148.浜松城 歴史編

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。

イントロダクション

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。(以上下記①を参考、以下番号のみ記載)

浜松城にある徳川家康像

しかし、家康在城時代には数々の困難に見舞われました。三方原合戦、妻と子の粛清、本能寺の変、小牧・長久手の戦いなどです。このうち、浜松城と関連し、家康の生涯唯一の大敗と言われているのが「三方原合戦」です。この戦いは、家康が城を築く以前からの武田信玄との関係が伏線になっています。よって、浜松城と三方原合戦をメインストーリーとして展開していきたいと思います。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また現在残っている古風な石垣と、元あった天守は、家康と江戸時代の大名たちの間に城主になった堀尾吉晴が築いたとされています。最後の方では、その吉晴と江戸時代の大名たちの時代も触れてみます。

再建天守と現存石垣

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(浜松城と三方原合戦)

家康、遠江国に進出

1560年(永禄3年)桶狭間合戦が起こり、今川義元が織田信長に討ち取られると、今川方部将だった家康は岡崎城に入りました。これをもって家康自立と思ってしまいますが、実はこれは今川当主・氏真の許可・指示によるものだったのです。事実、家康は翌年(1561年)まで織田方と戦っています。しかし家康は苦戦し、氏真からの援軍もなかった(当時上杉謙信に対抗する北条氏の方に援軍を送っていた)ため、織田信長との同盟に踏み切ったのです。氏真は三河侵攻を計画しますが、間の遠江国で「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる反乱が起こり、それどころではなくなりました(三河侵攻のために課税したのに実施しなかったことが一因と言われます)。一方、家康のお膝元でも「三河一向一揆」が起こります。しかし1566年(永禄9年)までに一揆を鎮圧し、三河国を統一しました(永禄9年12月29日、徳川三河守家康)。(段落全体②)

「集外三十六歌仙」の今川氏真  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1568年(永禄11年)、前年に美濃を平定した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛しようとしていました。彼はそのことについて、上杉・武田・朝倉の了解を取り付けていました。問題は、留守中に今川に背後を衝かれる可能性です。そのため、信長は武田の今川攻めを認めたのです。その一翼を担ったのが家康です。徳川と武田は、今川攻めに関わる同盟を結びました。その内容は、大井川を境に駿河を武田、遠江を徳川が領有するというものでした(下記補足1)。(段落全体②)

(補足1)扨(さて)又、甲斐ノ武田之信玄ト仰合て、家康ハ遠江ヲ河切に取給え、我ハ駿河ヲ取ント仰合て、両国へ出給ふ(「三河物語」永禄十一年・第二中)
さて、甲斐の国の武田信玄を連絡をとって「家康は遠江を大井川までとれ、わたしは駿河をとろう」と申しあわせて、駿河・遠江両国へ出陣した(現代語訳③)

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

両軍は一斉に今川領に侵攻しました。武田軍は駿河に侵攻、今川氏真は掛川(懸川)城に退去しました。しかし今川と同盟を維持していた北条氏の反撃を受けます(一旦駿河から撤退)。一方、徳川軍の遠江侵攻は順調で、二俣城・引間(曳馬)城・高天神城などを開城させ、氏真が籠る掛川城を包囲しました。実は武田は、徳川との境界線を遠江の天竜川と考えていたらしく、遠江にも出兵してきましたが、家康が信玄に抗議し、撤兵させました。(下記補足2)家康が強気に出られる状況だったのです。(段落全体③)

(補足2)家康は使いをやった。「大井川を境に、駿河を信玄の領分、大井川を境に遠江が(家康の)領分と定まっているのに、秋山が出陣してきたのは横車を押すことになる。すぐに引きかえされよ」とおっしゃった。(「三河物語」現代語訳③)

現在の掛川城

1569年、永禄12年5月、家康は今川・北条と和睦し、掛川城も開城となり、今川氏真は北条氏に引き渡されました。ここに遠江国はほぼ家康の支配下に入りました。しかしこの和睦は武田との盟約違反でした。翌年(1570年、元亀元年)、家康は武田信玄と断交、信玄の宿敵・上杉謙信と同盟を結びました。信玄は激怒、ところが何もできませんでした。ここで家康と開戦すれば、織田・上杉・北条から一斉に攻められる可能性があったからです。信玄のこの憤懣は三方原合戦の伏線になっていきます。

浜松築城

遠江を支配することになった家康は、支配を安定させ、武田の脅威に備えるため、国府があった見付に居城を移すことにし、築城工事を始めました(城之崎城)。しかし途中で中止しました。仮に信玄と戦うことになった場合、西側の天竜川を背後にする「背水の陣」になってしまうためと言われます。町としての発展や、本国・三河や織田信長との連携も考慮したのでしょう。また、信玄が家康が見付に本拠を置くことを有利とみてほくそ笑み、信長がその危うさを悟って家康を説得したとする史料まであります(下記補足3)。そこで家康は、川の西側の「浜松荘(はままつのしょう)」の中心であった「引間城」「引間(曳馬)宿(ひくまのしゅく)」の地に居城を作り直すことにしました。これが浜松城で、1570年(元亀元年)のことでした。家康は29歳から45歳(1586年)までここを本拠にしました。(段落全体②④⑤⑥、下記補足4)

(補足3)右のやうす甲州へ聞え家康様を信玄ことことしく御ほめの由、上方へももれ聞へて信長公より御異見有て、見付の新城やめさせられ候、(「石川正四見聞集」)

(補足4)然間、見付之国府ヲ御住所に被成、城ヲ取、原に各々屋敷取ヲシテ住マせ給ひケルガ、爰(ここ)ハ不被可然トテ、浜松え引カせラレ給ひて、御城ヲコシラエ給ひ、御住所ヲ定サせ給ふ(「三河物語」)

遠江国の範囲と浜松城の位置

見付の城(城之崎城)跡

元あった引間城は、宿場を見下ろす丘陵に築かれ、水堀に囲まれていました。更には、東側は当時あった天竜川のもう一本の本流(小天竜)、北側は崖地帯、南から東にかけては低湿地という自然の障壁によって守られていました。家康は、西側の丘陵地帯に城域を拡大し、そちらを中心部とし、名も「浜松城」と改めました。引間城の地は「古城」と呼ばれ、新城の一部になりました。城は更に南に拡大していきます。(段落全体⑥)

城周辺の起伏地図

家康時代の浜松城の姿ははっきりしません。しかも城の本格的な改修が始まるのは1577年(天正5年)です。三方原合戦(1572年)のころは、武田侵攻に備え支城網の改修を優先していたと考えられます。それでも、合戦に敗れ家康が城に撤退したときの記録に「西の門」「大手の門」古城にあった「玄黙口」というのが出てくるので(下記補足5)、新城に古城が取り込まれた形にはなっていたのでしょう。(段落全体⑤⑥)やがて武田との戦いの中で、武田築城術を取り込み、浜松城にも生かしていったと考えられます。例えば「横堀」の採用により、北側の「佐左曲輪」や南側の出丸を取り込んだことが挙げられます。(以上⑤⑥)東海道も城近くに付け替え、城下町も造られました。(②)家康により拡張された浜松城は、江戸時代天守曲輪・本丸・二の丸・西端城曲輪・清水曲輪・作左曲輪・出丸等の範囲と考えられます。(⑦)

(補足5)三方ヶ原を退き西の門からは入られず、遥かに大手の門より門外に乗廻し、東に向ひ北に至て、玄黙口より入られた(「鳥居家中興譜」)

家康在城時の浜松城のイメージ図、現地説明パネルより

家康の居住空間は、最高地点の現・天守曲輪だったと考えられますが、面積は狭く、自然地形を生かしたものでした。また、城は土造りで、曲輪は土塁で囲まれ、屋敷も板葺きだったと想定されています。その頃、織田信長や有力家臣は瓦葺きの天守・石垣を持った城を築いていました。徳川氏はそのような城を築かせる技術者集団をまだ使うことができなかったのです。家康が石垣の城を築くのは、次の居城・駿府城からになります。(段落全体⑤⑥⑦)

家康在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

決戦!三方原

1571年(元亀2年)信玄は領国内で大動員を開始しました。翌年にかけては北条との同盟を復活させました。一方、織田との同盟を強化すると見せかけながら、家康家臣の調略も行っていました。1572年、元亀3年10月、ついに信玄は出陣、遠江に侵攻しました。信玄は「三ヶ年の鬱憤を散じるため」と喧伝しています。それだけ家康を恨んでいたのです。信玄はまず要衝の高天神城を確保、掛川城を孤立させて、西に進みました。家康はこれ以上の落城・家臣の離反を防ぐため、天竜川を越えて出陣しました。しかし不利と見て撤退しようとしたところ、武田軍の動きが速く、追いつかれてしまい、一言坂合戦が起こりました。ここで家康の窮地を救ったのが本多忠勝です。この様子を武田家臣(小松右近助の近習)が歌に詠んでいます(下記補足6)。家康は無事浜松に戻りましたが、以前築城した見付まで武田に制圧されました。(段落全体②)

(補足6)家康に すぎたるものハふたつあり からのかしらに 本多平八(「軍艦」)

高天神城跡
一言坂の戦跡
本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田の別働隊(山県・秋山勢)も北遠江・奥三河に侵入しました。長篠城・井伊谷(いいのや)が武田の手に落ちました。そして信玄本隊は、天竜川をさかのぼり、徳川方の要衝・二俣城も11月末日(晦日)に落城させました。浜松城は、北・東を包囲され、連絡道は西の浜名湖(今切)経由だけになってしまったのです。(段落全体②)

長篠城跡

信玄は二俣城を本陣とし、12月22日に再び動き出しました。武田軍は浜松城を目指しているかに見えましたが、北西の三方原台地に上がりました。徳川方は、武田の目標が本国三河にあると想定しました。家康は直ちに出陣し、その途上で軍議を行いました(下記補足7,従来は浜松城で軍議を行ったという記述が多かった)。しかしすぐ開戦になったわけではなく、徳川軍は武田軍を追いながら機会を伺っていたのです(台地(祝田坂)を下り始めるのを待っていたようです)。(段落全体②➉)

(補足7)元亀三年壬申十二月廿二日、家康、浜松より三理に及で打出させ給いて、御合戦を可被成と仰けれバ、各々年寄共の申上けるハ、今日之御合戦、如何に御座可有候う哉、敵之人数を見奉るに、三万余と見申候、其上、信玄ハ老武者と申、度々の合戦になれたる人なり、御味方はわづか八千之内外御座可有哉と申上けれバ、其儀ハ何共あれ、多勢にて我屋敷之背戸をふミきりて通らんに、内に有ながら、出てとがめざる者哉あらん、負くれバとて、出てとがむべし、そのごとく、我国をふミきりて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉、菟角、合戦をせずしてハおくまじき、陣ハ多勢・無勢にハよるべからず、天道次第と仰せけれバ、各々是非に不及とて、押寄けり、(「三河物語」)
元亀三年十二月二十二日、家康は敵が浜松から三里のところまでやってきて、出撃する。「一合戦しよう」とおっしゃると、年寄たちが皆「今日の合戦はどうでしょうか。敵の人数は三万あまりと思われます。信玄は熟練の武者でもあり、たびたびの合戦をへた手だれの者です。しかも、味方はわずかに八千ほどでございますから」と申し上げる。「そのことはしょうがない。多勢が自分の屋敷の裏口をふみ破って通ろうとしているのに、家のなかにいて、でてとがめだてしない者があろうか。負けたら負けたときと、でてとがめるであろう。それと同じで、自分の国をふみ破って通るのに、多勢だからといってどうして、出陣して、とがめないでおかりょうか。ともかく合戦をしないでは、おかれまい。戦さは多勢無勢で結果が決まるわけではない。天運のままだ」とおっしゃると、みなもあれこれいうこともなく、攻めよせた。(現代語訳③)

三方原古戦場碑

最近の説では、開戦のきっかけは、武田軍が再度進路を変更し、浜名湖の半島にある堀江城に向かったこととされます。織田信長の伝記「信長公記」にそれを裏付ける記述があります(下記補足8)。堀江城は浜名湖水運を掌握する要所であり、もし敵の手に落ちると浜松城が完全に孤立してしまいます。信玄の狙いはそこにあり、家康としては絶対阻止しなければならなかったのです。(段落全体②)

(補足8)これは遠江方面でのことである。十一月下旬、武田信玄が二俣の城を包囲した、という徳川家康からの報告が到着した。そこで、信長の家老衆、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元を大将として、軍勢を浜松へ参陣させた。しかし、すでに二俣の城は落城し、その勢いに乗って武田信玄は堀江の城をめざして進軍していた。(⑧)

徳川方の人数は、徳川約8千に織田援軍を加えると約1万1千、武田方は「三河物語」に3万とありましたが、約2万ではないかと言われます。いずれにせよ徳川方が不利です。信玄も慎重に様子を見ていたため、合戦が始まったのは午後4時頃(申刻)でした。足軽同士の小競り合いから本格的な戦いに発展したようです。天候は曇りから雪になり、酷寒の中での合戦でした。合戦の様子も「三河物語」に描写されています(下記補足9)。徳川方は善戦したものの、武田方の反撃で中央を突破、分断され、後は各個撃破されていきました。決着がついたのは午後6時頃(酉刻)と言われます。(段落全体②)

(補足9)信玄はたびたびの合戦に場慣れしていたので、すぐに魚鱗の陣をしき敵に向かった。家康は鶴翼の陣をしいたが、小勢だったので、手薄とみえた。信玄はまず足軽たちを送り、小石を投げさせた。それを家康の軍は相手にせず、いっせいに切ってかかると、早速一陣二陣を打ち破る。つづいて敵は新手を向けてきたが、その新手も破って、信玄の本陣に殺到した。信玄の本陣からも、いっせいに鬨の声をあげて攻めかかる。わずか八千の兵だったので、三万余の大敵と、粉骨砕身せりあったが、信玄の本陣に攻めかえされて、敗退した。(③)

徳川家康本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示
武田信玄本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

家康主従は、夜の闇のなか、一体になって撤退しました。家康の身代わりや殿になって討たれた家臣もいました(成瀬藤蔵、夏目広次、本多忠真など)。家康自身も、敵の待ち伏せにあい、自分の弓で射倒し、窮地を脱したといいます(下記補足10)。

(補足10)家康は、戦線の中央部を切り破られ、乱戦に巻き込まれた。左へ逃げて、三方ガ原の崖ぎわの一本道を退却した。敵は先回りして待ち受け、戦いを挑んだ。それを家康は馬上から弓で射倒し、駆け抜けて、浜松へ帰城した。この時に限らず、家康の弓の腕前は今に始まったことではなかった。(⑧)

敗走する家康主従のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

徳川方は大混乱に陥っていて、浜松城では家康が討たれたとの虚報が飛び交っていました。討たれた人数は、織田軍の大将の一人・平手汎秀を含め、約千名と言われています。浜松城に帰れなかった家臣も大勢いたようです(主な者・下記補足11)。浜松各地には家康が隠れた,匿われたという伝承が多くありますが、このことが元になっているのかもしれません。

(補足11)
・榊原康政:家康とはぐれ、西島に逃れた
・水野信元(織田援軍):今切の渡(浜名湖)または岡崎まで逃走
・中河兄弟:懸川城に逃れた
・山田平一郎:岡崎城に逃れ、家康が討たれたと知らせた

家康が城に戻った場所と言われる玄黙口

武田軍は追撃を続け、浜松城に迫りました。これを食い止めた場所が、浜松城北方の要害・犀ヶ崖です。崖の手前に留まった武田軍に対し、大久保忠世・天野康景の鉄砲隊が夜襲をかけました。混乱した武田の兵が崖に落ちたと伝えられています。(⑨)

犀ヶ崖
反撃する徳川軍鉄砲隊のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

武田軍は深追いをせず、翌12月23日には、目標としていた堀江城を攻撃しましたが落とせず、翌年元亀4年2月に野田城を攻略しました。ここから渥美半島の方に向かっても、浜松城と三河国を分断することができます。しかし武田軍が次に向かったのは、逆方向の長篠城でした。信玄の病のためと言われます。4月12日、信玄は信濃への撤退の途中で亡くなりました。家康と浜松城は、絶対絶命の危機を脱したのです。(②)

堀尾氏による改修、そして出世城へ

1586年(天正14年)、5か国の太守となっていた家康は、居城を東の駿府城に移しました。浜松城は家臣の菅沼定政に預けました(城代)。そして1590年(天正18年)に徳川氏が関東に移されると、浜松には豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が入城しました。秀吉の家康に対する備えの一環でした。現在残る天守曲輪・本丸の石垣は、この時代に築かれたと考えられています。天守門脇には巨石が配され、豊臣政権の権威を見せつけました。一方、天守曲輪西側の「屏風折れの石垣」は、城から側面攻撃ができるようにした実戦的な作りです。記録はありませんが、天守台石垣の上には天守も築かれたと考えられます(当時の瓦が見つかっています)。現在ある再建天守(3重)より大きく、堀尾氏が後に築いた松江城を参考に、4重天守が想定されています。2代目の忠氏のとき(吉晴は隠居)1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでの武功により、堀尾氏は加増転封となりました(12→24万石)。(段落全体④⑤)

堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
天守門の石垣
屛風折れの石垣
堀尾吉晴在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

江戸時代になると、浜松城は浜松藩の本拠、譜代大名の城として、なんと10家・22代の城主が入れ替わりました(下記補足12、家康からだと25代)。その中から老中6人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を輩出し「出世城」と呼ばれるようになります。なかでも天保の改革で有名な水野忠邦は、家康にあやかりたいと浜松城主に志願したと言われます。忠邦は見事老中に出世するのですが、失脚すると転封になり、以前の井上氏が復帰しています。(段落全体⑤⑪)

(補足12)歴代浜松城主となった大名家(江戸時代、⑪)
・1601~09年:桜井松平氏(1代、5万石)
・1609~19年:水野氏(1代、2.5→3.5万石)
・1619~38年:高力氏(1代、3.1→3万石)
・1638~44年:大給松平氏(1代、3.5万石)乗寿が老中
・1644~78年:太田氏(2代、3.5→3.2万石)
・1678~1702年:青山氏(3代、5万石)宗俊が老中
・1702~29年:本庄松平氏(2代、7万石)
・1729~49年:大河内・長沢松平氏(2代、7万石)信祝が老中
・1749~58年:本庄松平氏(再任・2代、7万石)
・1758~1817年:井上氏(3代、6万石)正経が老中
・1817~45年:水野氏(2代、6→7万石)忠邦が老中
・1845~68年:井上氏(再任・2代、6万石)正直が老中

水野忠邦肖像画、東京都立大学図書情報センター蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天守は早期に失われたようで、天守曲輪には天守門と裏門の埋門だけが残りました。本丸には鉄門や富士見櫓などがありました(建物については不明)。二の丸には城主屋敷や藩庁があり、藩政の中心になっていました。その南側には三の丸が整備され、侍屋敷が置かれ、南端に大手門が築かれました。その大手門を基点に東海道が設定され、その街道沿いには町屋が形成されました。(段落全体⑦⑪⑫)

江戸時代(廃城時点)の城中枢部想像図、現地説明パネルより
浜松城略絵図(安政年間)、現地説明パネルより

リンク、参考情報

①「市長コラム 平成24年4月」浜松市ウェブサイト
②「新説 家康と三方原合戦/平山優著」NHK出版新書
③「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
④「静岡の城/加藤理文著」サンライズ出版
⑤「東海の名城を歩く 静岡編/中井均・加藤理文編」吉川弘文館
⑥「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
⑦「浜松城の変遷」浜松市ウェブサイト
⑧「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑨ 犀ヶ崖資料館展示
➉「徳川家康と9つの危機/河合敦著」PHP新書
⑪「浜松市史」
⑫ 浜松城展示

「浜松城 現地編」に続きます。

23.小田原城 その3

前回までは、戦国時代までの小田原城の歴史と現地の史跡をご案内しました。今回は、江戸時代から現代までの小田原城の歴史と史跡をまとめてご案内します。この期間の小田原城を一言で表すならば、災害と復興の歴史と言っていいと思います。

前回までは、戦国時代までの小田原城の歴史と現地の史跡をご案内しました。今回は、江戸時代から現代までの小田原城の歴史と史跡をまとめてご案内します。この期間の小田原城を一言で表すならば、災害と復興の歴史と言っていいと思います。

立地と歴史

大久保氏の時代

1590年の小田原合戦の最中から、北条領に徳川家康を移し、その本拠地を江戸にすることが規定路線になっていたようです。小田原城には、家康の重臣・大久保忠世(ただよ)を配置することも、城が開城になった早々に決められました(小田原藩の始まり)。本拠地ではないにしても、関東地方の西の要として重要視されたのです。城は、北条氏時代の中心部に石垣を築くなど、修繕しながら使っていました。この時代から天守があったとされますが(以降の天守とは違うスタイル(望楼型)のもの)、北条時代からのものなのか、このとき築いたものなのかはわかっていません。ただ、少なくとも本丸御殿は北条氏の時代のものを使っていたという記録があります。家康は、領内検分を兼ねた鷹狩りのときや、関ケ原の戦いなど西日本に行く際に、よく小田原城本丸を使っていたそうです。しかし、忠世の跡を継いだ忠隣(ただちか)は1614年に、養女を幕府の許可なく婚姻させたとして改易になってしまいます。実態としては、家康の他の重臣、本多正信・正純父子のとの確執があったのではないかと言われています。その後は主には幕府の直轄領となっていました。

大久保忠世肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初代天守(加藤図)、現地説明パネルより

稲葉氏の時代

1632年、小田原藩が復活します。藩主(城主)となったのは、3代将軍・徳川家光の側近である稲葉正勝です。彼は、家光の乳母で大奥を取り仕切っていた春日局の息子でした。そのような人物を配置するほど、やはり小田原は重要視されていたのです。この頃には箱根の関所を関東の防衛線とする構想も固まっていたので、その警護も任されたのです。ところがその矢先、1633年(寛永10年)正月、寛永大地震が発生し、城や町が甚大な被害を受けてしまったのです。しかし翌年には家光の上洛が予定され、小田原城に宿泊することになっていたため、幕府の事業として迅速に復興がなされました。これにより、江戸時代の小田原城の骨格が固まります。天守は、現在の復興天守のようなスタイル(3層の層塔型)で築かれました。また、本丸など城の主要部分は石垣で固められました。本丸御殿は将軍の宿泊専用だったので、藩主は二の丸御屋形(おやかた)で政務を行いました。城下町も東海道の小田原宿として整備されました。一方、城の範囲は平地の三の丸までとなり、八幡山古郭など丘陵部分は放棄されました。ただし、総構の土塁などは、藩や町の境界として機能し続けました。例えば、宿場の東の入口、江戸口見附は、総構の土塁が仕切りとして使われていました。また、山ノ神堀切には門が作られ、番人が管理していました。

稲葉正勝肖像画、養源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代に完成した城のイメージ、現地説明パネルより
2代目天守(正保図)、現地説明パネルより
江戸口見附跡
山ノ神堀切

再び大久保氏の時代

1686年、稲葉氏は高田藩に転封となり、その代わりに大久保氏が小田原藩主に復活します。当時の当主、大久保忠朝は幕府の老中となっていて、将軍の徳川綱吉を支えていました。ところが、それからしばらくたった1703年(元禄16年)11月、元禄地震が起こり、またも城や町が大被害を受けてしまったのです。更にはその4年後には、富士山が噴火(宝永噴火)し、降灰により農作物は大不作となりました。城では、天守、本丸御殿、二の丸御屋形が全て倒壊しましたが、今度は復興への幕府援助はありませんでした。被災した町や住民への救済も基本的には藩任せでした。そのため、復興には長期間を要し、城については18年もかかりました。本丸御殿は、将軍の上洛などはなくなっていたので再建されませんでしたが、天守は以前と同様のものを建て直しました。3代目の天守で、この天守が幕末まで残りました。幕府の江戸城など、災害で天守がなくなると再建しないケースもあったので、小田原城の天守は、この時点で、関東では屈指の天守となっていたのです。関東の入口で「顔」としての役割があったのでしょうか。その後の天災でもなんとか城は維持されました。幕末になって海防の必要性が高まると、海岸の総構の土塁に沿って、台場が3ヶ所築かれました。残念ながら史跡として残っていません。

3代目天守(文久図)、現地説明パネルより

現代の小田原城まで

明治維新後、城は廃城となり、城の建物はほとんどは解体・売却されました。しかし本丸・二の丸の跡地は石垣とともに残され、皇室の御用邸として使われました。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生しました。御用邸は全壊し、石垣もほとんどが崩壊しました。唯一残っていた城の建物、二の丸平櫓も倒壊しました。この震災により、江戸時代の小田原城がほぼ消滅してしまったと言っていいでしょう。御用邸は廃止となり、小田原城址公園となりました。ここからまた城の復興の事業が始まり、1934年(昭和9年)に二の丸の石垣が積み直され、平櫓も再建されました。そして、天守とその石垣が、1960年(昭和35年)に再建されました。以降、1970年(昭和45年)には常盤木門が、1997年(平成9年)には銅門(あかがねもん)が、2009年(平成21年)には馬出門が復元されています。これまでは、江戸時代の小田原城の姿を再現する方向で、復元事業が進められています。これらも、大きな流れの中では、震災からの復興であるとも言えるのではないでしょうか。

関東大震災で崩壊した本丸石垣
現在の4代目天守
現在の馬出門

特徴、見どころ

三の丸から二の丸に進む!

通常、小田原城への登城ルートとしては、昔だったら大手門から、今だったら、二の丸のお堀端からスタートするのでしょう。もう一つの選択肢として、小田原郵便局脇の「幸田口門跡入口」から三の丸の土塁を歩き、幸田口門跡を経由してからお堀端を進むのもいいでしょう。この門は、その前は「蓮池門」という名前で、お城の大手門でした。上杉謙信も武田信玄も、この門から小田原城を攻めたそうです。二の丸堀は、戦国時代から存在し、当時は「大池」「蓮池」とか呼ばれていたようです。

三の丸の大手門跡、石垣の一部が鐘楼として使われています
幸田口門跡にある説明パネル
二の丸のお堀端

向こうに見える石垣や平櫓は、関東大震災後、最初に再建されたものです。オリジナルの石垣はもっと高かったとのことです。

再建された二の丸石垣と平櫓

「正規登城ルート」とされる正面入口から入ると、お堀の土橋を渡って「馬出門」に入ります。今のところ一番新しい門で、木造復元されています。防御のため、門の中に四角いスペース(桝形)があります。

復元された馬出門

次の銅門(あかがねもん)に入るためには、堀を回り込んで、もう一回橋を渡る必要があります。この門は、二の丸の正門で立派に作ってあります。絵図や文書、発掘の結果の他、古写真が残っていて、かなり正確に木造で復元できたそうです。中の桝形も更に厳重です。

復元された銅門

二の丸の中は、今は広場になっています。かつては、藩主の屋形や、御用邸がありました。

現在の二の丸広場、向こうに見えるのは本丸

いよいよ本丸、天守攻略

いよいよ、本丸に向かいます。本丸へは「常盤木橋」という橋を渡っていくのですが、かつては本丸東堀が、本丸の周りを囲んでいました。今は堀跡が花菖蒲園になっていて、斜面にはアジサイも植えられています。

本丸東堀跡

橋を渡ると、本丸の正門「常盤木門」です。手前に桝形を作るもう一つの門があったのですが、復元されていません。復元された部分はコンクリート造りです。

復元された常盤木門

小田原城の天守は、3層の天守としてはかなり大きいです。高さ27.2メートル、石垣を含めると約39メートルもあります(内部は4階建て)。現在日本にある天守(再建含む)の高さランキングでは、7位につけています。江戸時代に修繕に便利なように作られた天守雛型や、絵図を参考に4代目として建築されました(コンクリート造り)。最上階に展望スペース(高欄付廻縁)を設けるなど、オリジナルと違う外観であるため、「復興天守」に分類されています。中身は歴史博物館になっていて、2016年に耐震補強や展示のリニューアル工事がされています。

現在の小田原城天守(4代目)
天守内部

最上階からは、城の周りの景色を楽しめます。

最上階からの景色(小田原駅方面)
八幡山古郭方面
本丸・二の丸方面
相模湾方面

将来への期待、教訓

本丸の北口から出て、御用米曲輪の方に行ってみましょう。現在発掘調査中で、中には入れませんが、周りにこれまでわかったことが、パネル展示されています。戦国時代の、切り石を使った、珍しい庭園の跡が発見されています。小田原合戦のときには「百間蔵」という倉庫群になっていたようです(ここかどうかわかりませんが、合戦後に伊達政宗が城の倉庫群を見て、備えのすごさに驚嘆しています)。それが、江戸時代に米蔵として引き継がれたのです。今後どんな史跡になるのか、楽しみです。

御用米曲輪
切石を使った庭園遺構発見の説明パネル
江戸時代の葵御紋瓦出土についての説明パネル

本丸の南の斜面では、関東大震災によって崩れた石垣を見ることができます。本丸の石垣は「鉢巻石垣」といって、斜面の上の方だけが石垣になっていました。ここでは、クランクした形の石垣が、上の方からそのまま滑り落ちています。恐ろしい地震のパワーを感じてしまいます。地震への備えを考えさせられる、目に見える展示といっていいでしょう。

クランクた石垣部分がそのまま崩落しています
崩落した本丸石垣

最後に、南堀も見ておきましょう。ここは戦国時代における呼び名と同じように、蓮池になっています(今も別名は「蓮池」です)。こういう場面を見ると、小田原城は戦国時代から今までの歴史が折り重なっていることが実感します。

南堀
近くには、三の丸の箱根口跡もあります

私の感想

戦国時代、江戸時代、そして現代まで、小田原城には盛りだくさんの見どころがありました。1日かけても回り切れません。それにしても小田原城の城主たちは、敵から守るために戦国最大級の城を築いたり、災害にあっても天守を3回も建て直したりするなど、地味なことの積み重ねかもしれませんが、なかなかできないことをやってのけました。城主は違っていても、受け継がれるものがあったのでしょう。自然の宿命として、過去のような災害が再び起こるかもしれませんが、きっとまた乗り切ることでしょう。他の地域へのお手本にもなるのではないでしょうか。

現在の小田原城天守

リンク、参考情報

・【公式】小田原城 難攻不落の城
・総構、小田原市(「総構マップ」はこちら)
・地誌のはざまに、【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その4)
・城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第9回 小田原城を歩こう(近世編)
・「戦国期小田原城の正体/佐々木健策著」吉川弘文館
・「実録 戦国北条記 戦史ドキュメント/伊東潤著」エイチアンドアイ
・「シリーズ藩物語 小田原藩/下重清著」現代書館
・「北条氏五代と小田原城 (人をあるくシリーズ)/山口博著」吉川弘文館
・「小田原城総構-戦国最大級の城郭-」小田原市教育委員会
・「北条氏滅亡と秀吉の策謀、森田善明著」洋泉社
・「年金ロックンローラー内沢裕吉」ダイヤモンド社
・「よみがえる日本の城2」学研
・「後北条氏民政への反抗」岩崎義朗氏論文
・「神奈川の中世城郭-小田原城支城を中心に-」神奈川県教育委員会文化遺産課、令和4年度第4回考古学講座資料

これで終わります。ありがとうございました。
「小田原城その1」に戻ります。
「小田原城その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

23.小田原城 その1

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城となるまで成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

立地と歴史(戦国編)

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城と言われるまでに成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

現在の小田原城、天守は江戸時代のものを復興させました

城の始まりと伊勢宗瑞の登場

古代の頃、西から関東に入る東海道は、箱根峠ではなく、足柄峠を越えるルートが主流でした。鎌倉時代になると、箱根山(箱根神社)・走湯山(伊豆山神社)の二所権現への参詣が盛んになり、箱根ルートがよく使われるようになりました。これにより、南北朝時代までには小田原に宿場町が形成されたと考えられています。「小田原城」の記録はこの後に現れますので、この町は城下町でなく、宿場として始まったことになります。一方、支配者の武士階層の中には、関所で通行税(関銭)を徴収する権利を持つ領主がいました。箱根や足柄では、大森氏がその立場にあり、徴収した関銭を、寺院の建立に使ったりもしていました。その大森氏が、宿場として成長した小田原を管理するために、15世紀中頃の戦国時代の始まりまでには、初期の小田原城を築いたと言われています。その目的からして、規模は大きくなかったと考えられます。

城の位置

また、初期の城の位置ですが、従来は現在の小田原城天守の北側の、「八幡山古郭」と呼ばれる場所ではないかと言われてきました。しかし当初の小田原宿は、江戸時代のそれより、西側にあったと考えられます。標高が高く高潮の被害を受けにくく、初期の頃もこの場所についての記録、言い伝えが残っているからです。そのため、城もその宿場に近い、現在の小田原城の天守周辺(八幡山丘陵の端)か、天神山丘陵にあったと考えられるようになってきました。

八幡山古郭東曲輪
現在の天神山

戦国時代には、「北条早雲」こと伊勢宗瑞(いせそうずい)が登場します。宗瑞はこれまで、下剋上を果たした、典型的な初期の戦国大名の一人として、捉えられたこともありました。つまり、素浪人から自らの才覚のみでのし上がり、城持ちの大名になったというサクセス・ストーリーです。しかし、最近の研究により、彼は備中国(岡山県西部)出身の、将軍に仕える幕府奉公衆・伊勢盛時(いせもりとき)であったことがわかっています。彼の姉が、駿河国(静岡県中部)の大名、今川義忠に嫁いでいましたが、家督争いが発生し、姉の子の氏親を支援するために、駿河に向かったのです。

伊勢宗瑞(北条早雲)肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、氏親を跡継ぎにすることに成功し、恩賞として、駿河の興国寺城を与えられました。その後、伊豆国(静岡県東部)の韮山城、そして相模国(神奈川県)の小田原城を手に入れるのですが、それは、一匹狼ではなく、今川氏の部将、そして南関東を治めていた扇谷上杉氏との連携によって行われました。小田原城攻めにしても、宗瑞が大森氏に贈り物を送って油断させ、「火牛の計」を使って城から追い出したという武勇伝がありました。しかし実態は、宗瑞の弟と大森氏が一緒に小田原城にいて(扇谷上杉氏方)、山内上杉氏に攻め取られたという記録があったりして、単純な話ではなかったようです。西暦1500年前後に大地震があったり、大森氏が山内上杉氏方に転じたタイミングで、宗瑞が手に入れたのではないかと考えられています。ただし、この時点では小田原城は、まだ支城という扱いでした。

興国寺城跡
「火牛の計」で攻める北条早雲像、小田原駅西口

北条氏綱・氏直による発展

初代・宗瑞(北条早雲)の跡を継いだのは、嫡子の北条氏綱(ほうじょううじつな)です(1518年、宗瑞は翌年に没)。「小田原北条五代」と言いますが、小田原を本拠地とし、「北条氏」を名乗ったのは、2代目の氏綱からです。関東地方侵攻を本格的に始め、敵となった上杉氏(山内・扇谷)から「他国之凶徒」と言われ、権威を得るため、鎌倉時代の関東支配者の名字を名乗り始めたと言われています。また、関東公方の足利晴氏と同盟を結び、「関東管領」に任命され、同じ職名を世襲していた(山内)上杉氏に対抗します。

北条氏綱肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1541年に氏綱から跡を継いだ3代目の北条氏康は、更に領土を広げ、1546年の河越城の戦いで上杉軍に大勝し、関東での覇権を確立しました。氏綱・氏直は小田原を南関東の中心地にしようとしました。それまでの宿場町を城下町として、江戸時代の小田原宿と同じくらいまで広げました。日本最初の水道と言われる「小田原用水」も町に引かれました。城についてはこの頃、城の中心となる「本丸」「御用米曲輪」「二の丸」が成立したと考えられています(曲輪の名前は江戸時代のもの)。1551年に小田原を訪れた僧が「三方に大池あり」と記録しています。この池は現在、二の丸の堀として残っています。また、氏康は民衆に善政を施したことでも知られています。年貢率(四公六民)も他の大名よりは低かったと言われています。

北条氏康肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原用水
現在の二の丸東堀

1561年、城は最初の大きな危機を迎えます。越後国(新潟県)の上杉謙信(その時点は長尾景虎)が、旧来の上杉氏による秩序回復を掲げ、関東地方に侵攻してきたのです。翌年(永禄4年)2月には10万を超えるとも言われる大軍で小田原城を囲みますが、短期間で引き上げました。その場の勢いに乗った寄せ集めであったため、長陣には耐えられなかったからです。そのとき、大手門であった「蓮池門」(現在の幸田口門跡周辺)に、謙信方の先鋒、太田資正が突入し戦ったと伝わっています。氏康は当時、甲斐国(山梨県)の武田信玄、及び今川氏と三国同盟を結んでいて、その力を基礎に、その後謙信の侵攻を跳ね返していきます。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし次の危機として、信玄が1568年に同盟を破り、翌年(永禄12年)10月には、小田原城に攻め込んできました。信玄は、同年8月に北条領内に侵入し、10月1日から小田原城を包囲し、5日には引き上げています(この後、退却途中に有名な三増峠の戦いが起こります)。このような経緯から、もともと小田原城を本気で落とそうとする意図はなかったようです。信玄も謙信と同じように、蓮池門から城を攻めたと言われています。城下町は悉く放火され、信玄自身が手紙で「氏政館」も放火したと言っています。氏政は、氏康の跡継ぎで、当時彼の館は、現在の「御用米曲輪」にあったと考えられていますので、これが合っていれば、本丸の麓まで攻め込まれたことになります。このとき氏政は、氏康から家督は譲られていましたが、1571年に父・氏康が亡くなると、武田との同盟を復活し、更なる城の拡張を行います。恐らく、これらの戦いでの経験が基になっていると思われます。長期の籠城に耐えられる城であれば、どんな強力な敵にも対応できると確信を持ったのかもしれません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の御用米曲輪

北条氏政・氏直による完成

北条氏政と跡継ぎの氏直の時代に、北条氏は全盛期を迎えました。武田氏との同盟が機能した他、上杉謙信が1578年に亡くなり、関東地方に強敵が見当たらなくなったからです。北条氏は関東地方の大半を支配するようになり、地域防衛のため、支城ネットワークを築き、重要な城には一族・重臣を派遣しました。小田原城は、そのネットワークの中心に位置づけられたのです。小田原城そのものも、以前の戦いの教訓に基づき、氏政主導で強化されました。まず、二の丸外側の低地に、三の丸が作られました。また、城の背後からも攻められないよう、三の丸外郭が丘陵地帯に築かれました。更には、三の丸外郭に続く防衛ラインとして、丘陵地帯の地形を利用して、小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)の建設を始まました。これらは、急斜面の堀を掘削し、堀った土を土塁として積み上げるやり方で築かれました。北条氏は石垣を積む技術も持っていましたが、このエリアの土は、関東ローム層と呼ばれる火山灰が堆積してできたもので、粘土質で滑りやすく、敵を防ぐための堀には打ってつけだったのです。また、堀の底は、「障子堀」「畝堀」呼ばれる仕切りがつけてあり、堀に入った敵を閉じ込める仕組みとなっていました。

北条氏政肖像画、法雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸外郭
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)
山中城跡に残る障子堀

城の拡張は、日本全体や他の大名との外交関係にも影響されていました。織田信長が1582年に武田を滅ぼしたときには、信長に臣従せざるをえなくなりました。ところが、信長が本能寺の変で倒れると、また乱世に戻ったようになります。武田の遺領をめぐって、北条・徳川・上杉が三つ巴の戦いを始めたのです。更に、上野国で真田昌幸が独立を志向して三者を渡り歩き、不気味な存在となります。氏政は、徳川家康と手打ちをし、関東地方だけは確保しますが、今度は豊臣秀吉の天下統一が進みます。1587年までに、西日本は全て平定され、氏政の周りの大名たちも秀吉に臣従しました。北条氏は孤立し、頼りにできるのは同盟続いていた家康と、奥州の覇者・伊達政宗だけでした。氏政は翌年から、豊臣方と臣従するための条件交渉を始めます。その一つが、真田と争っていた上野国沼田の扱いで、一旦は秀吉の裁定により解決しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
真田昌幸肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽作、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信作、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その一方で、氏政は戦になることも想定し、「相府大普請」とも呼ばれた小田原城の大改修を始めました。その目玉は、小田原を囲む丘陵地帯(八幡山・天神山・谷津)、城、城下町を丸ごと土塁と堀で囲む総構でした。その延長は約9キロメートルに及び、工事には関東全域から人夫が動員されました。地域全体を囲んでしまえば、敵は入ってこれず、長期の持久戦ができると考えたのでしょう。当時はこれを「大構」と呼んでいたようで、同じ名前の遺構が、支城だった岩付城跡に残っています。

赤い線が総構土塁の推定ライン

総構の想像図、現地説明パネルより
わずかに残る岩付城大構

1589年(天正17年)10月、北条氏の家臣が、沼田で真田のものになったとされる名胡桃城を奪う事件が発生しました。秀吉は激怒し、命令違反として、北条征伐を決定します。この事件は不可解な点も多く、秀吉と真田が仕組んだ謀略という説もあります。直臣に領地を与えたい秀吉と、ただちの臣従を潔しとしない氏政の思惑も考えられ、両者の対決は必然だったのかもしれません。小田原城総構は、約2年をかけ、完成していました。

名胡桃城跡

運命の小田原合戦

1590年(天正18年)3月、豊臣秀吉軍総勢約22万人(本体16万、水軍2万、北陸勢3.5万)が、北条領に押し寄せました。この他に、これまでも北条と敵対していた関東勢1.8万人が攻撃してきました。迎え撃つ北条軍は、総勢約8万人と言われ、その内約5万人を小田原城に集中させました。支城ネットワーク攻略に時間をかけさせ、小田原城での長期籠城戦により、敵を消耗させ、有利な講和に持ち込むつもりだったと思われます。しかし、その大半は無理やり徴収した農民兵であり、質は劣っていました。城の改修のときから、過酷な負担を強いられていたため、当然士気も上がりません。先代のときに目指した民政の充実は、遠のいてしまっていました。3月28日に上野国松井田城、29日に伊豆国山中城・韮山城で戦いが始まりました。ところが、圧倒的な兵力差により、山中城がたった1日で落城してしまいます。その後も、有力な支城が次々に落城、開城していきました。5月末には、籠城中または未攻略の有力支城は、韮山、鉢形、津久井、八王子、忍のみとなりました。北条軍にとっては、大きな衝撃、かつ誤算でした。松井田城主で重臣の大道寺政繁や、玉縄城主・北条氏勝は、豊臣軍の道案内をし、北条方の城主に降伏するよう説得する有様でした。そのくらいの力の差があったということでしょう。

北条領国の支城ネットワーク、現地説明パネルより

豊臣軍は4月上旬には小田原城に到達し、18万の軍勢で城を包囲しました。秀吉は、5日に早雲寺に着き、ここを本陣とします。4月下旬には、新しい本陣として石垣山城の築城を始めました。しかし、このような大軍であっても、幅最大30メートル、深さ10メートル以上、勾配50度以上の総構のラインに阻まれ、城の中に打ち入ることはできませんでした。総構のラインには、柵が並び、所々に櫓が立ち、重要な出入口は2重の仕切りがあるなど厳重に警備されていました。城の中心部は、本丸には5代目当主・北条氏直がいて、先代の氏政は、北の八幡山に布陣していました。以前氏政館だったところは、「百間蔵」と呼ばれる倉庫群になり、長期籠城に備えていたようです。(戦後に、伊達政宗が小田原城の倉庫群を見聞し、その収容力に驚嘆しています。)総構の中には城下町も含まれていたので、生活・軍事物資も自己調達できることになります。また、総構の外にも、篠曲輪などの出丸があり、攻撃態勢も備えていました。一方、北条軍にとってもう一つの誤算が、豊臣軍の長期戦への備えでした。豊臣軍の多くは専門の兵士であり、大量の兵糧(秀吉が20万石と指示)を調達・輸送することで、長期滞在が可能となっていました。かつての上杉・武田軍と比べ、別次元の経済力、技術、運用ノウハウを持っていたのです。(現場レベルでは、士気の緩みや食料不足ということもあったようです。)その結果、4月、5月と城を挟んだにらみ合いが続きます。

小田原城周辺の布陣図、現地説明パネルより

5月には、東北・関東の大名たち(南部、安東、結城、佐竹、宇都宮など)が小田原に参陣してきました。6月5日には、ついに伊達政宗が到着し、9日に白装束で秀吉に謁見しました。これで、北条への援軍が来る可能性がなくなりました。この辺りから、小田原開城に向けた交渉が加速していきます。交渉の推進役は、北条氏直でした。後に、延々と結論の出ない会議のことを「小田原評定」というようになりますが、実際には水面下で動きはあったのです。支城の方は、6月14日鉢形城開城、23日八王子城落城、24日韮山城開城、25日津久井城開城となります(残りは忍城のみ)。その韮山城主・北条氏規は、豊臣方の黒田孝高(官兵衛)とともに、氏直に開城を勧めました。6月26日に、石垣山城が完成し、秀吉が移りますが、その姿が最後のダメ押しになったかもしれません。

伊達政宗肖像画、加納安信作、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
鉢形城跡
八王子城跡
石垣山城跡

7月5日、氏直は降伏を申し入れ、小田原城は開城しました。開城交渉の中で、領土の縮小維持という条件もあったと言われますが、秀吉の裁定は過酷でした。氏政など主戦派と見なされた4名は切腹、氏直は高野山へ追放(後に赦されるが病死、氏規の家系が小大名として存続)となりました。戦後の領地配分を見ると、徳川家康が北条領に転封、徳川領に尾張の織田信雄を移そうとしたが断ったため改易とし、空いたところに、当時の跡取り・豊臣秀次とその家老たちを入れています。秀吉の意図が見えるのではないでしょうか。(ちなみに、沼田領(沼田城含む)も丸々真田のものとなりました。)

小田原城近くにひっそりと佇む切腹した北条氏政と氏照の墓所

戦国大名としての北条氏は滅亡しましたが、その総構の城は、参陣した大名たちに大きなインパクトを与えました。記録に残っているものでは、駿府城に入った中村一氏が、小田原城に習い総構を築いています。秀吉自身も、小田原合戦の翌年、京都を囲む御土居の建設を始めました。しかも、その堀には「障子堀」が採用されています。本拠地の大坂城でも、1594年から総構(三の丸)の建設を行っています。

現在の駿府城公園
移築復元された大坂城三の丸の石垣

小田原合戦に参陣した大名たちの城で採用された「総構」も、小田原城の影響があると考えられています。

蒲生氏郷の若松城、総構の甲賀門跡
堀秀治の春日山城、復元された総構
前田利家の金沢城、総構跡

「小田原城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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