92.熊本城 その2

加藤清正と言えば、熊本城以外も、「賤ヶ岳の七本槍」「虎退治」「地震加藤」など、武功談に富んだ勇猛な武将というイメージがあるでしょう。また「清正公(せいしょこ)さん」として、今でも慕われ、崇められる存在でもあります。実際の清正は、どんな人物だったのでしょうか。

立地と歴史

熊本城前史

かつての熊本県、肥後国では、菊池氏が、守護を務めるなど、鎌倉時代以来勢力を保っていました。現在の菊池市周辺を本拠地としていました。ところが、戦国時代になると勢力が衰え、周りの戦国大名や領主から干渉を受けるようになります。例えば、最後の3代の当主は、他の氏族の出身者でした。

後に熊本城が築かれる場所は、熊本平野に突き出た京町台地の上で、その一角には古くから藤崎八幡宮がありました。城郭として最初に明確な記録があるものとしては、千葉城があります。やがて、重臣の鹿子木(かのこぎ)氏が、台地の先端の「古城(ふるしろ)」と呼ばれる場所に「隈本城(古・熊本城)」を築きます。これが熊本城の始まりです。鹿子木氏は、大友氏出身の主君・大友義武を、隈本城に迎い入れます(1550年、天文19年)。ところが、義武は実家の大友氏と対立し、甥の大友宗麟も肥後国を直接支配しようと軍を派遣し、城は落城してしまいました。その後、隈本城には、大友氏に協力した城氏が入りますが、島津氏の勢力が強くなると、島津氏に味方します。

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熊本城
Leaflet|国土地理院

城周辺の起伏地図

隈本城を築城した鹿子木親員肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1587年(天正15年)に、豊臣秀吉による九州平定が行われます。秀吉は、天正15年4月に隈本に数日間滞在し、隈本城を賞賛したと伝わっています。そして、肥後国領主(球磨郡除く)として、佐々成政を隈本城に入れたのです(同年6月)。しかし成政は強引な検地を行い、地元領主(国衆)の反発を招き、肥後国衆一揆が発生します(同年7月)。諸大名が動員され、翌年正月に一揆は鎮圧されましたが、成政は改易となりました。わずか半年余りの統治であり、閏5月には責任を取らされ切腹しました。
成政は一時秀吉に反抗したことがあったので、わざと統治が難しい所に配置されたという見方もありますが、唐入り(明侵攻)を計画していた秀吉は、その支援基地に信頼する人物を置いたはずだという意見もあります。いずれにせよ、古くから領主たちの力が弱くなった肥後国は、秀吉にとって、コントロールしやすい地域になったとは言えるでしょう。その地に新たに配置されたのが、当時27歳の加藤清正(北半国)と31歳の小西行長(南半国)だったのです。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
佐々成政肖像画、富山市郷土博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

加藤清正の実像は?

加藤清正と言えば、熊本城以外も、「賤ヶ岳の七本槍」「虎退治」「地震加藤」など、武功談に富んだ勇猛な武将というイメージがあるでしょう。また「清正公(せいしょこ)さん」として、今でも慕われ、崇められる存在でもあります。実際の清正は、どんな人物だったのでしょうか。

熊本城にある加藤清正公像

清正は、幼い頃から秀吉に仕えていたとされていますが、当時の確かな史料は少ないのです。清正が19際のときの1580年(天正8年)、秀吉の中国攻めの最中に、近江国に120石の領地を与えられたというのが、彼に関する最初の記録です(下記補足1)。後の時代に編さんされた「清正記」には、鳥取城攻め(1581年、天正9年)でのエピソードが記載されています。次に出てくるのが賤ヶ岳の戦いで、合戦直後の史料(「柴田退治記」)に、先陣を切った9名の「近習の輩」として清正の名前が出てきます。合戦後に実際に秀吉から3000石の領地を与えられているので、活躍したことは間違いないでしょう。

(補足1)
以神東郡内百弐十石令扶助候、但当年者六ッ之物成ニ可召置候、所付之儀者来年可申付候、恐々謹言
 天正八 九月十九日  藤吉郎 秀吉
  加藤虎殿
(羽柴秀吉知行宛行状)

加藤清正像、本妙寺蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかしこの後の清正の活動は、意外なものでした。例えば、九州平定のときは、「七本槍」の一人・福島正則は1200名の兵を率いて先発しているのに対し、清正はわずか170名の兵とともにほとんど最後尾を行軍しているのです。実はこの頃、清正は「行政官僚」として活動していたらしいのです。例えば、播磨国や和泉国にあった豊臣家の直轄地の代官を務めたり、領主が不在の讃岐国を預かり土地調査を行ったりしています。官職名として「主計頭(かずえのかみ)」を名乗り始めますが、この名称も財務的な仕事を連想させます。石田三成に近い感じだったと言ったらいいでしょうか(下記補足2)。

(補足2)讃州江相越、平山城主駒雅楽頭相渡由、被聞召候、就其米以下能々相改、罷帰可言上候也
 八月十七日朱印
  加藤主計頭とのへ(天正15年 豊臣秀吉朱印状)

1587年、天正15年4月に九州に行ってからも、仕事は戦後処理で、城の預かり、検地や年貢の引き渡しなどを行っています(下記補足3)。翌年閏5月に、清正は肥後(北半国)の領主に任命されるのですが、それまでずっと(または長期間)、行政官として駐在していたらしいのです。武勇に秀でた清正が自ら領主を望んだという逸話がありますが、実際には秀吉が、信頼でき現地を知る忠実な家臣として清正を抜擢したのです(下記補足4)。清正の領地石高は、3000石から4300石になっていましたが、それが一気に19万5千石になったのです。

(補足3)八木弐千石嶋津修理太夫ニくたされ候聞、慥ニはかりわたすへきものなり
 天正十五
  十月十三日朱印
   かとうかすへ(豊臣秀吉朱印状写)

(補足4)其方事、万精を入、御用ニも可罷立与被思食付而、於肥後国領知方、一廉被作拝領、隈本在城儀仰付候条、相守御法度旨、諸事可申付候、於令油断者、可為曲事候、(以下略)
 後五月十五日朱印
  加藤主計頭とのへ(天正16年閏5月15日 豊臣秀吉朱印状)

清正は古城の隈本城に入り、家臣も大幅に増やしましたが、領地の経営には専念できませんでした。「唐入り」への動員のためです。1591年(天正19年)に、侵攻の拠点・名護屋城の普請に動員され、翌年には第2軍の先鋒として、1万人の兵とともに朝鮮に渡りました(文禄の役、小西行長が第1軍)。天正19年4月に上陸後、日本軍は破竹の勢いで、清正は7月には朝鮮北東部の咸鏡道(ハムギョンド)に至ります。しかし翌年にかけて、朝鮮人民の反抗、明軍の参戦、補給不足などで「唐入り」どころか占領地の維持も困難になりました。日本軍は撤退を余儀なくされますが、清正の軍勢は約半分になっていました。隈本の領民の負担も大きく、朝鮮に連れてこられたが、逃げ帰ったり、朝鮮側に投降する人(降倭)も多くいました。清正が朝鮮から送った手紙や報告書に、苦戦の状況、補給が足りないことへの不満、秀吉の心証への不安が現れています(下記補足5)。

(補足5)一、去年之算用状、何とて今度四郎兵ニ不相越候哉、沙汰限候、皆々私曲をかまへ候共、後々あらわれ候ハて、不叶事候、去年誓紙を遣候事ハ、如此ニ物こと由断仕候、(以下略)
 文禄三年
  卯月廿九日 清正(花押)(清正書状の留守番家臣への不満が現れている箇所を抜粋)

そして1597年(慶長2年)からの2回目の朝鮮侵攻(慶長の役)のときに、清正が経験したのが蔚山籠城戦です。清正は、西生浦(ソセンポ)城を拠点にしていましたが、築城中の蔚山城が攻撃を受けたと聞き、救援に向かったのです。慶長2年12月22日のことでした。籠城軍は約2万、攻撃した明・朝鮮軍は5万人以上と言われています。籠城戦は翌年1月4日に日本側の援軍が到着するまででしたが、その間、酷寒の中、水・食料が決定的に不足している状況での戦いを強いられたのです。ここでの過酷な経験が、後の堅固な熊本築城にも生かされたと考えられます。

蔚山籠城図屏風、福岡市立博物館所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「武者返し」の石垣

なお、朝鮮侵攻期間の清正の逸話として「虎退治」がありますが、本当に手ずから仕留めたのかは何とも言えません。しかし、清正含む諸将が虎狩りを行ったのは事実です。虎の肉は長生きの薬と言われ、秀吉が所望したそうです。次は「地震加藤」についてですが、三成の讒言により秀吉の怒りを買い、帰国させられた清正が、地震(慶長伏見大地震)のときに真っ先に秀吉のもとに駆け付け、許されたというストーリーです。しかし実際には、清正の帰国は、明との講和交渉のためであり、地震のときには清正は大坂にいたようです(秀吉がいた伏見には清正の屋敷はなかった、下記補足6)。ただ、この地震は、被害の惨状を見た清正が、熊本城の「武者返し」の石垣を地震対策として築くきっかけになったのではないかという指摘があります。

(補足6)きと申遣候、上方大地震ゆり候て、伏見之御城中悉ゆりつくし候、乍去、大綱様・御拾様・政所様、いつれも御上之衆無何事候、次われわれ下々迄、無何事候、幷京・大坂の家も堅固候、伏見ニハいまた造作無之候あいた、当分者先々仕合候、(以下略)
 閏七月十五日 清正(花押)
  新美藤蔵殿(慶長2年加藤清正書状、日付は地震の2日後)

清正の晩年のエピソードとして、1611年(慶長16年)の二条城での徳川家康・豊臣秀頼会見のとき、清正が秀頼を護衛したというものがあります。しかし清正は、関ヶ原以前から明らかに家康派であり、この会見にも家康の子・頼宜のお供として参加しているのです。秀頼にも、会見終了後に大坂まで付き添っていますので、徳川・豊臣両方に気配りができる人物と目されていたのでしょう。清正は、武辺一辺倒ではなく、行政官や朝鮮での過酷な経験も踏まえ、粘り強く物事を進めていくことができる武将だったのではないでしょうか。

豊臣秀頼肖像画、養源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

熊本城築城

1598年(慶長3年)秀吉が亡くなると、清正は日本に帰還し、領民の負担に配慮しつつ、隈本城の拡張を行います。天下の動向が不安定になり、南の島津など領国の防衛を強化する必要があったからです。もとの古城地区から、北東の丘陵最高地点である茶臼山(標高50m)に城の中心部(本丸上段)を移し、天守の建築を始めました。天守は、関ケ原の戦いの頃(1600年、慶長5年)に完成しました。それと並行して、天守の周りを固めるいくつもの曲輪を、地形を利用しながら高石垣で囲んで築きました。平左衛門丸、数寄屋丸、飯田丸、東竹の丸、西出丸などです(曲輪名は後に定まったもの)。これらを合わせて、本丸が形成されました(範囲は熊本市資料に基づく)。本丸だけでこれだけの曲輪群があるとは驚きです。

現在の外観復復元天守

例えば、平左衛門丸、飯田丸は、清正がその曲輪の守備を任せた重臣の名前に由来します。そして、それらの曲輪には、他の城なら天守に相当する五階櫓が備えられます(宇土櫓、飯田丸五階櫓)。なんと最盛期の本丸には、天守の他に、五階櫓が6つもあったのです(上記+数寄屋丸五階櫓、竹の丸五階櫓、御裏五階櫓、本丸東五階櫓)。つまり、本丸内のそれぞれの曲輪は、小さな城のようになっていて、独立して戦えるようになっていたのです。熊本城の中が、更に城だらけといった感じでしょうか。

宇土櫓(熊本地震後の2019年)
飯田丸五階櫓の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

清正が籠城対策として、城の壁や畳に食物(かんぴょうやずいき)を仕込んだという話がありますが、確証はありません。現在も本丸にある大イチョウの木から、銀杏の実を食べられるようにしたとも言われますが、これは実のならない雄木だそうです。しかし、水に困らないよう多くの井戸(120ヶ所といわれる)を作ったというのは確実でしょう。

本丸に残る井戸

清正は関ケ原後、肥後一国の領主(球磨郡などを除く52万石、細川時代に54万石)になっていました。城は1607年(慶長12年)に完成し、「隈本城」から「熊本城」に改称されました。また清正は、城がひと段落してから、城下の整備のため、河川の改修にも取り掛かりました。当初、城の東側を白川が蛇行して流れていて、天然の要害になっていましたが、洪水が頻発するリスクもありました。清正は、白川の流れをまっすぐにし、支流の坪井川とともに、二重の堀としたのです。当時の大砲の性能では、白川から城を狙うのは難しく、白川にかかる橋も1本だけにしました。また、両方の川の間の土地を埋め立て、藩主の別邸(花畑屋敷)・家臣の屋敷地や城下町を作りました。これが、現在の熊本の町の原型になります。現在も清正が人々から慕われるのは、こういう業績もあったからでしょう。

熊本の町の商店街も、白川の元の流路の一部だそうです

清正は1611年(慶長16年)に亡くなりますが、跡継ぎの忠広は更に城を改修しました(細川時代も継続)。城の西側に、広大な二の丸や三の丸を整備し、大手門もそれまでの東側から西側に移しました。丘陵が緩やかになっている西側から大軍に攻められることを想定した措置でした。1615年(慶長20年)に一国一城令が出され、支城が制限されたので、本城の熊本城を強化する必要があったと思われます。結果として熊本城は、藤崎八幡宮、古城、元千葉城をも含む、周囲5.3km、約98万㎡の広さに及びました。忠広は1632年(寛永9年)に改易となってしまいますが、その後は細川氏が幕末まで城を継承しました。

加藤忠広肖像画、本妙寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

熊本城籠城戦

明治維新後、熊本城には陸軍の熊本鎮台が設置されました。そして1877年(明治10年)、西南戦争が起こると、熊本城での最初で最後の戦いが起こるのです。当時、特権をはく奪された士族(元武士階級)の不満が高まっていて、鹿児島の士族たちが西郷隆盛をかついで反乱を起こしました。西郷軍はまず、熊本城を正面から攻めることにし、2月15日に鹿児島を出発しました。彼らは、熊本城にいた鎮台の部隊を見下していました。樺山資紀など鹿児島出身の幹部が何人もいて、兵たちは徴兵された平民出身者で、個々の能力は劣っていました。熊本城を攻めればすぐに降伏し、その勢いで全国の士族たちも決起すると思っていたのです(兵力1万前後)。

西郷隆盛像、エドアルド・キヨッソーネ作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一方、熊本鎮台の司令長官・谷干城は、籠城策を採用しました。熊本にも不平士族がたくさんいて、前年には神風連の乱を起こし、鎮台を襲撃していました。実際に鎮台兵の士気は低く、熊本でも見下されていました。干城は、むやみに出撃して撃退されるリスクを避け、籠城して援軍を待つことにしたのです(兵力3300)。

谷干城に率いられた鎮西鎮台の幹部たち、朝日百科より (licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

それでも、鎮台側に有利な点もありました。兵器が西郷軍より最新であったこと、それから熊本城の存在です。それだけでなく、鎮台の工兵たちは城を近代的な要塞に作り替えました。例えば飯田丸では、五階櫓が西南戦争前に撤去され、砲台が設置されました。そして、西郷軍が来襲する直前、2月19日に天守などが焼亡しました。失火説、放火説もありますが、最近では鎮台側が自ら火を放ったとする説も有力です。大砲の標的となる天守を、自ら消し去ったというものです。しかし、貴重な弾薬や兵糧をも失うリスクを侵してまで行ったのかという意見もあり、謎の一つになっています。鎮台は、敵軍の見通しをよくするため、市街地に放火することまでやっています。

熊本に到着した西郷軍は2月21日に総攻撃を行いました。しかし見通しの甘さは変わらず、各部隊がバラバラに攻撃をしかけたようです。西郷軍のうち、正面軍は城の北・東・南側を攻撃しますが、鎮台の砲台群や兵たちに阻まれます。背面軍は、比較的手薄な西側を攻撃し、段山(だにやま)という突出した丘陵を占領しました。この場所はその後、籠城戦中の最大の激戦地になります。

段山近くにある激戦地跡の碑

22日夜、西郷軍幹部は作戦会議を開きますが、西郷の結論は、城への攻撃を続けつつ、北方にも進撃するという、後から見れば中途半端なものでした。その結果、城の北方で有名な田原坂の戦いが起こります。城への攻撃は続きましたが、次第に持久戦に移り、兵糧攻めの様相となってきました。西郷軍は、周りの川をせき止めて、水攻めも行っています。3月になると、3千名を越す鎮台兵の食料が足りなくなってきました。裏方の会計部の兵士も、西郷軍の包囲をかいくぐって食料調達に奔走しました。ついには、城内の犬猫まで食べていたそうです。

田原坂
田原坂公園にある「弾痕の家」

鎮台側はただ耐えていただけでなく、3月13日には段山を奪回しました。そして、食料が尽きかけた4月8日、奥保鞏(やすかた)少佐率いる突囲隊が、西郷軍を突破して、南に迫っていた政府の援軍まで到達しました。山川浩中佐率いる援軍が、熊本城に到着したのは4月14日のことで、52日間に及ぶ籠城戦がついに終わりました。西郷軍は、そのときには東方に撤退していたそうです。熊本城籠城戦は、そのまま西南戦争の天王山となり、西郷は敗れました。相当な改造を受けたとはいえ、難攻不落の城であることを、近代戦で証明したのです。まるで、清正と島津軍が、タイムスリップして戦っていたような気がしてしまいます。

奥保鞏、1897年の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
山川浩 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「熊本城その1」に戻ります。

「熊本城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

23.小田原城 その1

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城となるまで成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

立地と歴史(戦国編)

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城と言われるまでに成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

現在の小田原城、天守は江戸時代のものを復興させました

城の始まりと伊勢宗瑞の登場

古代の頃、西から関東に入る東海道は、箱根峠ではなく、足柄峠を越えるルートが主流でした。鎌倉時代になると、箱根山(箱根神社)・走湯山(伊豆山神社)の二所権現への参詣が盛んになり、箱根ルートがよく使われるようになりました。これにより、南北朝時代までには小田原に宿場町が形成されたと考えられています。「小田原城」の記録はこの後に現れますので、この町は城下町でなく、宿場として始まったことになります。一方、支配者の武士階層の中には、関所で通行税(関銭)を徴収する権利を持つ領主がいました。箱根や足柄では、大森氏がその立場にあり、徴収した関銭を、寺院の建立に使ったりもしていました。その大森氏が、宿場として成長した小田原を管理するために、15世紀中頃の戦国時代の始まりまでには、初期の小田原城を築いたと言われています。その目的からして、規模は大きくなかったと考えられます。

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小田原城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

また、初期の城の位置ですが、従来は現在の小田原城天守の北側の、「八幡山古郭」と呼ばれる場所ではないかと言われてきました。しかし当初の小田原宿は、江戸時代のそれより、西側にあったと考えられます。標高が高く高潮の被害を受けにくく、初期の頃もこの場所についての記録、言い伝えが残っているからです。そのため、城もその宿場に近い、現在の小田原城の天守周辺(八幡山丘陵の端)か、天神山丘陵にあったと考えられるようになってきました。

八幡山古郭東曲輪
現在の天神山

戦国時代には、「北条早雲」こと伊勢宗瑞(いせそうずい)が登場します。宗瑞はこれまで、下剋上を果たした、典型的な初期の戦国大名の一人として、捉えられたこともありました。つまり、素浪人から自らの才覚のみでのし上がり、城持ちの大名になったというサクセス・ストーリーです。しかし、最近の研究により、彼は備中国(岡山県西部)出身の、将軍に仕える幕府奉公衆・伊勢盛時(いせもりとき)であったことがわかっています。彼の姉が、駿河国(静岡県中部)の大名、今川義忠に嫁いでいましたが、家督争いが発生し、姉の子の氏親を支援するために、駿河に向かったのです。

伊勢宗瑞(北条早雲)肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、氏親を跡継ぎにすることに成功し、恩賞として、駿河の興国寺城を与えられました。その後、伊豆国(静岡県東部)の韮山城、そして相模国(神奈川県)の小田原城を手に入れるのですが、それは、一匹狼ではなく、今川氏の部将、そして南関東を治めていた扇谷上杉氏との連携によって行われました。小田原城攻めにしても、宗瑞が大森氏に贈り物を送って油断させ、「火牛の計」を使って城から追い出したという武勇伝がありました。しかし実態は、宗瑞の弟と大森氏が一緒に小田原城にいて(扇谷上杉氏方)、山内上杉氏に攻め取られたという記録があったりして、単純な話ではなかったようです。西暦1500年前後に大地震があったり、大森氏が山内上杉氏方に転じたタイミングで、宗瑞が手に入れたのではないかと考えられています。ただし、この時点では小田原城は、まだ支城という扱いでした。

興国寺城跡
「火牛の計」で攻める北条早雲像、小田原駅西口

北条氏綱・氏直による発展

初代・宗瑞(北条早雲)の跡を継いだのは、嫡子の北条氏綱(ほうじょううじつな)です(1518年、宗瑞は翌年に没)。「小田原北条五代」と言いますが、小田原を本拠地とし、「北条氏」を名乗ったのは、2代目の氏綱からです。関東地方侵攻を本格的に始め、敵となった上杉氏(山内・扇谷)から「他国之凶徒」と言われ、権威を得るため、鎌倉時代の関東支配者の名字を名乗り始めたと言われています。また、関東公方の足利晴氏と同盟を結び、「関東管領」に任命され、同じ職名を世襲していた(山内)上杉氏に対抗します。

北条氏綱肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1541年に氏綱から跡を継いだ3代目の北条氏康は、更に領土を広げ、1546年の河越城の戦いで上杉軍に大勝し、関東での覇権を確立しました。氏綱・氏直は小田原を南関東の中心地にしようとしました。それまでの宿場町を城下町として、江戸時代の小田原宿と同じくらいまで広げました。日本最初の水道と言われる「小田原用水」も町に引かれました。城についてはこの頃、城の中心となる「本丸」「御用米曲輪」「二の丸」が成立したと考えられています(曲輪の名前は江戸時代のもの)。1551年に小田原を訪れた僧が「三方に大池あり」と記録しています。この池は現在、二の丸の堀として残っています。また、氏康は民衆に善政を施したことでも知られています。年貢率(四公六民)も他の大名よりは低かったと言われています。

北条氏康肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原用水
現在の二の丸東堀

1561年、城は最初の大きな危機を迎えます。越後国(新潟県)の上杉謙信(その時点は長尾景虎)が、旧来の上杉氏による秩序回復を掲げ、関東地方に侵攻してきたのです。翌年(永禄4年)2月には10万を超えるとも言われる大軍で小田原城を囲みますが、短期間で引き上げました。その場の勢いに乗った寄せ集めであったため、長陣には耐えられなかったからです。そのとき、大手門であった「蓮池門」(現在の幸田口門跡周辺)に、謙信方の先鋒、太田資正が突入し戦ったと伝わっています。氏康は当時、甲斐国(山梨県)の武田信玄、及び今川氏と三国同盟を結んでいて、その力を基礎に、その後謙信の侵攻を跳ね返していきます。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし次の危機として、信玄が1568年に同盟を破り、翌年(永禄12年)10月には、小田原城に攻め込んできました。信玄は、同年8月に北条領内に侵入し、10月1日から小田原城を包囲し、5日には引き上げています(この後、退却途中に有名な三増峠の戦いが起こります)。このような経緯から、もともと小田原城を本気で落とそうとする意図はなかったようです。信玄も謙信と同じように、蓮池門から城を攻めたと言われています。城下町は悉く放火され、信玄自身が手紙で「氏政館」も放火したと言っています。氏政は、氏康の跡継ぎで、当時彼の館は、現在の「御用米曲輪」にあったと考えられていますので、これが合っていれば、本丸の麓まで攻め込まれたことになります。このとき氏政は、氏康から家督は譲られていましたが、1571年に父・氏康が亡くなると、武田との同盟を復活し、更なる城の拡張を行います。恐らく、これらの戦いでの経験が基になっていると思われます。長期の籠城に耐えられる城であれば、どんな強力な敵にも対応できると確信を持ったのかもしれません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の御用米曲輪

北条氏政・氏直による完成

北条氏政と跡継ぎの氏直の時代に、北条氏は全盛期を迎えました。武田氏との同盟が機能した他、上杉謙信が1578年に亡くなり、関東地方に強敵が見当たらなくなったからです。北条氏は関東地方の大半を支配するようになり、地域防衛のため、支城ネットワークを築き、重要な城には一族・重臣を派遣しました。小田原城は、そのネットワークの中心に位置づけられたのです。小田原城そのものも、以前の戦いの教訓に基づき、氏政主導で強化されました。まず、二の丸外側の低地に、三の丸が作られました。また、城の背後からも攻められないよう、三の丸外郭が丘陵地帯に築かれました。更には、三の丸外郭に続く防衛ラインとして、丘陵地帯の地形を利用して、小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)の建設を始まました。これらは、急斜面の堀を掘削し、堀った土を土塁として積み上げるやり方で築かれました。北条氏は石垣を積む技術も持っていましたが、このエリアの土は、関東ローム層と呼ばれる火山灰が堆積してできたもので、粘土質で滑りやすく、敵を防ぐための堀には打ってつけだったのです。また、堀の底は、「障子堀」「畝堀」呼ばれる仕切りがつけてあり、堀に入った敵を閉じ込める仕組みとなっていました。

北条氏政肖像画、法雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸外郭
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)
山中城跡に残る障子堀

城の拡張は、日本全体や他の大名との外交関係にも影響されていました。織田信長が1582年に武田を滅ぼしたときには、信長に臣従せざるをえなくなりました。ところが、信長が本能寺の変で倒れると、また乱世に戻ったようになります。武田の遺領をめぐって、北条・徳川・上杉が三つ巴の戦いを始めたのです。更に、上野国で真田昌幸が独立を志向して三者を渡り歩き、不気味な存在となります。氏政は、徳川家康と手打ちをし、関東地方だけは確保しますが、今度は豊臣秀吉の天下統一が進みます。1587年までに、西日本は全て平定され、氏政の周りの大名たちも秀吉に臣従しました。北条氏は孤立し、頼りにできるのは同盟続いていた家康と、奥州の覇者・伊達政宗だけでした。氏政は翌年から、豊臣方と臣従するための条件交渉を始めます。その一つが、真田と争っていた上野国沼田の扱いで、一旦は秀吉の裁定により解決しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
真田昌幸肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽作、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信作、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その一方で、氏政は戦になることも想定し、「相府大普請」とも呼ばれた小田原城の大改修を始めました。その目玉は、小田原を囲む丘陵地帯(八幡山・天神山・谷津)、城、城下町を丸ごと土塁と堀で囲む総構でした。その延長は約9キロメートルに及び、工事には関東全域から人夫が動員されました。地域全体を囲んでしまえば、敵は入ってこれず、長期の持久戦ができると考えたのでしょう。当時はこれを「大構」と呼んでいたようで、同じ名前の遺構が、支城だった岩付城跡に残っています。

Leaflet, © OpenStreetMap contributors
赤い線が総構土塁の推定ライン

総構の想像図、現地説明パネルより
わずかに残る岩付城大構

1589年(天正17年)10月、北条氏の家臣が、沼田で真田のものになったとされる名胡桃城を奪う事件が発生しました。秀吉は激怒し、命令違反として、北条征伐を決定します。この事件は不可解な点も多く、秀吉と真田が仕組んだ謀略という説もあります。直臣に領地を与えたい秀吉と、ただちの臣従を潔しとしない氏政の思惑も考えられ、両者の対決は必然だったのかもしれません。小田原城総構は、約2年をかけ、完成していました。

名胡桃城跡

運命の小田原合戦

1590年(天正18年)3月、豊臣秀吉軍総勢約22万人(本体16万、水軍2万、北陸勢3.5万)が、北条領に押し寄せました。この他に、これまでも北条と敵対していた関東勢1.8万人が攻撃してきました。迎え撃つ北条軍は、総勢約8万人と言われ、その内約5万人を小田原城に集中させました。支城ネットワーク攻略に時間をかけさせ、小田原城での長期籠城戦により、敵を消耗させ、有利な講和に持ち込むつもりだったと思われます。しかし、その大半は無理やり徴収した農民兵であり、質は劣っていました。城の改修のときから、過酷な負担を強いられていたため、当然士気も上がりません。先代のときに目指した民政の充実は、遠のいてしまっていました。3月28日に上野国松井田城、29日に伊豆国山中城・韮山城で戦いが始まりました。ところが、圧倒的な兵力差により、山中城がたった1日で落城してしまいます。その後も、有力な支城が次々に落城、開城していきました。5月末には、籠城中または未攻略の有力支城は、韮山、鉢形、津久井、八王子、忍のみとなりました。北条軍にとっては、大きな衝撃、かつ誤算でした。松井田城主で重臣の大道寺政繁や、玉縄城主・北条氏勝は、豊臣軍の道案内をし、北条方の城主に降伏するよう説得する有様でした。そのくらいの力の差があったということでしょう。

北条領国の支城ネットワーク、現地説明パネルより

豊臣軍は4月上旬には小田原城に到達し、18万の軍勢で城を包囲しました。秀吉は、5日に早雲寺に着き、ここを本陣とします。4月下旬には、新しい本陣として石垣山城の築城を始めました。しかし、このような大軍であっても、幅最大30メートル、深さ10メートル以上、勾配50度以上の総構のラインに阻まれ、城の中に打ち入ることはできませんでした。総構のラインには、柵が並び、所々に櫓が立ち、重要な出入口は2重の仕切りがあるなど厳重に警備されていました。城の中心部は、本丸には5代目当主・北条氏直がいて、先代の氏政は、北の八幡山に布陣していました。以前氏政館だったところは、「百間蔵」と呼ばれる倉庫群になり、長期籠城に備えていたようです。(戦後に、伊達政宗が小田原城の倉庫群を見聞し、その収容力に驚嘆しています。)総構の中には城下町も含まれていたので、生活・軍事物資も自己調達できることになります。また、総構の外にも、篠曲輪などの出丸があり、攻撃態勢も備えていました。一方、北条軍にとってもう一つの誤算が、豊臣軍の長期戦への備えでした。豊臣軍の多くは専門の兵士であり、大量の兵糧(秀吉が20万石と指示)を調達・輸送することで、長期滞在が可能となっていました。かつての上杉・武田軍と比べ、別次元の経済力、技術、運用ノウハウを持っていたのです。(現場レベルでは、士気の緩みや食料不足ということもあったようです。)その結果、4月、5月と城を挟んだにらみ合いが続きます。

小田原城周辺の布陣図、現地説明パネルより

5月には、東北・関東の大名たち(南部、安東、結城、佐竹、宇都宮など)が小田原に参陣してきました。6月5日には、ついに伊達政宗が到着し、9日に白装束で秀吉に謁見しました。これで、北条への援軍が来る可能性がなくなりました。この辺りから、小田原開城に向けた交渉が加速していきます。交渉の推進役は、北条氏直でした。後に、延々と結論の出ない会議のことを「小田原評定」というようになりますが、実際には水面下で動きはあったのです。支城の方は、6月14日鉢形城開城、23日八王子城落城、24日韮山城開城、25日津久井城開城となります(残りは忍城のみ)。その韮山城主・北条氏規は、豊臣方の黒田孝高(官兵衛)とともに、氏直に開城を勧めました。6月26日に、石垣山城が完成し、秀吉が移りますが、その姿が最後のダメ押しになったかもしれません。

伊達政宗肖像画、加納安信作、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
鉢形城跡
八王子城跡
石垣山城跡

7月5日、氏直は降伏を申し入れ、小田原城は開城しました。開城交渉の中で、領土の縮小維持という条件もあったと言われますが、秀吉の裁定は過酷でした。氏政など主戦派と見なされた4名は切腹、氏直は高野山へ追放(後に赦されるが病死、氏規の家系が小大名として存続)となりました。戦後の領地配分を見ると、徳川家康が北条領に転封、徳川領に尾張の織田信雄を移そうとしたが断ったため改易とし、空いたところに、当時の跡取り・豊臣秀次とその家老たちを入れています。秀吉の意図が見えるのではないでしょうか。(ちなみに、沼田領(沼田城含む)も丸々真田のものとなりました。)

小田原城近くにひっそりと佇む切腹した北条氏政と氏照の墓所

戦国大名としての北条氏は滅亡しましたが、その総構の城は、参陣した大名たちに大きなインパクトを与えました。記録に残っているものでは、駿府城に入った中村一氏が、小田原城に習い総構を築いています。秀吉自身も、小田原合戦の翌年、京都を囲む御土居の建設を始めました。しかも、その堀には「障子堀」が採用されています。本拠地の大坂城でも、1594年から総構(三の丸)の建設を行っています。

現在の駿府城公園
移築復元された大坂城三の丸の石垣

小田原合戦に参陣した大名たちの城で採用された「総構」も、小田原城の影響があると考えられています。

蒲生氏郷の若松城、総構の甲賀門跡
堀秀治の春日山城、復元された総構
前田利家の金沢城、総構跡

「小田原城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

55.千早城~Chihaya Castle

典型的な日本の山城の原点
The origin of typical Japanese mountain castles

立地と歴史~Location and History

楠木正成の活躍~Activities of Masashige Kusunoki

楠木正成は14世紀に河内国(現在の大阪府東部)を根拠地とした有力武将でした。彼は最初は、中世に武士のための政権を担った鎌倉幕府に仕えていました。しかし、1331年に後醍醐天皇が幕府に反抗したとき、正成は天皇を助け、赤阪城で幕府と戦いました。ところが、この城は急ごしらえで、敵と戦うには不十分であったこともあり、正成は敗走せざるを得ず、そして姿をくらましました。天皇は幕府に捕らえられ、日本海の隠岐の島に配流されました。
Masashige Kusunoki was a great general based in Kawachi Province (what is now the eastern part of Osaka Prefecture) in the 14th century. He first worked under the Kamakura Shogunate, a government body for warriors in the middle ages, but when Emperor Godaigo was against the Shogunate in 1331, he supported the Emperor fighting with the Shogunate in Akasaka Castle. However, the castle was built in a hurry and wasn’t very strong enough to protect against enemies, so Masashige had to run away and disappear. The Emperor was caught by the Shogunate and brought to Okinoshima Island in Japan Sea.

楠木正成肖像画、狩野山楽筆、楠枇庵観音寺蔵~The portrait of Masashige Kusunoki, attributed to Sanraku Kano, owned by Nanpian Kannonji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後醍醐天皇肖像画、清浄光寺蔵~The portrait of Emperor Godaigo, owned by Shojokoji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1333年、正成は雪辱を期し、上赤阪、下赤阪、そして千早といった城のネットワーク作りを開始しました。千早城は、その内で詰めの城の役割でした。この城は、河内と大和国(現在の奈良県)を結ぶ千早街道沿いにあり、日本の山岳修業の流派である修験道の場として知られた金剛山へ向かう途上にありました。そしてこの城は、全面を谷に囲まれた峰の上に位置していました。
In 1333, Masashige wanted to take revenge, so he started making his new network of castles: Kami-Akasaka, Shimo-Akasaka, and Chihaya. Chihaya Castle was the last one of the network. It was located alongside Chihaya Road connecting Kawachi and Yamato (now Nara Prefecture) Provinces, and
on the way to Mt. Kongosan which was known for the training of Shugen-do, i.e., Japanese mountain asceticism. The castle was also on one peak, surrounded by valleys on all sides.

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千早城Chihaya Castle
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置~The location of the castle

千早城の模型、千早赤阪村郷土資料館蔵~The miniature model of Chihaya Castle, owned by Chihaya-Akasaka Folk Museum(licensed by Wikiwikiyarou via Wikimedia Commons)

千早城の戦い~Siege of Chihaya

正成と僅か千名の兵士からなる部隊は、千早城に籠城し、幕府の大軍から何回も攻められました。 これは千早城の戦いと呼ばれ、日本で最初の本格的な山城での戦いでした。幕府軍の武士たちはこのような戦いでどう攻撃してよいかわからず、陣地や攻めどころといった戦略や計画もなく、しゃにむに城に突進していきました。正成とその部下たちは、敵と戦うのに大抵は盾や矢を使ったのですが、更には岩、丸太、油と火、煮えた汚物までも使って幕府軍を撃退したのでした。また、夜襲をかけて、敵を更に疲弊させました。この籠城戦は3ヶ月間続きます。
Masashige, with his small army of one thousand soldiers, was besieged in Chihaya Castle, by the massive Shogunate troops several times. It is called Siege of Chihaya, and it is the first big battle to occur in a mountain castle in Japan. The shogunate warriors didn’t know how to attack in such a battle, so they straightaway charged the castle without any strategies or planning, with regards to position or location of attack. Masashige and his army mostly used shields and arrows in order to fight the enemies. In addition, they also used rocks, logs, oil and fire, and even boiled filth to repel the Shogunate. They also delivered night attacks to further tire the enemies. The siege lasted for three months.

千早城合戦図、歌川芳員筆、江戸時代、湊川神社蔵~The illustration of Siege of Chihaya, attributed to Yoshikazu Utagawa, in the Edo Period, owned by Minatogawa Shraine(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

籠城戦の間、後醍醐天皇は島を脱出し、幕府の配下を含む全ての武士たちに協力を求めました。そして足利尊氏や新田義貞といった幕府の有力な部将たちが天皇方についたのです。千早城を攻撃していた軍勢はそれを聞き、撤退していきました。ついに正成は勝利し、幕府は千早城の籠城戦が終わってからわずか12日後に滅びました。
During the siege, Emperor Godaigo escaped from the island, and requested all the warriors, even those that backed Shogunate, to support him. Some influential retainer of the Shogunate, such as Takauji Ashikaga and Yoshisada Nitta, took sides with the Emperor. The troops attacking Chihaya heard about it and withdrew. Finally, Masashige won and the Shogunate was destroyed in just 12 days after the Siege of Chihaya ended.

足利尊氏肖像画、浄土寺蔵~The portrait of Takauji Ashikaga, owned by Jodo-ji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正成と城の最期~End of Masashige and Castle

後醍醐天皇は建武の新政を始めますが、朝廷はすぐに後醍醐の南朝と、尊氏が別の天皇を立てて設立した北朝に分裂します。正成は最後まで後醍醐に仕えました。しかし、残念なことに1336年の摂津国(現在の兵庫県の一部)での湊川の戦いで尊氏に敗れてしまいます。千早城は正成の子孫により継承されますが、ついには1392年の北朝方の攻撃により落城しました。
Emperor Godaigo started Kenmu Restoration, but the kingdom was soon divided into his Southern Court and the Northern Court that Takauji established with another Emperor. Masashige followed Godaigo till the end, but was unfortunately defeated by Takauji in the Battle of Minatogawa, 1336 in Settsu Province (now part of Hyogo Prefecture). Chihaya Castle was kept by Masashige’s descendants, but eventually fell due to the attack of the Northern Court in 1392.

河内千破城図、湊川神社蔵~The illustration of Chihaya Castle, owned by Minatogawa Shrine(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

急坂を登る~Climbing Steep Slope

現在、千早城跡への入口は、いまだに金剛山への玄関口になっています。ここから急坂に沿った500段以上の石段を登っていかねばなりません。石段は元はなかったのですが、神社が建設されたときに一緒に作られました。山道は所々曲がりくねっていて、過去は敵を防げるようになっていました。
Now, the entrance to the ruins of Chihaya Castle is still the gateway for Mt. Kongosan. You have to climb up over 500 steps of stones along the steep slope. The steps were not there originally, instead they were developed when a shrine was constructed . The trail is partly zigzagged to prevent enemies in the past.

千早城跡入口~The entrance of Chihaya Castle Ruins
石段の急坂~The steep stone steps
曲がりくねっている山道~The zigzagged trail

城の中心部は神社に~Center of Castle becomes Shrine

20分程かけて150mの高さを登っていくと、この城では最も広い郭である第四郭にたどり着きます。そこから更に山の鞍部を通る通路を通って第三郭に至ります。この郭には神社の社務所や、城の記念碑があります。
After about 20 minutes of 150m high climbing, you will reach the Fourth Enclosure which is the roomiest space in the castle. You can go further the route on a saddle of the mountain to the Third Enclosure. The enclosure has the shrine office and the monument of the castle.

第四郭~The Fourth Enclosure
山の鞍部~The saddle part of the mountain
第三郭~The Third Enclosure
城の記念碑~The monument of the castle

第三郭の後は第二郭となり、正成を祀る千早神社が鎮座しています。第一郭がまた第二郭の背後にありますが、聖地として一般の立ち入りは禁止されています。第一郭にはかつては見張り台のような建物があったと考えられています。
Chihaya Shrine that worships Masashige is on the Second Enclosure in at the back of the Third Enclosure. The First Enclosure is also at the back of the Second Enclosure, but it is closed to visitors of the shrine as it is considered the sanctuary. It is thought that a building, like a watchtower, stood on the First Enclosure in the past.

千早神社~Chihaya Shrine
第一郭は立ち入り禁止~The First Enclosure is closed

残っているものはあるか?~Does something original remain?

神社からは脇道が分かれ出ています。その道から見下ろすと、何か腰曲輪のようなものがあります。これらは元からあったものなのでしょうか。第三郭と第四郭の間の鞍部に戻ると、神社への脇参道を使って、山から下りることができます。谷底の一つは林道になっていて、そこから見ると坂道がとても急になっていて、この城がいかに自然の地形をうまく活用しているかがわかります。
The side tail goes from the shrine. From the trail, you can look down at something like bounded enclosures. I wonder if they are original or not. If you go back to the saddle between the Third and Fourth Enclosures, you can go down from the mountain using the side pathway to the shrine. One of the valleys’ bottoms has become a forest road. When you look up at the mountain from the road, you can see how steep the slope is, and how well the castle used natural terrain.

腰曲輪のように見えます~They can look like bounded enclosures
自然の断崖~The natural cliff

その後~Later History

千早城は長い間放置されてきました。ところが、明治維新後、状況は劇的に変化しました。北朝の子孫である明治天皇がどういうわけか南朝が正統と決めたのです。正成は、歴史家の間では優れた戦略家として知られてきましたが、突然日本史上最も有名な人物に祭り上げられてしまったのです。第二次世界大戦まで、彼の戦略とイデオロギーは全ての国民を忠良な臣民として教育するために利用されたのです。その結果、1879年に千早神社が城跡の上に建設されました。
Chihaya Castle had been abandoned for a long time. However, after the Meiji Restoration, the situation dramatically changed. Emperor Meiji who was a descendant of the Northern Court decided that the Southern Court was orthodox for some reasons. Masashige, who had been recognized as a great strategist only popular among historians, suddenly transformed into the most famous historical figure. His strategies and ideologies were used to educate all the nations in Japan, which was to be loyal subjects, until World War ll. As a result, Chihaya Shrine was built on the castle ruins in 1879.

皇居外苑にある楠木正成の銅像~The statue of Masashige Kusunoki at Outer Gardens of the Imperial Palace(licensed by David Moore via Wikimedia Commons)

現在でさえ、多くの年配の日本人は正成は単に忠臣だと思っています。一方で、若者の間では彼の名前さえ知らない人もいます。最近では歴史家たちは彼個人について一部研究が進んでいますが、いまだに謎のままです。この地は1934年から国の史跡に指定されています。
Even now, many old people in Japan think Masashige is just a loyal retainer. On the other hand, some young people even don’t know his name. Historians are recently studying about him as some parts of his personality still remain a mystery. The site has been designated as a National Historic Site since 1934.

私の感想~My Impression

私は千早城は日本の典型的な山城の先駆けだと思うのです。なぜなら敵から守るために、自然の障壁を最大限活用していたからです。その後の武士たちはこの城とここでの戦いから多くを学んだに違いありません。神社がよく整備され、正成の名が不朽なものとして残るのはよいことですが、せめて第一郭に立ち入らせてもらえないでしょうか。自治体の方にも城跡を史跡として整備し、もっと本当の正成を人々に知ってもらうようにすることを望みます。
I think that Chihaya Castle is the forerunner of typical mountain castles in Japan, because it used natural hazard at maximum to protect from enemies. Later warriors must have learned a lot from the castle and the battle on it. I am pleased to see that the shrine are is well maintained and Masashige’s name is kept intact .I hope that the shrine will allow visitors to enter the First Enclosure, and that the local government will preserve the ruins really like a historic site to let so that people know more about real Masashige more.

第一郭を見上げる~Looking up the First Enclosure

ここに行くには~How to get There

車の場合、阪和自動車道美原南ICから約30分かかります。城跡の入口周辺にいくつか駐車場があります。
バスの場合、近鉄長野線富田林駅から、金剛バス千早線の千早ロープウェイ前または金剛登山口行きに乗るか、
南海高野線か近鉄長野線の河内長野駅から、南海バス窪田線の金剛山ロープウェイ前行きに乗ってください。
どちらのケースでも、金剛登山口バス停で降りてください。
By car, it takes about 30 minutes away from the Mihara-Mnami IC on Hanwa Expressway. There are several parking lots around the entrance of the castle ruins.
By bus, you can take the Kongo Bus on Chihaya Line bound for Chihaya-Ropeway-Mae or Kongo-Tozanguchi from Tondabayashi Station on Kintetsu Nagano Line, or take the Nankai Bus on Kobuka Line bound for Kongosan-Ropeway-Mae from Kawachi-Nagano Station on Nankai Koya Line or Kintetsu Nagano Line. Get off at the Kongo-Tozanguchi bus stop in both cases.

リンク、参考情報~Links and References

千早城 千早神社、千早赤阪村観光協会(Chihaya-Akasaka Village Tourism Association)
・「日本の城改訂版第103号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)
・「日本の攻城戦55/柘植久慶」PHP文庫(Japanese Book)

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