197.志布志城 その1

重要な港近くに築かれたシラス台地上の城

立地と歴史

重要な港であり続けた志布志

鹿児島県東部に位置する志布志市(しぶしし)は、日本の地名の中でもユニークな名前なのかもしれません。それは、この市の名前「志布志市(しぶしし)」の発音が少し難しいからです。この言い回しはときどき、早口言葉の一つとしても使われています。「志布志市志布志町志布志の志布志市市役所の志布志支所」といった具合です。この志布志という地名の由来ですが、「志(貢ぎ物)」+「布(織物)」+「志(貢ぎ物)」というように分解され、この地に天智天皇が訪れたときの逸話に基づくと言われています。天智天皇は、上級階層の人からも下層階級の人からも織物を献上されたそうです。天皇は大変喜び、この「志布志」という名前を思い付き、下賜したとされています。この逸話が事実かどうかはともかく、この地が長い歴史を持っていることは確かでしょう。

志布志市の範囲と城の位置

志布志市役所志布志支所に掲げられた看板 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

志布志市のもう一つの特徴としては、志布志港が重要港湾と中核国際港湾に指定されていることです。この辺りを回ってみると、おびただしい数のコンテナや木材が積まれていたり、さんぶらわあのようなフェリーが停泊しているのが見られます。この港は、南九州地方に荘園が開発された古代以来、繁栄しているのです。中世には国際貿易もここで行われ、周辺の領主たちは豊かになりました。よって、領主たちは志布志周辺の領有を望み、それを巡って争いました。志布志城は、この地を治めるための拠点としての山城でした。

志布志港に停泊中のフェリーさんふらわあ

南九州型城郭の一つ

志布志城にもまた重要な特徴があり、南九州型城郭の一つであることが挙げられます。この型の城郭は、この地域において山あるいは丘のように見えるシラス台地の上に築かれました。シラス台地は古代の噴火により生じた火山灰により生成されたものです。その土壌はもろく、容易に崩れ、崖を形作ります。この地域の武士たちは、よくこの性質を利用し、城を築きました。この自然の地形を加工することで、強力な防御の仕組み(深い堀や高い壁)を手に入れることができたからです。このタイプの城として著名なのが、知覧城佐土原城、飫肥城、そして志布志城です。

知覧城跡
佐土原城跡
飫肥城跡

城周辺の起伏地図

例えば今志布志港にいたとして、内陸の方を振り返ってみると、長い崖のラインが海岸線から引いたところに横たわっているのが見えます。志布志の領主たちはこの自然の地形を使って、一つずつ城を築いていったのです。実は志布志城というのも、4つの城(内城(うちじょう)、松尾城(まつおじょう)高城(たかじょう)、新城(しんじょう))の総称なのです。14世紀に楡井(にれい)氏が最初に松尾城を築いたと言われています。その後、内城が築かれ、16世紀に畠山氏や新納(にいろ)氏の本拠地として使われました。それまでに、高城と新城も前述の2つの城の外郭として築かれました。志布志城の城主は頻繁に変わり、肝付(きもつき)氏や、そして最終的には島津氏のものになりました。これは、城周辺の地域が治める者にとってとても魅力的だったため、有力戦国大名(北の伊東氏、南の島津氏)間での争いの場になったからです。城主の中には、両者の間を行ったり来たりした者もいました。

志布志港から見えるシラス台地の崖のライン
志布志城の4つの城跡の航空写真(現地説明版より)

シラス台地を活用した防御システム

この城の最盛期には、城の主要部分の内城には、非常に複雑な防御システムが備わっていました。もともとあったシラス台地を正面から縦方向に3つの空堀を刻み込み、横方向には5つの空堀を刻みました。残った台地の部分はそれぞれが独立した曲輪となり、土塁と柵に囲まれていました。これらの曲輪には城を維持したり防御したりするために、櫓や兵舎、住居がありました。訪問者または敵が曲輪に入るには、まず堀の底に入ってから、防御のための関門を通り過ぎなければなりませんでした。敵であったなら堀の底にいるうちに、遥か上方の曲輪にいる守備兵から攻撃を受けてしまったでしょう。

志布志市埋蔵文化財センターで展示されている内城の模型
上記模型の本丸部分

城主は通常は麓にあった居館に住んでいて、戦いのような非常事態のときにこの城を使いました。しかし、発掘の成果として城跡からは、舶来の陶磁器のような高価な交易品以外にも、国内製の陶器、銭貨、鉄砲玉のような日常的に必要なものも出土しています。これらの品々は、城が長い間使われ、国際貿易が行われた志布志港とも関係があったことを示しています。志布志城は最後は、1615年に徳川幕府から発布された一国一城令に基づき、最後の城主であった島津氏によって廃城となりました。

志布志城跡(本丸部分)

「志布志城その2」に続きます。

74.岩国城 その1

吉川広家の人生を反映した城

立地と歴史

毛利氏を守った広家

岩国は、5連の木造アーチ橋の美しい景観で知られています。錦川(にしきがわ)にかかる錦帯橋は、岩国城を背景としてとても絵になります。岩国を訪れるビジターは、これらは全て昔のままと思うかもしれませんが、少なくともこの城には多くの逸話があり、試練の歴史を経てきたのです。

山上の岩国城を背景とした錦帯橋

吉川広家(きっかわひろいえ)がこの城を築城したのですが、彼は毛利氏の親族で且つ重臣でした。毛利氏は16世紀の終わり頃において、120万石の石高をもって中国地方のほとんどを領有していました。ところが、天下人の豊臣秀吉が1598年に死去したことで政治状況は不安定になりました。多くの大名たちが、250万石の石高を持ち東日本で最大の大名であった徳川家康を、次の天下人として頼ろうとしました。一方、石田三成を含む他の大名はまだ豊臣氏を支えていました。三成は、西日本で最大の大名である毛利輝元を、彼のグループのリーダーに担ごうとしました。毛利家中の意見は真っ二つに割れました。一つは三成に加勢し、輝元を家康の代わりに(豊臣家を戴きつつ)次の天下人にするというもので、主に安国寺恵瓊によって主張されていました。広家はそれに反論し、家康に加勢し毛利氏の領土を維持しようとしました。

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1600年に関ヶ原の戦いが起きたとき、輝元は西軍の総大将となりましたが、実態としては三成が主導していました。輝元は天下人になりたかったのです。広家は、冷静な判断ができる武将であり、主君の輝元は家康率いる東軍を凌駕することはできないとみていました。よって彼は家康に密かに通じ、毛利の領土保全を条件に毛利の軍勢は戦いでは一切動かないことを約束しました。結果、家康は三成を破ったのですが、戦後になって輝元が天下を取ることを欲していた証拠を見つけたのです(広家は家康に、輝元にはその野心はないと伝えていたようです)。家康は、毛利から全ての領土を取り上げ、その中の2ヶ国(長門と周防)を広家に与えることとしました。広家は家康に、その2ヶ国を広家の代わりに輝元に与えるよう嘆願しました。最終的には、毛利の領土が形式上、120万石からその2ヶ国わずか37万石に削減されることで決着しました。それが長州藩となります。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石田三成肖像画、杉山丕氏蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新領地に岩国城を築城

広家は、難しい立場に立たされました。彼は実際には毛利家の救世主だったのですが、家中の多くの藩士は逆にぶち壊されたと思っていたからです。彼は最終的に、長州藩の領地の東端にあたる、3万石の石高の小さな領地を主家から与えられました。広家は1601年に本拠地として新しい城を築き始めました。それが岩国城となるのです。まず最初に、自然の外堀ともいうべき錦川沿いに御土居と呼ばれた居館を建設しました。その居館は人口の内堀にも囲まれていました。その後、山城部分の建設を行い、山の嶺の北から南の方角に沿って、北の丸、本丸、二の丸を設けました。これらの曲輪は全て石垣によって囲まれており、本丸には4層の天守がありました。城の完成は1608年となります。

長州藩(現山口県)の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

苦渋の決断により山城部分を破却

ところが、1615年に徳川幕府が豊臣氏を滅ぼした後、広家はまたも困難に直面します。徳川幕府は同年、全ての大名に一国一城令を発布し、大名が住んでいる一城を除き、全ての城を破却するよう命じました。幕府は、多くの強力な城を頼りに、大名たちが幕府に反抗することを防ごうとしたのです。この法令によれば岩国城は、周防国ではただ一つの城となり、幕府も広家の吉川家を独立の大名として認めていたため、存続することが可能でした。ところが、毛利主家は吉川氏を単なる毛利の家臣と考えていたため、それを認めませんでした。関ヶ原の戦い以来の両者の悩ましい関係が続いていたのです。広家は毛利家との将来の関係を鑑み、城を破却することを選びました。

意図的に破壊された山上の石垣

その際、山城部分が実際に破却され、川沿いの居館は残され、江戸時代末期まで公式には城ではなく、岩国陣屋と呼ばれるようになりました。錦帯橋は1673年に、3代目の領主である吉川広嘉(きっかわひろよし)によって、居館と川の反対側にあった城下町をつなぐために架橋されました。この橋は(もともと外敵を防ぐための川に架けられたという意味で)当時から平和な時代のシンボルともいえるものでした。

山麓の御土居跡
葛飾北斎「諸国名橋奇覧」より「すほうの国きんたいはし」、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「岩国城その2」に続きます。

174.大内氏館・高嶺城 その1

大内氏繁栄の地

立地と歴史

大内氏が山口に町と館を建設

大内氏館は、中世の西日本で強大な勢力を誇った大内氏の本拠地でした。高嶺(こうのみね)城は、大内氏がその最後の時期に築いた、館近くにあった山城です。大内氏はもともと、現在の山口県の一部である周防国国府の在庁官人の一族でしたが、14世紀に足利幕府を支持したことをきっかけに勢力を広げていきました。その結果大内氏は、現在の山口県にあたる周防と長門をコアとする西日本のいくつもの国の守護となりました。彼らと足利幕府の将軍とは複雑な関係にありました。例えば、14世紀後半の大内氏当主の大内義弘は、将軍の足利義満から6ヶ国の守護職を与えられていました。ところが、1399年の応永の乱において幕府と戦い、敗死してしまいます。将軍家は大内氏を頼りたい一方、強大になりすぎることも恐れていたのです。

周防国の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

足利義満肖像画、鹿苑寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大内氏館は最初は、義弘の父、弘世(ひろよ)が1560年に山口を本拠地とした後に築かれました。その当時、各国の守護は京都に頻繁に留まっており、本拠地に帰るときには京都の生活様式や文化を持ち込みました。大内氏館は、そういった風潮の典型例であり、一辺が200m近くある四角い曲輪を土塁と水堀あるいは空堀が囲んでいました。その内部には御殿だけはなく、池泉庭園や枯山水など少なくとも3つの庭園が存在していました。これらは京都の将軍の御所を模したスタイルでした。この館は大内氏の勢力が増すとともに拡張されていき、その北側には築山館(つきやまやかた)と呼ばれる別邸も建設されました。館の周りの山口の町も整備され、度々「西の京」と称されました。

将軍が住んでいた「花の御所」、「上杉本洛中洛外図屏風」より  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「山口古図」部分、真ん中下の黄色い区画が大内氏館、その上が築山館、山口市歴史民俗資料館にて展示

大内氏は、1399年の敗戦後であっても、代を重ねるごとに勢力を蓄えていきました。15世紀中頃の当主であった大内教弘(のりひろ)は、当時の国際貿易港であった博多がある筑前国を領地に加えました。そして、将軍の名代としてその港経由で明王朝との交易を始めました。築山館は、最初は彼の隠居所として築かれたのです。教弘の息子、政弘(まさひろ)は京都で応仁の乱(1467年から1477年)を西軍の主力として約10年間戦いました。彼はまた、大内氏は百済国の王子の子孫であると称することで、外交と貿易を円滑にし、その権威をも高めました。

大内氏館跡で発掘された輸入茶壷、山口市歴史民俗資料館にて展示
築山館跡全景、山口市歴史民俗資料館にて展示

有力戦国大名として将軍の後見役に

応仁の乱後の戦国時代には、大内氏は最有力の戦国大名の一つとなりました。一方で将軍の権威は衰え、有力戦国大名の助けがなければ存在できなりました。例えば、10代将軍の足利義稙(よしたね)は、細川氏により京都から追放されました。義稙は1500年に政弘の息子、義興(よしおき)が治めていた山口に逃れてきました。義興は、義稙を大内氏館の宴に招待しました。そのときの献立は中世最大の宴とも言われており、三十二献110品以上の料理が供されたとされています。義稙は午後2時から翌日午前4時までの14時間の宴を大内氏館で過ごしたのです。1508年、義興は義稙と大軍を率いて上洛を果たし、義稙を再び将軍職に就任させました。義稙は義興に報いるために、京都がある山城の守護職と朝廷の公卿にあたる官位(従三位)を与えました。

大内義興肖像画、山口県立山口博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利義稙肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大内氏館で出された献立のレプリカ

大内氏の勢力は、義興の息子、義隆(よしたか)が当主のときに最高潮に達しました。4ヶ国(長門、周防、筑前、豊前)を完全に支配し、3ヶ国(石見、安芸、備後)に対して同時に侵攻中でした。幕府の力が衰えていき京都が荒廃していくのとは対照的に、山口の町はますます繁栄しました。多くの貴族、高僧、知識人たちが京都から逃れ、山口は彼らを受け入れたのです。有名なイエズス会の宣教師、フランシスコ・サビエルも山口を2度訪れています。彼は、京都にいる天皇ではなく、義隆に貢物を献上し、日本でのキリスト教の布教を許されたのです。サビエルは、義隆の方を国王と認識したのでしょう。

大内義隆肖像画、龍福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
フランシスコ・ザビエル肖像画、神戸市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高嶺城の築城と大内氏の滅亡

ところが、1543年に義隆に不幸が訪れます。出雲国の尼子氏の本拠地であった月山富田城の攻略に失敗したのです。また、大内氏の内部にも義隆が気付かないうちに、重臣や官僚たち、そして外部から大内氏を頼ってきた人たちの間で内部分裂が生じていました。1551年、重臣の一人、陶隆房(とうたかふさ)が義隆に対して反乱を起こしました。義隆は何とか大内氏館から逃れ、海上に逃れようとしたのですが失敗し、ついには自害に追い込まれました。

月山富田城跡

その後、状況は急激に変化しました。隆房(晴賢に改名)は、義隆の親族である義長(よしなが)を大内氏の当主に据えました。しかし、不幸にも1555年に安芸国吉田郡山城の城主、毛利元就との戦いに敗れ、自害して果てました。義長は毛利氏が彼の領土に侵攻してくることに備え、防衛のため、館の近くの山上に高嶺城を築きました。毛利氏は実際に1557年に山口に攻めてきて、義長は城に籠りました。しかし、城自体の防御性は高かったものの、援軍や兵糧がなくてはどうにもなりません。彼は他所に逃れましたが、反撃することもままならず、ついには義隆のごとく切腹せざるをえませんでした。これにより、大内氏は滅亡します。大内氏館は、それまでのいずれかの時期に焼亡しました。高嶺城は、徳川幕府が発した1615年の一国一城令による廃城のときまでは毛利氏が使用しました。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高嶺城の赤色立体模型、山口市歴史民俗資料館にて展示

「大内氏館・高嶺城その2」に続きます。