153.北畠氏館 その3

霧山城跡の北峰曲輪群は、周辺の山々から隔絶しているように見えます。そこは本当に最後の陣地として築かれたのでしょう。

特徴、見どころ

霧山城への道のり

霧山城への道のりは、麓から詰めの城までのものよりずっと長いです。山の峰筋や谷筋を進むこと30分以上かかります。霧山城は、山の北峰と南峰のそれぞれ頂点の場所に築かれました。

城周辺の地図

峰上を進みます
谷底を進みます
もうすぐ城跡です
現地案内板にある霧山城のレイアウト

鐘楼があった南峰

まず着くのは南峰の方で、鐘撞堂跡と呼ばれています。その名前が示す通り、かつては鐘楼がありましたが、今は建物はありません。そこから周りの眺めはとても良いです。物見台のようなものもあったかもしれません。

城周辺の航空写真

鐘撞堂跡
鐘撞堂跡からの眺め

そこからもう2つの峰が伸びています(南峰から見て、右側の北方向にあるものと、左側の南西方向にあるもの)。ここでは、主郭群があった北峰の頂上に行くために、右側の北方向に選ぶべきで、決して左側の南西方向には行かないようにしてください。もっと険しい山地帯にはまり込んでしまいます。そのような厳しい状況の場所でさえ、人工的な堀切が設けられていて、南西方向から攻めてくる敵を防げるようになっていました。

北峰に向かう道
こちら(南西方向)には行かない方がいいです
南西方向にある堀切

北峰にある主郭群

北峰の方に進んでいくと、峰は上下しながら、ついには頂上の主郭群に到着します。主郭群は堀切により区切られ、南西部の米倉跡、中心部の本丸、北東部の矢倉跡に分かれています。これらの曲輪は今でも厚い土塁に囲まれています。

主郭群に到着します
米倉跡
本丸
本丸にある城跡の石碑
本丸と矢倉跡の間にある堀切
矢倉跡

特に、本丸はお椀のようになっていて、恐らく周りの土塁が崩れて、中の平らな部分を埋めたことで、丸みを帯びた形になったのでしょう。北峰の曲輪群は、周辺の山々から隔絶しているように見えます。そこは本当に最後の陣地として築かれたのでしょう。

本丸はお椀のような形をしています
北峰からの眺め

その後

織田氏による侵攻があった後、北畠氏館、及び詰めの城と霧山城は廃城となりました。江戸時代になって、北畠氏の子孫の一人が館跡に先祖を祀るために小さな神社を建てました。それが現在の神社の起源となりました。明治維新後にその状況が変化します。政府が南朝を正統な皇統であると宣言したのです。それ以来、南朝を支えた武士や領主たちが脚光を浴び、その一つが北畠氏でした。神社は拡張され北畠神社となり、ついには1928年に、忠臣を祀る別格官幣社の一つに指定されました。同じように、北畠氏館跡庭園と霧山城跡が1936年に国の史跡に指定されました。これもまた、北畠氏の貢献が影響したのでしょう。オリジナルの館の古い石垣が発見された後は、2006年に館跡が国の史跡に追加指定されました。

北畠神社参道
北畠氏館跡庭園

私の感想

最初に、現在は北畠神社になっている北畠氏館跡を訪れたときは、正直がっかりしました。城らしいものがほとんどなかったからです。そのとき、霧山城への案内も見つけたのですが、そこに行って帰ってくる十分な時間がなかったため断念しました。その後、別の日にもう一度行って城跡を訪れ、それで満足しました。しかし今から考えると、北畠氏館跡と霧山城跡両方を見学する時間がない場合でも、少なくとも霧山城に行く途中の詰めの城までは、短時間で行って来られると思います。

霧山城跡
詰めの城跡

リンク、参考情報

多気北畠氏遺跡の概要、津市
・「伊勢国司北畠氏の研究/藤田達生編」吉川弘文館

これで終わります。ありがとうございました。
「北畠氏館その1」に戻ります。
「北畠氏館その2」に戻ります。

153.北畠氏館 その2

北畠氏館跡に関しては、多気地域に足を踏み入れた瞬間から館跡への訪問が始まっていると言えます。今でも険しい仁柿峠を通れば、自然の障壁によって館がいかに守られていたか理解できるでしょう。

ここに行くには

北畠氏館跡に関しては、多気地域に足を踏み入れた瞬間から館跡への訪問が始まっていると言えます。多気への現在の道路は交通の便のために整備され、舗装されてはいます。しかし、その中には今でも狭かったり、峠を曲がりくねりながら通っているものもあります。例えば、国道368号線(以前の伊勢本街道)を車で通って館跡に行こうとする場合、西から入るときは簡単です。多気地域に接する山に飼坂トンネルが通っているからです。

多気地域の地図、現代の7箇所の出入口を示しています

飼坂トンネル
険しい飼坂峠への道(伊勢本街道)も並行しています

ところが東から入ろうとすると、困難に感じるかもしれません。道は今でも険しい仁柿(にがき)峠を通っていて、狭くジグザグになっているからです。この自然の障壁によって館がいかに守られていたか理解することにもなるでしょう。すれ違いのときには気を付けてください。伊勢自動車道の松坂ICから約1時間、距離にして40kmほどの道のりになります。そのうち、険しい峠の部分は約5kmです(この部分は「酷道」と言われています)。松坂ICからもっと容易な道を通って行きたい場合は、北の方から三重県道43号線を通るという手段もあります。

仁柿峠を通る「酷道」368号線

公共交通機関を使う場合は、伊勢奥津駅から津市コミュニティバス(美杉東線か美杉循環線)に乗って、北畠神社前バス停で降りてください。このバスは平日のみの運航で、本数も少ないので注意してください。
東京から伊勢奥津駅まで:東海道新幹線に乗って、名古屋駅で快速みえ(JR)か近鉄線に乗り換え、松坂駅でJR名松線に乗り換えてください。

特徴、見どころ

館跡はそのまま北畠神社に

北畠氏館跡は、江戸時代から北畠神社となっています。この神社は館があったその場所に建てられているので、見た目は神社そのものであり、館や城のようには見えません。ただし神社の南側には、館関連で唯一残っている北畠氏館跡庭園があります。この庭園は回遊式の池泉庭園で、幕府の管領であった細川高国が設計し、7代目の北畠氏当主が造園したと言われています。とても美しく、洗練されていて、日本三大武将庭園の一つとされています。国の名勝にも指定されています。

館周辺の地図

神社入口
神社の拝殿
城跡、館跡という感じではありません
北畠氏館跡庭園
三大武将庭園の一つ、一乗谷朝倉氏庭園(諏訪館跡庭園)

武士の城館のものとしては最古の石垣

神社内の説明板には、オリジナルの館の石垣が発掘されたことと、中世の(武士の)館や城で使われたものとしては日本最古であると記載されています。しかしその石垣を直接見学することはできません。発掘された後埋め戻されてしまったと思われるからです。この石垣は最初は館の敷地の最上段を囲んで築かれ、恐らくはその上に領主の御殿がありました。そして実は、北畠氏自身がその上段部分を拡張するため、石垣を埋めてしまっていたのです。御殿は新しく出来た上段に再建され、それが館の最終形となりました。つまり、石垣の遺構は現在の神社の内部にあるため、ビジターは通常見ることはできないということになったのでしょう。

石垣についての説明板
発掘されたものを見ることはできません

詰めの城跡

もし城跡らしいものをご覧になりたいのでしたら、詰めの城、霧山城の両方かどちらかに行ってみてはいかがでしょうか。両方とも同じルート上にあって、しかも詰めの城の方は館からそんなに遠くありません。片方だけにするか両方にするかはご都合次第でいいと思います。神社の南にある小道を通って行くと、城跡への登山口が見えてきます。曲がりくねった山道になりますので、山歩き用の準備は必要です。

登山口に向かう小道
登山口

まず最初に、詰めの城の跡地に到着します。ここは神社(以前館だった所)から約80m高い位置にあります。この城跡はシンプルで、主郭部とその周りの腰曲輪から構成されています。来る途中では神社の屋根が見えたり、城跡からは周辺地域を見渡すことができます。この場所は館に住んでいた人たちが何かあったときに避難する場所だったのだろうと理解できます。山道は腰曲輪沿いに進み、西側の堀切を越えて霧山城跡の方に向かいます。

山道を登っていきます
途中で神社の屋根が見えます
周辺の景色
詰めの城跡
霧山城跡に向かう山道

「北畠氏館その3」に続きます。
「北畠氏館その1」に戻ります。

153.北畠氏館 その1

北畠氏の当主は、多気御所と呼ばれた本拠の館で君臨していました。豪華な日本庭園も造られ現存しています。この一族は16世紀初頭には有力な戦国大名となりました。

立地と歴史

戦国大名となった南朝出身の貴族

北畠氏館は、14世紀から16世紀の間、現在の三重県にあたる伊勢国を支配した北畠氏の本拠地でした。北畠氏はユニークな大名家で、もともとは貴族だったのがついに戦国大名になりましたが、最後には織田信長に家ごと乗っ取られてしまいました。北畠氏館も独特な立地で、不便ではあるが防御力に優れる多気地域というところに館が築かれました。その結果、北畠氏は長い間存続できたのです。

伊勢国の範囲と城の位置

14世紀の南北朝時代に、南朝の後醍醐天皇は、信頼する臣下の北畠親房を東日本にその統治のために派遣しました。親房とその息子の顕家は武将として、北朝型の大名たちと戦いました。その結果、彼らの親族は東北地方に残り、高貴な生まれの大名として浪岡御所と呼ばれ、16世紀後半まで浪岡城を居城としていました。同様に、顕家の弟の顕能(あきよし)が伊勢国に派遣され、1338年には国司に任命されました。伊勢国は、海に面した東部と山間部の西部に分かれていました。東部には、皇室にとって最も重要な神社の一つ、伊勢神宮がありました。西部には、南朝の本拠地である大和国(現在の奈良県)の吉野に通じる街道が通っていました。

後醍醐天皇肖像画、清浄光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北畠神社内にある北畠顕家像
浪岡城跡

館があった地域自体が自然の要害

伊勢国の北畠氏も北朝方と戦っていて、自然本拠地は防御力の強い国の西側に置くことになりました。そして選ばれたのが多気地域たっだのです。この地域には伊勢神宮と大和国をつなぐ伊勢本街道が通っていて重要視されました。しかしその場所は八手俣(やてまた)川沿いの山に囲まれた小さな盆地でした。この地域の出入り口は7箇所ありましたが、全て峻険な峠道か、深い谷間でした。つまり、この地域自体が自然の要害だったのです。

多気地域の起伏地図、7箇所の出入口も示しています

北畠顕能座像、美杉ふるさと資料館蔵  (licensed via Wikimedia Commons)

不幸なことに南朝の勢力はやがて衰え、北朝を支持する足利幕府が設立されます。北畠氏は何とか生き残りましたが、しばしば幕府に対して南朝の子孫の取り扱いについて抗議しました(南北朝合体のときに約束された両統からの皇位継承が反故にされたことなど)。北畠氏はまず、西に山を控え、残りの三方を八手俣川に囲まれた敷地に館を建設しました。その敷地は三段に造成され、上段は中段よりも約3m高く、長い石垣によって囲まれていました。その上段に御殿が建てられていたようです。そこに築かれた石垣は、武士の館や住居のために作られたものとしたは最古に属すると考えられています。石垣は、楕円形の自然の川原石を垂直に積み上げたもので、後世の城に見られるような加工された石を傾斜を作って積み上げたものとは違っていました。

発掘された敷地上段の石垣、現地説明板より

館を守るために次々と築城

北畠氏の反抗により、幕府は軍勢を送り、北畠氏の領地を西側から度々攻撃しました。そのことで、北畠氏は本拠を守るためにその方角に向かって新しい城を築き始めました。最初は館の背後の山、約80m上方に非常事態に備えた詰めの城を作りました。その城は簡単な構造で、頂上に本丸があり、その周りを通路とともに腰曲輪が設けられていました。その山の西側の峰には、深い堀切が作られ、それを渡る細い土橋によってのみ通行可能になっていました。

城周辺の起伏地図

詰めの城の縄張り図、現地説明板より
詰めの城跡

また、その通路を渡った西側に向かって、もっと大きな城も築きました。それが霧山城で、詰めの城よりも更に約160m高い別の山にありました。敵にとっても味方にとっても、近づくだけでも困難な場所でした。したがって、その城は通常は物見のために使われ、非常事態が発生したときには籠城のために使われたと思われます。その結果、北畠氏は敵の領地への侵入を防ぐことができました。

霧山城跡

北畠氏の繁栄と滅亡

その後、北畠氏と幕府は和解し、伊勢国における北畠氏の支配は安定しました。木造(こづくり)氏などの北畠氏の支族は、伊勢国の各地に派遣され、北畠氏の当主は、多気御所と呼ばれた本拠の館で君臨していました。館も拡張され、豪華な日本庭園が造られ、それは現存しています。北畠氏一族は16世紀初頭には有力な戦国大名となり、7代目当主の北畠具教(とものり)が国を治めていた16世紀半ばにその勢力はピークに達しました。

現存する北畠氏館跡庭園
北畠具教肖像画、伊勢吉田文庫所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、伊勢の北、尾張国から新たな脅威が訪れます。後に天下人となる織田信長が1568年に伊勢国への侵攻を開始したのです。更に、一族の木造氏も信長の味方となりました。具教は本拠を、戦場により近い大河内城に移さなければならなくなりました。北畠、織田両氏は1569年に、信長の息子、信雄を北畠氏の跡継ぎに迎えるという条件で講和しました。このことは実際には、織田氏による北畠氏乗っ取りの始まりとなりました。具教は1576年に信雄により殺されてしまい、同じ頃に北畠氏館を含む伊勢国の各城は、織田軍により占拠されました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
織田信雄肖像画、総見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「北畠氏館その2」に続きます。