181.小倉城 歴史編

小倉城には、再建された天守がありますが、細川忠興が城の大改修を行ったときに建てたオリジナル天守とは全然違う姿をしています。また、小倉の近くでは有名な「巌流島の決闘」も行われました。しかし有名な謎に包まれているのです。両者の真の姿を追ってみたいと思います。

イントロダクション

今回は、小倉城をご紹介します。前回、明石城をご紹介しましたが、明石城を築いた小笠原忠真が移ってきた先が小倉城だったのです。その際、明石の城や町に関わった宮本武蔵も一緒に移ってきて、小倉にも足跡を残しました。また、明石以前の修行時代には、小倉のすぐ近くで有名な「巌流島の決闘」が行われました。しかし実はこの出来事は、有名な割には謎に包まれているのです。その真の姿はどうだったのかひも解いてみたいと思います。

巌流島にある佐々木小次郎(左)宮本武蔵(右)像

小倉城の方は戦国時代から存在が確かめられていますが、関ヶ原の戦い後に小倉藩藩主となった細川忠興が大改修を行いました。そのときに天守も築かれるのですが、現在、その場所には再建された天守が建っています。しかし実はこの天守も、全然違う姿だったのです。城全体も幕末の動乱、近代以降の開発により、ほとんどが失われてしまっているので、こちらも真の姿を探っていく必要がありそうです。

小倉城の再建天守

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(小倉城と巌流島の決闘、真の姿とは?)

小倉城の築城と大改修

小倉を含む北九州地域は、関門海峡に面し、九州の玄関口として海上交通の要衝でした。小倉には鎌倉時代から城が築かれたという伝承がありますが、同時代の記録があるのは戦国時代からです。1569年(永禄12年)に毛利元就が「小倉津」に「平城」を築き部下(南条勘兵衛尉)に守備させたというものです(下記補足1)当時は北九州をめぐって毛利氏と・大友氏が争っていたのです。(段落全体①②を参考、以下番号のみ記載)

(補足1)永禄十一年戊辰八月上旬、(中略)翌年筑前表可有陣替之由、到芸州註進之、故元就御父子三人、輝元長府江御着陣、警固船数百艘乗浮之、為通路小倉津構平城、伯州南条勘兵衛尉被差籠、在津(1578年、天正6年「宗像大社辺津宮置札」)

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州平定がなされると、秀吉は近習の毛利勝信(もとは森吉成といったが、秀吉の命により改姓)に小倉の地を与えました。勝信は小倉城の改修に着手し、石垣を積み、建物には金箔瓦を載せました。現在も本丸一部に当時の石垣が残り、瓦の一部も見つかっています。ただし城の範囲は、小倉津がある紫川河口の西岸、後の本丸・松の丸・北の丸くらいと考えられています。しかし勝信は、関ヶ原の戦いで西軍に属したので改易になってしまいます。(段落全体①②⑥)

毛利勝信時代の多聞口横の石垣(右手前)、photoACより
毛利勝信時代の鬼瓦(一部)、小倉城天守内にて展示

関ヶ原後は、細川忠興が豊前一国と豊後の一部、30万石(表高)でこの地に入ってきました。細川氏はそれまで京都近辺にいたので、「思ヒ之外遠国」と感じたそうです。忠興は最初は黒田氏がいた中津城に入りましたが、1602年(慶長7年)に小倉城の大改修を始め、その年の内に本丸が完成したので本拠地として移りました。隣国の黒田氏・毛利氏への備えと、水陸交通の利便性を考慮したと思われます。天守の建築まで、その後更に数年を要しました。(段落全体①②⑥)

細川忠興肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊前国の範囲と城の位置

忠興は、城の範囲も大幅に拡張しました。城の中心部があった部分について、河口デルタの地形を利用し、東側の紫川と西側の板櫃川を天然の堀として、南側(海岸線から1.5~1.8kmの場所)に外堀を掘り、この中を「西曲輪」としました。その間は中堀・内堀など堀が幾重にも巡っています。更に紫川に東から流れ込む寒竹川(かんたけがわ、現在の神嶽川)も堀として活用し、そこから海に向かって外堀を作りました(現在の砂津川)。その中は「東曲輪」として町人地となりました(その後「帯曲輪」も追加)。その結果、全体は南北約1.6km、東西約1.75kmの広大な惣構えの城になりました。周囲は約8kmにも及んだそうです。その出入口は10ヶ所あり、門司往還とつながる門司口、長崎街道につながる到津(いとうづ)口など、主要街道と連動していました(下記補足2)。敵に攻められた時には、これらの出入口を堅く閉じ、堀を溢れさせる戦術を考えていたそうです。(段落全体①③④⑥)

(下記補足2)小倉城10口(④)
・門司口~門司往還
・中津口~中津街道
・香春口~秋月街道
・到津口~長崎街道
・溜池口~唐津街道
・他に、富野口、篠崎口、蟹喰口、紺屋町口、清水口

「小倉藩士屋敷絵図」、城の全体の姿がわかります、現地説明板より

小倉城が本格的に整備されているとき、近くで起こった出来事が、後に有名になる「巌流島の決闘」です。

「巌流島の決闘」真の姿は?

「巌流島の決闘」は、一般には1612年(慶長17年)の頃とされていますが、実ははっきりしないのです。武蔵が書いたとされる「五輪書」では、修業時代は13歳から28、9歳までとなっていますが、「巌流島」のことは一言も書かれていません。初めてこのことが出てくるのは、武蔵没後に養子の伊織が建てた「小倉碑文」です。ところがここにも時期は書かれていません。その後の諸説により、小倉に細川氏がいた頃だろうとされているのです。

小倉碑文 (licensed by 速日 via Wikimedia Commons)

一般的には一対一の決闘で、長い太刀と「燕返し」の技を持つ佐々木小次郎が待つ島に、舟の櫂を削って作った木刀を持った武蔵はわざと遅れて到着したとされます。怒って刀の鞘を海に投げ捨てた小次郎に対し「小次郎敗れたり」と言った武蔵のセリフも知られています。ところが一番古い「小倉碑文」には、兵術の達人で三尺の真剣を持つ「岩流」と、武蔵が同時に会して、武蔵が木刀の一撃で倒したということくらいしか書かれていないのです(下記補足3)。「佐々木小次郎」の名もなく、合っているのは場所と勝敗と、刀の種類くらいです。

(補足3)小倉に兵術の達人で岩流と名乗る者がいたので、武蔵は彼に試合を申し込んだ。岩流は真剣で戦おうと言ったが、武蔵は「そちらは真剣で、私は木刀でその術を尽くそう」とこたえた。堅く約束をして長門と豊前の際の舟島で、両者同時に会した。岩流は三尺の真剣を手にやってきて、命を顧みず術を尽した。武蔵は木刀の一撃をもってこれを殺した。電光もなお遅いとおもわせるような早業であった。そこで俗に、舟島を改めて岩流島というようになった。(「小倉碑文」、現代語訳は⑤より)

小倉城天守内の宮本武蔵展示

その後書かれた多くの「武蔵伝」の中で、比較的信憑できる史料(「兵法大祖武州玄信公伝来」)ではどうなっているでしょうか。
・成立:1727年(享保12年)福岡藩・立花専太夫著
・時期:武蔵19歳のとき
・相手と武装:長府の者・津田小次郎、通称「巌流」、二尺七寸の青江の刀
・武蔵の境遇・武装:摂津国あたりから豊前にやってきた、舟の櫂を四尺に切った木刀、刃には二寸釘多数
・到着:武蔵が待ち、小次郎が小舟で到着
・周囲:武蔵と入魂の「門司の城主何某(細川越中守家臣)ほか見物人多数
・勝敗:武蔵の木刀2撃(頭)で、小次郎絶命

「武蔵伝」で最も普及していると言われる「二天記」ではどうでしょうか。
・成立:1778年(安永5年)肥後八代・豊田景英著
・時期:武蔵29歳、慶長17年4月
・相手と武装:越前出身・岩流佐々木小次郎、細川忠興に召し抱えられ、三尺余の刀(備前長光)
・武蔵の境遇・武装:都から豊前にやってきた、舟の櫂を削って作った木刀
・到着:小次郎が忠興の船で先に到着、武蔵が小舟で遅れて到着、怒った小次郎に「小次郎負たり」
・周囲:検使警固の者たち
・勝敗:武蔵の木刀2撃(頭・脇腹)後、武蔵が小次郎の様子を伺うが、絶命か

熊本藩の家老の家の記録(「沼田家記」)にはとんでもない記述があります。
・成立:1672年(寛文12年)編さん
・時期:細川氏重臣・沼田氏が門司にいたとき
・相手:小次郎と申す者、豊前で岩流の兵法の師範
・武蔵の境遇:豊前で二刀兵法の師範
・到着:(特に記述なし)
・周囲:武蔵方の弟子が数人隠れていた
・勝敗:小次郎は武蔵に打たれるが蘇生、その後武蔵の弟子たちにより打たれ絶命

これらの共通項は、現・巌流島で武蔵と岩流(巌流)が勝負をして武蔵が勝ったということだけです。結局、一番古い「小倉碑文」に戻ってしまうような感じですが、仮にこの決闘が武蔵29歳(1612年、慶長17年)のときのことだとすると、2年後に始まる大坂の陣を機に、修行時代を終わらせたのかもしれません。(セクション全体⑤)

現在の巌流島

小倉城、真の姿は?

現在再建され、小倉のシンボルとなっている天守ですが、オリジナルは1610年、慶長15年11月、天守五段目に「不動尊の御札」を納めて完成となりました。当時も城郭最大の建築物で、城主の権力と富の象徴であり、籠城の際の最後の砦として築かれました。残念ながらこの天守は、1837年(天保8年)の火災で焼失してしまいました。残された史料が少なく、外観も4重なのか5重なのか議論がありましたが、現在では4重5階だったという結論になっています。(段落全体①③)

オリジナル天守の模型、小倉城天守内にて展示

建物の高さは22.8メートルで、一階部分の面積は当時日本最大級の広さでした。現在の天守と違って、最上階を除いて屋根の破風はなく、「層塔型」という四角い箱を積み上げたようなシンプルなスタイルでした。特徴的なのは、四階と五階の間に屋根がなく、しかも五階が四階より張り出していました。これは「唐造り」と呼ばれますが、回りを黒戸板で囲っていて、当時は「黒段」と呼ばれていました。細川忠興自慢の天守だったようです。この天守の様式は、他の城の天守にも影響を与え、例として津山城、高松城が挙げられます。また現在残る天守台石垣も藩主の自慢で、安定させるよう「輪取り(石垣をわざと内側に湾曲させる)」や「顎止め(下部の石垣をやや張り出させる)」などの技法が使われています。石垣の高さは18.8mあるので、天守全体では約42mにもなったのです。(段落全体①③⑥)

小倉城創建当時の天守規模比較、小倉城天守内にて展示
天守を含む津山城の古写真、明治初期、松平国忠撮影 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城天守の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天守が置かれた位置も重要で、本丸の北東側にあって、この方面(虎ノ門)から本丸を目指して攻めてくる敵に対して、次の門(北口門、大手前門)の手前で攻撃することができました。更に大手門まで攻められたとしても、攻撃できる位置に作られたのです。(段落全体①)

「豊前国小倉城絵図」の城中心部分、出展:国立公文書館

このように城を完成させた細川忠興ですが、次の代の忠利の1632年(寛永9年)に熊本藩の加藤忠広が改易となり、細川氏はその後釜になりました。小倉城には明石から、小笠原忠真が移ってきました(明石10万石→15万石、一族を合わせると30万石余)。譜代大名として「九州探題(九州の外様大名監視の任)」を期待されたのです。もちろん家老の宮本伊織とその養父・宮本武蔵も一緒です。(段落全体①③)

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は、明石から小倉に来たときの宮本武蔵についても、記録が少ないのです。唯一知られるのは島原の乱(「有馬陣」)への参陣です。武蔵は55歳になっていました。藩主・小笠原忠真、養子の伊織(侍大将兼惣軍奉行)とともに出陣しました。1638年、寛永15年2月28、29日の総攻撃直後に出された武蔵書状によると、一揆軍の投げた石に当たり、足が立たなくなったとのことです。(下記補足4)もっともこの書状は一種の戦功証明書でもあるため、武蔵自身が前線に出て、勇敢に戦いの場に臨んだということも主張していると考えられます。

(補足4)(私のことを)おもいつきいただき、お手紙忝く存じます。さて、倅伊織(の戦功)がお耳に立ちましたこと、大変よろこばしく存じています。私の方は老足のほど御推量ください。貴侯様の仰せのように、御家中衆へも私の手先から(互いの戦功の証人となるように)約束いたしました。ことに貴方様父子(有馬直純・康純)ともに、本丸まで早々に(攻め上られ)たことには驚きました。私も(攻め上りましたが、一揆軍の投げた)石に当たり、足が立たなくなりましたので(上使松平信綱様の)御目見えにも伺候しませんでした。では、重ねて御意を得たいと存じます。即刻ご返事まで。
 玄信(花押)
(有馬直純宛宮本武蔵書状、現代語訳は⑤より)

島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

その2年後(1640年)、武蔵は細川忠利の招きにより熊本に移りました。その際の家老(長岡興長)宛て武蔵書状によると、島原の乱以前から交流があり、乱後の武蔵は江戸・上方にいたことがわかります(以下補足5)。このことから、小笠原氏下の小倉時代には、家老・宮本伊織の養父としてかなり自由に動き回っていたと想像できます。(以上⑤)

(補足5)一筆申し上げます。有馬陳(陣)の折りには御使者を寄越され、殊に御音信(贈り物)など御気遣いいただき、過分の極みと存じております。私はその後江戸や上方におりましたが、今こちらに参っておりますのは御不審におもわれることでしょう。少しばかり用事がありましたのでやって参りました。逗留いたしますので祇候いたしたいとおもいます。恐惶謹言。
 (寛永十七年)七月十八日 玄信(花押)
(長岡佐渡守興長宛宮本武蔵書状、現代語訳は⑤より)

宮本武蔵肖像画、島田美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後、小笠原氏は10代にわたり幕末まで小倉藩と小倉城を統治しました。天守最上階には大太鼓が置かれ、事が起きたとき、城下の人々に急を告げていたそうです。城下町は交通の要所として繁栄し、商人・旅人・参勤交代の大名の宿場にもなりました。中でも、諸街道の起点であり、紫川河口近くにかかって「西曲輪」と「東曲輪」を結ぶ常盤橋周辺は特に賑わいました。その辺りは湊でもあったので、多くの船も停泊していました。1859年(安政6年)小倉に一泊した長岡藩士・河井継之助はその様子を記しています。(下記補足6,以上①④)

(補足6)「城下へ入りてより大橋(常盤橋)を渡り、宿屋までは余程長かりし様に覚ゆ。大橋は則ち船着にて、此の辺り随一に賑やかなり。宿屋も其の近辺なり」(「塵壺」)

小笠原流流鏑馬のジオラマ、小倉城天守内にて展示
常盤橋のジオラマ、小倉城天守内にて展示

しかし幕末以降、小倉と城は大きな試練を迎えることになります。

小倉城炎上から天守再建まで

1866年(慶応2年)第二次長州征討が起こり、小倉口の戦いで小倉藩領が戦場になったのです。幕府方は小倉を本営とし、小倉藩の親戚、唐津藩・小笠原長行(ながみち)が征長軍総督となっていました。軍勢は小倉藩に、援軍の熊本・久留米・柳川藩などを加え約2万でした。しかし小倉藩では前年に藩主(小笠原忠幹、ただよし)が亡くなり、跡継ぎの4歳の幼君(豊千代丸)を重臣たちが補佐する体制だったのです。長州勢は千人でしたが、高杉晋作に率いられた奇兵隊などの精鋭でした。慶応2年6月17日、長州勢の奇襲により戦いが始まり、27日の3度目の攻撃は、熊本藩勢の反撃により撃退されました。(段落全体①⑦)

小笠原長行肖像画、国立国会図書館デジタルコレクションより (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが7月30日、大坂城での将軍・徳川家茂病没の知らせを受けた総督・小笠原長行が、突然逃げ帰ってしまったのです(富士山艦で長崎へ)。それを知った諸藩も国元に引き上げました。小倉藩は孤立してしまったのです。重臣たちはその日の夜評定を開き、単独での防戦は困難で、城を「開城」し、要害に籠って防戦するとの結論に達しました。翌8月1日、城には火がつけられ、3万の住民たちも避難しました。この突然の大事件は「丙寅御変動(へいいんごへんどう)」として語り継がれますが、幕府による九州支配の崩壊も現していました。小倉城は長州藩により占領されますが、幼君は熊本藩に身を寄せ、藩士たちは領内の香春(かわら)を拠点に翌年1月まで長州勢と戦いました(下記補足7、段落全体①⑦)。

(補足7)小倉藩は居城の小倉城を自焼し、領地を侵害されても、なお死力を尽くして代々の幕府の恩に報いた。力尽き、万策尽きるまで長州藩と戦った小倉藩の働きは「実に義を重んずるの挙動なり」と言える。他日、徳川幕府の歴史を編纂する者は、この小倉藩の事績を大書、特書するべきである(山県有朋「懐旧記事」、現代語訳は①)

当時の瓦版「九州小倉合戦図」、出典:文化庁文化遺産オンライン

明治維新後、小倉を含む北九州地域には、国防の要衝として軍隊やその施設が多く配備されました。小倉城内に限ると主には以下のように推移しました。
・1898年(明治31年):本丸に第12師団司令部開設(1925年久留米に移転)
・1925年(大正15年):松の丸に野戦重砲兵第2旅団司令部
・1928年(昭和3年):上記司令部が小倉連隊区司令部とともに旧第12師団司令部庁舎に移転
・1933年(昭和8年):三の丸跡を含む区域に小倉工廠設置
・1937年(昭和12年):本丸跡に西部防衛司令部設置(1940年福岡に移転)
中でも小倉工廠は、関東大震災で壊滅した東京工廠が移転してできたもので、西日本最大級の軍事工場でした。この工場は「小倉陸軍造兵廠」という名前になりますが、ここが1945年(昭和20年)8月9日、米軍B29爆撃機「ボックスカー」による原子爆弾投下の第一目標地になったのです。(段落全体①⑧)

小倉工廠配置図、北九州平和のまちミュージアムにて展示
国立アメリカ空軍博物館に展示されるボックスカー (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「ボックスカー」は、3回爆撃航程をとりましたが、「もや」と「煙」で目標が見えなかったため、第二目標地の長崎に向かったのです。一般にこれは天候のためと言われてきましたが、実は前日(8月8日)にとなりの八幡市(当時)で大空襲(犠牲者約2900人)があり、その被害による煙だったという説が出てきています(他にも八幡製鉄所による煙幕説もあり)。現在、三の丸跡には「原爆犠牲者慰霊平和祈念碑」があります。(段落全体⑧)

三の丸にある原爆犠牲者慰霊平和祈念碑

戦後、小倉城跡はアメリカ軍により接収され、その駐留は1959年(昭和34年)まで続きました。返還を受けた小倉市(当時)は、勝山公園として城跡を整備することにしました。その目玉として、天守が焼亡以来122年ぶりに再建されました(鉄筋コンクリート造)。その天守の屋根には、かつては存在しなかった破風がいくつも付けられました。オリジナルの外観を正確に復元はしていないものの、以前と同じ場所に建てられたものとして「復興天守」に分類されています。設計者の方(藤岡通夫氏)は当初、4重5階の層塔型としてオリジナルに近い形にしたかったようですが、地元の要望により設計変更せざるをえなかったとのことです。(下記補足8、段落全体①④)

(補足8)依頼者である会社(小倉観光株式会社)の人から各重に破風がないのは天守らしくない、破風がなく観光客に訴える力がないと強硬に責められるので、仕方なくくっつけたが、やはり本当はない方がよかったのだ(「小倉城 小倉城調査報告書」より天守完成時の座談会での設計者の説明とされる内容)

小倉城の復興天守

私の感想

現在の小倉城天守を見ると、ぱっと見、大阪城天守を連想します。小倉城天守を再建した当時は、天守と言えば、派手な飾りがあるものという常識があったのかもしれません。現在であれば、破風がないオリジナルデザインの方が、史跡という意味以外に、個性的でかえって人気が出るかもしれません。しかし現在の小倉城天守は、そのときの人々の考えを反映した、昭和時代の史跡とも言えるのではないでしょうか。

大阪城天守

リンク、参考情報

①「小倉城と城下町/北九州市立自然史・歴史博物館編」海鳥社
②「日本の城改訂版第95号」デアゴスティーニジャパン
③ 小倉城天守内外展示
④ 小倉城 公式サイト
⑤「人物叢書 宮本武蔵/大倉隆二」吉川弘文館
⑥「よみがえる日本の城20」学研
⑦「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
⑧ 北九州平和のまちミュージアム展示

「小倉城 現地編」に続きます。

96.飫肥城 その2

大手門から城跡の中心部を見て、シラス台地の城の痕跡を探します。続いて武家屋敷界隈を歩きますが、ここにもかつての城の痕跡があります。最後は、城下町を楽しみましょう。

イントロダクション

今日はまず、観光案内所の前に来ています。ここには駐車場もあって、飫肥観光の拠点になっています。さすが飫肥だけあって、案内版にも昔の絵図が載っています(1652~55年の承応年間のもの)。今の町の道路とほとんど同じに見えます。自分で回っているところが、絵図ではどこなのかチェックしてみるのもいいかもしれません。

飫肥城下町 案内処
案内板に載っている江戸時代前期の絵図

城周辺の地図

それでは、城に向けて出発しましょう。大手門通りに入ったところで、最初のチェックポイントがあります。この大手口の道は、かつてはクランクして、門が横向きに建てられていました。曲がっていたところの石垣が残っています。

大手口の門跡

大手門の方に向かいます。道は既に石垣に囲まれています。左側は、明治になってお殿様が移り住んだ「豫章館」、右側は「小村寿太郎記念館」です。見どころがそこら中にあります。

大手門前の通り
豫章館
小村寿太郎記念館

大手門に着きました。ここから城跡の中心部を見て、シラス台地の城の痕跡を探します。続いて武家屋敷界隈を歩きますが、ここにもかつての城の痕跡があります。最後は、城下町を楽しみましょう。

大手門

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(飫肥城と城下町めぐり)

大手門~すごい石垣

大手門に入っていきましょう。その前には古い空堀があります。現在の門の建物は、1978年に再建されたものです。オリジナルの門は、もう少し小ぶりだったそうですが、今の門もすっかり定着しています。石垣はオリジナルで、門内は枡形になっています。

大手門前の空堀
門内石垣の枡形

石段を登っていきましょう。本丸石垣が見えてきました。ツートンカラーがかっこいいです。石の種類が違うのでしょう。手前のエリアがずいぶん細長くなっていますが、「犬の馬場」と呼ばれた場所で、中世に犬追物が行われたのが由来だそうです。石垣の向こうには南櫓がありました。

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犬の馬場

そして、石垣の途中を反対側から見ると、出入口になっています。ただ、普段は開かない「開かずの門」でした。

「開かずの門」跡

本丸に行く前にまだ寄り道します。急に世界が変わった感じです。どこまでも伸びる飫肥杉に、地面は絨毯のように苔むしています。この奥に、土塁が残っているのです。戦国時代以来の城の様子を表すとされています。

飫肥杉と苔の絨毯

この大手門西側の土塁は、高さが約4メートルあるのですが、最初に見た空堀の底からだと、かつては約16メートルもあったそうです。

大手門西側の土塁

本丸に向かいましょう。石垣はまだまだ続きます。左側の松尾の丸の古い石垣も注目です。広い石段を歩くのが気持ちいいです。また門の跡があります。ここも枡形になっていました。最近では、枡形の隅にある4本の杉の対角線の中心に立つと、幸せパワーをもらえるというパワースポット(しあわせ杉)になっています。

本丸への通路
本丸枡形跡
「しあわせ杉」の案内

本丸~シラス台地の痕跡

本丸枡形の出口には、すごい櫓門がありました。その先には本丸御殿がありました。そこは今は学校になっていますので、ビジターが行けるスポットとしては、右手の飫肥城歴史資料館があります。伊東氏や飫肥藩、そして飫肥場や城下町についての展示が充実しています。

本丸枡形出口
飫肥城歴史資料館
現在の地形図に承応年間の絵図を投影した展示

それから、本丸のとなりには松尾の丸があって、石段を登っていくと、上級武士の屋敷が再現されています。面白いのは、蒸し風呂まであることです。

松尾の丸への石段
松尾の丸の再現屋敷
再現された蒸し風呂

城の遺構としては、奥の方の旧本丸が見どころです。17世紀後半に発生した地震の前までは本丸だったところです。古いだけあって土塁に囲まれているようです。入口の石垣はちゃんと残っています。城内最古級の石垣を、地震の後に修復したそうです。江戸時代初期には門がありました。さすが、ここも枡形になっています。しかも、その枡形の石垣が苔むしています。

旧本丸への通路
旧本丸の枡形
苔むしている石垣

中に入ってみると、やっぱり飫肥杉と苔の絨毯です。ここもすばらしいパワースポットです。ここはシラス台地なのだから、周りはどうなっているのかというと、やはりすごい崖になっています。それでも、しっかり土塁で固めています。さすが伊東氏と飫肥藩です。

旧本丸内部
旧本丸周りの崖(柵の内側から手を差し出して撮影)
旧本丸の土塁

帰りは再建された裏門から出てみましょう。その外は、シラス台地の群郭式の曲輪が続いていました。ところが、意外と開けた景色になっています。北側の曲輪群の多くは、グラウンドや住宅地などとして開発されてしまったのです。ですので、階段を下った先にある道路は、かつては堀底道だったそうです。

旧本丸裏門
開発された北側曲輪群の跡
かつての堀底道
旧本丸裏門を見上げています

とすると、この辺りは、前回行った志布志城みたいだったのかもしれません。

志布志城跡の堀底道

武家屋敷界隈にも痕跡が!

旧本丸から裏手の道を通って、上級家臣が住んでいたところまで戻ってきました。ここから、かつての城の曲輪の一つ、八幡城に行ってみます。今いるところは「武家屋敷通り」として、門構えや石垣を残しています。中身も、御用商人の屋敷を移築して食事処になっていたり、庭園として残されていたりします。

武家屋敷通り(横馬場通り)
服部亭
旧伊東民部邸

その先を左に曲がって「八幡通り」に入ります。この角地にある石垣は立派です。この中では、文化財になっているお屋敷がホテルになっています。

八幡通り(十文字馬場通り)
旧伊東伝左衛門家

その先にも重要な建物があります。藩校の振徳堂が、修復・復元されているのです。小村寿太郎を出した学校です。

藩校・振徳堂
振徳堂の内部

こうやって歩いてみると、町中が石垣で固められています。石垣でなければ、土塁と杉という感じです。

ひたすら続く石垣
土塁と飫肥杉

現在は田ノ上八幡神社になっている八幡城に着きました。ここには、興味深いものがあります。まず、伊東祐兵が植えたと言われるクスノキです。飫肥は、杉の前はクスノキの産地だったのです。それから、その奥には空堀が残っています。ここが城の曲輪の一つだった証拠というわけです。ここまで城域が広がっていたとわかる場所です。

田ノ上八幡神社(八幡城)
八幡神社境内のクス
八幡城の空堀

通りを反対側に下り、もっと城下町を散策しましょう。

八幡通りを下ります

城下町を散策!

ここで、江戸時代の城下町の構成を確認しておきましょう。真ん中が、商人のエリアになっています。これを、重要伝統的建造物群保存地区の地図に置き換えると、昔の商人エリアがほぼ抜けているのがわかります。

城下町の構成図、飫肥城歴史資料館にて展示
重要伝統的建造物群保存地区の地図、飫肥城歴史資料館にて展示

つまり、今でもそこが商業エリア(本町商人通り周辺)になっているのです。それでも、スーパーもコンビニも城下町風にしつらえられています。

本町商人通り
城下町風スーパー
城下町風コンビニ

そこから、広く保存地区に指定されていて、中級家臣が住んでいた後町(うしろまち)通りに行ってみたいと思います。その途中に小村寿太郎生誕地があるのですが、その生家は上級家臣の「武家屋敷通り」に移されています。建物までも出世したのです。

小村寿太郎生誕地の碑
武家屋敷通り沿いにある小村寿太郎生家

後町通りに来ました。ここも石垣や塀に囲まれていて、武家屋敷があった場所だとわかります。少し歩いてみると、水の音がします。かつては、町中が酒谷川の水を引き入れた水郷だったそうですが、水路を整備してその面影を復活させたのです。水路では錦鯉が泳いでいます。城下町の景観にマッチしていて、すばらしいです。

後町通り
水路を泳ぐ錦鯉

石垣も注目です。自然石を使った「玉石積み」というのもあります。ここはまさに「石垣の町」です。

小鹿倉邸の石垣
「玉石積み」の石垣
伊東邸の石垣

下級家臣や医者などが住んでいた前鶴(まえづる)通りにも行ってみましょう。こちらは、低い石垣に生垣が目立つ造りになっています。藩医だった家が大正時代に建てた洋館もあります。

前鶴通り
勝目氏庭園
梅村家の洋館

他には、古い商家も点在していますので、行ってみてはいかがでしょう。

旧山本猪平家(大手門通り沿い)
商家資料館

私の感想(エンディング)

エンディングでは、またシラス台地のお城にこだわってみます。酒谷川沿いを進んで、城の台地が良く見える城之下橋まで来ました。ここから眺めてみましょう。旧本丸から見た崖がすごかったですが、どの辺なのでしょう。木に覆われていてわかりづらいですが、飫肥杉がまっすぐ立っている辺りでしょう。コンクリートで固められているところもあり、川沿いということで、急崖が続いています。改めてシラス台地の城だったことを実感しました。

酒谷川
城之下橋からの景色
飫肥城の崖地帯
旧本丸の辺りか

感想として、ここはやはり「伊東氏最後の地」だと思いました。ここしかないと思ったからこそ、シラス台地を石垣や土塁で固めて立派に仕上げたのです。城下町も城と同じようなつもりで作ったのではないでしょうか。

リンク、参考情報(追加分)

「日南市の「飫肥城跡(おびじょうあと)」を紹介!!~宮崎文化財めぐり」MCN宮崎ケーブルテレビYoutube公式チャンネル
「飫肥」~「外城の町並み、麓の町並み」ウェブサイト
「飫肥城下町の町並み」~「古旅、日本の古い町並み」ウェブサイト
「飫肥」~「町のかたち、村のかたち」ウェブサイト(「うしろまち」の読み方など)
コトバンク「前鶴」(「まえづる」の読み方)
・「飫肥 重要伝統的建造物群保存地区」日南市教育委員会パンプレット
・「雨と川が育んだきらめきの歴史」 宮崎県資料

「飫肥城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

96.飫肥城 その1

宮崎県日南市にある飫肥は、飫肥城跡と、武家屋敷や城下町の町割りや雰囲気を残す人気のある観光地になっています。「南九州の小京都」とも言われ、1977年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉の産地としても知られています。

イントロダクション

宮崎県日南市にある飫肥は、飫肥城跡と、武家屋敷や城下町の町割りや雰囲気を残す人気のある観光地になっています。「南九州の小京都」とも言われ、1977年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉の産地としても知られています。

復元された飫肥城大手門
旧本丸の飫肥杉

一方、飫肥城は「南九州型城郭」といわれるシラス台地に築かれた城の代表的なものの一つです。しかし、志布志城や佐土原城のように荒々しい台地の削り跡が残る城に比べると、飫肥城はずいぶん洗練されているように見えます。それはどうしてでしょうか。

志布志城の搦手口
佐土原城の大手口

もちろん、前者は江戸時代初期に廃城になり、飫肥城は幕末まで続いたという理由があります。しかしそれに加えて、飫肥城そのものと、飫肥藩の歴史が関わっているように思います。その背景には、ほとんどの期間城主だった伊東氏の栄光・凋落、そして復活劇があったのです。

飫肥城の旧本丸

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史

初期の飫肥城と争奪戦

飫肥は、日向国南部にあり、志布志とともに重要な拠点でした。志布志は港として繁栄しましたが、飫肥の近くにも油津(当時は「油浦」)がありました。室町時代には遣明船の中継地点になり、戦国時代になると海外貿易も行われました。志布志を含めた南日向の沿岸地域は、領主たちの争奪戦の対象になったのです。(参考資料①②より、以下番号のみ記載)

日南市の範囲と城の位置

飫肥は戦国時代前期から、島津氏の一族である豊州家島津氏が治めていました(一時新納氏、③)。そして志布志も、島津本家の家督争いに乗じて豊州家島津氏が手に入れました(1538年)。しかし戦国時代後期になると、南日向の重要性から、北からは伊東氏が、南からは肝付氏が侵攻してくるのです。

飫肥城がいつ築かれたか定かではありませんが、遅くとも、豊州家島津氏の初代・島津季久(すえひさ)が飫肥の領主になった頃(15世紀中頃)には築かれたと考えられています(③)。初期の城の姿もはっきりしませんが、一般的にシラス台地に築かれた城は、台地を削りながら築かれるので、同じような高さと規模の曲輪が立ち並ぶ「群郭式城郭」の特徴があります。江戸時代以来飫肥城と言われる場所は、本丸・大手門の辺りに集中していますが、地形図を見ると、曲輪がその名前とともにずっと広がっていたことがわかります。飫肥城も当初は、他のシラス台地の城、知覧城や志布志城のような外観をしていたのかもしれません。

代表的なシラス台地の城の一つ、知覧城の航空写真、南九州市ウェブサイトより引用
志布志城の航空写真、現地説明パネルより

飫肥城周辺の起伏地図、曲輪名は参考情報➉より

伊東氏は南北朝時代に北朝方として日向国に派遣されて以来、日向国中部で着々と勢力を広げてきました。1484年から伊東祐国が2度飫肥城を包囲していますが、本格的に飫肥攻めを行ったのは、伊東義祐(よしすけ)です(約25年間、③)。義祐(生年:1513年~没年:1585年)の特徴の一つは、その官位の高さです。伊東氏は伝統的な九州の大名家(大友・島津・菊池・少弐など)ではないので、それまでは「大和守」が慣例でした。義祐は将軍家などに工作を行い、とんとん拍子に出世しました。
・1541年(天文10年):従五位下・大膳大夫
・1542年(天文11年):従四位下
・1561年(永禄4年):従三位(公卿)、相判衆(将軍に近侍する役柄)
それ相応の物入りだったことはもちろんですが、当時の将軍家(足利義晴・義輝)にとっても、遠隔地大名に栄典を与えることで、将軍権威の浮揚を図ったのです(①)。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

義祐は、早くから仏門に入っていたので「三位入道」と呼ばれました。優れた文人でもあったらしく、京都の文化を本拠地の佐土原に導入したそうです。当然武人としても秀でていなければ戦国の世は乗り切れないので、「日(日向)、薩(薩摩)、隅(大隅)三州太守」と称して領土を拡大しました。そして同じように「三州太守」と称していた島津氏と対決したのです(④)。

伊東氏の栄光と凋落

義祐は1543年(天文12年)頃、初めて飫肥に侵攻して以来、なんと約25年もの期間をかけて飫肥城を手に入れました。整理すると三次にわたって飫肥城攻めを行ったとのことです。
第一次(1543年頃~):島津貴久からの援軍により撃退された
第二次(1551年~):島津本家が肝付氏に敗れ飫肥から引き上げ、伊東氏が飫肥城の一角を奪った。1562年豊州家は伊東氏に一旦引き渡すが、隙をみて奪回
第三次(1563年~):戦いは膠着状態になるが、島津本家からの援軍が少ないときに伊東氏が攻勢をかけ大勝、1568年に豊州家は都城に撤退。(③⑤)
その間将軍・足利義輝が調停に乗り出したのですが、伊東氏は「将軍義政から三カ国守護に任ぜられ、飫肥・庄内は伊東領」だと主張、島津氏も「自らが三国守護で伊東の飫肥・庄内の権益は虚言だ」と反論し、失敗しました(①)。

結果、義祐は人生の多くをかけて飫肥を攻略し、伊東氏史上、最大領土を得て全盛期を迎えました。本城・佐土原城(または都於郡城)を中心に、飫肥城を含む48の支城を支配したことで「伊東四十八城」と呼ばれました。飫肥城には息子の祐兵(すけたけ、三男)を配置しました(③)。

伊東祐兵肖像画、日南市教育委員会蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかしこの栄光は長くは続きませんでした。飫肥城攻略のわずか4年後(1572年)、島津義弘の飯野・加久藤城を攻めた大軍の伊東軍は、小勢の島津軍に大敗しました(木崎原合戦)。島津氏は伊東氏家臣の調略、城の攻略を急速に進めます。
1573年:須木城の米良氏などを調略
1576年:高原城を攻略
そして1577年(天正3年)野尻城の伊東重臣・福永氏を調略すると、一気に伊東氏の本拠(都於郡)に攻め込みました。他の多くの家臣も離反したことで、義祐・祐兵は一戦も交えずに、縁戚のある大友氏の下に落ち延びました。飫肥城も放棄されました(①)その途中の財部城の落合氏も離反していたため、一行は高千穂の山岳地帯を進みました。折しも真冬で吹雪の中の逃避行であったといいます。(④)この出来事は「伊東崩れ」「日向崩れ」と呼ばれています。

島津義弘肖像画、尚古集成館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊東氏一行は大友宗麟に保護されますが、翌年(1578年)大友氏が伊東領奪回を名目に出陣した耳川の戦いで島津氏に大敗してしまいます。居づらくなった伊東一行はわずか20名ほどで四国伊予の河野氏家臣(大内氏)のもとに移りました。祐兵の妻(松寿院)を奪い取られそうになり、脱出したとも言われています。伊予での暮らしは貧しく、家臣は酒造り、機織りをしてしのぎました。(⑥)

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて祐兵は仕官しましたが、義祐は仏僧・文人であったため、気ままな旅暮らしをしていました。ところが現在の山口県あたりで家臣とはぐれてしまいます。祐兵の屋敷のあった堺に向けて船に乗ったところ、体調を崩し、堺についたところで行き倒れになってしまいました。その噂を聞きつけた家人たちによって屋敷に運ばれますが、ついに享年73で亡くなりました。1585年のことで「三位入道」波乱の人生でした。(⑥)

伊東氏の復活劇、飫肥藩の成立

伊東祐兵が仕官したのは、中国攻めを行っていた織田信長の家臣・羽柴秀吉でした。本能寺の変が起こる半年前のことでした(1582年)。まさに秀吉が天下統一に乗り出さんとするタイミングだったのです。遠縁の秀吉家臣(伊東掃部介)の仲介で一旦断られますが、秀吉に直接目通りすると、即時仕官が決まったそうです(下記補足1)。

(補足1)秀吉の言葉「いかにもたくましい勇士である(「日向記」)」「これから中国地方の毛利氏を攻めるにあたり、九州から自分を頼ってくる者があるとは、目出度い(「川崎私記」)(現代語訳は飫肥城松の丸展示より)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

祐兵(1559年生まれ)の同年配には、大谷吉継(同年)、石田三成(60年)、福島正則(61年)、加藤清正(62年)などがいました。当初は30人扶持(「日向記」)でしたが、彼らと出世を競い合い、仕官翌年には500石を得ています。そして1587年(天正15年)の九州平定には、豊臣秀長が総大将、黒田官兵衛(孝高、如水)が指揮する軍の配下で日向国に攻め入っています。道案内ということもあったのでしょう。その結果、戦後の論功行賞で飫肥を与えられ、10年ぶりに飫肥城に戻ってくることになったのです(石高2万8千石余→後に検地で5万7千石余→分知により5万1千石余)。放浪時代に世話になった大内氏も重臣として迎えられました。(③⑥)

しかし旧城主の上原氏が城をなかなか明け渡さず、祐兵の入城は翌年になってしまいました(①)。また家臣(川崎家)の記録には、取次ぎを行う黒田官兵衛が秀吉から不興をかったために「祐兵は飫肥城を与えられたものの、大封を得られず2万石余に留まり、「残念至極の事」」と記されています(⑥)。

黒田如水肖像画、崇福寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佑兵は関ヶ原の戦い前に病気になり、跡継ぎの祐慶(すけのり)が九州で東軍に参加することで、領地を安堵され、これが飫肥藩になります。飫肥の地は、蛇行する酒谷川に三方を囲まれた要害の地で、その背後のシラス台地に城が築かれていました。飫肥城の近代化は、まずこの2代に間に行われました。群郭式の城の中で、本丸、中の丸、松尾の丸などが中核の曲輪群として整備されました(⑤)。松尾の丸に残る石垣は、この当時のものと考えられます(⑦)。

江戸時代に城、城下町として整備された範囲、飫肥城歴史資料館にて展示
左側が松尾の丸の石垣

ところで因縁の島津氏との関係ですが、幕府・各藩と協調の方針をとった島津義弘が健在のころは良好でした。幕府が島津征伐を計画している噂が流れると、義弘は飫肥藩に真偽を問い合わせ、伊東祐慶は母・松寿院などからの情報をもとに噂を否定、急いで上洛して将軍に挨拶するよう勧めています。(⑥)

飫肥城を守り、現代へ継承

飫肥藩は、伊東氏14代によって幕末維新まで治められました(最後の代は知藩事、⑧)。しかし困難はありました。まず地震の被害です。17世紀後半、3度に渡って大地震が起こり(1662、1680、1684年)石垣が破損したほか、藩主寝所下に地割れが生じ、本丸建物が維持できなくなりました。そこで、中の丸を新本丸とし、大改修が行われました。(⑤)現在見られる城内の石垣の大半は地震後に改修されたものです(⑨)。
1691年:石垣完成、1693年:新本丸御殿完成、1713年:大手門完成(③⑨)同時期に二階櫓も建築(⑤)

本丸石垣
大手門(建物は復元)

次には薩摩藩との確執が挙げられます。島津義弘が亡くなると(1619年)飫肥藩と薩摩藩の間で境目論争が起こり(1624頃~)再び険悪な関係になります。この論争は幕府の裁定により飫肥藩の勝訴に終わるのですが(1675年)両藩の緊張関係は幕末まで続きました。飫肥藩は領内の要所に藩士を配置し続ける体制をとっていました。また興味深いことに、薩摩側(都城島津邸)には江戸後期の飫肥城本丸内の配置を記した絵図が残っています。(③⑥)薩摩藩の密偵が潜入し、情報収集していたのでしょう。

薩摩側が持っていた飫肥城の絵図、飫肥城歴史資料館にて展示

一方、先ほどの境目論争に勝訴したことで、飫肥藩は豊かな山林資源を確保しました。飫肥杉です。実は江戸中期までは松や楠の巨木だったのですが、枯渇してしまったので、藩民をあげて飫肥杉の大植林を行ったのです。成長が早く、船材に適していました。飫肥杉は、江戸後期から昭和時代まで、飫肥の経済をけん引する産業になりました。その飫肥杉などが積み出されたのが、戦国時代まで海外貿易で栄えた油津です。切り出した木材を港まで運ぶために「油津堀川」が開削されました。(②③)これらが藩の財政を支えましたが、藩士の生活はきびしかったようです。藩ができたときに、かつて大大名だったときの家臣を大勢召し抱えたため、石高ににしては藩士の数が多かったからです。

飫肥杉植林の様子、飫肥城歴史資料館にて展示
油津堀川の様子、飫肥城歴史資料館にて展示

幕末が近くなると、藩校・振徳堂が開設されました。ここから輩出された人物で有名なのは、日露戦争のポーツマス条約を締結した明治時代の外務大臣・小村寿太郎でしょう。現在、小村寿太郎記念館なども飫肥観光スポットの一つになっています。幕末維新の飫肥を支えた重要人物としては、家老の平部嶠南(ひらべきょうなん)が挙げられます。1868年、鳥羽伏見の戦いでの幕府の敗戦を聞くと、彼は薩摩藩に新政府への恭順の意を示し、薩摩藩家老(桂久武)と面会し、関係改善を果たしました。ただし、飫肥藩の兵は警戒されて、前線には出されなかったそうです。また、明治になって城の建物が撤去され、石垣も撤去される入札が実施されると聞いた嶠南は、石垣だけは残す努力をしたそうです。これも、現在の城や町の佇まいを残すことにつながっているのでしょう。(③)

修復、復元された振徳堂
小村寿太郎(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

①「地域から見た戦国150年 九州・琉球の戦国史/福島金治著」ミネルヴァ書房
「飫肥杉の積出港として賑わった油津の流通産業」みなと事業研究事業ウェブサイト
③ 飫肥城歴史資料館展示
④「三位入道/松本清張著」講談社「奥州の二人」より
⑤「九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編」吉川弘文館
⑥ 飫肥城松尾の丸展示
⑦「歴史群像シリーズ よみがえる日本の城18」学研
⑧ 飫肥城パンプレット
⑨ 飫肥城現地説明パネル
➉ 「古地図から読み解く飫肥城」戦国を歩こう

「飫肥城 その2」に続きます。

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