209.「桶狭間」の城砦群 その2

今回は大高駅からスタートして、大高城を見学します。メニューとしては、義元が進んだかもしれない「義元の道」、そして織田信長が進んだであろう「信長の道」として区分してご案内します。最後は、桶狭間古戦場公園に行きつきます。

イントロダクション

今、大高駅のホームの上にいます。なんとここからは、大高城とそれを囲んだ砦跡が見渡せるのです。ホームの目の前の丘陵が、鷲津砦があった辺り、丘陵をずっと見渡していくと、その端の方に、丸根砦がありました。そして、ホームの反対側には、大高城跡が見えるのです。

大高駅ホーム
ホームから見える鷲津砦跡
ホームから見える大高城跡

今回は大高駅からスタートして、大高城を見学します。メニューとしては、義元が進んだかもしれない「義元の道」、そして織田信長が進んだであろう「信長の道」として区分してご案内します。最後は、桶狭間古戦場公園に行きつきます。

大高駅前

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(大高城から桶狭間古戦場めぐり)

義元の道(大高城~漆山)

大高駅から、大高城跡までは、道に出ている案内に沿って行けば、大丈夫だと思います。

道路に出ている案内

城跡入口から登っていきます。もう曲輪があります。腰曲輪でしょう。

大高城跡入口
大高城腰曲輪

城跡の石碑や案内を過ぎて登っていくと、二の丸に到着します。結構広く感じます。更に本丸があるのですが、その間に、広大な堀があったことが発掘調査によりわかりました。堀と曲輪が城を取り巻いていたのです。

大高城二の丸
大高城本丸(城山八幡社)
発掘された堀の様子、(「令和4年度 史跡大高城跡発掘調査現地説明会資料、名古屋市教育委員会」より引用)

ここから、織田方の砦をチェックしましょう。正面が鷲津砦、白いビルの向こうが、丸根砦のようです。

大高城二の丸からの眺め
丸根砦周辺(ズーム画像)

見どころはまだあります。隣の曲輪(三の丸か)に向かう土橋の両脇に、空堀が残っているのです。こんなところにひっそりと残っているのです。

曲輪間の土橋
残っている空堀

曲輪の向こうの景色も見てみましょう。住宅街が続いているように見えますが、かつては、向こうに海が見えたはずなのです。大高城は海に開かれた城だったのです。

かつては海が見えたはずです

次は、信長が築いた砦跡に行ってみます。こちらも案内が出ているので、その通りに進みます。鷲津砦跡は現在、鷲津砦公園になっています。自然散策ができるような場所になっています。

鷲津砦跡の案内
鷲津砦公園

続いて、丸根砦です。かつては、名前の通り下記のようなイメージだったのが、現在はどうなっているでしょうか。こちらは、砦らしさが残っています。頂上のところには、戦いの慰霊碑があります。中腹からは、大高城も見えるそうです。桜が咲いている辺りが二の丸でしょうか。

丸根砦想像図、現地説明パネルより
丸根砦跡に向かいます
頂上にある慰霊碑
中腹からの眺め
大高城跡

ここからが、前回ご紹介した「桶狭間の戦い」の新説(後退追撃説)の中で、今川義元が桶狭間に向けてたどったルートです。まず、小川道を漆山に向けて進みます。大高緑地公園の竹林散策路は、小川道の痕跡と言われています。義元が通らなかったとしても、今川軍の連絡道として使われたのではないでしょうか。

桶狭間周辺の地図

大高緑地公園の竹林散策路

現在の漆山は、削られて、駐車場になっています。よって、眺望がきく代わりの場所を探します。近くに展望台があるのです。見晴らしがいい場所です。漆山の駐車場が見え、そして、次に向かう、信長の善照寺砦跡も見えます。

現在の漆山にある公園駐車場
近くにある展望台
展望台からの眺め
善照寺砦付近(ズーム画像)

信長の道(善照寺砦~中島砦)

善照寺砦までは下ったり、登ったり結構大変でした。だからこそ、決戦の場になったのでしょう。地形図を見ても、それがわかります。ここで、織田・今川両軍が相対していたのです。

善照寺砦跡

桶狭間周辺の起伏地図

櫓もどきの展望台があるので、登ってみましょう。しかし残念、木で景色が見えません。なんとか、先ほどの漆山だけは確認できます。敵陣を補足したということで、中島砦に向けて出撃します!

右側に展望台がありますが・・
展望台からの眺め
展望台を降りたところからの眺め
漆山付近(ズーム画像)

善照寺砦からどんどん下っていきます。しかし信長も、敵から丸見えなのを承知で、よく出撃したと感じます。それだけの覚悟があったのでしょう。

善照寺砦跡を下ります
中島砦跡への道

もうすぐ中島砦跡です。橋を渡った辺りです。こういうところに砦があったのです。「信長公記」には、織田軍は2千弱の兵数と書いているので、今川軍に対しては少ないとしても、砦はそれなりの規模があったのでしょう。

橋を渡った先が中島砦跡

川(扇川)が二股に分かれています。つまり、中州にあった砦だったのです。だから「中島」砦という名前なのでしょう。中島砦跡の表示もありました。

扇川の分岐点
「中島砦跡」の表示

いよいよ、旧東海道を通って、義元を追撃します!

旧東海道

義元の道(長坂道~高根山)

東海道を進んだら、古い町並みに来ました。有松です。しかし戦国時代、この集落はなかったのです。主要道としては、これから行く長坂道が使われたのです。「桶狭間」の新説でも、義元がここを通って、次の陣地の高根山に向かいました。

有松の町並み

確かに「長坂道」とあります。名前の通り、緩やかな坂が、長々と続いています。大通りに突き当たりますが、その先にまだまだ続いています。しかも陸橋にまでなっています。さすが、歴史の道です。

「長坂道」の案内
長坂道
大通り(国道1号線)の先にも続いています
長坂道の陸橋

もうすぐ高根山です。ちょっとここはきつい登りです。到着すると、何かの案内があります。実は地元では、ここは今川の前衛部隊が布陣したとされているのです。義元がいなかったとしても、今川軍はここにいたのでしょう。そうなると、ますますどんな景色が見えるか気になってしまいます。

もうすぐ到着します
高根山(有松神社)

なんとか見えます。そして先ほど行った善照寺砦はも見当がつきます。今でもしっかり敵陣も見えるのです。あとは義元がいたかいなかったかということですが、義元がいなかったとすれば、前衛部隊がここで、織田方を監視・対戦したのでしょう。でも個人的には「信長公記」に書かれている「織田の部隊が討たれたのを、義元が見て謡をうたった」というのは、やっぱりここじゃないかと思ってしまいます。

高根山からの眺め
善照寺砦周辺

信長の道(東海道~桶狭間古戦場)

有松に戻ってきました。ここからまた、信長の道です。現・桶狭間古戦場の本陣に移った今川義元を、当時は間道だった旧・東海道を通って、追っていきます(新説・後退追撃説に基づく)。ただ、どの説でもそろそろ雷雨なので、そのつもりで慎重に進みましょう。

有松の町並み(先ほどとは反対側(東側))
旧東海道、信長は雷雨の中ここを進んだはず

大将ヶ根交差点に出ました。かつてこの辺に「太子ヶ根」という山があって、信長がここから義元本陣に切り込んだという説もあります。これは古くからある「迂回奇襲説」のことでしょう。新説においては、ここから「沓掛の峠」のクスノキが倒れるのを見て、ますます奮い立ったということになっています。

大将ヶ根交差点
新説で「沓掛の峠」ではないかとされる地点

今回は、新説をベースに進んでいるので、ここから南に折れて、義元本陣に向かいます。住所が「桶狭間」になってきました。このルートは、地元では信長が通った道と伝えられていて、迂回奇襲説の元ネタにもなっているようです。

「桶狭間」の住所表示
左手は、信長が攻め上がったといわれる「信長坂」ですが、学校の敷地内なので、ビジターは通常立入不可

現在「釜ヶ谷(かまがたに)」と呼ばれている地の説明パネルがあります。ここは信長が、雨が上がるのを待った場所と伝えられています。それではここから突撃しましょう。愛知用水の水路橋の下をくぐります。住宅街を曲がっていくと「今川本陣跡」の表示を見つけました。一気に攻め上がります!

「釜ヶ谷」の説明パネル
愛知用水の水路橋
「今川本陣跡」の案内

と思ったら、坂の途中の意外なところに、本陣跡とあります。ここは、地元の研究者が定めた場所とのことで、説の一つということなのでしょう。もうちょっと本陣らしいところはないかと、もう少し登ってみることにします。

本陣跡への坂、本陣跡は坂の途中、右側にあります
今川義元本陣跡

近くの高台で景色が見えるところまできました。周りはすっかり住宅街になっています。まだまだ、謎だらけということでしょう。

近くの高台からの眺め

今回のゴールは、本陣跡から少し下ったところにある桶狭間古戦場公園にします。ここはかつて「田楽坪」と呼ばれていました。今川義元が、最期をとげた場所と言われています。そういう場所が公園になっています。今川義元と織田信長の銅像のところに来ました

桶狭間古戦場公園

私の感想

大高城からずっと古戦場を歩いてみて、今川義元が、ここに進んできたのか、それとも退いてきたのか、正直、まだわからないのですが、織田信長が、今川軍を攻める、強烈な意志だけは確かだと思いました。

リンク、参考情報(追加分)

・「令和4年度 史跡大高城跡発掘調査現地説明会資料」名古屋市教育委員会
・「桶狭間史跡マップ」桶狭間古戦場保存会
発掘調査で新発見がぞくぞく!/大高城跡、緑区周辺そぞろ歩き
桶狭間古戦場伝説地、豊明市

「「桶狭間」の城砦群 その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

209.「桶狭間」の城砦群 その1

近年、桶狭間の戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきたのです。

イントロダクション

桶狭間の戦いといえば、まだ尾張国の一大名だった織田信長が、駿河・遠江・三河三カ国の太守・今川義元を討ち取った戦いとして有名です。戦いのイメージとしては、「桶狭間」という地名から、谷間で行われた野戦という印象が一般的でしょう。また、兵の少ない軍勢が、奇襲で大軍を打ち破ったという印象もあると思います。

桶狭間古戦場公園の織田信長・今川義元像

しかし近年、この戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきました。

今回は、桶狭間の戦いの背景と、その展開についての従来説・現時点での定説・最近出された新設をご紹介するとともに、戦いにまつわる城砦群もご紹介したいと思います。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(桶狭間の戦いと城砦群)

桶狭間への道

織田信長は、1534年(天文3年)織田信秀の嫡男として勝幡(しょばた)城で生まれました(参考資料①②より、以下番号のみ記載)。信秀は、尾張の守護代の重臣(清州三奉行)の一人でしたが、人望と経済力により、大きな勢力になっていました(①)。また信長が成長する間、当時の戦国大名としては珍しく、居城を勝幡→那古野→古渡→末森と移していて、信長にも影響を与えたと言われています(③)。他国に対しても威勢を示していて、例えば三河に対しては、1547年(天文16年)には岡崎城を攻め、松平広忠を降伏させています(嫡男竹千代が人質に)。また、美濃にも攻め込みますが大敗しています(1544年)。やがて、三河方面で太原雪斎率いる今川勢の攻勢が始まると、美濃の斎藤道三と和睦、信長と道三の娘(濃姫)が結婚することになります。(①)

織田信秀木像、萬松寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そんな中、信秀は病に倒れ、1552年(天文21年)までに亡くなりました。そのときは天皇による停戦勧告(1550年)により今川とも一時的に平和が保たれていましたが、尾張国内は不安定でした。実はこのとき信長は完全に家督を継承していたわけではなく、弟の信勝には本城・末森城や柴田勝家など重臣の大半が付いていたのです(信長は1542年から那古野城主、下記補足1)。信秀法要(葬儀または法事)のとき、信長がバサラな格好で焼香を投げつけた一方、信勝は家督継承者にふさわしい佇まいで座っていたというエピソードもそれを表しています。(ときに信長19歳、①②)

(補足1)一、末盛の城、勘十郎公(信勝)へまいり、柴田権六・佐久間治右衛門、此外歴々相添へ御譲りなり(「信長公記」原文)

また、信長の家(織田弾正忠家)の上位の守護代家の一つ(織田大和守家)も清州城に健在でした。この状況下で、織田方の山口教継が今川方に寝返り、鳴海城などに立てこもりました。また、守護斯波氏の家臣(小守護代)の坂井大膳(さかいたいぜん)らも今川方につこうとしていました。(①)

これに対し、信長は敢然と今川方に反抗し、赤塚の戦い、萱津の戦いにより、今川義元への対決姿勢を示しました(1552年)。尾張・美濃国境の聖徳寺で、斎藤道三と会見し、バサラの恰好から正装に変身し、自慢の長槍隊・鉄炮隊を見せつけたのは翌年のことです。そして、坂井大膳・織田大和守家によるクーデター(守護殺害)に乗じて、清州城を攻め、ここに入城したのです(中市場の戦い、1553年)。協力者の叔父・信光が亡くなると、信長は尾張下四郡を支配下に置きました(①)

試練はまだ続きます。1556年(弘治2年)、舅の斎藤道三が、その子の義龍に討たれたのです。この事件後、斎藤氏と尾張のもう一つの守護代家・織田伊勢守家(岩倉)が、反信長に転じます。そしてこの状況を見た信長家臣(林秀貞ら)まで、弟の信勝をかついで敵対してきたのです。この危機においても、信長は稲生の戦いで勝利し、1558年(永禄元年)には織田伊勢守家にも勝利しました。これにより尾張をほぼ統一したのです。この裏では、守護の斯波氏を追放し、信勝も粛清しています。(①)

斎藤道三肖像画、常在寺蔵・東京大学史料編纂所模写 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その頃、今川方でも軍師の太原雪斎が亡くなって混乱状態にありました(1557年織田・今川間で再度の停戦成立)。しかし尾張における今川の拠点として、鳴海城の外、調略により大高城を手に入れていました。(1559年、①③)近年この大高城が注目されています。当時、この城は海に接していて、ここからは陸海両方から、信長の本拠地・清州城や商港・熱田に迫ることができるのです。城自体も巨大な空堀に囲まれていて、当時としては最先端の防御力を備えていました。(③④)実際、桶狭間の戦いのときには、今川方の軍船千艘が、大高城の下の河口まで乗り入れています(下記補足2)。この城は尾張確保のホットスポットだったのです。

(補足2)河内二の江の入道、うぐいらの服部友定は、義元に味方するといって、軍船千艘ばかり、海上に蜘蛛の子を散らしたように並べ、大高城の下、黒末川の河口まで乗り入れた(⑤)

「「尾州大高城図」(国立国会図書館デジタルコレクション)

信長は、今川方の補給を防ぎ、監視するため、鳴海城の近くに丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、大高城には鷲津砦・丸根砦を築きました。また都に上洛し、そのことを通じ、六角氏と結んで背後を固め、最新の武器も調達したとも考えられています(③)。

城砦群の位置

1560年、永禄3年5月12日、今川義元は尾張攻略のために自ら駿府を出陣しました。具体的には、大高城・鳴海城への後詰を行うことです。家督はそれまでに息子の氏真に譲っていました。その軍勢は2万5千と言われています。(①④)今川重臣(関口氏純)の書状にも、義元は尾張国の「境目」地域に出陣する、と書かれているので、最現在では上洛説は否定されています(➉)。しかし、義元は貴族が都で使う塗輿に乗って出陣しているので、あわよくばと思っていたかもしれません(③)。一方、27歳になっていた信長の兵力は3千でした。(①④)信長が追い詰められていたのか、それとも義元が出陣せざるをえなくなったのか、見方は分かれますが、尾張の重要拠点をめぐる戦いが起こったことは確かでしょう。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
今川義元肖像画、高徳寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

従来説・桶狭間の戦い(迂回奇襲説)

まず従来説として「日本戦史 桶狭間役」に基づき、戦の経緯を追ってみましょう。内容としては「迂回・奇襲説」になります。このときの義元の目的は都への上洛でした(下記補足3)。5月18日、今川軍は沓掛城にて翌日の分担を定め、翌19日明け方から松平元康らが、丸根・鷲津砦を攻撃、これを落として大高城に入りました。

(補足3)今川義元近隣諸国ノ方サニ無事ナルヲ好時機ト為シ京師ニ詣リ将軍足利義輝ニ謁シ以テ威名ヲ揚ケント欲シ永禄三年五月朔日出兵ノ令ヲ領邑諸将士ニ発ス蓋シ沿道諸国ノ我行ヲ遮ル者ヲ伐ントスルナリ(⑥)

旧日本陸軍参謀本部「日本戦史 桶狭間役」(Google Booksより)

織田方は今川方に対処するため、清州城で軍議を開いていました。家老たちは、兵が少ない状況での野戦を避け、籠城策を主張しましたが、信長は城外で戦うことを決します。しかし18日夜、丸根砦より警報が来ても動かず、翌19日未明(午前2時頃)になって突然出陣を命じたのです。そして朝、熱田神宮を経由して鳴海方面に向かう途中、丸根・鷲津砦から立ち上る煙を見て、その陥落を知りました。織田軍は、丹下砦を経由し、善照寺砦に集結しました。

善照寺砦跡

織田軍の一部、佐々政次ら(3百人)は、鷲津砦を落とした今川隊に対し攻撃を仕掛けましたが、散々に打ち破られました(政次も討死)。これを見た信長は憤激に絶えず、敵前の中島砦に進もうとしますが、家老が必死に止めました。そのとき、梁田政綱の間者が、義元の本体は大高城に入るため、桶狭間に向かっていて、その近くの田楽狭間で休息していると告げました。政綱は、敵は勝利により油断していて、兵を潜め、不意に本隊を攻撃すれば、必ず討ち取ることができると進言したのです(下記補足4)。信長はこの策を取り、迂回路を通って義元に迫りました。

(補足4)政綱乃チ信長ニ勧メテ曰ク東軍霎時(しょうじ)ニ両砦ヲ陥レ必ス驕リテ備エサラン今兵ヲ潜メテ其不意ニ出テ本軍ヲ擣(つ)カハ義元ヲ獲ル必セリト(⑥)

案の定、義元本隊は勝利に浮かれ、酒宴を催し、警備を怠っていました。しかも織田軍が迫った正午ごろ、俄かに暴風雨となり、その接近は気づかれず、その間に山に潜みました。そして雨が上がったところで(午後2時ころ)義元めがけて突撃、見事首級を挙げたのです。この戦いでの一番の戦功は、義元を討ち取った者(毛利秀高または新介)ではなく、梁田政綱でした(沓掛城及び三千貫)。

「尾州桶狭間合戦」、歌川豊宣作(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大軍を少人数の奇襲で打ち負かすという、日本人好みのストーリーだったことで、この説は長い間史実と信じられてきました。しかし現在では信頼できないものとされています。多くの部分は、後世の軍記物などからのフィクションによって構成されたものだったからです。従来説を作った参謀本部はこのストーリーを、明治の新興日本の弱小軍隊が大国に勝利するために採るべき戦術の模範例として創作したのです。(⑦⑧)

定説・桶狭間の戦い(正面攻撃説)

次に現在定説となっている正面攻撃説(藤本正行氏による)をご紹介します。この説は、信長家臣・太田牛一が著した信長の伝記で信頼性があるとされる「信長公記」を基にしています。従来説と違いが大きいところを述べてみます。なお、義元出陣の目的は、大高・鳴海城への補給と、織田方による封鎖の解除と考えられています。

「信長公記」、陽明文庫蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

まず今川軍ですが、義元は5月17日に沓掛城に到着、19日朝まで滞在したとしています。そして18日夜から松平元康隊が大高城に兵糧を入れています。(⑦⑧、補足5)

(補足5)五月十七日、一、今川義元沓懸に参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、(「信長公記」原文)

一方、清州城の信長は、家老たちとは世間話だけで帰宅させました。家老たちは信長を嘲笑していました。夜明け方、砦が攻撃されていると聞くと、信長は「敦盛」の舞を舞いました。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」という有名な場面です。そして出陣したのです。

ここから織田軍が善照寺砦に集結したところに飛びます。このとき今川義元は「桶狭間山」に陣を張っていたのです。つまり義元がいたのは谷間の低地ではないのです。また、元康隊には大高城で休息を取らせていました。(⑦⑧下記補足6)

(補足6)御敵今川義元は四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり。(中略)今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高に兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依て、人馬の息を休め、大高に居陣なり。(「信長公記」原文)

そして、佐々政次らが討ち取られた場面を、義元も上から見て、勝利の謡をうたったのです。つまり織田・今川両軍は真正面に対峙していたことになります(下記補足7)。

(補足7)是を見て、義元が矛先には天魔鬼神も忍(たまる)べからず。心地はよしと悦んで、緩々(ゆるゆる)として謡をうたはせ陣を居(すえ)られ候。(「信長公記」原文)

善照寺砦や中島砦方面の眺望がきく高根山からの景色

信長はといえば、家老が止めるのも聞かず、迂回どころか、敵の目下の中島砦に向かったのです。そして家臣たちにこう訓示しました。「皆、よく聞けよ。今川の兵は、宵に腹ごしらえをして夜どおし行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手を焼き、辛労して疲れている者どもだ。こっちは新手の兵である。少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は点にある。」しかし、眼前の敵は砦を攻めた兵ではないはずなので、これは信長の誤認とされています(⑤⑦⑧)。

中島砦跡付近

織田軍が山際まで進んだ時に暴風雨となり、雨は敵の顔、味方の後方に降りかかりました(東向き)。「沓掛の峠」のクスノキが雨で、東の方に倒れたほどです。雨が止むと信長は「それ、掛かれ、掛かれ」と叫び攻めかかりました。敵は後ろに崩れ、本陣に対して五度も攻撃を加え、ついに義元を討ち取ったのです(⑤)。これが「正面攻撃」たるゆえんです。

「沓掛の峠」かと思われる場所

しかしこの定説においても疑問点は残ります。主なものを3つ挙げます。
1,信長が、正面の義元の軍を「疲れている者」としたのは本当に誤認だったのか(⑦)。そうだとしても、わざわざ伝記に書く必要があるのか。
2.義元が織田軍を見下ろしたとされる一帯と、現在「桶狭間古戦場」とされる一帯は1km以上離れている。織田軍が押したとしても、離れすぎてはいないか。
3.義元は5月17日に沓掛城に着いて、19日まで宿泊したことになっているが、18日はなにをやっていたのか。

新説・桶狭間の戦い(後退追撃説)

これらの疑問点に答えるものとして最近出されたのが、義元が大高城に入城し、城確保という目的を果たしたので撤退していたという説です(かぎや散人による)。この説では、今川方だった徳川家臣・大久保彦左衛門の「三河物語」も活用しています。

「三河物語」に書かれた義元の行動は、5月17日に知立(池鯉鮒)に着き、翌18日に大高城に行って丸根砦を巡検し、軍議の結果、19日に元康に攻めさせたと解釈できるというのです(①⑦、下記補足8)。

(補足8)永禄三年五月十九日に義元は、(前日に)知立から手順どおりに大高城に行って、丸根砦をつくづくと巡検して、諸大名を集めて少し長い時間、軍評定を行って、それならば攻め取ろうと(中略)もとから逸る気持ちの松平元康だったので、丸根砦に押寄せ攻めたてた(「三河物語」、現代語訳は⑦より)

ここからは想定になりますが、義元は、救援にかけつけるであろう信長を討つために、古くからある小川道を通って、鳴海方面を一望できる漆山に布陣したと考えられます。しかし信長は来ず、砦は陥落し、当初の目的は果たしたので、大高城には元康を置き、義元は撤退を決めたのです。これも古くからの長坂道を通って高根山に至ります。ここからは善照寺砦も見えるので、敵勢を討ち取り、義元が謡をうたったのはこの場所と考えられます。そこから更に撤退して、現・桶狭間古戦場付近(桶狭間村)の山に至ったのです。

桶狭間周辺の起伏地図

漆山付近からの眺望

この状況は「三河物語」の記述からある程度裏付けられます。三河の兵士たちは、義元が討ち取られる前から撤退を急いでいた、及び織田軍を山から見下ろしていたという記述がみられるのです(①⑦、下記補足9)。

(補足9)(石川六左衛門尉がいうは)「ここに押しよせたなら、すぐに棒山を攻め落とし、番手を早く入れかえ、いったん退却しなくてはならなかったのを、あまりにぐずぐずしていて、決断が遅れた。よい結果にはなるまい。すぐに帰陣せよ」
(石川六左衛門尉が織田の軍勢を見て)「敵の人数は少なく見積もっても五千はある」という。そのときみなが笑って「どうして五千もあろうか」という。そのとき六左衛門尉笑って、「みなさまは人の数のみかたをご存じない。高いところにいる敵を下から見上げたときはすくない人数も多くにみえるものだし、また下にいる敵を高いところから見下ろすと多くの軍勢もすくなくみえるものだ。」(⑨)

信長は、今川軍が大高城から山の上を撤退していたのを、追っていたのです。ですので、信長の訓示は誤解でもなんでもなかったのです。信長は今川軍と同じ長坂道を登っていくつもりでしたが、ここで暴風雨となり、方針を変えます。その頃は間道だった現・東海道を東へ進み、太子ヶ根(現在の大将ヶ根交差点付近)と呼ばれるところに至ります。ここであれば、沓掛の峠で倒れるクスノキも見ることができたはずです。ここから南に折れ、谷筋(現・釜ヶ谷)を通って義元本陣に突入しました。この攻撃は雨を利用した「迂回・奇襲」策でもあったのです(①⑦)。

大将ヶ根交差点

個人的には、義元はこんなに危ない目に合うなら、大高城にいたはずではないかと思ってしまいます。実は、江戸時代から同じ議論があったそうです(①、補足10)。一体、義元の意図はなんだったのか、上洛か、尾張奪取か、信長征伐か、大高城に絞っていたのか、古くて新しいこの議論がますます活発になってほしいと思います。

(補足10)「一説には十八日に義元が大高城へ行き、大高城で評議をして丸根・鷲津の両砦を落としたあと、桶狭間山の北に陣を敷くというものがあるが、この説は間違っている。もし義元が丸根・鷲津の砦を攻め落としたら、鳴海にも近いため、善照寺砦や中島砦を攻め取れそうなものだし、さらに熱田方面へ侵攻することもできよう。そしてまた、敵地だからと用心するなら大高城に入っていればいいのに、なぜそこから後退して桶狭間の山の上などに陣を置いたというのか。そんな行動は理解できないゆえ、この説は間違っている」(尾張藩主従医・山崎真人「桶狭間合戦記」、現代語訳は①より)

大高城跡

リンク、参考情報

①「若き信長の知られざる半生/水野誠志朗著」ぴあ株式会社
②「中世武士選書10 織田信長の尾張時代/横山住雄著」戒光祥出版
③「英雄たちの選択「ここまでわかった!若き信長の「桶狭間の戦い」」」NHK BS放送
④「ブラタモリ「なぜ織田信長は“桶狭間の戦い“に勝てたのか?」NHK放送
⑤「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑥「日本戦史 桶狭間役」旧日本陸軍参謀本部
⑦「歴史群像157号 新解釈・桶狭間の戦い/かぎや散人・水野誠志朗著」Gakken
⑧「信長の戦国軍事学/藤本正行著」洋泉社
⑨「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
➉「織田信長 戦国時代の「正義」を貫く/柴裕之著」平凡社

「「桶狭間」の城砦群 その2」に続きます。

41.駿府城 その2

西郷・山岡会見の史跡碑から駿府城に向かい、大手門跡に入っていきます。それから、復元された東御門・巽櫓を見学して、いよいよ話題の天守台発掘現場に向かいます。その後は復元された坤櫓などを回ってみます。

特徴、見どころ

イントロダクション(江戸開城の影の功労者・山岡鉄舟)

駿府城の現地案内のスタート地点として「西郷・山岡会見の史跡碑」を選びました。江戸開城が決まった勝・西郷会見は有名ですが、実はそれに先立つ駿府での西郷隆盛と山岡鉄舟の会見も、江戸開城につながる重要な歴史イベントだったのです。

西郷・山岡会見の史跡碑

山岡鉄舟(生年:1838年~没年:1888年)は、幕府旗本で剣の達人でもありました。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に戻っていた徳川慶喜の警護役を務めていました。慶喜は恭順の意を示していましたが、新政府軍は慶喜を討伐する方針でした。そこで慶喜は、近臣の高橋泥舟の推薦する鉄舟を、改めて恭順の意を伝える使者として抜擢しました。鉄舟は初対面の主君に対し「謹慎しているのは偽りではないか」と問いただしました。真実であると確認すると、この使命に命をかける覚悟をしました(下記補足1)。

(補足1)わたしは旧主(慶喜)に「今日の切迫した時勢において、恭順をお示しになるのはどのようなお考えによるものなのか」と問うた。旧主は、「自分は朝廷に対して公正無二の赤心をもって謹慎しているといえども、朝敵として征討の命が下った上は、とても生命を全うすることはかなうまい。これほどまでに衆人に憎まれてしまったことは、返す返すも嘆かわしいことである」と言って涙をこばされる。わたしが旧主に「何をそんな弱気でつまらぬことを言われるのか。謹慎しているというのは偽りではないのか。何かほかにたくらんでいることがおありではないのか」と言うと、旧主は「自分にふたごころはない。どんなことであっても朝廷の命令に対しては背かない無二の赤心があるだけである」と言われるので、わたしは次のように断言した。「真の誠意をもっての謹慎であられるならば、朝廷にしっかりと届かせて、御疑念を氷解していただくのは当然のことです。鐵太郎が、そこのところは確かにお引き受けし、必ずや赤心が届くように力を尽くします。鐵太郎が目の黒いうちは、決して御心配には及びません」と。(山岡鉄舟「慶應戊辰三月駿府大總督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」の現代語訳、「最後のサムライ 山岡鐵舟」より)

山岡鉄舟(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

鉄舟は、勝海舟から付けられた薩摩藩士とともに敵地となった駿府に乗り込み、西郷と会見したのです。西郷は鉄舟を確かな人物と見込み、和議の5条件を提示しました(山岡鉄舟本人の手記による)。
1.城を明け渡すこと
2.城中の人数を向島に移すこと
3.兵器を渡すこと
4.軍艦を渡すこと
5.徳川慶喜を備前へ預けること

鉄舟は、最後の慶喜を他藩に預ける条件だけは承服できませんでした。「朝命である」とすごむ西郷に対し、鉄舟はもし逆の立場だったら主君を差し出すのかと反駁し、撤回させたのです(下記補足2)。このやり取りがベースになり、勝・西郷会見と江戸開城が実現したのです。西郷が江戸に乗り込んだときには、鉄舟は西郷の警護役になりました。

(補足2)「主人の慶喜一人を備前へ預けること、これは決してなすべきではありません。というのも、そうなった場合には徳川に恩顧を受けた家臣たちが決して承知をしないからです。つまり、合戦が起こり、いたずらに数万の生命が失われます。これは天子の軍隊のすることではありません。そうなってしまっては先生は単なる人殺しでしかありません。(略)」と答えると、西郷氏は「朝命です」と言う。わたしはきっぱりと、「たとえ朝命であっても、わたしとしては、決して承知するわけにはいきません」と言う。西郷氏は語気を強めて、再び「朝命です」と繰り返す。わたしは、「ならば先生とわたしとその立場を入れ替えて少し考えてみましょう。先生の主人である島津公が、もし間違って朝敵の汚名を着せられながらも、官軍が征討に向かう日には恭順謹慎しており、しかも先生がわたしと同様の任にあって主家のために尽力している時に、主人の慶喜に対するがごとき処置の命令が朝廷から下ったら、先生はその命令を謹んでお受けになり、さっさと主君を差し出して安閑としていることを、君臣の情、先生の義というものからみてどうお考えでしょうか。このことは、轍太郎には決して忍ぶことのできないことです」と激しく論じる。西郷氏はしばらく黙然としていたが、口を開くと、「先生の説はもっともなことです。徳川慶喜殿のことについては、この吉之助が確かに引き受け、取り計らいます。先生にはご心痛には及びません」と約した。(同上)

この史跡碑は旧東海道沿いにあるので、ここから駿府城に向かい、大手門跡に入っていきます。それから、復元された東御門・巽櫓を見学して、いよいよ話題の天守台発掘現場に向かいます(発掘現場は2025年12月で一旦公開終了、今回内容はそれ以前に訪問したもの)。その後は復元された坤櫓などを回ってみます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

東海道から駿府城入城

それでは、史跡から東海道を駿府城に向かいましょう。でも実は、東海道とはすぐお別れなのです。東海道と反対側の三の外堀(外堀)に行きます。全部ではありませんが、残っているのです。堀沿いを歩いていくと、城に行くのに便利な城代橋があるのですが、今回はオリジナルの登城ルートをたどってみようと思います。すごい石垣が張り出しています。この先が、大手御門跡になります。大手門の周りだけあって、堂々としています。背後にそびえるのは静岡県庁舎別館です。現代の天守のようです。

城周辺の航空写真

左側に曲がると東海道の続き、右側に行くと駿府城
三の丸堀(外堀)
城代橋(明治時代設置)
石垣の背後にそびえる静岡県庁舎別館

大手御門跡の前まで来ました。大手御門から、二の丸御門、御玄関前御門と進むのが、正規の登城ルートでした。今でもバンバン車が通っていて、県庁の正門みたいになっているのでしょうか。すごい枡形で、この上に建っていた門の建物も巨大だったのでしょう。枡形を抜けると、二の丸堀(中堀)に突き当たります。

大手御門跡
正規の登城ルート(駿府城東御門内)
大手御門の枡形
二の丸堀に突き当たります

二の丸御門は左の方になりますが、この門跡は通ることができないのです。この門跡は、戦後の国体開催のときに埋められて、別の場所に橋がかけ替えられました。その二の丸橋を渡ります。そして左手の方に、二の丸御門の枡形が残っているのです。袋小路かと思ったら、入口をふさがれた枡形だったのです。

二の丸御門跡(表側)
二の丸橋
二の丸御門の枡形(内側)

最後の御玄関前御門は、残念ながら案内があるだけです。中心部はかなり整地されてしまいましたので仕方ありません。でも、場所がわかっただけでも良かったです。

御玄関前御門跡

復元された門・櫓を見学

次は、中堀の前に戻って、復元された建物の方に行きましょう。巽櫓に近づいていきます。どっしりとした構えです(二重三階、平面は珍しいL字型)。大砲の標的にならないよう、こういうスタイルになったそうです。

復元された巽櫓

巽櫓からつながる東御門に行きましょう。この県庁をバックにした図柄は、好みがあるかもしれません。個人的には天守があるみたいで好きです。

県庁をバックにした東御門

東御門の高麗門から中に入ります。外からの攻撃に耐久性が高い内枡形です。そして右側の櫓門から枡形を出ます。

東御門(正面)
高麗門
枡形
櫓門

門と櫓の内部は公開されていますので、入ってみましょう。まず東御門ですが、多聞櫓にも囲まれていて、結構広いのです。防御の仕組みが分かるようになっていて、フィギアのところに石落としがあります。

門と櫓への入口
駿府城模型の巽櫓・東御門部分(駿府城東御門内)
櫓門内部
石落とし

それに、資料館としてもかなり充実しているのです。例えば、櫓門の中に大きな城の模型があったり、門の正面の多聞櫓の中に、今川時代から大御所時代までの歴史展示があったりします。

駿府城模型(駿府城東御門内)
今川時代の展示(駿府城東御門内)
格子窓から見た枡形

曲がった先の多聞櫓では、幕末までの歴史です。鉄砲を撃つフィギアもいます。巽櫓に行っても、展示は続きます。なんと、天守台発掘調査現場の模型まであります。そして二階には、復元された「竹千代手習いの間」があります。

鉄砲を撃つフィギア
巽櫓へ
天守台発掘調査現場の模型
復元された「竹千代手習いの間」

建物から出たら、本丸堀(内堀)に行ってみましょう。埋められてしまったのですが、一部掘り返されて、見学できるのです。石垣も見えます。

本丸堀
本丸堀の石垣

次は二の丸水路です。本丸掘と、二の丸堀をつないで、水位調整を行っていました。

二の丸水路

いよいよ天守台へ

そして、いよいよ天守台です。近くで家康公もお出迎えです。

天守台発掘調査現場に向かいます
徳川家康像

広大な現場です。緑のコーンが慶長期、赤のコーンが天正期、黄色のコーンが今川期の遺物を表しています。

天守台発掘調査現場のほぼ全景

別の図(下記)も使いながら、天正期天守台(赤いライン)からご案内します。南側の天守台出入口を見ながら、大天守台の南東隅をかすめていくという感じです。緑のコーンもあるので、慶長期のものとかぶっています。

天守台模式図(駿府城東御門内にて展示)
天正期大天守台南東隅付近

見学ゾーンの端まで来ました。手前の石垣が目立っています。東側に面した石垣で、野面積みです。ここから、北東隅、北西隅を示すコーンが見えます。古い方の天守台でもかなり大きかったのです(東西約33m、南北約37m)。家康が豊臣大名時代に築いたものなのでしょうか。

天正期大天守当面の石垣
丸い形の自然石(あるいは粗割り石を使った野面積みです

続いて、慶長期天守台の方に向かいます。小天守台の石垣が見えます。途中では、天正期の金箔瓦が出土したところや、本丸西側の石垣を回り込んでいきます。すると、巨大な天守台が姿を現します。

慶長期小天守台東面の石垣
天正期の金箔瓦出土地点
慶長期本丸西側の石垣
慶長期大天守台南面の石垣

巨大でもあるし、石の形も整えられています。南東側は、地震があって積み直したので、より新しい方式(切り込みハギ)になったそうです(東西約61m、南北68m)。

慶長期大天守台南西隅

北側に向かって歩きます。北西隅まで来ました。先ほどの南西隅より石の形が粗くなっています。こちらは家康時代のオリジナルとのことです。

北側に向かっています
慶長期大天守台北西隅

そして、見学ゾーンの北の端まで来ました。見えているのは、北側の石垣です。ちょっと上を見ていただくと、ポールが立っています。かつて、天守台はあの高さまであったそうです(地上12m、堀水際から19m)。

慶長期大天守台北面の石垣
かつての天守台の高さを示すポール

最後に興味部会ものをお見せします。本丸掘から出た石、とあります。天守台を崩して、堀を埋めるのに使われたのです。元は天守台にあったということです。何とか復元できないかと思ってしまいますが、とんでもないパズルになってしまうでしょう。当面は、現状の天守台の展示施設を作るということです。

石置き場にあるかつて天守台を構成した石たち

まだまだある見どころ

次は復元された坤櫓です。内側にも格子窓がたくさんあるのは、敵が曲輪に侵入しても、反撃できるようにするためと言われています。内部の展示はシンプルなのですが、屋根までの木組みの構造や、床下まで見学することができます。格子窓から外を見ると、ここも角地だとわかります。

復元された坤櫓(内側)
坤櫓(内部)
二階三階の一部の床板が外されていて、木組みを見学できます
一階の床の一部がガラス張りになっています

堀の外からも見学しましょう。重要なポジションを守る櫓だとわかります。外側にはばっちり石落としもあって、かっこいいです。

坤櫓(外側)

少し足を延ばして、西側の三の丸堀を歩きましょう。立派な櫓台があります。ただ、昔の絵図でもここに建物があったかわからないそうです。三の丸堀は残っているだけでも相当長そうです。近くには、城を警備した加番の屋敷跡の一つがあります。

三の丸堀にある櫓台
三の丸堀(南から北に向かって)
二加番屋敷跡

最後は、二の丸に北御門から入ってみましょう。入ったところに、土塁の上を歩ける遊歩道があるのです。内側は紅葉山庭園になっています。北東の角地を過ぎて進んでいきます。こうやって見ると、城の土塁をずいぶん高くしてあることがわかります。こちら側は標高が低いということなので、かなり盛ったのでしょう。さっき見た二の丸水路のところに出ました。駿府城、歩いただけ新たな発見がありそうです。

北御門跡
土塁の上の遊歩道
柵の向こうの紅葉山庭園
二の丸北東隅
堀や道路を見下ろしています
二の丸水路に至ります

最後は静岡県庁舎別館、21階富士山展望ロビーに行きます。現代の天守に登れるのです。まず、今日行った駿府城を確認しましょう。ここからでも天守台の巨大さがわかります。富士山の方はどうでしょうか。ガラス越しになりますが、よく見えました。

あの高いところに登ります
展望ロビーからの眺め(北側)
発掘調査現場
富士山

リンク、参考情報

駿府城公園、公式ウェブサイト
・「駿府城まるわかり(駿府城ガイドブック)」静岡市
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「静岡の城/加藤理文著」サンライズ出版
・「歴史群像129号 戦国の城 駿河駿府城/樋口隆晴著」ONE PUBLISHING
・「シンポジウム 今川館の姿にせまる 資料集」静岡市
・「最後のサムライ 山岡鐵舟」教育評論社
・「山岡鉄舟 決定版/小島英記」日本経済新聞出版社
・歴史秘話ヒストリア 「駿府城大発掘!家康VS.秀吉 知られざる攻防」2019年放送
Youtube「小和田哲男:今川「人質」時代、徳川家康の実像を物語る3つのエピソード」テンミニッツ・アカデミー – 1話10分で学ぶ大人の教養講座

「駿府城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

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