96.飫肥城 その3

シラス台地上の城の完成形

特徴、見どころ

武家屋敷通りと藩校「振徳堂」

城の主要部分の東側(三の丸の一部)を歩いてみると、武家屋敷通りがあって、石垣、白壁、垣根、古い門などによりかつての雰囲気を残しています。敷地の中の屋敷の多くは、現代的施設、レストラン、住居に変わってしまっていますが、いくつかはそのまま残っていて、例えば、重臣の伊東氏の旧屋敷はホテルとして使われています。

城周辺の地図

武家屋敷通り
ホテルとして使われている旧伊東伝左衛門家

通りから1ブロック北には、藩校であった振徳堂(しんとくどう)の建物が復元されています。この藩校は優秀な人材を輩出していて、1905年に日露戦争を終わらせたポーツマス条約の締結における日本側の全権大使だった小村寿太郎はその一人です。藩校を囲む石垣はオリジナルで史跡の扱いとなるため、修復のため積み直しが必要なときは、全ての石に番号が付けられ、積む際には全く同じ場所になるように作業が進められます。

復元された振徳堂の建物
建物の内部
小村寿太郎の写真、「近世名士写真其一」より  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
修復中の石垣

旧城下町を巡る

城跡下にある旧城下町へ行ってみることもお勧めします。この区域は蛇行している酒谷川に囲まれています。城下町区域も武家屋敷通りと似た雰囲気ですが、こちらの方はよりカジュアルな感じがします。例えば、後町(うしろまち)通りには水路があり、錦鯉が泳いでいます。本町商人(ほんまちしょうにん)通りには古い商家が残っていて、そこでは食べ歩きやショッピングを楽しむことができます。

後町通り
水路を泳ぐ鯉

最後に、川に沿った城下町の西側から城跡を眺めてみましょう。そうすると、城はもとはシラス台地であった高く垂直に切り立った崖の上に築かれていることがわかるでしょう。崖の一部分は崩壊を防ぐためにコンクリートで固められています。現在の人々は今でも崖上の城跡を維持するのに苦心しています。伊東氏による飫肥藩は、きっと同じことをするのに更なる努力を必要としたでしょう。

酒谷川
城跡がある川沿いの崖
一部はコンクリートに覆われています

その後

明治維新後、ほとんどの城の建物は撤去されました。しかし、城と城下町の構成は、町割りを含めて、現在に至るまでそのまま残ってきました。日南市は1974年に復元事業を開始します。その後、1974年には九州地方で初めての重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。そして、大手門が1978年に、松尾の丸の御殿が1979年に復元されています。そのおかげで私たちは今日、現存しているものと、復元されたものがよく調和しているこの地を楽しむことができるのです。

復元された大手門
城下町にも強固な石垣が残ります

私の感想

飫肥城は、シラス台地上に築かれた城の完成形だと思います。この台地上に城を築くことは、その自然の性質を利用することで簡単なのですが、それを維持することがとても難しいのです。豪雨強風や地震など自然災害が、しばしばこれらの城で崖の崩壊をもたらしてきました。そのため、佐土原志布志知覧などの飫肥城と同タイプの城は、平和な江戸時代になると廃城となるか、部分的に放棄されました。しかし、飫肥城城主である伊東氏は、そのための代替地がありませんでした。よって、伊東氏と飫肥藩は、城と町を江戸時代の間ずっと強固に築き続け、現在見られるようなすばらしい街並みになったのだと思います。

旧本丸の石垣
旧本丸の土塁

ここに行くには

車で行く場合:宮崎自動車道の田野ICから、宮崎県道28号線経由で約45分かかります。城跡の手前にビジター向けの駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR飫肥駅から歩いて約15分かかります。
東京か大阪から来られる場合は、飛行機で鹿児島空港か宮崎空港まで行って、レンタカーを借りるのがよいかもしれません。

城跡前の駐車場

リンク、参考情報

飫肥城下町保存会 九州の小京都「飫肥」、宮崎県日南市
・「よみがえる日本の城18」学研
・「日本の城改訂版第94号」デアゴスティーニジャパン
・「三位入道(短編集「奥羽の二人」より)/松本清張著」講談社

これで終わります。ありがとうございました。
「飫肥城その1」に戻ります。
「飫肥城その2」に戻ります。

96.飫肥城 その1

伊東氏が守り続けた城

立地と歴史

当初は島津氏が所有

宮崎県南部にある日南市飫肥(おび)地区は、人気のある観光地です。九州の小京都とも言われています。古い城下町の雰囲気を残していて、1950年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉や、さつま芋を原料とした焼酎などの名産品もあります。実はこれらの名産品は、飫肥城と飫肥藩の長く、しかも過酷な歴史から生まれたとも言えるのです。

日南市の範囲と城の位置

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飫肥城旧本丸に生えている飫肥杉

14世紀ころ、地元領主が最初に飫肥城を築城したと言われていますが、その詳細はわかっていません。15世紀後半から16世紀末までの戦国時代の間、日向国(現在の宮崎県)の南部地域は、北からの伊東氏と南からの島津氏の抗争の地となりました。当時は島津氏がこの地を確保していて、伊東氏の侵入を防ぐために、1458年には飫肥城を改修しました。

南九州型城郭の一つ

飫肥城は、もともと南九州型城郭の一つでした。このタイプの城郭は、古代の噴火による火山灰が積もってできたシラス台地を加工して築かれました。その土壌はもろく、容易に崩れて崖を形成します。この地域の武士たちはこの地理的な特徴を生かして、自身の城を築きました。この自然の地形を加工すれば、容易に強力な防御システムを構築できたからです。例えば、彼らは台地の土壌を削って、深い空堀、曲輪下の高い壁、入り口を細くした関門を築きました。このタイプの代表的なものとしては、知覧城志布志城佐土原城、そして飫肥城が挙げられます。また、飫肥城の場合には、酒谷川(さかたにがわ)が蛇行しながら台地を囲んでいて、自然の堀となっていました。

知覧城跡 (licensed by PIXTA)
志布志城の模型、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
佐土原城跡

城周辺の起伏地図

伊東氏の栄光と凋落

伊東氏は、1484年に飫肥城の攻撃を始め、その後城を巡って長い戦いとなりました。16世紀中頃の当主であった伊東義祐(いとうよしすけ)は果敢に攻撃し、1569年にはついに城を落とし、子息の祐兵(すけたけ)を城主として送り込みました。この頃が義祐の絶頂期で、日向国で48もの城を支配していました。ところが栄光は長く続かず、1573年の木崎原の戦いで島津氏に敗れたことをきっかけに、飫肥城を含む48城を一つ一つ失っていきました。1577年には島津軍は、伊東一族を日向国から北の豊後国に逃亡させ、これは伊東崩れと呼ばれました。伊東一族は全てを失い、ついには漂泊することになりました。義祐は1585年にその漂泊の最中に亡くなります。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊東祐兵の肖像画、日南市教育委員会所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊東氏がカムバックし長く統治

この大不幸の後、義祐の息子、祐兵は偶然1582年に、後に天下人の豊臣秀吉となる羽柴秀吉に仕官しました。これは祐兵にとって大変な幸運でした。秀吉が1586年に、島津氏がほとんど制覇していた九州地方に侵攻したとき、祐岳は秀吉の道案内を勤めたのです。島津氏は秀吉に降伏することになりました。秀吉への貢献により、祐兵はついに1588年、飫肥城に城主として戻ってきました。島津氏とのこの城を巡る戦いに100年以上を要したことになります。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日本の支配者は豊臣氏から徳川幕府に変わっていきましたが、伊東氏は何とか飫肥の領地を維持することができました。その結果、伊東氏による飫肥藩は300年近くこの地にあり続けました。しかし、事情は単純ではありませんでした。島津氏による薩摩藩は密かに隠密を飫肥に派遣し、飫肥城がどのようになっているのか調べていたのです。状況が変われば、伊東氏から飫肥城を取り返そうと考えていたようです。一方、伊東氏もまた飫肥が唯一最後の居場所と考えていたようで、地道に城や城下町を改良していきました。一例として、17世紀後半には頂上の本丸が地震により崩壊しました。地盤であるシラス台地が軟弱だったからです。飫肥藩は、新しい本丸を旧本丸の下の方に再建したのですが、両方とも堅固な石垣を築くことで強化したのです。また、杉の植林とさつま芋の栽培を人々に奨励し、藩の継続のための産業化を図りました。

飫肥城跡(大手門)
旧本丸の石垣

「飫肥城その2」に続きます。

195.延岡城 その1

高橋元種が築いた総石垣造りの城

立地と歴史

日向国唯一の総石垣造りの城

延岡は、かつては日向国と呼ばれた宮崎県の北部に位置する工業都市です。日向国は南北に長く、平地と山地が入り組んでいます。よって、17世紀後半に伊東氏が君臨していた時期を除き、江戸時代の末期まで多くの小領主によって分割されていました。これらの小領主たちは、佐土原城や飫肥城のような主に自然の地形を利用した土造りの城に住んでいました。しかし、延岡城はこの国では唯一の総石垣造りの城であり、高橋元種(たかはしもとたね)によって築かれました。

宮崎県の範囲と城の位置

佐土原城
飫肥城

才能に恵まれていた高橋元種

元種は、元は日向国の北の筑前国の一部を支配していた秋月氏の出身で、高橋氏に養子に出されました。1587年に豊臣秀吉が天下統一事業のために九州地方に侵攻したとき、元種とその出身母体の秋月氏は、秀吉に早期に降伏しその事業の手助けをしました。元種は秀吉に気に入られ、九州が平定された後、秀吉により延岡地方の領主に抜擢されました。元種は、上役に対して随分よい印象を持たれる人物だったようです。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉が亡くなった後の1600年、徳川家康に率いられた東軍と、豊臣氏を支持する石田三成に率いられた西軍が、関ヶ原において天下分け目の戦いを行います。元種は西軍に属し、関ヶ原近くの大垣城に留まっていました。元種が西軍の関ヶ原の敗戦を聞いたとき、彼は直ちに東軍に寝返り、西軍の諸将を殺害し、家康に降伏したのです。その結果、彼の領地は家康が設立した徳川幕府によって安堵されました。元種は機を見るに敏であったのです。

大垣城

砂州の上に築かれ防御力が強い城

その後、元種は延岡城と呼ばれるようになる新しい本拠地を、五ヶ瀬川(ごかせがわ)と大瀬川(おせがわ)に挟まれた砂州にある丘の上にに築きました。天守曲輪、本丸、二の丸、三の丸が階段状に築かれ、これらの曲輪は総石垣造りでした。しかし実際には、天守曲輪には天守は築かれませんでした。砂州は、城を含む武家屋敷部分と町人地に分けられ、堀によって隔てられていましたが、たった一つの橋によってつながっていました。その上、砂州を囲む川には当初は橋がかかっていませんでした。防御の観点からはとても望ましい立地だったのです。もし敵がなんとか丘の麓にある大手門にたどり着いたとしても、頂上に達するには更に5つの門を過ぎ、11回も曲がらねばなりませんでした。

「日向国延岡城絵図」、出典:国立国会図書館デジタルコレクション

城で最もすばらしい石垣は「千人殺しの石垣」と呼ばれ、高さが約19mあります。これは九州地方では、熊本城、小倉城に次ぎ、3番目の高さです。トップの2つの城は、加藤清正や細川忠興のような豊臣秀吉や徳川家康配下の大大名が築いたものであり、彼らは元種のような一地方大名よりずっと大きな領土を持っていました。またこの石垣は、自然石を用いて積まれていて、優れた石工職人の集団を招かなければ、当時はそのような高さに積むことは不可能でした。元種は、われわれば想像するよりずっと財力や中央とのコネを持っていたに違いありません。この「千人殺し」のニックネームは、石垣の規模を表していて、もし隅の基部の石を引き抜いたなら、石垣が崩れてその下にいる敵の兵士を千人も殺せるだろうという例えから来ています。

延岡城の千人殺しの石垣

元種、突然改易される

元種は1613年に突然、幕府から改易されてしまいます。彼は、津和野藩でトラブルを起こし逃亡した彼の妻の親族を、かくまっていたのです。津和野藩の藩主、坂崎直盛は偏執的で、このことを幕府に訴えたのです。たったこれだけのことで、このような深刻な結果を本当に招いたのか、今だに不確かですが、事実として元種は短い間に現れ、そして去っていったのでした。彼の業績はもっと研究されるべきでしょう。延岡城とその周りの地域は延岡藩として、有馬氏に引き継がれ、城には櫓がいくつも築かれて1656年に完成しました。平和であった江戸時代には、川と城の間に橋がかけられ、天守曲輪にあった太鼓櫓は人々に時を知らせていました。幸いにも延岡城では幕末まで戦いは起こらず、そのときには内藤氏が城と藩を治めていました。

坂崎直盛肖像画、個人蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「延岡城その2」に続きます。