153.北畠氏館 その1

北畠氏の当主は、多気御所と呼ばれた本拠の館で君臨していました。豪華な日本庭園も造られ現存しています。この一族は16世紀初頭には有力な戦国大名となりました。

立地と歴史

戦国大名となった南朝出身の貴族

北畠氏館は、14世紀から16世紀の間、現在の三重県にあたる伊勢国を支配した北畠氏の本拠地でした。北畠氏はユニークな大名家で、もともとは貴族だったのがついに戦国大名になりましたが、最後には織田信長に家ごと乗っ取られてしまいました。北畠氏館も独特な立地で、不便ではあるが防御力に優れる多気地域というところに館が築かれました。その結果、北畠氏は長い間存続できたのです。

伊勢国の範囲と城の位置

14世紀の南北朝時代に、南朝の後醍醐天皇は、信頼する臣下の北畠親房を東日本にその統治のために派遣しました。親房とその息子の顕家は武将として、北朝型の大名たちと戦いました。その結果、彼らの親族は東北地方に残り、高貴な生まれの大名として浪岡御所と呼ばれ、16世紀後半まで浪岡城を居城としていました。同様に、顕家の弟の顕能(あきよし)が伊勢国に派遣され、1338年には国司に任命されました。伊勢国は、海に面した東部と山間部の西部に分かれていました。東部には、皇室にとって最も重要な神社の一つ、伊勢神宮がありました。西部には、南朝の本拠地である大和国(現在の奈良県)の吉野に通じる街道が通っていました。

後醍醐天皇肖像画、清浄光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北畠神社内にある北畠顕家像
浪岡城跡

館があった地域自体が自然の要害

伊勢国の北畠氏も北朝方と戦っていて、自然本拠地は防御力の強い国の西側に置くことになりました。そして選ばれたのが多気地域たっだのです。この地域には伊勢神宮と大和国をつなぐ伊勢本街道が通っていて重要視されました。しかしその場所は八手俣(やてまた)川沿いの山に囲まれた小さな盆地でした。この地域の出入り口は7箇所ありましたが、全て峻険な峠道か、深い谷間でした。つまり、この地域自体が自然の要害だったのです。

多気地域の起伏地図、7箇所の出入口も示しています

北畠顕能座像、美杉ふるさと資料館蔵  (licensed via Wikimedia Commons)

不幸なことに南朝の勢力はやがて衰え、北朝を支持する足利幕府が設立されます。北畠氏は何とか生き残りましたが、しばしば幕府に対して南朝の子孫の取り扱いについて抗議しました(南北朝合体のときに約束された両統からの皇位継承が反故にされたことなど)。北畠氏はまず、西に山を控え、残りの三方を八手俣川に囲まれた敷地に館を建設しました。その敷地は三段に造成され、上段は中段よりも約3m高く、長い石垣によって囲まれていました。その上段に御殿が建てられていたようです。そこに築かれた石垣は、武士の館や住居のために作られたものとしたは最古に属すると考えられています。石垣は、楕円形の自然の川原石を垂直に積み上げたもので、後世の城に見られるような加工された石を傾斜を作って積み上げたものとは違っていました。

発掘された敷地上段の石垣、現地説明板より

館を守るために次々と築城

北畠氏の反抗により、幕府は軍勢を送り、北畠氏の領地を西側から度々攻撃しました。そのことで、北畠氏は本拠を守るためにその方角に向かって新しい城を築き始めました。最初は館の背後の山、約80m上方に非常事態に備えた詰めの城を作りました。その城は簡単な構造で、頂上に本丸があり、その周りを通路とともに腰曲輪が設けられていました。その山の西側の峰には、深い堀切が作られ、それを渡る細い土橋によってのみ通行可能になっていました。

城周辺の起伏地図

詰めの城の縄張り図、現地説明板より
詰めの城跡

また、その通路を渡った西側に向かって、もっと大きな城も築きました。それが霧山城で、詰めの城よりも更に約160m高い別の山にありました。敵にとっても味方にとっても、近づくだけでも困難な場所でした。したがって、その城は通常は物見のために使われ、非常事態が発生したときには籠城のために使われたと思われます。その結果、北畠氏は敵の領地への侵入を防ぐことができました。

霧山城跡

北畠氏の繁栄と滅亡

その後、北畠氏と幕府は和解し、伊勢国における北畠氏の支配は安定しました。木造(こづくり)氏などの北畠氏の支族は、伊勢国の各地に派遣され、北畠氏の当主は、多気御所と呼ばれた本拠の館で君臨していました。館も拡張され、豪華な日本庭園が造られ、それは現存しています。北畠氏一族は16世紀初頭には有力な戦国大名となり、7代目当主の北畠具教(とものり)が国を治めていた16世紀半ばにその勢力はピークに達しました。

現存する北畠氏館跡庭園
北畠具教肖像画、伊勢吉田文庫所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、伊勢の北、尾張国から新たな脅威が訪れます。後に天下人となる織田信長が1568年に伊勢国への侵攻を開始したのです。更に、一族の木造氏も信長の味方となりました。具教は本拠を、戦場により近い大河内城に移さなければならなくなりました。北畠、織田両氏は1569年に、信長の息子、信雄を北畠氏の跡継ぎに迎えるという条件で講和しました。このことは実際には、織田氏による北畠氏乗っ取りの始まりとなりました。具教は1576年に信雄により殺されてしまい、同じ頃に北畠氏館を含む伊勢国の各城は、織田軍により占拠されました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
織田信雄肖像画、総見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「北畠氏館その2」に続きます。

15.足利氏館 その1

足利氏の本拠地

立地と歴史

源氏の一族が足利荘を開発し定住

足利氏館は、現在の栃木県足利市の中心部に位置していました。実は、その場所は現在では鑁阿寺(ばんなじ)という有名なお寺になっています。そのため、私たちが通常想像する典型的な城のようには見えないかもしれませんが、この館跡は防御機能を伴った日本の武士の館の、初期の形態を残しているとされています。

鑁阿寺楼門(山門)

足利氏は、地方領主としてより、14世紀から15世紀の室町時代の足利幕府の将軍家としての存在の方がずっと知られているでしょう。しかし事実として足利氏の歴史は、12世紀に下野国(現在の栃木県)で足利荘(ほぼ現在の足利市に相当)を開発したときから始まりました。皇室の子孫で清和源氏の足利義国が、最初にその場所に定住し、足利氏の祖先となりました。

足利市の範囲と城の位置

鎌倉幕府が設立される前は、武士たちは自身で開発した土地を維持するためには、形式的に荘園として高位の貴族に寄付する必要がありました。そうでなければ、公的機関から領地を保証されることは一切なかったのです。そのために義国は足利荘となる地に定住し、大変な労力を投じて開発を進めました。それ以来、この一族は自身の苗字として、その地の名前である足利を名乗ったのです。義国の息子、足利義康は足利氏の創始者であり、最初に足利氏館を築いたと言われています。そして、館はその息子で2代目の義兼に引き継がれました。

伝・足利義兼肖像画、鑁阿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

初期の武士の館の典型

館の特徴として挙げられるのは、そのエリアを囲む土塁とその外側の水堀でしょう。こられにより館の敷地は四角形に区切られ、歴史家はこのような典型的な武士の館を「方館(ほうかん)」と呼びならわしています。その四角形の一辺は約200mで、この館の形式は戦国時代の17世紀まで長い間踏襲されました。その類型として、武田氏館大内氏館などがあります。領主や武士たちは普段このような館に住み、戦のような緊急事態にも対処できるようにしていました。したがって、足利氏館は武士が建てた最も初期の日本の城の一つとみなされています。

足利氏館跡(現鑁阿寺)を囲む土塁と水堀
武田氏館の模型、甲府市藤村記念館にて展示
大内氏館跡(現・龍福寺)

義兼は12世紀末に。源氏の棟梁であり日本の武家政権で最初の将軍となった源頼朝による鎌倉幕府の設立に、頼朝の親族として貢献しました。義兼はまた信仰心が深く、館の中に持仏堂を建立し、仏画を掲げて祈りを捧げました。これが鑁阿寺の起源となります。更には、彼は隠居所として樺崎寺を建て、また足利学校の設立者の一人とも言われています。足利学校は、日本中世の最高学府の一つとなりました。これらにより、足利は中世における一大文化都市となったのです。

樺崎寺跡
現存する足利学校の「学校門」

足利氏は鎌倉時代を生き抜き室町将軍家に

その後源氏将軍の血筋が絶え、北条氏が執権として実権を握りましたが、義兼の息子、義氏は鎌倉幕府の重臣となりました。足利氏としても、現在の愛知県の一部にあたる三河国に新しい領地を獲得しました。そのため、義氏は普段は武家の都、鎌倉に住んでいました。そこには政所が設置され、領地全体をコントロールしていました。もとの本拠地であった足利荘でさえ、足利氏の当主ではなく当地に置かれた公文所の役人によって治められました。よって、義氏は足利の父親の館(足利氏館)を1234年に鑁阿寺とし、父親の冥福と氏族の繁栄を祈る場所としたのです。

足利義氏肖像画、江戸時代の作、鑁阿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利荘の公文所が置かれたとされる勧農山(現・岩井山)

鎌倉幕府の他の重臣たちが北条氏によって粛清される中、足利氏は鎌倉時代を生き延びました。多くの足利氏当主は、北条氏から輿入れした母親から生まれました。そのために足利氏は、幕府で第2の地位を維持できたものと思われます。その一方で、多くの武士たちが足利氏に対して、源氏の棟梁を継ぐ者として世の中を変えてほしいという期待を持っていました。義氏から5代後の当主、足利尊氏は北条氏出身でない母親から生まれました。そういったことが尊氏が、後醍醐天皇やもう一人の源氏の子孫である新田義貞とともに、鎌倉幕府を倒す要因の一部になったと考えられています。

足利尊氏肖像画、浄土寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後醍醐天皇肖像画、清浄光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
新田義貞肖像画、藤島神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「足利氏館その2」に続きます。

55.千早城~Chihaya Castle

典型的な日本の山城の原点
The origin of typical Japanese mountain castles

立地と歴史~Location and History

楠木正成の活躍~Activities of Masashige Kusunoki

楠木正成は14世紀に河内国(現在の大阪府東部)を根拠地とした有力武将でした。彼は最初は、中世に武士のための政権を担った鎌倉幕府に仕えていました。しかし、1331年に後醍醐天皇が幕府に反抗したとき、正成は天皇を助け、赤阪城で幕府と戦いました。ところが、この城は急ごしらえで、敵と戦うには不十分であったこともあり、正成は敗走せざるを得ず、そして姿をくらましました。天皇は幕府に捕らえられ、日本海の隠岐の島に配流されました。
Masashige Kusunoki was a great general based in Kawachi Province (what is now the eastern part of Osaka Prefecture) in the 14th century. He first worked under the Kamakura Shogunate, a government body for warriors in the middle ages, but when Emperor Godaigo was against the Shogunate in 1331, he supported the Emperor fighting with the Shogunate in Akasaka Castle. However, the castle was built in a hurry and wasn’t very strong enough to protect against enemies, so Masashige had to run away and disappear. The Emperor was caught by the Shogunate and brought to Okinoshima Island in Japan Sea.

楠木正成肖像画、狩野山楽筆、楠枇庵観音寺蔵~The portrait of Masashige Kusunoki, attributed to Sanraku Kano, owned by Nanpian Kannonji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後醍醐天皇肖像画、清浄光寺蔵~The portrait of Emperor Godaigo, owned by Shojokoji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1333年、正成は雪辱を期し、上赤阪、下赤阪、そして千早といった城のネットワーク作りを開始しました。千早城は、その内で詰めの城の役割でした。この城は、河内と大和国(現在の奈良県)を結ぶ千早街道沿いにあり、日本の山岳修業の流派である修験道の場として知られた金剛山へ向かう途上にありました。そしてこの城は、全面を谷に囲まれた峰の上に位置していました。
In 1333, Masashige wanted to take revenge, so he started making his new network of castles: Kami-Akasaka, Shimo-Akasaka, and Chihaya. Chihaya Castle was the last one of the network. It was located alongside Chihaya Road connecting Kawachi and Yamato (now Nara Prefecture) Provinces, and
on the way to Mt. Kongosan which was known for the training of Shugen-do, i.e., Japanese mountain asceticism. The castle was also on one peak, surrounded by valleys on all sides.

城の位置~The location of the castle

千早城の模型、千早赤阪村郷土資料館蔵~The miniature model of Chihaya Castle, owned by Chihaya-Akasaka Folk Museum(licensed by Wikiwikiyarou via Wikimedia Commons)

千早城の戦い~Siege of Chihaya

正成と僅か千名の兵士からなる部隊は、千早城に籠城し、幕府の大軍から何回も攻められました。 これは千早城の戦いと呼ばれ、日本で最初の本格的な山城での戦いでした。幕府軍の武士たちはこのような戦いでどう攻撃してよいかわからず、陣地や攻めどころといった戦略や計画もなく、しゃにむに城に突進していきました。正成とその部下たちは、敵と戦うのに大抵は盾や矢を使ったのですが、更には岩、丸太、油と火、煮えた汚物までも使って幕府軍を撃退したのでした。また、夜襲をかけて、敵を更に疲弊させました。この籠城戦は3ヶ月間続きます。
Masashige, with his small army of one thousand soldiers, was besieged in Chihaya Castle, by the massive Shogunate troops several times. It is called Siege of Chihaya, and it is the first big battle to occur in a mountain castle in Japan. The shogunate warriors didn’t know how to attack in such a battle, so they straightaway charged the castle without any strategies or planning, with regards to position or location of attack. Masashige and his army mostly used shields and arrows in order to fight the enemies. In addition, they also used rocks, logs, oil and fire, and even boiled filth to repel the Shogunate. They also delivered night attacks to further tire the enemies. The siege lasted for three months.

千早城合戦図、歌川芳員筆、江戸時代、湊川神社蔵~The illustration of Siege of Chihaya, attributed to Yoshikazu Utagawa, in the Edo Period, owned by Minatogawa Shraine(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

籠城戦の間、後醍醐天皇は島を脱出し、幕府の配下を含む全ての武士たちに協力を求めました。そして足利尊氏や新田義貞といった幕府の有力な部将たちが天皇方についたのです。千早城を攻撃していた軍勢はそれを聞き、撤退していきました。ついに正成は勝利し、幕府は千早城の籠城戦が終わってからわずか12日後に滅びました。
During the siege, Emperor Godaigo escaped from the island, and requested all the warriors, even those that backed Shogunate, to support him. Some influential retainer of the Shogunate, such as Takauji Ashikaga and Yoshisada Nitta, took sides with the Emperor. The troops attacking Chihaya heard about it and withdrew. Finally, Masashige won and the Shogunate was destroyed in just 12 days after the Siege of Chihaya ended.

足利尊氏肖像画、浄土寺蔵~The portrait of Takauji Ashikaga, owned by Jodo-ji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正成と城の最期~End of Masashige and Castle

後醍醐天皇は建武の新政を始めますが、朝廷はすぐに後醍醐の南朝と、尊氏が別の天皇を立てて設立した北朝に分裂します。正成は最後まで後醍醐に仕えました。しかし、残念なことに1336年の摂津国(現在の兵庫県の一部)での湊川の戦いで尊氏に敗れてしまいます。千早城は正成の子孫により継承されますが、ついには1392年の北朝方の攻撃により落城しました。
Emperor Godaigo started Kenmu Restoration, but the kingdom was soon divided into his Southern Court and the Northern Court that Takauji established with another Emperor. Masashige followed Godaigo till the end, but was unfortunately defeated by Takauji in the Battle of Minatogawa, 1336 in Settsu Province (now part of Hyogo Prefecture). Chihaya Castle was kept by Masashige’s descendants, but eventually fell due to the attack of the Northern Court in 1392.

河内千破城図、湊川神社蔵~The illustration of Chihaya Castle, owned by Minatogawa Shrine(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

急坂を登る~Climbing Steep Slope

現在、千早城跡への入口は、いまだに金剛山への玄関口になっています。ここから急坂に沿った500段以上の石段を登っていかねばなりません。石段は元はなかったのですが、神社が建設されたときに一緒に作られました。山道は所々曲がりくねっていて、過去は敵を防げるようになっていました。
Now, the entrance to the ruins of Chihaya Castle is still the gateway for Mt. Kongosan. You have to climb up over 500 steps of stones along the steep slope. The steps were not there originally, instead they were developed when a shrine was constructed . The trail is partly zigzagged to prevent enemies in the past.

千早城跡入口~The entrance of Chihaya Castle Ruins
石段の急坂~The steep stone steps
曲がりくねっている山道~The zigzagged trail

城の中心部は神社に~Center of Castle becomes Shrine

20分程かけて150mの高さを登っていくと、この城では最も広い郭である第四郭にたどり着きます。そこから更に山の鞍部を通る通路を通って第三郭に至ります。この郭には神社の社務所や、城の記念碑があります。
After about 20 minutes of 150m high climbing, you will reach the Fourth Enclosure which is the roomiest space in the castle. You can go further the route on a saddle of the mountain to the Third Enclosure. The enclosure has the shrine office and the monument of the castle.

第四郭~The Fourth Enclosure
山の鞍部~The saddle part of the mountain
第三郭~The Third Enclosure
城の記念碑~The monument of the castle

第三郭の後は第二郭となり、正成を祀る千早神社が鎮座しています。第一郭がまた第二郭の背後にありますが、聖地として一般の立ち入りは禁止されています。第一郭にはかつては見張り台のような建物があったと考えられています。
Chihaya Shrine that worships Masashige is on the Second Enclosure in at the back of the Third Enclosure. The First Enclosure is also at the back of the Second Enclosure, but it is closed to visitors of the shrine as it is considered the sanctuary. It is thought that a building, like a watchtower, stood on the First Enclosure in the past.

千早神社~Chihaya Shrine
第一郭は立ち入り禁止~The First Enclosure is closed

残っているものはあるか?~Does something original remain?

神社からは脇道が分かれ出ています。その道から見下ろすと、何か腰曲輪のようなものがあります。これらは元からあったものなのでしょうか。第三郭と第四郭の間の鞍部に戻ると、神社への脇参道を使って、山から下りることができます。谷底の一つは林道になっていて、そこから見ると坂道がとても急になっていて、この城がいかに自然の地形をうまく活用しているかがわかります。
The side tail goes from the shrine. From the trail, you can look down at something like bounded enclosures. I wonder if they are original or not. If you go back to the saddle between the Third and Fourth Enclosures, you can go down from the mountain using the side pathway to the shrine. One of the valleys’ bottoms has become a forest road. When you look up at the mountain from the road, you can see how steep the slope is, and how well the castle used natural terrain.

腰曲輪のように見えます~They can look like bounded enclosures
自然の断崖~The natural cliff

その後~Later History

千早城は長い間放置されてきました。ところが、明治維新後、状況は劇的に変化しました。北朝の子孫である明治天皇がどういうわけか南朝が正統と決めたのです。正成は、歴史家の間では優れた戦略家として知られてきましたが、突然日本史上最も有名な人物に祭り上げられてしまったのです。第二次世界大戦まで、彼の戦略とイデオロギーは全ての国民を忠良な臣民として教育するために利用されたのです。その結果、1879年に千早神社が城跡の上に建設されました。
Chihaya Castle had been abandoned for a long time. However, after the Meiji Restoration, the situation dramatically changed. Emperor Meiji who was a descendant of the Northern Court decided that the Southern Court was orthodox for some reasons. Masashige, who had been recognized as a great strategist only popular among historians, suddenly transformed into the most famous historical figure. His strategies and ideologies were used to educate all the nations in Japan, which was to be loyal subjects, until World War ll. As a result, Chihaya Shrine was built on the castle ruins in 1879.

皇居外苑にある楠木正成の銅像~The statue of Masashige Kusunoki at Outer Gardens of the Imperial Palace(licensed by David Moore via Wikimedia Commons)

現在でさえ、多くの年配の日本人は正成は単に忠臣だと思っています。一方で、若者の間では彼の名前さえ知らない人もいます。最近では歴史家たちは彼個人について一部研究が進んでいますが、いまだに謎のままです。この地は1934年から国の史跡に指定されています。
Even now, many old people in Japan think Masashige is just a loyal retainer. On the other hand, some young people even don’t know his name. Historians are recently studying about him as some parts of his personality still remain a mystery. The site has been designated as a National Historic Site since 1934.

私の感想~My Impression

私は千早城は日本の典型的な山城の先駆けだと思うのです。なぜなら敵から守るために、自然の障壁を最大限活用していたからです。その後の武士たちはこの城とここでの戦いから多くを学んだに違いありません。神社がよく整備され、正成の名が不朽なものとして残るのはよいことですが、せめて第一郭に立ち入らせてもらえないでしょうか。自治体の方にも城跡を史跡として整備し、もっと本当の正成を人々に知ってもらうようにすることを望みます。
I think that Chihaya Castle is the forerunner of typical mountain castles in Japan, because it used natural hazard at maximum to protect from enemies. Later warriors must have learned a lot from the castle and the battle on it. I am pleased to see that the shrine are is well maintained and Masashige’s name is kept intact .I hope that the shrine will allow visitors to enter the First Enclosure, and that the local government will preserve the ruins really like a historic site to let so that people know more about real Masashige more.

第一郭を見上げる~Looking up the First Enclosure

ここに行くには~How to get There

車の場合、阪和自動車道美原南ICから約30分かかります。城跡の入口周辺にいくつか駐車場があります。
バスの場合、近鉄長野線富田林駅から、金剛バス千早線の千早ロープウェイ前または金剛登山口行きに乗るか、
南海高野線か近鉄長野線の河内長野駅から、南海バス窪田線の金剛山ロープウェイ前行きに乗ってください。
どちらのケースでも、金剛登山口バス停で降りてください。
By car, it takes about 30 minutes away from the Mihara-Mnami IC on Hanwa Expressway. There are several parking lots around the entrance of the castle ruins.
By bus, you can take the Kongo Bus on Chihaya Line bound for Chihaya-Ropeway-Mae or Kongo-Tozanguchi from Tondabayashi Station on Kintetsu Nagano Line, or take the Nankai Bus on Kobuka Line bound for Kongosan-Ropeway-Mae from Kawachi-Nagano Station on Nankai Koya Line or Kintetsu Nagano Line. Get off at the Kongo-Tozanguchi bus stop in both cases.

リンク、参考情報~Links and References

千早城 千早神社、千早赤阪村観光協会(Chihaya-Akasaka Village Tourism Association)
・「日本の城改訂版第103号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)
・「日本の攻城戦55/柘植久慶」PHP文庫(Japanese Book)