78.丸亀城 歴史編

丸亀城といえば、丸ごと石垣に覆われた山の上に、現存12天守の一つが乗っているといったイメージがあると思います。実際、標高66mの亀山に、4段の石垣があわせて約60mの高さに積まれています。「高さ日本一の石垣」「石垣の名城」と称されています。

イントロダクション

丸亀城といえば、丸ごと石垣に覆われた山の上に、現存12天守の一つが乗っているといったイメージがあると思います。実際、標高66mの亀山に、4段の石垣があわせて約60mの高さに積まれています。「高さ日本一の石垣」「石垣の名城」と称されています。(段落全体下記①を参考、以下番号のみ記載)

丸亀城の高石垣と天守

最初にこの城を本格的に築いたのは、豊臣大名の生駒氏ですが、その当時の痕跡はほとんど残っていないのです。現在目にする高石垣は、生駒氏の後に城主になった山崎家治が築き始めたものです。山崎家治は、大大名ではなく、全国的にはあまり知られていませんが、統治能力に優れ、「築城の名手」でもあったのです。そんな隠れた功労者の足跡を追ってみる必要がありそうです。

その後、京極氏が丸亀藩を受け継ぎ、城を完成させます。そして、現代まで高石垣と天守などは残されました。2018年、豪雨・台風の影響により、南西側の三の丸・帯曲輪の石垣が大規模に崩落しました。そのこと自体は大変痛ましいことで、」現在(2026年10月)も復旧に向けて工事が進められています。しかしその中で、高石垣に関する新たな事実も判明したのです。今回は、丸亀城の歴史とともに、高石垣の「ひみつ」についても迫ってみたいと思います。

石垣復旧工事現場

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(丸亀城、日本一の石垣のひみつ)

生駒氏による丸亀築城

丸亀城がある讃岐平野(丸亀平野)は、ほとんど起伏がない平野ですが、ところどころ孤立した山地や丘陵地があります。これらは「おむすび山」と呼ばれ、太古の火山活動と浸食により形作られました。「讃岐富士」と呼ばれる飯野山(いいのやま、標高422m)がその代表です。城が築かれた亀山も同じようなプロセスでできたと考えられますが、標高はずっと低かったので、かえって築城の適地とされたのかもしれません、(②③)

城周辺の起伏地図

丸岡城から見える「讃岐富士」こと飯野山

丸亀城の前身は、室町・戦国期に細川氏の家臣・奈良氏が支城として築いたと言われています。。しかし本格的な築城は、1587年(天正15年)に生駒親正が讃岐国の大名になってからです。1597年(慶長2年)から5年かけて、親正とその子・一正が築いたのが丸亀城です。親正は本城・高松城、一正が支城・丸亀城に入りました。1602年(慶長7年)に一正が跡を継いで高松城に移りました。丸亀城には子の正俊が入ったと考えられます(一時城代が置かれた)。1610年(慶長15年)に正俊が跡を継ぎ、高松城に移りますが、その代に丸亀から商人を移して、高松の「丸亀町(まるがめまち)」を作ったとされています。(段落全体②④)

城の位置

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
生駒一正肖像画、龍源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

生駒時代の丸亀城については、絵図が残されています(「諸国居城図 讃州丸亀」、丸亀市立資料館展示)。それによると、山上には4段の曲輪があり、天守は現在の本丸北端ではなく、真ん中の方にありました。また、現在はないものとして、山上と麓をつなぐ2つの登り石垣が設けられています。これは、生駒氏が参陣した朝鮮侵攻のときに現地で築かれた倭城の縄張りから取り入れたのかもしれません。(②④⑤)

「諸国居城図 讃州丸亀」(上が北側)、丸亀市立資料館展示

残念ながら生駒期の遺構はほとんど残っていません。本丸で見つかった埋没石垣のほか、東南山麓に残っている野面積みの古風な石垣は、元は生駒時代に築かれたと考えられるものの、多く(基底部分以外)は江戸時代以降に積み直されたものとのことです。(②④)

東南山麓の野面積み石垣

生駒氏3代目の正俊は大坂の陣に出陣しますが、豊臣氏滅亡後の一国一城令により、丸亀城は一旦廃城になったと考えられます。1627年(寛永4年)の幕府隠密の記録(「讃岐伊予土佐阿波探索書」)に丸亀城の記述はなく、1633年(寛永10年)頃の讃岐国絵図に丸亀城は描かれていません。(以上②④⑤⑮)やがて4代目の高俊のとき、藩内での内部対立「生駒騒動」が起こり、生駒氏は改易となってしまいました(1640年、寛永17年)。丸亀城は廃城になったまま、次の主を迎えることになります。

隠れた「築城の名手」山崎家治

山崎氏は近江出身で、家治の祖父(片家)の代に豊臣秀吉によって大名に取り立てられました。父の家盛は因幡国若桜藩主になり、家治はその2代目でした。父を継いだ直後の大坂の陣で戦功を上げ、備中国成羽(なりわ)藩に加増転封になりました(1617年、元和3年、3→3.5万石)。そこから彼は幕府に忠勤を尽し、大いに評価されることになるのです(下記)。藩内においても新田開発を進めました。
・1619年:備後三原城城番(福島氏改易時)
・1620~27年:大坂城石垣修築(現在も天守入口右下石垣に刻印あり、⑮)
・1634年:伊予松山城城番(蒲生氏改易時)
・1636年:江戸城外堀石垣普請
そのとき築かれた江戸城外堀の石垣は、小石川後楽園に移設されていて、山崎家の刻印とともに見学することができます。
(段落全体⑥⑯)

小石川後楽園西側築地塀
山崎家の刻印

島原の乱後には、幕府から天草地方の復興を託され、肥後富岡藩に転封になりました(1638年、寛永15年、4.2万石)。実際、領地はかなり荒廃していました(総高の4分の1近く、そのため幕府が補償として銀三百貫目を家治に与えている)。家治は富岡城の再建、城下町の整備(海の埋立、町割り)を行いました。しかし、農民の逃亡や流行病が発生、奉公人も集まらず、かなり苦労したようです。(段落全体⑰)

富岡城(photoACより)

1641年(寛永18年)家治は、西讃岐5万3千石の領主になりました(丸亀藩)。当時そこには城はなかったので、丸亀城を再興することにしました。幕府は家治に対し、銀300貫を提供し、参勤交代も免除、城の構造は幕府の指図に従うよう指示しました。(下記補足1、以上②④⑦)こうして現在までに残る「石垣の名城」の建設が始まったのです。この時期の大規模な築城は異例で、山崎氏は財力のある大大名でもなく、幕府のバックアップによるものでした(⑧)。また、石垣を築いたのは、羽坂重三郎と伝えられています(⑮)。このような築城の狙いとしては、瀬戸内海の交通の監視のほか、島原の乱後のキリシタン蜂起に備えるものであったとも言われます(⑨)。家治は城下町の拡大、新田開発も進めました(⑮)。

(補足1)
猶以差上候木形絵図之外
城普請無用候 以上

丸亀城取立候ニ付而(丸亀城取立候について、)
銀三百貫目被下之候(銀三百貫目これを下され候、) 
則大坂御金奉行衆江(すなわち大坂御金奉行衆え、)
添状相調越候間可被(添状相調え越候間受け取らるべく候、)
請取候然者差当普請(然れば差し当たり普請の外は、)
之外者以連々可申付之旨(連々以て申しつくべきの旨)
被仰出候因茲当年(仰せいだされ候、因って当年)
参勤之儀被成御赦置候間(参勤の儀は御赦し置きなされ候間、)
可被得其意候 恐々謹言(其意を得られ可く候、恐々謹言)
 二月六日
     阿部對馬守 重次(花押)
     阿部豊後守 忠秋(花押)
     松平伊豆守 信綱(花押)
山崎甲斐守殿
(寛永20年2月6日 幕府老中連署状、山崎家文書)

山崎家治宛て幕府老中連署状、丸亀市立資料館にて展示

藩が1645年(正保2年)に幕府に提出した絵図(「正保城絵図」)によると、既に現在の縄張と似たものになっています。天守は本丸北側にあり、これが現存する天守につながると考えられます。違っている所としては、登り石垣がまだあります(一例)。(以上④⑦)それからこの時点では工事はまだまだ進行中で、例えば、三の丸南西の坤櫓の石垣は描かれていません。

「讃岐国丸亀絵図」(「正保城絵図」、上が北側)、出展:国立公文書館
上記絵図の三の丸南西、坤櫓部分

その石垣は、その4年後(1649年、慶安2年)に家治の跡継ぎ・山崎俊家に対して修築許可が出ているので、その間に築いたものが破損していたことがわかります(下記補足2)。1657年(明暦3年)頃の山崎時代の丸亀城郭図を見ると、その櫓と石垣は完成しています。(以上⑤➉)

(補足2)
 以上
圓亀之城三丸坤之(丸亀の城の三の丸坤の)
角石垣破損付而(角の石垣破損について、)
同所之櫓毀之石垣(同所の櫓の壊れた石垣の)
築直之櫓立之事(築き直し、櫓立てること、)
幷親父甲斐守代(並びに親甲斐守家治が)
伺 上意候普請之(上意を伺ってあった)
所々之内石垣櫓門(所々の普請の内、石垣・櫓門)
多門山下之屋敷(・多門・山下の屋敷構えの)
構之石垣等同東南(石垣等、同じく東南の)
之方堀浚之事(堀浚えの事、)
絵図之通得其意候(絵図のとおり其意を得候、)
最前被守奉書之(もっとも前の奉書の趣を守られ、)
旨普請以連々(普請連々以て)
可被申付候恐々(申し付けられ可く候、)
謹言

慶安二丑
正月廿三日
  阿部豊後守 忠秋(花押)
  阿部對馬守 重次(花押)
  松平伊豆守 信綱(花押)
山崎志摩守殿
(慶安2年正月23日 幕府老中連署状、山崎家文書)

山崎俊家宛て幕府老中連署状、丸亀市立資料館にて展示
山崎時代の丸亀城郭図(上が北側)、丸亀市立資料館展示
上記絵図の三の丸南西、坤櫓部分

その間、初代の家治(1648年、慶安元年)2代目の俊家(1651年、慶安5年)が亡くなり、その後を3歳で継いだ治頼まで8歳で亡くなっていました(1657年、明暦3年)。築城工事はずっと続いていたものの、城主の山崎氏が世継ぎがないことで改易になってしまったのです。(段落全体⑦)

京極氏による城の完成

1658年(万治元年)、播磨国龍野から京極高和が6万(余)石で丸亀に入りました。高和は幕府の許可を得て改修を続け(補足3)、1660年(万治3年)に天守を完成させたとされています。天守は現在は単独で立っていますが、当時は渡櫓によって他の櫓(姫櫓など)と連結されていました。(段落全体②⑤)

(補足3)
円亀城、此の以前、山崎甲斐守木形絵図を以て、先御代(家光)の上意を得、普請申し付け候処、山上の櫓六か所、山下の櫓四か所は、櫓台の石垣これを築き、櫓建の事、山上東の方の石垣、山下居屋敷廻りの石垣、同三か所の虎口石垣築の事、其外多門塀立の事、未首尾につき普請これ有り度きの由承り届け候、次に、山下の塀艮より坤迄の間埋候、同惣構の堀北方の外三方埋候に付て、浚えの事、絵図書付の通り、其意を得候、連々以て普請申し付らる可く候、恐々謹言
 万治三子三月二十六日
  稲葉美濃守 (花押)
  阿部豊後守 (花押)
  松平伊豆守 (花押)
  酒井雅樂頭 (花押)
京極刑部少輔殿
(慶安3年3月26日 幕府老中連署状、丸亀市立資料館蔵)

京極高知肖像画、丸亀市立資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現存天守
天守模型(右側は姫櫓)、中津万象園にて展示

2代目の高豊のときの1670年(寛文10年)城の大手を北に定め、門や枡形を整備しました。この大手門は現存しています。この時代に城と城下町がほぼ完成しました。城は、最高所に本丸、東に一段下がったところに二の丸があり、石垣上の建物が連結していました。更に三の丸・帯曲輪が取り巻き、それらを支える石垣は3~4段に巡っていました。京極氏の統治は幕末まで7代続きます。(段落全体②⑤)

大手門
丸亀城木図写真、丸亀市立資料館にて展示

藩主の居館は京極氏時代に山麓に建てられましたが(⑮)、高豊は1688年(貞享4年)藩主別邸と庭園を造りました。これが「中津万象園」です。京極氏の出身地である近江の琵琶湖をかたどった池があり、近江八景になぞらえた8つの島を配置しています。1500本以上の老松も見事です。(以上⑦)

中津万象園

城下町は生駒・山崎・京極時代を通じて拡張しました。江戸中期から流行した金毘羅信仰により、丸亀は金刀比羅宮に向かう参詣客の寄港地として大変賑わいました。参詣客の増加に伴い港も整備されました。新しい船着き場として、1806年(文化3年)に福島湛甫が、1833年(天保4年)に新堀湛甫(しんぼりたんぽ)が構築されました。このうち新堀湛甫は現在も港として使われていて、照明・目印のために建てられた3基の青銅製燈籠のうち1基が残っています(2基は戦中に回収)。(以上⑦⑮)

金毘羅講燈籠

1859年、安政6年9月、長岡藩士の河井継之助は、金刀比羅宮へ向かう途中、丸亀に立ち寄り、その様子を記しています。(下記補足4)

(補足4)少し寝ると思いしに、はや丸亀へ着く。暁七ツ前の由。晴故に、月星照りかがやきて、風景妙なり。十里の海上、早きには感心のものなり。丸亀の船宿へ入りけれども、出来合い飯もなき様子故、支度を直して直ちに出懸ける。
廿日 晴 早き故、月はあれども、しかと湊の様子も分からず、城を左にして金毘羅さして行ける、丸亀は高の割より、城市共に宜敷様に思わる。此の辺は相応に土地も開け、左に讃岐富士、小さき山なれども形は好、先に見る江州のぬかで山に能く似たる山なり。其の外、形の好き小山数々あり。砂糖の草、往来に植えけるを見るに、黍に似たりと聞けれども、すすきの穂なきものの様なり。莖を取りて拵える由。(中略)金毘羅の手前五六町此の方にて、日漸く出。新たに見る所故か、風景面白く覚ゆ。さすがの街道、路幅も広く、所々に堂ありて、茶をわかす処あり、其の前に必ず石籠あり。(河井継之助旅日記「塵壺」、現地河井継之助顕彰碑より)

新堀湛甫にある河井継之助顕彰碑
丸亀市内の金毘羅街道沿いに残る石燈籠

その後(明らかになった高石垣の真実)

明治維新後、城は陸軍の管轄となり(1872年、明治6年~)、建物は取り壊されていきました。それでも、天守・大手門などが地元の要望により残されました。1919年(大正8年)には山上部が亀山公園となり公開されました。戦後は、公園整備が進み、天守・大手門が国の重要文化財に、内堀以内が国の史跡に指定されています。(段落全体②⑤⑧)

2018年(平成30年)7月から10月にかけて、大雨や台風の影響により、丸亀城南西部の帯曲輪・三の丸石垣が崩落しました。それまでも変形が激しく、解体修理を行うことになっていた箇所でした。もともと谷地形であり、築城当初から雨水が集まりやすい場所で、クラック(亀裂)が発生していました。豪雨により水圧が上がり、帯曲輪がまず崩落、押さえを失った三の丸も崩落したのです。(②⑪)

崩落前の写真、現地説明パネルより
崩落後の写真、現地説明パネルより

丸亀市は更なる崩落を防ぐため、応急対策工事(押え盛土、斜面安定、石垣撤去、表面排水)を行い、グランドアンカーなどで斜面を固定させながら、1万2千個近く(11,746個)の石垣の石を回収しました(解体含む、以上⑪)。これらはそのまま使える石、別の場所に使う「転用石材」に分類され、「新石材」とともに石垣復旧工事に使われます。(以上⑫)

解体回収された隅石
出番を待つ新石材

その工事のための準備・調査の中で見つかったのが埋没石垣です。その一部(「埋没石垣1」)は、山崎氏時代に一旦築いた後に崩れた石垣である可能性が高いとのことです。また、石垣を安定させる「栗端止(ぐりはと)」「敷金(しきがね)」「胴木(どうぎ)」といった仕組みや部材が使われていることがわかりました。(以上⑤➉)胴木は通常湿潤な環境で使われるので、当時から水が集まる場所と認識されていたと考えられます。江戸時代から苦労していたのでしょう。

埋没石垣1

そして何よりも大きな発見は、帯曲輪石垣の内側にある三の丸坤櫓跡の石垣の高さがわかったことです。それまで、三の丸の石垣は帯曲輪石垣の天辺辺りから立ち上がり、17mくらいの高さだと想定されていました。それが今回、石垣取外しの結果、31mもの高さと判明したのです。これは単独の石垣としては、日本で2番目の高さになります。(下記補足4、以上⑬)丸亀城を再興した山崎家治は、1位の大坂城の石垣工事にも参加しています。また「築城の名手」として家治より有名な藤堂高虎は、3位の伊賀上野城を築き、大坂城では縄張り・石垣工事に関わっています。両者とも「築城の名手」というにふさわしいのではないでしょうか。

(補足4)近世城郭の単独石垣高ランキング
・1位:徳川大坂城本丸東側 32m
・2位:丸亀城三の丸坤櫓台 31m
・3位:伊賀上野城本丸東側 30m

三の丸坤櫓石垣の高さがわかる展示、丸亀城石垣崩落復旧整備事業PR館にて展示

これまで全国で実施された石垣修理工事では、30mを超える石垣を修復した実績はなく、未知の経験を含む復旧工事になります(⑬)。2026年(令和8年)現在、三の丸石垣の基礎工事が行われ、年度中に帯曲輪・三の丸石垣の途中(標高それぞれ22m、26m)まで積み上げる予定です。(⑭)復旧工事の完了は2030年度末(2031年3月)とのことです。(①)

復旧工事現場

リンク、参考情報

① 丸亀城、丸亀市公式ホームページ
②「史跡丸亀城跡保存活用計画」令和3年3月 丸亀市
③ おむすび山の秘密、ビジネス香川
④「四国の名城を歩く 徳島・香川編」吉川弘文館
⑤ 丸亀市立資料館展示
⑥ Wikipedia
⑦「いにしえのときを刻む丸亀城」丸亀市観光協会
⑧ 丸亀城石垣崩落復旧整備事業PR館での説明
⑨「幕府に遠慮しながらも大きく見せたい「丸亀城」天守の涙ぐましさ──世界とつながっている日本の城 第12回」 
➉「丸亀城管理室だより(No.5・11・13)」丸亀城文化財保存活用課
⑪「丸亀城管理室だより(No.12・17・19)」丸亀城文化財保存活用課
⑫ 丸亀城石垣復旧工事パンフレット
⑬「丸亀城管理室だより(No.15)」丸亀城文化財保存活用課
⑭「丸亀城管理室だより(No.24)」丸亀城文化財保存活用課
⑮「新編 丸亀市史」
⑯「成羽町史」
⑰「苓北町史」

「丸亀城 現地編」に続きます。

58.明石城 歴史編

明石城は江戸時代、交通の要所・明石海峡近くに築かれた城です。同じ播磨国にあった姫路城と比べると目立たないかもしれません。しかし実は、現在残っている三重櫓2基は、全国に残っている三重櫓12基のうちの2つなのです。また、城や城下町の建設には、あの播磨国出身とされる宮本武蔵が関わったというのです。これらの地域や人物が、どのように明石城に結びついていったのか、歴史を追ってみましょう。

イントロダクション

兵庫県の明石といえば、本州と淡路島の間にある明石海峡、そこにかかる明石海峡大橋、そして海峡でとれる明石鯛、明石ダコ、タコを使った明石焼などが連想されるでしょう。海峡付近は、陸側でも六甲山地が海岸に迫っているので、海・陸ともに往来が集中する東西交通の要衝地域でした(下記参考資料①、以下番号のみ記載)。明石城は江戸時代、その地域に築かれた城です。同じ播磨国にあった姫路城と比べると目立たないかもしれません。しかし実は、現在残っている三重櫓2基は、全国に残っている三重櫓12基のうちの2つなのです。築城を行ったのは信濃国出身の大名・小笠原忠真(おがさわらただざね)なのですが、その築城の経緯も興味深く、その建物の多くは、伏見城や、かつて明石にあった船上(ふなげ)城などからの移築と言われています。また、城や城下町の建設には、あの播磨国出身とされる宮本武蔵が関わったというのです。これらの人物や以前の城が、どのように明石城に結びついていったのか、歴史を追ってみましょう。

明石海峡と明石海峡大橋
現存する坤櫓(左)と巽櫓(右)

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立地と歴史

明石城前史

ときは1582年(天正10年)、本能寺の変が起こり、豊臣(羽柴)秀吉が天下統一を進めていく頃に遡ります。秀吉は1585年(天正13年)、高山右近に明石の地を与え(下記補足1)、その際に船上城が築城されたと考えられています。その前後には、秀吉が四国攻めや九州攻めのために、明石で船を動員していたと思われる記録があります。船上城はその港湾(明石川岸)に隣接して築かれたようです。この城は、大阪湾防衛及び全国統一のための水軍拠点だったと考えられます。また、南蛮貿易のための窓口としても期待されていたのでしょう。高山右近はキリシタン大名として有名で、宣教師を常駐させ、キリスト教を広めていました。しかし、彼は1587年(天正15年)の「バテレン追放令」をきっかけに領地を没収され、追放されてしまいました。(段落全体②)

(補足1)一、今朝早々より、秀吉和州へ御越也、此中、国わけ、国がへ以下有之、和州筒井伊賀国へ被遣、和州へ美濃守殿被遣之、高山右近播州明石へ、(以下略)(「顕如上人貝塚御座所日記」)

城の位置

その後、船上城は豊臣氏の直轄となり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後は、播磨国を治めた池田氏の支城になり、1615年(元和元年)の「一国一城令」により城から屋敷扱いになりました。本丸には天守や多聞塀があったという記録があります(下記補足2)。(以上②)現在城跡と思われる範囲は、ほとんどが住宅地となり、本丸の一部だったとされる農地を、となりの船上西公園から見学できるのみです。周辺での発掘調査により堀跡や遺物が発見されています(②)。

(補足2)城構多門塀を掛け小き殿主も有之候(「小笠原忠真一代覚書乾」)

船上城の想像地図(現地説明パネルより)
船上西公園から見える船上城本丸の一部

小笠原忠真の家系は、戦国時代まで信濃守護を務めた名門です。曾祖父の小笠原長時が武田信玄に信濃を追われ、その子・貞慶とともに各地を流浪したのです。武田が滅び、本能寺の変が起こると、貞慶は信濃に戻り、旧領(深志、のちの松本)を回復したのです。その後紆余曲折がありますが、小笠原氏は徳川家康に仕え、関ヶ原後は、貞慶の子で忠真の父・秀政が松本8万石の大名になっていました(1613年~)。秀政の妻は家康の孫(松平信康の娘)でした。(段落全体③)

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、忠真(当時は忠政)は、父・秀政と兄・忠修(ただなが)ともに幕府方として出陣しました。5月6日の若江の戦いにおいて、小笠原隊に大坂方の木村重成隊が近づいたため、戦おうとしましたが、となりの榊原康勝隊の軍監・藤田信吉が、伏兵が控えていると思い、止めたのです。それが結果的に戦機を逃したことになり、秀政は徳川秀忠から叱責を受けました。翌7日の天王寺口の戦いでは、小笠原隊は名誉挽回のため遮二無二戦うことになり、秀政と忠修が戦没、忠真も重傷を負うことになってしまったのです。(以上「西方城 その1」より)

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一人の主役である宮本武蔵は、謎と脚色に満ちた人物ですが、本人が書いたとされる「五輪書(ごりんのしょ)」によれば、1584年(天正12年)に播磨国で生まれました(下記補足3)。有名な「吉岡一門との決闘」「巌流島の決闘」などの武者修業は、13歳から28、9歳の頃(1596年~1612年)と言っています(下記補足4)。

(補足3)「兵法之道二天一流と号し、数年鍛錬之事、始て書物に顕さむと思、時寛永二捨年(1643年)十月上旬の比、九州肥後之地岩戸山に上り、天を拝し、仏前に向、生国幡磨(播磨)之武士新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六拾。」(「五輪書」序文)

(補足4)「われ若年之昔より兵法之道に心を懸け、十三歳にして始て勝負をす。・・・其ほど十三より二十八九迄の事也。(「五輪書、地の巻」)

宮本武蔵肖像画、島田美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

修業時代が終わった後、大坂夏の陣では、幕府方の水野勝成勢のうち、勝成嫡男の勝俊付きの騎馬武者として出陣しました。そのとき、名のある武将を討ち取ることはなかったが、大木刀を持って雑兵をなぎ伏せたという記録があります(下記補足5)。5月6日の道明寺の戦いで、武蔵は、水野軍が本多忠政を救援するのに貢献したとみられていて、それが戦後の縁につながります。(段落全体④)

(補足5)「宮本武蔵は兵法の名人なり。・・・大坂の時、水野日向守が手に付、三間程のしないの差物に釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者と書ける。よき覚ハなし。何方にて有けん橋の上にて、大木刀を持、雑人を橋の左右へなぎ伏ける様子見事なりし、と人々誉ける。」(「黄耇雑録」)

水野勝成肖像画、賢忠寺蔵  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

明石城築城

大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした幕府は、戦後、更に西国の外様大名に備えるため、領地替えを行いました(1617年、元和3年)。播磨国は丸ごと池田氏が治めていましたが、当主(光政)が幼いといういう理由で鳥取に移されました。その代わりとして、姫路には、徳川四天王の一人・本多忠勝の子・本多忠政を持ってきました(桑名10万石→15万石)。そして、姫路の後衛となる明石に、生き残った小笠原忠真を松本から移したのです(松本藩8万石→明石藩10万石)。命をかけた働きが、将軍・徳川秀忠に認められたのです。(以上②)更にその2年後(1619年)には、安芸・備後の外様の大大名・福島正則が改易になり、そのうちの備後国福山に水野勝成が入っています。(以上「福山城 その1」より)

本多忠政肖像画  (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

小笠原忠真は、当初船上城に入城しました。しかしこの城は低地にあったため、西方からの攻撃に対する防衛には不利でした。また「一国一城令」により建物の多くは取り壊されていました。将軍・秀忠は1618年(元和4年)、忠真に対して新城の築城を命じます。同時に忠真の妻の父であった姫路城主・本多忠政の指導を仰ぐことになり、共同で新城の候補地を探すことになりました。候補地としては「人丸山」「和坂」「塩屋」の3か所がありましたが、最終的には「人丸山」に決定しました。そして城の縄張り(設計)の共同で行い、将軍・秀忠の許可を得たのです。(段落全体②⑤⑥⑦)

城周辺の起伏地図

宮本武蔵はどうしていたかというと、同じ頃(1617~8年)、水野勝成の家臣、中山志摩之助の息子・三木之助を養子として、本多忠政の跡継ぎ・忠刻(ただとき)に仕えさせていました。大坂の陣がきっかけだったと見られます。また、少し後になりますが(1626年頃)、武蔵の養子としてはこちらの方が有名な、宮本伊織が小笠原忠真の近習になり(15歳)、その5年後には20歳で家老に出世しています。(以上④)武蔵は、本多忠刻の剣術指南役で姫路にいたが、明石城築城を機に、明石藩の客分として迎えられたと考えられます(⑦⑧)。

築城は、幕府主導で急ピッチで進められました。幕府は費用援助(銀千貫目)とともに3人の奉行人を派遣し、主に城の基礎部分を担当しました(「本丸・二の丸・三の丸の石垣・土居・塀の普請」)。小笠原は主に建物部分を担当しました(「矢倉・門・塀・家造りの普請」)。石垣工事が1619年、元和5年1月に始まり、その年のうちに一旦完成し、翌年忠真が移ってきました。廃城になった城の建物をリサイクルしたことも早期完成につながりました。但し周辺部分(侍町の惣堀・土居、三の丸の一部の石垣)は7、8年かかったそうです。なお、本丸には天守台が築かれ、熊本城クラスの五重天守が立つ規模です。中津城の天守を移す計画があったそうですが、ついに天守は実現しませんでした。。(段落全体②⑤⑥⑦⑨)

天守台石垣

宮本武蔵は何を担当したかと言うと、まず城下町の町割りを行ったとされています。城下町は東西約2.3kmで、山陽道を取り込みました。外堀によって武家屋敷と町人地が明確に区分され、近世的な城下町となりました。また、藩主・忠真のために城内に庭園を造りました(御樹木屋敷の庭園)。名石・名木を各地から集め、築山・茶屋・御座敷・滝・鞠場(蹴鞠をする場)を1年余りかけて完成させました。城跡である現在の明石公園には、武蔵が作った庭の一部が再現されています。(以上⑧)更に、二の丸に上がる階段は、かなり広くピッチが大きいように見えますが、これは武蔵がこの階段を、馬の歩幅に合わせるよう提案したためと言われています(➉)。これだと人間の敵が攻めてくるときにはかえって登りにくいということでしょうか。

明石城ジオラマ、手前が城下町(明石市立文化博物館にて展示)
再現「武蔵の庭園」
二の丸への石段

近世に造られた新城

明石城は近世になって新たに作られた城なので、自然の地形を生かしつつ、完成された築城術を見ることができます。台地の突出部には西から、高石垣で囲まれた西の丸(後の「稲荷郭」)、本丸、二の丸、三の丸(築城当時)が整然と並べられ、土橋や門で仕切られていました。台地南下の低地(築城当時は「大曲輪」と呼ばれた)には藩主の下屋敷が配置され、東西と南側を内堀が囲み、その三方に枡形をもった門がありました。城の北側は、自然地形の谷と「剛ノ池」によって守られていました。敵が攻めてきたときにはこの池の堰を切って、周囲を水浸しにする作戦も考えられていたといいます。(段落全体⑨⑪⑫)

明石城ジオラマの城部分(明石市立文化博物館にて展示)

本丸には御殿があり、天守はないものの、四隅に方角を表す名前の三重櫓が建てられました。このうち、坤櫓は伏見城の櫓を、巽櫓は船上城の櫓を移したものと伝えられています(下記補足6)。特に坤櫓は一番大きく、天守台に近く、二重目には豪華な二重破風があることなどから、実質的に天守の役割を果たしたと見られます。4つの櫓は天守台がある西側を除いて多聞櫓で連結されていました。(段落全体②⑤⑥⑦➉)

(補足6)「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」(「小笠原忠真年譜」)

坤櫓(南側)
坤櫓(南側)、2重目が二重破風になっています

ところが1631年(寛永8年)本丸下の台所から出火し、本丸御殿が焼失しました。以後御殿は再建されず、本丸下に藩主の居館として「居屋敷(いやしき)」を建て、内堀で囲みました。その周辺が「三の丸」となり、従来の内堀は「中堀」と呼ばれるようになります。(従来の三の丸は「東の丸」、以上②⑤)このとき櫓群も被災しました。現在残る坤櫓・巽櫓はこのときに再建されたものです。櫓の間は土塀で連結され、現在見られる姿になりました(土塀の大半は現代の復元)。(以上⑥)ただし坤櫓は現在でも移築の痕跡が見られることから(⑦)、元の部材を活用したのかもしれません。

土塀で連結された坤櫓(左)と巽櫓(右)

時期ははっきりしませんが、城の北側にも剛ノ池から水が引かれた桜堀などが設けられ、更にその北側には北の丸も築かれ、防御を固めました。最終的には三重櫓4基、二重櫓6基、平櫓10基を擁する城になりました。(以上⑤)1691年に長崎出島から江戸に向かったドイツ人の医者・博物学者のケンペルは、明石城の美しい姿を記録しています(②、下記参考7)。現在私たちが見ることができる城跡の姿とそう変わらなかったのかもしれません。

(補足7)明石の後に美しき城あり。その内部も周囲も、高き樹に籠めたれば、白亜の壁にある其の二面だけ輝きて見え、四つの城壁には中央及び両端に四方形なる高き三重の矢倉を飾としたり。(「江戸参府紀行」)

播磨国明石城絵図(出典:国立公文書館)

その後

火災があった直後の1632年(寛永9年)、小笠原忠真は、豊前国小倉に転封になりました。宮本武蔵も、養子で家老の伊織とともに小倉に移ったと考えられます(④)。その後しばらくの間、明石藩主は目まぐるしく変わりました。そして江戸中期に越前大野藩から移ってきた越前松平氏の一族が幕末まで藩と城を統治したのです。(⑬)
・1632~33年:(幕府直轄)
・1633~39年:戸田松平氏(譜代大名、2代、7万石)
・1639~49年:大久保氏(譜代大名、1代、7万石)
・1649~79年:藤井松平氏(譜代大名、2代、7→6.5万石)
・1679~82年:本多氏(譜代大名、1代、6万石)
・1682年~:越前松平氏(明石松平氏)(親藩、10代、6→8万石)
城は後継の大名たちによって維持されましたが、幕末になると状況が変わってきました。

幕末時の藩主・松平慶憲 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

1853年(嘉永6年)のペリー艦隊の江戸湾の入口・浦賀への来航に続いて、翌年(1854年)にはロシアのディアナ号が大阪湾に侵入してきました。このときから幕府も大阪湾防備に動き出すようになります。幕府の命により、明石藩でも台場が作られましたが、その代表的なものが舞子台場です。その場所は、瀬戸内海から大阪湾に船が侵入する場合に通過する明石海峡の目の前でした。1863年(文久3年)、幕府は明石藩に、一万両を貸し付けるので舞子台場を堅牢に改築するよう命じました。その設計・現場の指揮にあたったのが、当時神戸にいた勝海舟でした。台場の雛形を藩に手渡したメンバーの中には、海舟の塾生だった坂本龍馬がいました。台場は翌年から翌々年にかけて完成しましたが、実際に使われることはなかったようです。(段落全体②⑭)明石藩は1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方でしたが、その後新政府方に明石城を引き渡したため、ここでも戦いが起こることはありませんでした(⑨)。

「天保山魯船図」(出典:文化遺産オンライン)
舞子台場跡
勝海舟 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
坂本龍馬 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

明治維新後、明石城は廃城となり、外堀などは埋められ、建物は取り壊されていきました。最後に残っていたのが4基の三重櫓です。城跡を管理していた兵庫県は、1881年(明治14年)8月、これらの櫓の解体も決定し、まず艮櫓が学校の用材として解体されました。これに憤激したのが旧明石藩士たちでした。県庁に嘆願書を出し、聞き入れられないときは、籠城の上、櫓に火をかけ、運命を共にすると言い出したのです。彼らにとって、自分たちの精神的シンボルが失われることに抵抗したようです。西南戦争(1877年)からあまり時が経っていないときで、世間から注目を浴びました(下記補足8)。その結果、1883年(明治16)から城跡は、民営の「明石公園」として保存されることになったのです。(段落全体⑥⑮)

(補足8)「士族は県庁の処分に不平を抱き、終に旧藩士の他国他郷にある者まで招きよせ、去る十四日に大評定を開きたり、其議は旧藩の諸士より猶県庁へ嘆願書を捧げ、夫にても聞届けられぬ時は、最早や絶体絶命の時節到来なりとて、中にも昔なら城代とも云ふべき林某は、いかに各々にも願意の貫徹せずして弥々当城破却の命下らば、其時は最先かけ城に火をかけ、潔く櫓と共に一片の焔となり、名をば後代に留めんが如何にと、思ひ切て云放ちし有様は、天晴れ篭城の覚悟とも云ふべく、(以下略)」(明治14年8月23日東京日日新聞記事)

明石公園入口

リンク、参考資料

①「明石の宿場」明石民俗文化財調査団(明石市立図書館 明石郷土の記憶デジタル版)
② 発掘された明石の歴史展「船上城から明石城へ」明石市
③「戦国信濃と小笠原貞慶/志村平治著」戒光祥出版
④「人物叢書 宮本武蔵/大倉隆二」吉川弘文館
⑤「日本の城改訂版第88号」デアゴスティーニジャパン
⑥「史跡明石城跡保存活用計画」令和2年9月 兵庫県
⑦ 明石公園公式ホームページ
⑧ 明石城巽櫓内展示
⑨ 明石市立文化博物館展示
➉ 明石城現地ガイドの方
⑪「戦国の城/香川元太郎著」ワン・パブリッシング
⑫ 文化遺産データベース 明石城跡
⑬「明石城の歴史」パンフレット
⑭ 文化遺産オンライン 明石藩舞子台場跡
⑮「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

「明石城 現地編」に続きます。

74.岩国城 その1

岩国城の歴史は、どうやら吉川広家の武将人生と大きく関係しているようです。今回はまず、広家の関ヶ原の戦い前後の動向をチェックしてから、岩国城の築城、そして早すぎる「廃城」をご説明したいと思います。最後は、「陣屋」としての岩国城のその後、そして錦帯橋の歴史にも触れていきます。

イントロダクション

岩国といえば、まず錦帯橋を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。また岩国城といえば、その天守が錦帯橋の背景として、セットで思い浮かべる人もおられるでしょう。しかし、その天守は現代になって再建されたもので、実際には天守を含む城は、公式にはわずか7年しか存在しなかったのです。城主だった吉川氏は、城の一部を「陣屋」として存続させました。

錦帯橋と背景の岩国城再建天守

岩国城を築いたのは、吉川氏の初代当主・広家でした。広家といえば、関ヶ原の戦いで西軍方の主家・毛利勢を参戦させず、東軍の勝利にも関わらず、大名家として存続させた「救世主」という評価があります。しかし一方、西軍は敗退し、毛利氏は大幅に領地を減らされたこともあって、当時から「裏切者」との見方もされてきました。現時点で振り返ってみた場合、どういうことが言えるでしょうか。

岩国城の歴史は、どうやら吉川広家の武将人生と大きく関係しているようです。そこで、今回はまず、広家の関ヶ原の戦い前後の動向をチェックしてから、岩国城の築城、そして早すぎる「廃城」をご説明したいと思います。最後は、「陣屋」としての岩国城のその後、そして錦帯橋の歴史にも触れていきます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(吉川広家と岩国城の歴史)

実は迷っていた?関ヶ原前の吉川広家

吉川広家は1561年(永禄4年)、吉川元春の三男として生まれました(参考資料①より、以下番号のみ記載)。吉川元春は、毛利元就の次男で、三男の小早川隆景とともに、主家の毛利氏が中国地方の大大名になることに貢献しました。戦国時代末期の毛利当主は、元就の孫・輝元でした。豊臣秀吉による天下統一のフェーズになると、毛利氏は秀吉に味方し、領土を安堵されましたが、その代わりに容赦なく戦いに動員されました。1586年(天正14年)に始まった九州平定において、元春と跡継ぎの長男・元長が相次いで病没してしまうのです(①)。元長が亡くなった翌年(1588年)、広家は吉川家を継ぎました。広家は月山戸田城を居城とし、朝鮮侵攻に動員されるのですが、その最中(1597年、慶長2年)、小早川隆景が亡くなっています。つまり、秀吉没後の関ヶ原の戦い直前には、広家は、主家を支える毛利一門の最重要人物いう立場になっていたのです。

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1600年、慶長5年6月、五大老筆頭の徳川家康は、上洛を拒否した上杉景勝を征伐するために出陣しました(会津征伐)。毛利輝元・吉川広家にも参加を命じたのです。しかし、石田三成たち奉行衆は、その隙を狙って家康排除のために挙兵しました。安国寺恵瓊は、奉行衆とともに輝元を説得し、「西軍」の総大将に担ぎ上げました。7月19日輝元は、以前家康がいた(③)大坂城西の丸に入城しました。広家は西軍に身を置きながら、毛利氏の取次だった黒田如水経由で親交があった黒田長政を通して、密かに「東軍」の家康に連絡を取りました。西軍の勝利はありえないと確信していたのです。広家は(事実かどうかは別として)「輝元様の大坂城入城は家康様打倒計画とは無縁ですべて恵瓊の企てである(④)」と釈明しました。8月までに、西軍による伏見城、安濃津城攻めがありましたが、立場上広家も参加せざるを得ませんでした。そして、関ヶ原近くの南宮山に、毛利勢の総大将・毛利秀元とともに着陣したのです。黒田長政は当然、広家の行動に疑いを持ちました。広家は、他の重臣(福原弘俊)と諮り、毛利家存続のためには東軍に内通するしかないと決断しました。合戦前日の9月14日、東軍に人質を差し出し、合戦では中立を守るという条件で、毛利領はそのまま安堵されるという約束を取り付けました(下記補足1)。合戦当日、広家は最前線に陣取り、後方(長宗我部軍)から毛利秀元に催促が来ても、一切動かせませんでした。関ヶ原合戦は周知の通り、わずか一日で東軍の大勝利に終わりました。広家は合戦直後の17日、それまでの事情を記した「関ヶ原始末書」を輝元に提出しています。(段落全体①②)。

(補足1)9月14日付吉川広家・福原広俊宛井伊直政・本多忠勝起請文
一.輝元に対して、家康が粗略にしないこと。
一.吉川広家と福原広俊が家康に忠節を尽くすうえは、家康が粗略にしないこと。
一.忠節が明らかになれば、家康の直書を輝元に渡すこと(分国の安堵も相違なし)。
(「毛利家文書」、現代語訳は⑦より)

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし最近の研究によると、広家は必ずしも一貫した態度をとっていた訳ではないようです。順を追って、根拠を示します(段落全体③)。
1.決起当初の7月14日付の家康家臣・榊原康政宛の広家書状案文(発送されなかった)は、毛利氏の西軍参加は恵瓊の独断である旨を知らせようとした内容でしたが、実際は後日作成されたか、内容が事実と異なる(輝元も了解していた)可能性があります。
2.現在確認できる東軍との最初の接触は、7月28日頃駿府に届いた広家の書状(詳細内容不明)、発送したのは7月25日頃とみられます。西軍は19日に伏見城攻撃を開始しましたが、城代・鳥居元忠らの頑強な抵抗にあっていました。その返事として、8月8日付黒田長政宛徳川家康書状(下記補足2)、8月17日付広家宛黒田長政宛書状(下記補足3)が送られました。

(補足2)吉川殿からの書状を詳細に読みました。(広家の)ご弁明については、もれなく了解しました。輝元とは兄弟のように相談して決めることとしていたので、(今回の行動を)不審に思っていたところ、(反徳川闘争の企てを)知らなかったということを聞いて、気が晴れました。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

(補足3)このたびの決起について、輝元はご存じなかったのですね。安国寺が一人で企てたことであると、家康公も認識されました。そこで、輝元に対して、このことを念には念を入れておっしゃって、家康公と(輝元とが)懇意になるように、(広家の)工夫が最も大切です。あなた次第で、こちらは私が調えます。合戦でこちらが勝利した後では、講和することも不可能ですので、前もってご油断しないで思案されることが道理に叶っていると思います。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

3.上記に対する広家の返答は直ちにはなく、黒田長政が8月25日に督促の書状(下記補足4)を送っています。この頃は8月1日に伏見城が落城し、戦闘が一段落していました。

(補足4)先の書状で申し入れましたが、届きましたか。とにかく、毛利家が存続するように(あなたが)ご思案されることが道理に叶っています。詳しいことを記したご返事の書状を送ってください。(中略)家康が早くも駿河国府中まで出陣したという情報が、昨夜届きました(実際には9月1日江戸出発)。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

8月23日東軍が西軍の岐阜城を攻略、そして翌日西軍も東軍の安濃津城を落としたものの大損害を出しました。広家勢も300人以上もの死傷者を出しています(⑤)。黒田如水からも9月3日付で家康との講和を勧める書状が送られてきました(⑥、下記補足5)。このような状況と、家康西上の情報を得て、交渉を再開したものと考えられます。

(補足5)家康が西上しているとの噂です。間違いないでしょう。家康が来る方面にあなた(広家)が居られるので、大変心配しています。失敗しないように判断することが大事です。上方の軍勢はすべて家康に同心するようですので、あなたの(判断が)大事です。(「吉川家文書」、現代語訳は⑥より)

毛利輝元も実際には阿波や伊予への侵攻を行っていましたが、一方で家康とも何らかの連絡を取っていたようです。そして現地に対しても、家老の一人・福原広俊を通じて状況を把握し、コントロールを行っていました。吉川広家の動きも「小早川秀秋と西軍から離反する」という噂になっていたので、把握していたと見るべきでしょう。つまり、毛利勢はどのみちどちらにもつけない状態でした。広家が東軍との交渉を主導していたことは確かですが、その他の勢力も虚々実々の駆け引きを行っていたのです。(参考③⑥)

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関ヶ原後、岩国築城へ

関ヶ原後、毛利輝元は領地安堵を前提に、大坂城を退去しました。ところが、家康が大坂入城後に精査したところ、輝元は中立的立場ではなく、西軍の盟主として行動していたことが発覚しました。家康は激怒し、毛利の全領地を没収し、そのうち周防・長門の二カ国を広家に与えることにしたのです。しかし広家が、切々と毛利本家の存続を懇願した結果、10月10日、家康はその二カ国を、毛利輝元・秀就(ひでなり)父子に与える誓書を書きました(補足6)。広家に対しては、輝元に命じて、周防国の東部を割譲させました。これが岩国築城につながります。(①)

(補足6)周防、長門の両国を据え置くこと、輝元・秀就父子の身命には異議のないこと、(大坂城をめぐる)虚説について究明すること(毛利輝元・秀就宛徳川家康誓書、毛利博物館蔵、現代語訳は①より)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかしこの経緯の元ネタは、吉川家の記録(「吉川家譜」)にしかなく、歴史家によると、後に吉川家が藩内での家格を高めるために作ったものだろうとされています。つまり、家康は毛利の抵抗を恐れて、輝元が大坂城を退去するまでは所領安堵を匂わせておいて、退去後にそれを反故にしたのです。輝元としても、関ヶ原敗戦で権威が失墜し、抵抗する力もなく、減封を拒否することは不可能でした。せめて実子の秀就の地位を保証されることで妥協したものと考えられます(それまでの跡継ぎは養子の秀元だった)。(段落全体③)

これでは、広家は窮地に落とされたことになります。見方によっては、西軍敗北だけでなく、毛利の大減封(約119→30万石)の一大原因を作ったことになってしまうからです。広家自身も、独立大名格から毛利家臣扱いになり、石高も減らされました(約11万5千→3万4千石)。(参考③)広家は関ヶ原の翌年に、輝元宛に長文の書状を認め、思いを伝えようとしていますが(下記補足7、④)、その当時の広家の苦しい立場を反映しているのではないでしょうか。

(補足7)毛利輝元様
このたび、関ヶ原の合戦の和睦は整い、私ども満足しております。私のこの戦いにおける行動が西軍大敗の一因と世間で批判されていることは遺憾に思います。私は和睦が成立した後に申し開きをしたいと思っておりましたが、これまで時間がかかりましたので今まで出来ませんでしたが、一書をもって一部始終申し上げます。(④、冒頭部分)

実は、この頃の広家には、毛利から出奔しようとした形跡があるのです。一つは、関ヶ原の年の11月に、黒田長政が広家を自分の藩に誘っていると取れる書状が残っているのです(下記補足8)。その3年後には、広家が独立大名になる交渉が行われた形跡もあります(下記補足9)。実際に毛利家臣は総じて大幅減封になっていたので、出奔する者もいたのです。しかし広家は最終的に毛利に残る決断をしました。(段落全体③)

(補足8)慶長5年11月18日付吉川広家宛黒田長政書状(一部)
ご知行などについて、かねての首尾と異なる状況になりましたら、私の領内においてでも提供いたしますので、ご心配されませんように。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

(補足9)慶長8年7月16日付吉川広家宛末長良昧書状(一部)
先日の箇条書きについて、大部分は決着しましたので、ご安心ください。江戸において長政は私へ「広家に対して知行を与えるとのことだ」と言われましたので、恐れ多いことですが、喜ばしいことと存じ申し上げます。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

毛利氏の新領国となった長州藩は、萩城を本城とし、国境については東に吉川広家を、西に以前の跡継ぎだった毛利秀元を配置しました。広家は萩城の縄張りに関わったと言われています。広家・秀元は、毛利家臣でありながら、独立大名的な性格も持っていました。その一つが、居城の設置を許可されたことでした。秀元の居城は櫛崎城で、広家の場合、それが岩国城だったのです。(以上③)もしかすると、広家の残留条件だったのかもしれません。

萩城天守の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長州藩(現山口県)の範囲と城の位置

堅固な城、しかし突然の「廃城」

岩国城は大きく蛇行する錦川に囲まれた標高約210mの城山を中心に築かれました。川を下れば港(今津)に近く、川の対岸には山陽道・石州街道が通っていました。つまり、城の地は水上交通、陸上交通の結節点だったのです。そこは「横山」と呼ばれていて、広家の祖父・毛利元就は1557年、中国平定(大内氏討伐)のとき、ここを本陣にしました。広家の当時は、寺(永興寺)があったものの荒廃していました。(段落全体⑧⑨)

城周辺の起伏地図

当時、新規築城の山城は珍しく、さらなる戦いが起こると想定していたのかもしれません。ただし居館(御土居)部分は山麓にあって、工事はこちらから始まりました(1603年)。山上部分は本丸・北の丸・二の丸を中心に総石垣で築かれ、枡形、連結された櫓群、空堀などで守られた近世城郭となりました。完成は1608年(慶長13年)とされています。(段落全体➉)

山上部分の縄張り図、岩国城天守内にて展示

広家が、岩国城の縄張りについて出した細かい指示が記録として残っています。これによると、広家が縄張りに精通し強いこだわりを持っていたこと、実践的な構造だけでなく、見栄えも重視していたことがわかります。(段落全体③、下記補足10)

(補足10)慶長9年5月28日付吉川広家条々写(一部)
一.南の小丸くびの門の位置については、地形にあわせて設置せよ。東の方の尾崎側でも構わない。
一.尾くび左の櫓は、麓からの見える場所なので、長い方を見せるのが適切である。
一.天守は御庄側の切り立った部分を延ばした場所を防御するためのものである。また、一つには、山頂部の平地があまりに広いため、本丸部の段差を大きくして、二の丸を防御するためにも、本丸内におさめて石垣を築造することは当然であるので、両方の用途を対照して判断し、適切に造成せよ。
一.天守の大きさは六間×八間とすべきである。東西を長辺として普請しなさい。
一.天守と尾くびの櫓を連結する石垣について、時間・労力を費やしてでも、切り立った部分を延ばすので、丁寧にじっくりと申し付けなさい。(「藩中諸家古文書纂」、現代語訳は③より)

天守は4重6階で、3重目の上部分(4階)が下部分(3階)より張り出していました。4重目も同じようになっています。この形式は「南蛮造」「唐造」と呼ばれる珍しいものです。他には小倉城、高松城天守が同様の形式でした。(以上➉)現在再建されている天守は、観光のため、錦帯橋が望める位置に築かれましたが、もとは櫓があった場所でした。また再建天守は、天守の古図(「天守構造図」)を基に設計されています。また、オリジナルの天守台は元の場所に復元されています。(以上⑧)よって、オリジナルの天守がどんな風だったかイメージすることはできます。

岩国城再建天守
復元されたオリジナルの天守台

ところが、その城の命は、わずか7年で終わりました。豊臣氏が滅亡した1615年(慶長20年)、幕府は「一国一城令」を制定しました。大名が居住する城郭を除いて、すべて廃城にせよという厳しいものでした。文字通りとれば、周防国には他に城はないので取り壊す必要はないという理屈も成り立ちます。しかし、同じような立場の毛利秀元は居城(櫛崎城)を取り壊していて、毛利本家の意向もあり、吉川氏も従わざるをえなかったとされます。(段落全体①③)山上の城部分が破却され、山麓の居館部分が「陣屋」として継続しました。

山麓の居館「御土居」跡

ただし、山上については、建物は除去されたものの、石垣の壊し方には特徴があります。現在、街道がある西側では徹底的に破却されたと見えるものの、居館・城下町がある東側ではかなり残っているのです。これは石垣がいつ壊されたかによりますが(島原の乱後という説もある)、広家の考えによるものかもしれません。実際、彼は表の目立つ箇所のみ石垣を崩すという形式的な破城で済まそうとしているのです(下記補足11)。(以上③⑧➉)広家は、唯々諾々と従っていたわけではないのです。心血を注いで築いた城を少しでも残そうとする意志と、難局を乗り切ってきた戦国大名としての意地を感じるのです。

(補足11)元和元年10月9日付家臣宛吉川広家書状(一部)
諸国の城を破却することについて、続いて情報を収集したところ、おそらく石垣まで破却するとのことです。そこで、岩国城の石垣についてももう少し崩すのがよいだろうと思います。(中略)また、城の表の方をとくに崩すのが適切なのではないでしょうか。人数が足りなければ、十~十五日間のことですので、皆々、雇傭しなさい。これは公儀のことですので、いずれにせよ、山麓からも城の方からもよく見比べて破却しなさい。(岩国徴古館蔵、現代語訳は③より)

北の丸西側の石垣
本丸東側の石垣

その後の「岩国藩」

吉川広家は、1625年(寛永2年)65歳で亡くなりました。広家の領地は、現代では、長州藩の支藩「岩国藩」として吉川氏に代々受け継がれていったと理解されています。しかし当時は、毛利氏一族の支藩(長府藩、清末藩、徳山藩)は大名格(従五位下以上)として公に認められた一方、岩国藩は家臣扱いのままでした。(以上①参考)長州藩設立以来の因縁かと思ってしまいますが、実際には将軍との距離感(お目見え・江戸在府期間・官位など)で決まっていったようです(⑪)。岩国藩は、その家格を上げるため運動を続けていくことになります。広家が自ら大名になることを拒絶してまで毛利本家の危機を救ったとする物語は、その一環でできたと考えられます(③)。それが岩国藩が関わってできた軍記物「陰徳太平記」など(他には「関ヶ原軍記大成」など)によって広まっていったのです(③⑪)。

そんな中で、3代目藩主・吉川 広嘉(ひろよし)は、有名な錦帯橋を創建しました。城から錦川の対岸には城下町がありましたが、錦川は暴れ川で、2代・広正が架けた橋が、たった2年で洪水により流出していました。流れない橋は架けられないかと広嘉は考えたのです。各地の名橋を見聞し、人材を集めました。そして、1673年(延宝元年)に初代・錦帯橋が架けられたのです。流されないために橋台の数を押さえ、かつ石積みで強固にし、アーチ型の木製の橋梁部を渡し、全く独創的な橋になりました。実は初代は8ヶ月に流出してしまうのですが、改良・再建(1674年)したものが276年間保たれたのです(改良、補強、補修、定期的な架け替えが行われた)。残念ながら1950年の台風が原因で流出してしまいますが、また再建され、現在も変わらぬ姿を見せています。(段落全体①)

吉川 広嘉像
錦帯橋の橋台
葛飾北斎「諸国名橋奇覧」より「すほうの国きんたいはし」、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

時代は幕末、12代藩主・吉川経幹(つねまさ)のときに飛びます。長州藩は幕府に反抗したので、東国境の岩国が、戦いの最前線になったのです。岩国藩と経幹はその立地や立場から重要な役割を果たしました。1864年(元治元年)の第一次長州征討では、幕府と長州藩との講和の折衝役を務めました。1866年(慶応2年)の第二次長州征討では「芸州口」として国境が戦場になりました。数の上では圧倒的に不利だったため、経幹は山上の城跡に籠城することまで考えたそうです。幕府軍の先鋒は井伊・榊原隊で関ヶ原のときのような兵装でした。その再現を狙っていたのかもしれません。しかし、長州・岩国隊は今回は結束し、武器の性能も上回っていました。幕府軍を撃退したのです。岩国隊はその後も活躍し、1868年(明治元年)経幹は、新政府から大名格(従五位下)に任じられました。ここに岩国藩の悲願が達成されたのですが、そのときすでに経幹は亡くなっていたのです(死が伏せられていた)。その地位は子(経健)が受け継ぎましたが、1871年(明治4年)には廃藩置県を迎えることになるのです(吉川家は子爵、男爵に)。(段落全体①)

吉川経幹 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

①「岩国を築いた英智の三藩主/藤井淳史著」吉川報效会
②「吉川広家公没後400年記念 開館30周年記念展 第三期 広家の関ケ原」吉川史料館
③「毛利氏の御家騒動 折れた三本の矢/光成準治著」平凡社
④「吉川広家自筆覚書案(慶長6年、毛利輝元宛書状下書き、現代語訳は「吉川史料館たより第91号」による)
⑤「吉川史料館たより第74号」
⑥「関ヶ原前夜 西国大名たちの戦い/光成準治著」日本放送出版協会
⑦「黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原/渡邊大門著」角川選書
⑧「山陰・山陽の名城を歩く 広島・山口編」吉川弘文館
⑨「吉川史料館たより第84号」
➉「歴史群像シリーズ よみがえる日本の城7」学研
⑪「シリーズ・織豊大名の研究4 吉川広家/光成準治編著」戒光祥出版

「岩国城 その2」に続きます。

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