58.明石城 現地編

今回はまず、明石城正面の入口から入って、本丸まで行ってみます。次に、本丸に残る櫓を見学して、丘の上の曲輪群を進みます。それから、表からは目立たない、城の裏側の防御の仕組みも見学しましょう。最後は、城下町から港を巡り、明石海峡にある舞子台場跡まで行ってみます。

イントロダクション

今、明石駅のホームの上にいます。ここから、明石城の2つの三重櫓がばっちり見えます。左側が坤櫓、右側が巽櫓です。最初からなかなか壮観です。でも城の石垣は右側にずっと続いています。そちらの方にも行ってみようと思います。

明石駅ホーム上から見える明石城
2基の現存三重櫓
坤櫓
巽櫓
二の丸・東の丸に続く石垣

駅前に降りてきました。駅前がもう堀になっています(中堀)。城跡の明石公園に進みます。アクセスはすごくいいです。

明石駅前
振り返るともう中堀です

公園の入口にもすぐ着きます。今回はまず、正面の入口から入って、本丸まで行ってみます。次に、本丸に残る櫓を見学して、先ほどホームで見た丘の上の曲輪群を進みます。それから、表からは目立たない、城の裏側の防御の仕組みも見学しましょう。最後は、城下町から港を巡り、明石海峡にある舞子台場跡まで行ってみます。

明石公園入口

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(明石の城から城下町・明石海峡めぐり)

近そうで遠い本丸

城周辺の航空写真

城の正門だった太鼓門跡から入っていきます。さすが正門だけあって、堂々とした枡形です。かつては正面と、曲がった先にそれぞれ門がありました(定ノ門・能ノ門)。石垣だけでも、城の中は全然見えません。奥の門の二階には、時刻を知らせる太鼓(「とき打ち太鼓」)があって、それが名前の由来になっています。現在、門を抜けたところには、太鼓打ちロボットがいたり、明石公園サービスセンターがあります。

太鼓門跡
太鼓打ちロボット
明石公園サービスセンター

本丸を目指して、進みましょう。今歩いている所は、台地下の三の丸で、左手にはかつて、お殿様の居館「居屋敷」がありました。右手には現在、一部再現された「武蔵の庭園」があります。

三の丸
武蔵の庭園

どんどん、巽櫓が迫ってきます。本丸はすぐ近くにありそうです。しかし、まだまだ本丸は遠いのです。右手にある、武蔵の提案(馬の歩幅ピッチ)が取り込まれたという階段は、二の丸にしか行かないのです。左手の石垣に沿って、回り込んでいく必要があるのです。これは長い道のりになりそうです。石垣が二段構えになっています。敵だったらこうしている間にやられてしまうでしょう。

巽櫓
本丸・帯郭の石垣

今度は坤櫓が見えてきました。ここでやっと、本丸への入口となるのです。まだまだなにかありそうですが、進んでいきましょう。

坤櫓
本丸への入口

ここでも、坤櫓が立ちはだかっています。さらに進んでいくと、すごい壁が現れました。これが天守台です。建物はないのにこの威圧感です。石垣だけでも十分防御陣地になったのではないでしょうか。しかも後ろには櫓も控えているのです。

立ちはだかる坤櫓
天守台
天守台と坤櫓

一応難所を突破したとして、次は、台地上の稲荷郭です。台地上の曲輪と言っても、本丸よりは低くなっています。しかも、本丸の入口は一番奥にあるのです。そして、最後の角を曲がるところにも乾櫓があったのです。櫓も天守台も、効果的に配置されていました。やっと本丸の埋門跡に到着です。

稲荷郭
乾櫓
本丸埋門跡

三重櫓と丘上の曲輪

本丸周辺の地図

これから本丸をまわりますが、来たときとは反対方向に見ていきたいと思います。今度は城を守る方から見てみます。まず、乾櫓跡に向かいます。案内はありませんが、角のところだと思います。

本丸
乾櫓跡

次は、天守台です。なんだか簡単に入って行けてしまいます。来る時に見た壁のような姿とは全然違います。上は広いですし、守備兵にとっては使いやすかったのではないでしょうか。坤櫓もすぐ近くです。本丸に来る時に通った稲荷郭もお見通しです。

天守台
天守台の上
天守台から見た坤櫓
天守台から稲荷郭を見下ろしています

いよいよ坤櫓に近づきます。内側に石垣がないせいか、気品を感じます。城内最大規模の櫓で、天守の代わりを果たしたと考えられています。内側なのに屋根の飾り(二重破風)がかっこいいところもいいです。さすが実質の天守です。

坤櫓(内側)

この日は坤櫓の中には入れなかったのですが、向こうの巽櫓には入ることができました。その前に手前の展望台からの景色を楽しみます。街が一望できます!これから行く巽櫓に、明石海峡大橋も見えます。

展望台
展望台からの眺め(南側)
展望台からの眺め(東側、巽櫓と明石海峡大橋)

巽櫓に入ります。見学できるのは一階部分だけになりますが、説明パネルや、部材みたいなものがたくさんあります。格子窓がありますので、外を眺めてみましょう。西側の窓からは二の丸の方が見えます。武蔵提案の石段もあります。

巽櫓(内側)
巽櫓(内部)
巽櫓からの眺め(東側、二の丸)

今度は正面の南側を見てみましょう。三の丸が見えるのですが、櫓の一階からでもこんなによく見えのかと思ってしまいます。先ほど櫓を見上げた場所が眼下にあります。

巽櫓からの眺め(南側、三の丸)

ところで、この櫓には筋違がたくさんあって、バリバリに補強されています。これらは、明治か昭和の大修理のときに取り付けられたそうです。このおかげで阪神・淡路大震災を耐えられたかもしれないとのことです。

巽櫓の補強材

続いて、本丸から細い土橋を渡って、二の丸に進みます。更に、東の丸に進みます。石垣の上を延々と歩く感じです。国旗掲揚のポールが見えてきました。ここは、東の丸の端で、ここにも櫓があったのです。だいぶ進んだので、ここから見る海峡大橋は、心なしか、大きく見えます。

本丸・二の丸間の土橋
二の丸・東の丸間の門跡
石垣の天端部分
国旗掲揚塔がある櫓跡
櫓跡から見た明石海峡大橋

自然を生かした防御

今、東の丸の隅まで来ていますが、ここから城の裏側に進みます。東の丸の奥には、門跡が2つあります。ここも、重要地点だったのです。今回は北側の方から出ます。

東の丸の2つの門跡、左側が北側に出る方

門跡から出たところを、下っていきます。道は、自然散策路みたいになっています。でも、左手は石垣、右手は堀に囲まれています。

門跡を出て、右下に下ります
城の裏側を進む道

城の裏側にもこんなに高石垣があります。二の丸の裏側だと思います。

二の丸の高石垣

二の丸と本丸を隔てる大堀切までやってきました。向こうに見えるのは巽櫓です。更に本丸の手前の方には艮櫓がありました。先ほど歩いた本丸・二の丸間の土橋から下ってみると、堀切を作って、わざと狭い通路にしていたのがわかります。

大堀切
土橋から大堀切に下る階段

更に、堀を越えて北に進んでいくと、北の丸の石垣が残っています。こんなところまで城が続いていたことがわかります。

北の丸石垣

お時間があれば、更に北西の方の、剛ノ池に行ってみることもおすすめです。これも城を守った自然の障壁です。

剛ノ池

戻る途中では、坤櫓の正面の姿が良く見えます。これは、ますますかっこいいです!

坤櫓(正面である西側)

武蔵の城下町、海舟・龍馬の台場へ

最後のセクションはまず、宮本武蔵が町割りをしたと言われる城下町を、城の中堀から、その場所らしいアイテムをチェックしながら、明石港まで行ってみます。この中堀から南側、右手の方に武家屋敷があったのです。道路を渡ったところに、その遺構があります。明石藩の家老を務めていた家の長屋門です。こちらも船上城から移築されたと言われています。もしかして、一回再建された櫓より古いかもしれません。

中堀
織田家長屋門

武家屋敷と町人地の堺目の外堀は、現在の国道2号線辺りだったそうです。

国道2号線

町人地代表としては、魚の棚商店街に来てみました。いかにも町人地らしい雰囲気です。明石鯛もあります。

魚の棚商店街
明石鯛が並びます

明石港は」、意外に近いところにあります。基本的な位置は、江戸時代と変わらないようです。この先には、江戸時代以来の灯台が残されています。

明石港
明石港旧灯台(photoAC)

旧西国街道沿いにも古い町並みがあります。

大蔵の街並み

そして、今回の最終目的地、明石海峡に到着しました。海峡と大橋、素晴らしい景色です!船が通っていて、今も交通の要所です。舞子台場跡は、明石海峡大橋の西側にあるので、橋をくぐって右手に移動します。

明石海峡
明石海峡大橋

台場跡に着きました。ほんとうに海峡が目の前にあります。勝海舟・坂本龍馬が関わった台場です。だいたい、西半分のところを見学できるようになっています。それでは見てみましょう。

舞子台場跡

大砲風のベンチがあります。その先には「天端の石敷き」とありますが、大砲が据えられたか、壁の基礎だったとのことです。

大砲風のベンチ
天端の石敷き

海岸の方を見てみましょう。石垣があります。こちらもオリジナルだそうです。台場の形は残っているのです。明石海峡は、いろんなものが集まる場所なのです。

台場の石垣

私の感想

最近、全国各地で大きな災害が発生しています。多くの人々や町が被災しているのは痛ましいですし、城や史跡もダメージを受けてしまっています。ほんとうに悲しいことです。しかし、明石城やその周りをめぐってみて、災害に対する備えをしていたり、阪神・淡路大震災からも復興した姿を見ることができました。被災した各地も、時間はかかっても復興できるのです。復興に少しでも協力するとともに、復興する姿もレポートしていきたいです。

復興した明石城
巽櫓の筋違

リンク、参考情報(追加分)

・「史跡明石城跡石垣の修理と歴史判断」村上裕道氏資料

「明石城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

58.明石城 その2

今でもその防御力が目に見えてわかる城です。

特徴

駅から見える城

もし電車で明石城を訪れるのでしたら、明石駅のホームに降りたときからこの城がどんなに頑丈であったのか目の当たりにするでしょう。2基の現存している三重櫓、左側の坤(ひつじさる)櫓と右側の巽(たつみ)櫓が丘の上で漆喰塀によるつながっている姿が見えるのです。素晴らしい光景です。

明石駅ホームから見える明石城

城周辺の航空写真

大手門周辺

城跡は、中堀の内側にある明石公園の一部として整備されてきました。公園の正面入り口は、城の大手門でした。その石垣は残っていて、「桝形」と呼ばれる四角い空間を形作っています。平地部分には散策ゾーンや各種施設があり、球場があったところはかつては城主の御殿が建っていました。

明石公園入口
大手門の桝形部分

本丸を守る防御力

本丸の坤櫓は目の前の高石垣の上にあります。櫓に向かって階段を登っていき、櫓と天守台石垣の下にたどり着きます。しかしながら、本丸にはそのまま入ることはできません。本丸に入るには、本丸下にある稲荷曲輪を回って、後ろ側に行く必要があるのです。敵方は本丸に行きつく前に反撃を受けることになったでしょう。

そびえ立つ坤櫓
本丸に向かう階段
立ちふさがる天守台石垣
裏側にある本丸の入口

本丸の内部

本丸の中では、2基の現存櫓を間近に見ることができます。日本の城では12基残っている三重櫓のうちの2つなのです。櫓の間にある漆喰塀は最近復元されたものです。塀の中ほどにある展望台からは素晴らしい街の景色が見えます。巽櫓の向こうには、明石海峡大橋も望めます。

間近に見る坤櫓
復元された漆喰塀
本丸からの眺め
明石海峡大橋も見えます

本丸をサポートする二の丸、東丸

二の丸は、本丸とつながっています。そこには今は建物はありませんが、石垣と、石垣に囲まれた入口が良好な状態で残っています。二の丸からは、本丸の巽櫓がかっこよく見えます。東曲輪は二の丸のとなりにあり、そこも公園の入口となっています。

二の丸から本丸への入口
二の丸から見た巽櫓
二の丸の石垣と石段
東丸

「明石城その3」に続きます。
「明石城その1」に戻ります。

41.駿府城(Sunpu Castle)

駿府城は、徳川家康ゆかりの城としてその姿を取り戻しつつあります。
Sunpu Castle is returning to a castle associated with Ieyasu Tokugawa.

復元された駿府城東御門、背景は静岡県庁舎別館(The restored Higashi-Gomon of Sunpu Castle, the background is the Shizuoka Prefectural Government Office)

Location and History

徳川幕府の創始者である徳川家康は、昔は駿府といった現在の静岡市に3回住んでいました。最初は少年期に、今川氏の人質として過ごしました。2回目は壮年期に東海地方の戦国大名として、最後は熟年期に日本の支配者としてでした。今川氏の館が同じ場所にあったと言われており、そのため家康が人質としてそこに送られたのです。
Ieyasu Tokugawa, the founder of the Tokugawa Shogunate lived three times in Sunpu which is the old name of Shiuoka City. The first time was in his childhood when he lived there as a hostage under the Imagawa clan. The second one was in his middle age as a warlord in the Tokai region, and the last one was in his old age as the ruler of Japan. It is said that the hall of the Imagawa clan was there, that’s why Tokugawa was sent to the castle as a hostage.

駿府城公園の徳川家康像(The statue of Ieyasu Tokugawa in Sunpu Castle Park)taken by 松波庄九郎 from photo AC

家康は、駿府が首府であった駿河国を手に入れた後、1589年に最初の天守とともに新しく駿府城を建設しました。しかし、ほどなく豊臣氏の命により関東地方に移されてしまいました。代わりに豊臣配下の中村一氏が駿府城に入り、家康の天守を別のものに置き替え、家康への対抗姿勢を示しました。
Tokugawa built a new Sunpu Castle with the first “Tenshu” keep in 1589 after he took over Suruga Province where Sunpu was the capital. But he was soon transferred to the Kanto region by the Toyotomi clan. Instead, the Kazuuji Nakamura under Toyoyomi came to the castle and replaced Tokugawa’s Tenshu with another one against Tokugawa.

中村一氏像、東京大学史料編纂所蔵(The portrait of Kazuuji Nakamura, owned by Tokyo University)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

最終的には家康は再び駿府に戻り、1607年に城の大改修を行います。最盛期には、駿府城は三重の堀に囲まれていました。三代目の天守は、日本で最大の天守台の上にありました。そして数多くの櫓や門が、西の豊臣氏との戦いに備えて築かれました。家康は、1615年に豊臣氏を滅ぼし、1616年にこの城で亡くなります。その後、幕府は長年にわたって駿府とこの城を支配しました。
Finally, Tokugawa returned to Sunpu again, and renovated the castle in 1607. At its peak, it was surrounded by triple moats. The third Tenshu keep had the largest stone base in Japan, and many turrets and gates prepared for fighting with Toyotomi clan in the west direction. Tokugawa died at this castle in 1616 after he had beaten Toyotomi clan in 1615. After that, the Shogunate directly governed Sunpu and the castle for many years.

駿州府中之城図家康公縄張、岡崎市立図書館蔵(The layout of Sunpu Castle by Ieyasu Tokugawa, owned by Okazaki City Library)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

不幸にして1635年に大火が起こり、城を焼いてしまいました。火事の後、「東御門」「巽櫓」「坤櫓」といった施設は再建されましたが、天守は再建されず、天守台だけが残りました。
Unfortunately there was a big fire in 1635 which burned the castle down. After the fire, facilities such as the East Gate “Higashi Gomon”, the South-East turret “Tatusmi Yagura” and the South-West turret “Hitsuji-Saru Yagura” were rebuilt, but Tenshu was not rebuilt, only its base remained.

現在復元された巽櫓(左)と東御門(右)、大火の後再建された建物を元にしている(The current restored Tatsumi-Yagura(left) and Higashi-Gomon(right), based on the buildings rebuilt after the fire)

江戸時代末期になって、駿府城は東西対立の中で再度重要な存在となりました。この城は新政府軍の本陣となり、ここから幕府との間で江戸城と将軍の扱いについて交渉が行われました。
At the end of the Edo Period, Sunpu Castle regained its importance in the East-West confrontation. The castle became the stronghold of the New Government Military which negotiated the treatment of Edo Castle and the Shogun with the Shogunate.

駿府城近くにある西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地跡(The site of the meeting between Takamori Saigo and Tesshu Yamaoka near Sunpu Castle)licensed by Halowand via Wikimedeia Commons

Features

現在、静岡市当局はこの城跡を史跡として再生することに取り組んでいます。最近になって城跡の名前が、元の駿府公園から駿府城公園に変更されました。更には東御門、巽櫓、そして坤櫓が残っている詳細図面や発掘の成果から、オリジナルの木造建築により復元されました。
Now, Shizuoka City officials are trying to recreate the castle ruins as a historic site. They have renamed the ruins from the former name Sunpu Park to the Sunpu-Castle Park recently. They have also restored Higashi Gomon, Tatsumi Yagura and Hitsuji-Saru Yagura in the original wooden style based on their remaining detailed drawing and excavation.

復元された東御門と巽櫓(The restored Higashi-Gomon and Tatsumi-Yagura)
復元された坤櫓(The restored Hitsujisaru-Yagura)taken by アド・ミラー from photo AC

市は、どのように公園を再構成し、また天守を再建すべきか、歴史家や専門家に諮問しています。現時点の答申は、まず最初に天守台を復元すること、そしてしばらく様子を見るというものでした。それは、天守の詳細が不明であり、再建には莫大な予算が必要だからです。現在、天守台の再建に向けて行われている発掘現場を見ることができます。そこでは二代目の中村氏の天守と、三代目の徳川氏の天守の遺跡が混在しています。大変興味深いものです。
They are consulting with historians and specialists about how they should reorganize the park and rebuild the Tenshu keep. Their answer right now is that they should restore the base of Tenshu first, and wait for a while. That’s because the details of it are unclear, and rebuilding it requires a huge budget. You can now see the excavation site of Tenshu prepared for the rebuilding of the base. There are mixed stone ruins both from the second Nakamura and the third Tokugawa periods.
That’s fascinating.

天守の発掘現場(The excavation saite of Tehchu)
こちら側が徳川の石、向こう側が中村の石(The near side is Tokugawa’s stones, the other is Nakamura’s)

Later Life

明治維新後、城の全ての建物が撤去され、静岡市は城跡を公園として使いました。しかし、市は明治中期に至り、公園を軍用地として提供する決断をしました。そして陸軍歩兵第34連隊が1897年から1945年の間、基地として使用しました。結果として、残っていた天守台は完全に破壊され、多くの堀がその残土により埋められました。この一帯は、二重、三重目を囲む堀と石垣を除き、平地になってしまいました。
After the Meiji Restoration, all the buildings of the castle were demolished, and Shizuoka City used the ruins as a park. But the city decided to offer the park for the ground for a military base in mid Meiji. The 34th infantry regiment used the base between 1897 and 1945. As a result, the remaining Tenshu base was completely destroyed and many moats were filled with waste. The area became plain-looking without part of the second and third concentric moats and their stone walls

現在の駿府城の航空写真(An aerial photo of the present Sunpu Castle)


内堀もわずかですが復元されています。(A few inner moats are restored)

第二次世界大戦後、城跡は再び公園となり「駿府公園」と名付けられました。現在静岡市は市民との絆を深めるため、家康を新たなシンボルとして模索しているようです。
After the World War II, the ruins of the castle became a park again called “Sunpu Park”. The city seems to be looking for a new symbol of Tokugawa to strengthen ties with its citizens.

堀から発見された家康時代の鯱(The grampus in Ieyasu’s era which was discovered from a moat)

My Impression

市民や観光客のために歴史公園を増やしたい気持ちはわかります。当方としても元通りの城の建物を本当に見てみたいです。しかし、一体どこまでやればよいのでしょう。市のシンボルとして天守を再建することが本当に必要でしょうか。過ぎたるは及ばざるがごとし。答えは一つではないのですが、過去に起こった軍用地の一件の中に潜んでいるような気もします。
I can see why they want to increase the number of historical parks for citizens and tourists. I am really pleased to see the buildings of castles restored like the original ones. But, how far will they go with that? Is it really necessary to rebuild the Tenshu as the city symbol? More than enough is too much. Though there is not one answer, it might be an answer in the case of the military base in the past.

再建された巽櫓の内部(The inside of the restored Tatsumi-Yagura)

How to get There

JR静岡駅から歩いて約15分です。
東京から静岡駅まで:東海道新幹線に乗って、直接静岡駅に到着します。
It takes about 15 minutes on foot from the JR Shizuoka station.
From Tokyo to the station: Take the Tokaido Shinkansen super express direct to Shizuoka st.

Links and References

駿府城公園(Sunpu Castle Park)
・大御所徳川家康と駿府城公園、田中省三著(Japanese Book)

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