96.飫肥城 その1

宮崎県日南市にある飫肥は、飫肥城跡と、武家屋敷や城下町の町割りや雰囲気を残す人気のある観光地になっています。「南九州の小京都」とも言われ、1977年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉の産地としても知られています。

イントロダクション

宮崎県日南市にある飫肥は、飫肥城跡と、武家屋敷や城下町の町割りや雰囲気を残す人気のある観光地になっています。「南九州の小京都」とも言われ、1977年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉の産地としても知られています。

復元された飫肥城大手門
旧本丸の飫肥杉

一方、飫肥城は「南九州型城郭」といわれるシラス台地に築かれた城の代表的なものの一つです。しかし、志布志城や佐土原城のように荒々しい台地の削り跡が残る城に比べると、飫肥城はずいぶん洗練されているように見えます。それはどうしてでしょうか。

志布志城の搦手口
佐土原城の大手口

もちろん、前者は江戸時代初期に廃城になり、飫肥城は幕末まで続いたという理由があります。しかしそれに加えて、飫肥城そのものと、飫肥藩の歴史が関わっているように思います。その背景には、ほとんどの期間城主だった伊東氏の栄光・凋落、そして復活劇があったのです。

飫肥城の旧本丸

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史

初期の飫肥城と争奪戦

飫肥は、日向国南部にあり、志布志とともに重要な拠点でした。志布志は港として繁栄しましたが、飫肥の近くにも油津(当時は「油浦」)がありました。室町時代には遣明船の中継地点になり、戦国時代になると海外貿易も行われました。志布志を含めた南日向の沿岸地域は、領主たちの争奪戦の対象になったのです。(参考資料①②より、以下番号のみ記載)

日南市の範囲と城の位置

飫肥は戦国時代前期から、島津氏の一族である豊州家島津氏が治めていました(一時新納氏、③)。そして志布志も、島津本家の家督争いに乗じて豊州家島津氏が手に入れました(1538年)。しかし戦国時代後期になると、南日向の重要性から、北からは伊東氏が、南からは肝付氏が侵攻してくるのです。

飫肥城がいつ築かれたか定かではありませんが、遅くとも、豊州家島津氏の初代・島津季久(すえひさ)が飫肥の領主になった頃(15世紀中頃)には築かれたと考えられています(③)。初期の城の姿もはっきりしませんが、一般的にシラス台地に築かれた城は、台地を削りながら築かれるので、同じような高さと規模の曲輪が立ち並ぶ「群郭式城郭」の特徴があります。江戸時代以来飫肥城と言われる場所は、本丸・大手門の辺りに集中していますが、地形図を見ると、曲輪がその名前とともにずっと広がっていたことがわかります。飫肥城も当初は、他のシラス台地の城、知覧城や志布志城のような外観をしていたのかもしれません。

代表的なシラス台地の城の一つ、知覧城の航空写真、南九州市ウェブサイトより引用
志布志城の航空写真、現地説明パネルより

飫肥城周辺の起伏地図、曲輪名は参考情報➉より

伊東氏は南北朝時代に北朝方として日向国に派遣されて以来、日向国中部で着々と勢力を広げてきました。1484年から伊東祐国が2度飫肥城を包囲していますが、本格的に飫肥攻めを行ったのは、伊東義祐(よしすけ)です(約25年間、③)。義祐(生年:1513年~没年:1585年)の特徴の一つは、その官位の高さです。伊東氏は伝統的な九州の大名家(大友・島津・菊池・少弐など)ではないので、それまでは「大和守」が慣例でした。義祐は将軍家などに工作を行い、とんとん拍子に出世しました。
・1541年(天文10年):従五位下・大膳大夫
・1542年(天文11年):従四位下
・1561年(永禄4年):従三位(公卿)、相判衆(将軍に近侍する役柄)
それ相応の物入りだったことはもちろんですが、当時の将軍家(足利義晴・義輝)にとっても、遠隔地大名に栄典を与えることで、将軍権威の浮揚を図ったのです(①)。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

義祐は、早くから仏門に入っていたので「三位入道」と呼ばれました。優れた文人でもあったらしく、京都の文化を本拠地の佐土原に導入したそうです。当然武人としても秀でていなければ戦国の世は乗り切れないので、「日(日向)、薩(薩摩)、隅(大隅)三州太守」と称して領土を拡大しました。そして同じように「三州太守」と称していた島津氏と対決したのです(④)。

伊東氏の栄光と凋落

義祐は1543年(天文12年)頃、初めて飫肥に侵攻して以来、なんと約25年もの期間をかけて飫肥城を手に入れました。整理すると三次にわたって飫肥城攻めを行ったとのことです。
第一次(1543年頃~):島津貴久からの援軍により撃退された
第二次(1551年~):島津本家が肝付氏に敗れ飫肥から引き上げ、伊東氏が飫肥城の一角を奪った。1562年豊州家は伊東氏に一旦引き渡すが、隙をみて奪回
第三次(1563年~):戦いは膠着状態になるが、島津本家からの援軍が少ないときに伊東氏が攻勢をかけ大勝、1568年に豊州家は都城に撤退。(③⑤)
その間将軍・足利義輝が調停に乗り出したのですが、伊東氏は「将軍義政から三カ国守護に任ぜられ、飫肥・庄内は伊東領」だと主張、島津氏も「自らが三国守護で伊東の飫肥・庄内の権益は虚言だ」と反論し、失敗しました(①)。

結果、義祐は人生の多くをかけて飫肥を攻略し、伊東氏史上、最大領土を得て全盛期を迎えました。本城・佐土原城(または都於郡城)を中心に、飫肥城を含む48の支城を支配したことで「伊東四十八城」と呼ばれました。飫肥城には息子の祐兵(すけたけ、三男)を配置しました(③)。

伊東祐兵肖像画、日南市教育委員会蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかしこの栄光は長くは続きませんでした。飫肥城攻略のわずか4年後(1572年)、島津義弘の飯野・加久藤城を攻めた大軍の伊東軍は、小勢の島津軍に大敗しました(木崎原合戦)。島津氏は伊東氏家臣の調略、城の攻略を急速に進めます。
1573年:須木城の米良氏などを調略
1576年:高原城を攻略
そして1577年(天正3年)野尻城の伊東重臣・福永氏を調略すると、一気に伊東氏の本拠(都於郡)に攻め込みました。他の多くの家臣も離反したことで、義祐・祐兵は一戦も交えずに、縁戚のある大友氏の下に落ち延びました。飫肥城も放棄されました(①)その途中の財部城の落合氏も離反していたため、一行は高千穂の山岳地帯を進みました。折しも真冬で吹雪の中の逃避行であったといいます。(④)この出来事は「伊東崩れ」「日向崩れ」と呼ばれています。

島津義弘肖像画、尚古集成館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊東氏一行は大友宗麟に保護されますが、翌年(1578年)大友氏が伊東領奪回を名目に出陣した耳川の戦いで島津氏に大敗してしまいます。居づらくなった伊東一行はわずか20名ほどで四国伊予の河野氏家臣(大内氏)のもとに移りました。祐兵の妻(松寿院)を奪い取られそうになり、脱出したとも言われています。伊予での暮らしは貧しく、家臣は酒造り、機織りをしてしのぎました。(⑥)

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて祐兵は仕官しましたが、義祐は仏僧・文人であったため、気ままな旅暮らしをしていました。ところが現在の山口県あたりで家臣とはぐれてしまいます。祐兵の屋敷のあった堺に向けて船に乗ったところ、体調を崩し、堺についたところで行き倒れになってしまいました。その噂を聞きつけた家人たちによって屋敷に運ばれますが、ついに享年73で亡くなりました。1585年のことで「三位入道」波乱の人生でした。(⑥)

伊東氏の復活劇、飫肥藩の成立

伊東祐兵が仕官したのは、中国攻めを行っていた織田信長の家臣・羽柴秀吉でした。本能寺の変が起こる半年前のことでした(1582年)。まさに秀吉が天下統一に乗り出さんとするタイミングだったのです。遠縁の秀吉家臣(伊東掃部介)の仲介で一旦断られますが、秀吉に直接目通りすると、即時仕官が決まったそうです(下記補足1)。

(補足1)秀吉の言葉「いかにもたくましい勇士である(「日向記」)」「これから中国地方の毛利氏を攻めるにあたり、九州から自分を頼ってくる者があるとは、目出度い(「川崎私記」)(現代語訳は飫肥城松の丸展示より)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

祐兵(1559年生まれ)の同年配には、大谷吉継(同年)、石田三成(60年)、福島正則(61年)、加藤清正(62年)などがいました。当初は30人扶持(「日向記」)でしたが、彼らと出世を競い合い、仕官翌年には500石を得ています。そして1587年(天正15年)の九州平定には、豊臣秀長が総大将、黒田官兵衛(孝高、如水)が指揮する軍の配下で日向国に攻め入っています。道案内ということもあったのでしょう。その結果、戦後の論功行賞で飫肥を与えられ、10年ぶりに飫肥城に戻ってくることになったのです(石高2万8千石余→後に検地で5万7千石余→分知により5万1千石余)。放浪時代に世話になった大内氏も重臣として迎えられました。(③⑥)

しかし旧城主の上原氏が城をなかなか明け渡さず、祐兵の入城は翌年になってしまいました(①)。また家臣(川崎家)の記録には、取次ぎを行う黒田官兵衛が秀吉から不興をかったために「祐兵は飫肥城を与えられたものの、大封を得られず2万石余に留まり、「残念至極の事」」と記されています(⑥)。

黒田如水肖像画、崇福寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佑兵は関ヶ原の戦い前に病気になり、跡継ぎの祐慶(すけのり)が九州で東軍に参加することで、領地を安堵され、これが飫肥藩になります。飫肥の地は、蛇行する酒谷川に三方を囲まれた要害の地で、その背後のシラス台地に城が築かれていました。飫肥城の近代化は、まずこの2代に間に行われました。群郭式の城の中で、本丸、中の丸、松尾の丸などが中核の曲輪群として整備されました(⑤)。松尾の丸に残る石垣は、この当時のものと考えられます(⑦)。

江戸時代に城、城下町として整備された範囲、飫肥城歴史資料館にて展示
左側が松尾の丸の石垣

ところで因縁の島津氏との関係ですが、幕府・各藩と協調の方針をとった島津義弘が健在のころは良好でした。幕府が島津征伐を計画している噂が流れると、義弘は飫肥藩に真偽を問い合わせ、伊東祐慶は母・松寿院などからの情報をもとに噂を否定、急いで上洛して将軍に挨拶するよう勧めています。(⑥)

飫肥城を守り、現代へ継承

飫肥藩は、伊東氏14代によって幕末維新まで治められました(最後の代は知藩事、⑧)。しかし困難はありました。まず地震の被害です。17世紀後半、3度に渡って大地震が起こり(1662、1680、1684年)石垣が破損したほか、藩主寝所下に地割れが生じ、本丸建物が維持できなくなりました。そこで、中の丸を新本丸とし、大改修が行われました。(⑤)現在見られる城内の石垣の大半は地震後に改修されたものです(⑨)。
1691年:石垣完成、1693年:新本丸御殿完成、1713年:大手門完成(③⑨)同時期に二階櫓も建築(⑤)

本丸石垣
大手門(建物は復元)

次には薩摩藩との確執が挙げられます。島津義弘が亡くなると(1619年)飫肥藩と薩摩藩の間で境目論争が起こり(1624頃~)再び険悪な関係になります。この論争は幕府の裁定により飫肥藩の勝訴に終わるのですが(1675年)両藩の緊張関係は幕末まで続きました。飫肥藩は領内の要所に藩士を配置し続ける体制をとっていました。また興味深いことに、薩摩側(都城島津邸)には江戸後期の飫肥城本丸内の配置を記した絵図が残っています。(③⑥)薩摩藩の密偵が潜入し、情報収集していたのでしょう。

薩摩側が持っていた飫肥城の絵図、飫肥城歴史資料館にて展示

一方、先ほどの境目論争に勝訴したことで、飫肥藩は豊かな山林資源を確保しました。飫肥杉です。実は江戸中期までは松や楠の巨木だったのですが、枯渇してしまったので、藩民をあげて飫肥杉の大植林を行ったのです。成長が早く、船材に適していました。飫肥杉は、江戸後期から昭和時代まで、飫肥の経済をけん引する産業になりました。その飫肥杉などが積み出されたのが、戦国時代まで海外貿易で栄えた油津です。切り出した木材を港まで運ぶために「油津堀川」が開削されました。(②③)これらが藩の財政を支えましたが、藩士の生活はきびしかったようです。藩ができたときに、かつて大大名だったときの家臣を大勢召し抱えたため、石高ににしては藩士の数が多かったからです。

飫肥杉植林の様子、飫肥城歴史資料館にて展示
油津堀川の様子、飫肥城歴史資料館にて展示

幕末が近くなると、藩校・振徳堂が開設されました。ここから輩出された人物で有名なのは、日露戦争のポーツマス条約を締結した明治時代の外務大臣・小村寿太郎でしょう。現在、小村寿太郎記念館なども飫肥観光スポットの一つになっています。幕末維新の飫肥を支えた重要人物としては、家老の平部嶠南(ひらべきょうなん)が挙げられます。1868年、鳥羽伏見の戦いでの幕府の敗戦を聞くと、彼は薩摩藩に新政府への恭順の意を示し、薩摩藩家老(桂久武)と面会し、関係改善を果たしました。ただし、飫肥藩の兵は警戒されて、前線には出されなかったそうです。また、明治になって城の建物が撤去され、石垣も撤去される入札が実施されると聞いた嶠南は、石垣だけは残す努力をしたそうです。これも、現在の城や町の佇まいを残すことにつながっているのでしょう。(③)

修復、復元された振徳堂
小村寿太郎(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

①「地域から見た戦国150年 九州・琉球の戦国史/福島金治著」ミネルヴァ書房
「飫肥杉の積出港として賑わった油津の流通産業」みなと事業研究事業ウェブサイト
③ 飫肥城歴史資料館展示
④「三位入道/松本清張著」講談社「奥州の二人」より
⑤「九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編」吉川弘文館
⑥ 飫肥城松尾の丸展示
⑦「歴史群像シリーズ よみがえる日本の城18」学研
⑧ 飫肥城パンプレット
⑨ 飫肥城現地説明パネル
➉ 「古地図から読み解く飫肥城」戦国を歩こう

「飫肥城 その2」に続きます。

96.飫肥城 その1

伊東氏が守り続けた城

立地と歴史

当初は島津氏が所有

宮崎県南部にある日南市飫肥(おび)地区は、人気のある観光地です。九州の小京都とも言われています。古い城下町の雰囲気を残していて、1950年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉や、さつま芋を原料とした焼酎などの名産品もあります。実はこれらの名産品は、飫肥城と飫肥藩の長く、しかも過酷な歴史から生まれたとも言えるのです。

日南市の範囲と城の位置

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飫肥城旧本丸に生えている飫肥杉

14世紀ころ、地元領主が最初に飫肥城を築城したと言われていますが、その詳細はわかっていません。15世紀後半から16世紀末までの戦国時代の間、日向国(現在の宮崎県)の南部地域は、北からの伊東氏と南からの島津氏の抗争の地となりました。当時は島津氏がこの地を確保していて、伊東氏の侵入を防ぐために、1458年には飫肥城を改修しました。

南九州型城郭の一つ

飫肥城は、もともと南九州型城郭の一つでした。このタイプの城郭は、古代の噴火による火山灰が積もってできたシラス台地を加工して築かれました。その土壌はもろく、容易に崩れて崖を形成します。この地域の武士たちはこの地理的な特徴を生かして、自身の城を築きました。この自然の地形を加工すれば、容易に強力な防御システムを構築できたからです。例えば、彼らは台地の土壌を削って、深い空堀、曲輪下の高い壁、入り口を細くした関門を築きました。このタイプの代表的なものとしては、知覧城志布志城佐土原城、そして飫肥城が挙げられます。また、飫肥城の場合には、酒谷川(さかたにがわ)が蛇行しながら台地を囲んでいて、自然の堀となっていました。

知覧城跡 (licensed by PIXTA)
志布志城の模型、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
佐土原城跡

城周辺の起伏地図

伊東氏の栄光と凋落

伊東氏は、1484年に飫肥城の攻撃を始め、その後城を巡って長い戦いとなりました。16世紀中頃の当主であった伊東義祐(いとうよしすけ)は果敢に攻撃し、1569年にはついに城を落とし、子息の祐兵(すけたけ)を城主として送り込みました。この頃が義祐の絶頂期で、日向国で48もの城を支配していました。ところが栄光は長く続かず、1573年の木崎原の戦いで島津氏に敗れたことをきっかけに、飫肥城を含む48城を一つ一つ失っていきました。1577年には島津軍は、伊東一族を日向国から北の豊後国に逃亡させ、これは伊東崩れと呼ばれました。伊東一族は全てを失い、ついには漂泊することになりました。義祐は1585年にその漂泊の最中に亡くなります。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊東祐兵の肖像画、日南市教育委員会所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊東氏がカムバックし長く統治

この大不幸の後、義祐の息子、祐兵は偶然1582年に、後に天下人の豊臣秀吉となる羽柴秀吉に仕官しました。これは祐兵にとって大変な幸運でした。秀吉が1586年に、島津氏がほとんど制覇していた九州地方に侵攻したとき、祐岳は秀吉の道案内を勤めたのです。島津氏は秀吉に降伏することになりました。秀吉への貢献により、祐兵はついに1588年、飫肥城に城主として戻ってきました。島津氏とのこの城を巡る戦いに100年以上を要したことになります。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日本の支配者は豊臣氏から徳川幕府に変わっていきましたが、伊東氏は何とか飫肥の領地を維持することができました。その結果、伊東氏による飫肥藩は300年近くこの地にあり続けました。しかし、事情は単純ではありませんでした。島津氏による薩摩藩は密かに隠密を飫肥に派遣し、飫肥城がどのようになっているのか調べていたのです。状況が変われば、伊東氏から飫肥城を取り返そうと考えていたようです。一方、伊東氏もまた飫肥が唯一最後の居場所と考えていたようで、地道に城や城下町を改良していきました。一例として、17世紀後半には頂上の本丸が地震により崩壊しました。地盤であるシラス台地が軟弱だったからです。飫肥藩は、新しい本丸を旧本丸の下の方に再建したのですが、両方とも堅固な石垣を築くことで強化したのです。また、杉の植林とさつま芋の栽培を人々に奨励し、藩の継続のための産業化を図りました。

飫肥城跡(大手門)
旧本丸の石垣

「飫肥城その2」に続きます。

196.佐土原城 その1

伊東氏の栄光と凋落を象徴する城

立地と歴史

九州に送られた伊東氏が築城

宮崎県は九州地方の東側にあり、農業県として知られています。南北に長い形をしていて、日が出る方角に向かっています。そのため、農業に向いているといえるでしょう。宮崎県のほどんどのエリアは、かつては日向国(ひゅうがのくに)とよばれていました。まさに日が向く国という意味です。古代より肥沃であったことが容易に想像できます。県の中央部には、4世紀から7世紀の間に築造された西都原(さいとばる)古墳群があります。また、この国から初代天皇となる神武天皇が東征を行い、大和朝廷を設立したいう神話もあります。

宮崎県の範囲と城の位置

西都原古墳群

佐土原城は、日向国の中央部にあった城の一つで、伊東氏の本拠地でした。伊東氏はもとは工藤氏の出で、12世紀に東日本の伊豆半島東部に定住したときに、土地の名前を苗字としました。その世紀の末に鎌倉幕府が設立されて以来、武士たちは幕府により地方に領地を与えられ、その統治のために各地に送られました。伊東氏の支族も同様に日向国に出向きました。行った土地の名前に由来した田島伊東氏が、14世紀に佐土原城を最初に築いたと言われています。

伊豆半島の範囲(青線内)と城の位置

伊東四十八城の頂点

その間、時代は南北朝時代となり、足利幕府は地方支配のために改めて、伊東氏本家から武士を送り込みました。2系統の伊東氏はやがて統合し、佐土原城を本拠として強力な戦国大名に成長しました。15世紀から16世紀の戦国時代の間、伊東氏は南から進出してきた島津氏と日向国をめぐって戦いを繰り広げました。当時の当主であった伊東義祐(よしすけ)は相当攻撃的で、1569年に南日向の主要な城である飫肥城を陥落させました(島津氏の依頼による将軍家の仲裁にも耳を貸さなかったそうです)。この時点が彼の絶頂期であり、日向国に48もの城を有していました(伊東四十八城と称されます)。そして、その頂点に佐土原城があったのです。城下町は国府のように繁栄し、九州の小京都とも言われました(義祐は高位の官位を取得し、京風の文化や町割りを導入しました)。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
飫肥城跡

佐土原城は基本的に、南九州型城郭の一つとされています。このタイプの城は、この地方で山あるは丘のように見えるシラス台地上に築かれました。シラス台地は、古代の大噴火によって噴出した火山灰によって形作られています。その土壌はもろく、容易に崩れて崖を形成します。この地域の武士たちは、よくこの性質を利用して城を築きました。自然の地形を加工すれば、容易に強固な防御システムを構築することができたからです。例えば、深い空堀、曲輪下に高く立ちはだかる壁、狭く防御に優れた門などが土を加工して作られたのです。このような城の代表例として、知覧城、飫肥城、そして佐土原城が挙げられます。

佐土原城の大手口
知覧城の空堀 (licensed by PIXTA)

伊東崩れにより城は島津氏のものに

しかし、伊東義祐の栄光は長く続きませんでした。1573年の島津氏との木崎原の戦いでの敗戦をきっかけに、義祐は伊東四十八城を一つ一つ失っていきました。島津の勢いと伊東の凋落は、次々に部将たちの離反を招きました。彼は佐土原城に籠って抗戦できないか思案しましたが、状況はそれさえも許しませんでした。彼は城を後にせざるをえず、家族とわずかな供回りとともに日向国から北の、同盟者の大友宗麟が治める豊後国に逃れていきました。この出来事は「伊東崩れ(または豊後落ち)」と呼ばれました。彼らはついには全てを失い、やがて漂泊者となりました(大友宗麟が伊東救援を名目に島津氏と戦った耳川の戦いに大敗したことで居場所を失いました)。義祐は1585年に放浪の途中で亡くなってしまいますが、息子の祐兵(すけたけ)は天下人の豊臣秀吉に仕え、1588年には日向国の飫肥城への帰還を果たします。

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊東祐兵の肖像画、日南市教育委員会所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐土原城は必然的に島津氏のものとなりました。島津氏の下で城が改修され、頂上に天守が作られたとされていますが、いまだ事実としては確定していません。天守があったとしたら、日本最南端の天守であったろうと言われています。1600年に、城主であった島津豊久が関ヶ原の戦いで戦死してしまった後は、城は一旦幕府直轄となり、その後は島津以久(もちひさ)とその後継者が佐土原藩として江戸時代末まで統治しました。持久の息子、忠興(ただおき)は山上の城を廃し、山麓に御殿を築き、そちらに移りました。シラス台地にある城を維持するのは大変な困難を伴い、平地にある館の方が平和な江戸時代における統治に適していたからです。

佐土原城の天守台跡
島津以久の肖像画、東京大学史料編纂所データベースより (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
歴史資料館として復元された山麓の御殿

「佐土原城その2」に続きます。

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