74.岩国城 その2

今日は、錦川の畔に来ています。錦帯橋を見ながらも、岩国城の方も気になってしまいます。今回は、錦帯橋を渡って、山麓の居館跡を見学してから山の上に行きます。そして、吉川広家が築き、終わらせたお城がどうなっているかご案内します。再建天守に着いたら、山上からの景色を楽しみたいと思います。

イントロダクション

今日は、錦川の畔に来ています。ちょっと天気は風雲急を告げている感じですが錦帯橋が良く見えます。錦帯橋を見ながらも、岩国城の方も気になってしまいます。

錦川と錦帯橋
岩国城再建天守

今回は、錦帯橋を渡って、山麓の居館跡を見学してから山の上に行きます。そして、吉川広家が築き、終わらせたお城がどうなっているかご案内します。再建天守に着いたら、山上からの景色を楽しみたいと思います。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(錦帯橋から岩国城をめぐるツアー)

錦帯橋を渡って御土居を見学、そして山上へ

まずは錦帯橋を渡ります。気分が改まる感じがします。錦帯橋は5つの橋から成っていて、両端は、普通の感じの桁橋です。そして橋台の先の第2橋からが、アーチ構造になります。アーチの上り下りは階段になっていて、特別な橋に来たと思う瞬間です。

山上から見た錦帯橋
第1橋から第2橋へ
第1橋と第2橋の間の橋台

しかしこんな優雅な川が暴れ川なんて、信じられません。現代は、ダムなどの治水対策が行われているそうです。城のある山がだんだん近づいてきますが、下りの階段の足元には気を付けましょう。最後の橋を渡ったら、吉香公園に到着です。

第3橋から見た錦川
第4橋を下って第5橋へ
吉香公園

この公園には、錦帯橋を架けた吉川広嘉、藩祖・吉川広家、そして佐々木小次郎の像まであるのですが、小次郎像の向こうが堀跡のようです。

吉川広嘉像
吉川広家像
佐々木小次郎像と堀跡

吉川史料館を過ぎたところに、お殿様の居館「御土居」の跡があるのです。周りを囲む堀の向こうには櫓のようなものがありますが、今ある吉香神社の建物です。かつては同じ場所に三階櫓があったそうです。「現代の櫓」ということです。

吉川史料館
御土居跡

入口に立つと、城の山(城山)が背後に控えています。御土居も城の一部だったのです。幕末のお殿様・吉川経幹(つねまさ)は、幕府軍との戦いで、山上に籠城することまで考えていました。

山麓部分周辺の地図

吉香神社(御土居跡)入口

社殿は移されたものですが、重要文化財に指定されています。しかし、「現代の櫓」も気になってしまいます。それでは行ってみましょう。現在ある建物は絵馬堂で「錦雲閣」といいます。中に入ることもできます。そこからの眺めは、城からの眺めそのものです。御土居に来たら、立ち寄っていただきたいスポットです。

吉香神社社殿
錦雲閣
錦雲閣からの眺め

いよいよロープウェイに乗って山を登ります。さっき見た御土居が遠のいていきます。錦帯橋や錦川がまた見えてきました。

岩国城ロープウェイ
ゴンドラからの眺め

山頂駅に着きました。まずは景色に期待です。いい眺めです。天守からの眺めもますます期待してしまいます。

ロープウェイ山頂駅
山頂からの眺め

残っている石垣、壊された石垣

山上での城への道は2つあります。左(西側)の方がお勧めのように見えますが、城郭ファンとしては、右(東側)の山道の方を行っていただきたいのです。残っている石垣が見られるからです。縁石も石垣風です。これも当時のものなのでしょうか。

城への案内板
縁石が続く山道

石垣が見えてきました。二の丸のところだと思います。すぐそばで見ると、迫力があります。

岩国城の縄張り図(岩国城天守内展示)、左から二の丸、本丸、北の丸
二の丸の石垣

二の丸の入口前に来ました。ここにも立派な石垣が残っています。入口を守る出丸のものです。ここから二の丸に入っていきます。出丸の内側が枡形になっていて、枡形を抜けると大手門があったのです。二の丸は、今は現代風の庭園になっています。振り返ると再建天守が見えますが、ちょっとお預けです。

二の丸入口前、張り出しているのは出丸の石垣
左側が出丸、右側が枡形
二の丸内の庭園
二の丸から見える再建天守

二の丸入口前に戻って、今度は本丸の方に行きますが、直接本丸には入れないので、北の丸を回ります。さすが厳重な作りです。本丸下の石垣は見もので、張り出したところが一番高く、高さが9メートルあります。江戸時代初期に廃城になった城とは思えません。やっぱり意識的に残したのだとと思います。

本丸下の高石垣(もっとも高いところ)
高石垣が続きます

ところが、北の丸に入ると様子が変わります。何気ない散歩道に見えますが、道を少し入ったところには、石垣を崩した跡が残っています。なぜか一部残っている箇所もあります。

北の丸に入ります
北の丸の散歩道
北の丸の崩された石垣

道を先に進むと広場に出ました。北の丸の端っこから、かつて枡形だったところを見まわしてみます。石は少し残っていますが、全然崩されてしまっています。吉川広家が「表の方」の石垣を崩すと言っていたのは、この辺のことではないかと思います。つまり、城の正面はこちらの方だったと思うのです。

北の丸の広場
北の丸枡形跡

実は鉄壁!本丸の防御

それでは、北の丸を正面として、本丸に攻め込むシミュレーションをしてみましょう。2つのルートをご紹介します。

山城部分周辺の地図

一つ目は旧天守台を通るルートで、先ほどの枡形を通って、北の丸に入ったとします。そこから、北の丸と本丸は土橋でつながっているのですが、左側(東)は空堀で、右側(西)は竪堀で挟まれています。通る道が限られていたのです。

北の丸と本丸をつなぐ土橋
空堀
竪堀

そして、その先に現れるのが、旧天守台です。ここにあった天守は、飾りではなかったのです。吉川広家も「天守は御庄側の切り立った部分を延ばした場所を防御するためのものである。(慶長9年5月28日付吉川広家条々写、現代語訳は「毛利氏の御家騒動 折れた三本の矢」より)」と言っています。この上に、現在の再建天守のような建物が載っていました。次は、その再建天守に行ってしまいそうですが、またお預けです。

旧天守台
旧天守台の奥の隅を見上げています
左奥が再建天守、右端が旧天守台

もう一つは、天守はなくとも、櫓群と枡形で守っていたルートです。まず、さっき見た空堀に架かる橋を渡ります。この辺りの石垣も崩されています。細い通路を進むと、最初の枡形と思われる場所に着きます。北の丸の枡形も同じように崩されていました。傍らには三階櫓があって、更に正面には、隅櫓が控えていました。鉄壁の守りだったのです。

空堀にかかる橋
最初の枡形と思われる場所、正面は隅櫓跡
三階櫓跡

そこを抜けると、本丸下に出ますが、ここは、最初に通った高石垣の天辺なのです。景色もいいですが、石垣下の敵もお見通しです!

本丸下
高石垣を見下ろしています

そして、再度本丸に乗り込みます。再建天守とやっとご対面です。実はここにも別の櫓がありました。それぞれの場所に、意味があったのです。ここが、本丸入口の枡形になります。これにて、本丸到着です。また、天守台が見えます。かつてはここで、どーんと天守が見えたはずです。

再建天守、かつては別の櫓がありました
本丸枡形
旧天守台

天守に到着!素晴らしい景色

次は、再建天守をご案内します。再建天守は、オリジナルの南蛮造のスタイルで、1962年、山頂・山麓からの景観を考慮して現在地に建てられました。

再建天守

中に入りましょう。1階は刀剣がたくさんあったり、お城の歴史コーナーがあります。2階には錦帯橋の模型などが、3階には各地の城の写真があります。

天守1階の刀剣展示
岩国城の歴史コーナー
天守2階の錦帯橋模型
天守3階

そして最上階は、お約束の展望台で素晴らしい景色です。瀬戸内海までよく見えます。もちろん錦帯橋は見えるのですが、そこから川が海に下っていくところもよくわかります。

天守最上階
天守からの眺め
川がそそぐ瀬戸内海

帰りは二の丸の方に下っていきます。二の丸から出て、来るときとは違う道を通ります。西側の道です。西側の方は、やはり石がゴロゴロしています。来たときに通った東側の石垣の残り方とは全然違います。

二の丸からの出口
石垣を崩した跡
西側の道

それでも、よく残っている遺構もあります。「大釣井(おおつるい)」という井戸です。少し上から見た方がいいかもしれません。

大釣井

このままロープウェイで下ろうと思いましたが、天守の中の展示を見て、行きたくなったところがありました。城とは反対側になるのですが、そこは「護館神(ごかんじん)」といって、もとは城の石切場だったのが、お殿様が住む居館を護り、山を鎮めるための神様が祀られたのです。山の上なのにまだ登ります。着いてみると、すごいパワースポットと感じます。この城山は、城を作っただけじゃなく、守り神にもなっているのです。

「御城山平図」(岩国城天守内展示)、「御館神」は左端にあります
護館神への道
護館神

山を下ったら、吉川広家のお墓にお参りしてみるのもいいでしょう。今度は晴れたときに来てみたいです。

吉川広家墓
以前訪れたときの錦帯橋と岩国城

リンク、参考情報(追加分)

錦帯橋、岩国市公式ホームページ
岩国城、岩国観光振興課~岩国 旅の架け橋
おもしろ山口学「破却?失われた岩国城の真実」、山口県魅力発信サイト きらりんく

「岩国城 その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

74.岩国城 その1

吉川広家の人生を反映した城

立地と歴史

毛利氏を守った広家

岩国は、5連の木造アーチ橋の美しい景観で知られています。錦川(にしきがわ)にかかる錦帯橋は、岩国城を背景としてとても絵になります。岩国を訪れるビジターは、これらは全て昔のままと思うかもしれませんが、少なくともこの城には多くの逸話があり、試練の歴史を経てきたのです。

山上の岩国城を背景とした錦帯橋

吉川広家(きっかわひろいえ)がこの城を築城したのですが、彼は毛利氏の親族で且つ重臣でした。毛利氏は16世紀の終わり頃において、120万石の石高をもって中国地方のほとんどを領有していました。ところが、天下人の豊臣秀吉が1598年に死去したことで政治状況は不安定になりました。多くの大名たちが、250万石の石高を持ち東日本で最大の大名であった徳川家康を、次の天下人として頼ろうとしました。一方、石田三成を含む他の大名はまだ豊臣氏を支えていました。三成は、西日本で最大の大名である毛利輝元を、彼のグループのリーダーに担ごうとしました。毛利家中の意見は真っ二つに割れました。一つは三成に加勢し、輝元を家康の代わりに(豊臣家を戴きつつ)次の天下人にするというもので、主に安国寺恵瓊によって主張されていました。広家はそれに反論し、家康に加勢し毛利氏の領土を維持しようとしました。

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1600年に関ヶ原の戦いが起きたとき、輝元は西軍の総大将となりましたが、実態としては三成が主導していました。輝元は天下人になりたかったのです。広家は、冷静な判断ができる武将であり、主君の輝元は家康率いる東軍を凌駕することはできないとみていました。よって彼は家康に密かに通じ、毛利の領土保全を条件に毛利の軍勢は戦いでは一切動かないことを約束しました。結果、家康は三成を破ったのですが、戦後になって輝元が天下を取ることを欲していた証拠を見つけたのです(広家は家康に、輝元にはその野心はないと伝えていたようです)。家康は、毛利から全ての領土を取り上げ、その中の2ヶ国(長門と周防)を広家に与えることとしました。広家は家康に、その2ヶ国を広家の代わりに輝元に与えるよう嘆願しました。最終的には、毛利の領土が形式上、120万石からその2ヶ国わずか37万石に削減されることで決着しました。それが長州藩となります。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石田三成肖像画、杉山丕氏蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新領地に岩国城を築城

広家は、難しい立場に立たされました。彼は実際には毛利家の救世主だったのですが、家中の多くの藩士は逆にぶち壊されたと思っていたからです。彼は最終的に、長州藩の領地の東端にあたる、3万石の石高の小さな領地を主家から与えられました。広家は1601年に本拠地として新しい城を築き始めました。それが岩国城となるのです。まず最初に、自然の外堀ともいうべき錦川沿いに御土居と呼ばれた居館を建設しました。その居館は人口の内堀にも囲まれていました。その後、山城部分の建設を行い、山の嶺の北から南の方角に沿って、北の丸、本丸、二の丸を設けました。これらの曲輪は全て石垣によって囲まれており、本丸には4層の天守がありました。城の完成は1608年となります。

長州藩(現山口県)の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

苦渋の決断により山城部分を破却

ところが、1615年に徳川幕府が豊臣氏を滅ぼした後、広家はまたも困難に直面します。徳川幕府は同年、全ての大名に一国一城令を発布し、大名が住んでいる一城を除き、全ての城を破却するよう命じました。幕府は、多くの強力な城を頼りに、大名たちが幕府に反抗することを防ごうとしたのです。この法令によれば岩国城は、周防国ではただ一つの城となり、幕府も広家の吉川家を独立の大名として認めていたため、存続することが可能でした。ところが、毛利主家は吉川氏を単なる毛利の家臣と考えていたため、それを認めませんでした。関ヶ原の戦い以来の両者の悩ましい関係が続いていたのです。広家は毛利家との将来の関係を鑑み、城を破却することを選びました。

意図的に破壊された山上の石垣

その際、山城部分が実際に破却され、川沿いの居館は残され、江戸時代末期まで公式には城ではなく、岩国陣屋と呼ばれるようになりました。錦帯橋は1673年に、3代目の領主である吉川広嘉(きっかわひろよし)によって、居館と川の反対側にあった城下町をつなぐために架橋されました。この橋は(もともと外敵を防ぐための川に架けられたという意味で)当時から平和な時代のシンボルともいえるものでした。

山麓の御土居跡
葛飾北斎「諸国名橋奇覧」より「すほうの国きんたいはし」、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「岩国城その2」に続きます。

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