86.大野城 その2

これから、大野城土塁一周ツアーということで、大野城の二重土塁の内、内周の土塁を歩きます。そのほとんどがハイキングコースになっているからです。距離としては、6、7kmでしょうか。それに、ここからまず城跡にたどり着かなければなりません。あと、この辺が標高約60mで、四王寺山は410mなので、350mくらいの登りになります。支度もそれなりに、一日かけるつもりで行かれるのがいいと思います。

特徴、見どころ

Introduction

今回はスタート地点として、太宰府駅前に来ています。駅舎は天満宮の本殿に似ているそうですが、その本殿は現在改修中です。お参りをするのは仮殿になりますが、その仮殿がなかなかユニークです。これから、大野城土塁一周ツアーということで、大野城の二重土塁の内、内周の土塁を歩きます。そのほとんどがハイキングコースになっているからです。距離としては、6、7kmでしょうか。それに、ここからまず城跡にたどり着かなければなりません(2kmちょっとか、トータル往復では10km超になるでしょう)。あと、この辺が標高約60mで、四王寺山は410mなので、350mくらいの登りになります。支度もそれなりに、一日かけるつもりで行かれるのがいいと思います。

太宰府駅
太宰府天満宮仮殿

城周辺の地図

まず太宰府口城門跡へ

まず、四王寺林道などを通って、太宰府口城門跡に行きましょう。駅から少し歩くと、四王寺林道の入口です。林道といっても、ちゃんと舗装されています。昭和40年代にできた道で、車で山の上まで上がっていくことができます。カーブがたくさんあるのは、それだけ山の斜面が急ということなのでしょう。お城としては、自然の要害ということになります。

四王寺林道

そのまま林道を進めばよいのですが、途中で山道に入ります。この道は、林道ができる前に「太宰府町道」として使われていて、山の上にあった四王寺村の子どもたちも、山麓の小学校までこの道を通学していたそうです。ここも歴史のある道なのです。それに、太宰府口城門跡までまっすぐ通じているので、雰囲気が出ます。もしかしたら、元は登城道だったかもしれません。

旧太宰府町道

前方が開けてきたところが城門跡です。もちろん今は建物はありませんが、立派だっただろうと想像できます。太宰府口城門は、大野城の城門のなかでも最大規模のもので、
残っていた木材(648年以降伐採)から、最初の門は、日本書紀に記録された城の築造年(665年)に近い時期に建てられたと考えられます。そしてその後、2回建て直されました。ということは、最初から長い期間使われたわけです。脇には、石垣も残っています。門を囲む土塁に登ってみましょう。このルートも太宰府町道の一部だったようです。鳥居がありますが、昭和初期に、四王寺村の人たちが建てたそうです。門跡を上から眺めると、改めてその大きさがわかります。

太宰府口城門跡
門跡を上から見ています

土塁と石垣を渡り歩く

ここからは、どんどん土塁の上を歩いていきましょう。いきなり素晴らしい景色が広がります。スタート地点の太宰府駅もはるかに見えます。この近くには、尾花礎石群という倉庫跡もあります。炭化した米が多く見つかるので「焼米ヶ原」とも呼ばれています。焼米ということは、お米の倉庫があったことになります。この先にも景色が良い所があります。これもすばらしいです。

現地では大野城市発行の城跡マップを使わせていただきました
土塁の上からの景色
山上から見える太宰府駅
尾花礎石群
尾花礎石群近くの展望所からの眺め

この調子で進んでいくと、石仏(四王寺山三十三石仏の一つ)と、なにかの山の頂上の表示が並んでいます。実は四王寺山は、いくつかの山の集合体で、ここはそのうちの一つ「大原山(おおばるやま)」の頂上なのです。四天王像のうち、持国天像にちなんだ場所でもあります(ここにあったかは不明)。普通の山の頂上と違って、土塁で囲まれるだけあって特徴があります。

土塁上のハイキングコース
大原山山頂と石仏(十五番)

その後は、石仏はありますが、ひたすら道が続きます。迷子になっていないか心配です。そうするうちに案内があり、そちらに行けば石垣があるそうです。まず小石垣(こいしがき)があるはずです。ダムみたいなところを渡っている感じの場所があって、その下が小石垣です、下に降りてみましょう。案内によれば、かつてはもっと大きな石垣だったそうです。しかし小さくても、しっかり谷間の道を支えています。

十六番石仏
小石垣

次は、北石垣です。土塁というより、本当に山道です。山の地形を生かしているのでしょう。右側に「北石垣城門跡」の表示があります(立ち入りはできませんでした)。北石垣の案内がありました。その方向に少し下っていきます。ロープが張ってある向こうに見えるのが石垣だと思いますが、草に覆われてしまっています。山の中の史跡を維持するのも大変なのでしょう。

山道のような北側の土塁
北石垣と思われる場所

雄大!百間石垣!

いよいよ、百間石垣です。聞くだけで、わくわくします。道は随分な下りになって、一旦土塁から降りている感じです。舗装道路に出て、渡ったところが百間石垣です。

道が舗装道路に向けて下っていきます
百間石垣

百間石垣は、今も道路に沿っている四王子川が流れる谷をカバーするために築かれました。谷側の低いところから見学していきましょう。内部まで石を詰めた、総石垣の構造になっています。高さ最大8メートルの石垣が、長さ約180メートルにわたっているとされています。大きな岩も組み込まれている感じです。岩盤の上に築かれたそうで、石や岩の隙間から水が流れ、水門の役割も果たしていたと考えられます。

四王寺川が流れる谷
谷部分の百間石垣
大きな岩が組み込まれ、下から排水できるようになっています

坂の上にある石垣へは、見学路があって、近くまで登っていくことができます。しかし、ものすごい急坂です。滑りやすいですので、気を付けましょう。上まで来てみると、こんなすごい石垣が、1300年以上前に作られて、ずっと残っているなんて、信じられないと感じます。もう山と一体化しています。

見学路を上がっていきます
間近に見る百間石垣

見学路から、ハイキングコースに戻りましょう。さっきの道路がはるか下に見えます。石垣と山の地形で、すごい城壁を築いていたのです。まさに、守護神の要でした。

急坂の上にある百間石垣
舗装道路ははるか下です

果たして一周できるのか?

百間石垣で、まだ一周の半分くらいです。北の方は、結構アップダウンがあります。時間に余裕をもった計画が大事です。北側から西側にかけての見どころとしては、まずはクロガネ岩城門跡でしょう。9つ見つかった城門の一つです。この城門跡は、江戸時代から知られていました。

クロガネ岩城門跡

それから、屯水(とんすい)です。水門の一つで、元は石垣に囲まれていたと考えられています。

屯水水門の案内、ロープが張られてすぐ近くには行けません
水門の石組の一部でしょうか

そして、毘沙門堂です。ここは、四王寺山の最高地点(大城山・411m)の近くで、毘沙門は、四天王のうち、多聞天の別名ですので、四王寺がこの辺にあったのではないかと言われています。

毘沙門堂

南の方に進んで、広目天礎石群を過ぎると、水城口城門跡に至ります。行先案内がたくさんありますが、「センター」の方に行きましょう。

広目天礎石群
水城口城門跡

まだすごい見どころが残っています。大石垣です。ただ、外周の土塁のところにあるので、内周の土塁を通るハイキングコースから下っていきます。大石垣は、百間石垣に次ぐ規模があり、高さは約6メートル、かつては長さが100メートル以上あったようです。こちらも谷をまたいで築かれ、自然配水する仕組みとなっています。2003年(平成15年)の集中豪雨による土砂災害で崩れてしまい、3年かけて積み直されたそうです。

大石垣

最後の見どころとして、増長天礎石群を選びました。築城から半世紀くらい経ってから、大きな倉庫が4棟建てられた場所です。柱が立っていた石が並んでいて、大きな建物だったと想像できます。

増長天礎石群
倉庫の想像図、現地説明パネルより

いよいよラストスパートです。最初の城門の近くの土塁に向かっていきます。これで大野城一周達成です!達成した後の景色はひとしおです!

最初に通った土塁に向かいます
土塁からの眺め

関連史跡

帰りは、林道をずっと下って、岩屋城跡に立ち寄ってみました。戦国時代の城跡です。ここからの眺めもすばらしいです。南側の視界が開けています。大宰府政庁跡や水城跡が見えます。左側(南東)の方に目を転じると、基肄城跡がある山も見えます。

岩屋城跡
岩屋城跡からの眺め
大宰府政庁跡
水城跡
基肄城跡

リンク、参考情報

特別史跡 大野城跡、大野城市ウェブサイト
大野城跡(国指定特別史跡)、宇美町観光情報
・「よみがえる古代山城/向井一雄著」吉川弘文館
・「大宰府四王院」九州国立博物館
・かつてあった道「四王寺山の太宰府町道」四王寺山勉強会

「大野城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

86.大野城 その1

大宰府政庁は、九州諸国の支配や中国・朝鮮との外交を取り扱う「遠の朝廷(とおのみかど)」でした。大野城は、この大宰府の守護神だったのです。政庁の南門跡、正殿跡などには、柱が立っていた石(礎石)が並んでいます。そして、正殿跡に立つ石碑の背後には山が控えています。山は四王子山といいますが、その上に大野城があったのです。

立地と歴史

Introduction

今回は、まず大宰府政庁跡に来ています。大宰府政庁は、九州諸国の支配や中国・朝鮮との外交を取り扱う「遠の朝廷(とおのみかど)」でした。大野城は、この大宰府の守護神だったのです。政庁の南門跡、正殿跡などには、柱が立っていた石(礎石)が並んでいます。そして、正殿跡に立つ石碑の背後には山が控えています。山は四王子山といいますが、その上に大野城があったのです。この記事では、大宰府や大野城の成立と、歴史的背景についてご説明します。それらは、古代日本が迎えた危機と大きく関係しているのです。

大宰府政庁南門跡
大宰府政庁正殿跡と四王寺山

白村江敗戦後の防衛体制

大宰府と大野城が作られる少し前の、7世紀前半、朝鮮半島には3つの国が並び立っていました(高句麗・新羅・百済)。中国大陸では、618年に統一王朝の唐が成立し、朝鮮半島に勢力を伸ばそうとしていました。唐はまず、新羅と同盟して、百済を滅ぼします(660年)。百済の遺民は国の復興を目指し、友好関係にあった倭国(以下日本と表記)に救援を要請しました。皇太子で実力者だった中大兄皇子は援軍を送る決意をし、その結果起こったのが白村江の戦いだったのです(663年)。しかし日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗しました。その結果を受けて、皇子が恐れたのが、唐・新羅による日本侵攻でした。皇子は、日本の防衛体制を整備していくのです。

白村江の戦いの図(licensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

朝廷の正史「日本書紀」によれば、敗戦の翌年(664年)、に対馬・壱岐・筑紫などに防人と烽火を配備し、警備体制を作りました。また九州北部に、防衛線として水城を築きました(下記補足1)。そして665年には、百済からの亡命官僚を派遣して、水城の背後に、大野城、基肄城を築城したのです(下記補足2)。

(補足1)(天智天皇3年)対馬嶋(つしま)・壱岐嶋(いきのしま)・筑紫(つくし)国等に防人(さきもり)と烽(すすみ)とを置く。また筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城(みずき)という。(日本書紀)

(補足2)「(天智天皇4年8月) 達率答㶱春初(だちそちとうほんしゅんそ)を遣わして城を長門(ながと)国に築かしむ。達率憶礼福留(おくらいふくる)・達率四比福夫(しひふくぶ)を筑紫国に遣わして大野(おおの)及び椽(き)二城を築かしむ。(日本書紀)

水城跡
大野城跡
基肄城跡

水城・大野城・基肄城は、直接には大宰府を守るために築かれました。それまでも大陸との外交や軍事を担う拠点はあったと考えられますが「大宰府」として整備されたのは、この頃のようです。その任務を行うだけなら、もっと海岸に近い方がよかったのを、きっと防衛のことも考えて、今遺跡が残っている場所にしたのでしょう。その後も整備は進み、朝鮮への最前線の対馬(金田城)からお膝元の大和(高安城)まで、城を築きました(667年)(下記補足3)。

(補足3)(天智天皇6年11月) 倭(やまと)国高安城(たかやすのき)・讃吉(さぬき)国山田郡の屋嶋城(やしまのき)、対馬国の金田城(かなたのき)を築く。(日本書紀)

主要な古代山城の位置

金田城跡

中大兄皇子は、667年には、奈良の飛鳥から内陸の大津に都を移します。そして668年に即位し、天智天皇となりますが、670年に最初の戸籍「庚午年籍」を作成したのは、徴兵を行うための準備だったという意見があります。

大津宮跡 (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

ところで、天智天皇が築かせたのは、どんなお城だったのでしょうか。その頃のことなので、天守や高石垣はなかったとしても、山の上に曲輪をいくつも築いて、館や櫓をたくさん建てて、戦いに備えたのでしょうか。しかしそれは、中世の武士が築いたお城のイメージで、今回出てくるお城は「古代山城」または「朝鮮式山城」といわれるユニークなものだったのです。

古代山城とは?

古代山城または朝鮮式山城は、朝鮮で確立し、百済からの亡命者の指導のもとに、日本に導入された築城方式によって築かれました。先ほどご説明した通り、朝鮮半島では内乱や外国からの侵攻が続いていました。この築城方式は、土塁や石垣によって山を囲ってしまうというやり方で、当時の朝鮮の人たちは、敵軍が攻めてくると、その山城に逃げ込み、敵の補給を切れるのを待って、反撃に転じるという戦法を取っていました。一旦逃げ込む先として準備していたのです。その城の中には、倉庫などを建てて、備蓄もしていたのでしょう。この方式が、唐・新羅の連合軍による侵攻に備える日本にも、導入されたのです。

山を囲む土塁は、地形を生かしながら「版築(はんちく)」という方法で築かれました。板で囲った中に土を入れ、踏み固め、それを何層にも重ねていくのです。岡山県の鬼ノ城跡では、復元された版築土塁を見ることができます。土だけでこんな城壁ができるのです。その間には、城門や、角楼といって敵を攻撃するための施設も作られました。

版築を築くイメージ、大野城市ウェブサイトより引用
鬼ノ城の復元された版築土塁

石垣の方ですが。通常の城壁として使われる他、谷部分に作られた水門や、特別に防御や補強が必要な部分にも使われたようです。こんな大昔に石垣を使った城があったのです。これも、朝鮮半島からの技術導入だったのでしょう。しかし残念ながら、日本国内では技術承継されなかったと考えられます。それで石垣を本格的に使った最初の城は、信長の時代からとか言われるのでしょう(他に沖縄のグスクの事例あり)。

基肄城の水門石垣

古代山城は籠城に特化していたので、内部はシンプルで、兵舎・倉庫・貯水池などが作られました。

鞠智城の復元兵舎(licensed by 小池隆 via Wikimedia Commons)

ところで先ほど「日本書紀」に記録されている古代山城をご紹介しましたが、実は記録されていなくても、同じ目的で築かれたと思われる城跡も発見されています。版築のところで出てきた「鬼ノ城」はそのうちの一つです。そういった城跡が16ヶ所発見されていて「神籠石系山城」という名称で分類されています。最初、城跡の石列が発見されたときに、城の記録もないので、呪術や信仰のための遺跡と解釈されたときの名称を引きずっているのです。便宜上、記録があるものは「朝鮮式山城」ないものは「神籠石系山城」と分類する場合もあります。ただ、実態が同じであれば、分類することに意味がないという意見もあります。

鬼ノ城跡

大野城築城と外交戦

大野城は、古代山城の中でも最大級のもので、南北約3km、東西約1.5kmの範囲に、総延長約8kmの土塁を巡らせていました(外周は約7km)。地形図を見ると、山の峰をうまく使っていることがわかります。特に南北の部分は、土塁が二重になっています。さすが守護神だけあって、厳重です。規模が大きいので城門も多く、現在のところ、9ヶ所が確認されています。そのうち、大宰府につながる太宰府口城門は、重要な門の一つだったと考えられます。要の部分では石垣も築かれていて、大石垣など6ヶ所確認されていますが、特に百間石垣は、150メートル以上の長さで、北側の内周の土塁上にあります。

城周辺の起伏地図

太宰府口城門跡
百間石垣

内部では、8地区、約70棟の建物跡が確認されていて、大部分が米を備蓄した倉庫と考えられています(櫓や役所のような建物もあった模様)。籠城戦の備えだけでなく、災害や飢饉に備えるという用途もあったのではないでしょうか。

増長天礎石群

大野城に築城に関わった亡命百済人として、憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)の2人が日本書紀に記録されています。百済の都・扶余の扶蘇山城(プソサンソン)になぞらえたとも言われています。都の姿を再現させたかったのでしょうか。

百済の都・扶余と扶蘇山城の図、大野城市ウェブサイトより引用

その後は、史実の通り、唐・新羅は攻めてきませんでした。単純に助かったと思ってしまいますが、その裏では熾烈な外交戦があったのです。実は白村江の翌年から2年続けて、唐の外交団が来日しているのです。目的は記録されていませんが、何らかの要求があったのかもしれません。日本側は外交団に応対しながら、防衛体制を整備したのです。和戦両様です。唐は、百済の次は、高句麗を滅ぼそうとしていました。その最中の666年から、今度は高句麗が3回も日本にやってきます。これは明らかに救援要請だったのでしょう。667年には唐も、わずか4日間の滞在で、日本に使いを寄越しています。結局日本は、高句麗には加担せず、更に防衛体制を固めていきます。唐・新羅は、668年に高句麗を滅ぼしました。

そうなると、唐の次の狙いはどこでしょうか?日本と新羅は、その辺りから接近し始めていました。また、その頃、唐が日本に遠征するとの噂が流れていて(下記補足4)、日本が669年に遣唐使を派遣したり、唐からは671年に、捕虜を送還する目的で、2千人が来日したりしました。虚々実々の駆け引きに思えてしまいます。最初の戸籍が作られたのがその頃です。しかし結局、唐と新羅が戦いになり、675年に唐が撤収することで、新羅が朝鮮半島を統一するのです。そうなると、新羅と仲良くしていれば、日本の地位は安定します。結果的に、古代山城を実際に使わなくて済んだのです。ただ、来るか来ないか待っていたわけではなかったのです。やがて、701年に高安城が廃城になるなど(下記補足5)、古代山城の多くは廃止されたと考えられます。

(補足4)又消息を通じて云う、国家(唐)船艘を修理し、外倭国を征伐に託し、其の実新羅を打たんと欲す 百姓之を聞き、驚愕不安す(「三国史記」新羅本紀)

(補足5)高安城を廃(と)め、その舎屋、雑の儲物を大和国と河内国の二国に移し貯える。(続日本紀)

その後

ところが、大野城を含む大宰府周辺の3城は修繕され、存続したのです。籠城の準備のためでなく、常設の備蓄倉庫として使われたと考えられます。大野城の場合、倉庫が増築されていて、籠城用にしては多すぎるからです。

大野城の倉庫想像図、現地説明パネルより

また、新たに別の役割も与えられました。774年、城内に四王寺が建てられ、四天王像が置かれたのです。その頃、日本と新羅との外交関係が悪化していて、新羅が日本を呪詛しているという情報があって、それに対抗するためだったのです(下記補足6)。当時は、神仏や祈りの力も、物事を左右すると信じられていたのです。やり方は変わっても、守護神(仏)だったのです。この寺では、疫病の退散も祈願されました。仏教は。国家鎮護のための手段の一つだったのです。その頃は、敵国も疫病も、一緒の扱いでした。それ以来、お城の山が「大野山」「大城山」から「四王寺山」と呼ばれるようになりました。

(補足6)太政官符す 応に四天王寺埝像四躯を造り奉るべきこと〈各高さ六尺〉
(中略)聞くならく、新羅の兇醜、恩義を顧みず、早く毒心を懐き常に咒咀を為し、仏神誣し難く、慮或いは報応す。宜しく大宰府をして新羅に直する高顕の浄地に件の像を造り奉り、その災いを攘却せしむべし。よりて浄行僧四口を請い、おのおの像の前に当たり、一事以上最勝王経四天王護国品に依りて、日は経王を読み、夜は神咒を誦せ。但し春秋二時一七日ごとに、いよいよ益々精進し法に依りて修行せよ。よりて監已上一人その事を専当せよ。
(中略)供養の布施は並びに庫物および正税を用いよ。自今以後、永く恒例と為せ。(「類聚三代格」宝亀5年(774年)3月3日官符)

かつて四王寺があっと思われる付近にある毘沙門堂

大宰府と大野城の施設は、平安時代には衰退してしまったようですが、四王寺は、中世まで存続したと考えられています。その頃には、周辺で経塚が築かれ、そこにお経が収められていました。国の施設がなくなっても続いたということは、人々の祈りの場になったということです。:戦国時代には、中腹に岩屋城が築かれて、山の一部がお城として使われましたが、江戸時代(寛政年間)には「四王寺山三十三石仏」がお参りの場として作られました。昭和時代まではお参りが盛んだったようで、今でも石仏たちが残っています。城と山の歴史が、ずっと引き継がれているのです。

経塚に納められた経瓦の事例、東京国立博物館にて展示
岩屋城跡
四王寺山三十三石仏(十六番)

「大野城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

92.熊本城 その3

今回は、ここ熊本城発祥の地から出発します。コースは時代順とはいかないので、西南戦争の関連スポットに続きます。次は、清正の跡取り・加藤忠広やその後の細川氏が整備した二の丸を歩きます。そして、前々回の記事では通らなかった「特別公開北ルート」から天守に行ってみます。天守は、清正ゆかりの建物です。最後は、城の北側を回って「古城地区」よりも古いと言われる「千葉城地区」まで回ってみます。

特徴、見どころ(熊本城歴史めぐり)

Introduction

熊本市内の洗馬橋に来ています。天守がここからでも見えます。ここは熊本城の南の端なのです。熊本城はこんなに広かったのです。橋の下を流れる坪井川に沿って石垣も見えます。この辺りは城が築かれた台地の端で「古城地区」と呼ばれています。名前の通り、熊本城が最初に築かれた場所です。そのころは字が違う「隈本城」でした。今回は、ここ熊本城発祥の地から出発します。コースは時代順とはいかないので、西南戦争の関連スポットに続きます。次は、清正の跡取り・加藤忠広やその後の細川氏が整備した二の丸を歩きます。そして、前々回の記事では通らなかった「特別公開北ルート」から天守に行ってみます。天守は、清正ゆかりの建物です。最後は、城の北側を回って「古城地区」よりも古いと言われる「千葉城地区」まで回ってみます。

洗馬橋
洗馬橋から見える天守

城発祥の地→西南戦争の痕跡

洗馬橋から少し移動して「古城」の入口だったところにやってきました。今は高校の入口になっています。高校生がうらやましいです。築城当時は「おもての門」と呼ばれていたようです。残っている石垣に沿って歩いていきましょう。この石垣は、清正がこの「古城」に入ったばかりの時に築かれました。、熊本城では一番古い石垣だそうです。この石垣がある曲輪は「小座敷之丸」と呼ばれた場所と考えられています。周りは「古城堀端公園」になっていて、かつてはお堀がありました。進んで行くと、一段上がった所がありますが、そこが当初の「本丸」でした。「てんしゅ」もあったそうです。きっと清正が最初にいたところなのでしょう。

「おもての門」跡
熊本城最古の石垣
隈本城時代の本丸


公園を出て、城の外側と思われる道を歩くと、登り坂のふもとに出ます。坂は「法華坂」で、ふもとが「札の辻」と呼ばれていて、豊前・豊後街道の起点になっていました。城にとっても重要なルートで、二の丸に通じていました。西南戦争でも激戦地になっています。この街道は後でまた出てきますので、もう少し先まで行きます。西南戦争での最大の激戦地だった「段山(だにやま)」の辺りです。残念ながら、段山は開発によって削られ、今は「激戦地跡の碑」が残るのみです。しかし、ここで何があったのか知るのも大事なことなのだと思います。

法華坂
激戦地跡の碑


もう一か所、西南戦争関係のところに行ってみましょう。西郷軍に対して、熊本鎮台が激しい砲撃戦を行った場所が、藤崎台です。今は球場になっています。その場所に、古くから藤崎八幡宮がありましたが、西南戦争中に焼けてしまったのです。城の区分では「三の丸地区」に当たります。駐車場に入っていくと、唯一残っている見どころがあります。藤崎台のクスノキ群です。素晴らしい景色です。古いもので、推定樹齢は約1000年だそうです。ということは、西南戦争どころか、城の歴史も全部見ていたのです。無事に残ってくれて良かったです。

藤崎台
藤崎台のクスノキ群

清正のフォロワーたちが整備した二の丸

球場の入口辺りまで登ってくると、高いところまで来た感じがします。ここから二の丸に向かいましょう。橋を渡って行きますが、その下は、「新坂(しんざか)」といって、明治時代に開かれた道だそうです。橋を渡ると、立派な門跡があります。二の丸の入口「住江門(すみのえもん)」跡です。そして、右側(南側)から道が合流しています。:これが豊前・豊後街道です。さっき出発点を見た街道です。その街道がこの門を通っていたのです。つまり、誰でも通れるということになっていたのです。せっかく、こんなすごい枡形になっているのにと思ってしまいます。仮想敵の島津の殿様も参勤交代のとき、ここを通ったということです。

藤崎台球場
二の丸へ渡る橋(宮内橋)
橋の下の新坂
住江門の手前、右側から豊前・豊後街道が合流しています
住江門の枡形

門を入った所が「二の丸広場」です。天守と工事中の宇土櫓(工事の素屋根に櫓の絵が描かれている)が見えてきます。城の中心部とちがって、広々としています。かつては重臣の屋敷地で、清正の後の加藤忠広や、更に後の細川氏の時代に整備されました。か大軍が集まったりするような場所にも感じます。西側から敵の大軍に攻められた場合を考えたのでしょう。

二の丸広場
二の丸から見える天守と工事中の宇土櫓

城の中心部の方に進んで行きましょう。二の丸の先には、すごい堀にがあります。その向こうは本丸の西出丸です。その隅のところに復元された戌亥櫓があって、熊本地震のときには、こちらも倒壊寸前だったのです。こちらも一本石垣のようになっていました。現在は、建物を解体し、崩れた石垣を回収した段階です。

西出丸手前の堀
熊本地震後(2017年)の戌亥櫓

清正ゆかりの天守・宇土櫓

現在ビジターが、お城の中心部を見学できる「熊本城特別公開」のうち、今回は北ルートを進んで行きます(西大手門〜天守間は土日祝のみ、2025年5月時点)。二の丸から入っていき、堀の間の土橋を通って、西出丸(本丸地区)に行きます。途中では、右側(南側)の石垣がかなり崩れているが見えます。これは、奉行丸の石垣で、塀も倒壊しました。向こうにある未申櫓は前々回の記事に出てきました。

堀の間の土橋
奉行丸の石垣
未申櫓


西出丸には、城の正門の西大手門があって、これも復元されていましたが、近くの元太鼓櫓や南大手門(復元)とともに被災し、復元を待っています。せめて枡形を歩くことでその姿を想像しましょう。その先に北ルートの入口がありますが、工事現場の雰囲気があります。ブリッジになっているのは、南ルートと一緒です。ブリッジの下にも空堀があって、関門になっています。同じく下にある頬当御門を越えると「平左衛門丸」です。

現状の西大手門跡
被災前の西大手門、現地説明パネルより
北ルートの入口
北ルートのブリッジ

ここは宇土櫓があるところで、現在行われている復旧工事の素屋根で大きさがわかります。月に1回、内部の特別公開を行っていますが、今日はそうでないので残念です。宇土櫓は、現存している3重5階の櫓で、高さが約19メートルあって、熊本城・第3の天守と呼ばれています。現存天守と比べても、これより高いものは4つ(姫路・松本・松江・松山)しかありません。かつては宇土城天守を移したものと言われましたが、最近では、古城の隈本城天守が、宇土櫓になったという説があります(御裏五階櫓になったという説もあり)。大天守と比較すると、建物や瓦の様式は古いのに、石垣は新しいというのがその根拠です。その石垣は例の「武者返し」で、そのおかげで熊本地震を耐えたとも言われます。ただ、続櫓が倒壊したり、本体に破損、石垣にも膨らみが生じたため、解体修理となりました。その過程で、1927年(昭和2年)の解体修理のときに設置された鉄骨の筋交いも、効果があったことがわかりました。宇土櫓は、本体も改装されていて(2重2階?→3重5階)結構謎があるのです。元通りになる頃には、謎が解けているかもしれません。

宇土櫓復旧工事の素屋根
熊本地震後(2017年)の宇土櫓

いよいよ、また天守に行きます。西側から見ると、天守台石垣が目立ちます。大天守の石垣は、本丸の中でも一番古い方で、あの二様の石垣の古い方と同じ時期に築かれたそうです。小天守の石垣は、それよりずっと新しい様式なので、小天守は、次の忠広の時代に付け加えられたと考えられます。それが、元の宇土城天守ではないかという説があります。宇土城は清正が隠居予定の城だったので、その遺徳をしのんだというのです。歴史ロマンを掻き立てられます。

西側から見た大天守・小天守
大天守の武者返しの石垣

熊本城より古い?千葉城へ

最後のセクションを始めるのに、再び二の丸にやってきました。街道が中を通っていた場所です。これから城の北側を歩くので、二の丸の北側から外に出ます。そこは二の丸御門跡で、街道はここも通っていました。ここも立派な門だったと想像できますが、地震の被害もかなりのものです。門跡を出たら右(東)に曲がります。ここからがまた見どころで、すごい石垣が続いています。百間石垣です。あの飯田丸を守備していた飯田覚兵衛が築いたと言われています。ここも被災していて、復旧はいつになるのでしょう。

二の丸御門跡
門の内側
門を出たら右に曲がります
百間石垣

一階建ての櫓が見えてきました。監物櫓で、重要文化財の建物のうち、2番目に復旧されました(2023年)。いつ建てられたかは不明ですが、その名前はこの辺りに屋敷があった細川氏の家老・長岡監物に由来しています。道路は橋を渡ります。現在は橋の下は県道ですが、かつては「新堀」という空堀だったのです。北の守りを固めるため、細川時代に掘られました。先ほどからの街道分だけ、土橋として残されていたそうです。街道とはここでお別れで、私たちはUターンして、またお城の外側を歩きます。

監物櫓
かつて新堀だった県道
かつては新堀を土橋で渡っていました
城の外側を進むのUターンします


また天守が見えてきます。この辺りは棒庵坂で、この上に加藤神社があります。すごい石垣が続きますが、やっぱりここも崩れています。その上には、現存している門は櫓群がありますが(不開門・五間櫓・北十八間櫓・東十八間櫓)、全て被災し、復旧する日を待っています。

棒庵坂付近
北十八間櫓復旧工事現場


ついに、本日の最終目的地、千葉城跡に到着しました。上の方は施設跡になっていては入れませんが、丘のような場所です。大元は小さな城があって、熊本城にとっては、出丸のような場所だったのでしょう。西南戦争のときも、西郷軍が橋頭保にしようと攻めたてましたが、鎮台兵が守り抜きました。こんな何気ない場所にも歴史が積み重なっているのです。

千葉城跡
小さな丘のような場所です
川にも囲まれ、出丸のようになっています

関連史跡

細川時代の史跡を余りご紹介できなかったので、関連史跡として、水前寺成趣園(水前寺公園)に来てみました。

水前寺成趣園

富士の築山が有名です。実は、この築山も熊本城の歴史と関係あるのです。西南戦争のときに政府軍の砲台として使われたそうです。更に熊本地震のときにも、頂上が陥没しました。まるで城とつながっているようです。

富士の築山

古今伝授の間から見る景色もすばらしいです。水が豊かで、これも阿蘇の伏流水です。、熊本に入った細川初代・忠利が湧水の地にお茶屋を作ったのが始まりだそうです。でも、熊本地震のとき、一時この池もかなり干上がってしまいました。ところが、なぜか徐々に元に戻ったそうです。自然とは計り知れないものです。これにあやかって、熊本城も復旧復興が進むよう願います。

古今伝授の間からの眺め

リンク、参考情報

熊本城 公式ウェブサイト
加藤清正の実像【市政だより連載】、熊本市
熊本城調査研究センター定期講座「熊本城学」配布資料
「熊本城~復興に向けて~」熊本城調査研究センターパンフレット
「熊本城解体新書」熊本城調査研究センターパンフレット
・「歴史群像 名城シリーズ2 熊本城」学研
・「シリーズ・織豊大名の研究2 加藤清正/山田貴司編著」戒光祥出版
・「歴史群像 111、138、179、180号」学研他
・「熊本城復旧基本計画 令和5年(2023年)改訂版」熊本市
・「熊本城みどり保存管理計画」
・NHK BS1スペシャル「よみがえれ 熊本城 サムライの“英知”を未来へ」2017年放送
・NHK「ブラタモリ 熊本城」2016年放送

「熊本城その1」に戻ります。
「熊本城その2」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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