148.浜松城 歴史編

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。

イントロダクション

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。(以上下記①を参考、以下番号のみ記載)

浜松城にある徳川家康像

しかし、家康在城時代には数々の困難に見舞われました。三方原合戦、妻と子の粛清、本能寺の変、小牧・長久手の戦いなどです。このうち、浜松城と関連し、家康の生涯唯一の大敗と言われているのが「三方原合戦」です。この戦いは、家康が城を築く以前からの武田信玄との関係が伏線になっています。よって、浜松城と三方原合戦をメインストーリーとして展開していきたいと思います。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また現在残っている古風な石垣と、元あった天守は、家康と江戸時代の大名たちの間に城主になった堀尾吉晴が築いたとされています。最後の方では、その吉晴と江戸時代の大名たちの時代も触れてみます。

再建天守と現存石垣

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(浜松城と三方原合戦)

家康、遠江国に進出

1560年(永禄3年)桶狭間合戦が起こり、今川義元が織田信長に討ち取られると、今川方部将だった家康は岡崎城に入りました。これをもって家康自立と思ってしまいますが、実はこれは今川当主・氏真の許可・指示によるものだったのです。事実、家康は翌年(1561年)まで織田方と戦っています。しかし家康は苦戦し、氏真からの援軍もなかった(当時上杉謙信に対抗する北条氏の方に援軍を送っていた)ため、織田信長との同盟に踏み切ったのです。氏真は三河侵攻を計画しますが、間の遠江国で「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる反乱が起こり、それどころではなくなりました(三河侵攻のために課税したのに実施しなかったことが一因と言われます)。一方、家康のお膝元でも「三河一向一揆」が起こります。しかし1566年(永禄9年)までに一揆を鎮圧し、三河国を統一しました(永禄9年12月29日、徳川三河守家康)。(段落全体②)

「集外三十六歌仙」の今川氏真  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1568年(永禄11年)、前年に美濃を平定した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛しようとしていました。彼はそのことについて、上杉・武田・朝倉の了解を取り付けていました。問題は、留守中に今川に背後を衝かれる可能性です。そのため、信長は武田の今川攻めを認めたのです。その一翼を担ったのが家康です。徳川と武田は、今川攻めに関わる同盟を結びました。その内容は、大井川を境に駿河を武田、遠江を徳川が領有するというものでした(下記補足1)。(段落全体②)

(補足1)扨(さて)又、甲斐ノ武田之信玄ト仰合て、家康ハ遠江ヲ河切に取給え、我ハ駿河ヲ取ント仰合て、両国へ出給ふ(「三河物語」永禄十一年・第二中)
さて、甲斐の国の武田信玄を連絡をとって「家康は遠江を大井川までとれ、わたしは駿河をとろう」と申しあわせて、駿河・遠江両国へ出陣した(現代語訳③)

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

両軍は一斉に今川領に侵攻しました。武田軍は駿河に侵攻、今川氏真は掛川(懸川)城に退去しました。しかし今川と同盟を維持していた北条氏の反撃を受けます(一旦駿河から撤退)。一方、徳川軍の遠江侵攻は順調で、二俣城・引間(曳馬)城・高天神城などを開城させ、氏真が籠る掛川城を包囲しました。実は武田は、徳川との境界線を遠江の天竜川と考えていたらしく、遠江にも出兵してきましたが、家康が信玄に抗議し、撤兵させました。(下記補足2)家康が強気に出られる状況だったのです。(段落全体③)

(補足2)家康は使いをやった。「大井川を境に、駿河を信玄の領分、大井川を境に遠江が(家康の)領分と定まっているのに、秋山が出陣してきたのは横車を押すことになる。すぐに引きかえされよ」とおっしゃった。(「三河物語」現代語訳③)

現在の掛川城

1569年、永禄12年5月、家康は今川・北条と和睦し、掛川城も開城となり、今川氏真は北条氏に引き渡されました。ここに遠江国はほぼ家康の支配下に入りました。しかしこの和睦は武田との盟約違反でした。翌年(1570年、元亀元年)、家康は武田信玄と断交、信玄の宿敵・上杉謙信と同盟を結びました。信玄は激怒、ところが何もできませんでした。ここで家康と開戦すれば、織田・上杉・北条から一斉に攻められる可能性があったからです。信玄のこの憤懣は三方原合戦の伏線になっていきます。

浜松築城

遠江を支配することになった家康は、支配を安定させ、武田の脅威に備えるため、国府があった見付に居城を移すことにし、築城工事を始めました(城之崎城)。しかし途中で中止しました。仮に信玄と戦うことになった場合、西側の天竜川を背後にする「背水の陣」になってしまうためと言われます。町としての発展や、本国・三河や織田信長との連携も考慮したのでしょう。また、信玄が家康が見付に本拠を置くことを有利とみてほくそ笑み、信長がその危うさを悟って家康を説得したとする史料まであります(下記補足3)。そこで家康は、川の西側の「浜松荘(はままつのしょう)」の中心であった「引間城」「引間(曳馬)宿(ひくまのしゅく)」の地に居城を作り直すことにしました。これが浜松城で、1570年(元亀元年)のことでした。家康は29歳から45歳(1586年)までここを本拠にしました。(段落全体②④⑤⑥、下記補足4)

(補足3)右のやうす甲州へ聞え家康様を信玄ことことしく御ほめの由、上方へももれ聞へて信長公より御異見有て、見付の新城やめさせられ候、(「石川正四見聞集」)

(補足4)然間、見付之国府ヲ御住所に被成、城ヲ取、原に各々屋敷取ヲシテ住マせ給ひケルガ、爰(ここ)ハ不被可然トテ、浜松え引カせラレ給ひて、御城ヲコシラエ給ひ、御住所ヲ定サせ給ふ(「三河物語」)

遠江国の範囲と浜松城の位置

見付の城(城之崎城)跡

元あった引間城は、宿場を見下ろす丘陵に築かれ、水堀に囲まれていました。更には、東側は当時あった天竜川のもう一本の本流(小天竜)、北側は崖地帯、南から東にかけては低湿地という自然の障壁によって守られていました。家康は、西側の丘陵地帯に城域を拡大し、そちらを中心部とし、名も「浜松城」と改めました。引間城の地は「古城」と呼ばれ、新城の一部になりました。城は更に南に拡大していきます。(段落全体⑥)

城周辺の起伏地図

家康時代の浜松城の姿ははっきりしません。しかも城の本格的な改修が始まるのは1577年(天正5年)です。三方原合戦(1572年)のころは、武田侵攻に備え支城網の改修を優先していたと考えられます。それでも、合戦に敗れ家康が城に撤退したときの記録に「西の門」「大手の門」古城にあった「玄黙口」というのが出てくるので(下記補足5)、新城に古城が取り込まれた形にはなっていたのでしょう。(段落全体⑤⑥)やがて武田との戦いの中で、武田築城術を取り込み、浜松城にも生かしていったと考えられます。例えば「横堀」の採用により、北側の「佐左曲輪」や南側の出丸を取り込んだことが挙げられます。(以上⑤⑥)東海道も城近くに付け替え、城下町も造られました。(②)家康により拡張された浜松城は、江戸時代天守曲輪・本丸・二の丸・西端城曲輪・清水曲輪・作左曲輪・出丸等の範囲と考えられます。(⑦)

(補足5)三方ヶ原を退き西の門からは入られず、遥かに大手の門より門外に乗廻し、東に向ひ北に至て、玄黙口より入られた(「鳥居家中興譜」)

家康在城時の浜松城のイメージ図、現地説明パネルより

家康の居住空間は、最高地点の現・天守曲輪だったと考えられますが、面積は狭く、自然地形を生かしたものでした。また、城は土造りで、曲輪は土塁で囲まれ、屋敷も板葺きだったと想定されています。その頃、織田信長や有力家臣は瓦葺きの天守・石垣を持った城を築いていました。徳川氏はそのような城を築かせる技術者集団をまだ使うことができなかったのです。家康が石垣の城を築くのは、次の居城・駿府城からになります。(段落全体⑤⑥⑦)

家康在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

決戦!三方原

1571年(元亀2年)信玄は領国内で大動員を開始しました。翌年にかけては北条との同盟を復活させました。一方、織田との同盟を強化すると見せかけながら、家康家臣の調略も行っていました。1572年、元亀3年10月、ついに信玄は出陣、遠江に侵攻しました。信玄は「三ヶ年の鬱憤を散じるため」と喧伝しています。それだけ家康を恨んでいたのです。信玄はまず要衝の高天神城を確保、掛川城を孤立させて、西に進みました。家康はこれ以上の落城・家臣の離反を防ぐため、天竜川を越えて出陣しました。しかし不利と見て撤退しようとしたところ、武田軍の動きが速く、追いつかれてしまい、一言坂合戦が起こりました。ここで家康の窮地を救ったのが本多忠勝です。この様子を武田家臣(小松右近助の近習)が歌に詠んでいます(下記補足6)。家康は無事浜松に戻りましたが、以前築城した見付まで武田に制圧されました。(段落全体②)

(補足6)家康に すぎたるものハふたつあり からのかしらに 本多平八(「軍艦」)

高天神城跡
一言坂の戦跡
本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田の別働隊(山県・秋山勢)も北遠江・奥三河に侵入しました。長篠城・井伊谷(いいのや)が武田の手に落ちました。そして信玄本隊は、天竜川をさかのぼり、徳川方の要衝・二俣城も11月末日(晦日)に落城させました。浜松城は、北・東を包囲され、連絡道は西の浜名湖(今切)経由だけになってしまったのです。(段落全体②)

長篠城跡

信玄は二俣城を本陣とし、12月22日に再び動き出しました。武田軍は浜松城を目指しているかに見えましたが、北西の三方原台地に上がりました。徳川方は、武田の目標が本国三河にあると想定しました。家康は直ちに出陣し、その途上で軍議を行いました(下記補足7,従来は浜松城で軍議を行ったという記述が多かった)。しかしすぐ開戦になったわけではなく、徳川軍は武田軍を追いながら機会を伺っていたのです(台地(祝田坂)を下り始めるのを待っていたようです)。(段落全体②➉)

(補足7)元亀三年壬申十二月廿二日、家康、浜松より三理に及で打出させ給いて、御合戦を可被成と仰けれバ、各々年寄共の申上けるハ、今日之御合戦、如何に御座可有候う哉、敵之人数を見奉るに、三万余と見申候、其上、信玄ハ老武者と申、度々の合戦になれたる人なり、御味方はわづか八千之内外御座可有哉と申上けれバ、其儀ハ何共あれ、多勢にて我屋敷之背戸をふミきりて通らんに、内に有ながら、出てとがめざる者哉あらん、負くれバとて、出てとがむべし、そのごとく、我国をふミきりて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉、菟角、合戦をせずしてハおくまじき、陣ハ多勢・無勢にハよるべからず、天道次第と仰せけれバ、各々是非に不及とて、押寄けり、(「三河物語」)
元亀三年十二月二十二日、家康は敵が浜松から三里のところまでやってきて、出撃する。「一合戦しよう」とおっしゃると、年寄たちが皆「今日の合戦はどうでしょうか。敵の人数は三万あまりと思われます。信玄は熟練の武者でもあり、たびたびの合戦をへた手だれの者です。しかも、味方はわずかに八千ほどでございますから」と申し上げる。「そのことはしょうがない。多勢が自分の屋敷の裏口をふみ破って通ろうとしているのに、家のなかにいて、でてとがめだてしない者があろうか。負けたら負けたときと、でてとがめるであろう。それと同じで、自分の国をふみ破って通るのに、多勢だからといってどうして、出陣して、とがめないでおかりょうか。ともかく合戦をしないでは、おかれまい。戦さは多勢無勢で結果が決まるわけではない。天運のままだ」とおっしゃると、みなもあれこれいうこともなく、攻めよせた。(現代語訳③)

三方原古戦場碑

最近の説では、開戦のきっかけは、武田軍が再度進路を変更し、浜名湖の半島にある堀江城に向かったこととされます。織田信長の伝記「信長公記」にそれを裏付ける記述があります(下記補足8)。堀江城は浜名湖水運を掌握する要所であり、もし敵の手に落ちると浜松城が完全に孤立してしまいます。信玄の狙いはそこにあり、家康としては絶対阻止しなければならなかったのです。(段落全体②)

(補足8)これは遠江方面でのことである。十一月下旬、武田信玄が二俣の城を包囲した、という徳川家康からの報告が到着した。そこで、信長の家老衆、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元を大将として、軍勢を浜松へ参陣させた。しかし、すでに二俣の城は落城し、その勢いに乗って武田信玄は堀江の城をめざして進軍していた。(⑧)

徳川方の人数は、徳川約8千に織田援軍を加えると約1万1千、武田方は「三河物語」に3万とありましたが、約2万ではないかと言われます。いずれにせよ徳川方が不利です。信玄も慎重に様子を見ていたため、合戦が始まったのは午後4時頃(申刻)でした。足軽同士の小競り合いから本格的な戦いに発展したようです。天候は曇りから雪になり、酷寒の中での合戦でした。合戦の様子も「三河物語」に描写されています(下記補足9)。徳川方は善戦したものの、武田方の反撃で中央を突破、分断され、後は各個撃破されていきました。決着がついたのは午後6時頃(酉刻)と言われます。(段落全体②)

(補足9)信玄はたびたびの合戦に場慣れしていたので、すぐに魚鱗の陣をしき敵に向かった。家康は鶴翼の陣をしいたが、小勢だったので、手薄とみえた。信玄はまず足軽たちを送り、小石を投げさせた。それを家康の軍は相手にせず、いっせいに切ってかかると、早速一陣二陣を打ち破る。つづいて敵は新手を向けてきたが、その新手も破って、信玄の本陣に殺到した。信玄の本陣からも、いっせいに鬨の声をあげて攻めかかる。わずか八千の兵だったので、三万余の大敵と、粉骨砕身せりあったが、信玄の本陣に攻めかえされて、敗退した。(③)

徳川家康本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示
武田信玄本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

家康主従は、夜の闇のなか、一体になって撤退しました。家康の身代わりや殿になって討たれた家臣もいました(成瀬藤蔵、夏目広次、本多忠真など)。家康自身も、敵の待ち伏せにあい、自分の弓で射倒し、窮地を脱したといいます(下記補足10)。

(補足10)家康は、戦線の中央部を切り破られ、乱戦に巻き込まれた。左へ逃げて、三方ガ原の崖ぎわの一本道を退却した。敵は先回りして待ち受け、戦いを挑んだ。それを家康は馬上から弓で射倒し、駆け抜けて、浜松へ帰城した。この時に限らず、家康の弓の腕前は今に始まったことではなかった。(⑧)

敗走する家康主従のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

徳川方は大混乱に陥っていて、浜松城では家康が討たれたとの虚報が飛び交っていました。討たれた人数は、織田軍の大将の一人・平手汎秀を含め、約千名と言われています。浜松城に帰れなかった家臣も大勢いたようです(主な者・下記補足11)。浜松各地には家康が隠れた,匿われたという伝承が多くありますが、このことが元になっているのかもしれません。

(補足11)
・榊原康政:家康とはぐれ、西島に逃れた
・水野信元(織田援軍):今切の渡(浜名湖)または岡崎まで逃走
・中河兄弟:懸川城に逃れた
・山田平一郎:岡崎城に逃れ、家康が討たれたと知らせた

家康が城に戻った場所と言われる玄黙口

武田軍は追撃を続け、浜松城に迫りました。これを食い止めた場所が、浜松城北方の要害・犀ヶ崖です。崖の手前に留まった武田軍に対し、大久保忠世・天野康景の鉄砲隊が夜襲をかけました。混乱した武田の兵が崖に落ちたと伝えられています。(⑨)

犀ヶ崖
反撃する徳川軍鉄砲隊のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

武田軍は深追いをせず、翌12月23日には、目標としていた堀江城を攻撃しましたが落とせず、翌年元亀4年2月に野田城を攻略しました。ここから渥美半島の方に向かっても、浜松城と三河国を分断することができます。しかし武田軍が次に向かったのは、逆方向の長篠城でした。信玄の病のためと言われます。4月12日、信玄は信濃への撤退の途中で亡くなりました。家康と浜松城は、絶対絶命の危機を脱したのです。(②)

堀尾氏による改修、そして出世城へ

1586年(天正14年)、5か国の太守となっていた家康は、居城を東の駿府城に移しました。浜松城は家臣の菅沼定政に預けました(城代)。そして1590年(天正18年)に徳川氏が関東に移されると、浜松には豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が入城しました。秀吉の家康に対する備えの一環でした。現在残る天守曲輪・本丸の石垣は、この時代に築かれたと考えられています。天守門脇には巨石が配され、豊臣政権の権威を見せつけました。一方、天守曲輪西側の「屏風折れの石垣」は、城から側面攻撃ができるようにした実戦的な作りです。記録はありませんが、天守台石垣の上には天守も築かれたと考えられます(当時の瓦が見つかっています)。現在ある再建天守(3重)より大きく、堀尾氏が後に築いた松江城を参考に、4重天守が想定されています。2代目の忠氏のとき(吉晴は隠居)1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでの武功により、堀尾氏は加増転封となりました(12→24万石)。(段落全体④⑤)

堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
天守門の石垣
屛風折れの石垣
堀尾吉晴在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

江戸時代になると、浜松城は浜松藩の本拠、譜代大名の城として、なんと10家・22代の城主が入れ替わりました(下記補足12、家康からだと25代)。その中から老中6人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を輩出し「出世城」と呼ばれるようになります。なかでも天保の改革で有名な水野忠邦は、家康にあやかりたいと浜松城主に志願したと言われます。忠邦は見事老中に出世するのですが、失脚すると転封になり、以前の井上氏が復帰しています。(段落全体⑤⑪)

(補足12)歴代浜松城主となった大名家(江戸時代、⑪)
・1601~09年:桜井松平氏(1代、5万石)
・1609~19年:水野氏(1代、2.5→3.5万石)
・1619~38年:高力氏(1代、3.1→3万石)
・1638~44年:大給松平氏(1代、3.5万石)乗寿が老中
・1644~78年:太田氏(2代、3.5→3.2万石)
・1678~1702年:青山氏(3代、5万石)宗俊が老中
・1702~29年:本庄松平氏(2代、7万石)
・1729~49年:大河内・長沢松平氏(2代、7万石)信祝が老中
・1749~58年:本庄松平氏(再任・2代、7万石)
・1758~1817年:井上氏(3代、6万石)正経が老中
・1817~45年:水野氏(2代、6→7万石)忠邦が老中
・1845~68年:井上氏(再任・2代、6万石)正直が老中

水野忠邦肖像画、東京都立大学図書情報センター蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天守は早期に失われたようで、天守曲輪には天守門と裏門の埋門だけが残りました。本丸には鉄門や富士見櫓などがありました(建物については不明)。二の丸には城主屋敷や藩庁があり、藩政の中心になっていました。その南側には三の丸が整備され、侍屋敷が置かれ、南端に大手門が築かれました。その大手門を基点に東海道が設定され、その街道沿いには町屋が形成されました。(段落全体⑦⑪⑫)

江戸時代(廃城時点)の城中枢部想像図、現地説明パネルより
浜松城略絵図(安政年間)、現地説明パネルより

リンク、参考情報

①「市長コラム 平成24年4月」浜松市ウェブサイト
②「新説 家康と三方原合戦/平山優著」NHK出版新書
③「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
④「静岡の城/加藤理文著」サンライズ出版
⑤「東海の名城を歩く 静岡編/中井均・加藤理文編」吉川弘文館
⑥「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
⑦「浜松城の変遷」浜松市ウェブサイト
⑧「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑨ 犀ヶ崖資料館展示
➉「徳川家康と9つの危機/河合敦著」PHP新書
⑪「浜松市史」
⑫ 浜松城展示

「浜松城 現地編」に続きます。

204.佐和山城 その1

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

立地と歴史

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。彦根駅をスタート地点とした場合、彦根城は西口から向かいます。佐和山城(跡)は、東口の方に行くと、佐和山城の案内と、城があった佐和山が目に入ってきます。それでは、佐和山城といえば、何を思い浮かべるかというと、やはり「石田三成」ということになるでしょう。「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近と佐和山の城」という俗謡が有名です。しかし、この城は三成の時代のもっと前から、重要な役割を果たしていたのです。そして、その役割は変化しながら三成に受け継がれたのです。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

彦根城
佐和山城跡

南北近江の境目の城

佐和山城があった近江国(現在の滋賀県)は、京都に近く、早くから産業(農漁工商)や交通(水陸)が発達していました。よって領主や城の数も多く、室町時代には南近江・北近江それぞれに守護が置かれ、分割統治されていました。南近江は六角氏、北近江は京極氏で、北近江の範囲は京極5郡(伊香・浅井・坂田・犬上・愛知)と呼ばれたりしました。戦国時代になると、家臣の浅井氏が京極氏に取って代わり、戦国大名として六角氏と対立しました。佐和山城は、その南北近江の国境近くにあり(位置としては坂田郡)、両勢力の争奪の対象となりました。似たような位置づけの城としては、近くの鎌刃城が挙げられます。

近江国の範囲と城の位置

鎌刃城跡

佐和山城が最初に築かれたのは、鎌倉時代に遡ると言われています(下記補足1)。「境目の城」として現れるのは、1552年(天文21年)のことです。当時は六角氏の勢力が大きく、佐和山城は六角氏が有していました。その年に当主の六角定頼が亡くなると、跡継ぎの義賢は佐和山城を拠点(後詰)に北近江の浅井久政領に攻め込みます。ところが、逆に久政の反撃を受け、佐和山城は浅井氏のものになりました。その後、両者は攻防や和睦を繰り返しますが、佐和山城はおおむね浅井氏が維持しました。1561年(永禄4年)以後は、浅井氏の重臣、磯野員昌が最前線の城として守っていました。

(補足1)佐保山(佐和山)ハ昔佐々貴十代ノ屋形太郎判官定綱ノ六男佐保六郎時綱居住ノ所ナリ(淡海温故録)

江戸時代の浮世絵に描かれた六角義賢  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅井久政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代の浮世絵に描かれた磯野員昌 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

六角氏の観音寺城、浅井氏の小谷城・鎌刃城は、早くから石垣が導入された事例として知られています。もしかすると、佐和山城にもこのころから石垣が築かれていたかもしれません。

小谷城の石垣
鎌刃城の石垣

信長の近江国での居城

やがて織田信長が台頭すると、佐和山城も新たな局面を迎えます。浅井家の当時の当主、浅井長政は信長と同盟を結び、1568年(永禄11年)の信長上洛時には、宿敵の六角義賢を駆逐しました。このとき、信長は佐和山城に入り、長政と初対面したと伝わります。ところが、2年後の1570年(元亀元年)に信長が朝倉氏を攻めると、突如長政は信長に敵対します。同年6月、信長・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で姉川の戦いが起こり、信長方が勝利しました。磯野員昌は翌年2月まで、佐和山城に籠城しますが、ついに降伏開城しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

以降、信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配置しました。佐和山城は、東西日本を結ぶ東山道が傍を通っていて、当時の信長の本拠地・岐阜城と京都の中間点に当たりました。信長にとっても重要な拠点だったのです。それだけでなく、信長は佐和山城に頻繁に滞在しました。信長の伝記「信長公記」には、元亀2年以後13回も信長が滞在した記録があります。同国に自身の本拠、安土城を築くまでは、佐和山城を近江国での居城としていたのです。

丹羽長秀肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特に、1573年(元亀4年)5月からは、大船建造のため、2ヶ月も滞在しています(下記補足2)。この当時は、琵琶湖の付属湖の一つ、松原内湖(まつばらないこ)が、佐和山城のすぐ近くまで入り込んでいました。その松原で、信長は陣頭指揮を取り、長さ約53メートル、幅約13メートルもの当時としては巨船を建造したのです。信長は早速、7月6日にその船で坂本まで乗り付け、26日には高島攻めにも使いました。ところが、その大船の活躍の記録はそれきりで、3年後には解体され、十艘の小舟に作り替えられてしまったのです(下記補足3)。湖で使うには大きすぎて、入れる港や場所が限られたためです。それでもその後、城主の丹羽長秀は安土城普請の総奉行となり、大船建造の棟梁・岡部又右衛門は天主建築の大工頭を務めました。

(補足2)五月廿二日、佐和山に御座を移され、多賀・山田山中の材木をとらせ、佐和山山麓の松原へ勢利川通り引下し、国中鍛冶、番匠、杣(そま)を召し寄せ、御大工岡部又右衛門棟梁にて、舟の長さ三十間・横七間、櫨(ろ)を百挺立てさせ、艫舳(ともえ)に矢蔵を上げ、丈夫に致すべきの旨、仰せ聞かせられ、在佐和山なされ、油断なく夜を日に継仕候間、程なく、七月五日出来訖。事も生便敷(おびただしき)大船上下耳目を驚かす、案のごとく(信長公記)

(補足3)先年佐和山にて作置かせられ候大船、一年公方様御謀反の砌、一度御用に立てられ、此上は大船入らず、の由候て、猪飼野甚介に仰付けられ取りほどき、早舟十艘に作りをかせられ(信長公記)

大船の模型、安土城考古博物館にて展示

信長は後に、安土城を中心とする琵琶湖岸の城郭ネットワークを構築し、支城には重臣を配置します。佐和山城は水上交通の拠点でもあったので、その中でも最重要の支城の一つになりました。佐和山城跡からは、信長時代のものと思われる瓦片(コビキA)が発見されています。瓦葺きの建物があったということです。他の琵琶湖岸の支城、坂本城には「天主」があったという記録があるのと、信長が長期滞在していることから、佐和山城にもこの頃から「天主」があってもおかしくはありません。一歩譲って、石垣の上に、信長のための御殿はあったのでしょう。

安土城天主模型、安土城郭資料館にて展示

秀吉領国の最前線→そして三成登場

1582年(天正10年)本能寺の変が起き、信長が明智光秀に討たれますが、その後は豊臣(羽柴)秀吉が天下統一を進めます。1584年(天正12年)に、徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起きたときには、近江国は秀吉領の最前線に当たりました(味方の池田氏が美濃国にいましたが)。佐和山城には、秀吉の重臣・堀秀政が入っていました。秀政が出陣するときには、多賀秀種を城代としていました。秀種は、後に大和国(奈良県)の宇陀松山城を整備したことでも知られています。この頃「広間之作事」を行ったという記録があるので、佐和山城の拡張も行ったのでしょう。(堀秀政書状、多賀文書)

堀秀政肖像画、長慶寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
多賀秀種肖像画、石川県立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇陀松山城跡

翌年には、近江国に当時の秀吉の後継者候補・豊臣秀次の居城・八幡山城が築かれました。佐和山城には、秀次を補佐する堀尾吉晴が配置されました。吉晴は、後に浜松城の天守・石垣を整備した人物です。家康との緊張関係は続いていたため、佐和山城も更に強化されたと見るべきでしょう。関ケ原の戦いのときには天守があったことが記録されていますが(伊達家文書・結城秀康書状)吉晴の時代までに整備されていたのではないかという意見もあります。天守は5層であったという伝承もありますが(西明寺絵馬)、山上の天守なので3層程度であろうという推定もあります(中井均氏など)。

八幡山城跡
堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浜松城の復興天守と現存石垣
佐和山の山麓にある5層天守の模型

1590年(天正18年)の小田原合戦により秀吉の天下統一がなされると、家康が関東に移り、秀次とその家老たちも東海地方に移っていきました。秀吉の家康に対する前線が東に移動したことになります。その空いた近江国は秀吉の直轄領になりますが、その代官として佐和山城を任されたのが石田三成だったのです(彼自身の領地は美濃国にありました)。そして文禄の役(朝鮮侵攻)の後、1595年(文禄4年)頃、佐和山城を含む北近江の大名(約20万石)となりました。三成は文禄の役のとき、他の奉行とともに朝鮮に渡り、中央と現地との調整に奔走していて、その論功とも考えられます。

石田三成肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三成自身は秀吉を支える最側近であり(秀吉が病のときには片時も離れることを許さなかったといいます)、政権の奉行として国内外の政策(各大名の取次・指導、太閤検地、朝鮮侵攻など)に多忙であり、城にはほとんどいませんでした。そのため城を守っていたのは、父親の正継や兄の正澄でした。領地の統治は、家臣の嶋左近などに任せていました。

石田正継肖像画(写)、妙心寺寿聖院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、その方針については、三成が1596年(文禄5年)に領内に発布した掟書が残されています。
その掟書には、主には以下のことが定められていました。
・領主側の夫(人足)遣いの制限
・検地帳記載者に対する耕作権の保証
・年貢率の決定プロセスの明示化
・升の公定と統一
・身分確定と居住地の固定化
・百姓訴訟権の保証(目安)など
領民として認められる権利と、それに対応する義務が明確化されていました。他の大名と比べ、きめ細かさが際立っていて、三成が優れた官僚・民政家だったことが伺われます。三成の時代には、城全体を惣構(土塁・堀)で囲んだという記録があり(須藤通光書状)これが城の完成形と言われています。大手門や城下町は、もともと東側の山麓にありました。しかし、三成の居館は西側にあったとされるので、城の大手や城下町が、西側に移動または拡張したとも考えられます。

「佐和山城古図」彦根市立図書館蔵

井伊家つなぎの城

秀吉が亡くなると、三成は豊臣政権の中枢である5奉行の一人となりました。ところが、いわゆる「三成襲撃事件」の収拾策として、佐和山に隠退となりました。その後はご存じの通り、西軍の総大将として、1600年(慶長5年)9月15日、関ケ原で家康と戦い敗れてしまいました。しかし、総大将は大坂を動かなかった毛利輝元であり、三成は現地司令官として悪戦苦闘したという見方もあります。三成は佐和山城に戻れず、北近江の領内に潜伏しているところを捕縛され、京都で斬首となりました(嶋左近は関ケ原で戦死)。佐和山城は、関ケ原の2日後、東軍に包囲され落城しました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦後、三成の領地は、家康の筆頭家老ともいうべき井伊直政に与えられました。今度は、大坂に居座る豊臣家に対する最前線・包囲網という位置づけでした。やはり、この地は家康にとっても重要な拠点だったのでしょう。そして、家康と井伊家は、新しい拠点として彦根城を築城します。しかし、井伊直政は当初、佐和山城に入城し、1602年(慶長7年)にそこで亡くなったのです。直政の家老たちの屋敷も、佐和山の山上にありました。彦根城を築城したのは、跡継ぎの直継なのです。

井伊直政肖像画、彦根城博物館 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐和山城の建物や石垣は、彦根城に部材として転用されました(下記補足4、5)。佐和山の南側の斜面は、不自然にえぐられていますが、石垣を搬出する経路だったのではないかという意見があります(中井均氏)。三成の城であったため、徹底的に破壊されたとの見解が多いですが、むしろ利用されたと言うべきでしょう。佐和山城の役割は、彦根城に引き継がれたのです。佐和山の山麓には、井伊家の菩提寺である清凉寺と龍潭寺が建てられ、山自体も「御山」として彦根藩により維持されました。山は今でも、両寺の所有となっています。

(補足4)石垣ノ石櫓門等マテ佐和山・大津・長浜・安土ノ古城ヨリ来ル(井伊年譜)

(補足5)本丸之天守茂只今之より高ク御拝領之後御切落シ被遊候由、九間御切落とも云又七間とも申候実説相知レかたく(古城御山往昔咄聞集書)

城周辺の起伏地図

清涼寺
龍潭寺

リンク、参考情報

・「近江佐和山城・彦根城/城郭談話会」サンライズ出版
・「近江の山城を歩く/中井均編著」サンライズ出版
・「佐和山城跡のご案内」彦根観光協会パンフレット
・「よみがえる日本の城22」学研
・「石田三成伝/中野等著」吉川弘文館
・「歴史群像153号、戦国の城 近江佐和山城」学研
・「信長と家臣団の城/中井均著」角川選書
・「週刊日本の城改訂版第21号」デアゴスティーニジャパン
・「堀尾氏ゆかりの城館を辿る」堀尾吉晴公共同研究会
・「佐和山城と石田三成/米原市柏原宿歴史館」稲枝地区公民館講座資料
・「文化財教室シリーズ124 近世の古城Ⅲ 佐和山城」滋賀県文化財保護協会
・「埋蔵文化財活用ブックレット5(近江の城郭1) 佐和山城跡」滋賀県教育委員会」
・「びわこの考湖学22・23」産経新聞滋賀版
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫

「佐和山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

148.浜松城 その2

オリジナルの天守台石垣に、小さな復興天守が乗っかっています。

特徴、見どころ

公園入口へ

現在浜松城は、浜松城公園として開発されています。公園内には、天守曲輪と本丸の一部が残されています。もし浜松駅から公園の方に歩いていった場合、浜松市役所が左側に見えてきますが、ここは過去は二の丸の一部だったのです。市役所の北側から公園の入口への道に入っていきます。そうすると右側に、発掘中の本丸と二の丸がフェンス越しに見えます。そして、現代になって切り崩された本丸の断面によってできた壁に突き当たります。

城周辺の地図

浜松市役所
浜津城公園への入口
公園入口に向かう道
発掘中の二の丸と本丸の一部

よって、公園に入るにはその壁の右側か左側に回り込む必要があります。どちらの入口から入っても、本丸の残存部分に着きます。そこには、徳川家康の銅像があったり、土塁の上にある富士見櫓跡があります。

本丸の断面にある壁と公園入口への道標
右側の入口から本丸へ向かいます
本丸内部
徳川家康銅像
富士見櫓跡

古風な現存石垣

この城のハイライトといえば、本丸と天守曲輪にある現存石垣でしょう。この石垣は基本的に自然石を使って積み上げられていて、城の石垣の中では最も早い時期の手法の一つで野面積みと呼ばれます。とても古風であり、元は堀尾吉晴が築きました。

富士見櫓跡から見た天守曲輪
天守曲輪の石垣

天守曲輪の裏側の方に行っていただくと、石垣が自然地形の上の方に築かれているのが見えます。これも初期の手法の一つで、鉢巻石垣と呼ばれ、高石垣を築く技術がないときに用いられました。この石垣は、屏風のように巧みに曲げられていて、文字通り屏風折れと呼ばれています。こういった構造より、敵が城に攻めてきたときに、守備兵が石垣の任意の場所から敵を直接攻撃できるようになっていました(例えば、折れた部分から敵の側面を攻撃できます)。

天守曲輪の裏側の鉢巻石垣
「屏風折れ」の石垣

天守門は、発掘の成果を基に、最近2014年に伝統的工法で復元されました。門の下を通るだけではなく、門の建物の中にも入ってみることができます。

復元された天守門
天守門内部への入口

オリジナルより小さな復興天守

それ以外には、現存する天守台石垣の上に復興天守が1958年に建てられ、それ以来城のシンボルとなっています。この天守が「復興」と呼ばれる理由は、オリジナルの天守の姿が不明であることと、実はこの天守は天守台と比較してとても小さいのです。恐らく、この天守台に合う天守を作るには予算が不足していたと思われます。

オリジナルの天守台石垣に載った小さな復興天守
復興天守と推定されるオリジナル天守の大きさ比較、復興天守内にて展示

それでも、天守の中に入ってみれば、城のことを学べたり、浜松市街を一望することができます。歴史博物館及び展望台として使われているのです。

発掘された天守内の井戸、復興天守内にて展示
復興天守内の展示の一部
展望台からの市街地の景色

「浜松城その3」に続きます。
「浜松城その1」に戻ります。

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