174.大内氏館・高嶺城 現地編

今回はまず大内文化や幕末の歴史が感じられる「香山公園」に向かいます。その次は、県庁エリアに移動して、山口城跡をご案内します。その後は、大内氏館跡や、築山跡に行って、最後は、高嶺城跡に登ります。

イントロダクション

今回は、山口市の常栄寺からスタートします。ここには、雪舟が作ったと言われる庭園があるのです。山門を入ったところからそんな雰囲気があります。

常栄寺山門

作庭を依頼したのは、戦国時代の大内氏当主・政弘とのことです。大内氏がどんどん栄えていくころの遺産なのです。本堂を上がって庭を拝見しましょう。まるで絵のようです。「雪舟庭」と呼ばれる池泉回遊式庭園です。反対側の「南溟庭」も見ものです。

雪舟庭(本堂より)
南溟庭

「雪舟庭」を歩いてみましょう。ここは、城館の跡がある市街地から少し離れているので、イントロに持ってきました。

雪舟庭(散策路より)

市街地に近づいて、雪舟のアトリエ・雲谷庵にやってきました。雪舟は山口に住み着いたとされています。ここから、大内文化や幕末の歴史が感じられる「香山公園」に向かいます。その次は、県庁エリアに移動して、山口城跡をご案内します。その後は、大内氏館跡や、築山跡に行って、最後は、高嶺城跡に登ります。

雲谷庵(復元)

山口周辺の地図

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(西の京・山口のお城とエリア別ガイド)

大内文化と幕末の歴史を感じよう(香山公園)

香山公園へ行くのに、少し寄り道をしていきます。錦の御旗製作所跡です。幕末の鳥羽・伏見の戦いで大きな役割を果たしたこの旗は、ここで作られたそうです。京都の西陣織とかではなかったのです。

錦の御旗製作所跡

市街地を流れる一の坂川に沿って歩きます。都会の川とは思えないほどきれいです。

一の坂川

そして、通りに入ってから見えてくるのが、瑠璃光寺五重塔です。これまた、絵になる風景です。大内盛見が、兄の義弘のために建てた供養塔です。

瑠璃光寺五重塔(遠景)
瑠璃光寺五重塔

国宝なのに、いつでもこんな近くまで拝観できるのです。それだけでもありがたいと思ってしまいます。盛見はここに香積寺を作ったのですが、毛利輝元の時代にその寺は萩に移り、代わりに瑠璃光寺がここに来たのです。

瑠璃光寺五重塔(近景)

香山公園には、山口を開いたと言われる大内弘世の像や、幕末の殿様、毛利敬親の墓もあるのですが、「沈流亭」という建物もあります。幕末の薩長の志士たちが、この階上で、薩長同盟の密議を行ったそうです。ここが歴史の舞台だったのです。

大内弘世像
毛利敬親墓
沈流亭

そこから五重塔が見えるので、志士たちは五重塔を見ながら密議を行ったのかと思ってしまいますが、この建物は移築されてきたとのことです。

沈流亭から見える五重塔

公園を出てからも、まだ見どころがあります。ときは室町時代に戻ります。今は洞春寺という寺の山門なのですが、もとは大内盛見が建てた国清寺のものだったそうです。境内には、室町時代の建物がもう一つあります。

洞春寺山門
洞春寺観音堂、これも室町時代の建物

実は、次のセクションでご案内する山口城跡は、すぐ近くなのです。ちょうどいい具合に入口があります。

香山公園から山口城跡への入口

山口城跡(県庁エリア)

歩いているところは、周りより高くなっています。確かに城っぽいです。説明パネルがありました。最近ここで調査が行われたとあります。大砲の絵があるので砲台があった場所のようです。角地に当たり、見晴らしがいい場所です。

砲台跡と思われる場所
説明パネル

城郭ファンとしては下に行って、土塁を見たくなってしまいます。ベースが石垣になっていて、頑丈そうです。ここから続く高まりは土塁だったのでしょう。追いかけていきます。土塁の端らしい部分もありました。

石垣をベースにした土塁
他の残っている土塁

ここから先は県庁の建物が並んでいます。ここまでかなと思うのですが、県庁の門を出たところから堀が残っているのです。今度は堀を追っていきましょう。結構城域の形はわかるのです。

山口県庁の建物群
残っている堀
堀の角部分

門が見えてきました。旧山口藩庁門です。明治になってからの建物ですが重要文化財に指定されています。

左奥に門が見えます
旧山口藩庁門

脇門から入っていきましょう。中は枡形のように見えます。事実、城があった当時は枡形になっていました。

枡形跡

奥の方に入ると、北に香山を背にして「御屋形」(御殿)があって、西にも小山があったそうです(一露山、現在は崩されています)。今見えているのは高嶺城があった山(鴻ノ峰)です。城跡が山口城の詰め城として使われたとも言われます。

御屋形跡、奥は香山
右手前に一露山があったようです、奥は鴻ノ峰

門の前に戻って、また堀沿いを進みます。途中には石垣も残っています。そして、その先には山口市歴史民俗資料館があります。ここでは、大内氏やその城館の勉強ができます。

堀に残る石垣
山口市歴史民俗資料館

大内氏館・築山跡(市街地中心エリア)

大内氏館跡などを見に行くのに、市街地中心エリアに向かいます。まず来てみたのは「大殿大路」という通りで、大内氏館に沿っていたと考えられます。ちょうど今ある寺(龍福寺)の入口になっています。館の外郭の部分が、寺の参道になっているのです。

館跡周辺の航空写真

大殿大路
龍福寺参道

そして山門から入る境内が、館の内郭だったと思います。こちらも土地の形は残っているのです。本堂はなんとこれも重要文化財で、室町時代に建てられ、ここに移築されました。元の館もこんな感じだったのでしょうか。

龍福寺山門
龍福寺本堂

それと、館の遺構も発掘され、一部復元されています。意外とたくさんあります。池泉庭園から見ていきましょう。宴会でお客が眺めたところだったと思われます。当時は珍しかったソテツも植えられています。その傍らには宴会を行った「会所」があったのではと言われます。かまど跡もあります。もしかして「中世最大級の宴会」料理をここで作ったのでしょうか。

池泉庭園(復元)
石組かまど跡

次は館の北側に回って、復元された土塁を見学するのですが、背後に見える高嶺城の山(鴻ノ峰)が気になってしまいます。館をバックアップするのにいい場所です。ついつい、もっと早く生かせなかったかと思ってしまいます。

復元土塁と背景の鴻ノ峰

かつては、土塁と堀がずっと囲んでいました。復元された土塁・堀跡によってイメージすることができます。今度は北西の角を曲がっていきます。枯山水庭園が復元されています。「雪舟庭」という程ではありませんが、ここにあったとわかることが大事でしょう。

復元土塁・堀跡
枯山水庭園(復元)

先に進むと西門があります。これも復元されたものです。現在寺がある範囲で結構頑張っていると思います。その先には、発掘された石組溝があって排水路として使われたと考えられます。

西門(復元)
石組溝

続けて、築山跡に向かいます。最初は大内教弘の隠居のための館だったのが(築山館)、亡くなってからは、彼を祀る場所になりました(築山大明神)。一部は発掘されて、平面表示されています。館時代の遺構ということです。東堀については、先ほどの山口市歴史民俗資料館で断面が展示されています。

築山跡
東堀の断面展示(山口市歴史民俗資料館)

築山跡の範囲には、これも重要文化財の八坂神社があったり、その隣の築山神社の奥には築地跡が残っています。

八坂神社
築山神社
築地跡

それから、パワースポット好きの方には、少し足を延ばして、大内義興が建てた、今八幡宮もおすすめです。

今八幡宮

高嶺城跡(丘陵エリア)

最後のセクションも、パワースポット登場です。この山口大神宮は、大内義興が伊勢神宮から勧請して、なんと伊勢神宮と同じように、式年遷宮しているのです。現在の外宮、内宮の向こうに以前の跡地が見えます。

山口大神宮

実はここに、高嶺城跡への登山口があるのです。しかし今回は、西側の林道の終点からご案内します。

山口大神宮にある登山口
西側の林道

そこから先はまさに山城で、峰の上を登っていきます。少し広い平坦地に出ますが、この辺りは居住区域だった可能性があります。

山道を登ります
高嶺城跡赤色立体模型の主要部、山口市歴史民俗資料館にて展示
途中にある平坦地

更に進むと、いよいよ主郭と思われる高まりが見えてきました。石垣もちらちら見えます。なにか案内があります。主郭と石垣、どちらを先に行くか迷います。しかしわざわざ石垣と書いてあるということで、まず「石垣」に行ってみましょう。

主郭が見えてきました
「主郭」「石垣」の案内

石垣が見えてきました、でも崩されてしまっています。廃城のときに隅の部分を崩した跡のようです。ただ、その向こうは石垣が続いています。山の上の石垣、なかなか見ごたえがあります!

破城の跡
その先に続く石垣
山上の石垣

いよいよ主郭に登ります!こちらも石垣が段積みになっています。

主郭に登る途中の石垣

着きました!ここには、建物が立っていた礎石が残っていて、建物の瓦も発見されています。立派な建物があったのでしょう。

主郭

最後は景色を楽しみます。市街地が一望できます。大内氏館はどこでしょうか。

高嶺城跡からの眺め

ありました。大内氏館と高嶺城、改めて絶好のコンビだと思います。

龍福寺(大内氏館跡、ズーム画像)

関連史跡

大内義興の菩提寺とされる、凌雲寺の跡に来てみました。義興の墓はありましたが、その先は荒野という感じです。

大内義興墓
荒野に見えるような中を進みます

進んでいくと、石垣が見えてきました。すごい石垣が、忽然と現れた印象です。大内氏の夢の跡とも思えます。

迫力ある凌雲寺総門石垣
大内氏の夢の跡

リンク、参考情報(追加分)

山口市歴史民俗資料館
山口市観光情報サイト 西の京やまぐち
美術館ナビ、<城、その「美しさ」の背景>第124回 山口城(詰めの城の記述)
・「大内氏遺跡 築山跡」パンフレット、山口市教育委員会

「大内氏館・高嶺城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

174.大内氏館・高嶺城 歴史編

山口市といえば「西の京」と呼ばれていて、小京都のイメージがあります。よって城郭とは少し離れた印象もあるのですが、実は「大内氏館」「高嶺城」が連名で日本城郭協会の続日本100名城に指定されています。また、幕末にはそのものズバリという名前の「山口城」という城もあったのです。

イントロダクション

山口市といえば「西の京」と呼ばれていて、小京都のイメージがあります。よって城郭とは少し離れた印象もあるのですが、実は「大内氏館(おおうちしやかた)」「高嶺城(こうのみねじょう)」が連名で日本城郭協会の続日本100名城に指定されています。また、幕末にはそのものズバリという名前の「山口城」という城もあったのです。

大内氏館跡
高嶺城跡
山口城跡

そこで今回は、「西の京」を作り上げた大内氏の歴史から始めて、山口にあった3つの主要な城、大内氏館、高嶺城、山口城を築かれた時代順にご紹介したいと思います。

城周辺の起伏地図

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(西の京・山口の3つのメジャーな城とは?)

大内氏の発展

大内氏の先祖については、百済国聖明王(しょうみょうおう)の第三子・琳聖太子(りんしょうたいし)が周防国多々良浜に到着し、611年(推古天皇19年)に聖徳太子に謁見し、多々良という姓を賜ったという伝承があります。しかしこの伝承は、大内氏の時代から変化していて(下記補足1)、実際には先祖が朝鮮半島から帰化した者の後裔という程度のかすかな伝承をもとに作られたと推測されます。(段落全体下記参考①より、以下番号のみ記載)

(補足1)
1399年(応永6年)大内義弘による:
「先祖は本百済の始祖高氏の後裔で、難を避けて日本に渡ったものである」
1404年(応永11年)大内盛見による:
「氷上山興隆寺は大内家の先祖百済国琳聖太子によって推古朝に草創されたものである」
大内政弘時代:琳聖太子は百済王の末裔・聖明王の第三子で、611年に来朝した。多々良浜に着いたのち、荒陵で聖徳太子に謁し、大内県を采邑とし、多々良の姓を賜った。

「たたら(踏鞴)」は製錬に使うふいごのことで、周防国府周辺には「多々良」という地名が見られることから、大内氏の祖先が多々良氏を称する半島からの帰化氏族で、先進的な製錬技術をもたらして、沙婆県(さばのあがた)に定着、そのすぐれた技術から地方政庁に徴用され、平安時代には周防国佐波郡(さばぐん)達良郷(たたらごう)で勢力を築いたことが考えられます。そして、本家は吉敷郡大内村を本拠とし、「大内」を名乗るようになりました。鎌倉時代、大内氏は周防国の有力在庁官人、鎌倉幕府の御家人、六波羅探題の一員という複数の立場を持っていました。(段落全体①)

周防国の範囲と拠点の位置

南北朝時代に大内氏を表舞台に出したのが、大内弘世(ひろよ)です。弘世は南北朝動乱の中で、南朝・北朝方を渡り歩き、周防・長門の守護に任じられたのです。更に安芸・石見も勢力を伸ばし始めました(石見守護にも任命)。その子・大内義弘は、ときの将軍・足利義満との関係は当初良好で、義満の厳島詣(1389年)に随行したり、山名氏を討伐した明徳の乱では、幕府方として活躍しました(1391年)。領国としても、周防・長門に加え、石見・豊前・和泉・紀伊の守護になりました(+安芸国東西条)。ところが1399年(応永6年)義弘は義満と対立し、堺で戦いとなり討たれてしまうのです(応永の乱)。(以上②)乱の原因は、義満が義弘の勢力を削ごうとしていたからとも、九州で戦没した義弘の弟(満弘)に恩賞がなかったとも言われます。義弘は関東公方・足利満兼と同盟を組み、義満の政道を諫めるため戦うことを決意しました(下記補足2)。しかし結局満兼は動かず、義弘は孤立してしまったのです。(下記補足3,以上②③)

(補足2)足利満兼檄文「天命を奉り、暴乱を討つ、まさに国を鎮めて民を安んぜしめんとす」

(補足3)戦いの前の義弘の言葉「一旦の恨みをもって相公(義満)の御高恩を忘れ奉るの間、天命の攻め遁るべからず、運命の尽きぬる上は討ち死にせん事必定たるべし」
討ち死に前の義弘の言葉「天下無双の名将大内左京権大夫義弘入道ぞ、吾れと思はん者ども、討ち取りて相公の御目に懸けよ」(「応永記」)

大内弘世像

現在、国宝として残る瑠璃光寺五重塔は、義弘の弟の盛見(もりみ)が義弘の供養のために建てた塔です(盛見没後の1442年頃完成)。大内氏の守護国は周防・長門2カ国に削減されますが、また盛り返していきます。(以上②)ところで、大内氏の本拠地が山口に移る(山口開府)のは弘世の時代と言われてきましたが、最近は否定的です。義弘の時代になって、本拠地はいまだ大内だが、家臣団再編成のため新たな本拠地を必要とし、山口に館が築かれたという段階のようです。(下記補足4、以上③)

(補足4)義満の随行者に見知らぬ法師が大内について答える場面
「へいへい(平々)としたる里の侍るに、館どもあまた造り並べて、東西南北、一門・他門扶持人数を知らず、家居ことがら尋常なる躰也、四方大略深山にて、おのづから無双の切所なり、遠近皆分国・分領也、数ヶ国の集なれば、田舎ながらも興ある在所と見えたり」
大内氏の祖先とともに百済から渡来した不動明王像を「この京兆(義弘)の山口の館の持仏堂に安置」した
(「鹿苑院西国下向記」)

瑠璃光寺五重塔

大内氏の繁栄と大内氏館

大内氏館がいつ設置されたかは諸説ありますが、調査によれば、14世紀からの遺構・遺物がみられるので(④)、義弘の時代なのかもしれません。山口が本拠として定着したのは、義弘の次の盛見の時代と考えられます。このとき山口の北辺に、精神的な守りの地として、五重塔がある香積寺(こうしゃくじ、現・瑠璃光寺)及び国清寺(こくしょうじ、現・洞春寺)が建立されました。15世紀中頃の当主、大内教弘・政弘父子の時代には館も整備されます。(以上③)館の北方に築かれた「築山館(つきやまやかた)」は、教弘の隠居所とされています(②④)。また、政弘は家督を受け継ぐ前から自らの居館を持ち、父子の居館が並び立つ形になっていました。これは京都の将軍の「花の御所」をまねたものです。(以上③)大内氏館は内郭・外郭に区分され、内郭部分は最盛期には約150m四方の大きさでした(⑨)。

大内盛世肖像画、常栄寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

現在龍福寺となっている大内氏館内郭の航空写真

「築山館」の史跡指定範囲、山口市歴史民俗資料館にて展示
将軍亭「花の御所」、上杉本陶版「洛中洛外圖」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦国時代の幕開けとなる応仁・文明の乱(1467~77年)が終り、政弘が京都から戻ってくると、館と山口は更に変貌をとげました。大内氏館は堀と土塁に囲まれ、枯山水の庭、池泉庭園がある豪華なものになっていました。政弘は将軍のように家臣に君臨し、彼らを山口に住まわせました(下記補足5)。町人も集まることにより、山口は南北の小路が発達した町になったのです。祇園会も行われました。(段落全体③)雪舟や連歌師の宗祇などの文化人が山口にやってきたのもこの頃です(②)。

(補足5)家臣を山口に集住させる法令文
「諸人在山口衆、たとへ一日たりといへども、密々の儀をもって在宅の輩、上聞に達することあらば、その人数を注し置き、御暇言上の時、おのおの申し次ぐべからざるなり、これにより、重ねて内々をもって在郷せしむる族においては、永く御家人を放たるべきの由、仰せ出さるところなり(文明18年「大内氏掟書」

大内氏館跡の復元土塁
大内氏館跡の復元枯山水
「大内氏時代山口古図」(部分)、山口県文書館蔵
常栄寺雪舟庭

大内氏の勢力も、盛見のときに石見・豊前(+東西条)を回復、教弘のときには筑前国守護になり、国際貿易港・博多を支配に治め、日明貿易に参入しました。(以上②)大内氏館の池泉庭園には、貿易で手に入れたと思われる、その当時大変珍しいソテツが植えられていました。その庭園を望む「会所」で賓客たちを招いて宴会が開かれました。庭園の池からは宴会で使った大量の京風「かわらけ」が発見されています。(以上⑤)

大内氏館跡復元池泉庭園、ソテツも植えられています
大内氏館で使われたかわらけ(右二列)、山口市歴史民俗資料館にて展示

その大内氏館で行われたイベントで最大と思われるものが、1500年、明応9年3月5日に行われました。ときの当主は大内義興(よしおき)で、政変で京都を追われた10代将軍・足利義稙を迎えて行われた宴会です。料理は31以上の膳、110以上の品数で、中世最大級の宴会と言われています。料理には、瀬戸内海では採れない伊勢エビ・数の子・ホヤ・ホッケあって、大内氏のネットワーク力を見せつけました。義稙が館に入ったのは14時頃、帰ったのは翌朝4時頃でした。義稙は流浪中も現職の将軍と称していたので、山口に亡命室町幕府が存在したとも言えるのです。1508年(永正5年)義興は義稙とともに上洛し、義稙を正式に将軍職に復帰させました。義興も恩賞として山城国守護になり、遣明船独占の権利を与えられました。義興が亡くなると(1529年、享禄元年)現在壮大な石垣が残る凌雲寺が菩提寺とされました。(段落全体②⑤)

大内義興肖像画、山口県立山口博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利義稙肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「大内氏のおもてなし料理」、山口市歴史民俗資料館の企画展示
凌雲寺跡

次の代の大内義隆のとき、大内氏は全盛期を迎えます。領土は安芸・備後にまで及び、歴代最大となります。朝廷とも結びつきを強め、官位官職も将軍より高位の従二位・参議にまで上りました。義隆は文化文芸にも関心が高く、多くの公家や文化人などが山口を訪れました。フランシスコ・ザビエルもその一人です。ところが、その栄華はあっと言う間に崩壊してしまうのです。(段落全体②)

大内義隆肖像画、龍福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
フランシスコ・ザビエル肖像画、神戸市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

毛利氏・大内氏の興亡と高嶺城

1551年、天文20年8月28日、重臣の陶隆房らのクーデターが起こり、義隆主従は無防備の館から退去し、日本海から船で逃れようとしたが果たせませんでした。義隆は現・長門市の大寧寺で自害しました(9月1日)。このクーデターの大きなきっかけは、1543年(天文12年)の尼子氏に対する出雲遠征の失敗でした。それでも客人をもてなす宴会は続きました。家臣たちには奢侈を禁止したにも関わらず・・・(段落全体⑥、下記補足6)

(補足6)天文14年壁書
「殿中ならびに私の饌、近年殊に過麗に及ぶと云々。ただに先達の法に背くのみならず、内には以て兵器の貯えを忘れ、外には以て、撫民の謀を失う。自今以後に至っては、二汁・三菜を過ぐべからず。但し殿中の節日、又は外人来客の時は、制の限りにあらざるの由、仰によって壁書件の如し。
   天文十四年卯月日  奉行衆中」

陶晴賢(隆房)像、「続英雄百人一首」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

義隆に重用された相良武任ら文治派と、隆房ら武断派の対立が深まります。実は隆房の陰謀はクーデターの2年ほど前から、他の重臣(杉重矩)から進言があったり、噂にもなっていたのですが、義隆はなんの手も打ちませんでした。この頃(天文12年2~5月)毛利元就が山口を訪問し、義隆・隆房ら重臣たちと交流しました。大内内部の動向を探る目的もあったのでしょう。こうする間に杉重矩や老臣・内藤興盛も隆房に同調するようになりました。クーデターが起こる年になって、義隆はようやく元就に助力を頼む密書を送りますが(下記補足7)、前年には既に隆房の手が回っていました。義隆はクーデターが起こった後でも、隆房以外の重臣の加担を信じなかったそうです。

(補足7)毛利元就宛大内義隆密書
「家中の事、若し錯乱に及ぶに於ては、国面々合力あるべくの由、申し遣わし候。定て別儀あるべからず候。諸勢また遅々すべからず候。猶委細、(大田)隆通申すべく候。恐々謹言
 正月廿七日 義隆(花押)」

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

翌年(1552年)、義隆の甥で大友宗麟の弟(大友晴英)が、大内義長として擁立され山口入りしました。彼はこの地で政務を行ったので、館は継続したと考えられます。ところが、陶隆房改め陶晴賢が1555年(天文24年)の厳島の戦いで毛利元就に討たれると、今後は毛利氏対大内氏のフェーズに入ってくるのです。内輪でも重臣同士(杉氏・内藤氏)の軍勢が衝突し山口は兵火に包まれます。(以上②④)来日した宣教師のルイス・フロイスがこの辺りの出来事を記録しています(下記補足8)。そんな中で義長が毛利侵攻に備え築城を始めたのが高嶺城です(1556年頃)。

(補足8)豊後国主(大友義鎮)の弟大内八郎殿(義長)は善意の若者であった。それゆえ彼は山口において国守の位にあげられると、司祭たちに友情を示した。(略)すなわち彼は、デウスの教えに役立つように街路や通路に立札を立て、その教えを聞こうとする者は、なんら咎められることなくキリシタンになってもよいと布告するよう家臣に命じた。(略)この頃、当国のある有力な殿が、新しい国主ならびにその味方の殿たちに対して叛起し、国内に大いなる損害と混乱を及ぼした。その結果、山口の市はふたたび放火され、非常に密集していたため数時間で全焼してしまい・・・(➉第14章(第1部16章))

高嶺城は、大内氏館や山口の城下町を眼下に眺めることができる、山口盆地の北縁の丘陵の一つ・鴻ノ嶺(標高338m)に築かれた城です。義長はいったんこの城に入ったものの、普請は進まず、籠城用の食料も不足したため、1557年(弘治3年)3月、長府にある別の城(勝山城)に逃れました。しかしその城も毛利方に攻められ、翌月城近くの寺(長福寺、現・功山寺)で自害しました。主のいなくなった山口には毛利方(吉見勢)が入りました。大内氏館跡の調査によると、火災の痕跡があり、16世紀中頃までしか使われていないので、この頃までに廃絶したと考えられます。その跡地には、毛利隆元によって義隆の菩提寺・龍福寺が建てられました(隆元妻は大内義隆養女)。(段落全体②④)

高嶺城赤色立体模型、山口市歴史民俗資料館にて展示
高嶺城跡からの眺め
龍福寺

もし高嶺城がもっと早く、義隆の時代に築かれていたらどうなっていたでしょうか。もちろん籠城しても援軍がなければどうにもなりませんが・・・伝統的な有力戦国大名の本拠には、他にも今川氏館、大友氏館のような無防備なものが見られます。よもや攻められることはないと思っていたのでしょうか・・・

高嶺城は毛利氏の支城として整備されました。峰伝いに曲輪が築かれ、主郭周辺には石垣も積まれました。やがて毛利氏と大友氏が対立するようになると、1569年(永禄12年)大友氏の支援を受けた大内輝弘が山口に侵攻してきました。輝弘は、大内氏館があった龍福寺に本陣を置き、今度は毛利勢が籠る高嶺城を包囲しました。しかし毛利の援軍が駆け付けたことで断念、大友氏の豊後に戻ろうとしますが、退路を断たれ、またも自害することになってしまったのです。(段落全体②④)

高嶺城の縄張り図、現地説明パネルより
主郭の石垣

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は、周防・長門2カ国に減封されましたが(長州藩)、当主の毛利輝元は、新本拠地の萩城築城の前、高嶺城に滞在しました(1603年)。家臣も山口に仮住まいしていました。山口は兵乱により衰亡していましたが、まだ重要な町だったのです。萩城完成後も、在番役が置かれました。しかし1615年の「一国一城令」でついに廃城になりました。(段落全体④⑦)彼らが山口に戻ってくるのは260年後になります。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

幕末の城・山口城

長州藩が幕末に山口に築いた城はずばり「山口城」と呼ばれています。

「幕末山口市街図」(部分)、山口県文書館蔵

「攘夷」の急先鋒だった長州藩は、1863年(文久3年)本拠地を萩から山口に移しました。萩城は海岸にあるので、外国艦の砲撃にさらされる恐れがあったことと、山口は藩領の中心部にあったからです。長州藩は幕府に対して、藩主の居所を移すだけで新城の築城はしないと申請しました(下記補足9)。しかし実態は違いました。「屋形」と言う名目で翌年(1864年)に新城の建設を始めたのです。しかもそれは、大小砲での戦争を想定した八角形の西洋式城郭だったのです。(段落全体⑧)

(補足9)幕府への移城の申請書
「しかしながら山口の儀は、全く以て城構え等仕り候儀にては御座なく、真の土居取り立て、手近に召遣い候家来ばかり差し置き候て、指月(萩城)の儀は番兵こめおき、城下警衛厳重に申し付け、藩鎮の任、これもその節を遂げ奉り度く」

「山口御屋形差図」(部分)、山口県文書館蔵

しかし同じ年に第一次長州征討が起こり、長州藩は幕府に降伏したので、その講和条件として城は破却されてしまいました。藩主は萩に引っ込みました。1864年(元治元年)高杉晋作の挙兵をきっかけに幕府に対抗する方針に転換すると、翌年(1865年)藩主は再度山口に移り、城も修築されたのです。(段落全体⑧)

山口城は、山口盆地の北側に立地していて、背後に香山が控えていました。平地を望む高台に築かれたわけです。西洋式城郭ということで、従来の天守・櫓・高石垣はなく、中心部には御屋形(御殿)があり、城域は土塁・水堀・柵で仕切られていました。不整形は八角形の角には砲台が築かれていたと考えられます。見せるための城ではなく、政治・軍事の機能に特化していたのです。(段落全体④)

山口城縄張り図、現地説明パネルより

明治維新になると、居城としての役目は終り、山口藩藩庁(1870年、明治3年)になり、現在残る旧山口藩庁門(藩庁御本門)が完成します。翌年(1871年)の廃藩置県により山口県庁になり、それが現在も同じ場所にある県庁につながっていきます。

旧山口藩庁門
山口県政資料館(旧県庁舎及び県会議事堂)

リンク、参考情報

①「中世武士選書14 大内義弘/松岡久人著」戒光祥出版
②「西国一の御屋形様 大内氏がわかる本 入門編・興亡編」山口市
③「ミネルヴァ日本評伝選 大内義弘/平瀬直樹著」ミネルヴァ書房
④「山陰・山陽の名城を歩く 広島・山口編」吉川弘文館
⑤「英雄たちの選択「戦国大名のおもてなし戦略~大内義興の野望~」NHK BS放送
⑥「中世武士選書20 大内義隆/米原正義著」戒光祥出版
⑦「毛利氏の御家騒動 折れた三本の矢/光成準治著」平凡社
⑧「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
「城びと【理文先生のお城学校】歴史編第29回 大内氏とその居館」
➉「完訳フロイス日本史6 大友宗麟編Ⅰ/松田毅一・川崎桃太訳」中公文庫

「大内氏館・高嶺城 現地編」に続きます

75.萩城 その1

270年間に渡る長州藩の本拠地

立地と歴史

毛利輝元が関ヶ原敗戦後に築城

萩市は、古い町並みでよく知られています。近くの津和野町とセットでよくツアーが設定されています。萩市はまた、明治維新で活躍した志士たちを多く輩出した地域たということも歴史ファンの間では有名です。吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、そして日本の初代総理大臣となった伊藤博文などです。それは萩が、1604年の萩城築城以来、270年もの間長州藩の本拠地であったからなのです。

萩市の範囲と城の位置

この城を築いた毛利輝元は、もともと広島城を居城として、中国地方のほとんど、石高120万石の領地を治める大大名でした。ところが、1600年の関ヶ原の戦いにおいて、徳川幕府の創始者となる徳川家康に敗れてしまいました。その結果、家康は輝元の領地を、現在の山口県にあたる長門国と周防国のわずか2ヶ国、37万石に削減しました。輝元は新しい本拠地を定める必要となり、その候補地として3ケ所が挙げられました。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の広島城

一つ目は瀬戸内海に臨んだ桑山、二つ目は日本海に面した萩、三つ目は前者の中間に位置し、現在の県庁所在地である山口でした。結果的には萩となりました。その理由としては、幕府が毛利氏が二度と幕府に反抗しないよう、奥まった場所に毛利氏を閉じ込めたためと言われてきました。しかし、最近歴史家の中には輝元が幕府との議論の末に、最も防御力が高い場所として積極的に萩を選んだのではないかと推測している人もいます。萩は、輝元の以前の本拠地であった広島城のごとく、デルタ地帯の上にあったのです。

長州藩(現山口県)の範囲と城の位置

安芸国広島城所絵図、江戸時代(出典:国立公文書館)

デルタ地帯に立地

萩のデルタ地帯は、松本川と橋本川に挟まれていて、北側が海に面していました。そして、デルタの北側は砂丘となっていました。その上、最北端の部分には標高143mの指月(しづき)山が海沿いにあったのです。城の本丸は山の手前にあり、石垣と内堀に囲まれていました。本丸には城の中心として、5層の天守と藩主の御殿がありました。二の丸は本丸の南側にあり、中堀に囲まれていました。二の丸には2つの虎口があり、その石垣は海外部分までにまで及んでいました。三の丸は前述の曲輪群の更に南側にあって、重臣たちの屋敷地として使われていました。城下町とは外堀によって隔てられていました。指月山もまた、詰めの城として使われていました。輝元は、ここにも頂上に独自の本丸と二の丸を築いたのです。その内部には最初から建物はありませんでしたが、周りを櫓群と石垣によって囲まれていました。基本的にこの場所は戦のような緊急事態に備えたものでしたが、平時には物見台として使われていました。

萩市周辺の地図、今でもデルタ地帯上にあります

萩城下町絵図、1652年。現地説明板より
萩城天守の古写真、現地説明板より

城下町から明治維新の志士を輩出

城下町については、この区域はデルタ地帯の北側の砂丘部分より低い位置にあったので、最初は湿地帯でした。萩の人たちは排水のために運河を掘り、これによって城下町の建設が可能となりました。実際、明治維新で活躍したヒーローたちはこの城下町出身です。興味深い話としては、高杉や木戸のような階級が高い武士は城に近い方に住み、松陰や伊藤のような階級が低い武士は城からずっと離れた所に住んでいました。当時の武士たちにとってこれは一般的なことでした。

萩市周辺の起伏地図、今でも旧城下町は低い位置にあります

4人の志士の誕生地または旧宅位置

高杉晋作写真、1933年か1934年に出版 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
木戸孝允(桂小五郎時代)、1869年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉田松陰肖像画、山口県文書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊藤博文写真、1909年以前 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

本拠地が山口に移転

それからもう一つ興味深い儀式が、城の御殿で毎年行われていたと言われています。この儀式では、家老が藩主に対して「今年は幕府を討つべきか」と聞き、藩主が「いや、時期尚早だ」と答えたというのです。ところが、状況が変わり、将軍を倒すことが可能になる時代がやってきました。長州藩は、幕末に本当に幕府に反抗したのです。そして萩城をとりまく状況も変化しました。城が築かれた当時は、海沿いに城を築くことは防御に有効でした。しかし、軍艦から砲撃される可能性が出てきた幕末には、その立地は逆に危険となってしまったのです。また、長州藩は他藩との連携を欲していて、本拠地としては山口が適切と考えるようになりました。その結果、藩主と藩士たちは幕府の許可なしに、萩を離れ、山口城に移っていきました。萩城が正式に廃城となったのは1874年のことです。

現存する山口城時代の山口藩庁正門

「萩城その2」に続きます。

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