197.志布志城 その2

志布志城跡のうち、メインの内城に向けて出発します。まず、いきなり城に攻め入るイメージで、本丸を攻略します。その後も、城の奥の方をどんどん探ります。これはもう探検気分です。

イントロダクション

志布志麓のビジター向け駐車場に来ています。ここから、志布志城跡に向かいます。城跡の周りには、武家屋敷跡や庭園もありますので、城の前か後に行ってみてはいかがでしょう。

志布志麓駐車場
福山氏屋敷

それでは、志布志城跡のうち、メインの内城に向けて出発します。大手口に進みます。途中には平山氏庭園もあります。案内が見えてきたら、それに沿って右折します。山に迫っていきます。

手前の駐車場からまっすぐ行きます
平山氏庭園
志布志城(内城)跡の案内

大手口です。いよいよ城に入っていきます。まず、いきなり城に攻め入るイメージで、本丸を攻略します。その後も、城の奥の方をどんどん探ります。最後に港などもご案内します。これはもう探検気分です。

大手口

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(志布志城・探検ツアー)

大手口から本丸を攻略

内城周辺の地図、赤破線が駐車場から本丸までのルート

大手口から進んでいきましょう。もうこの時点で、右側に曲輪があります(矢倉場・曲輪1)。敵だったら、もう攻撃されてしまいます。曲輪の壁が垂直になっています。これが、シラス台地の城なのでしょう。

大手口から矢倉場を見上げています
志布志城模型の大手口付近、志布志市埋蔵文化財センター展示
矢倉場の壁面

本丸登城口です。ここから登っていきます。ここは、左右の曲輪に挟まれています。右側の曲輪(曲輪8)はかなり高さがあるのに、反対側(曲輪7)は低くて平らです。番所みたいなものがあったのでしょうか・・・

本丸登城口
本丸登城口右側の曲輪
本丸登城口左側の曲輪

進むと、分かれ道になっています。昔の敵だったら迷ってしまうでしょうが、ビジター向けにはコースマップがところどころにあります。右の方に行きましょう。

志布志城模型の本丸登城口付近、志布志市埋蔵文化財センター展示
分かれ道にある城跡コースマップ
右側に進むと堀底道です

そして、堀底道になります(空堀3)。なんとここは、4方向から攻撃を受けてしまう場所だったのです。心して進みましょう。堀底道といっても、道はまだ登って、曲がりくねっています。これでは反撃どころではありません。

志布志城模型の堀底道付近、志布志市埋蔵文化財センター展示
まだ道は登り、曲がっています

やっと堀底らしいところに出ますが、城の曲輪が真上にあるように見えます。完全に挟まれてしまっています。

堀底道
堀底道右側の曲輪(曲輪2上段)
堀底道左側の曲輪(本丸下段)

周りを囲む曲輪の一つ(曲輪2上段)に登って行けそうです。曲輪の上は、平らに整地されています。ここは城の中枢を担う曲輪の一つで、家臣などが詰めていたと考えられます。

曲輪(曲輪2上段)に登っていきます
曲輪2上段の上

堀底道に戻ってまた進みましょう。前の方に別の曲輪が見えてきました。本丸(曲輪3)上段です。敵にとってはまた脅威です。

前方が本丸上段

本丸下段に入ってみましょう。意外と簡単に入れます。現代のビジター特権でしょうか。となりが本丸上段です。まわりに木が茂っていますが、なにか景色は見えるのでしょうか。木々の隙間からなんとか、港が見えます。フェリーの「さんふらわあ」です!

現在の本丸下段入口
本丸下段内部
本丸下段からの眺め
フェリー「さんふらわあ」

奥まで鉄壁の守り

本丸(曲輪3)上段にやってきました。標柱に「島津六代氏久公居城」とあります。新納氏が城主になったときに、後押しをした島津の殿様が、一時この城にいたそうです。

本丸上段の標柱

本丸の土塁と、背後の空堀を見に行きましょう。土塁の上にお堂があります。「三宝荒神」といって、城主一族の守護神とのことです。土塁の向こうはどうなっているのでしょうか?やっぱり、垂直に見下ろす感じです。

本丸土塁上の三宝荒神
本丸背後の空堀を見下ろしています

その堀(空堀4)の底を歩きます。倒木があったりするので、気を付けて進みましょう。この空堀は、本丸エリアを作るために、この城で最初に掘られたと考えられています。本丸の壁は「切岸」と言ってほぼ垂直に削られていました。さっき見下ろした辺りにきました。今度は思いきり見上げることになります。

倒木などには気を付けましょう
先ほど本丸から見下ろした辺りか
今度は本丸を見上げています

今度は一つ奥の、中野久尾の空堀(空堀5)にやってきました。ここから入る曲輪(曲輪5上段)の虎口を見ていただきたいのです。空堀の底が一段高くなっています。この高くなっているところから曲輪の入口が始まるのです。

志布志城模型の左側が本丸背後の空堀、真ん中が中野久尾の空堀、志布志市埋蔵文化財センター展示
空堀の底が一段高くなっています

上がったところから折り返すと、すごい壁です!ここを敵が通るときは、上から攻撃されてしまいます。しかも通路は細くなっています。曲輪に入るところも、いまだに壁に囲まれている感じです。更に折れ曲がっていて、枡形のようになっています。

細い通路が垂直の壁面に沿っています
曲輪の虎口

本丸の西側に移動しました。ここも空堀の底です。この辺から、城の西側を、大空堀が南北に貫いているのです。まるで自然の谷のようです。右側が曲輪群、左側が土居に囲まれていて、深さは約17メートル。かつてはもっと深かったそうです。高石垣も顔負けです。

現地城跡ルートマップ、大空堀が西側をずっと通っています
大空堀から本丸を見上げたところ
大空堀

一番奥の大野久尾まで来てしまいました。城の中の通路にもなっていたのでしょう。

大空堀から大野久尾の入口(右側)へ
大野久尾

果てしない志布志城

今度は、入口の方に戻ってきました。矢倉場を見学して、東側の空堀を通って、搦手口に行ってみたいと思います。曲輪が立ちはだかっています。相変わらずの垂直の壁です。

矢倉場への入口
矢倉場外観
ほぼ垂直の壁面
志布志城模型の矢倉場を登っていく方向から見ています、志布志市埋蔵文化財センター展示

矢倉場(曲輪1)です。ここも建物跡が発見されています。これは、城主だった新納氏の墓がありますが、明治時代に立てられたそうです。曲輪の下の方は見えるかと思いましたが、草木が茂って微妙な感じです。

矢倉場の上
新納氏の墓、時久は新納氏の祖
曲輪の下はあまりよく見えませんでした

それでは、空堀の方に下っていきましょう。東側も、南北を貫く空堀(空堀1)がずっと続いています。左側は、本丸に行くときに立ち寄った曲輪(曲輪2)、右側には更に土塁や曲輪(曲輪10など)があります。案内がなければ、迷子になってしまいそうです。

東側の空堀

まもなく、本丸に行くときに通った空堀(空堀3)と合流します。また少し下って、右側が搦手口です。裂け目のようになっています。立ちはだかる土塁の壁面は、まるで岩盤です!少し進んで振り返ってみると、城に入るときは、どんな風に見えるかわかります。城の裏口であっても、こんなに厳重に構えていたのです。模型を見ても、壁のような土塁を立ち上げているのが見て取れます。志布志城、まさに鉄壁の守りです。

左側の道が別の空堀からの道で、合流して右下に続きます
裂け目のような搦手口
岩盤のような壁面
外側から見た搦手口
志布志城模型を搦手口から見ています、志布志市埋蔵文化財センター展示

志布志城の発祥地・松尾城

今まで見学したのは志布志城の「内城」でした。「松尾城」も一部見学できますので行ってみましょう。

4つの志布志城、現地説明パネルより
駐車場からの交差点を、松尾城は左に行きます。

一部ということで規模は小さく感じますが、シラス台地を掘った場所はありますし、垂直の壁面も見ることができます。

松尾城入口
シラス台地を掘り進んだと思われる部分
ほぼ垂直の壁面

上に登り切ったところに石碑があります。南北朝時代の城主・楡井頼仲を記念したものです。志布志城全体は松尾城から始まったのです。

楡井頼仲の石碑

関連史跡、名物

関連史跡・施設としてまず志布志駅にやってきました。観光案内所を兼ねているので、志布志市埋蔵文化財センターと合わせて、城の情報収集をしてみてはいかがでしょう。

志布志駅、兼志布志市総合観光案内所
志布志市埋蔵文化財センター

実は志布志駅は日南線の終着駅なのです。かつてはここから更に、志布志線、大隅線が伸びていたそうです。交通の要衝だったのです。

終着駅のホーム
かつての路線を記念した志布志鉄道記念公園

もちろん今もそうですので、それがわかるところに行ってみましょう。志布志港です。城から見えた「さんふらわあ」が停泊しています。このフェリーは、毎日夕方にここを出航するということなので、城見学をする昼間の時間帯は、いつも停泊しています。

フェリー「さんふらわあ」

ところで、城からここが見えたのだから、ここから城は見えるのでしょうか。シラス台地はわかります。城は、橋の向こう側のような気もしますが、建物はないので難しいものがあります。しかし、志布志の港とシラス台地の城の、絶妙のコンビネーションを感じることができました。

志布志港から見えるシラス台地
志布志城(内城)は、青い橋の向こう側のように思います。
志布志市役所にある名物看板

最後に、志布志のもう一つの名所に来てみました。志布志市役所にある看板です。「志布志」の連呼でこの場所を示していますが、早口言葉でどうぞ、ということらしいです。地名で楽しめるなんて、おもしろいです。

「志布志城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

197.志布志城 その1

今回は、鹿児島県東部、志布志市にあった城、志布志城をご紹介します。この地には志布志津があって古代以来栄えていました。志布志城は、この地を治める拠点だったのです。城そのものにもシラス台地に作られた大規模な山城だったという大きな特徴があります。

イントロダクション

今回は、鹿児島県東部、志布志市(しぶしし)にあった城、志布志城をご紹介します。少しユニークな地名と感じるかもしれませんし、志布志市埋蔵文化財センターにある城の模型を見るとすごいインパクトを感じます。現代の視点で見ると、ここには志布志港があり、重要港湾と中核国際港湾に指定されています。全国の港湾の中で、原木の輸出額1位、飼料用とうもろこし輸入額2位(2024年実績)とのことです(参考資料①より、以下番号のみ記載)。大型フェリー「さんふらわあ」も就航しています。実はこの港は、平安時代末期に荘園(島津荘)の港として開かれ、「志布志津」と呼ばれていました。中世には国内のみならず国際貿易も行われました、領主たちは、貿易で利益を上げられ、兵員・物資輸送にも有利な港があるこの地を巡って争いました。志布志城は、この地を治める拠点だったのです(②など)。

志布志城(内城)の模型、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
志布志港に停泊するフェリー「さんふらわあ」

城そのものにも大きな特徴があります。それはシラス台地に作られた大規模な山城だったということです。シラス台地が広がる南九州には、同じような特徴を持つ城が多く築かれました。本編では、そのシラス台地に築かれた城の特徴を説明します。次に、志布志を巡って争った領主たちの栄枯盛衰を見てみます。それから志布志城そのものにフォーカスします。最後に、戦国時代から江戸時代にかけて、地域と城がどうなったのかをお話しします。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(シラス台地に築かれた名城・志布志城の歴史)

シラス台地に築かれた城

シラス台地は、火山の流出物などが堆積しててきた南九州特有の地形です。その土壌は「白い砂」という意味の「シラス」と呼ばれています。シラスはサラサラしてやわらかく、水の浸食によって台地の縁に崖ができます。乾燥した状態では安定し、崩れる時も崖の上部が落下するだけで、大規模な山崩れは起きにくい性質があります。領主たちはこの性質を利用して、台地を削り、深い空堀とそれに隔てられた曲輪による山城を築きました(②)。志布志にあるシラス台地に登ってみると、市街地や港を一望することができます。このような場所は、城を築くのにうってつけだったのでしょう。

志布志市の範囲と城の位置

志布志のシラス台地

このように南九州のシラス台地上に作らられた山城群は「南九州型城郭」と呼ばれています。またその作り方から、同じくらいの標高に独立した曲輪が群れをなして立ち並ぶことから「群郭式城郭」とも呼ばれます(②)。志布志城の模型を見てみても、中心部の本丸はあるものの、突出した位置や規模ではないことがわかります。「南九州型城郭」の代表的なものとしては、志布志城のほか、知覧城、佐土原城、飫肥城、人吉城などが挙げられます。

知覧城の航空写真、南九州市ウェブサイトより引用

ここからだんだん志布志城の方に話を移していくと、志布志城は、実際には4つの城(内城、松尾城、高城、新城)の集合体でした。先ほどからの城の模型は、戦国時代にかけて中心的な拠点になった内城(うちじょう)のものです。4つの城のうち、松尾城が最初に築かれ、次第に拡大・変化していったと考えられます(②)。現在、ビジターが通常見学できるのは、内城と松尾城です(志布志観光特産品協会での情報)。

4つの志布志城、現地説明パネルより

それから、この志布志という地名の由来ですが、この名前は「志(こころざし)」+「布(織物)」+「志」というように分解できます、そしてこれは、天智天皇がこの地を訪れたときの逸話によるというのです。天智天皇は、その地の女主人からも、仕えている者からも織物を献上されたそうです。天皇は大変喜び、身分の上下に関係なく志があついということで、この地は「志布志」であると言ったそうです(③)。この伝説が事実かどうかはともかく、この地と名前は長い歴史を持っているのでしょう。

地名発祥の地、献上橋

領主たちの栄枯盛衰

志布志城の正確な築城年代は不明ですが、南北朝時代(1336年)に肝付氏の配下が守っていた記録があるので、南北朝争乱の中で築城され、以後拡大していったと考えられます。その初代の肝付氏から始まって、江戸時代初期に廃城になるまで、志布志城の領主氏族はなんと6回も交替したのです(②④)
1.肝付氏:~1336年?
2.楡井氏:1338年?~1351年
3.畠山氏:1351年~1357年
4.新納氏:1357年~1538年
5.豊州家島津氏:1538年~1562年
6.肝付氏:1562年~1576年
7.島津氏:1576年~

これを3つに分類すると、最初は南北朝争乱によるものです。2番目の楡井氏は南朝方に属していました。当主の楡井頼仲は、志布志城のうち、松尾城を拠点とし、大慈寺を創建するなど地域で勢力を伸ばしました。一方、北朝方としては、日向国(宮崎県)を任せられた畠山直顕(日向守護職)が、志布志(当時は日向国)や大隅国(鹿児島県東部)に勢力を伸ばしてきました。1351年、畠山氏は楡井氏を破り、志布志城を手に入れました。楡井頼仲は二度奪回を図りますが失敗し、ついには自害しました。頼仲の墓は今も大慈寺にあります。ところで、大隅は本来、北朝方としても島津氏(奥州家、大隅守護職)のテリトリーでした。1357年、島津氏の助けを得た新納実久は、志布志城の松尾城にいて、内城に入った畠山直顕と対陣し、これを破りました。直顕は北方へ撤退していきました。その後、約180年間にわたり、新納氏の支配が続きます(②④)。

楡井頼仲が創建した大慈寺
楡井頼仲の墓
新納氏の時代に城を守った隈田原兄弟とされる仁王像(宝満寺跡)

状況が次に動いたのは戦国時代中期(16世紀前半)でした。薩摩の島津氏に家督争いが起こったときです。その頃島津氏には、本家(奥州家)の他、伊作家(相州家を継ぐ)・薩州家・豊州家などがありました。力が衰えていた本家14代・勝久は、伊作家に協力を求め、当主・忠良の子・貴久を養子とし、本家15代目としました(1526年、大永6件)。ところが、実権を握ろうとしていた薩州家当主・実久がこれに反発すると、勝久は貴久への継承を撤回しました。ここに、本家・伊作家・薩州家三つ巴の構想が始まったのです。貴久が権力を確立するまでには10年以上かかりました(1540年頃)。その過程で、薩州家の実久は、豊州家・島津忠朝、肝付兼続などに呼びかけを行い、志布志に集まりました(1535年、天文4年)。ところが志布志城の新納忠茂は、貴久側と連携していて応じなかったため、連合軍に攻撃され、降伏しました(1538年)。ここに長きに渡った新納氏の支配が終わり、豊州・島津氏が新しい領主になりました(②④⑤⑦)。

島津貴久肖像画、尚古集成館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし戦国の動乱が九州全体を覆うと、また事態が変わります。日向の伊東氏が南に侵攻を始め、それに呼応して肝付氏が島津氏からの独立を図ったのです。その狭間にいた豊州家島津氏は、挟み撃ちに合う形になりました。1562年(永禄5年)飫肥城が伊東氏により落城すると、肝付氏も志布志に侵攻しました。当主の肝付兼続は1564年に志布志に移り住み(隠居所)2年後に亡くなるまで過ごしました。1567年には豊州・薩摩家は駆逐され、肝付氏は大隅の戦国大名になりました。肝付氏は、伊東氏の助力を得ながら島津氏に対抗していきますが、その伊東氏の援軍が到着したときの志布志城(内城)の姿を再現したのが、志布志市埋蔵文化財センターの模型です(②④)。このときが城の全盛期だったのかもしれません。

肝付兼続の墓(志布志市内、江戸時代の再建)

志布志城の築城と完成

それでは、最終的に志布志城の中心になった内城を題材に、城がどう作られたか追っていきましょう。まず、川(前川)に沿って南北に延びるシラス台地の先端を、深い堀(堀切)で切り離します。これによって地続きに攻められるのを防ぐことができます。次に山や斜面を削り、建物を建てる曲輪を作ります。さらに空堀によって複数の曲輪を隔てます。これが本丸を中心とした部分です。それに続いて中野久尾(なかのくび)部分が作られ、最後に大野久尾(おおのくび)部分が作られたと考えられます(③)。同じ部分でも、いくつもの曲輪とそれを隔てる空堀によって成り立っていました。

城周辺の起伏地図

本丸部分の造成、志布志市埋蔵文化財センター資料より
内城全体の造成、志布志市埋蔵文化財センター資料より

完成した志布志城(内城)は、多くの曲輪と深い空堀から成り立っていました。曲輪は土塁によって囲まれ、入口は狭い「虎口」だけになっていました。シラス台地に作られた城の典型例です。城そのものの出入口として大手口(正面)と搦手口(裏面)がありました。内城だけでも、南北約500m、東西約250mに及びました(本丸標高54m、比高約50m)。敵がこの城を攻めるとき、どちらから入っても、深い空堀から曲輪に攻め登ることは不可能です。空堀の堀底道を進み、虎口から攻め入るしかありません。そのため大軍で攻めても長蛇の列になり、列の先頭しか戦うことができません。しかも堀底にいる軍は、常に曲輪からの攻撃にさらされてしまいます(②④)。

志布志城(内城)の模型全景、大手口は左手、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
上記模型の搦手口、真ん中下から深い空堀を進みます。

例えば、城の大手口から本丸を目指して攻めるとしましょう。するとまず、大手口の右側にある曲輪(矢倉場)から攻撃を受けることになります。そこを突破して本丸登城口に着くと、今度は左右の曲輪から攻撃を受けます。先に行くと、道は二手に分かれていてどちらに進んでいいかわかりません。運よく正しい右側の道に進んでも、なんと4方向から攻撃を受けるのです。なんとかそこを突破し、堀底道を進んでも常に左右の曲輪から攻撃されます。やがて、本丸下段の虎口に近づきますが、さらに本丸上段からの反撃が加わります。このように、多くの曲輪と曲がりくねった空堀を組み合わせることで、高い防御力を持つことになったのです(④)。

上記模型の大手口部分、すぐ右側に矢倉場があります
上記模型の本丸登城口部分、深い堀底道が続きます
上記模型の高い物見台があるところが本丸下段、その奥が本丸上段

この城は山城で、戦いのときに立てこもるためでしたので、城主は普段は城の外で生活していました。当然、志布志津による貿易の恩恵を受けていたでしょう。志布志城跡からも、生活道具・武具類のほか、海外製陶磁器・国内陶器・銭が出土しています(②⑥)。兵士は駐留していたのでしょうが、領主や上級武士も一時生活していたか、大事なものをここにしまっていたのかもしれません。

志布志の行く末

肝付氏の統治も長く続きませんでした。島津貴久の跡を継いだ島津義久が、大隅に侵攻してきたからです。実は、肝付兼続の存命中(1566年)には元の本拠地である高山城(こうやまじょう)が落城していたのです。肝付氏自身も、1573年(天正元年)北方の北郷氏を攻めたときに大敗し(国合原の戦い)、伊東氏も前年の木崎原(きざきばる)合戦で島津氏に大敗していました。地域のパワーパランスが大きく崩れたのです。兼続の跡を継いでいた(2代後)肝付兼亮(かねあき)は、義母で兼続の妻である御南(おなみ)の進言などにより、1574年に島津氏に降伏しました。御南は、島津氏の先代・貴久の姉でもありました。そして1576年から志布志は島津領(代官・鎌田氏が統治)になりました。島津氏の支配が安定すると、江戸時代の「一国一城令」(1615年)までには志布志城は廃城になったと考えられます(②④⑤⑦)。

その代わりに、防衛拠点として「志布志麓(ふもと)」が置かれました。「麓」とは、薩摩藩が領内統治や防衛のために、各地に藩士を住まわせた拠点です。約120ヶ所あったと言われています。志布志は他藩(高鍋藩)との境目にあったので、引き続き重要拠点だったのです。現在、志布志城跡の山麓に武家屋敷跡が残っていて「志布志麓庭園」として公開されています(福山氏庭園、平山氏庭園、天水氏庭園)(⑧など)。

代表的な麓、出水麓の模型、黎明館にて展示
福山氏屋敷
福山氏庭園
天水氏庭園

そして志布志の港の方ですが、鎖国中の江戸時代でも、志布志はある意味国際貿易港でした。なんと密貿易を行う場だったというのです。「密貿易屋敷」には隠し部屋があり、秘密の商談が行われていたようです。また、地下室もあって、そこから秘密の通路で海に出ることができたと言われています。もちろん国内や琉球との交易は公に繁盛していました。志布志はやはり、昔からずっと港として繁栄してきた地だったのです(③)。

密貿易屋敷の模型、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
密貿易屋敷跡

リンク、参考情報

①「志布志港の貿易状況について」2025年5月22日長崎税関
②志布志市埋蔵文化財センターリーフレット
③志布志市埋蔵文化財センター展示
④志布志市埋蔵文化財センター説明資料
⑤「地域から見た戦国150年 九州・琉球の戦国史/福島金治著」ミネルヴァ書房
⑥志布志城跡現地説明パネル
志布志城跡、志布志市公式ホームページ
国指定文化財 志布志麓庭園、志布志市公式ホームページ

「志布志城 その2」に続きます。

96.飫肥城 その3

シラス台地上の城の完成形

特徴、見どころ

武家屋敷通りと藩校「振徳堂」

城の主要部分の東側(三の丸の一部)を歩いてみると、武家屋敷通りがあって、石垣、白壁、垣根、古い門などによりかつての雰囲気を残しています。敷地の中の屋敷の多くは、現代的施設、レストラン、住居に変わってしまっていますが、いくつかはそのまま残っていて、例えば、重臣の伊東氏の旧屋敷はホテルとして使われています。

城周辺の地図

武家屋敷通り
ホテルとして使われている旧伊東伝左衛門家

通りから1ブロック北には、藩校であった振徳堂(しんとくどう)の建物が復元されています。この藩校は優秀な人材を輩出していて、1905年に日露戦争を終わらせたポーツマス条約の締結における日本側の全権大使だった小村寿太郎はその一人です。藩校を囲む石垣はオリジナルで史跡の扱いとなるため、修復のため積み直しが必要なときは、全ての石に番号が付けられ、積む際には全く同じ場所になるように作業が進められます。

復元された振徳堂の建物
建物の内部
小村寿太郎の写真、「近世名士写真其一」より  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
修復中の石垣

旧城下町を巡る

城跡下にある旧城下町へ行ってみることもお勧めします。この区域は蛇行している酒谷川に囲まれています。城下町区域も武家屋敷通りと似た雰囲気ですが、こちらの方はよりカジュアルな感じがします。例えば、後町(うしろまち)通りには水路があり、錦鯉が泳いでいます。本町商人(ほんまちしょうにん)通りには古い商家が残っていて、そこでは食べ歩きやショッピングを楽しむことができます。

後町通り
水路を泳ぐ鯉

最後に、川に沿った城下町の西側から城跡を眺めてみましょう。そうすると、城はもとはシラス台地であった高く垂直に切り立った崖の上に築かれていることがわかるでしょう。崖の一部分は崩壊を防ぐためにコンクリートで固められています。現在の人々は今でも崖上の城跡を維持するのに苦心しています。伊東氏による飫肥藩は、きっと同じことをするのに更なる努力を必要としたでしょう。

酒谷川
城跡がある川沿いの崖
一部はコンクリートに覆われています

その後

明治維新後、ほとんどの城の建物は撤去されました。しかし、城と城下町の構成は、町割りを含めて、現在に至るまでそのまま残ってきました。日南市は1974年に復元事業を開始します。その後、1974年には九州地方で初めての重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。そして、大手門が1978年に、松尾の丸の御殿が1979年に復元されています。そのおかげで私たちは今日、現存しているものと、復元されたものがよく調和しているこの地を楽しむことができるのです。

復元された大手門
城下町にも強固な石垣が残ります

私の感想

飫肥城は、シラス台地上に築かれた城の完成形だと思います。この台地上に城を築くことは、その自然の性質を利用することで簡単なのですが、それを維持することがとても難しいのです。豪雨強風や地震など自然災害が、しばしばこれらの城で崖の崩壊をもたらしてきました。そのため、佐土原志布志知覧などの飫肥城と同タイプの城は、平和な江戸時代になると廃城となるか、部分的に放棄されました。しかし、飫肥城城主である伊東氏は、そのための代替地がありませんでした。よって、伊東氏と飫肥藩は、城と町を江戸時代の間ずっと強固に築き続け、現在見られるようなすばらしい街並みになったのだと思います。

旧本丸の石垣
旧本丸の土塁

ここに行くには

車で行く場合:宮崎自動車道の田野ICから、宮崎県道28号線経由で約45分かかります。城跡の手前にビジター向けの駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR飫肥駅から歩いて約15分かかります。
東京か大阪から来られる場合は、飛行機で鹿児島空港か宮崎空港まで行って、レンタカーを借りるのがよいかもしれません。

城跡前の駐車場

リンク、参考情報

飫肥城下町保存会 九州の小京都「飫肥」、宮崎県日南市
・「よみがえる日本の城18」学研
・「日本の城改訂版第94号」デアゴスティーニジャパン
・「三位入道(短編集「奥羽の二人」より)/松本清張著」講談社

これで終わります。ありがとうございました。
「飫肥城その1」に戻ります。
「飫肥城その2」に戻ります。

error: Content is protected !!