148.浜松城 歴史編

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。

イントロダクション

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。(以上下記①を参考、以下番号のみ記載)

浜松城にある徳川家康像

しかし、家康在城時代には数々の困難に見舞われました。三方原合戦、妻と子の粛清、本能寺の変、小牧・長久手の戦いなどです。このうち、浜松城と関連し、家康の生涯唯一の大敗と言われているのが「三方原合戦」です。この戦いは、家康が城を築く以前からの武田信玄との関係が伏線になっています。よって、浜松城と三方原合戦をメインストーリーとして展開していきたいと思います。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また現在残っている古風な石垣と、元あった天守は、家康と江戸時代の大名たちの間に城主になった堀尾吉晴が築いたとされています。最後の方では、その吉晴と江戸時代の大名たちの時代も触れてみます。

再建天守と現存石垣

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(浜松城と三方原合戦)

家康、遠江国に進出

1560年(永禄3年)桶狭間合戦が起こり、今川義元が織田信長に討ち取られると、今川方部将だった家康は岡崎城に入りました。これをもって家康自立と思ってしまいますが、実はこれは今川当主・氏真の許可・指示によるものだったのです。事実、家康は翌年(1561年)まで織田方と戦っています。しかし家康は苦戦し、氏真からの援軍もなかった(当時上杉謙信に対抗する北条氏の方に援軍を送っていた)ため、織田信長との同盟に踏み切ったのです。氏真は三河侵攻を計画しますが、間の遠江国で「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる反乱が起こり、それどころではなくなりました(三河侵攻のために課税したのに実施しなかったことが一因と言われます)。一方、家康のお膝元でも「三河一向一揆」が起こります。しかし1566年(永禄9年)までに一揆を鎮圧し、三河国を統一しました(永禄9年12月29日、徳川三河守家康)。(段落全体②)

「集外三十六歌仙」の今川氏真  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1568年(永禄11年)、前年に美濃を平定した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛しようとしていました。彼はそのことについて、上杉・武田・朝倉の了解を取り付けていました。問題は、留守中に今川に背後を衝かれる可能性です。そのため、信長は武田の今川攻めを認めたのです。その一翼を担ったのが家康です。徳川と武田は、今川攻めに関わる同盟を結びました。その内容は、大井川を境に駿河を武田、遠江を徳川が領有するというものでした(下記補足1)。(段落全体②)

(補足1)扨(さて)又、甲斐ノ武田之信玄ト仰合て、家康ハ遠江ヲ河切に取給え、我ハ駿河ヲ取ント仰合て、両国へ出給ふ(「三河物語」永禄十一年・第二中)
さて、甲斐の国の武田信玄を連絡をとって「家康は遠江を大井川までとれ、わたしは駿河をとろう」と申しあわせて、駿河・遠江両国へ出陣した(現代語訳③)

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

両軍は一斉に今川領に侵攻しました。武田軍は駿河に侵攻、今川氏真は掛川(懸川)城に退去しました。しかし今川と同盟を維持していた北条氏の反撃を受けます(一旦駿河から撤退)。一方、徳川軍の遠江侵攻は順調で、二俣城・引間(曳馬)城・高天神城などを開城させ、氏真が籠る掛川城を包囲しました。実は武田は、徳川との境界線を遠江の天竜川と考えていたらしく、遠江にも出兵してきましたが、家康が信玄に抗議し、撤兵させました。(下記補足2)家康が強気に出られる状況だったのです。(段落全体③)

(補足2)家康は使いをやった。「大井川を境に、駿河を信玄の領分、大井川を境に遠江が(家康の)領分と定まっているのに、秋山が出陣してきたのは横車を押すことになる。すぐに引きかえされよ」とおっしゃった。(「三河物語」現代語訳③)

現在の掛川城

1569年、永禄12年5月、家康は今川・北条と和睦し、掛川城も開城となり、今川氏真は北条氏に引き渡されました。ここに遠江国はほぼ家康の支配下に入りました。しかしこの和睦は武田との盟約違反でした。翌年(1570年、元亀元年)、家康は武田信玄と断交、信玄の宿敵・上杉謙信と同盟を結びました。信玄は激怒、ところが何もできませんでした。ここで家康と開戦すれば、織田・上杉・北条から一斉に攻められる可能性があったからです。信玄のこの憤懣は三方原合戦の伏線になっていきます。

浜松築城

遠江を支配することになった家康は、支配を安定させ、武田の脅威に備えるため、国府があった見付に居城を移すことにし、築城工事を始めました(城之崎城)。しかし途中で中止しました。仮に信玄と戦うことになった場合、西側の天竜川を背後にする「背水の陣」になってしまうためと言われます。町としての発展や、本国・三河や織田信長との連携も考慮したのでしょう。また、信玄が家康が見付に本拠を置くことを有利とみてほくそ笑み、信長がその危うさを悟って家康を説得したとする史料まであります(下記補足3)。そこで家康は、川の西側の「浜松荘(はままつのしょう)」の中心であった「引間城」「引間(曳馬)宿(ひくまのしゅく)」の地に居城を作り直すことにしました。これが浜松城で、1570年(元亀元年)のことでした。家康は29歳から45歳(1586年)までここを本拠にしました。(段落全体②④⑤⑥、下記補足4)

(補足3)右のやうす甲州へ聞え家康様を信玄ことことしく御ほめの由、上方へももれ聞へて信長公より御異見有て、見付の新城やめさせられ候、(「石川正四見聞集」)

(補足4)然間、見付之国府ヲ御住所に被成、城ヲ取、原に各々屋敷取ヲシテ住マせ給ひケルガ、爰(ここ)ハ不被可然トテ、浜松え引カせラレ給ひて、御城ヲコシラエ給ひ、御住所ヲ定サせ給ふ(「三河物語」)

遠江国の範囲と浜松城の位置

見付の城(城之崎城)跡

元あった引間城は、宿場を見下ろす丘陵に築かれ、水堀に囲まれていました。更には、東側は当時あった天竜川のもう一本の本流(小天竜)、北側は崖地帯、南から東にかけては低湿地という自然の障壁によって守られていました。家康は、西側の丘陵地帯に城域を拡大し、そちらを中心部とし、名も「浜松城」と改めました。引間城の地は「古城」と呼ばれ、新城の一部になりました。城は更に南に拡大していきます。(段落全体⑥)

城周辺の起伏地図

家康時代の浜松城の姿ははっきりしません。しかも城の本格的な改修が始まるのは1577年(天正5年)です。三方原合戦(1572年)のころは、武田侵攻に備え支城網の改修を優先していたと考えられます。それでも、合戦に敗れ家康が城に撤退したときの記録に「西の門」「大手の門」古城にあった「玄黙口」というのが出てくるので(下記補足5)、新城に古城が取り込まれた形にはなっていたのでしょう。(段落全体⑤⑥)やがて武田との戦いの中で、武田築城術を取り込み、浜松城にも生かしていったと考えられます。例えば「横堀」の採用により、北側の「佐左曲輪」や南側の出丸を取り込んだことが挙げられます。(以上⑤⑥)東海道も城近くに付け替え、城下町も造られました。(②)家康により拡張された浜松城は、江戸時代天守曲輪・本丸・二の丸・西端城曲輪・清水曲輪・作左曲輪・出丸等の範囲と考えられます。(⑦)

(補足5)三方ヶ原を退き西の門からは入られず、遥かに大手の門より門外に乗廻し、東に向ひ北に至て、玄黙口より入られた(「鳥居家中興譜」)

家康在城時の浜松城のイメージ図、現地説明パネルより

家康の居住空間は、最高地点の現・天守曲輪だったと考えられますが、面積は狭く、自然地形を生かしたものでした。また、城は土造りで、曲輪は土塁で囲まれ、屋敷も板葺きだったと想定されています。その頃、織田信長や有力家臣は瓦葺きの天守・石垣を持った城を築いていました。徳川氏はそのような城を築かせる技術者集団をまだ使うことができなかったのです。家康が石垣の城を築くのは、次の居城・駿府城からになります。(段落全体⑤⑥⑦)

家康在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

決戦!三方原

1571年(元亀2年)信玄は領国内で大動員を開始しました。翌年にかけては北条との同盟を復活させました。一方、織田との同盟を強化すると見せかけながら、家康家臣の調略も行っていました。1572年、元亀3年10月、ついに信玄は出陣、遠江に侵攻しました。信玄は「三ヶ年の鬱憤を散じるため」と喧伝しています。それだけ家康を恨んでいたのです。信玄はまず要衝の高天神城を確保、掛川城を孤立させて、西に進みました。家康はこれ以上の落城・家臣の離反を防ぐため、天竜川を越えて出陣しました。しかし不利と見て撤退しようとしたところ、武田軍の動きが速く、追いつかれてしまい、一言坂合戦が起こりました。ここで家康の窮地を救ったのが本多忠勝です。この様子を武田家臣(小松右近助の近習)が歌に詠んでいます(下記補足6)。家康は無事浜松に戻りましたが、以前築城した見付まで武田に制圧されました。(段落全体②)

(補足6)家康に すぎたるものハふたつあり からのかしらに 本多平八(「軍艦」)

高天神城跡
一言坂の戦跡
本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田の別働隊(山県・秋山勢)も北遠江・奥三河に侵入しました。長篠城・井伊谷(いいのや)が武田の手に落ちました。そして信玄本隊は、天竜川をさかのぼり、徳川方の要衝・二俣城も11月末日(晦日)に落城させました。浜松城は、北・東を包囲され、連絡道は西の浜名湖(今切)経由だけになってしまったのです。(段落全体②)

長篠城跡

信玄は二俣城を本陣とし、12月22日に再び動き出しました。武田軍は浜松城を目指しているかに見えましたが、北西の三方原台地に上がりました。徳川方は、武田の目標が本国三河にあると想定しました。家康は直ちに出陣し、その途上で軍議を行いました(下記補足7,従来は浜松城で軍議を行ったという記述が多かった)。しかしすぐ開戦になったわけではなく、徳川軍は武田軍を追いながら機会を伺っていたのです(台地(祝田坂)を下り始めるのを待っていたようです)。(段落全体②➉)

(補足7)元亀三年壬申十二月廿二日、家康、浜松より三理に及で打出させ給いて、御合戦を可被成と仰けれバ、各々年寄共の申上けるハ、今日之御合戦、如何に御座可有候う哉、敵之人数を見奉るに、三万余と見申候、其上、信玄ハ老武者と申、度々の合戦になれたる人なり、御味方はわづか八千之内外御座可有哉と申上けれバ、其儀ハ何共あれ、多勢にて我屋敷之背戸をふミきりて通らんに、内に有ながら、出てとがめざる者哉あらん、負くれバとて、出てとがむべし、そのごとく、我国をふミきりて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉、菟角、合戦をせずしてハおくまじき、陣ハ多勢・無勢にハよるべからず、天道次第と仰せけれバ、各々是非に不及とて、押寄けり、(「三河物語」)
元亀三年十二月二十二日、家康は敵が浜松から三里のところまでやってきて、出撃する。「一合戦しよう」とおっしゃると、年寄たちが皆「今日の合戦はどうでしょうか。敵の人数は三万あまりと思われます。信玄は熟練の武者でもあり、たびたびの合戦をへた手だれの者です。しかも、味方はわずかに八千ほどでございますから」と申し上げる。「そのことはしょうがない。多勢が自分の屋敷の裏口をふみ破って通ろうとしているのに、家のなかにいて、でてとがめだてしない者があろうか。負けたら負けたときと、でてとがめるであろう。それと同じで、自分の国をふみ破って通るのに、多勢だからといってどうして、出陣して、とがめないでおかりょうか。ともかく合戦をしないでは、おかれまい。戦さは多勢無勢で結果が決まるわけではない。天運のままだ」とおっしゃると、みなもあれこれいうこともなく、攻めよせた。(現代語訳③)

三方原古戦場碑

最近の説では、開戦のきっかけは、武田軍が再度進路を変更し、浜名湖の半島にある堀江城に向かったこととされます。織田信長の伝記「信長公記」にそれを裏付ける記述があります(下記補足8)。堀江城は浜名湖水運を掌握する要所であり、もし敵の手に落ちると浜松城が完全に孤立してしまいます。信玄の狙いはそこにあり、家康としては絶対阻止しなければならなかったのです。(段落全体②)

(補足8)これは遠江方面でのことである。十一月下旬、武田信玄が二俣の城を包囲した、という徳川家康からの報告が到着した。そこで、信長の家老衆、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元を大将として、軍勢を浜松へ参陣させた。しかし、すでに二俣の城は落城し、その勢いに乗って武田信玄は堀江の城をめざして進軍していた。(⑧)

徳川方の人数は、徳川約8千に織田援軍を加えると約1万1千、武田方は「三河物語」に3万とありましたが、約2万ではないかと言われます。いずれにせよ徳川方が不利です。信玄も慎重に様子を見ていたため、合戦が始まったのは午後4時頃(申刻)でした。足軽同士の小競り合いから本格的な戦いに発展したようです。天候は曇りから雪になり、酷寒の中での合戦でした。合戦の様子も「三河物語」に描写されています(下記補足9)。徳川方は善戦したものの、武田方の反撃で中央を突破、分断され、後は各個撃破されていきました。決着がついたのは午後6時頃(酉刻)と言われます。(段落全体②)

(補足9)信玄はたびたびの合戦に場慣れしていたので、すぐに魚鱗の陣をしき敵に向かった。家康は鶴翼の陣をしいたが、小勢だったので、手薄とみえた。信玄はまず足軽たちを送り、小石を投げさせた。それを家康の軍は相手にせず、いっせいに切ってかかると、早速一陣二陣を打ち破る。つづいて敵は新手を向けてきたが、その新手も破って、信玄の本陣に殺到した。信玄の本陣からも、いっせいに鬨の声をあげて攻めかかる。わずか八千の兵だったので、三万余の大敵と、粉骨砕身せりあったが、信玄の本陣に攻めかえされて、敗退した。(③)

徳川家康本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示
武田信玄本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

家康主従は、夜の闇のなか、一体になって撤退しました。家康の身代わりや殿になって討たれた家臣もいました(成瀬藤蔵、夏目広次、本多忠真など)。家康自身も、敵の待ち伏せにあい、自分の弓で射倒し、窮地を脱したといいます(下記補足10)。

(補足10)家康は、戦線の中央部を切り破られ、乱戦に巻き込まれた。左へ逃げて、三方ガ原の崖ぎわの一本道を退却した。敵は先回りして待ち受け、戦いを挑んだ。それを家康は馬上から弓で射倒し、駆け抜けて、浜松へ帰城した。この時に限らず、家康の弓の腕前は今に始まったことではなかった。(⑧)

敗走する家康主従のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

徳川方は大混乱に陥っていて、浜松城では家康が討たれたとの虚報が飛び交っていました。討たれた人数は、織田軍の大将の一人・平手汎秀を含め、約千名と言われています。浜松城に帰れなかった家臣も大勢いたようです(主な者・下記補足11)。浜松各地には家康が隠れた,匿われたという伝承が多くありますが、このことが元になっているのかもしれません。

(補足11)
・榊原康政:家康とはぐれ、西島に逃れた
・水野信元(織田援軍):今切の渡(浜名湖)または岡崎まで逃走
・中河兄弟:懸川城に逃れた
・山田平一郎:岡崎城に逃れ、家康が討たれたと知らせた

家康が城に戻った場所と言われる玄黙口

武田軍は追撃を続け、浜松城に迫りました。これを食い止めた場所が、浜松城北方の要害・犀ヶ崖です。崖の手前に留まった武田軍に対し、大久保忠世・天野康景の鉄砲隊が夜襲をかけました。混乱した武田の兵が崖に落ちたと伝えられています。(⑨)

犀ヶ崖
反撃する徳川軍鉄砲隊のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

武田軍は深追いをせず、翌12月23日には、目標としていた堀江城を攻撃しましたが落とせず、翌年元亀4年2月に野田城を攻略しました。ここから渥美半島の方に向かっても、浜松城と三河国を分断することができます。しかし武田軍が次に向かったのは、逆方向の長篠城でした。信玄の病のためと言われます。4月12日、信玄は信濃への撤退の途中で亡くなりました。家康と浜松城は、絶対絶命の危機を脱したのです。(②)

堀尾氏による改修、そして出世城へ

1586年(天正14年)、5か国の太守となっていた家康は、居城を東の駿府城に移しました。浜松城は家臣の菅沼定政に預けました(城代)。そして1590年(天正18年)に徳川氏が関東に移されると、浜松には豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が入城しました。秀吉の家康に対する備えの一環でした。現在残る天守曲輪・本丸の石垣は、この時代に築かれたと考えられています。天守門脇には巨石が配され、豊臣政権の権威を見せつけました。一方、天守曲輪西側の「屏風折れの石垣」は、城から側面攻撃ができるようにした実戦的な作りです。記録はありませんが、天守台石垣の上には天守も築かれたと考えられます(当時の瓦が見つかっています)。現在ある再建天守(3重)より大きく、堀尾氏が後に築いた松江城を参考に、4重天守が想定されています。2代目の忠氏のとき(吉晴は隠居)1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでの武功により、堀尾氏は加増転封となりました(12→24万石)。(段落全体④⑤)

堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
天守門の石垣
屛風折れの石垣
堀尾吉晴在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

江戸時代になると、浜松城は浜松藩の本拠、譜代大名の城として、なんと10家・22代の城主が入れ替わりました(下記補足12、家康からだと25代)。その中から老中6人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を輩出し「出世城」と呼ばれるようになります。なかでも天保の改革で有名な水野忠邦は、家康にあやかりたいと浜松城主に志願したと言われます。忠邦は見事老中に出世するのですが、失脚すると転封になり、以前の井上氏が復帰しています。(段落全体⑤⑪)

(補足12)歴代浜松城主となった大名家(江戸時代、⑪)
・1601~09年:桜井松平氏(1代、5万石)
・1609~19年:水野氏(1代、2.5→3.5万石)
・1619~38年:高力氏(1代、3.1→3万石)
・1638~44年:大給松平氏(1代、3.5万石)乗寿が老中
・1644~78年:太田氏(2代、3.5→3.2万石)
・1678~1702年:青山氏(3代、5万石)宗俊が老中
・1702~29年:本庄松平氏(2代、7万石)
・1729~49年:大河内・長沢松平氏(2代、7万石)信祝が老中
・1749~58年:本庄松平氏(再任・2代、7万石)
・1758~1817年:井上氏(3代、6万石)正経が老中
・1817~45年:水野氏(2代、6→7万石)忠邦が老中
・1845~68年:井上氏(再任・2代、6万石)正直が老中

水野忠邦肖像画、東京都立大学図書情報センター蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天守は早期に失われたようで、天守曲輪には天守門と裏門の埋門だけが残りました。本丸には鉄門や富士見櫓などがありました(建物については不明)。二の丸には城主屋敷や藩庁があり、藩政の中心になっていました。その南側には三の丸が整備され、侍屋敷が置かれ、南端に大手門が築かれました。その大手門を基点に東海道が設定され、その街道沿いには町屋が形成されました。(段落全体⑦⑪⑫)

江戸時代(廃城時点)の城中枢部想像図、現地説明パネルより
浜松城略絵図(安政年間)、現地説明パネルより

リンク、参考情報

①「市長コラム 平成24年4月」浜松市ウェブサイト
②「新説 家康と三方原合戦/平山優著」NHK出版新書
③「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
④「静岡の城/加藤理文著」サンライズ出版
⑤「東海の名城を歩く 静岡編/中井均・加藤理文編」吉川弘文館
⑥「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
⑦「浜松城の変遷」浜松市ウェブサイト
⑧「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑨ 犀ヶ崖資料館展示
➉「徳川家康と9つの危機/河合敦著」PHP新書
⑪「浜松市史」
⑫ 浜松城展示

「浜松城 現地編」に続きます。

209.「桶狭間」の城砦群 その2

今回は大高駅からスタートして、大高城を見学します。メニューとしては、義元が進んだかもしれない「義元の道」、そして織田信長が進んだであろう「信長の道」として区分してご案内します。最後は、桶狭間古戦場公園に行きつきます。

イントロダクション

今、大高駅のホームの上にいます。なんとここからは、大高城とそれを囲んだ砦跡が見渡せるのです。ホームの目の前の丘陵が、鷲津砦があった辺り、丘陵をずっと見渡していくと、その端の方に、丸根砦がありました。そして、ホームの反対側には、大高城跡が見えるのです。

大高駅ホーム
ホームから見える鷲津砦跡
ホームから見える大高城跡

今回は大高駅からスタートして、大高城を見学します。メニューとしては、義元が進んだかもしれない「義元の道」、そして織田信長が進んだであろう「信長の道」として区分してご案内します。最後は、桶狭間古戦場公園に行きつきます。

大高駅前

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(大高城から桶狭間古戦場めぐり)

義元の道(大高城~漆山)

大高駅から、大高城跡までは、道に出ている案内に沿って行けば、大丈夫だと思います。

道路に出ている案内

城跡入口から登っていきます。もう曲輪があります。腰曲輪でしょう。

大高城跡入口
大高城腰曲輪

城跡の石碑や案内を過ぎて登っていくと、二の丸に到着します。結構広く感じます。更に本丸があるのですが、その間に、広大な堀があったことが発掘調査によりわかりました。堀と曲輪が城を取り巻いていたのです。

大高城二の丸
大高城本丸(城山八幡社)
発掘された堀の様子、(「令和4年度 史跡大高城跡発掘調査現地説明会資料、名古屋市教育委員会」より引用)

ここから、織田方の砦をチェックしましょう。正面が鷲津砦、白いビルの向こうが、丸根砦のようです。

大高城二の丸からの眺め
丸根砦周辺(ズーム画像)

見どころはまだあります。隣の曲輪(三の丸か)に向かう土橋の両脇に、空堀が残っているのです。こんなところにひっそりと残っているのです。

曲輪間の土橋
残っている空堀

曲輪の向こうの景色も見てみましょう。住宅街が続いているように見えますが、かつては、向こうに海が見えたはずなのです。大高城は海に開かれた城だったのです。

かつては海が見えたはずです

次は、信長が築いた砦跡に行ってみます。こちらも案内が出ているので、その通りに進みます。鷲津砦跡は現在、鷲津砦公園になっています。自然散策ができるような場所になっています。

鷲津砦跡の案内
鷲津砦公園

続いて、丸根砦です。かつては、名前の通り下記のようなイメージだったのが、現在はどうなっているでしょうか。こちらは、砦らしさが残っています。頂上のところには、戦いの慰霊碑があります。中腹からは、大高城も見えるそうです。桜が咲いている辺りが二の丸でしょうか。

丸根砦想像図、現地説明パネルより
丸根砦跡に向かいます
頂上にある慰霊碑
中腹からの眺め
大高城跡

ここからが、前回ご紹介した「桶狭間の戦い」の新説(後退追撃説)の中で、今川義元が桶狭間に向けてたどったルートです。まず、小川道を漆山に向けて進みます。大高緑地公園の竹林散策路は、小川道の痕跡と言われています。義元が通らなかったとしても、今川軍の連絡道として使われたのではないでしょうか。

桶狭間周辺の地図

大高緑地公園の竹林散策路

現在の漆山は、削られて、駐車場になっています。よって、眺望がきく代わりの場所を探します。近くに展望台があるのです。見晴らしがいい場所です。漆山の駐車場が見え、そして、次に向かう、信長の善照寺砦跡も見えます。

現在の漆山にある公園駐車場
近くにある展望台
展望台からの眺め
善照寺砦付近(ズーム画像)

信長の道(善照寺砦~中島砦)

善照寺砦までは下ったり、登ったり結構大変でした。だからこそ、決戦の場になったのでしょう。地形図を見ても、それがわかります。ここで、織田・今川両軍が相対していたのです。

善照寺砦跡

桶狭間周辺の起伏地図

櫓もどきの展望台があるので、登ってみましょう。しかし残念、木で景色が見えません。なんとか、先ほどの漆山だけは確認できます。敵陣を補足したということで、中島砦に向けて出撃します!

右側に展望台がありますが・・
展望台からの眺め
展望台を降りたところからの眺め
漆山付近(ズーム画像)

善照寺砦からどんどん下っていきます。しかし信長も、敵から丸見えなのを承知で、よく出撃したと感じます。それだけの覚悟があったのでしょう。

善照寺砦跡を下ります
中島砦跡への道

もうすぐ中島砦跡です。橋を渡った辺りです。こういうところに砦があったのです。「信長公記」には、織田軍は2千弱の兵数と書いているので、今川軍に対しては少ないとしても、砦はそれなりの規模があったのでしょう。

橋を渡った先が中島砦跡

川(扇川)が二股に分かれています。つまり、中州にあった砦だったのです。だから「中島」砦という名前なのでしょう。中島砦跡の表示もありました。

扇川の分岐点
「中島砦跡」の表示

いよいよ、旧東海道を通って、義元を追撃します!

旧東海道

義元の道(長坂道~高根山)

東海道を進んだら、古い町並みに来ました。有松です。しかし戦国時代、この集落はなかったのです。主要道としては、これから行く長坂道が使われたのです。「桶狭間」の新説でも、義元がここを通って、次の陣地の高根山に向かいました。

有松の町並み

確かに「長坂道」とあります。名前の通り、緩やかな坂が、長々と続いています。大通りに突き当たりますが、その先にまだまだ続いています。しかも陸橋にまでなっています。さすが、歴史の道です。

「長坂道」の案内
長坂道
大通り(国道1号線)の先にも続いています
長坂道の陸橋

もうすぐ高根山です。ちょっとここはきつい登りです。到着すると、何かの案内があります。実は地元では、ここは今川の前衛部隊が布陣したとされているのです。義元がいなかったとしても、今川軍はここにいたのでしょう。そうなると、ますますどんな景色が見えるか気になってしまいます。

もうすぐ到着します
高根山(有松神社)

なんとか見えます。そして先ほど行った善照寺砦はも見当がつきます。今でもしっかり敵陣も見えるのです。あとは義元がいたかいなかったかということですが、義元がいなかったとすれば、前衛部隊がここで、織田方を監視・対戦したのでしょう。でも個人的には「信長公記」に書かれている「織田の部隊が討たれたのを、義元が見て謡をうたった」というのは、やっぱりここじゃないかと思ってしまいます。

高根山からの眺め
善照寺砦周辺

信長の道(東海道~桶狭間古戦場)

有松に戻ってきました。ここからまた、信長の道です。現・桶狭間古戦場の本陣に移った今川義元を、当時は間道だった旧・東海道を通って、追っていきます(新説・後退追撃説に基づく)。ただ、どの説でもそろそろ雷雨なので、そのつもりで慎重に進みましょう。

有松の町並み(先ほどとは反対側(東側))
旧東海道、信長は雷雨の中ここを進んだはず

大将ヶ根交差点に出ました。かつてこの辺に「太子ヶ根」という山があって、信長がここから義元本陣に切り込んだという説もあります。これは古くからある「迂回奇襲説」のことでしょう。新説においては、ここから「沓掛の峠」のクスノキが倒れるのを見て、ますます奮い立ったということになっています。

大将ヶ根交差点
新説で「沓掛の峠」ではないかとされる地点

今回は、新説をベースに進んでいるので、ここから南に折れて、義元本陣に向かいます。住所が「桶狭間」になってきました。このルートは、地元では信長が通った道と伝えられていて、迂回奇襲説の元ネタにもなっているようです。

「桶狭間」の住所表示
左手は、信長が攻め上がったといわれる「信長坂」ですが、学校の敷地内なので、ビジターは通常立入不可

現在「釜ヶ谷(かまがたに)」と呼ばれている地の説明パネルがあります。ここは信長が、雨が上がるのを待った場所と伝えられています。それではここから突撃しましょう。愛知用水の水路橋の下をくぐります。住宅街を曲がっていくと「今川本陣跡」の表示を見つけました。一気に攻め上がります!

「釜ヶ谷」の説明パネル
愛知用水の水路橋
「今川本陣跡」の案内

と思ったら、坂の途中の意外なところに、本陣跡とあります。ここは、地元の研究者が定めた場所とのことで、説の一つということなのでしょう。もうちょっと本陣らしいところはないかと、もう少し登ってみることにします。

本陣跡への坂、本陣跡は坂の途中、右側にあります
今川義元本陣跡

近くの高台で景色が見えるところまできました。周りはすっかり住宅街になっています。まだまだ、謎だらけということでしょう。

近くの高台からの眺め

今回のゴールは、本陣跡から少し下ったところにある桶狭間古戦場公園にします。ここはかつて「田楽坪」と呼ばれていました。今川義元が、最期をとげた場所と言われています。そういう場所が公園になっています。今川義元と織田信長の銅像のところに来ました

桶狭間古戦場公園

私の感想

大高城からずっと古戦場を歩いてみて、今川義元が、ここに進んできたのか、それとも退いてきたのか、正直、まだわからないのですが、織田信長が、今川軍を攻める、強烈な意志だけは確かだと思いました。

リンク、参考情報(追加分)

・「令和4年度 史跡大高城跡発掘調査現地説明会資料」名古屋市教育委員会
・「桶狭間史跡マップ」桶狭間古戦場保存会
・発掘調査で新発見がぞくぞく!/大高城跡、緑区周辺そぞろ歩き
・桶狭間古戦場伝説地、豊明市

「「桶狭間」の城砦群 その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

209.「桶狭間」の城砦群 その1

近年、桶狭間の戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきたのです。

イントロダクション

桶狭間の戦いといえば、まだ尾張国の一大名だった織田信長が、駿河・遠江・三河三カ国の太守・今川義元を討ち取った戦いとして有名です。戦いのイメージとしては、「桶狭間」という地名から、谷間で行われた野戦という印象が一般的でしょう。また、兵の少ない軍勢が、奇襲で大軍を打ち破ったという印象もあると思います。

桶狭間古戦場公園の織田信長・今川義元像

しかし近年、この戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきました。

今回は、桶狭間の戦いの背景と、その展開についての従来説・現時点での定説・最近出された新設をご紹介するとともに、戦いにまつわる城砦群もご紹介したいと思います。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(桶狭間の戦いと城砦群)

桶狭間への道

織田信長は、1534年(天文3年)織田信秀の嫡男として勝幡(しょばた)城で生まれました(参考資料①②より、以下番号のみ記載)。信秀は、尾張の守護代の重臣(清州三奉行)の一人でしたが、人望と経済力により、大きな勢力になっていました(①)。また信長が成長する間、当時の戦国大名としては珍しく、居城を勝幡→那古野→古渡→末森と移していて、信長にも影響を与えたと言われています(③)。他国に対しても威勢を示していて、例えば三河に対しては、1547年(天文16年)には岡崎城を攻め、松平広忠を降伏させています(嫡男竹千代が人質に)。また、美濃にも攻め込みますが大敗しています(1544年)。やがて、三河方面で太原雪斎率いる今川勢の攻勢が始まると、美濃の斎藤道三と和睦、信長と道三の娘(濃姫)が結婚することになります。(①)

織田信秀木像、萬松寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そんな中、信秀は病に倒れ、1552年(天文21年)までに亡くなりました。そのときは天皇による停戦勧告(1550年)により今川とも一時的に平和が保たれていましたが、尾張国内は不安定でした。実はこのとき信長は完全に家督を継承していたわけではなく、弟の信勝には本城・末森城や柴田勝家など重臣の大半が付いていたのです(信長は1542年から那古野城主、下記補足1)。信秀法要(葬儀または法事)のとき、信長がバサラな格好で焼香を投げつけた一方、信勝は家督継承者にふさわしい佇まいで座っていたというエピソードもそれを表しています。(ときに信長19歳、①②)

(補足1)一、末盛の城、勘十郎公(信勝)へまいり、柴田権六・佐久間治右衛門、此外歴々相添へ御譲りなり(「信長公記」原文)

また、信長の家(織田弾正忠家)の上位の守護代家の一つ(織田大和守家)も清州城に健在でした。この状況下で、織田方の山口教継が今川方に寝返り、鳴海城などに立てこもりました。また、守護斯波氏の家臣(小守護代)の坂井大膳(さかいたいぜん)らも今川方につこうとしていました。(①)

これに対し、信長は敢然と今川方に反抗し、赤塚の戦い、萱津の戦いにより、今川義元への対決姿勢を示しました(1552年)。尾張・美濃国境の聖徳寺で、斎藤道三と会見し、バサラの恰好から正装に変身し、自慢の長槍隊・鉄炮隊を見せつけたのは翌年のことです。そして、坂井大膳・織田大和守家によるクーデター(守護殺害)に乗じて、清州城を攻め、ここに入城したのです(中市場の戦い、1553年)。協力者の叔父・信光が亡くなると、信長は尾張下四郡を支配下に置きました(①)

試練はまだ続きます。1556年(弘治2年)、舅の斎藤道三が、その子の義龍に討たれたのです。この事件後、斎藤氏と尾張のもう一つの守護代家・織田伊勢守家(岩倉)が、反信長に転じます。そしてこの状況を見た信長家臣(林秀貞ら)まで、弟の信勝をかついで敵対してきたのです。この危機においても、信長は稲生の戦いで勝利し、1558年(永禄元年)には織田伊勢守家にも勝利しました。これにより尾張をほぼ統一したのです。この裏では、守護の斯波氏を追放し、信勝も粛清しています。(①)

斎藤道三肖像画、常在寺蔵・東京大学史料編纂所模写 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その頃、今川方でも軍師の太原雪斎が亡くなって混乱状態にありました(1557年織田・今川間で再度の停戦成立)。しかし尾張における今川の拠点として、鳴海城の外、調略により大高城を手に入れていました。(1559年、①③)近年この大高城が注目されています。当時、この城は海に接していて、ここからは陸海両方から、信長の本拠地・清州城や商港・熱田に迫ることができるのです。城自体も巨大な空堀に囲まれていて、当時としては最先端の防御力を備えていました。(③④)実際、桶狭間の戦いのときには、今川方の軍船千艘が、大高城の下の河口まで乗り入れています(下記補足2)。この城は尾張確保のホットスポットだったのです。

(補足2)河内二の江の入道、うぐいらの服部友定は、義元に味方するといって、軍船千艘ばかり、海上に蜘蛛の子を散らしたように並べ、大高城の下、黒末川の河口まで乗り入れた(⑤)

「「尾州大高城図」(国立国会図書館デジタルコレクション)

信長は、今川方の補給を防ぎ、監視するため、鳴海城の近くに丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、大高城には鷲津砦・丸根砦を築きました。また都に上洛し、そのことを通じ、六角氏と結んで背後を固め、最新の武器も調達したとも考えられています(③)。

城砦群の位置

1560年、永禄3年5月12日、今川義元は尾張攻略のために自ら駿府を出陣しました。具体的には、大高城・鳴海城への後詰を行うことです。家督はそれまでに息子の氏真に譲っていました。その軍勢は2万5千と言われています。(①④)今川重臣(関口氏純)の書状にも、義元は尾張国の「境目」地域に出陣する、と書かれているので、最現在では上洛説は否定されています(➉)。しかし、義元は貴族が都で使う塗輿に乗って出陣しているので、あわよくばと思っていたかもしれません(③)。一方、27歳になっていた信長の兵力は3千でした。(①④)信長が追い詰められていたのか、それとも義元が出陣せざるをえなくなったのか、見方は分かれますが、尾張の重要拠点をめぐる戦いが起こったことは確かでしょう。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
今川義元肖像画、高徳寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

従来説・桶狭間の戦い(迂回奇襲説)

まず従来説として「日本戦史 桶狭間役」に基づき、戦の経緯を追ってみましょう。内容としては「迂回・奇襲説」になります。このときの義元の目的は都への上洛でした(下記補足3)。5月18日、今川軍は沓掛城にて翌日の分担を定め、翌19日明け方から松平元康らが、丸根・鷲津砦を攻撃、これを落として大高城に入りました。

(補足3)今川義元近隣諸国ノ方サニ無事ナルヲ好時機ト為シ京師ニ詣リ将軍足利義輝ニ謁シ以テ威名ヲ揚ケント欲シ永禄三年五月朔日出兵ノ令ヲ領邑諸将士ニ発ス蓋シ沿道諸国ノ我行ヲ遮ル者ヲ伐ントスルナリ(⑥)

旧日本陸軍参謀本部「日本戦史 桶狭間役」(Google Booksより)

織田方は今川方に対処するため、清州城で軍議を開いていました。家老たちは、兵が少ない状況での野戦を避け、籠城策を主張しましたが、信長は城外で戦うことを決します。しかし18日夜、丸根砦より警報が来ても動かず、翌19日未明(午前2時頃)になって突然出陣を命じたのです。そして朝、熱田神宮を経由して鳴海方面に向かう途中、丸根・鷲津砦から立ち上る煙を見て、その陥落を知りました。織田軍は、丹下砦を経由し、善照寺砦に集結しました。

善照寺砦跡

織田軍の一部、佐々政次ら(3百人)は、鷲津砦を落とした今川隊に対し攻撃を仕掛けましたが、散々に打ち破られました(政次も討死)。これを見た信長は憤激に絶えず、敵前の中島砦に進もうとしますが、家老が必死に止めました。そのとき、梁田政綱の間者が、義元の本体は大高城に入るため、桶狭間に向かっていて、その近くの田楽狭間で休息していると告げました。政綱は、敵は勝利により油断していて、兵を潜め、不意に本隊を攻撃すれば、必ず討ち取ることができると進言したのです(下記補足4)。信長はこの策を取り、迂回路を通って義元に迫りました。

(補足4)政綱乃チ信長ニ勧メテ曰ク東軍霎時(しょうじ)ニ両砦ヲ陥レ必ス驕リテ備エサラン今兵ヲ潜メテ其不意ニ出テ本軍ヲ擣(つ)カハ義元ヲ獲ル必セリト(⑥)

案の定、義元本隊は勝利に浮かれ、酒宴を催し、警備を怠っていました。しかも織田軍が迫った正午ごろ、俄かに暴風雨となり、その接近は気づかれず、その間に山に潜みました。そして雨が上がったところで(午後2時ころ)義元めがけて突撃、見事首級を挙げたのです。この戦いでの一番の戦功は、義元を討ち取った者(毛利秀高または新介)ではなく、梁田政綱でした(沓掛城及び三千貫)。

「尾州桶狭間合戦」、歌川豊宣作(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大軍を少人数の奇襲で打ち負かすという、日本人好みのストーリーだったことで、この説は長い間史実と信じられてきました。しかし現在では信頼できないものとされています。多くの部分は、後世の軍記物などからのフィクションによって構成されたものだったからです。従来説を作った参謀本部はこのストーリーを、明治の新興日本の弱小軍隊が大国に勝利するために採るべき戦術の模範例として創作したのです。(⑦⑧)

定説・桶狭間の戦い(正面攻撃説)

次に現在定説となっている正面攻撃説(藤本正行氏による)をご紹介します。この説は、信長家臣・太田牛一が著した信長の伝記で信頼性があるとされる「信長公記」を基にしています。従来説と違いが大きいところを述べてみます。なお、義元出陣の目的は、大高・鳴海城への補給と、織田方による封鎖の解除と考えられています。

「信長公記」、陽明文庫蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

まず今川軍ですが、義元は5月17日に沓掛城に到着、19日朝まで滞在したとしています。そして18日夜から松平元康隊が大高城に兵糧を入れています。(⑦⑧、補足5)

(補足5)五月十七日、一、今川義元沓懸に参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、(「信長公記」原文)

一方、清州城の信長は、家老たちとは世間話だけで帰宅させました。家老たちは信長を嘲笑していました。夜明け方、砦が攻撃されていると聞くと、信長は「敦盛」の舞を舞いました。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」という有名な場面です。そして出陣したのです。

ここから織田軍が善照寺砦に集結したところに飛びます。このとき今川義元は「桶狭間山」に陣を張っていたのです。つまり義元がいたのは谷間の低地ではないのです。また、元康隊には大高城で休息を取らせていました。(⑦⑧下記補足6)

(補足6)御敵今川義元は四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり。(中略)今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高に兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依て、人馬の息を休め、大高に居陣なり。(「信長公記」原文)

そして、佐々政次らが討ち取られた場面を、義元も上から見て、勝利の謡をうたったのです。つまり織田・今川両軍は真正面に対峙していたことになります(下記補足7)。

(補足7)是を見て、義元が矛先には天魔鬼神も忍(たまる)べからず。心地はよしと悦んで、緩々(ゆるゆる)として謡をうたはせ陣を居(すえ)られ候。(「信長公記」原文)

善照寺砦や中島砦方面の眺望がきく高根山からの景色

信長はといえば、家老が止めるのも聞かず、迂回どころか、敵の目下の中島砦に向かったのです。そして家臣たちにこう訓示しました。「皆、よく聞けよ。今川の兵は、宵に腹ごしらえをして夜どおし行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手を焼き、辛労して疲れている者どもだ。こっちは新手の兵である。少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は点にある。」しかし、眼前の敵は砦を攻めた兵ではないはずなので、これは信長の誤認とされています(⑤⑦⑧)。

中島砦跡付近

織田軍が山際まで進んだ時に暴風雨となり、雨は敵の顔、味方の後方に降りかかりました(東向き)。「沓掛の峠」のクスノキが雨で、東の方に倒れたほどです。雨が止むと信長は「それ、掛かれ、掛かれ」と叫び攻めかかりました。敵は後ろに崩れ、本陣に対して五度も攻撃を加え、ついに義元を討ち取ったのです(⑤)。これが「正面攻撃」たるゆえんです。

「沓掛の峠」かと思われる場所

しかしこの定説においても疑問点は残ります。主なものを3つ挙げます。
1,信長が、正面の義元の軍を「疲れている者」としたのは本当に誤認だったのか(⑦)。そうだとしても、わざわざ伝記に書く必要があるのか。
2.義元が織田軍を見下ろしたとされる一帯と、現在「桶狭間古戦場」とされる一帯は1km以上離れている。織田軍が押したとしても、離れすぎてはいないか。
3.義元は5月17日に沓掛城に着いて、19日まで宿泊したことになっているが、18日はなにをやっていたのか。

新説・桶狭間の戦い(後退追撃説)

これらの疑問点に答えるものとして最近出されたのが、義元が大高城に入城し、城確保という目的を果たしたので撤退していたという説です(かぎや散人による)。この説では、今川方だった徳川家臣・大久保彦左衛門の「三河物語」も活用しています。

「三河物語」に書かれた義元の行動は、5月17日に知立(池鯉鮒)に着き、翌18日に大高城に行って丸根砦を巡検し、軍議の結果、19日に元康に攻めさせたと解釈できるというのです(①⑦、下記補足8)。

(補足8)永禄三年五月十九日に義元は、(前日に)知立から手順どおりに大高城に行って、丸根砦をつくづくと巡検して、諸大名を集めて少し長い時間、軍評定を行って、それならば攻め取ろうと(中略)もとから逸る気持ちの松平元康だったので、丸根砦に押寄せ攻めたてた(「三河物語」、現代語訳は⑦より)

ここからは想定になりますが、義元は、救援にかけつけるであろう信長を討つために、古くからある小川道を通って、鳴海方面を一望できる漆山に布陣したと考えられます。しかし信長は来ず、砦は陥落し、当初の目的は果たしたので、大高城には元康を置き、義元は撤退を決めたのです。これも古くからの長坂道を通って高根山に至ります。ここからは善照寺砦も見えるので、敵勢を討ち取り、義元が謡をうたったのはこの場所と考えられます。そこから更に撤退して、現・桶狭間古戦場付近(桶狭間村)の山に至ったのです。

桶狭間周辺の起伏地図

漆山付近からの眺望

この状況は「三河物語」の記述からある程度裏付けられます。三河の兵士たちは、義元が討ち取られる前から撤退を急いでいた、及び織田軍を山から見下ろしていたという記述がみられるのです(①⑦、下記補足9)。

(補足9)(石川六左衛門尉がいうは)「ここに押しよせたなら、すぐに棒山を攻め落とし、番手を早く入れかえ、いったん退却しなくてはならなかったのを、あまりにぐずぐずしていて、決断が遅れた。よい結果にはなるまい。すぐに帰陣せよ」
(石川六左衛門尉が織田の軍勢を見て)「敵の人数は少なく見積もっても五千はある」という。そのときみなが笑って「どうして五千もあろうか」という。そのとき六左衛門尉笑って、「みなさまは人の数のみかたをご存じない。高いところにいる敵を下から見上げたときはすくない人数も多くにみえるものだし、また下にいる敵を高いところから見下ろすと多くの軍勢もすくなくみえるものだ。」(⑨)

信長は、今川軍が大高城から山の上を撤退していたのを、追っていたのです。ですので、信長の訓示は誤解でもなんでもなかったのです。信長は今川軍と同じ長坂道を登っていくつもりでしたが、ここで暴風雨となり、方針を変えます。その頃は間道だった現・東海道を東へ進み、太子ヶ根(現在の大将ヶ根交差点付近)と呼ばれるところに至ります。ここであれば、沓掛の峠で倒れるクスノキも見ることができたはずです。ここから南に折れ、谷筋(現・釜ヶ谷)を通って義元本陣に突入しました。この攻撃は雨を利用した「迂回・奇襲」策でもあったのです(①⑦)。

大将ヶ根交差点

個人的には、義元はこんなに危ない目に合うなら、大高城にいたはずではないかと思ってしまいます。実は、江戸時代から同じ議論があったそうです(①、補足10)。一体、義元の意図はなんだったのか、上洛か、尾張奪取か、信長征伐か、大高城に絞っていたのか、古くて新しいこの議論がますます活発になってほしいと思います。

(補足10)「一説には十八日に義元が大高城へ行き、大高城で評議をして丸根・鷲津の両砦を落としたあと、桶狭間山の北に陣を敷くというものがあるが、この説は間違っている。もし義元が丸根・鷲津の砦を攻め落としたら、鳴海にも近いため、善照寺砦や中島砦を攻め取れそうなものだし、さらに熱田方面へ侵攻することもできよう。そしてまた、敵地だからと用心するなら大高城に入っていればいいのに、なぜそこから後退して桶狭間の山の上などに陣を置いたというのか。そんな行動は理解できないゆえ、この説は間違っている」(尾張藩主従医・山崎真人「桶狭間合戦記」、現代語訳は①より)

大高城跡

リンク、参考情報

①「若き信長の知られざる半生/水野誠志朗著」ぴあ株式会社
②「中世武士選書10 織田信長の尾張時代/横山住雄著」戒光祥出版
③「英雄たちの選択「ここまでわかった!若き信長の「桶狭間の戦い」」」NHK BS放送
④「ブラタモリ「なぜ織田信長は“桶狭間の戦い“に勝てたのか?」NHK放送
⑤「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑥「日本戦史 桶狭間役」旧日本陸軍参謀本部
⑦「歴史群像157号 新解釈・桶狭間の戦い/かぎや散人・水野誠志朗著」Gakken
⑧「信長の戦国軍事学/藤本正行著」洋泉社
⑨「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
➉「織田信長 戦国時代の「正義」を貫く/柴裕之著」平凡社

「「桶狭間」の城砦群 その2」に続きます。

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