148.浜松城 歴史編

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。

イントロダクション

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。(以上下記①を参考、以下番号のみ記載)

浜松城にある徳川家康像

しかし、家康在城時代には数々の困難に見舞われました。三方原合戦、妻と子の粛清、本能寺の変、小牧・長久手の戦いなどです。このうち、浜松城と関連し、家康の生涯唯一の大敗と言われているのが「三方原合戦」です。この戦いは、家康が城を築く以前からの武田信玄との関係が伏線になっています。よって、浜松城と三方原合戦をメインストーリーとして展開していきたいと思います。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また現在残っている古風な石垣と、元あった天守は、家康と江戸時代の大名たちの間に城主になった堀尾吉晴が築いたとされています。最後の方では、その吉晴と江戸時代の大名たちの時代も触れてみます。

再建天守と現存石垣

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(浜松城と三方原合戦)

家康、遠江国に進出

1560年(永禄3年)桶狭間合戦が起こり、今川義元が織田信長に討ち取られると、今川方部将だった家康は岡崎城に入りました。これをもって家康自立と思ってしまいますが、実はこれは今川当主・氏真の許可・指示によるものだったのです。事実、家康は翌年(1561年)まで織田方と戦っています。しかし家康は苦戦し、氏真からの援軍もなかった(当時上杉謙信に対抗する北条氏の方に援軍を送っていた)ため、織田信長との同盟に踏み切ったのです。氏真は三河侵攻を計画しますが、間の遠江国で「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる反乱が起こり、それどころではなくなりました(三河侵攻のために課税したのに実施しなかったことが一因と言われます)。一方、家康のお膝元でも「三河一向一揆」が起こります。しかし1566年(永禄9年)までに一揆を鎮圧し、三河国を統一しました(永禄9年12月29日、徳川三河守家康)。(段落全体②)

「集外三十六歌仙」の今川氏真  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1568年(永禄11年)、前年に美濃を平定した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛しようとしていました。彼はそのことについて、上杉・武田・朝倉の了解を取り付けていました。問題は、留守中に今川に背後を衝かれる可能性です。そのため、信長は武田の今川攻めを認めたのです。その一翼を担ったのが家康です。徳川と武田は、今川攻めに関わる同盟を結びました。その内容は、大井川を境に駿河を武田、遠江を徳川が領有するというものでした(下記補足1)。(段落全体②)

(補足1)扨(さて)又、甲斐ノ武田之信玄ト仰合て、家康ハ遠江ヲ河切に取給え、我ハ駿河ヲ取ント仰合て、両国へ出給ふ(「三河物語」永禄十一年・第二中)
さて、甲斐の国の武田信玄を連絡をとって「家康は遠江を大井川までとれ、わたしは駿河をとろう」と申しあわせて、駿河・遠江両国へ出陣した(現代語訳③)

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

両軍は一斉に今川領に侵攻しました。武田軍は駿河に侵攻、今川氏真は掛川(懸川)城に退去しました。しかし今川と同盟を維持していた北条氏の反撃を受けます(一旦駿河から撤退)。一方、徳川軍の遠江侵攻は順調で、二俣城・引間(曳馬)城・高天神城などを開城させ、氏真が籠る掛川城を包囲しました。実は武田は、徳川との境界線を遠江の天竜川と考えていたらしく、遠江にも出兵してきましたが、家康が信玄に抗議し、撤兵させました。(下記補足2)家康が強気に出られる状況だったのです。(段落全体③)

(補足2)家康は使いをやった。「大井川を境に、駿河を信玄の領分、大井川を境に遠江が(家康の)領分と定まっているのに、秋山が出陣してきたのは横車を押すことになる。すぐに引きかえされよ」とおっしゃった。(「三河物語」現代語訳③)

現在の掛川城

1569年、永禄12年5月、家康は今川・北条と和睦し、掛川城も開城となり、今川氏真は北条氏に引き渡されました。ここに遠江国はほぼ家康の支配下に入りました。しかしこの和睦は武田との盟約違反でした。翌年(1570年、元亀元年)、家康は武田信玄と断交、信玄の宿敵・上杉謙信と同盟を結びました。信玄は激怒、ところが何もできませんでした。ここで家康と開戦すれば、織田・上杉・北条から一斉に攻められる可能性があったからです。信玄のこの憤懣は三方原合戦の伏線になっていきます。

浜松築城

遠江を支配することになった家康は、支配を安定させ、武田の脅威に備えるため、国府があった見付に居城を移すことにし、築城工事を始めました(城之崎城)。しかし途中で中止しました。仮に信玄と戦うことになった場合、西側の天竜川を背後にする「背水の陣」になってしまうためと言われます。町としての発展や、本国・三河や織田信長との連携も考慮したのでしょう。また、信玄が家康が見付に本拠を置くことを有利とみてほくそ笑み、信長がその危うさを悟って家康を説得したとする史料まであります(下記補足3)。そこで家康は、川の西側の「浜松荘(はままつのしょう)」の中心であった「引間城」「引間(曳馬)宿(ひくまのしゅく)」の地に居城を作り直すことにしました。これが浜松城で、1570年(元亀元年)のことでした。家康は29歳から45歳(1586年)までここを本拠にしました。(段落全体②④⑤⑥、下記補足4)

(補足3)右のやうす甲州へ聞え家康様を信玄ことことしく御ほめの由、上方へももれ聞へて信長公より御異見有て、見付の新城やめさせられ候、(「石川正四見聞集」)

(補足4)然間、見付之国府ヲ御住所に被成、城ヲ取、原に各々屋敷取ヲシテ住マせ給ひケルガ、爰(ここ)ハ不被可然トテ、浜松え引カせラレ給ひて、御城ヲコシラエ給ひ、御住所ヲ定サせ給ふ(「三河物語」)

遠江国の範囲と浜松城の位置

見付の城(城之崎城)跡

元あった引間城は、宿場を見下ろす丘陵に築かれ、水堀に囲まれていました。更には、東側は当時あった天竜川のもう一本の本流(小天竜)、北側は崖地帯、南から東にかけては低湿地という自然の障壁によって守られていました。家康は、西側の丘陵地帯に城域を拡大し、そちらを中心部とし、名も「浜松城」と改めました。引間城の地は「古城」と呼ばれ、新城の一部になりました。城は更に南に拡大していきます。(段落全体⑥)

城周辺の起伏地図

家康時代の浜松城の姿ははっきりしません。しかも城の本格的な改修が始まるのは1577年(天正5年)です。三方原合戦(1572年)のころは、武田侵攻に備え支城網の改修を優先していたと考えられます。それでも、合戦に敗れ家康が城に撤退したときの記録に「西の門」「大手の門」古城にあった「玄黙口」というのが出てくるので(下記補足5)、新城に古城が取り込まれた形にはなっていたのでしょう。(段落全体⑤⑥)やがて武田との戦いの中で、武田築城術を取り込み、浜松城にも生かしていったと考えられます。例えば「横堀」の採用により、北側の「佐左曲輪」や南側の出丸を取り込んだことが挙げられます。(以上⑤⑥)東海道も城近くに付け替え、城下町も造られました。(②)家康により拡張された浜松城は、江戸時代天守曲輪・本丸・二の丸・西端城曲輪・清水曲輪・作左曲輪・出丸等の範囲と考えられます。(⑦)

(補足5)三方ヶ原を退き西の門からは入られず、遥かに大手の門より門外に乗廻し、東に向ひ北に至て、玄黙口より入られた(「鳥居家中興譜」)

家康在城時の浜松城のイメージ図、現地説明パネルより

家康の居住空間は、最高地点の現・天守曲輪だったと考えられますが、面積は狭く、自然地形を生かしたものでした。また、城は土造りで、曲輪は土塁で囲まれ、屋敷も板葺きだったと想定されています。その頃、織田信長や有力家臣は瓦葺きの天守・石垣を持った城を築いていました。徳川氏はそのような城を築かせる技術者集団をまだ使うことができなかったのです。家康が石垣の城を築くのは、次の居城・駿府城からになります。(段落全体⑤⑥⑦)

家康在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

決戦!三方原

1571年(元亀2年)信玄は領国内で大動員を開始しました。翌年にかけては北条との同盟を復活させました。一方、織田との同盟を強化すると見せかけながら、家康家臣の調略も行っていました。1572年、元亀3年10月、ついに信玄は出陣、遠江に侵攻しました。信玄は「三ヶ年の鬱憤を散じるため」と喧伝しています。それだけ家康を恨んでいたのです。信玄はまず要衝の高天神城を確保、掛川城を孤立させて、西に進みました。家康はこれ以上の落城・家臣の離反を防ぐため、天竜川を越えて出陣しました。しかし不利と見て撤退しようとしたところ、武田軍の動きが速く、追いつかれてしまい、一言坂合戦が起こりました。ここで家康の窮地を救ったのが本多忠勝です。この様子を武田家臣(小松右近助の近習)が歌に詠んでいます(下記補足6)。家康は無事浜松に戻りましたが、以前築城した見付まで武田に制圧されました。(段落全体②)

(補足6)家康に すぎたるものハふたつあり からのかしらに 本多平八(「軍艦」)

高天神城跡
一言坂の戦跡
本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田の別働隊(山県・秋山勢)も北遠江・奥三河に侵入しました。長篠城・井伊谷(いいのや)が武田の手に落ちました。そして信玄本隊は、天竜川をさかのぼり、徳川方の要衝・二俣城も11月末日(晦日)に落城させました。浜松城は、北・東を包囲され、連絡道は西の浜名湖(今切)経由だけになってしまったのです。(段落全体②)

長篠城跡

信玄は二俣城を本陣とし、12月22日に再び動き出しました。武田軍は浜松城を目指しているかに見えましたが、北西の三方原台地に上がりました。徳川方は、武田の目標が本国三河にあると想定しました。家康は直ちに出陣し、その途上で軍議を行いました(下記補足7,従来は浜松城で軍議を行ったという記述が多かった)。しかしすぐ開戦になったわけではなく、徳川軍は武田軍を追いながら機会を伺っていたのです(台地(祝田坂)を下り始めるのを待っていたようです)。(段落全体②➉)

(補足7)元亀三年壬申十二月廿二日、家康、浜松より三理に及で打出させ給いて、御合戦を可被成と仰けれバ、各々年寄共の申上けるハ、今日之御合戦、如何に御座可有候う哉、敵之人数を見奉るに、三万余と見申候、其上、信玄ハ老武者と申、度々の合戦になれたる人なり、御味方はわづか八千之内外御座可有哉と申上けれバ、其儀ハ何共あれ、多勢にて我屋敷之背戸をふミきりて通らんに、内に有ながら、出てとがめざる者哉あらん、負くれバとて、出てとがむべし、そのごとく、我国をふミきりて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉、菟角、合戦をせずしてハおくまじき、陣ハ多勢・無勢にハよるべからず、天道次第と仰せけれバ、各々是非に不及とて、押寄けり、(「三河物語」)
元亀三年十二月二十二日、家康は敵が浜松から三里のところまでやってきて、出撃する。「一合戦しよう」とおっしゃると、年寄たちが皆「今日の合戦はどうでしょうか。敵の人数は三万あまりと思われます。信玄は熟練の武者でもあり、たびたびの合戦をへた手だれの者です。しかも、味方はわずかに八千ほどでございますから」と申し上げる。「そのことはしょうがない。多勢が自分の屋敷の裏口をふみ破って通ろうとしているのに、家のなかにいて、でてとがめだてしない者があろうか。負けたら負けたときと、でてとがめるであろう。それと同じで、自分の国をふみ破って通るのに、多勢だからといってどうして、出陣して、とがめないでおかりょうか。ともかく合戦をしないでは、おかれまい。戦さは多勢無勢で結果が決まるわけではない。天運のままだ」とおっしゃると、みなもあれこれいうこともなく、攻めよせた。(現代語訳③)

三方原古戦場碑

最近の説では、開戦のきっかけは、武田軍が再度進路を変更し、浜名湖の半島にある堀江城に向かったこととされます。織田信長の伝記「信長公記」にそれを裏付ける記述があります(下記補足8)。堀江城は浜名湖水運を掌握する要所であり、もし敵の手に落ちると浜松城が完全に孤立してしまいます。信玄の狙いはそこにあり、家康としては絶対阻止しなければならなかったのです。(段落全体②)

(補足8)これは遠江方面でのことである。十一月下旬、武田信玄が二俣の城を包囲した、という徳川家康からの報告が到着した。そこで、信長の家老衆、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元を大将として、軍勢を浜松へ参陣させた。しかし、すでに二俣の城は落城し、その勢いに乗って武田信玄は堀江の城をめざして進軍していた。(⑧)

徳川方の人数は、徳川約8千に織田援軍を加えると約1万1千、武田方は「三河物語」に3万とありましたが、約2万ではないかと言われます。いずれにせよ徳川方が不利です。信玄も慎重に様子を見ていたため、合戦が始まったのは午後4時頃(申刻)でした。足軽同士の小競り合いから本格的な戦いに発展したようです。天候は曇りから雪になり、酷寒の中での合戦でした。合戦の様子も「三河物語」に描写されています(下記補足9)。徳川方は善戦したものの、武田方の反撃で中央を突破、分断され、後は各個撃破されていきました。決着がついたのは午後6時頃(酉刻)と言われます。(段落全体②)

(補足9)信玄はたびたびの合戦に場慣れしていたので、すぐに魚鱗の陣をしき敵に向かった。家康は鶴翼の陣をしいたが、小勢だったので、手薄とみえた。信玄はまず足軽たちを送り、小石を投げさせた。それを家康の軍は相手にせず、いっせいに切ってかかると、早速一陣二陣を打ち破る。つづいて敵は新手を向けてきたが、その新手も破って、信玄の本陣に殺到した。信玄の本陣からも、いっせいに鬨の声をあげて攻めかかる。わずか八千の兵だったので、三万余の大敵と、粉骨砕身せりあったが、信玄の本陣に攻めかえされて、敗退した。(③)

徳川家康本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示
武田信玄本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

家康主従は、夜の闇のなか、一体になって撤退しました。家康の身代わりや殿になって討たれた家臣もいました(成瀬藤蔵、夏目広次、本多忠真など)。家康自身も、敵の待ち伏せにあい、自分の弓で射倒し、窮地を脱したといいます(下記補足10)。

(補足10)家康は、戦線の中央部を切り破られ、乱戦に巻き込まれた。左へ逃げて、三方ガ原の崖ぎわの一本道を退却した。敵は先回りして待ち受け、戦いを挑んだ。それを家康は馬上から弓で射倒し、駆け抜けて、浜松へ帰城した。この時に限らず、家康の弓の腕前は今に始まったことではなかった。(⑧)

敗走する家康主従のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

徳川方は大混乱に陥っていて、浜松城では家康が討たれたとの虚報が飛び交っていました。討たれた人数は、織田軍の大将の一人・平手汎秀を含め、約千名と言われています。浜松城に帰れなかった家臣も大勢いたようです(主な者・下記補足11)。浜松各地には家康が隠れた,匿われたという伝承が多くありますが、このことが元になっているのかもしれません。

(補足11)
・榊原康政:家康とはぐれ、西島に逃れた
・水野信元(織田援軍):今切の渡(浜名湖)または岡崎まで逃走
・中河兄弟:懸川城に逃れた
・山田平一郎:岡崎城に逃れ、家康が討たれたと知らせた

家康が城に戻った場所と言われる玄黙口

武田軍は追撃を続け、浜松城に迫りました。これを食い止めた場所が、浜松城北方の要害・犀ヶ崖です。崖の手前に留まった武田軍に対し、大久保忠世・天野康景の鉄砲隊が夜襲をかけました。混乱した武田の兵が崖に落ちたと伝えられています。(⑨)

犀ヶ崖
反撃する徳川軍鉄砲隊のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

武田軍は深追いをせず、翌12月23日には、目標としていた堀江城を攻撃しましたが落とせず、翌年元亀4年2月に野田城を攻略しました。ここから渥美半島の方に向かっても、浜松城と三河国を分断することができます。しかし武田軍が次に向かったのは、逆方向の長篠城でした。信玄の病のためと言われます。4月12日、信玄は信濃への撤退の途中で亡くなりました。家康と浜松城は、絶対絶命の危機を脱したのです。(②)

堀尾氏による改修、そして出世城へ

1586年(天正14年)、5か国の太守となっていた家康は、居城を東の駿府城に移しました。浜松城は家臣の菅沼定政に預けました(城代)。そして1590年(天正18年)に徳川氏が関東に移されると、浜松には豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が入城しました。秀吉の家康に対する備えの一環でした。現在残る天守曲輪・本丸の石垣は、この時代に築かれたと考えられています。天守門脇には巨石が配され、豊臣政権の権威を見せつけました。一方、天守曲輪西側の「屏風折れの石垣」は、城から側面攻撃ができるようにした実戦的な作りです。記録はありませんが、天守台石垣の上には天守も築かれたと考えられます(当時の瓦が見つかっています)。現在ある再建天守(3重)より大きく、堀尾氏が後に築いた松江城を参考に、4重天守が想定されています。2代目の忠氏のとき(吉晴は隠居)1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでの武功により、堀尾氏は加増転封となりました(12→24万石)。(段落全体④⑤)

堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
天守門の石垣
屛風折れの石垣
堀尾吉晴在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

江戸時代になると、浜松城は浜松藩の本拠、譜代大名の城として、なんと10家・22代の城主が入れ替わりました(下記補足12、家康からだと25代)。その中から老中6人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を輩出し「出世城」と呼ばれるようになります。なかでも天保の改革で有名な水野忠邦は、家康にあやかりたいと浜松城主に志願したと言われます。忠邦は見事老中に出世するのですが、失脚すると転封になり、以前の井上氏が復帰しています。(段落全体⑤⑪)

(補足12)歴代浜松城主となった大名家(江戸時代、⑪)
・1601~09年:桜井松平氏(1代、5万石)
・1609~19年:水野氏(1代、2.5→3.5万石)
・1619~38年:高力氏(1代、3.1→3万石)
・1638~44年:大給松平氏(1代、3.5万石)乗寿が老中
・1644~78年:太田氏(2代、3.5→3.2万石)
・1678~1702年:青山氏(3代、5万石)宗俊が老中
・1702~29年:本庄松平氏(2代、7万石)
・1729~49年:大河内・長沢松平氏(2代、7万石)信祝が老中
・1749~58年:本庄松平氏(再任・2代、7万石)
・1758~1817年:井上氏(3代、6万石)正経が老中
・1817~45年:水野氏(2代、6→7万石)忠邦が老中
・1845~68年:井上氏(再任・2代、6万石)正直が老中

水野忠邦肖像画、東京都立大学図書情報センター蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天守は早期に失われたようで、天守曲輪には天守門と裏門の埋門だけが残りました。本丸には鉄門や富士見櫓などがありました(建物については不明)。二の丸には城主屋敷や藩庁があり、藩政の中心になっていました。その南側には三の丸が整備され、侍屋敷が置かれ、南端に大手門が築かれました。その大手門を基点に東海道が設定され、その街道沿いには町屋が形成されました。(段落全体⑦⑪⑫)

江戸時代(廃城時点)の城中枢部想像図、現地説明パネルより
浜松城略絵図(安政年間)、現地説明パネルより

リンク、参考情報

①「市長コラム 平成24年4月」浜松市ウェブサイト
②「新説 家康と三方原合戦/平山優著」NHK出版新書
③「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
④「静岡の城/加藤理文著」サンライズ出版
⑤「東海の名城を歩く 静岡編/中井均・加藤理文編」吉川弘文館
⑥「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
⑦「浜松城の変遷」浜松市ウェブサイト
⑧「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑨ 犀ヶ崖資料館展示
➉「徳川家康と9つの危機/河合敦著」PHP新書
⑪「浜松市史」
⑫ 浜松城展示

「浜松城 現地編」に続きます。

41.駿府城 その1

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。

立地と歴史(家康が3回住んだ城)

イントロダクション

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。一回目のときは今川氏の城で、二回目に家康自身の城になったのですが、このときまでの城の姿は謎に満ちているのです。それに大御所時代に築かれた巨大な天守は、短期間で燃えてしまい、日本最大と言われる天守台も明治期に壊されてしまいました。しかし近年発掘調査が行われ、明らかになりつつあります。この記事では、家康が住んでいた3つの時代毎に、駿府城の歴史と謎をご説明したいと思います。家康後の歴史もあります。

駿府城になる徳川家康銅像

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竹千代がいた今川氏の城

室町時代に駿河国守護だった今川氏が、いつ本拠地を駿府に置いたのかははっきりしません。しかし四代目の範政が、将軍・足利義教を「府中」に迎えているので、これ以降本拠であったことは確実です。駿府は、南を駿河湾、残り三方を山に囲まれていて、鎌倉のような地形になっています。要所には支城が築かれて、防御を固めていました。しかし、本拠にあった今川館(いまがわやかた)は、堀や土塁に囲まれてはいるものの、京都の公方亭のような華やかな建物だったと考えられています。今川氏の全盛期には、駿府は日本有数の平和で繁栄した街だったからです。

駿河国の範囲と駿府城の位置

城周辺の起伏地図

将軍亭「花の御所」、上杉本陶版「洛中洛外圖」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その今川館があった場所ははっきりとはわかっていません。現在残る本丸辺りだろうとも思えますが、城は後世かなり改変されてしまっているからです。発掘調査で発見された遺構や、文献資料などから、本丸・二の丸の範囲にあったことは確実なのですが、もっと絞れば、二の丸坤櫓辺りだろうとする意見があります。この辺が城内では標高が高く、富士山を望むような建物の配置になっていたと推定されるからです。この近くには、室町時代以来と思われる「四足御門」という名前の門が江戸時代までありました。

今川館の推定範囲(緑の線内)、駿府城東御門内にて展示

1549年(天文18年)、11代当主・今川義元の下、全盛期だった駿府城に、8歳の竹千代こと家康が、松平氏の人質としてやってきました。これまでこの「人質」時代は、家康の一生のなかで忍耐のときと捉えられてきましたが、実際には制限はあっても充実した生活を送っていたようです。有名な安倍川の石合戦のエピソードのほか、この頃から鷹狩りをしていました。そして今川氏からも配下の中で優遇され、元服後に義元から一字をもらって「元康」と名乗り、妻も義元の姪と言われる築山殿でした。更に「軍師」である太原雪斎から直接教育を受けました。家康は、今川氏の重臣となるよう期待されていたのでしょう。1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いの前には、今川氏の拠点、大高城に兵糧を運び入れる働きをしました。ところが、大将の義元が織田信長に討ち取られてしまったのです。家康はこれをきっかけに独立大名となります。

復元された「竹千代手習いの間」、駿府城巽櫓内にて展示

義元を失った今川氏は、凋落の道を辿ります。北は武田信玄、西は家康から圧迫を受け、1568年(永禄11年)ついに信玄は駿河侵攻を開始しました。後継ぎの今川氏真はそれに対峙しようとしますが、重臣の離反が相次ぎ、一戦も交えずに、西の掛川城に退去しました。駿府には武田軍が攻め込み、当時の駿府城・今川館も炎上しました。一つの時代が終わったことを象徴する出来事でした。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣大名・家康の城

織田信長が本能寺の変で倒れた後、家康は5か国を領有する大大名になっていました。当時の本拠地は浜松城でした。1584年(天正12年)には、天下人となる羽柴秀吉に小牧・長久手の戦いで対峙しました。その翌年(1585年、天正13年)、家康は駿府に本拠地を移しました。これは拡大した領国範囲に対応したものと言えますが、秀吉との再度の戦いに備えたものとも考えられます。その範囲は現在の本丸・二の丸程度でした。家臣の松平家忠の日記には、その築城過程が記録されています。築城は天正13年7月に始まり、翌年12月に家康が入城しました(下記補足1)。このときの城の姿は、それまでの浜松城などと同様、土造りの城であったと想定されています。家康は、本格的な石垣を築く技術や職人集団を持っていなかったのです。1587年、天正15年2月に城は一旦完成しました(「家忠日記」「当代記」)。

駿府城の航空写真(国土地理院)、二の丸ライン(赤線)を付加
家康時代の浜松城の想像図、現地説明パネルより

(補足1)「駿河府中普請」のため、家忠が出張(「家忠日記」天正十三年八月十四日付)「御かまへ二のくるわ堀(二の丸の堀)普請候」(同天正十五年二月五日付)「殿様今日駿へ御座候由候」(同天正十五年十二月四日付)

家忠日記(複製)、駿府城東御門内に展示

ところが、それと同時に新たな工事の準備が始まりました。石垣の工事でした(下記補足2)。その直前、1586年、天正14年10月、家康が上洛し秀吉に臣従していました。それを境に始まったのです。「石垣の城」を築かなかった家康に、豊臣政権が関与したことが記録上からも伺えます(下記補足3)。更には、「てんしゅ(天守)の材木を準備したという記録も見られます(下記補足4)。しかし記録からでは、石垣や天守の規模はわかりません。

(補足2)「城普請出来候、石とり候(「家忠日記」天正十七年二月付)」「来一日より駿河御城御普請候由、酒左衛門督(酒井忠次)より申来候」(同天正十五年九月十七日付)
(補足3)「てんしゅの才木てつたい普請あたり候」(「家忠日記」天正十六年五月十二日付)
(補足4)「駿河府中の石垣の普請あり、去る去る年より、事始めあると雖も、上方不快の間、指て事行ず。いま、秀吉公入魂せしめたまい、普請宜々、出来の間、浜松より北の方をも引越し給う。」(「当代記」天正十五年丁亥二月付)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

2016年、大御所時代の天守台の発掘調査が行われましたが、その下から天正時代の当時としては巨大な天守台と、大量の廃棄された金箔瓦が発見されました。天守台の大きさは秀吉の大坂城をもしのぎ、天下人クラスのものでした。そのため、当初は家康が築いたものとはされず、家康が関東に移った後駿府に来た、中村一氏のときに築かれたのではないかとされました。一氏は秀吉の家臣(当時は秀次家老)だったので、秀吉の肩入れで築かれたということです。関東周辺には、秀吉の家臣による総石垣・金箔瓦の天守がいくつも築かれ、家康包囲網ともいうべき城郭ネットワークが構成されました。駿府城もその一つと考えられたのです。見つかった金箔瓦は一か所に廃棄されていて、家康が再度城を築くときに意図的に壊されたとも言えるのです。

発掘された天正期の天守台
出土した金箔瓦、駿府城東御門内にて展示
中村一氏像、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところがまた事態は一変します。2019年に天守台に付随する小天守台が発見されたのです。これは家康家臣の記録の一つ「小傳主(小天守)を築く」と一致するということになったのです(下記補足5)。にわかにこの巨大天守は家康が築いたという可能性が出てきたのです。学者の中には、この時期に家康が独力で石垣・天守を築く能力を身に着けたと考える人もいます。しかし一方で、一連の石垣・天守工事は小田原合戦準備のため短期間で終わっていて、その間にこれだけのものを築けたのかという疑問もあります。また、家康が関東に移った当初の江戸城はとても質素で、豪華な石垣や天守は関ヶ原合戦の後と考えられているので、それとの整合性はどうなのでしょうか。それから見つかった金箔瓦は、織田系・豊臣系両方の特徴を示していて、独自性が感じられます。このことは家康築城説に有利なのかもしれません。発掘調査は2020年に終了しましたが、今後の研究成果が期待されます。

(補足5)「小傳主てつたい普請當候」(「家忠日記」天正十七年二月十一日付)

駿府城の金箔瓦(複製)、左側が豊臣系、右側が織田系の特徴をもつ、駿府城東御門内にて展示

天下人・大御所の城

関ヶ原合戦の勝利、征夷大将軍就任により天下人となった家康は、1605年(慶長10年)早くも将軍職を後継ぎの秀忠に譲りました。その隠居城となったのが駿府城です。馴染みのある地で余生を楽しむという感じも受けますが、実際には自由な立場で天下の政権運営を行うためでした。家康は将軍時代、ほとんど上方の伏見城にいたので、江戸との中間点で、両方目配せができる場所を選んだのでしょう。また、大坂城の豊臣方が西国大名とともに江戸を攻める場合、防衛線にもなりうる拠点でした。1607年(慶長12年)、天下普請により新たな築城が始まりました。その範囲は、現在の三の丸が追加される形と考えられますが、中身は大改修となりました。三の丸のラインが二の丸以内とずれているのは、城下から見て、富士山と天守が同時に視界に入る仕掛けと言われます。慶長12年中にほぼ完成していましたが、12月22日、本丸・天守が全焼してしまいました。これは奥女中の火の不始末が原因とされますが、火事は度々起きていて、豊臣方の策謀ではないかという説もあります。再建工事が直ちに開始され、翌1608年、慶長13年8月14日に家康が入城しています。

駿府城の航空写真(国土地理院)、三の丸ライン(緑線)を付加
石垣工事のジオラマ、駿府城東御門内にて展示

城の中で際立つのは、まず天守台です。2016年からの発掘調査の結果、一番下の部分(基底部)で東西約63m、南北約69m、という日本最大規模であったことがわかりました。残っている記録(陸軍実測図)によると、最も高い部分(天端)でも東西約48m、南北約50mで、最盛期の江戸城・大坂城をしのぐものでした。また、天守は天守台一杯に築かれたのではなく、周りを櫓と渡櫓が囲み、中心部に天守が立つという珍しいスタイルでした(環立式)。天守の建物は6重7階で、高さは約33mありました。屋根には貴重な銅瓦(+金属瓦)が用いられていました(家康時代の江戸城も銅瓦を使用)。ただしどんな外観だったかは、詳細な設計図がなく、短期間で焼失したため(1610年完成、1635年焼失)、よくわかっていません。いくつか絵図が残されていますが、異なった描き方をされています。今後の研究の進展が待たれます。

発掘された慶長期の天守台
天守台模型、駿府城東御門内にて展示
駿府城天守の模型、発掘情報館「きゃっしる」にて展示

城全体ですが、平城であっても三重の堀で囲まれ、戦いに備えていました。西側の方が標高が高く攻められやすいため、防御が厳重でした。三の丸西側には門がなく、二の丸西側の清水御門は上げ下ろしができる跳ね橋だったようです。坤櫓のような櫓も厳重に守りを固めていました。他の方角にある門も、大鉄砲等も破壊されにくい、内枡形構造となっていました。そのうちの一つ、東御門が現在復元されています。その他、城内を仕切るための仕切石垣も採用されていました。駿府城独特のものとしては、本丸堀と二の丸堀をつなぐ水路が作られ、堀の水位を保てるようになっていました。また、天守台には、全国的に珍しい井戸が設けられ、籠城にも備えていました。

駿府城模型、駿府城東御門内にて展示
復元された坤櫓
復元された東御門
二の丸水路

一方で大御所・家康がいた駿府城は、日本の政治の中心地の一つになりました。家康が生活し、政務を執ったのは本丸御殿です。本田正純などが側近として仕え、江戸の秀忠と分担して二元政治を行っていました。そのうち軍事・外交に関しては家康が取り仕切っていたため、駿府には、諸大名だけでなく、外国使節も訪れ、日本の首都機能の一翼を担うような都市になりました。1609年(慶長14年)からは、家康十男・頼宜が駿府城主になり、家康と一緒に過ごしました。1614年(慶長19年)、大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件が起こり、家康が、弁明のために駿府城に来た片桐且元には面会せず、後から来た大蔵卿には面会することで、豊臣方の分断を図ったというエピソードは有名です。家康は、大坂冬・夏の陣とも駿府城から出陣し、豊臣氏を滅ぼした翌年(1616年、元和2年)に亡くなった場所も駿府城でした。

家康の洋時計(複製)、発掘情報館「きゃっしる」にて展示
徳川頼宜肖像画、和歌山県立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

徳川頼宜は、1619年(元和5年)に和歌山に移っていきました。その後、秀忠の三男・忠長が駿府城主になりますが(1624年、寛永元年)、兄の3代将軍・家光により改易されました(1632年、寛永9年)。以降は幕府直轄になり、城代が置かれました。城外には城を警備する加番も置かれました。幕府の「聖地」を守るお役目です。1634年(寛永11年)には家光の宿泊所として使われましたが、翌年の火災で天守・御殿・櫓などが全焼、天守は再建されませんでした。その後も地震などで度々被害があり、将軍の上洛もなくなったことで、本丸御殿などの規模は縮小していきました。

加番の一つ、三加番の屋敷跡

そして幕末の動乱を迎えたとき、駿府城は再び注目を浴びました。鳥羽・伏見の戦いの後、新政府の東征軍が組織され、江戸に向かって行軍してきたのです。そのときは江戸の「最後の将軍」徳川慶喜は恭順の方針であり、名古屋城を擁する尾張藩も新政府に付いていました。最期の駿府城代・本多正納(まさもり)は城を開け渡ざるをえませんでした。1868年、慶応4年3月、新政府の拠点となった駿府に、慶喜・勝海舟の使者として山岡鉄舟がやってきました。彼は、新政府参謀の西郷隆盛と面会し、江戸開城の条件交渉を行いました。それが有名な勝・西郷会見につながったのです。江戸開城が成ると、慶喜を継いだ徳川家達(いえさと)が駿府藩主として駿府城に入城しました。家康の子孫がまた戻ってきたのです(廃藩置県後は東京に移住)。慶喜も水戸謹慎後は、駿府改め静岡に移住し、1897年(明治30年)まで暮らしました。

西郷・山岡会見の史跡碑
明治初期の徳川家達

明治時代になると、城は陸軍が管轄していましたが、建物は売却され、城内は荒れ果てていきました。三の丸の部分は市街地化しました。1889年(明治22年)になってようやく「廃城」扱いになり静岡市に払下げされましたが、その使い道は陸軍の誘致でした。1896年(明治29年)にはついに天守台が崩され、本丸堀が埋められました。二の丸以内が歩兵第34連隊の敷地になったのです。戦後は都市公園「駿府公園」として再出発しますが、堀の埋め立てや石垣の破壊が続いていました。1975年(昭和50年)から発掘調査が行われ、それから史跡として注目されるようになります。その到達点として、1996年(平成8年)東御門・巽櫓復元、2014年(平成26年)の坤櫓の復元があります。公園の名前も2012年(平成24年)に「駿府城公園」に変更されています。

駿府城の復元された巽櫓

「駿府城 その2」に続きます。

204.佐和山城 その1

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

立地と歴史

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。彦根駅をスタート地点とした場合、彦根城は西口から向かいます。佐和山城(跡)は、東口の方に行くと、佐和山城の案内と、城があった佐和山が目に入ってきます。それでは、佐和山城といえば、何を思い浮かべるかというと、やはり「石田三成」ということになるでしょう。「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近と佐和山の城」という俗謡が有名です。しかし、この城は三成の時代のもっと前から、重要な役割を果たしていたのです。そして、その役割は変化しながら三成に受け継がれたのです。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

彦根城
佐和山城跡

南北近江の境目の城

佐和山城があった近江国(現在の滋賀県)は、京都に近く、早くから産業(農漁工商)や交通(水陸)が発達していました。よって領主や城の数も多く、室町時代には南近江・北近江それぞれに守護が置かれ、分割統治されていました。南近江は六角氏、北近江は京極氏で、北近江の範囲は京極5郡(伊香・浅井・坂田・犬上・愛知)と呼ばれたりしました。戦国時代になると、家臣の浅井氏が京極氏に取って代わり、戦国大名として六角氏と対立しました。佐和山城は、その南北近江の国境近くにあり(位置としては坂田郡)、両勢力の争奪の対象となりました。似たような位置づけの城としては、近くの鎌刃城が挙げられます。

近江国の範囲と城の位置

鎌刃城跡

佐和山城が最初に築かれたのは、鎌倉時代に遡ると言われています(下記補足1)。「境目の城」として現れるのは、1552年(天文21年)のことです。当時は六角氏の勢力が大きく、佐和山城は六角氏が有していました。その年に当主の六角定頼が亡くなると、跡継ぎの義賢は佐和山城を拠点(後詰)に北近江の浅井久政領に攻め込みます。ところが、逆に久政の反撃を受け、佐和山城は浅井氏のものになりました。その後、両者は攻防や和睦を繰り返しますが、佐和山城はおおむね浅井氏が維持しました。1561年(永禄4年)以後は、浅井氏の重臣、磯野員昌が最前線の城として守っていました。

(補足1)佐保山(佐和山)ハ昔佐々貴十代ノ屋形太郎判官定綱ノ六男佐保六郎時綱居住ノ所ナリ(淡海温故録)

江戸時代の浮世絵に描かれた六角義賢  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅井久政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代の浮世絵に描かれた磯野員昌 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

六角氏の観音寺城、浅井氏の小谷城・鎌刃城は、早くから石垣が導入された事例として知られています。もしかすると、佐和山城にもこのころから石垣が築かれていたかもしれません。

小谷城の石垣
鎌刃城の石垣

信長の近江国での居城

やがて織田信長が台頭すると、佐和山城も新たな局面を迎えます。浅井家の当時の当主、浅井長政は信長と同盟を結び、1568年(永禄11年)の信長上洛時には、宿敵の六角義賢を駆逐しました。このとき、信長は佐和山城に入り、長政と初対面したと伝わります。ところが、2年後の1570年(元亀元年)に信長が朝倉氏を攻めると、突如長政は信長に敵対します。同年6月、信長・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で姉川の戦いが起こり、信長方が勝利しました。磯野員昌は翌年2月まで、佐和山城に籠城しますが、ついに降伏開城しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

以降、信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配置しました。佐和山城は、東西日本を結ぶ東山道が傍を通っていて、当時の信長の本拠地・岐阜城と京都の中間点に当たりました。信長にとっても重要な拠点だったのです。それだけでなく、信長は佐和山城に頻繁に滞在しました。信長の伝記「信長公記」には、元亀2年以後13回も信長が滞在した記録があります。同国に自身の本拠、安土城を築くまでは、佐和山城を近江国での居城としていたのです。

丹羽長秀肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特に、1573年(元亀4年)5月からは、大船建造のため、2ヶ月も滞在しています(下記補足2)。この当時は、琵琶湖の付属湖の一つ、松原内湖(まつばらないこ)が、佐和山城のすぐ近くまで入り込んでいました。その松原で、信長は陣頭指揮を取り、長さ約53メートル、幅約13メートルもの当時としては巨船を建造したのです。信長は早速、7月6日にその船で坂本まで乗り付け、26日には高島攻めにも使いました。ところが、その大船の活躍の記録はそれきりで、3年後には解体され、十艘の小舟に作り替えられてしまったのです(下記補足3)。湖で使うには大きすぎて、入れる港や場所が限られたためです。それでもその後、城主の丹羽長秀は安土城普請の総奉行となり、大船建造の棟梁・岡部又右衛門は天主建築の大工頭を務めました。

(補足2)五月廿二日、佐和山に御座を移され、多賀・山田山中の材木をとらせ、佐和山山麓の松原へ勢利川通り引下し、国中鍛冶、番匠、杣(そま)を召し寄せ、御大工岡部又右衛門棟梁にて、舟の長さ三十間・横七間、櫨(ろ)を百挺立てさせ、艫舳(ともえ)に矢蔵を上げ、丈夫に致すべきの旨、仰せ聞かせられ、在佐和山なされ、油断なく夜を日に継仕候間、程なく、七月五日出来訖。事も生便敷(おびただしき)大船上下耳目を驚かす、案のごとく(信長公記)

(補足3)先年佐和山にて作置かせられ候大船、一年公方様御謀反の砌、一度御用に立てられ、此上は大船入らず、の由候て、猪飼野甚介に仰付けられ取りほどき、早舟十艘に作りをかせられ(信長公記)

大船の模型、安土城考古博物館にて展示

信長は後に、安土城を中心とする琵琶湖岸の城郭ネットワークを構築し、支城には重臣を配置します。佐和山城は水上交通の拠点でもあったので、その中でも最重要の支城の一つになりました。佐和山城跡からは、信長時代のものと思われる瓦片(コビキA)が発見されています。瓦葺きの建物があったということです。他の琵琶湖岸の支城、坂本城には「天主」があったという記録があるのと、信長が長期滞在していることから、佐和山城にもこの頃から「天主」があってもおかしくはありません。一歩譲って、石垣の上に、信長のための御殿はあったのでしょう。

安土城天主模型、安土城郭資料館にて展示

秀吉領国の最前線→そして三成登場

1582年(天正10年)本能寺の変が起き、信長が明智光秀に討たれますが、その後は豊臣(羽柴)秀吉が天下統一を進めます。1584年(天正12年)に、徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起きたときには、近江国は秀吉領の最前線に当たりました(味方の池田氏が美濃国にいましたが)。佐和山城には、秀吉の重臣・堀秀政が入っていました。秀政が出陣するときには、多賀秀種を城代としていました。秀種は、後に大和国(奈良県)の宇陀松山城を整備したことでも知られています。この頃「広間之作事」を行ったという記録があるので、佐和山城の拡張も行ったのでしょう。(堀秀政書状、多賀文書)

堀秀政肖像画、長慶寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
多賀秀種肖像画、石川県立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇陀松山城跡

翌年には、近江国に当時の秀吉の後継者候補・豊臣秀次の居城・八幡山城が築かれました。佐和山城には、秀次を補佐する堀尾吉晴が配置されました。吉晴は、後に浜松城の天守・石垣を整備した人物です。家康との緊張関係は続いていたため、佐和山城も更に強化されたと見るべきでしょう。関ケ原の戦いのときには天守があったことが記録されていますが(伊達家文書・結城秀康書状)吉晴の時代までに整備されていたのではないかという意見もあります。天守は5層であったという伝承もありますが(西明寺絵馬)、山上の天守なので3層程度であろうという推定もあります(中井均氏など)。

八幡山城跡
堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浜松城の復興天守と現存石垣
佐和山の山麓にある5層天守の模型

1590年(天正18年)の小田原合戦により秀吉の天下統一がなされると、家康が関東に移り、秀次とその家老たちも東海地方に移っていきました。秀吉の家康に対する前線が東に移動したことになります。その空いた近江国は秀吉の直轄領になりますが、その代官として佐和山城を任されたのが石田三成だったのです(彼自身の領地は美濃国にありました)。そして文禄の役(朝鮮侵攻)の後、1595年(文禄4年)頃、佐和山城を含む北近江の大名(約20万石)となりました。三成は文禄の役のとき、他の奉行とともに朝鮮に渡り、中央と現地との調整に奔走していて、その論功とも考えられます。

石田三成肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三成自身は秀吉を支える最側近であり(秀吉が病のときには片時も離れることを許さなかったといいます)、政権の奉行として国内外の政策(各大名の取次・指導、太閤検地、朝鮮侵攻など)に多忙であり、城にはほとんどいませんでした。そのため城を守っていたのは、父親の正継や兄の正澄でした。領地の統治は、家臣の嶋左近などに任せていました。

石田正継肖像画(写)、妙心寺寿聖院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、その方針については、三成が1596年(文禄5年)に領内に発布した掟書が残されています。
その掟書には、主には以下のことが定められていました。
・領主側の夫(人足)遣いの制限
・検地帳記載者に対する耕作権の保証
・年貢率の決定プロセスの明示化
・升の公定と統一
・身分確定と居住地の固定化
・百姓訴訟権の保証(目安)など
領民として認められる権利と、それに対応する義務が明確化されていました。他の大名と比べ、きめ細かさが際立っていて、三成が優れた官僚・民政家だったことが伺われます。三成の時代には、城全体を惣構(土塁・堀)で囲んだという記録があり(須藤通光書状)これが城の完成形と言われています。大手門や城下町は、もともと東側の山麓にありました。しかし、三成の居館は西側にあったとされるので、城の大手や城下町が、西側に移動または拡張したとも考えられます。

「佐和山城古図」彦根市立図書館蔵

井伊家つなぎの城

秀吉が亡くなると、三成は豊臣政権の中枢である5奉行の一人となりました。ところが、いわゆる「三成襲撃事件」の収拾策として、佐和山に隠退となりました。その後はご存じの通り、西軍の総大将として、1600年(慶長5年)9月15日、関ケ原で家康と戦い敗れてしまいました。しかし、総大将は大坂を動かなかった毛利輝元であり、三成は現地司令官として悪戦苦闘したという見方もあります。三成は佐和山城に戻れず、北近江の領内に潜伏しているところを捕縛され、京都で斬首となりました(嶋左近は関ケ原で戦死)。佐和山城は、関ケ原の2日後、東軍に包囲され落城しました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦後、三成の領地は、家康の筆頭家老ともいうべき井伊直政に与えられました。今度は、大坂に居座る豊臣家に対する最前線・包囲網という位置づけでした。やはり、この地は家康にとっても重要な拠点だったのでしょう。そして、家康と井伊家は、新しい拠点として彦根城を築城します。しかし、井伊直政は当初、佐和山城に入城し、1602年(慶長7年)にそこで亡くなったのです。直政の家老たちの屋敷も、佐和山の山上にありました。彦根城を築城したのは、跡継ぎの直継なのです。

井伊直政肖像画、彦根城博物館 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐和山城の建物や石垣は、彦根城に部材として転用されました(下記補足4、5)。佐和山の南側の斜面は、不自然にえぐられていますが、石垣を搬出する経路だったのではないかという意見があります(中井均氏)。三成の城であったため、徹底的に破壊されたとの見解が多いですが、むしろ利用されたと言うべきでしょう。佐和山城の役割は、彦根城に引き継がれたのです。佐和山の山麓には、井伊家の菩提寺である清凉寺と龍潭寺が建てられ、山自体も「御山」として彦根藩により維持されました。山は今でも、両寺の所有となっています。

(補足4)石垣ノ石櫓門等マテ佐和山・大津・長浜・安土ノ古城ヨリ来ル(井伊年譜)

(補足5)本丸之天守茂只今之より高ク御拝領之後御切落シ被遊候由、九間御切落とも云又七間とも申候実説相知レかたく(古城御山往昔咄聞集書)

城周辺の起伏地図

清涼寺
龍潭寺

リンク、参考情報

・「近江佐和山城・彦根城/城郭談話会」サンライズ出版
・「近江の山城を歩く/中井均編著」サンライズ出版
・「佐和山城跡のご案内」彦根観光協会パンフレット
・「よみがえる日本の城22」学研
・「石田三成伝/中野等著」吉川弘文館
・「歴史群像153号、戦国の城 近江佐和山城」学研
・「信長と家臣団の城/中井均著」角川選書
・「週刊日本の城改訂版第21号」デアゴスティーニジャパン
・「堀尾氏ゆかりの城館を辿る」堀尾吉晴公共同研究会
・「佐和山城と石田三成/米原市柏原宿歴史館」稲枝地区公民館講座資料
・「文化財教室シリーズ124 近世の古城Ⅲ 佐和山城」滋賀県文化財保護協会
・「埋蔵文化財活用ブックレット5(近江の城郭1) 佐和山城跡」滋賀県教育委員会」
・「びわこの考湖学22・23」産経新聞滋賀版
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫

「佐和山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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