立地と歴史
重要な港であり続けた志布志
鹿児島県東部に位置する志布志市(しぶしし)は、日本の地名の中でもユニークな名前なのかもしれません。それは、この市の名前「志布志市(しぶしし)」の発音が少し難しいからです。この言い回しはときどき、早口言葉の一つとしても使われています。「志布志市志布志町志布志の志布志市市役所の志布志支所」といった具合です。この志布志という地名の由来ですが、「志(貢ぎ物)」+「布(織物)」+「志(貢ぎ物)」というように分解され、この地に天智天皇が訪れたときの逸話に基づくと言われています。天智天皇は、上級階層の人からも下層階級の人からも織物を献上されたそうです。天皇は大変喜び、この「志布志」という名前を思い付き、下賜したとされています。この逸話が事実かどうかはともかく、この地が長い歴史を持っていることは確かでしょう。
志布志市の範囲と城の位置志布志市のもう一つの特徴としては、志布志港が重要港湾と中核国際港湾に指定されていることです。この辺りを回ってみると、おびただしい数のコンテナや木材が積まれていたり、さんぶらわあのようなフェリーが停泊しているのが見られます。この港は、南九州地方に荘園が開発された古代以来、繁栄しているのです。中世には国際貿易もここで行われ、周辺の領主たちは豊かになりました。よって、領主たちは志布志周辺の領有を望み、それを巡って争いました。志布志城は、この地を治めるための拠点としての山城でした。
南九州型城郭の一つ
志布志城にもまた重要な特徴があり、南九州型城郭の一つであることが挙げられます。この型の城郭は、この地域において山あるいは丘のように見えるシラス台地の上に築かれました。シラス台地は古代の噴火により生じた火山灰により生成されたものです。その土壌はもろく、容易に崩れ、崖を形作ります。この地域の武士たちは、よくこの性質を利用し、城を築きました。この自然の地形を加工することで、強力な防御の仕組み(深い堀や高い壁)を手に入れることができたからです。このタイプの城として著名なのが、知覧城、佐土原城、飫肥城、そして志布志城です。
城周辺の起伏地図例えば今志布志港にいたとして、内陸の方を振り返ってみると、長い崖のラインが海岸線から引いたところに横たわっているのが見えます。志布志の領主たちはこの自然の地形を使って、一つずつ城を築いていったのです。実は志布志城というのも、4つの城(内城(うちじょう)、松尾城(まつおじょう)高城(たかじょう)、新城(しんじょう))の総称なのです。14世紀に楡井(にれい)氏が最初に松尾城を築いたと言われています。その後、内城が築かれ、16世紀に畠山氏や新納(にいろ)氏の本拠地として使われました。それまでに、高城と新城も前述の2つの城の外郭として築かれました。志布志城の城主は頻繁に変わり、肝付(きもつき)氏や、そして最終的には島津氏のものになりました。これは、城周辺の地域が治める者にとってとても魅力的だったため、有力戦国大名(北の伊東氏、南の島津氏)間での争いの場になったからです。城主の中には、両者の間を行ったり来たりした者もいました。
シラス台地を活用した防御システム
この城の最盛期には、城の主要部分の内城には、非常に複雑な防御システムが備わっていました。もともとあったシラス台地を正面から縦方向に3つの空堀を刻み込み、横方向には5つの空堀を刻みました。残った台地の部分はそれぞれが独立した曲輪となり、土塁と柵に囲まれていました。これらの曲輪には城を維持したり防御したりするために、櫓や兵舎、住居がありました。訪問者または敵が曲輪に入るには、まず堀の底に入ってから、防御のための関門を通り過ぎなければなりませんでした。敵であったなら堀の底にいるうちに、遥か上方の曲輪にいる守備兵から攻撃を受けてしまったでしょう。
城主は通常は麓にあった居館に住んでいて、戦いのような非常事態のときにこの城を使いました。しかし、発掘の成果として城跡からは、舶来の陶磁器のような高価な交易品以外にも、国内製の陶器、銭貨、鉄砲玉のような日常的に必要なものも出土しています。これらの品々は、城が長い間使われ、国際貿易が行われた志布志港とも関係があったことを示しています。志布志城は最後は、1615年に徳川幕府から発布された一国一城令に基づき、最後の城主であった島津氏によって廃城となりました。