21.江戸城 その5

皇居の乾通り一般公開に行ってみます。皇居の東側の通りを、桜の時期などに歩くことができるのです。桜見物もいいですが、その通りは、江戸城本丸の西側を通っているのです。以前、江戸城本丸こと、皇居東御苑に行きましたが、その時には見ることができなかった、本丸の別の姿を見学できるのです。これは行ってみるしかありません。

イントロダクション

皇居の乾通り一般公開に行ってみます。皇居の東側の通りを、桜の時期などに歩くことができるのです。桜見物もいいですが、その通りは、江戸城本丸の西側を通っているのです。以前、江戸城本丸こと、皇居東御苑に行きましたが、その時には見ることができなかった、本丸の別の姿を見学できるのです。例えば、富士見三重櫓は裏側からしか見れませんでしたが、今回のルートでは、正面の姿を見ることができそうです。これは行ってみるしかありません。

皇居乾通り
花木の向こうには本丸石垣が見えます
皇居東御苑から見た富士見三重櫓
坂下門周辺から見た富士見三重櫓

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(江戸城「乾通り」編)

乾通りはどんなところ?

現地に行く前に少しだけ予習をしましょう。入口は、坂下門になります。普段はその前までしか行けません。そこから入って、富士見三重櫓の近くを通ります。蓮池濠、乾濠沿いに、乾門までまっすぐ進むのが、乾通りのルートです。なお、乾門はもとは西の丸の裏門だったのが、明治時代に現在地に通用門として移されたそうです。

城周辺の地図

乾門

このルートだと、本丸の西側をずっと見学できそうです。本丸の石垣は主に徳川家康時代に築かれたので、お城らしさをがっつり見学できそうです。それでは、現地に出発しましょう!

坂下門・富士見三重櫓を見学

荷物検査が終わったら、坂下門に向かいます。右側に見えるのは、二の丸の石垣です。坂下門は「坂下門外の変」として歴史に名前も残していますが、現在は簡単に入ることができます。これは、元は高麗門と櫓門の組み合わせの枡形だったのが、明治になって、櫓門だけにして、向きを変え、まっすぐ入れるようにしたためです。

坂下門(左)と二の丸の石垣(右)
坂下門(内側から)

次の見どころは、富士見三重櫓です!土塁の向こう、木の間にちらちら見えます。遠目ですが、真正面です。屋根の装飾がかっこいいです。

富士見三重櫓(ズーム画像)

もう少し先に行っても見ることができます。今度は、斜めからのアングルです。一般参賀のルートでは、もっと近くに行けるそうですが、今日はこれで良しとしましょう。かつては、堀の間の道の向こうに門(蓮池門)があって、櫓の方にはまっすぐ進めなかったそうです。

富士見三重櫓(蓮池濠と蛤濠の間の土橋の手前より)
かつて櫓の手前にあった蓮池門 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

すごい本丸西側の石垣

それでは、乾通りを進んでいきましょう。この日は、まだ桜はあまり咲いていない感じで、雨も止んだばかりで、混んではいませんでした。お城ファンとしては良かったかもしれません。見学ゾーンぎりぎりのところまで来て、本丸石垣を見学します。右側に富士見三重櫓の端っこが見えます。かつては、左手にも数寄屋二重櫓がありました。

本丸西側の石垣、南方面

本丸の石垣が、複雑に折れ曲がっているのがよくわかります。敵をいろんな方向から攻撃するためでした(横矢掛かり)。富士見三重櫓の反対側にも建物が見えます。以前中に入った、富士見多聞です。手前の方にも、多聞櫓がもう一つあったそうです。

本丸西側の石垣、北方面
富士見多聞、皇居東御苑からの入口

富士見多聞の近くまで行ってみましょう。中に入った時は、倉庫みたいに見えましたが、外側から見ると、城をしっかり守っていたのがわかります。

富士見多聞
富士見多聞内部

あと気づいたのは、隅の石垣の色が他と違っています。この部分だけ西日本からの白い花崗岩が使われているようです。他は伊豆石と考えられます。

富士見多聞近くの石垣隅部分

また、先に進みましょう。富士見多聞の反対側にも建物があります(局門と門長屋)。これらも城の建物なのでしょうか。実は、明治時代に建てられたものです。城の建物と思ってしまうくらい古いものです。江戸時代、この奥には紅葉山東照宮があって、山麓には紅葉山文庫がありました。今いる辺りが、先ほどご説明した紅葉山下門だったと思われます。

局門
門長屋

初めて見る道灌濠

乾通りも後半に入ります。左側にも堀があります。「道灌堀」です。あの太田道灌が作ったのかと思ってしまいますが、今の形になったのは、西の丸工事などを行った徳川時代と思われます。しかし、築城経緯や、周りの様子からすると、城では最古級のものの一つではないでしょうか。由緒ある名前の堀を見られただけで満足です。

道灌濠(下道灌濠)
道灌濠の石垣

きれいに花が咲いているところもあります。石垣のデザインも、花崗岩を散りばめたようなところがあって面白いです。

咲いているところには人が群がっていました
白い花崗岩を散りばめたような石垣

城の見どころもまだあります。本丸と、西の丸などとの間の通用門だった西桔橋門(にしはねばしもん)跡です。細い土橋の先には、小さな橋がかかっています。あれが、当初は名前の通り、跳ね橋だったのです。普段は通れなかったということです(幕末には木橋に変更になりました)。

西桔橋門跡
かつて跳ね橋があったところ

土橋の先は、乾濠になります。実は、堀の向こうにもっと大がかりな仕掛けが見られるのです。それが、皇居東御苑の出入口の一つである北桔橋門で、乾通りからは横から見る形になります。ここも元は跳ね橋だったのですが、それだけではなく、なんと、その手前の堀を、北から続く台地をカットして作ったのです。跳ね橋どころか、台地まで切り離してしまったのです。

乾濠
北桔橋門の橋
北桔橋門(正面から)

最後は、お花見をしながら乾門に向かいます。短いけど、密度の濃いツアーでした。

お花見は一本ずつ楽しみました
乾門に到着しました

私の感想

富士見三重櫓はかっこよかったですし、本丸の石垣は、シンプルにすごいと思いました。前に行った大手門からのルートは、やはり豪華さが目立ちましたが、こちら裏側のルートは、本来の城らしい守り方をしていると感じました。

リンク、参考情報

・「幻の江戸百年/鈴木理生著」ちくまライブラリー
・「江戸城の全貌/萩原さちこ著 」さくら舎
・「歴史群像名城シリーズ7 江戸城」学研

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その2」に戻ります。
「江戸城 その3」に戻ります。
「江戸城 その4」に戻ります。
「江戸城 その6」に続きます。

21.江戸城その2~Edo Castle Part2

江戸は、水の都だったのです。
Edo was a city of waterways.

葛飾北斎「富嶽三十六景」より「江戸日本橋」、江戸時代~”Nihonbashi Bridge in Edo” from the series “Thirty-six Views of Mount Fuji” attributed to Hokusai Katsushika in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

今となっては、ほとんどの人が東京が水の都とは思わないでしょう。ところが、実は江戸はそうだったのです。徳川氏が江戸に移ってきたとき、江戸城は現在の山の手区域にありました。現在の下町にあたる地域は海の下にあったか、湿地帯でした。そして江戸前島と呼ばれた砂州が存在していました。また、陸地と砂州の間には日比谷入江が入り込んでいました。徳川の家臣団は、江戸前島を横切る運河を掘り、水運の便のために川筋を変更したのです。
These days, most people don’t realize that Tokyo is a city of waterways. However, Edo actually was. When the Tokugawa clan moved into Edo, Edo Castle was in the present uptown area. The present down town area was below the sea or waterlogged. There was a sand bank called Edo-Maeto. There was also the Hibiya arm of the sea between the land and the bank. Tokugawa’s team created a canal across Edo-Maeto and change the route of rivers for water transportation.

東京中心部のカラー標高図にコメント付加、江戸前島と日比谷入江の痕跡がわかります~The color altitude map of central Tokyo, adding comments, you can see traces of Edo-Maeto and the Hibiya arm of the sea(出典:国土地理院)

日比谷入江から江戸前島の東側に川筋を変更して作られた運河が、日本橋川でした。そこには現在日本橋がかかっています。この橋は昔ながらの姿で知られており、多くの主要道路の出発地点でもあります。
A canal created for changing the route of the river from the Hibiya arm of the sea to east of Edo Maeto is Nihonbashi River, where Nihonbashi Bridge goes across. The bridge is known for a traditional view and the starting point of many major roads.

日本橋~Nihonbashi Bridge
1911年に完成直後の現存日本橋~The remaining Nihonbashi Bridge just after the complition in 1911(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本橋にある日本国道路元標~The starting milestone of Japan at Nihonbashi Bridge(licensed by Aimaimyi via Wikimedia Commons)
歌川広重「東海道五十三次」より「日本橋」、江戸時代~”Nihonbashi Bridge” from the series “Fifty-three Stations of Tokaido” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

事実、この橋の下を流れる川は人工物で、それは400年以上前に作られたものなのです。この川からは、江戸前島の中心を通る外堀が分かれていました。
In fact, the river below the bridge is artificial and was created over 400 years ago. From the river, the outer moat separated out trough the center of Edo Maeto.

日本橋川~Nihonbashi River
戦前の有楽町付近の外堀~The outer moat near Yurakucho before World War II(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳川は、城の敷地を広げるためと防衛上の必要から日比谷入江を埋め立てました。更に、江戸前島の周りの海も市街地の確保のため埋め立てたのです。一方で、海の一部分は埋め残して堀、川や運河としました。結果として、江戸は水路とともに広がっていきました。今だにその痕跡は現代の地図上に残っています。それらをいつくか巡ってみましょう。
Tokugawa reclaimed the Hibiya arm of the sea to expand the ground for the castle as well as the need for defense. They also filled the sea around Edo Maeto to create the city area. Meanwhile, they left part of the sea as moats, rivers and canals. As a result, Edo city was spread with waterways. There are still traces of them on the present map. Let’s see some examples.

江戸時代初期の江戸推定地図~The estimated map of Edo in the first Edo Period(国土交通省Websiteから引用)

赤い線は現在の地図に残された江戸前島と日比谷入江の痕跡、マーカーは以下の項目に関連しています~The red line shows the remaining trace of Edo-Maetou and Hibiya Arm of the Sea on the present map, markers are related with the following items

愛宕神社~Atago Shrine

ここは急坂に「出世」の階段があることで有名です。日比谷入江の入り口の近くにあたります。
It is famous for its steep steps of “success”. It was near the entrance of the Hibiya arms of the sea.

愛宕神社の鳥居~The Torii Gate of Atago Shrine
出世の階段、馬にのってこの階段を登り切った武士は出世できると言われていました~The Steps of Success, it was said that if a warrior riding a horse could get the top, he would be promoted

赤坂1丁目交差点~Akasaka-icchome intersection

ここは溜池から流れる川の河口でした。外堀の一部に転用されました。
This was the estuary of the river from Tameike. It was turned into a part of the outer moat.

赤坂1丁目交差点に向かいます~Going to Akasaka-icchome intersection
かつて外堀であった「外堀通り」~”Sotobori Street” which means outer moat street, former the outer moat
今に残る外堀の石垣~Remaining stone walls alomgside the outer moat

潮見坂~Shiomi slope

霞ヶ関官庁街の中にあります。ここは日比谷入江の西際だったようです。
It is among Kasumigaseki governmental ministries. It seems to be the west edge of the Hibiya arm.

潮見坂~Shiomi Slope

桜田門周辺~Aroud Sakurada-mon Gate

この門の近くに別の川の河口があったようです。内堀の一部として残っています。
This seems to be the estuary of another river near the gate. It remains a part of the inner moat.

桜田門~Sakurada-mon Gate
桜田濠と呼ばれる内堀の一部~A part of the inner moat called Sakurada-bori

皇居正門~The main entrance of Imperial Palace

宮殿は西の丸だった所にあります。正門前の内堀は元は海でした。
The palace is on what was Nishinomaru enclosure. The inner moat in front of it was originally the sea.

皇居正門と石橋~The main entrance of Imperial Palace and The Stone Bridge
西の丸は高い所にあります~Nishinomaru enclosure is in a high place

皇居外苑~The Outer Gardens of the Imperial Palace

ここは完全に海で、周りの内堀を残して埋め立てられました。
This was completely a sea, and filled without the inner moat around.

皇居外苑~The Outer Gardens of the Imperial Palace

坂下門~Sakashita-mon Gate

門の周辺の内堀は、もともと川や谷だった所を使っています。
The inner moat around the gate uses the original rivers and valleys.

坂下門~Sakashita-mon Gate
門周辺の内堀~The inner moat around the gate

大手門周辺~Around Ote-mon Gate

ここには日比谷入江に注ぐ平川の河口がありました。
This was the estuary of Hirakawa River emptied into the Hibiya arms of the sea.

大手門~Ote-mon Gate
大手門前の内堀~The inner moat in front of Ote-mon Gate

和田倉門~Wadakura-mon Gate

日比谷入江の一番奥の場所にあたります。和田倉とは海岸にある倉庫の意味です。
This was the inmost place of the Hibiya arm of the sea. Wadakura means warehouse st seashore.

和田倉門~Wadakura-mon Gate
ここが最奥だった地点か?~Was this the inmost spot?

日比谷公園~Hibiya Park

内堀の石垣跡が休憩所として活用されています。
The ruins of stone walls for the inner moat is used for a resting place.

日比谷公園の休憩所~The resting place of Hibiya Park
それは石垣の上にあります~It is on the stone walls

山手線の側面~The side of Yamanote line

レンガ造りの高架鉄道は元から陸地の所だから可能だったと言われています。
It is said that the elevated red brick railway could be available on the primary land.

山手線のレンガ作りの高架鉄道~The elevated red brick railway of Yamanote line

新橋跡~The ruins of Shinbashi bridge

この橋は汐留川にかかっていましたが、元は江戸前島の突端にあたります。
The bridge went across Shiodome-gawa River which was originally the edge of Edo Maeto.

現存する新橋の親柱~The remaining newel post of Shinbashi Bridge

銀座の裏通り~The back street of Ginza

江戸前島の東海岸を利用して作られた三十間堀川がここを流れていました。
Sanjukkenbori River went through it and it was built using the east coast of Edo Maeto.

銀座の裏通り、ここも海や川でした~The back street of Ginza, it was also the sea or river

首都高速都心環状線~The Tokyo Metropolitan Expressway Ring Route

ここは楓川と、ドックのような形の舟入堀がありました。この川は日本橋川につながっていました。
This was Kaedegawa River with several Funairi moats like docks. The river connected to Nihonbashi River.

首都高速都心環状線、元楓川~The Tokyo Metropolitan Expressway Ring Route, the former Kaedegawa River
かつては楓川を渡っていた橋、A bridge which went across Kaedegawa River in the past

その後~Later Life

明治維新後、城の多くの建物は撤去されましたが、多くの水路は残りました。人々がまだ使っていたからです。一例として、東京の魚市場は1923年の関東大震災まで日本橋川沿いにありました。地震の後になって築地に移転したのです。
After the Meiji Restoration, many buildings of the castle were demolished, but many waterways remained, because people still used them. For instance, the fish market in Tokyo was along Nihonbashi River until the Great Kanto Earthquakes in 1923. After that, the market moved to Tsukiji.

明治初期の東京中心地の地図、まだ多くの水路がありました~The map of central Tokyo in the early Meiji Era, there were still a lot of waterways
日本橋の魚市場~The Fish Market at Nihonbashi(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

第二次世界大戦後、一部の外堀が焼けた建物の残骸により埋められました。今の外堀通りです。
After World War II, part the outer moat was filled by the debris of burned buildings. It has become Sotobori Street.

外堀通り~Sotobori Street

昭和の中期に車が普及し、1959年には、1964年の夏のオリンピックが東京で開催されることが決まりました。東京の交通インフラ、特に高速道路を整備するための時間はわずかしかありません。政府は高速道路の用地として残っていた水路を使わざるをえませんでした。買収する必要がないからです。東京のほとんど全ての水路が消え失せました。
In the mid Showa Era, motorization came and it was decided in 1959 that the 1964 summer Olympics in Tokyo would be held. There would be little time to develop the infrastructure for transportation in Tokyo, especially an expressway. The government had to use the remaining waterways as the land for the expressway. Because they didn’t need buy them. Almost all of the waterways in Tokyo died out.

京橋川上に建設中の高速道路、1960年~The expressway under construction above Kyobashigawa River in 1960(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日本橋と日本橋川は歴史的価値があるため、かろうじて残されました。そのため高速道路がその上を走っているのです。日本橋地域の人たちは、古き良き景観を取り戻すため政府に対し高速道路を地下に移すよう請願しています。
Nihonbashi Bridge and Nihonbashi River have survived due to their historical values. That’s why the expressway goes above them. Now, people in the Nihonbashi area urge the government to move the expressway underground to get its good old landscape back.

日本橋上の高速道路~The expressway above Nihonbashi Bridge

「江戸城その3」に続きます。~To be continued in “Edo Castle Part3”
「江戸城その1」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part1”

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