原城所蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉見百穴から見た武蔵松山城跡

ここに行くには

車で行く場合:関越自動車道東松山ICから約5kmのところです。吉見百穴の駐車場を使える他、搦手口近くに小さいですが駐車スペースがあります。
公共交通機関を使う場合は、東武東上線東松山駅から「鴻巣免許センター」行きバスに乗り、「百穴入口」または「武蔵丘短大前」バス停で降りてください。

吉見百穴駐車場
搦手口近くの駐車スペース

リンク、参考情報

比企城館跡群松山城跡、吉見町
松山城跡(比企城館跡群)、東松山市観光協会
・「松山城合戦/梅沢太久夫著」まつやま書房
・「謙信越山/乃至政彦著」ワニブックス
・「歴史群像50号、戦国の堅城 武州松山城」学研
・「企画展 越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
・「企画展 戦国の比企 境目の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
・「関東の名城を歩く 南関東編/峰岸純夫・齋藤慎一編」吉川弘文館
・「日本の城改訂版第107号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「武蔵松山城その1」に戻ります。
「武蔵松山城その2」に戻ります。

178.Noshima Castle Part3

If you have enough time to go there, it may be better to use a bike. This is because the ruins are near the cycling route on Shimanami Ocean Road.

Features

Walking around Second Enclosure

The second enclosure is elevated from the third enclosure and surrounds the main enclosure like passages. It was thought that it was used for residence and lookout point. You can walk around it and see other attractions below. For example, you will see the Funadamari beach which you saw from the boat off the beach. You can sea an artificial ditch which divides the shore and the passage on the beach.

The map around the castle

The second enclosure
The Funadamari beach, seen from the second enclosure
The artificial ditch at the beach

You will also see the enclosure on the northeastern cape, called Yabitsu (directly means “arrow chest”). it was said that the navy soldiers practiced shooting arrows towards Ushima Island from across the sea.

The Yabitsu Enclosure
The Yabitsu Enclosure, seen from the Kareiyama Mountain

Main Enclosure, Enjoyable place both Now and in Past

You will finally arrive at the main enclosure on the top, where you can see an amazing 360degree view! The past soldiers also must have been able to monitor everything that happened in the strait. According to the excavations, there were lookout towers and lots of earthenware dishes called Kawarake. Kawarake dishes were disposable ones which were used for parties or ceremonies. That meant the navy members enjoyed their parties on the top with such beautiful scenery.

Going up to the main enclosure on the right
The top on the main enclosure
The view from the north side of the enclosure (the Seto Inland Sea)
The view from the east side of the enclosure (the Ushima Island)
The view from the south side of the enclosure (the Taizaki Island)
The view from the west side of the enclosure (the Oshima Island)
The main enclosure, seen from the Kareiyama Mountain

In addition, the island has mysterious large holes (about 1m in diameter and 2m in depth) at its seaside. Historians speculate they might have been water tanks. However, my guide said it was interesting if they were used as baths.

The replica of the large hole, exhibited by Murakami KAIZOKU Museum

Later History

The island was used as fields during the Edo Period after the navies withdrew, but it eventually became deserted as mentioned above. In 1931, the officials started to plant cherry trees on the island. Since then, it became a popular spot for cherry blossoms where other boat tours for the locals were held every spring. However, the trees were all cut down recently because their roots had destroyed the castle ruins. Only their remaining stumps are now used as benches there. On the other hand, the ruins have been designated as a National Historic Site since 1953. In addition, they have been getting popular more and more throughout the country as a castle of the Murakami Navies.

Some of the remaining stumps

My Impression

I had a special experience by visiting Noshima Castle Ruins because I have not visited any castles by boats. The boat tour made me understand how the castle was used and protected carefully. The experience also taught me that there were people who lived in very different ways from others through the history of Japan. Maybe there are also similar people even in the present time. Someday, I hope there will be regularly scheduled ships that tourists can use to visit the castle ruins, if it gets more and more popular.

Murakami KAIZOKU Museum is another attraction before or after visiting the castle ruins

How to get There

Basically, I recommend using a car to get there. For people from the mainland, it takes about 5 minutes from Kita-Oshima IC on the Nishi-Seto Expressway. For people from Shikoku Island, it takes about 15 minutes from Minami-Oshima IC on the Nishi-Seto Expressway. The parking lots at the Miyakubo fishing port or the Murakami KAIZOKU Museum are available.

If you have enough time to go there, it may be better to use a bike. This is because the ruins are near the cycling route on Shimanami Ocean Road. For example, if you are in Imabari City on Shikoku Island, you can rent a bike at Imabari Station and ride it on the road right away.

The cycling route on the Imabari city area

Go across Kurushima Kaikyo Bridges over the Kurushima Strait and go further on the Oshima Island for a while.

The Kurushima Kaikyo Bridges over the Kurushima Strait
The top on the bridge
The cycling route on the Oshima Island

The port is located at the northern edge of the island, which is about 22km from the station.

Arriving at the site by the bicycle

That’s all. Thank you.
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