174.大内氏館・高嶺城 歴史編

山口市といえば「西の京」と呼ばれていて、小京都のイメージがあります。よって城郭とは少し離れた印象もあるのですが、実は「大内氏館」「高嶺城」が連名で日本城郭協会の続日本100名城に指定されています。また、幕末にはそのものズバリという名前の「山口城」という城もあったのです。

イントロダクション

山口市といえば「西の京」と呼ばれていて、小京都のイメージがあります。よって城郭とは少し離れた印象もあるのですが、実は「大内氏館(おおうちしやかた)」「高嶺城(こうのみねじょう)」が連名で日本城郭協会の続日本100名城に指定されています。また、幕末にはそのものズバリという名前の「山口城」という城もあったのです。

大内氏館跡
高嶺城跡
山口城跡

そこで今回は、「西の京」を作り上げた大内氏の歴史から始めて、山口にあった3つの主要な城、大内氏館、高嶺城、山口城を築かれた時代順にご紹介したいと思います。

城周辺の起伏地図

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(西の京・山口の3つのメジャーな城とは?)

大内氏の発展

大内氏の先祖については、百済国聖明王(しょうみょうおう)の第三子・琳聖太子(りんしょうたいし)が周防国多々良浜に到着し、611年(推古天皇19年)に聖徳太子に謁見し、多々良という姓を賜ったという伝承があります。しかしこの伝承は、大内氏の時代から変化していて(下記補足1)、実際には先祖が朝鮮半島から帰化した者の後裔という程度のかすかな伝承をもとに作られたと推測されます。(段落全体下記参考①より、以下番号のみ記載)

(補足1)
1399年(応永6年)大内義弘による:
「先祖は本百済の始祖高氏の後裔で、難を避けて日本に渡ったものである」
1404年(応永11年)大内盛見による:
「氷上山興隆寺は大内家の先祖百済国琳聖太子によって推古朝に草創されたものである」
大内政弘時代:琳聖太子は百済王の末裔・聖明王の第三子で、611年に来朝した。多々良浜に着いたのち、荒陵で聖徳太子に謁し、大内県を采邑とし、多々良の姓を賜った。

「たたら(踏鞴)」は製錬に使うふいごのことで、周防国府周辺には「多々良」という地名が見られることから、大内氏の祖先が多々良氏を称する半島からの帰化氏族で、先進的な製錬技術をもたらして、沙婆県(さばのあがた)に定着、そのすぐれた技術から地方政庁に徴用され、平安時代には周防国佐波郡(さばぐん)達良郷(たたらごう)で勢力を築いたことが考えられます。そして、本家は吉敷郡大内村を本拠とし、「大内」を名乗るようになりました。鎌倉時代、大内氏は周防国の有力在庁官人、鎌倉幕府の御家人、六波羅探題の一員という複数の立場を持っていました。(段落全体①)

周防国の範囲と拠点の位置

南北朝時代に大内氏を表舞台に出したのが、大内弘世(ひろよ)です。弘世は南北朝動乱の中で、南朝・北朝方を渡り歩き、周防・長門の守護に任じられたのです。更に安芸・石見も勢力を伸ばし始めました(石見守護にも任命)。その子・大内義弘は、ときの将軍・足利義満との関係は当初良好で、義満の厳島詣(1389年)に随行したり、山名氏を討伐した明徳の乱では、幕府方として活躍しました(1391年)。領国としても、周防・長門に加え、石見・豊前・和泉・紀伊の守護になりました(+安芸国東西条)。ところが1399年(応永6年)義弘は義満と対立し、堺で戦いとなり討たれてしまうのです(応永の乱)。(以上②)乱の原因は、義満が義弘の勢力を削ごうとしていたからとも、九州で戦没した義弘の弟(満弘)に恩賞がなかったとも言われます。義弘は関東公方・足利満兼と同盟を組み、義満の政道を諫めるため戦うことを決意しました(下記補足2)。しかし結局満兼は動かず、義弘は孤立してしまったのです。(下記補足3,以上②③)

(補足2)足利満兼檄文「天命を奉り、暴乱を討つ、まさに国を鎮めて民を安んぜしめんとす」

(補足3)戦いの前の義弘の言葉「一旦の恨みをもって相公(義満)の御高恩を忘れ奉るの間、天命の攻め遁るべからず、運命の尽きぬる上は討ち死にせん事必定たるべし」
討ち死に前の義弘の言葉「天下無双の名将大内左京権大夫義弘入道ぞ、吾れと思はん者ども、討ち取りて相公の御目に懸けよ」(「応永記」)

大内弘世像

現在、国宝として残る瑠璃光寺五重塔は、義弘の弟の盛見(もりみ)が義弘の供養のために建てた塔です(盛見没後の1442年頃完成)。大内氏の守護国は周防・長門2カ国に削減されますが、また盛り返していきます。(以上②)ところで、大内氏の本拠地が山口に移る(山口開府)のは弘世の時代と言われてきましたが、最近は否定的です。義弘の時代になって、本拠地はいまだ大内だが、家臣団再編成のため新たな本拠地を必要とし、山口に館が築かれたという段階のようです。(下記補足4、以上③)

(補足4)義満の随行者に見知らぬ法師が大内について答える場面
「へいへい(平々)としたる里の侍るに、館どもあまた造り並べて、東西南北、一門・他門扶持人数を知らず、家居ことがら尋常なる躰也、四方大略深山にて、おのづから無双の切所なり、遠近皆分国・分領也、数ヶ国の集なれば、田舎ながらも興ある在所と見えたり」
大内氏の祖先とともに百済から渡来した不動明王像を「この京兆(義弘)の山口の館の持仏堂に安置」した
(「鹿苑院西国下向記」)

瑠璃光寺五重塔

大内氏の繁栄と大内氏館

大内氏館がいつ設置されたかは諸説ありますが、調査によれば、14世紀からの遺構・遺物がみられるので(④)、義弘の時代なのかもしれません。山口が本拠として定着したのは、義弘の次の盛見の時代と考えられます。このとき山口の北辺に、精神的な守りの地として、五重塔がある香積寺(こうしゃくじ、現・瑠璃光寺)及び国清寺(こくしょうじ、現・洞春寺)が建立されました。15世紀中頃の当主、大内教弘・政弘父子の時代には館も整備されます。(以上③)館の北方に築かれた「築山館(つきやまやかた)」は、教弘の隠居所とされています(②④)。また、政弘は家督を受け継ぐ前から自らの居館を持ち、父子の居館が並び立つ形になっていました。これは京都の将軍の「花の御所」をまねたものです。(以上③)大内氏館は内郭・外郭に区分され、内郭部分は最盛期には約150m四方の大きさでした(⑨)。

大内盛世肖像画、常栄寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

現在龍福寺となっている大内氏館内郭の航空写真

「築山館」の史跡指定範囲、山口市歴史民俗資料館にて展示
将軍亭「花の御所」、上杉本陶版「洛中洛外圖」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦国時代の幕開けとなる応仁・文明の乱(1467~77年)が終り、政弘が京都から戻ってくると、館と山口は更に変貌をとげました。大内氏館は堀と土塁に囲まれ、枯山水の庭、池泉庭園がある豪華なものになっていました。政弘は将軍のように家臣に君臨し、彼らを山口に住まわせました(下記補足5)。町人も集まることにより、山口は南北の小路が発達した町になったのです。祇園会も行われました。(段落全体③)雪舟や連歌師の宗祇などの文化人が山口にやってきたのもこの頃です(②)。

(補足5)家臣を山口に集住させる法令文
「諸人在山口衆、たとへ一日たりといへども、密々の儀をもって在宅の輩、上聞に達することあらば、その人数を注し置き、御暇言上の時、おのおの申し次ぐべからざるなり、これにより、重ねて内々をもって在郷せしむる族においては、永く御家人を放たるべきの由、仰せ出さるところなり(文明18年「大内氏掟書」

大内氏館跡の復元土塁
大内氏館跡の復元枯山水
「大内氏時代山口古図」(部分)、山口県文書館蔵
常栄寺雪舟庭

大内氏の勢力も、盛見のときに石見・豊前(+東西条)を回復、教弘のときには筑前国守護になり、国際貿易港・博多を支配に治め、日明貿易に参入しました。(以上②)大内氏館の池泉庭園には、貿易で手に入れたと思われる、その当時大変珍しいソテツが植えられていました。その庭園を望む「会所」で賓客たちを招いて宴会が開かれました。庭園の池からは宴会で使った大量の京風「かわらけ」が発見されています。(以上⑤)

大内氏館跡復元池泉庭園、ソテツも植えられています
大内氏館で使われたかわらけ(右二列)、山口市歴史民俗資料館にて展示

その大内氏館で行われたイベントで最大と思われるものが、1500年、明応9年3月5日に行われました。ときの当主は大内義興(よしおき)で、政変で京都を追われた10代将軍・足利義稙を迎えて行われた宴会です。料理は31以上の膳、110以上の品数で、中世最大級の宴会と言われています。料理には、瀬戸内海では採れない伊勢エビ・数の子・ホヤ・ホッケあって、大内氏のネットワーク力を見せつけました。義稙が館に入ったのは14時頃、帰ったのは翌朝4時頃でした。義稙は流浪中も現職の将軍と称していたので、山口に亡命室町幕府が存在したとも言えるのです。1508年(永正5年)義興は義稙とともに上洛し、義稙を正式に将軍職に復帰させました。義興も恩賞として山城国守護になり、遣明船独占の権利を与えられました。義興が亡くなると(1529年、享禄元年)現在壮大な石垣が残る凌雲寺が菩提寺とされました。(段落全体②⑤)

大内義興肖像画、山口県立山口博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利義稙肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「大内氏のおもてなし料理」、山口市歴史民俗資料館の企画展示
凌雲寺跡

次の代の大内義隆のとき、大内氏は全盛期を迎えます。領土は安芸・備後にまで及び、歴代最大となります。朝廷とも結びつきを強め、官位官職も将軍より高位の従二位・参議にまで上りました。義隆は文化文芸にも関心が高く、多くの公家や文化人などが山口を訪れました。フランシスコ・ザビエルもその一人です。ところが、その栄華はあっと言う間に崩壊してしまうのです。(段落全体②)

大内義隆肖像画、龍福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
フランシスコ・ザビエル肖像画、神戸市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

毛利氏・大内氏の興亡と高嶺城

1551年、天文20年8月28日、重臣の陶隆房らのクーデターが起こり、義隆主従は無防備の館から退去し、日本海から船で逃れようとしたが果たせませんでした。義隆は現・長門市の大寧寺で自害しました(9月1日)。このクーデターの大きなきっかけは、1543年(天文12年)の尼子氏に対する出雲遠征の失敗でした。それでも客人をもてなす宴会は続きました。家臣たちには奢侈を禁止したにも関わらず・・・(段落全体⑥、下記補足6)

(補足6)天文14年壁書
「殿中ならびに私の饌、近年殊に過麗に及ぶと云々。ただに先達の法に背くのみならず、内には以て兵器の貯えを忘れ、外には以て、撫民の謀を失う。自今以後に至っては、二汁・三菜を過ぐべからず。但し殿中の節日、又は外人来客の時は、制の限りにあらざるの由、仰によって壁書件の如し。
   天文十四年卯月日  奉行衆中」

陶晴賢(隆房)像、「続英雄百人一首」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

義隆に重用された相良武任ら文治派と、隆房ら武断派の対立が深まります。実は隆房の陰謀はクーデターの2年ほど前から、他の重臣(杉重矩)から進言があったり、噂にもなっていたのですが、義隆はなんの手も打ちませんでした。この頃(天文12年2~5月)毛利元就が山口を訪問し、義隆・隆房ら重臣たちと交流しました。大内内部の動向を探る目的もあったのでしょう。こうする間に杉重矩や老臣・内藤興盛も隆房に同調するようになりました。クーデターが起こる年になって、義隆はようやく元就に助力を頼む密書を送りますが(下記補足7)、前年には既に隆房の手が回っていました。義隆はクーデターが起こった後でも、隆房以外の重臣の加担を信じなかったそうです。

(補足7)毛利元就宛大内義隆密書
「家中の事、若し錯乱に及ぶに於ては、国面々合力あるべくの由、申し遣わし候。定て別儀あるべからず候。諸勢また遅々すべからず候。猶委細、(大田)隆通申すべく候。恐々謹言
 正月廿七日 義隆(花押)」

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

翌年(1552年)、義隆の甥で大友宗麟の弟(大友晴英)が、大内義長として擁立され山口入りしました。彼はこの地で政務を行ったので、館は継続したと考えられます。ところが、陶隆房改め陶晴賢が1555年(天文24年)の厳島の戦いで毛利元就に討たれると、今後は毛利氏対大内氏のフェーズに入ってくるのです。内輪でも重臣同士(杉氏・内藤氏)の軍勢が衝突し山口は兵火に包まれます。(以上②④)来日した宣教師のルイス・フロイスがこの辺りの出来事を記録しています(下記補足8)。そんな中で義長が毛利侵攻に備え築城を始めたのが高嶺城です(1556年頃)。

(補足8)豊後国主(大友義鎮)の弟大内八郎殿(義長)は善意の若者であった。それゆえ彼は山口において国守の位にあげられると、司祭たちに友情を示した。(略)すなわち彼は、デウスの教えに役立つように街路や通路に立札を立て、その教えを聞こうとする者は、なんら咎められることなくキリシタンになってもよいと布告するよう家臣に命じた。(略)この頃、当国のある有力な殿が、新しい国主ならびにその味方の殿たちに対して叛起し、国内に大いなる損害と混乱を及ぼした。その結果、山口の市はふたたび放火され、非常に密集していたため数時間で全焼してしまい・・・(➉第14章(第1部16章))

高嶺城は、大内氏館や山口の城下町を眼下に眺めることができる、山口盆地の北縁の丘陵の一つ・鴻ノ嶺(標高338m)に築かれた城です。義長はいったんこの城に入ったものの、普請は進まず、籠城用の食料も不足したため、1557年(弘治3年)3月、長府にある別の城(勝山城)に逃れました。しかしその城も毛利方に攻められ、翌月城近くの寺(長福寺、現・功山寺)で自害しました。主のいなくなった山口には毛利方(吉見勢)が入りました。大内氏館跡の調査によると、火災の痕跡があり、16世紀中頃までしか使われていないので、この頃までに廃絶したと考えられます。その跡地には、毛利隆元によって義隆の菩提寺・龍福寺が建てられました(隆元妻は大内義隆養女)。(段落全体②④)

高嶺城赤色立体模型、山口市歴史民俗資料館にて展示
高嶺城跡からの眺め
龍福寺

もし高嶺城がもっと早く、義隆の時代に築かれていたらどうなっていたでしょうか。もちろん籠城しても援軍がなければどうにもなりませんが・・・伝統的な有力戦国大名の本拠には、他にも今川氏館、大友氏館のような無防備なものが見られます。よもや攻められることはないと思っていたのでしょうか・・・

高嶺城は毛利氏の支城として整備されました。峰伝いに曲輪が築かれ、主郭周辺には石垣も積まれました。やがて毛利氏と大友氏が対立するようになると、1569年(永禄12年)大友氏の支援を受けた大内輝弘が山口に侵攻してきました。輝弘は、大内氏館があった龍福寺に本陣を置き、今度は毛利勢が籠る高嶺城を包囲しました。しかし毛利の援軍が駆け付けたことで断念、大友氏の豊後に戻ろうとしますが、退路を断たれ、またも自害することになってしまったのです。(段落全体②④)

高嶺城の縄張り図、現地説明パネルより
主郭の石垣

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は、周防・長門2カ国に減封されましたが(長州藩)、当主の毛利輝元は、新本拠地の萩城築城の前、高嶺城に滞在しました(1603年)。家臣も山口に仮住まいしていました。山口は兵乱により衰亡していましたが、まだ重要な町だったのです。萩城完成後も、在番役が置かれました。しかし1615年の「一国一城令」でついに廃城になりました。(段落全体④⑦)彼らが山口に戻ってくるのは260年後になります。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

幕末の城・山口城

長州藩が幕末に山口に築いた城はずばり「山口城」と呼ばれています。

「幕末山口市街図」(部分)、山口県文書館蔵

「攘夷」の急先鋒だった長州藩は、1863年(文久3年)本拠地を萩から山口に移しました。萩城は海岸にあるので、外国艦の砲撃にさらされる恐れがあったことと、山口は藩領の中心部にあったからです。長州藩は幕府に対して、藩主の居所を移すだけで新城の築城はしないと申請しました(下記補足9)。しかし実態は違いました。「屋形」と言う名目で翌年(1864年)に新城の建設を始めたのです。しかもそれは、大小砲での戦争を想定した八角形の西洋式城郭だったのです。(段落全体⑧)

(補足9)幕府への移城の申請書
「しかしながら山口の儀は、全く以て城構え等仕り候儀にては御座なく、真の土居取り立て、手近に召遣い候家来ばかり差し置き候て、指月(萩城)の儀は番兵こめおき、城下警衛厳重に申し付け、藩鎮の任、これもその節を遂げ奉り度く」

「山口御屋形差図」(部分)、山口県文書館蔵

しかし同じ年に第一次長州征討が起こり、長州藩は幕府に降伏したので、その講和条件として城は破却されてしまいました。藩主は萩に引っ込みました。1864年(元治元年)高杉晋作の挙兵をきっかけに幕府に対抗する方針に転換すると、翌年(1865年)藩主は再度山口に移り、城も修築されたのです。(段落全体⑧)

山口城は、山口盆地の北側に立地していて、背後に香山が控えていました。平地を望む高台に築かれたわけです。西洋式城郭ということで、従来の天守・櫓・高石垣はなく、中心部には御屋形(御殿)があり、城域は土塁・水堀・柵で仕切られていました。不整形は八角形の角には砲台が築かれていたと考えられます。見せるための城ではなく、政治・軍事の機能に特化していたのです。(段落全体④)

山口城縄張り図、現地説明パネルより

明治維新になると、居城としての役目は終り、山口藩藩庁(1870年、明治3年)になり、現在残る旧山口藩庁門(藩庁御本門)が完成します。翌年(1871年)の廃藩置県により山口県庁になり、それが現在も同じ場所にある県庁につながっていきます。

旧山口藩庁門
山口県政資料館(旧県庁舎及び県会議事堂)

リンク、参考情報

①「中世武士選書14 大内義弘/松岡久人著」戒光祥出版
②「西国一の御屋形様 大内氏がわかる本 入門編・興亡編」山口市
③「ミネルヴァ日本評伝選 大内義弘/平瀬直樹著」ミネルヴァ書房
④「山陰・山陽の名城を歩く 広島・山口編」吉川弘文館
⑤「英雄たちの選択「戦国大名のおもてなし戦略~大内義興の野望~」NHK BS放送
⑥「中世武士選書20 大内義隆/米原正義著」戒光祥出版
⑦「毛利氏の御家騒動 折れた三本の矢/光成準治著」平凡社
⑧「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
「城びと【理文先生のお城学校】歴史編第29回 大内氏とその居館」
➉「完訳フロイス日本史6 大友宗麟編Ⅰ/松田毅一・川崎桃太訳」中公文庫

「大内氏館・高嶺城 現地編」に続きます

174.大内氏館・高嶺城 その1

大内氏繁栄の地

立地と歴史

大内氏が山口に町と館を建設

大内氏館は、中世の西日本で強大な勢力を誇った大内氏の本拠地でした。高嶺(こうのみね)城は、大内氏がその最後の時期に築いた、館近くにあった山城です。大内氏はもともと、現在の山口県の一部である周防国国府の在庁官人の一族でしたが、14世紀に足利幕府を支持したことをきっかけに勢力を広げていきました。その結果大内氏は、現在の山口県にあたる周防と長門をコアとする西日本のいくつもの国の守護となりました。彼らと足利幕府の将軍とは複雑な関係にありました。例えば、14世紀後半の大内氏当主の大内義弘は、将軍の足利義満から6ヶ国の守護職を与えられていました。ところが、1399年の応永の乱において幕府と戦い、敗死してしまいます。将軍家は大内氏を頼りたい一方、強大になりすぎることも恐れていたのです。

周防国の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

足利義満肖像画、鹿苑寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大内氏館は最初は、義弘の父、弘世(ひろよ)が1560年に山口を本拠地とした後に築かれました。その当時、各国の守護は京都に頻繁に留まっており、本拠地に帰るときには京都の生活様式や文化を持ち込みました。大内氏館は、そういった風潮の典型例であり、一辺が200m近くある四角い曲輪を土塁と水堀あるいは空堀が囲んでいました。その内部には御殿だけはなく、池泉庭園や枯山水など少なくとも3つの庭園が存在していました。これらは京都の将軍の御所を模したスタイルでした。この館は大内氏の勢力が増すとともに拡張されていき、その北側には築山館(つきやまやかた)と呼ばれる別邸も建設されました。館の周りの山口の町も整備され、度々「西の京」と称されました。

将軍が住んでいた「花の御所」、「上杉本洛中洛外図屏風」より  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「大内氏時代山口古図」部分、真ん中下の黄色い区画が大内氏館、その上が築山館、山口県文書館蔵

大内氏は、1399年の敗戦後であっても、代を重ねるごとに勢力を蓄えていきました。15世紀中頃の当主であった大内教弘(のりひろ)は、当時の国際貿易港であった博多がある筑前国を領地に加えました。そして、将軍の名代としてその港経由で明王朝との交易を始めました。築山館は、最初は彼の隠居所として築かれたのです。教弘の息子、政弘(まさひろ)は京都で応仁の乱(1467年から1477年)を西軍の主力として約10年間戦いました。彼はまた、大内氏は百済国の王子の子孫であると称することで、外交と貿易を円滑にし、その権威をも高めました。

大内氏館跡で発掘された輸入茶壷、山口市歴史民俗資料館にて展示
築山館跡全景、山口市歴史民俗資料館にて展示

有力戦国大名として将軍の後見役に

応仁の乱後の戦国時代には、大内氏は最有力の戦国大名の一つとなりました。一方で将軍の権威は衰え、有力戦国大名の助けがなければ存在できなりました。例えば、10代将軍の足利義稙(よしたね)は、細川氏により京都から追放されました。義稙は1500年に政弘の息子、義興(よしおき)が治めていた山口に逃れてきました。義興は、義稙を大内氏館の宴に招待しました。そのときの献立は中世最大の宴とも言われており、三十二献110品以上の料理が供されたとされています。義稙は午後2時から翌日午前4時までの14時間の宴を大内氏館で過ごしたのです。1508年、義興は義稙と大軍を率いて上洛を果たし、義稙を再び将軍職に就任させました。義稙は義興に報いるために、京都がある山城の守護職と朝廷の公卿にあたる官位(従三位)を与えました。

大内義興肖像画、山口県立山口博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利義稙肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大内氏館で出された献立のレプリカ

大内氏の勢力は、義興の息子、義隆(よしたか)が当主のときに最高潮に達しました。4ヶ国(長門、周防、筑前、豊前)を完全に支配し、3ヶ国(石見、安芸、備後)に対して同時に侵攻中でした。幕府の力が衰えていき京都が荒廃していくのとは対照的に、山口の町はますます繁栄しました。多くの貴族、高僧、知識人たちが京都から逃れ、山口は彼らを受け入れたのです。有名なイエズス会の宣教師、フランシスコ・サビエルも山口を2度訪れています。彼は、京都にいる天皇ではなく、義隆に貢物を献上し、日本でのキリスト教の布教を許されたのです。サビエルは、義隆の方を国王と認識したのでしょう。

大内義隆肖像画、龍福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
フランシスコ・ザビエル肖像画、神戸市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高嶺城の築城と大内氏の滅亡

ところが、1543年に義隆に不幸が訪れます。出雲国の尼子氏の本拠地であった月山富田城の攻略に失敗したのです。また、大内氏の内部にも義隆が気付かないうちに、重臣や官僚たち、そして外部から大内氏を頼ってきた人たちの間で内部分裂が生じていました。1551年、重臣の一人、陶隆房(とうたかふさ)が義隆に対して反乱を起こしました。義隆は何とか大内氏館から逃れ、海上に逃れようとしたのですが失敗し、ついには自害に追い込まれました。

月山富田城跡

その後、状況は急激に変化しました。隆房(晴賢に改名)は、義隆の親族である義長(よしなが)を大内氏の当主に据えました。しかし、不幸にも1555年に安芸国吉田郡山城の城主、毛利元就との戦いに敗れ、自害して果てました。義長は毛利氏が彼の領土に侵攻してくることに備え、防衛のため、館の近くの山上に高嶺城を築きました。毛利氏は実際に1557年に山口に攻めてきて、義長は城に籠りました。しかし、城自体の防御性は高かったものの、援軍や兵糧がなくてはどうにもなりません。彼は他所に逃れましたが、反撃することもままならず、ついには義隆のごとく切腹せざるをえませんでした。これにより、大内氏は滅亡します。大内氏館は、それまでのいずれかの時期に焼亡しました。高嶺城は、徳川幕府が発した1615年の一国一城令による廃城のときまでは毛利氏が使用しました。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高嶺城の赤色立体模型、山口市歴史民俗資料館にて展示

「大内氏館・高嶺城その2」に続きます。

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