41.駿府城 その2

西郷・山岡会見の史跡碑から駿府城に向かい、大手門跡に入っていきます。それから、復元された東御門・巽櫓を見学して、いよいよ話題の天守台発掘現場に向かいます。その後は復元された坤櫓などを回ってみます。

特徴、見どころ

イントロダクション(江戸開城の影の功労者・山岡鉄舟)

駿府城の現地案内のスタート地点として「西郷・山岡会見の史跡碑」を選びました。江戸開城が決まった勝・西郷会見は有名ですが、実はそれに先立つ駿府での西郷隆盛と山岡鉄舟の会見も、江戸開城につながる重要な歴史イベントだったのです。

西郷・山岡会見の史跡碑

山岡鉄舟(生年:1838年~没年:1888年)は、幕府旗本で剣の達人でもありました。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に戻っていた徳川慶喜の警護役を務めていました。慶喜は恭順の意を示していましたが、新政府軍は慶喜を討伐する方針でした。そこで慶喜は、近臣の高橋泥舟の推薦する鉄舟を、改めて恭順の意を伝える使者として抜擢しました。鉄舟は初対面の主君に対し「謹慎しているのは偽りではないか」と問いただしました。真実であると確認すると、この使命に命をかける覚悟をしました(下記補足1)。

(補足1)わたしは旧主(慶喜)に「今日の切迫した時勢において、恭順をお示しになるのはどのようなお考えによるものなのか」と問うた。旧主は、「自分は朝廷に対して公正無二の赤心をもって謹慎しているといえども、朝敵として征討の命が下った上は、とても生命を全うすることはかなうまい。これほどまでに衆人に憎まれてしまったことは、返す返すも嘆かわしいことである」と言って涙をこばされる。わたしが旧主に「何をそんな弱気でつまらぬことを言われるのか。謹慎しているというのは偽りではないのか。何かほかにたくらんでいることがおありではないのか」と言うと、旧主は「自分にふたごころはない。どんなことであっても朝廷の命令に対しては背かない無二の赤心があるだけである」と言われるので、わたしは次のように断言した。「真の誠意をもっての謹慎であられるならば、朝廷にしっかりと届かせて、御疑念を氷解していただくのは当然のことです。鐵太郎が、そこのところは確かにお引き受けし、必ずや赤心が届くように力を尽くします。鐵太郎が目の黒いうちは、決して御心配には及びません」と。(山岡鉄舟「慶應戊辰三月駿府大總督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」の現代語訳、「最後のサムライ 山岡鐵舟」より)

山岡鉄舟(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

鉄舟は、勝海舟から付けられた薩摩藩士とともに敵地となった駿府に乗り込み、西郷と会見したのです。西郷は鉄舟を確かな人物と見込み、和議の5条件を提示しました(山岡鉄舟本人の手記による)。
1.城を明け渡すこと
2.城中の人数を向島に移すこと
3.兵器を渡すこと
4.軍艦を渡すこと
5.徳川慶喜を備前へ預けること

鉄舟は、最後の慶喜を他藩に預ける条件だけは承服できませんでした。「朝命である」とすごむ西郷に対し、鉄舟はもし逆の立場だったら主君を差し出すのかと反駁し、撤回させたのです(下記補足2)。このやり取りがベースになり、勝・西郷会見と江戸開城が実現したのです。西郷が江戸に乗り込んだときには、鉄舟は西郷の警護役になりました。

(補足2)「主人の慶喜一人を備前へ預けること、これは決してなすべきではありません。というのも、そうなった場合には徳川に恩顧を受けた家臣たちが決して承知をしないからです。つまり、合戦が起こり、いたずらに数万の生命が失われます。これは天子の軍隊のすることではありません。そうなってしまっては先生は単なる人殺しでしかありません。(略)」と答えると、西郷氏は「朝命です」と言う。わたしはきっぱりと、「たとえ朝命であっても、わたしとしては、決して承知するわけにはいきません」と言う。西郷氏は語気を強めて、再び「朝命です」と繰り返す。わたしは、「ならば先生とわたしとその立場を入れ替えて少し考えてみましょう。先生の主人である島津公が、もし間違って朝敵の汚名を着せられながらも、官軍が征討に向かう日には恭順謹慎しており、しかも先生がわたしと同様の任にあって主家のために尽力している時に、主人の慶喜に対するがごとき処置の命令が朝廷から下ったら、先生はその命令を謹んでお受けになり、さっさと主君を差し出して安閑としていることを、君臣の情、先生の義というものからみてどうお考えでしょうか。このことは、轍太郎には決して忍ぶことのできないことです」と激しく論じる。西郷氏はしばらく黙然としていたが、口を開くと、「先生の説はもっともなことです。徳川慶喜殿のことについては、この吉之助が確かに引き受け、取り計らいます。先生にはご心痛には及びません」と約した。(同上)

この史跡碑は旧東海道沿いにあるので、ここから駿府城に向かい、大手門跡に入っていきます。それから、復元された東御門・巽櫓を見学して、いよいよ話題の天守台発掘現場に向かいます(発掘現場は2025年12月で一旦公開終了、今回内容はそれ以前に訪問したもの)。その後は復元された坤櫓などを回ってみます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

東海道から駿府城入城

それでは、史跡から東海道を駿府城に向かいましょう。でも実は、東海道とはすぐお別れなのです。東海道と反対側の三の外堀(外堀)に行きます。全部ではありませんが、残っているのです。堀沿いを歩いていくと、城に行くのに便利な城代橋があるのですが、今回はオリジナルの登城ルートをたどってみようと思います。すごい石垣が張り出しています。この先が、大手御門跡になります。大手門の周りだけあって、堂々としています。背後にそびえるのは静岡県庁舎別館です。現代の天守のようです。

城周辺の航空写真

左側に曲がると東海道の続き、右側に行くと駿府城
三の丸堀(外堀)
城代橋(明治時代設置)
石垣の背後にそびえる静岡県庁舎別館

大手御門跡の前まで来ました。大手御門から、二の丸御門、御玄関前御門と進むのが、正規の登城ルートでした。今でもバンバン車が通っていて、県庁の正門みたいになっているのでしょうか。すごい枡形で、この上に建っていた門の建物も巨大だったのでしょう。枡形を抜けると、二の丸堀(中堀)に突き当たります。

大手御門跡
正規の登城ルート(駿府城東御門内)
大手御門の枡形
二の丸堀に突き当たります

二の丸御門は左の方になりますが、この門跡は通ることができないのです。この門跡は、戦後の国体開催のときに埋められて、別の場所に橋がかけ替えられました。その二の丸橋を渡ります。そして左手の方に、二の丸御門の枡形が残っているのです。袋小路かと思ったら、入口をふさがれた枡形だったのです。

二の丸御門跡(表側)
二の丸橋
二の丸御門の枡形(内側)

最後の御玄関前御門は、残念ながら案内があるだけです。中心部はかなり整地されてしまいましたので仕方ありません。でも、場所がわかっただけでも良かったです。

御玄関前御門跡

復元された門・櫓を見学

次は、中堀の前に戻って、復元された建物の方に行きましょう。巽櫓に近づいていきます。どっしりとした構えです(二重三階、平面は珍しいL字型)。大砲の標的にならないよう、こういうスタイルになったそうです。

復元された巽櫓

巽櫓からつながる東御門に行きましょう。この県庁をバックにした図柄は、好みがあるかもしれません。個人的には天守があるみたいで好きです。

県庁をバックにした東御門

東御門の高麗門から中に入ります。外からの攻撃に耐久性が高い内枡形です。そして右側の櫓門から枡形を出ます。

東御門(正面)
高麗門
枡形
櫓門

門と櫓の内部は公開されていますので、入ってみましょう。まず東御門ですが、多聞櫓にも囲まれていて、結構広いのです。防御の仕組みが分かるようになっていて、フィギアのところに石落としがあります。

門と櫓への入口
駿府城模型の巽櫓・東御門部分(駿府城東御門内)
櫓門内部
石落とし

それに、資料館としてもかなり充実しているのです。例えば、櫓門の中に大きな城の模型があったり、門の正面の多聞櫓の中に、今川時代から大御所時代までの歴史展示があったりします。

駿府城模型(駿府城東御門内)
今川時代の展示(駿府城東御門内)
格子窓から見た枡形

曲がった先の多聞櫓では、幕末までの歴史です。鉄砲を撃つフィギアもいます。巽櫓に行っても、展示は続きます。なんと、天守台発掘調査現場の模型まであります。そして二階には、復元された「竹千代手習いの間」があります。

鉄砲を撃つフィギア
巽櫓へ
天守台発掘調査現場の模型
復元された「竹千代手習いの間」

建物から出たら、本丸堀(内堀)に行ってみましょう。埋められてしまったのですが、一部掘り返されて、見学できるのです。石垣も見えます。

本丸堀
本丸堀の石垣

次は二の丸水路です。本丸掘と、二の丸堀をつないで、水位調整を行っていました。

二の丸水路

いよいよ天守台へ

そして、いよいよ天守台です。近くで家康公もお出迎えです。

天守台発掘調査現場に向かいます
徳川家康像

広大な現場です。緑のコーンが慶長期、赤のコーンが天正期、黄色のコーンが今川期の遺物を表しています。

天守台発掘調査現場のほぼ全景

別の図(下記)も使いながら、天正期天守台(赤いライン)からご案内します。南側の天守台出入口を見ながら、大天守台の南東隅をかすめていくという感じです。緑のコーンもあるので、慶長期のものとかぶっています。

天守台模式図(駿府城東御門内にて展示)
天正期大天守台南東隅付近

見学ゾーンの端まで来ました。手前の石垣が目立っています。東側に面した石垣で、野面積みです。ここから、北東隅、北西隅を示すコーンが見えます。古い方の天守台でもかなり大きかったのです(東西約33m、南北約37m)。家康が豊臣大名時代に築いたものなのでしょうか。

天正期大天守当面の石垣
丸い形の自然石(あるいは粗割り石を使った野面積みです

続いて、慶長期天守台の方に向かいます。小天守台の石垣が見えます。途中では、天正期の金箔瓦が出土したところや、本丸西側の石垣を回り込んでいきます。すると、巨大な天守台が姿を現します。

慶長期小天守台東面の石垣
天正期の金箔瓦出土地点
慶長期本丸西側の石垣
慶長期大天守台南面の石垣

巨大でもあるし、石の形も整えられています。南東側は、地震があって積み直したので、より新しい方式(切り込みハギ)になったそうです(東西約61m、南北68m)。

慶長期大天守台南西隅

北側に向かって歩きます。北西隅まで来ました。先ほどの南西隅より石の形が粗くなっています。こちらは家康時代のオリジナルとのことです。

北側に向かっています
慶長期大天守台北西隅

そして、見学ゾーンの北の端まで来ました。見えているのは、北側の石垣です。ちょっと上を見ていただくと、ポールが立っています。かつて、天守台はあの高さまであったそうです(地上12m、堀水際から19m)。

慶長期大天守台北面の石垣
かつての天守台の高さを示すポール

最後に興味部会ものをお見せします。本丸掘から出た石、とあります。天守台を崩して、堀を埋めるのに使われたのです。元は天守台にあったということです。何とか復元できないかと思ってしまいますが、とんでもないパズルになってしまうでしょう。当面は、現状の天守台の展示施設を作るということです。

石置き場にあるかつて天守台を構成した石たち

まだまだある見どころ

次は復元された坤櫓です。内側にも格子窓がたくさんあるのは、敵が曲輪に侵入しても、反撃できるようにするためと言われています。内部の展示はシンプルなのですが、屋根までの木組みの構造や、床下まで見学することができます。格子窓から外を見ると、ここも角地だとわかります。

復元された坤櫓(内側)
坤櫓(内部)
二階三階の一部の床板が外されていて、木組みを見学できます
一階の床の一部がガラス張りになっています

堀の外からも見学しましょう。重要なポジションを守る櫓だとわかります。外側にはばっちり石落としもあって、かっこいいです。

坤櫓(外側)

少し足を延ばして、西側の三の丸堀を歩きましょう。立派な櫓台があります。ただ、昔の絵図でもここに建物があったかわからないそうです。三の丸堀は残っているだけでも相当長そうです。近くには、城を警備した加番の屋敷跡の一つがあります。

三の丸堀にある櫓台
三の丸堀(南から北に向かって)
二加番屋敷跡

最後は、二の丸に北御門から入ってみましょう。入ったところに、土塁の上を歩ける遊歩道があるのです。内側は紅葉山庭園になっています。北東の角地を過ぎて進んでいきます。こうやって見ると、城の土塁をずいぶん高くしてあることがわかります。こちら側は標高が低いということなので、かなり盛ったのでしょう。さっき見た二の丸水路のところに出ました。駿府城、歩いただけ新たな発見がありそうです。

北御門跡
土塁の上の遊歩道
柵の向こうの紅葉山庭園
二の丸北東隅
堀や道路を見下ろしています
二の丸水路に至ります

最後は静岡県庁舎別館、21階富士山展望ロビーに行きます。現代の天守に登れるのです。まず、今日行った駿府城を確認しましょう。ここからでも天守台の巨大さがわかります。富士山の方はどうでしょうか。ガラス越しになりますが、よく見えました。

あの高いところに登ります
展望ロビーからの眺め(北側)
発掘調査現場
富士山

リンク、参考情報

駿府城公園、公式ウェブサイト
・「駿府城まるわかり(駿府城ガイドブック)」静岡市
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「静岡の城/加藤理文著」サンライズ出版
・「歴史群像129号 戦国の城 駿河駿府城/樋口隆晴著」ONE PUBLISHING
・「シンポジウム 今川館の姿にせまる 資料集」静岡市
・「最後のサムライ 山岡鐵舟」教育評論社
・「山岡鉄舟 決定版/小島英記」日本経済新聞出版社
・歴史秘話ヒストリア 「駿府城大発掘!家康VS.秀吉 知られざる攻防」2019年放送
Youtube「小和田哲男:今川「人質」時代、徳川家康の実像を物語る3つのエピソード」テンミニッツ・アカデミー – 1話10分で学ぶ大人の教養講座

「駿府城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

206.浦添城 その3

今日は、再び浦添城にやって来ています。そして、現在復興中の首里城にも再び行くのですが、その間を歩いていきます。このルートは、浦添出身の尚寧王が首里まで石畳道として整備した跡なのですが、現在史跡として一部が復元、修復されています。「尚寧王の道」とも呼ばれています。それに、前回入れなかった浦添ようどれの中を見ることができるので、それも楽しみです。首里城の復興がどこまで進んでいるのかも、とても楽しみです。それでは、浦添・首里・尚寧王の道をゆくツアーの出発です。

・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林

イントロダクション

今日は、再び浦添城にやって来ています。そして、現在復興中の首里城にも再び行くのですが、その間を歩いていきます。このルートは、浦添出身の尚寧王が首里まで石畳道として整備した跡なのですが、現在史跡として一部が復元、修復されています。「尚寧王の道」とも呼ばれています。それに、前回入れなかった浦添ようどれの中を見ることができるので、それも楽しみです。首里城の復興がどこまで進んでいるのかも、とても楽しみです。それでは、浦添・首里・尚寧王の道をゆくツアーの出発です。

浦添城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(浦添→首里 尚寧王の道をゆくツアー)

浦添ようどれ見学

それでは、ようどれの入口の方に登っていきましょう。今回は大丈夫そうです。復習ですが、ここは中山王・英祖が築いたと言われる王陵で、沖縄戦で破壊されましたが、2005年に復元されています。琉球王国の尚寧王もここに眠っています。

浦添ようどれ入口
浦添ようどれ現地案内図

暗しん御門(くらしんうじょう)を通って入っていきましょう。ここは、沖縄戦の前まではトンネル状になっていて、あの世に行くかのような雰囲気があったそうです。名前の感じのとおりの場所だったのです。

暗しん御門

ここを抜けると、二番庭(にばんなー)です。ここから石垣に囲まれています。そして、中御門(なーかうじょう)の門をくぐると、墓室前の一番庭(いちばんなー)に到着です。

二番庭
中御門
一番庭

手前側の西室が、英祖王陵、奥側の東質が、尚寧王陵とされます。墓室に入ることはできませんが、その代わりに、浦添グスク·ようどれ館で、英祖王陵の再現墓室を見学できます。

英祖王陵
尚寧王陵
浦添グスク·ようどれ館
再現墓室

ようどれとは反対側の「浦添城の前の碑」に移動しました。尚寧王が、首里・浦添間の道路竣工を記念して建てたものです。振り返ると、首里方面が見えるのですが、前回のズーム画像と比較すると、首里城正殿の本物の屋根が見えて、期待できそうです。石畳道の方に行きます。向こうに海や、近くには発掘されたオリジナルの石垣も見えます。

浦添城の前の碑
首里方面の眺め
ズーム画像(首里城正殿)
ズーム画像(前回)
発掘された石垣

尚寧王の道(浦添)

ここからが尚寧王の道です。石畳の道です。発掘調査に基づき、復元されたものです。石の中にはオリジナルのものもあるそうです。石畳が終わって坂を下り、突き当たったら右に曲がります。

尚寧王の道、スタート地点
坂の途中まで石畳が続きます
突き当たりを右です

そして龍福寺跡があるのですが、薩摩軍の琉球侵攻のとき、焼かれてしまったそうです。やはりこの道を攻め上がったのでしょう。次は郵便局を過ぎたら左です。

龍福寺跡
郵便局を過ぎたら左です

車が多い通りは信号のあるところで渡っていただいて、その先が阿波茶橋(あはちゃばし)です。どんどん下って行って、石畳がまた現れます。小湾側とその支流にかけられた2つの石橋です。風情があります。こちらも沖縄戦で破壊され、その後修復されています。橋の表面の、組み合わせた石の形が面白いです。

阿波茶橋に通じる石畳
阿波茶橋
2つの石橋のうち南橋
南橋を渡ります

普通の道路に戻りますが、歴史の道として、ルートがわかるようになっています。その先には、お経を納めた経塚があって、一旦通りに合流しますが、向こうに郵便局が見えてきたところで脇道に入ります。ここも歩道が石畳風です。

「歴史の道」がわかるようになっています
経塚
ここから右側の脇道に入ります
石畳風の歩道

次の見どころに着きます。浦添御殿(うどぅん)の墓です。琉球国王の親戚、浦添家のことで、代々浦添を領地としてきました。その由緒ある家のお墓です。沖縄のお墓はみんな立派ですが、これはまたひときわすごいです。

浦添御殿の墓

尚寧王の道(那覇)

ここからは道を折り返して、那覇に向かっていきます。一路首里城を目指します。浦添御殿から下って、通りに合流したら、すぐに右折します。その先がフェーヌヒラです。南の坂という意味です。こんな坂があるあとは意外ですが、那覇は「坂の町」と言われているそうです。こういうのは歩いてみないとわかりません。

通りに合流したらすぐ右折します
フェーヌヒラ

また通りに合流したらしばらくまっすぐですが、那覇はより市街地化が進んでいるので、わかりにくいところもあるのです。確かに道なりに左に行ってしまいそうな所もあります。

ここは道なりに左方向に行ってしまいそうですが、細い道の方をまっすぐ進みます

そうするうちに平良交差点に出て、渡ったところが太平橋(たいへいきょう)です。普通の端に見えますが、かつてはこちらも石橋で、薩摩軍侵攻のときには、ここで攻防戦がありました。しかし薩摩軍鉄砲隊の猛攻撃により、王国軍は撤退しました。

平良交差点
太平橋

橋を越えると道は細く、登りになって、儀保クビリと呼ばれ、切通しのようになっていました。王国軍としてはこの手前で薩摩軍を食い止めたかったのでしょう。

儀保クビリ

階段を下れば、首里城までは一直線のように見えます。案内標識に守礼門とあります。ゆいレールとも交差すします。首里駅は、左手の方になります。

階段を下ります
守礼門への案内標識
ゆいレールと交差します

歩道が石畳風になってきました。ここもまっすぐ行きましょう。なだらかな坂を登っていくと、アダニガー御嶽(うたき)があります。首里城が近いということでしょうか。そして坂を下ると、見覚えがある場所に出ました。

再び石畳風の歩道
アダニガー御嶽

龍潭の畔です!ここから見ても、首里城の再建が着々と進んでいるのがわかります。尚寧王の道のゴールはもうすぐです。首里城公園の入口に向かいます。ここをゴールにしましょう。すごい達成感でした。

龍潭
完成間近の正殿が見えます
前回の同じ場所からの眺め
首里城公園入口

首里城はどうなっている?

それでは、首里城がどうなっているか見に行きましょう。守礼門に来ました。薩摩軍が首里城には攻め込んだとき、そのときの王様も尚寧王で、和議の方針になっていました。ところが、一部の家臣は抵抗の姿勢を見せたため、薩摩兵は、守礼門の柱を楯にしながらグスクに迫ったそうです。

守礼門

次は歓会門ですが、工事中です。その先からが内郭で、正門の瑞泉門になります。そして、漏刻門、広福門を通れば、奉神門の前に到着です。前回は、ここから工事用の素屋根が見えましたが、中はどうなっているのでしょうか。

歓会門
内郭入口の瑞泉門へ
漏刻門
広福門
奉神門
前回の状況

まだ工事中の壁に覆われてはいますが、小窓から正殿の勇姿が見えます。2025年10月に素屋根は撤去されました(取材時点:2025年11月)。2026年秋の完成を目指して工事が進められています。

まだ工事用の壁はありますが・・
小窓から見える正殿

それから、工事用の壁での展示にも注目です。例えば、正殿の建物ができてくるプロセスを展示しています。これもグスクの歴史の一コマたちなのです。

壁面の展示(正殿建設開始時)
壁面の展示(正殿屋根完成)

裏側に行ってみましょう。こちらの方が正殿が良く見えます。これは、ますます正殿完成が楽しみです!

裏側から見る正殿

最後は恒例で、東(あがり)のアザナからの景色を楽しみましょう。ところで、尚寧王はその後どうなってしまったというと、薩摩軍との和議は成立しましたが、降伏同然だったので、尚寧王は本土に連行され、大御所・徳川家康、将軍・徳川秀忠に謁見させられたのです。徳川や島津の権力を高めるために使われてしまったのです。尚寧王が、島津の従属下になった王国の首里城に戻ったのは、二年ぶりのことでした。その後は王国の復興に努め、9年後に亡くなったのです。

尚寧王の御後絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

東のアザナに着きました。相変わらずすばらしい景色です。正殿もよく見えます。浦添城はどの辺りでしょうか。尚寧王は浦添ようどれで眠っています。きっと生まれた浦添が、安らぎの場所だったのでしょう。

東のアザナ
東のアザナからの眺め(正殿方面)
東のアザナからの眺め(浦添方面)

リンク・参考情報

尚寧王の道を訪ねる、浦添市(ルートマップ)
尚寧王の道をたどる歴史の道ぶらりルート、うらそえナビ
・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林

「浦添城その1」に戻ります。
「浦添城その2」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました

98.今帰仁城 その2

外郭の石垣を眺めながら、大隅(うーしみ)の石垣に迫っていきましょう。一番有名かもしれないスポットです。やっぱり記念撮影場所にもなっています。ほんとうに城壁、という感じがします。グスク全体で見ても、中心部を守る要の位置に当たります。きっと石垣の上から兵士が見張っていたのでしょう。

Introduction

今日は、沖縄県今帰仁村、今帰仁城跡案内板の前にきています。どーんと目立つグスクのディスプレイがかっこいいです。

今帰仁城跡案内板

ここから車などで登っていけば、駐車場があるところに着きます。

グスク跡への登り口
グスク跡駐車場

そこから先にはビジター向けの施設がいくつもあって、例えば今帰仁村歴史文化センターでは、グスクや郷土の歴史のことを勉強できます。券売所では、チケットだけでなく、パンフレットや御城印が手に入ります。

今帰仁村歴史文化センター
券売所

グスク跡の入口にはグスクの模型があって、気分が出ます。

グスク跡入口
グスクの模型

しかし、入口から少し離れたところで、下からオリジナルの登城道があるという情報を発見しました。これはあくまでオプションですが、下の方に戻って、ご案内をやり直すことにします。

登城道「ハンタ道」の説明パネル

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(今帰仁城 景色と歴史ツアー)

登場道「ハンタ道」をゆく

ここが「ハンタ道(みち)」と呼ばれる登城道への入口付近です。脇を川が流れています。親川(エーガー)という泉で、住民の方からは崇拝の対象にもなってきました。自然の恵みを大切にしているのでしょう。

ハンタ道入口付近
親川

ハンタ道に入ります。山道ですが、石が多いです。石が敷き詰められているようです。石垣もあります。かつては松並木もあったそうです。

ハンタ道入口
脇に石垣が残っています

まるでタイルのようになっているところもあります。明治時代の探検家は「城跡に登る山道は、鏡石のような青色の大理石で、滑りやすい」と述べています。その面影が今でも残っています。

タイルのようになっている道

だいぶ登ったところに別の案内があります。「ミームングスク」今帰仁城の出城のようなグスクです。石積みが残っていますが、慎重に登りましょう。海が見えます。そして目を転じると、今帰仁城の曲輪(志慶真門郭)も見えるのです。

ミームングスクの案内
ミームングスク
ミームングスクからの眺め(海の方向)
ミームングスクからの眺め(今帰仁城方向)

もうすぐ今帰仁城に再到着です。その周辺には、祈りの場所がいくつもあるのです。沖縄のグスクの特徴です。ハンタ道は、その参道としても使われたそうです。グスク跡の入口に戻ってきました。

供のかねノロ殿内火の神の祠
今帰仁阿応理屋恵火之神の祠
今帰仁城跡入口付近、左にいくとハンタ道

すばらしい石垣

それでは、外郭の石垣を眺めながら、大隅(うーしみ)の石垣に迫っていきましょう。一番有名かもしれないスポットです。やっぱり記念撮影場所にもなっています。ほんとうに城壁、という感じがします。グスク全体で見ても、中心部を守る要の位置に当たります。きっと石垣の上から兵士が見張っていたのでしょう。

大隅の石垣

城周辺の航空写真

優雅な石垣をもっとよく眺めましょう。高さ7~8メートルくらいで、古期石灰岩の野面積みとのことです。石垣が波打っているところなど、万里の長城を思い起こしてしまいます。中国の技術が導入されているという意見もありますが、はっきりしないそうです。

大隅の石垣を横から見ています
逆方向の平郎門周辺から

グスクの正門、平郎門から中に入っていくことにしましょう。現在の門は1962年に修復されたものですが、厳重さと威厳を感じてしまいます。天井は一枚岩になっているそうです。古期石灰岩は固いので、築城当時は加工が困難だったという事情もありました。門をくぐった後のまっすぐの通路は戦後に整備されたものです(七五三の階段と呼ばれています)。

平郎門
天井の一枚岩
七五三の階段

大隅の中に入ってみましょう。現在は植樹されていますが、当時は兵士の調練の場だったと考えられています。馬の骨がたくさん発掘されたそうです。石垣も内側から見ると、感じが違います。守る方ですので、登りやすくしているのでしょうか。中は結構ゴツゴツとした地形でう。ここには洞窟への入口があって、城外に抜け出れるそうです(現在は閉鎖)。

大隅の内部
内部から見た石垣

次は、通路に戻りますが、途中からかつての旧道を通ってみます。ちょうど、カーザフを見下ろす場所です。カーザフとは「川の谷間」といった意味だそうです。谷間の崖の岩盤にも石垣が積まれています。

カーザフ

旧道を歩きましょう。発掘によって確認された道で、少し登りにくいですが、防御を重視するグスクらしいとも言えます。さっきハンタ道を歩いたので平気です。そして、城の中心部の一つ、大庭(うーみやー)に到着します。

旧道

すばらしい景色

大庭の中は、今は主に歌碑があるだけですが、かつては北殿・南殿があって、首里城でいえば御庭(うなー)のような場所と考えられます。儀式などが行われたのでしょう。

大庭
志慶真乙樽の歌碑と北殿跡

次は景色がいい場所に行きましょう。グスク内で最も標高が高く、御嶽(うたき)がある重要な場所、御内原(うーちばる)です。入口には御嶽の一つ、ソイツギがあります。

ソイツギ

御内原は、かつては女官部屋があった場所だったと言われます。大奥のような場所だったのでしょうか。

御内原

そこからは、すばらしい景色です。大隅の石垣に、青い海に青い空・・・沖縄らしい景色です。

御内原からの眺め

反対側に行ってみましょう。すごく深い谷になっています。谷底を志慶真(しげま)川が流れています。さらに進むと奥の曲輪(志慶真門郭、しじまじょうかく)も見えます。

反対側は深い谷になっています
背後を守る志慶真門郭(しじまじょうかく)

これから主郭に向かいますが、途中にまた重要な御嶽があります。グスク内で最も神聖な聖地、テンチジアマチジです。実は、ここは尚巴志軍との戦いのときに、北山王・攀安知(はんあんち)が切り刻んだ霊石があったところと言われているのです。それから宝剣を向こうの川に投げ込んだという訳です。

テンチジアマチジ(城内上の御嶽)
川に投げ込んだとされる宝剣「千代金丸(複製)」、今帰仁村歴史文化センターにて展示

いよいよ、主郭です。発掘調査により、時代区分ごとの遺構が見つかっています。

主郭

まず、初期の時代に版築や石積みにより土台を固めた跡(第1期)があります。

版築の層を説明したパネル

そして北山王国が発展したときの正殿跡です(第2期)。発掘で基壇が発見されましたが、柱を支える礎石は失われていました。それでもひとかたならぬ建物があったと感じます。

第2期正殿の基壇

北山監守時代の遺構がその先にあります(第4期)。北山王国全盛期の正殿跡(第3期)は、その下に埋もれているようです。正殿の後に建てるくらいですから、監守が住んでいたのでしょう。

監守時代の建物礎石

現在あるのは、グスクが廃城になったあとに建てられた火神(ひのかん)の祠です。現在の祠は20世紀の建築で、発掘調査時に元の位置(中心部)から現在地に移されました

火神の祠

グスクの裏手も圧巻

一番奥の曲輪、志慶真門郭(しじまじょうかく)に向かいます。主郭の奥の門から出て、階段を下っていきます。ずいぶんと高低差があります。下っていくときの景色も見ものです。今度は草木の緑も加わったすばらしい眺めです。

主郭から見た志慶真門郭
ここから出ます
主郭から階段を下ります
下る途中の眺め

建物の跡が見えます。発掘調査により、4つの掘立柱建物の跡が見つかり、家臣の住居だったと考えられています。石垣もよく残っています。その上を兵士が行き来していた感じがわかります。この曲輪は、グスクの全盛期に築かれたと考えられています。グスクの裏手を守る重要な曲輪だったのです。主郭の石垣がそびえ立っているのもグッドポイントです。

曲輪内の建物跡と石垣
そびえ立つ主郭の石垣

振り返ると、グスクの裏門・志慶真門(しじまじょう)跡があります。この門は南側を向いていますので、定説の方ではありませんが、尚巴志軍が放火するためにグスクの南西側から忍び寄った場所かもしれません(定説では本部平原が裏切って敵をここから引き入れたとか)。

志慶真門跡

それでは主郭の方に戻りましょう。今度は迫りくる主郭の石垣が目立ちます。行き帰りで違った見方で景色を楽しむことができます。

帰りはちがった景色を楽しめます
主郭石垣

お時間があれば、外郭の石垣もご覧になってはいかがでしょう。南側はカーザフの向かい側から始まっています。石が新しいので、復元されたものでしょうか。

外郭南側の石垣

こちらは、北側です。古そうな感じです。ここまで歩いていただければ、総延長1.5kmと言われる石垣の長さを感じられると思います。

外郭石垣(北側)

リンク、参考情報

世界遺産 今帰仁城跡(公式サイト)
今帰仁グスクをガイドと歩く
・「世界遺産今帰仁城跡・今帰仁村文化財ガイドブックvol.1」沖縄県今帰仁村教育委員会
・「沖縄の名城を歩く/上里隆史・山本正昭編」
・「琉球王国の形成/和田久德著」 榕樹書林
・「訳注 中山世鑑/首里王府編著 諸見友重訳注」 榕樹書林
・「訳注 蔡鐸本中山世譜/首里王府編著 原田兎雄訳注」 榕樹書林
・「広報 なきじん」
・「島津氏の琉球侵略-もう一つの慶長の役-/上原兼善著」榕樹書林
・「沖縄県立博物館所蔵「琉球國圖」/深瀬公一郎。渡辺 美季著」琉球大学学術リポジトリ
世界遺産『今帰仁城跡』取材:東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター(Yutubeビデオ)

「今帰仁城 その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

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