特徴、見どころ
少しずつ進む大内氏館の復元
現在、大内氏館跡は国の史跡に指定されていますが、今でも山口市の中心部に位置しています。その辺りの通りは「~大路」や「~小路」と名付けられていて、京都に似ています。館跡の中には、毛利隆元が義父の大内義隆を祀るために創建した龍福寺があります。明治時代なってその本堂が他の場所からこちらに移されたのですが、建物自体はとても古く(大内氏と同時代の室町時代に建てられたものです)こちらも重要文化財に指定されています。この地では何回も調査や発掘が行われていますが、大内氏館そのものにに関するものは見つかっていません。寺の本堂の地下に眠っているからかもしれません。
城周辺の航空写真その代わりに館に関連する他のものが多く見つかっています。調査や発掘の成果に基づいて、現地にいくつか復元されたものがあります。例えば、敷地の内部に2つの復元庭園があります。一つは南東部にある池泉庭園で、もう一つは北西部にある枯山水です。館跡の北、西、南側には土塁も復元されています。西側には、西門と、石組み水路も復元されています。
発掘された築山館跡
大内氏館跡の北側、築山小路を越えたところに、別邸として築かれた築山館跡があります。その南東部分が、そこにあった料亭が他の場所に移転した後に発掘され、歴史公園として整備されました。建物や空堀の痕跡が発掘によって発見されました。それらの遺跡は保存のために埋め戻されてしまったのですが、説明板や地面のマーキングによって、そこに何があったのかわかるようになっています。歴史家は、大内教弘がこの館を隠居所として最初に築き、彼が亡くなった後は彼を祀る場所になったと推測しています。館跡の主要部分が八坂神社や築山神社になっていることもその根拠の一つとされています。
アクセスし易い高嶺城跡
高嶺城跡もまた、国の史跡に指定されています。この城は大内氏館から約2km離れた、標高338mの高嶺山の上に築かれました。市街地からでもこの山がそびえているのが見えます。歩いてでも、車でも城跡に行くことができます。車を使った場合は、山の中腹に駐車することができます。ただ、そこから頂上までは峰上を約500m歩いて行く必要があります。
その途中でいくつかの土造りの曲輪を目にしますが、最初は大内氏が築き、その後毛利氏によっても使われたと考えられています。頂上部分は石垣に囲まれており、これは毛利氏が築きました。部分的に崩れているのは、この城が廃城となったときに毛利氏が意図的に破壊したためです。そこからは、大内氏館跡を含む市街地をよく見渡すことができます。この城と館とは、完全に連携が取れる関係にあったのです。