197.志布志城 その1

今回は、鹿児島県東部、志布志市にあった城、志布志城をご紹介します。この地には志布志津があって古代以来栄えていました。志布志城は、この地を治める拠点だったのです。城そのものにもシラス台地に作られた大規模な山城だったという大きな特徴があります。

イントロダクション

今回は、鹿児島県東部、志布志市(しぶしし)にあった城、志布志城をご紹介します。少しユニークな地名と感じるかもしれませんし、志布志市埋蔵文化財センターにある城の模型を見るとすごいインパクトを感じます。現代の視点で見ると、ここには志布志港があり、重要港湾と中核国際港湾に指定されています。全国の港湾の中で、原木の輸出額1位、飼料用とうもろこし輸入額2位(2024年実績)とのことです(参考資料①より、以下番号のみ記載)。大型フェリー「さんふらわあ」も就航しています。実はこの港は、平安時代末期に荘園(島津荘)の港として開かれ、「志布志津」と呼ばれていました。中世には国内のみならず国際貿易も行われました、領主たちは、貿易で利益を上げられ、兵員・物資輸送にも有利な港があるこの地を巡って争いました。志布志城は、この地を治める拠点だったのです(②など)。

志布志城(内城)の模型、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
志布志港に停泊するフェリー「さんふらわあ」

城そのものにも大きな特徴があります。それはシラス台地に作られた大規模な山城だったということです。シラス台地が広がる南九州には、同じような特徴を持つ城が多く築かれました。本編では、そのシラス台地に築かれた城の特徴を説明します。次に、志布志を巡って争った領主たちの栄枯盛衰を見てみます。それから志布志城そのものにフォーカスします。最後に、戦国時代から江戸時代にかけて、地域と城がどうなったのかをお話しします。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(シラス台地に築かれた名城・志布志城の歴史)

シラス台地に築かれた城

シラス台地は、火山の流出物などが堆積しててきた南九州特有の地形です。その土壌は「白い砂」という意味の「シラス」と呼ばれています。シラスはサラサラしてやわらかく、水の浸食によって台地の縁に崖ができます。乾燥した状態では安定し、崩れる時も崖の上部が落下するだけで、大規模な山崩れは起きにくい性質があります。領主たちはこの性質を利用して、台地を削り、深い空堀とそれに隔てられた曲輪による山城を築きました(②)。志布志にあるシラス台地に登ってみると、市街地や港を一望することができます。このような場所は、城を築くのにうってつけだったのでしょう。

志布志市の範囲と城の位置

志布志のシラス台地

このように南九州のシラス台地上に作らられた山城群は「南九州型城郭」と呼ばれています。またその作り方から、同じくらいの標高に独立した曲輪が群れをなして立ち並ぶことから「群郭式城郭」とも呼ばれます(②)。志布志城の模型を見てみても、中心部の本丸はあるものの、突出した位置や規模ではないことがわかります。「南九州型城郭」の代表的なものとしては、志布志城のほか、知覧城、佐土原城、飫肥城、人吉城などが挙げられます。

知覧城の航空写真、南九州市ウェブサイトより引用

ここからだんだん志布志城の方に話を移していくと、志布志城は、実際には4つの城(内城、松尾城、高城、新城)の集合体でした。先ほどからの城の模型は、戦国時代にかけて中心的な拠点になった内城(うちじょう)のものです。4つの城のうち、松尾城が最初に築かれ、次第に拡大・変化していったと考えられます(②)。現在、ビジターが通常見学できるのは、内城と松尾城です(志布志観光特産品協会での情報)。

4つの志布志城、現地説明パネルより

それから、この志布志という地名の由来ですが、この名前は「志(こころざし)」+「布(織物)」+「志」というように分解できます、そしてこれは、天智天皇がこの地を訪れたときの逸話によるというのです。天智天皇は、その地の女主人からも、仕えている者からも織物を献上されたそうです。天皇は大変喜び、身分の上下に関係なく志があついということで、この地は「志布志」であると言ったそうです(③)。この伝説が事実かどうかはともかく、この地と名前は長い歴史を持っているのでしょう。

地名発祥の地、献上橋

領主たちの栄枯盛衰

志布志城の正確な築城年代は不明ですが、南北朝時代(1336年)に肝付氏の配下が守っていた記録があるので、南北朝争乱の中で築城され、以後拡大していったと考えられます。その初代の肝付氏から始まって、江戸時代初期に廃城になるまで、志布志城の領主氏族はなんと6回も交替したのです(②④)
1.肝付氏:~1336年?
2.楡井氏:1338年?~1351年
3.畠山氏:1351年~1357年
4.新納氏:1357年~1538年
5.豊州家島津氏:1538年~1562年
6.肝付氏:1562年~1576年
7.島津氏:1576年~

これを3つに分類すると、最初は南北朝争乱によるものです。2番目の楡井氏は南朝方に属していました。当主の楡井頼仲は、志布志城のうち、松尾城を拠点とし、大慈寺を創建するなど地域で勢力を伸ばしました。一方、北朝方としては、日向国(宮崎県)を任せられた畠山直顕(日向守護職)が、志布志(当時は日向国)や大隅国(鹿児島県東部)に勢力を伸ばしてきました。1351年、畠山氏は楡井氏を破り、志布志城を手に入れました。楡井頼仲は二度奪回を図りますが失敗し、ついには自害しました。頼仲の墓は今も大慈寺にあります。ところで、大隅は本来、北朝方としても島津氏(奥州家、大隅守護職)のテリトリーでした。1357年、島津氏の助けを得た新納実久は、志布志城の松尾城にいて、内城に入った畠山直顕と対陣し、これを破りました。直顕は北方へ撤退していきました。その後、約180年間にわたり、新納氏の支配が続きます(②④)。

楡井頼仲が創建した大慈寺
楡井頼仲の墓
新納氏の時代に城を守った隈田原兄弟とされる仁王像(宝満寺跡)

状況が次に動いたのは戦国時代中期(16世紀前半)でした。薩摩の島津氏に家督争いが起こったときです。その頃島津氏には、本家(奥州家)の他、伊作家(相州家を継ぐ)・薩州家・豊州家などがありました。力が衰えていた本家14代・勝久は、伊作家に協力を求め、当主・忠良の子・貴久を養子とし、本家15代目としました(1526年、大永6件)。ところが、実権を握ろうとしていた薩州家当主・実久がこれに反発すると、勝久は貴久への継承を撤回しました。ここに、本家・伊作家・薩州家三つ巴の構想が始まったのです。貴久が権力を確立するまでには10年以上かかりました(1540年頃)。その過程で、薩州家の実久は、豊州家・島津忠朝、肝付兼続などに呼びかけを行い、志布志に集まりました(1535年、天文4年)。ところが志布志城の新納忠茂は、貴久側と連携していて応じなかったため、連合軍に攻撃され、降伏しました(1538年)。ここに長きに渡った新納氏の支配が終わり、豊州・島津氏が新しい領主になりました(②④⑤⑦)。

島津貴久肖像画、尚古集成館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし戦国の動乱が九州全体を覆うと、また事態が変わります。日向の伊東氏が南に侵攻を始め、それに呼応して肝付氏が島津氏からの独立を図ったのです。その狭間にいた豊州家島津氏は、挟み撃ちに合う形になりました。1562年(永禄5年)飫肥城が伊東氏により落城すると、肝付氏も志布志に侵攻しました。当主の肝付兼続は1564年に志布志に移り住み(隠居所)2年後に亡くなるまで過ごしました。1567年には豊州・薩摩家は駆逐され、肝付氏は大隅の戦国大名になりました。肝付氏は、伊東氏の助力を得ながら島津氏に対抗していきますが、その伊東氏の援軍が到着したときの志布志城(内城)の姿を再現したのが、志布志市埋蔵文化財センターの模型です(②④)。このときが城の全盛期だったのかもしれません。

肝付兼続の墓(志布志市内、江戸時代の再建)

志布志城の築城と完成

それでは、最終的に志布志城の中心になった内城を題材に、城がどう作られたか追っていきましょう。まず、川(前川)に沿って南北に延びるシラス台地の先端を、深い堀(堀切)で切り離します。これによって地続きに攻められるのを防ぐことができます。次に山や斜面を削り、建物を建てる曲輪を作ります。さらに空堀によって複数の曲輪を隔てます。これが本丸を中心とした部分です。それに続いて中野久尾(なかのくび)部分が作られ、最後に大野久尾(おおのくび)部分が作られたと考えられます(③)。同じ部分でも、いくつもの曲輪とそれを隔てる空堀によって成り立っていました。

城周辺の起伏地図

本丸部分の造成、志布志市埋蔵文化財センター資料より
内城全体の造成、志布志市埋蔵文化財センター資料より

完成した志布志城(内城)は、多くの曲輪と深い空堀から成り立っていました。曲輪は土塁によって囲まれ、入口は狭い「虎口」だけになっていました。シラス台地に作られた城の典型例です。城そのものの出入口として大手口(正面)と搦手口(裏面)がありました。内城だけでも、南北約500m、東西約250mに及びました(本丸標高54m、比高約50m)。敵がこの城を攻めるとき、どちらから入っても、深い空堀から曲輪に攻め登ることは不可能です。空堀の堀底道を進み、虎口から攻め入るしかありません。そのため大軍で攻めても長蛇の列になり、列の先頭しか戦うことができません。しかも堀底にいる軍は、常に曲輪からの攻撃にさらされてしまいます(②④)。

志布志城(内城)の模型全景、大手口は左手、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
上記模型の搦手口、真ん中下から深い空堀を進みます。

例えば、城の大手口から本丸を目指して攻めるとしましょう。するとまず、大手口の右側にある曲輪(矢倉場)から攻撃を受けることになります。そこを突破して本丸登城口に着くと、今度は左右の曲輪から攻撃を受けます。先に行くと、道は二手に分かれていてどちらに進んでいいかわかりません。運よく正しい右側の道に進んでも、なんと4方向から攻撃を受けるのです。なんとかそこを突破し、堀底道を進んでも常に左右の曲輪から攻撃されます。やがて、本丸下段の虎口に近づきますが、さらに本丸上段からの反撃が加わります。このように、多くの曲輪と曲がりくねった空堀を組み合わせることで、高い防御力を持つことになったのです(④)。

上記模型の大手口部分、すぐ右側に矢倉場があります
上記模型の本丸登城口部分、深い堀底道が続きます
上記模型の高い物見台があるところが本丸下段、その奥が本丸上段

この城は山城で、戦いのときに立てこもるためでしたので、城主は普段は城の外で生活していました。当然、志布志津による貿易の恩恵を受けていたでしょう。志布志城跡からも、生活道具・武具類のほか、海外製陶磁器・国内陶器・銭が出土しています(②⑥)。兵士は駐留していたのでしょうが、領主や上級武士も一時生活していたか、大事なものをここにしまっていたのかもしれません。

志布志の行く末

肝付氏の統治も長く続きませんでした。島津貴久の跡を継いだ島津義久が、大隅に侵攻してきたからです。実は、肝付兼続の存命中(1566年)には元の本拠地である高山城(こうやまじょう)が落城していたのです。肝付氏自身も、1573年(天正元年)北方の北郷氏を攻めたときに大敗し(国合原の戦い)、伊東氏も前年の木崎原(きざきばる)合戦で島津氏に大敗していました。地域のパワーパランスが大きく崩れたのです。兼続の跡を継いでいた(2代後)肝付兼亮(かねあき)は、義母で兼続の妻である御南(おなみ)の進言などにより、1574年に島津氏に降伏しました。御南は、島津氏の先代・貴久の姉でもありました。そして1576年から志布志は島津領(代官・鎌田氏が統治)になりました。島津氏の支配が安定すると、江戸時代の「一国一城令」(1615年)までには志布志城は廃城になったと考えられます(②④⑤⑦)。

その代わりに、防衛拠点として「志布志麓(ふもと)」が置かれました。「麓」とは、薩摩藩が領内統治や防衛のために、各地に藩士を住まわせた拠点です。約120ヶ所あったと言われています。志布志は他藩(高鍋藩)との境目にあったので、引き続き重要拠点だったのです。現在、志布志城跡の山麓に武家屋敷跡が残っていて「志布志麓庭園」として公開されています(福山氏庭園、平山氏庭園、天水氏庭園)(⑧など)。

代表的な麓、出水麓の模型、黎明館にて展示
福山氏屋敷
福山氏庭園
天水氏庭園

そして志布志の港の方ですが、鎖国中の江戸時代でも、志布志はある意味国際貿易港でした。なんと密貿易を行う場だったというのです。「密貿易屋敷」には隠し部屋があり、秘密の商談が行われていたようです。また、地下室もあって、そこから秘密の通路で海に出ることができたと言われています。もちろん国内や琉球との交易は公に繁盛していました。志布志はやはり、昔からずっと港として繁栄してきた地だったのです(③)。

密貿易屋敷の模型、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
密貿易屋敷跡

リンク、参考情報

①「志布志港の貿易状況について」2025年5月22日長崎税関
②志布志市埋蔵文化財センターリーフレット
③志布志市埋蔵文化財センター展示
④志布志市埋蔵文化財センター説明資料
⑤「地域から見た戦国150年 九州・琉球の戦国史/福島金治著」ミネルヴァ書房
⑥志布志城跡現地説明パネル
志布志城跡、志布志市公式ホームページ
国指定文化財 志布志麓庭園、志布志市公式ホームページ

「志布志城 その2」に続きます。

96.飫肥城 その1

伊東氏が守り続けた城

立地と歴史

当初は島津氏が所有

宮崎県南部にある日南市飫肥(おび)地区は、人気のある観光地です。九州の小京都とも言われています。古い城下町の雰囲気を残していて、1950年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉や、さつま芋を原料とした焼酎などの名産品もあります。実はこれらの名産品は、飫肥城と飫肥藩の長く、しかも過酷な歴史から生まれたとも言えるのです。

日南市の範囲と城の位置

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飫肥城旧本丸に生えている飫肥杉

14世紀ころ、地元領主が最初に飫肥城を築城したと言われていますが、その詳細はわかっていません。15世紀後半から16世紀末までの戦国時代の間、日向国(現在の宮崎県)の南部地域は、北からの伊東氏と南からの島津氏の抗争の地となりました。当時は島津氏がこの地を確保していて、伊東氏の侵入を防ぐために、1458年には飫肥城を改修しました。

南九州型城郭の一つ

飫肥城は、もともと南九州型城郭の一つでした。このタイプの城郭は、古代の噴火による火山灰が積もってできたシラス台地を加工して築かれました。その土壌はもろく、容易に崩れて崖を形成します。この地域の武士たちはこの地理的な特徴を生かして、自身の城を築きました。この自然の地形を加工すれば、容易に強力な防御システムを構築できたからです。例えば、彼らは台地の土壌を削って、深い空堀、曲輪下の高い壁、入り口を細くした関門を築きました。このタイプの代表的なものとしては、知覧城志布志城佐土原城、そして飫肥城が挙げられます。また、飫肥城の場合には、酒谷川(さかたにがわ)が蛇行しながら台地を囲んでいて、自然の堀となっていました。

知覧城跡 (licensed by PIXTA)
志布志城の模型、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
佐土原城跡

城周辺の起伏地図

伊東氏の栄光と凋落

伊東氏は、1484年に飫肥城の攻撃を始め、その後城を巡って長い戦いとなりました。16世紀中頃の当主であった伊東義祐(いとうよしすけ)は果敢に攻撃し、1569年にはついに城を落とし、子息の祐兵(すけたけ)を城主として送り込みました。この頃が義祐の絶頂期で、日向国で48もの城を支配していました。ところが栄光は長く続かず、1573年の木崎原の戦いで島津氏に敗れたことをきっかけに、飫肥城を含む48城を一つ一つ失っていきました。1577年には島津軍は、伊東一族を日向国から北の豊後国に逃亡させ、これは伊東崩れと呼ばれました。伊東一族は全てを失い、ついには漂泊することになりました。義祐は1585年にその漂泊の最中に亡くなります。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊東祐兵の肖像画、日南市教育委員会所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊東氏がカムバックし長く統治

この大不幸の後、義祐の息子、祐兵は偶然1582年に、後に天下人の豊臣秀吉となる羽柴秀吉に仕官しました。これは祐兵にとって大変な幸運でした。秀吉が1586年に、島津氏がほとんど制覇していた九州地方に侵攻したとき、祐岳は秀吉の道案内を勤めたのです。島津氏は秀吉に降伏することになりました。秀吉への貢献により、祐兵はついに1588年、飫肥城に城主として戻ってきました。島津氏とのこの城を巡る戦いに100年以上を要したことになります。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日本の支配者は豊臣氏から徳川幕府に変わっていきましたが、伊東氏は何とか飫肥の領地を維持することができました。その結果、伊東氏による飫肥藩は300年近くこの地にあり続けました。しかし、事情は単純ではありませんでした。島津氏による薩摩藩は密かに隠密を飫肥に派遣し、飫肥城がどのようになっているのか調べていたのです。状況が変われば、伊東氏から飫肥城を取り返そうと考えていたようです。一方、伊東氏もまた飫肥が唯一最後の居場所と考えていたようで、地道に城や城下町を改良していきました。一例として、17世紀後半には頂上の本丸が地震により崩壊しました。地盤であるシラス台地が軟弱だったからです。飫肥藩は、新しい本丸を旧本丸の下の方に再建したのですが、両方とも堅固な石垣を築くことで強化したのです。また、杉の植林とさつま芋の栽培を人々に奨励し、藩の継続のための産業化を図りました。

飫肥城跡(大手門)
旧本丸の石垣

「飫肥城その2」に続きます。

197.志布志城 その1

重要な港近くに築かれたシラス台地上の城

立地と歴史

重要な港であり続けた志布志

鹿児島県東部に位置する志布志市(しぶしし)は、日本の地名の中でもユニークな名前なのかもしれません。それは、この市の名前「志布志市(しぶしし)」の発音が少し難しいからです。この言い回しはときどき、早口言葉の一つとしても使われています。「志布志市志布志町志布志の志布志市市役所の志布志支所」といった具合です。この志布志という地名の由来ですが、「志(貢ぎ物)」+「布(織物)」+「志(貢ぎ物)」というように分解され、この地に天智天皇が訪れたときの逸話に基づくと言われています。天智天皇は、上級階層の人からも下層階級の人からも織物を献上されたそうです。天皇は大変喜び、この「志布志」という名前を思い付き、下賜したとされています。この逸話が事実かどうかはともかく、この地が長い歴史を持っていることは確かでしょう。

志布志市の範囲と城の位置

志布志市役所志布志支所に掲げられた看板 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

志布志市のもう一つの特徴としては、志布志港が重要港湾と中核国際港湾に指定されていることです。この辺りを回ってみると、おびただしい数のコンテナや木材が積まれていたり、さんぶらわあのようなフェリーが停泊しているのが見られます。この港は、南九州地方に荘園が開発された古代以来、繁栄しているのです。中世には国際貿易もここで行われ、周辺の領主たちは豊かになりました。よって、領主たちは志布志周辺の領有を望み、それを巡って争いました。志布志城は、この地を治めるための拠点としての山城でした。

志布志港に停泊中のフェリーさんふらわあ

南九州型城郭の一つ

志布志城にもまた重要な特徴があり、南九州型城郭の一つであることが挙げられます。この型の城郭は、この地域において山あるいは丘のように見えるシラス台地の上に築かれました。シラス台地は古代の噴火により生じた火山灰により生成されたものです。その土壌はもろく、容易に崩れ、崖を形作ります。この地域の武士たちは、よくこの性質を利用し、城を築きました。この自然の地形を加工することで、強力な防御の仕組み(深い堀や高い壁)を手に入れることができたからです。このタイプの城として著名なのが、知覧城佐土原城、飫肥城、そして志布志城です。

知覧城跡
佐土原城跡
飫肥城跡

城周辺の起伏地図

例えば今志布志港にいたとして、内陸の方を振り返ってみると、長い崖のラインが海岸線から引いたところに横たわっているのが見えます。志布志の領主たちはこの自然の地形を使って、一つずつ城を築いていったのです。実は志布志城というのも、4つの城(内城(うちじょう)、松尾城(まつおじょう)高城(たかじょう)、新城(しんじょう))の総称なのです。14世紀に楡井(にれい)氏が最初に松尾城を築いたと言われています。その後、内城が築かれ、16世紀に畠山氏や新納(にいろ)氏の本拠地として使われました。それまでに、高城と新城も前述の2つの城の外郭として築かれました。志布志城の城主は頻繁に変わり、肝付(きもつき)氏や、そして最終的には島津氏のものになりました。これは、城周辺の地域が治める者にとってとても魅力的だったため、有力戦国大名(北の伊東氏、南の島津氏)間での争いの場になったからです。城主の中には、両者の間を行ったり来たりした者もいました。

志布志港から見えるシラス台地の崖のライン
志布志城の4つの城跡の航空写真(現地説明版より)

シラス台地を活用した防御システム

この城の最盛期には、城の主要部分の内城には、非常に複雑な防御システムが備わっていました。もともとあったシラス台地を正面から縦方向に3つの空堀を刻み込み、横方向には5つの空堀を刻みました。残った台地の部分はそれぞれが独立した曲輪となり、土塁と柵に囲まれていました。これらの曲輪には城を維持したり防御したりするために、櫓や兵舎、住居がありました。訪問者または敵が曲輪に入るには、まず堀の底に入ってから、防御のための関門を通り過ぎなければなりませんでした。敵であったなら堀の底にいるうちに、遥か上方の曲輪にいる守備兵から攻撃を受けてしまったでしょう。

志布志市埋蔵文化財センターで展示されている内城の模型
上記模型の本丸部分

城主は通常は麓にあった居館に住んでいて、戦いのような非常事態のときにこの城を使いました。しかし、発掘の成果として城跡からは、舶来の陶磁器のような高価な交易品以外にも、国内製の陶器、銭貨、鉄砲玉のような日常的に必要なものも出土しています。これらの品々は、城が長い間使われ、国際貿易が行われた志布志港とも関係があったことを示しています。志布志城は最後は、1615年に徳川幕府から発布された一国一城令に基づき、最後の城主であった島津氏によって廃城となりました。

志布志城跡(本丸部分)

「志布志城その2」に続きます。

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