160.飯盛城 現地編

大阪府の四条畷駅前に来ています。ここから飯盛城跡に向けて出発します。城の防御の仕組みや景色も楽しみますが、飯盛城は「石垣の城」として有名になってきましたので、石垣探しもやってみたいと思います。

ここに行くには

大阪府の四条畷駅前に来ています。ここから飯盛城跡に向けて出発します。

四条畷駅前

ここで大東市発行の河内飯盛山ハイキングマップを拝借します。現在城跡を見学するには、飯盛山ハイキングコースを通って行きます。今回は、四条畷駅を出発する「飯盛山展望コース」と呼ばれるルートで登って、野崎駅に向かう「七曲りコース」で下りますが、野崎駅手前の大東市立歴史民俗資料館をゴールにします。

河内飯盛山ハイキングマップ、大東市発行

とりあえず登り口の四条畷神社まで行きます。駅からの道が参道になっています。四条畷神社は、南北朝時代の四条畷の戦いで敗れ自害した楠木正行を祀っている神社です。

四条畷神社の参道
神社と背後の飯盛山

神社に着きました。登る前に、これも大東市発行の城跡案内図を見てみます。城の防御の仕組みや景色も楽しみますが、飯盛城は「石垣の城」として有名になってきましたので、ハイキングコースから見られる範囲になりますが、石垣探しもやってみたいと思います。

四条畷神社
飯盛城跡案内図、大東市発行

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

城周辺の航空写真

いりなり登山ですごい景色

神社の裏手の方から登っていきます。飯盛山は標高が314メートルあるので、麓からは300メートル近くの登りになります。急な坂です。自然の障壁を自ら体感です。

飯盛山登山道

景色が良くなってきました。休憩所まであと100メートルとあります。まだ登りは続きますが、なんとか休憩所に着きました。ここは、北の方にある曲輪で、数字の番号で「Ⅵ郭」というそうです。城の案内図だと端っこに着いたという感じです。

中腹からの眺め
休憩所への案内
Ⅵ郭(史跡碑があるので、別名「史跡碑郭」)

まずは景色を楽しみましょう。いきなりすごい景色です。芥川山城からも見えた大阪のビル群が見えます。(残念ながら芥川山城跡(三好山)の位置はわかりませんでした)

Ⅵ郭からの眺め(大阪方面)

少し北側に移動すると、京都方面も見えます。ズーム画像ですが、京都タワーらしきものも見えました。

京都タワーか

山城で石垣探し

次に現れるのが、堀切です。敵が攻めてくるであろう北側と守りの南側では全然高さがちがいます。芥川山城にあった大堀切と一緒です。

堀切

続いて最初の石垣です。次の曲輪に登っていく途中にあるのです。見つかった石垣にも番号が付けられていて、こちらは「石垣18」とのことです。

石垣18

次の曲輪はⅤ郭「御体塚郭」です。ゴツゴツした岩があって、名前も意味深です。もともと宗教施設として作られたと考えられていて、名前の由来は、亡くなった三好長慶を仮埋葬したことだそうです。

Ⅴ郭「御体塚郭」

次の石垣はここから下ったところにあります。「石垣14」とあります。現在は目立たないところにありますが、往時の登城道は、今回来たのと逆の東側にあったと考えられます。この石垣はその登城道に沿っていたらしいのです。少し移動すると、かつては石垣14から続いていたと思われる「石垣15」が見えます。

石垣14
石垣15(中央奥)

石垣探しの続きは、曲輪の側面のハイキングコースをずっとたどって、もっともよく残っていると言われる石垣に行ってみます(「石垣1と69」)。途中の分岐点を左に行きます。山腹を通るので、見上げると他の石垣をいくつか見つけることができます。目的の石垣が見えてきました。「石垣1」で、長さ約24メートル、高さは最大で約2.6メートルあります。一部は崩落防止対策がされています。なんとか維持して、できたら元の姿を見てみたいものです。この下にもう一段あって、それが、長さ約44メートル残っている「石垣69」です。ただ、それはハイキングコースの下にあるのです。位置関係は大東市立歴史民俗資料館で展示されている写真で確認できます。

分岐点
山腹を進むハイキングコース
石垣1
石垣1(ズーム画像)
石垣69写真、大東市立歴史民俗資料館にて展示
石垣1(上)69(下)写真、大東市立歴史民俗資料館にて展示

先ほどの分岐点に戻って、もう一つ石垣を見てみます。Ⅲ郭という曲輪の西側にある石垣です。(「石垣6・7」)こちらは山麓などから見える位置に築いて、城主の権威を示そうとしたと考えられます。ただ、この石垣も保護が必要な状態になっていて、近くに立入ることはできず、遠巻きに眺めるしかありません。石垣たちには是非ともがんばってほしいです。

石垣6・7

山頂に到着、まだ石垣探し

いよいよⅡ郭(本郭)に行きます。「展望台曲輪」とも呼ばれるそうです。曲輪への階段を昇っていくのですが、その前に曲輪脇にある石垣をチェックします(「石垣3・4」)。下に見える道はさき程歩いたルートなので、下から見上げた石垣だったかもしれません。この一段下にも石垣がありました。(「石垣54」)石垣が段々に積み上げられていたことがわかります。

Ⅱ郭への階段、石垣は左脇にあります
石垣3・4
石垣54

Ⅱ郭に登っていくと、展望台があります。ここも素晴らしい景色です。「大阪眺望之図」という案内板を見ると、明石海峡大橋や大阪城が見えるとあります。さっそく探してみると、明石海峡大橋が見えます。三好長慶の時代はあの場所も領国の範囲内でした。大阪城も見つかりましたが、意外と小さく感じます。周りに高層ビル群があるからでしょう。

展望台があるⅡ郭、その向こうがⅠ郭
展望台からの眺め
「大阪眺望之図」
明石海峡大橋(ズーム画像)
大阪城(ズーム画像)

そして、最高地点のⅠ郭(高櫓郭)です。最初の頃通った、四条畷神社に祀られている楠木正行の銅像があります。かつては名前の通り、櫓が立っていたのかもしれません。

Ⅰ郭にある楠木正行銅像

城の範囲を大きく2つに分けると、このⅠ郭から北が防御空間で、それより南の曲輪が居住空間になっていました。つまりこれから行くところが境目ということになります。まず、細い通路を下っていくと、土橋になっています。両脇の堀切で細くしているのです。芥川山城にもありました。城を守る定番アイテムです。

土橋

更に下ると、ちょっと開けたところに出ます。実は、ここも堀切だったのです。かつてはここも、すごく深かったのでしょう。

堀切

ここからもう一か所、石垣を見に行ってみます。下の方にある「石垣94」です。道路の下にあるのですが、道路側から見学することができます。この辺りにも登城道が通っていたと考えられています。

石垣94

こうやって見てくると、石垣は天守や櫓を支えるものという、従来ありそうなイメージとは違います。技術的な違いもあるのでしょうが、ここでは曲輪そのものを支えたり、通路の壁として見せている感じがします。三好長慶の石垣の城、とても個性的です。

長慶がいた千畳敷

それでは、居住空間だったⅧ郭(千畳敷郭)に進みましょう。すごそうな建物がありますが、曲輪の一部にNHKのFM送信所が建てられているのです。建物を越えていきます。やっと曲輪らしいところに出ました。しかも今までの曲輪より広い感じです。この曲輪は盛り土をして広げられたのです。建物の礎石や、茶道具など生活用具も発見されています。きっとこの曲輪のどこかに長慶の御殿があったのでしょう。

NHK・FM送信所
Ⅷ郭(千畳敷郭)

更に南に進みます。行先が2つあります。右に行くとⅨ郭(南丸)、左に行くと出入口の虎口です。まず、南丸の方に行ってみます。ここは、城の南側の守りを固める曲輪で、虎口を攻める敵を側面攻撃することもできました。行き止まりになってしまいました。最南端にある曲輪なので仕方ないです。

左に行くと虎口、右に行くとⅨ郭(南丸)
Ⅸ郭(南丸)

さっきのところに戻って、虎口から出ましょう。門は上の方にあったと考えられています。ここにも石垣があります。虎口と石垣がセットになっているのです。一部しか残っていませんが、大きな石を使っていて、鏡石の役割があったのではないかと言われています。さすが戦国最初の天下人の城です。信長の安土城の門にも大石が使われていました。飯盛城は、後の天下人に引き継がれた城でもあったのです。

虎口と石垣30・31
安土城黒金門跡

帰りは、予定通り七曲りコースで下ります。カーブがたくさんあって、七曲りどころではないのですが、その分、傾斜が抑えられているのでしょう。麓の街が見えてきました。城の時代には城下町はありませんでしたが、長慶はキリスト教の布教を認めたので、周辺には教会が建てられました。(三箇・岡山など)そして宣教師は本国に長慶が日本の統治者であると伝えたのです。

七曲りコース

ゴールの大東市立歴史民俗資料館に到着しました。ここでは、城や地元の歴史などを学ぶことができます。

大東市立歴史民俗資料館

リンク、参考情報(追加分)

・大東市立歴史民俗資料館展示
・「飯盛城跡石垣ガイド」大東市・四条畷市教育委員会
・「よみがえる飯盛城~「天下人」三好長慶最後の居城」Youtube大東市公式ちゃんねる
・「クローズアップ飯盛城2022」Youtube四条畷市公式動画チャンネル

「芥川山城・飯盛城 歴史編」に戻ります。
「芥川山城 現地編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

159.芥川山城 現地編

大阪府の高槻駅前に来ています。芥川山城跡はここから距離がありますので、今回はパスで行くことにしました。市営バスの塚脇行きに乗って、15分くらいのバス旅です。

ここに行くには

大阪府の高槻駅前に来ています。芥川山城跡はここから距離がありますので、今回はパスで行くことにしました。市営バスの塚脇行きに乗って、15分くらいのバス旅です。

塚脇行き高槻市営バス

塚脇バス停で降ります。ここから、三好山の山頂にある、芥川山城・主郭を目指します。途中から周遊コースになるのですが、大手石垣が残る「大手筋ルート」を進みます。

塚脇バス停
三好山(城跡)へのルートマップ(高槻市ウェブサイトより引用)

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

城周辺の地図

大手筋ルートへ進む

バス停から通りを渡ったところの道に入ります。坂が急になってきました。

バス停から住宅街を進みます

周りが山っぽくなってくると、周遊ルートの分岐点に着きます。

周遊ルートの分岐点

右側の山道入口のところに「三好山へ40分」とあります。ついついこちらに進んでしまいそうになりますが、大手石垣(大手筋ルート)へは、ここで左に進む必要があります。

山道入口にある案内

左側の舗装道を進むと「山頂・主郭」の案内があります。迷わず進みましょう。

「山頂・主郭」への案内

途中には石垣もあって、城のものかと思ってしまいますが、ほとんどが農業用に積まれたもののようです。

途中にある石垣

いよいよ山の中に入ってきて、左奥の方に誘導されますが、案内は「大堀切・土塁」とあります。こちらは新たに加わったルートのようで、大手石垣に行くには、右手に進みます。

「大堀切・土塁」へのルート

右手に行くと、猪除けの柵があり、開け閉めをして進みます。

猪除けの柵

その先は谷筋なので、足元にも気を付けて歩いていくと、大手石垣が現れました。

大手石垣

大手石垣と大堀切・土塁を見学

この城で石垣は何ヶ所か見つかっていますが、ビジターが通常見学できるのはここだけだそうです。下の方に石が転がっていて、元は大手石垣として積まれていたのでしょう。現在は、真ん中が崩れてしまっていますが、当然続いていましたし(約12m)、高さも現在(2m前後か)の倍くらいあったのではという意見があります。

大手石垣
下の方に転がっている石
真ん中が崩れている石垣

上に登っていき、山の上の通路に出ました。

山の上の通路

もう少し進むと、急に視界が開けました。主郭の下の方にある曲輪です(曲輪11)。せっかくなので、主郭の前に「大堀切・土塁」まで行ってみたいと思います。先ほど左に枝分かれしたルートの行先です。

曲輪11

一旦、主郭への登り口まで行ってみます。右に行くと主郭ですが、今は左の方に下ります。

左に行くと大堀切・土塁、右に行くと主郭

大堀切・土塁まで下ってきました。左側の土塁と、右側の大堀切で、尾根伝いに攻めてくる敵を防いでいました。更に右側の曲輪との落差がものすごいです。

大堀切(真ん中)・土塁(左)

改めて主郭の方に登っていきます。きつい登りです。

上の曲輪への通路

平らなところに出ました。大堀切の上にある田ノ丸(曲輪12)です。ここは、城の南西側を守る要の曲輪でした。ここから大堀切は下すぎて全然見えません。

田ノ丸(曲輪12)
田ノ丸から下を見ています

長慶のいる主郭に到着

主郭に向けて、登ります。主郭の周りは、曲輪が段のようになっています。例えば、主郭の手前下にある曲輪(曲輪3)では、「塼(せん)」と呼ばれる建物の外壁を支える基礎材料や、硯がいくつか発見されています。蔵があったと考えられています。

曲輪3
曲輪3で発掘された塼(高槻市立しろあと歴史館にて展示)

最後の登りで主郭に到着です!まずはどうしても景色に期待してしまいます。すばらしい眺めです。右手に大阪のビル群も見えます。それから、長慶のもう一つの居城、飯盛城があった山(飯盛山)ですが、正面に見える低い方の山だと思います。2つの城が向かい合っていたのです。

主郭(下段)
三好山と三好長慶のディスプレイ
主郭からの眺め
飯盛山(手前)

続いて、主郭の奥の方(上段)に行ってみましょう。その途中に三好長慶公祭祀祠というお堂があるのですが、これがけっこう重要なのです。三好長慶は、近くの村の水争いの裁決を行いましたが、なんとその裁決は江戸時代も有効だったのです。水の権利を保障された村(郡家村)の人々は、長慶を神として城跡の山に祀りました。それが今ある祠に引き継がれています。地元の人たちにとって三好長慶はまるで今でも現役のようです。

三好長慶公祭祀祠
三好長慶水論裁許井手絵図・裁許状(高槻市立しろあと歴史館にて展示)

主郭の奥の方には、長慶もいたであろう御殿がありました。発掘調査によると、御殿が立っていた礎石や、宴会で使用されたと思われる皿(かわらけ)が見つかっています。御殿そのものについては、屋根の天辺に乗せる瓦(雁振瓦)だけ見つかっていて、残りは板葺きだっただろうとの意見があります。信長、秀吉に比べるとまだ質素だったようです。

主郭御殿跡周辺
主郭で見つかった雁振瓦(中央奥)、かわらけ(中央手前)、高槻市立しろあと歴史館にて展示

主郭の周りはどうなっているかというと、ロープが張ってあって、ものすごい急坂で危険ということなのでしょう。この下は、摂津峡がぐるりと取り囲んでいるはずです。

主郭周囲

塚脇ルートから撤収

大手筋ルートの終点まで戻ってきました。先ほど登ってきたところです。ここから、枝分かれしている塚脇ルートを通って撤収します。城の東側を通るルートです。

右側が大手筋ルート、左側が塚脇ルート

進んでいく右手には、案内はありませんが、通称「出丸」という主郭周辺に次ぐ曲輪群があります。主郭の反対側から大手道を守っていたのでしょう。関門のようなところに至りました。「出丸」エリアの出入口と思われます。

「出丸」エリアの虎口か

反対側からここに入ってみましょう。反対側の手前が、すごく細い通路になっています。堀切に挟まれた土橋です。簡単に入れないようになっていたのです。土橋を渡ってみると、左側(南)は谷、右側(北)は堀という感じです。先ほどの関門は虎口だったのでしょう。

土橋

土橋の更に手前にも防御の仕組みがあります。南側の斜面に注目です。なにか盛り上がっています。斜面を移動してくる敵を防ぐための、竪土塁です。

竪土塁

その東側にも曲輪群がありました。土塁に囲まれた比較的小規模なもので、居住地区か、兵の駐屯する場所として使われたのではないかと言われています。現在は、その多くが農地や墓地などに転用されているそうです。

東側の曲輪群

その先に行くとまた石垣がありますが、ぱっと見、城の時代のものに思えてしまいます。下っていくときの景色もなかなかいいです。城があったときもこのように見えたのでしょうか。

途中にある石垣
下りの景色

最初の分岐点に着きました。ここにある案内を見たら、無事戻ってきたと感じました。

最初の分岐点にある案内

バスは循環ルートなので帰りも同じ所から乗ります。駅に着いたら、向こう側にある高槻市立しろあと歴史館に行ってみるのもいいと思います。館内には芥川山城(芥川城)についての展示のほか、この場所にあった高槻城についての展示もあります。和田惟政、高山右近、そして江戸時代の高槻藩に引き継がれました。

高槻市立しろあと歴史館
高槻城の模型、高槻市立しろあと歴史館にて展示

リンク、参考情報(追加分)

・「大阪府中世城館事典/中西裕樹著」戒光祥出版

「芥川山城・飯盛城 歴史編」に戻ります。
「飯盛城 現地編」に続きます。

181.小倉城 現地編

今回はまず、最大の門だった虎ノ門跡から天守まで攻め込みます。その後は、残っている城の他の部分を歩きましょう。そして、広大だった城の痕跡も探ってみます。最後はついに、巌流島に上陸です。

イントロダクション

今回は、小倉城下町の中心地だった常盤橋からスタートします。橋の跡ということで、江戸時代の橋脚が展示されています。そして、橋そのものも木造で復元されていたはずなのですが、そんな橋は見当たりません。復元された橋は、老朽化で解体されたとのことです。

常盤橋跡
復元された橋があった場所

この橋は、長崎街道などの起点で、周りに湊もあって賑わっていました。その雰囲気を味わいたかったのですが残念です。今後架け替えも検討するそうなので、新しい橋ができたら渡ってみたいものです。

常盤橋のジオラマ、小倉城天守内で展示
解体される前の復元橋

それでは、紫川沿いに城に向かいましょう。今でもこの川が町の中心を流れていて、リバーサイドがよく整備され、気持ちがいいです。

紫川

現在の城の北の入口、虎ノ門跡の前に来ました。今回はまず、ここから天守まで攻め込みます。その後は、残っている城の他の部分を歩きましょう。そして、広大だった城の痕跡も探ってみます。最後はついに、巌流島に上陸です。

虎ノ門跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(小倉城と巌流島、現地ツアー)

いきなり天守を攻略

城周辺の地図

虎ノ門は、48あった小倉城の門のうち、最大のものでした。鏡石を含む、すごい石垣に囲まれた、枡形になっています。さすが最大の門です。

虎ノ門の桝形

天守を目指して進みます。左側(南側)は、小笠原時代には藩主の別邸がありました(「御下屋敷」)。現在、その別邸の庭園が「小倉城庭園」として復元されています。

左側は、かつての藩主別邸、現在の小倉城庭園
小倉城庭園(内部)

そうするうちに、天守が現れました!これはかなり大きいです。実は、現在の小倉城天守は、オリジナルより高く作られていて、全国に今ある天守の中では、6番目の高さになっています。創建当時は一階の広さがナンバー1だったというから、もっと大きな天守を建てることができたのかもしれません。

復興天守
全国天守高さ比べ、小倉城天守内で展示
小倉城創建当時の天守規模比較、小倉城天守内で展示

オリジナルの天守台石垣(高さ18.8m)を含めた姿も注目です。石垣がまっすぐ広がっている感じです。

復興天守と天守台石垣

ここでは天守を眺めるだけですので、改めて天守入口を目指します。敵だったらとっくに攻撃されているでしょう。この辺りにも「大手先門」がありました。

大手先門跡

大手門跡に着きました。ここも堂々とした石垣と枡形です。いかにも、ここからお城の中心という感じがします。ただ、ここが大手門になったのは、小笠原時代とのことです。しかし天守に近い門なので、細川時代から重要な門だったのでしょう。

大手門跡

その先は天守までまっすぐ行けてしまいそうです。今はそうなのですが、江戸時代はまた別の門を通る必要がありました。その一つが、欅門です。この門を通れるのは、藩主・家老・高位の僧のみでした。敵どころか、お殿様気分です。

現在は天守までまっすぐ、欅門跡は左側へ
欅門跡

天守に着きました!江戸時代と同じように、続櫓から天守に入ります。天守内部は5階構成になっていて、1階はエンターテイメントエリア、2階は小倉の歴史を学べるフロアです。オリジナル天守の模型があります。

天守に到着
天守への入口
天守1階
天守2階

3階はなんと小次郎と武蔵のコーナーになっています。武蔵のフィギアがあって、とても敵いそうにありません。

天守3階(小次郎のコーナー)
天守3階(武蔵のフィギア)

最上階はカフェになっています。小倉の街もよく見えます。

天守最上階
最上階からの眺め

現・小倉城の周りを歩く

城周辺の航空写真

今度は、西から本丸に迫ってみましょう。ここも立派な門の跡です。ここには西ノ口(にしのくち)門があって、細川時代はこちらが大手門でした。かつてはここも枡形だったようです。

西ノ口門跡

入っていくと、右側(南)に新しめの門跡があります。本丸の南側は松の丸で、門跡は、明治以降に軍隊によって使われた時代のものです。細川時代には細川忠興の父・幽斎(藤孝)の居所でした。

松の丸の歩兵第十二旅団本部正門跡

その向かい側に、本丸の別の門跡があります。鉄(くろがね)門跡です。一般の家臣は、こちらの門を使って出入りしていました。身分によって通る道も分けられていたのです。

鉄門跡

また軍隊風の門が見えてきました。こちらは本丸にあった司令部のものです。門だけでも歴史がわかります。

本丸の第十二師団司令部正門跡

そこから進んだ本丸内部には、江戸時代には御殿がありました。また天守とご対面です。しかも、ここにも武蔵と小次郎がいました!

本丸
本丸の武蔵・小次郎像

続いて、大手門跡の前に戻って、城の外側を巡ってみます。南側に回り込んでいくと、右手に松の丸の石垣が見えます。左手は三の丸跡で、かつては重臣たちの屋敷がありました。その後は大きな軍事工場(小倉工廠、後に小倉陸軍造兵廠)になりました。そこが2発目の原子爆弾の第一目標地点になったのです。跡地には原爆犠牲者の慰霊碑も設置されています。これも忘れてはいけない歴史です。

松の丸の石垣
三の丸跡
原爆犠牲者慰霊平和祈念碑

さっき通った西ノ口門跡を右手に見ながら北に進みます。また堀と石垣が見えてきましたが、本丸と北の丸になります。北側に回り込んで、北の丸に入りましょう。まるで城のような立派な建物がありますが、1934年から八坂神社の敷地になっているのです。ちなみに、江戸時代には藩主の奥向きの屋敷地でした。

右側に進むと西ノ口門跡です
北の丸(左側)と本丸(右側)
北の丸の北西隅
北の丸に建つ八坂神社の建物

実は、北の丸からの通路が結構面白いのです。一つ目は本丸への通路です。本丸へのもう一つの門だった多聞口(たもんくち)門の跡周辺には、毛利勝信時代の古い石垣が残っているのです。この門も、枡形になっています。

八坂神社(北の丸)
本丸への通路
多聞口門跡

それから、逆の方に向かっていくと、北口(きたくち)門跡を抜けて、最初に天守を眺めたところに出るのです。城というのは、守りを考えながらも、それぞれが通じるようにも作っているのでしょう。

北口門跡、神社の門になっています
通路が神社の参道になっています
天守のビュースポットに戻りました

広大だった城の痕跡を探る

次はどこに行くかというと、神社の鳥居の脇にある大石が、かつてあった場所です。小倉城の外郭の門の一つ、中津口(なかつぐち)門の跡です。大石は門の石垣に使われていました。中津口は中津街道に通じる重要な関門だったのです。

かつて中津口門で使われた大石が鳥居脇に見えます
中津口門跡

城の絵図を見ると、城の中心部よりかなり離れています(直線距離だと1kmくらいでしょうか)。城はかつてはこんなに大きかったのです。しかも、手前の橋の下を流れる川(砂津川)は、外堀として掘られたものなのです。その外堀をたどって、門司口門跡まで行ってみましょう。

「小倉藩士屋敷絵図」、中津口門は東の端にあります、現地説明パネルより
砂津川(小倉城外堀)

外堀と言われなければ、普通の川にしか見えません。その途中には「富野口」もありました。

小倉周辺の地図

砂津川(小倉城外堀)、向こうの橋辺りが富野口

線路も渡っていきます。新幹線の高架下に来ました。説明パネルがあります。門司口門跡に到着です。こちらは門司往還に通じていて、大名の参勤交代にも使われました。ここも重要な関門だったのです。現在も、砂津川にかかる橋を渡って、門に入っていくルートを追体験できますが、その当時は3回折れ曲がる必要がありました。

奥が新幹線の高架
現地説明パネル
門司口門跡

せっかくなので、海が見えるところまで行ってみましょう。船(市営渡船)が出るところまで来ました。この向こうに、巌流島があるのです。

小倉港(市営渡船)
ここから巌流島は見えませんが・・

いよいよ巌流島へ!

門司港駅に来ました。駅舎がレトロ感満載です。

門司港駅ホーム
門司港駅駅舎

これから、巌流島連絡船に乗り込みます。関門橋も見えます。船はぐんぐん進んで、もう島が見えてきました。片道約10分の航海です。

巌流島連絡船
関門橋を見ながら出発です
島が見えてきました

巌流島に着きました!現在の島はビジター向けに整備されているようですが、やはり「小次郎・武蔵像」に行ってみましょう。城跡とはちがうものとはわかっていても、なんだかわくわくします。途中には記念碑がたてられています

巌流島入口
巌流島決闘の地木碑と文学碑

そして、いよいよです。武蔵と小次郎、迫力満点です!

小次郎・武蔵像
迫力満点です

佐々木巌流之碑にお参りをしたら、帰りの船まで、島と関門海峡をゆっくり見物しましょう。武蔵が乗った船を再現した展示まであります。この海峡では、壇ノ浦の戦い、下関戦争などが起こっていて、巌流島の決闘もそれらの出来事の一つでした。今でも結構船が行き来していて、それを眺めていると落ち着いた気分になります。

佐々木巌流之碑
巌流島からの眺め
武蔵の伝馬船(再現)
現在も船が行き交う関門海峡

私の感想

現在の小倉城はイベント開催に力を入れていて、ライトアップは毎日あって、色が変わる日もあるそうです。天守攻略は何度やっても気分がいいものです。違った趣きの城をまたゆっくり見学したくなります。

ライトアップされた天守

リンク、参考情報(追加分)

・「小倉城ものがたり 第41話 小倉城の“門”紹介(2)」~城内の門の読み方を参考
・「「人力」旧街道紹介サイト 中津口門」~外郭の門の読み方を参考
・巌流島、山口県観光サイト

「小倉城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

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