58.明石城 現地編

今回はまず、明石城正面の入口から入って、本丸まで行ってみます。次に、本丸に残る櫓を見学して、丘の上の曲輪群を進みます。それから、表からは目立たない、城の裏側の防御の仕組みも見学しましょう。最後は、城下町から港を巡り、明石海峡にある舞子台場跡まで行ってみます。

イントロダクション

今、明石駅のホームの上にいます。ここから、明石城の2つの三重櫓がばっちり見えます。左側が坤櫓、右側が巽櫓です。最初からなかなか壮観です。でも城の石垣は右側にずっと続いています。そちらの方にも行ってみようと思います。

明石駅ホーム上から見える明石城
2基の現存三重櫓
坤櫓
巽櫓
二の丸・東の丸に続く石垣

駅前に降りてきました。駅前がもう堀になっています(中堀)。城跡の明石公園に進みます。アクセスはすごくいいです。

明石駅前
振り返るともう中堀です

公園の入口にもすぐ着きます。今回はまず、正面の入口から入って、本丸まで行ってみます。次に、本丸に残る櫓を見学して、先ほどホームで見た丘の上の曲輪群を進みます。それから、表からは目立たない、城の裏側の防御の仕組みも見学しましょう。最後は、城下町から港を巡り、明石海峡にある舞子台場跡まで行ってみます。

明石公園入口

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(明石の城から城下町・明石海峡めぐり)

近そうで遠い本丸

城周辺の航空写真

城の正門だった太鼓門跡から入っていきます。さすが正門だけあって、堂々とした枡形です。かつては正面と、曲がった先にそれぞれ門がありました(定ノ門・能ノ門)。石垣だけでも、城の中は全然見えません。奥の門の二階には、時刻を知らせる太鼓(「とき打ち太鼓」)があって、それが名前の由来になっています。現在、門を抜けたところには、太鼓打ちロボットがいたり、明石公園サービスセンターがあります。

太鼓門跡
太鼓打ちロボット
明石公園サービスセンター

本丸を目指して、進みましょう。今歩いている所は、台地下の三の丸で、左手にはかつて、お殿様の居館「居屋敷」がありました。右手には現在、一部再現された「武蔵の庭園」があります。

三の丸
武蔵の庭園

どんどん、巽櫓が迫ってきます。本丸はすぐ近くにありそうです。しかし、まだまだ本丸は遠いのです。右手にある、武蔵の提案(馬の歩幅ピッチ)が取り込まれたという階段は、二の丸にしか行かないのです。左手の石垣に沿って、回り込んでいく必要があるのです。これは長い道のりになりそうです。石垣が二段構えになっています。敵だったらこうしている間にやられてしまうでしょう。

巽櫓
本丸・帯郭の石垣

今度は坤櫓が見えてきました。ここでやっと、本丸への入口となるのです。まだまだなにかありそうですが、進んでいきましょう。

坤櫓
本丸への入口

ここでも、坤櫓が立ちはだかっています。さらに進んでいくと、すごい壁が現れました。これが天守台です。建物はないのにこの威圧感です。石垣だけでも十分防御陣地になったのではないでしょうか。しかも後ろには櫓も控えているのです。

立ちはだかる坤櫓
天守台
天守台と坤櫓

一応難所を突破したとして、次は、台地上の稲荷郭です。台地上の曲輪と言っても、本丸よりは低くなっています。しかも、本丸の入口は一番奥にあるのです。そして、最後の角を曲がるところにも乾櫓があったのです。櫓も天守台も、効果的に配置されていました。やっと本丸の埋門跡に到着です。

稲荷郭
乾櫓
本丸埋門跡

三重櫓と丘上の曲輪

本丸周辺の地図

これから本丸をまわりますが、来たときとは反対方向に見ていきたいと思います。今度は城を守る方から見てみます。まず、乾櫓跡に向かいます。案内はありませんが、角のところだと思います。

本丸
乾櫓跡

次は、天守台です。なんだか簡単に入って行けてしまいます。来る時に見た壁のような姿とは全然違います。上は広いですし、守備兵にとっては使いやすかったのではないでしょうか。坤櫓もすぐ近くです。本丸に来る時に通った稲荷郭もお見通しです。

天守台
天守台の上
天守台から見た坤櫓
天守台から稲荷郭を見下ろしています

いよいよ坤櫓に近づきます。内側に石垣がないせいか、気品を感じます。城内最大規模の櫓で、天守の代わりを果たしたと考えられています。内側なのに屋根の飾り(二重破風)がかっこいいところもいいです。さすが実質の天守です。

坤櫓(内側)

この日は坤櫓の中には入れなかったのですが、向こうの巽櫓には入ることができました。その前に手前の展望台からの景色を楽しみます。街が一望できます!これから行く巽櫓に、明石海峡大橋も見えます。

展望台
展望台からの眺め(南側)
展望台からの眺め(東側、巽櫓と明石海峡大橋)

巽櫓に入ります。見学できるのは一階部分だけになりますが、説明パネルや、部材みたいなものがたくさんあります。格子窓がありますので、外を眺めてみましょう。西側の窓からは二の丸の方が見えます。武蔵提案の石段もあります。

巽櫓(内側)
巽櫓(内部)
巽櫓からの眺め(東側、二の丸)

今度は正面の南側を見てみましょう。三の丸が見えるのですが、櫓の一階からでもこんなによく見えのかと思ってしまいます。先ほど櫓を見上げた場所が眼下にあります。

巽櫓からの眺め(南側、三の丸)

ところで、この櫓には筋違がたくさんあって、バリバリに補強されています。これらは、明治か昭和の大修理のときに取り付けられたそうです。このおかげで阪神・淡路大震災を耐えられたかもしれないとのことです。

巽櫓の補強材

続いて、本丸から細い土橋を渡って、二の丸に進みます。更に、東の丸に進みます。石垣の上を延々と歩く感じです。国旗掲揚のポールが見えてきました。ここは、東の丸の端で、ここにも櫓があったのです。だいぶ進んだので、ここから見る海峡大橋は、心なしか、大きく見えます。

本丸・二の丸間の土橋
二の丸・東の丸間の門跡
石垣の天端部分
国旗掲揚塔がある櫓跡
櫓跡から見た明石海峡大橋

自然を生かした防御

今、東の丸の隅まで来ていますが、ここから城の裏側に進みます。東の丸の奥には、門跡が2つあります。ここも、重要地点だったのです。今回は北側の方から出ます。

東の丸の2つの門跡、左側が北側に出る方

門跡から出たところを、下っていきます。道は、自然散策路みたいになっています。でも、左手は石垣、右手は堀に囲まれています。

門跡を出て、右下に下ります
城の裏側を進む道

城の裏側にもこんなに高石垣があります。二の丸の裏側だと思います。

二の丸の高石垣

二の丸と本丸を隔てる大堀切までやってきました。向こうに見えるのは巽櫓です。更に本丸の手前の方には艮櫓がありました。先ほど歩いた本丸・二の丸間の土橋から下ってみると、堀切を作って、わざと狭い通路にしていたのがわかります。

大堀切
土橋から大堀切に下る階段

更に、堀を越えて北に進んでいくと、北の丸の石垣が残っています。こんなところまで城が続いていたことがわかります。

北の丸石垣

お時間があれば、更に北西の方の、剛ノ池に行ってみることもおすすめです。これも城を守った自然の障壁です。

剛ノ池

戻る途中では、坤櫓の正面の姿が良く見えます。これは、ますますかっこいいです!

坤櫓(正面である西側)

武蔵の城下町、海舟・龍馬の台場へ

最後のセクションはまず、宮本武蔵が町割りをしたと言われる城下町を、城の中堀から、その場所らしいアイテムをチェックしながら、明石港まで行ってみます。この中堀から南側、右手の方に武家屋敷があったのです。道路を渡ったところに、その遺構があります。明石藩の家老を務めていた家の長屋門です。こちらも船上城から移築されたと言われています。もしかして、一回再建された櫓より古いかもしれません。

中堀
織田家長屋門

武家屋敷と町人地の堺目の外堀は、現在の国道2号線辺りだったそうです。

国道2号線

町人地代表としては、魚の棚商店街に来てみました。いかにも町人地らしい雰囲気です。明石鯛もあります。

魚の棚商店街
明石鯛が並びます

明石港は」、意外に近いところにあります。基本的な位置は、江戸時代と変わらないようです。この先には、江戸時代以来の灯台が残されています。

明石港
明石港旧灯台(photoAC)

旧西国街道沿いにも古い町並みがあります。

大蔵の街並み

そして、今回の最終目的地、明石海峡に到着しました。海峡と大橋、素晴らしい景色です!船が通っていて、今も交通の要所です。舞子台場跡は、明石海峡大橋の西側にあるので、橋をくぐって右手に移動します。

明石海峡
明石海峡大橋

台場跡に着きました。ほんとうに海峡が目の前にあります。勝海舟・坂本龍馬が関わった台場です。だいたい、西半分のところを見学できるようになっています。それでは見てみましょう。

舞子台場跡

大砲風のベンチがあります。その先には「天端の石敷き」とありますが、大砲が据えられたか、壁の基礎だったとのことです。

大砲風のベンチ
天端の石敷き

海岸の方を見てみましょう。石垣があります。こちらもオリジナルだそうです。台場の形は残っているのです。明石海峡は、いろんなものが集まる場所なのです。

台場の石垣

私の感想

最近、全国各地で大きな災害が発生しています。多くの人々や町が被災しているのは痛ましいですし、城や史跡もダメージを受けてしまっています。ほんとうに悲しいことです。しかし、明石城やその周りをめぐってみて、災害に対する備えをしていたり、阪神・淡路大震災からも復興した姿を見ることができました。被災した各地も、時間はかかっても復興できるのです。復興に少しでも協力するとともに、復興する姿もレポートしていきたいです。

復興した明石城
巽櫓の筋違

リンク、参考情報(追加分)

・「史跡明石城跡石垣の修理と歴史判断」村上裕道氏資料

「明石城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

41.駿府城 その2

西郷・山岡会見の史跡碑から駿府城に向かい、大手門跡に入っていきます。それから、復元された東御門・巽櫓を見学して、いよいよ話題の天守台発掘現場に向かいます。その後は復元された坤櫓などを回ってみます。

特徴、見どころ

イントロダクション(江戸開城の影の功労者・山岡鉄舟)

駿府城の現地案内のスタート地点として「西郷・山岡会見の史跡碑」を選びました。江戸開城が決まった勝・西郷会見は有名ですが、実はそれに先立つ駿府での西郷隆盛と山岡鉄舟の会見も、江戸開城につながる重要な歴史イベントだったのです。

西郷・山岡会見の史跡碑

山岡鉄舟(生年:1838年~没年:1888年)は、幕府旗本で剣の達人でもありました。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に戻っていた徳川慶喜の警護役を務めていました。慶喜は恭順の意を示していましたが、新政府軍は慶喜を討伐する方針でした。そこで慶喜は、近臣の高橋泥舟の推薦する鉄舟を、改めて恭順の意を伝える使者として抜擢しました。鉄舟は初対面の主君に対し「謹慎しているのは偽りではないか」と問いただしました。真実であると確認すると、この使命に命をかける覚悟をしました(下記補足1)。

(補足1)わたしは旧主(慶喜)に「今日の切迫した時勢において、恭順をお示しになるのはどのようなお考えによるものなのか」と問うた。旧主は、「自分は朝廷に対して公正無二の赤心をもって謹慎しているといえども、朝敵として征討の命が下った上は、とても生命を全うすることはかなうまい。これほどまでに衆人に憎まれてしまったことは、返す返すも嘆かわしいことである」と言って涙をこばされる。わたしが旧主に「何をそんな弱気でつまらぬことを言われるのか。謹慎しているというのは偽りではないのか。何かほかにたくらんでいることがおありではないのか」と言うと、旧主は「自分にふたごころはない。どんなことであっても朝廷の命令に対しては背かない無二の赤心があるだけである」と言われるので、わたしは次のように断言した。「真の誠意をもっての謹慎であられるならば、朝廷にしっかりと届かせて、御疑念を氷解していただくのは当然のことです。鐵太郎が、そこのところは確かにお引き受けし、必ずや赤心が届くように力を尽くします。鐵太郎が目の黒いうちは、決して御心配には及びません」と。(山岡鉄舟「慶應戊辰三月駿府大總督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」の現代語訳、「最後のサムライ 山岡鐵舟」より)

山岡鉄舟(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

鉄舟は、勝海舟から付けられた薩摩藩士とともに敵地となった駿府に乗り込み、西郷と会見したのです。西郷は鉄舟を確かな人物と見込み、和議の5条件を提示しました(山岡鉄舟本人の手記による)。
1.城を明け渡すこと
2.城中の人数を向島に移すこと
3.兵器を渡すこと
4.軍艦を渡すこと
5.徳川慶喜を備前へ預けること

鉄舟は、最後の慶喜を他藩に預ける条件だけは承服できませんでした。「朝命である」とすごむ西郷に対し、鉄舟はもし逆の立場だったら主君を差し出すのかと反駁し、撤回させたのです(下記補足2)。このやり取りがベースになり、勝・西郷会見と江戸開城が実現したのです。西郷が江戸に乗り込んだときには、鉄舟は西郷の警護役になりました。

(補足2)「主人の慶喜一人を備前へ預けること、これは決してなすべきではありません。というのも、そうなった場合には徳川に恩顧を受けた家臣たちが決して承知をしないからです。つまり、合戦が起こり、いたずらに数万の生命が失われます。これは天子の軍隊のすることではありません。そうなってしまっては先生は単なる人殺しでしかありません。(略)」と答えると、西郷氏は「朝命です」と言う。わたしはきっぱりと、「たとえ朝命であっても、わたしとしては、決して承知するわけにはいきません」と言う。西郷氏は語気を強めて、再び「朝命です」と繰り返す。わたしは、「ならば先生とわたしとその立場を入れ替えて少し考えてみましょう。先生の主人である島津公が、もし間違って朝敵の汚名を着せられながらも、官軍が征討に向かう日には恭順謹慎しており、しかも先生がわたしと同様の任にあって主家のために尽力している時に、主人の慶喜に対するがごとき処置の命令が朝廷から下ったら、先生はその命令を謹んでお受けになり、さっさと主君を差し出して安閑としていることを、君臣の情、先生の義というものからみてどうお考えでしょうか。このことは、轍太郎には決して忍ぶことのできないことです」と激しく論じる。西郷氏はしばらく黙然としていたが、口を開くと、「先生の説はもっともなことです。徳川慶喜殿のことについては、この吉之助が確かに引き受け、取り計らいます。先生にはご心痛には及びません」と約した。(同上)

この史跡碑は旧東海道沿いにあるので、ここから駿府城に向かい、大手門跡に入っていきます。それから、復元された東御門・巽櫓を見学して、いよいよ話題の天守台発掘現場に向かいます(発掘現場は2025年12月で一旦公開終了、今回内容はそれ以前に訪問したもの)。その後は復元された坤櫓などを回ってみます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

東海道から駿府城入城

それでは、史跡から東海道を駿府城に向かいましょう。でも実は、東海道とはすぐお別れなのです。東海道と反対側の三の外堀(外堀)に行きます。全部ではありませんが、残っているのです。堀沿いを歩いていくと、城に行くのに便利な城代橋があるのですが、今回はオリジナルの登城ルートをたどってみようと思います。すごい石垣が張り出しています。この先が、大手御門跡になります。大手門の周りだけあって、堂々としています。背後にそびえるのは静岡県庁舎別館です。現代の天守のようです。

城周辺の航空写真

左側に曲がると東海道の続き、右側に行くと駿府城
三の丸堀(外堀)
城代橋(明治時代設置)
石垣の背後にそびえる静岡県庁舎別館

大手御門跡の前まで来ました。大手御門から、二の丸御門、御玄関前御門と進むのが、正規の登城ルートでした。今でもバンバン車が通っていて、県庁の正門みたいになっているのでしょうか。すごい枡形で、この上に建っていた門の建物も巨大だったのでしょう。枡形を抜けると、二の丸堀(中堀)に突き当たります。

大手御門跡
正規の登城ルート(駿府城東御門内)
大手御門の枡形
二の丸堀に突き当たります

二の丸御門は左の方になりますが、この門跡は通ることができないのです。この門跡は、戦後の国体開催のときに埋められて、別の場所に橋がかけ替えられました。その二の丸橋を渡ります。そして左手の方に、二の丸御門の枡形が残っているのです。袋小路かと思ったら、入口をふさがれた枡形だったのです。

二の丸御門跡(表側)
二の丸橋
二の丸御門の枡形(内側)

最後の御玄関前御門は、残念ながら案内があるだけです。中心部はかなり整地されてしまいましたので仕方ありません。でも、場所がわかっただけでも良かったです。

御玄関前御門跡

復元された門・櫓を見学

次は、中堀の前に戻って、復元された建物の方に行きましょう。巽櫓に近づいていきます。どっしりとした構えです(二重三階、平面は珍しいL字型)。大砲の標的にならないよう、こういうスタイルになったそうです。

復元された巽櫓

巽櫓からつながる東御門に行きましょう。この県庁をバックにした図柄は、好みがあるかもしれません。個人的には天守があるみたいで好きです。

県庁をバックにした東御門

東御門の高麗門から中に入ります。外からの攻撃に耐久性が高い内枡形です。そして右側の櫓門から枡形を出ます。

東御門(正面)
高麗門
枡形
櫓門

門と櫓の内部は公開されていますので、入ってみましょう。まず東御門ですが、多聞櫓にも囲まれていて、結構広いのです。防御の仕組みが分かるようになっていて、フィギアのところに石落としがあります。

門と櫓への入口
駿府城模型の巽櫓・東御門部分(駿府城東御門内)
櫓門内部
石落とし

それに、資料館としてもかなり充実しているのです。例えば、櫓門の中に大きな城の模型があったり、門の正面の多聞櫓の中に、今川時代から大御所時代までの歴史展示があったりします。

駿府城模型(駿府城東御門内)
今川時代の展示(駿府城東御門内)
格子窓から見た枡形

曲がった先の多聞櫓では、幕末までの歴史です。鉄砲を撃つフィギアもいます。巽櫓に行っても、展示は続きます。なんと、天守台発掘調査現場の模型まであります。そして二階には、復元された「竹千代手習いの間」があります。

鉄砲を撃つフィギア
巽櫓へ
天守台発掘調査現場の模型
復元された「竹千代手習いの間」

建物から出たら、本丸堀(内堀)に行ってみましょう。埋められてしまったのですが、一部掘り返されて、見学できるのです。石垣も見えます。

本丸堀
本丸堀の石垣

次は二の丸水路です。本丸掘と、二の丸堀をつないで、水位調整を行っていました。

二の丸水路

いよいよ天守台へ

そして、いよいよ天守台です。近くで家康公もお出迎えです。

天守台発掘調査現場に向かいます
徳川家康像

広大な現場です。緑のコーンが慶長期、赤のコーンが天正期、黄色のコーンが今川期の遺物を表しています。

天守台発掘調査現場のほぼ全景

別の図(下記)も使いながら、天正期天守台(赤いライン)からご案内します。南側の天守台出入口を見ながら、大天守台の南東隅をかすめていくという感じです。緑のコーンもあるので、慶長期のものとかぶっています。

天守台模式図(駿府城東御門内にて展示)
天正期大天守台南東隅付近

見学ゾーンの端まで来ました。手前の石垣が目立っています。東側に面した石垣で、野面積みです。ここから、北東隅、北西隅を示すコーンが見えます。古い方の天守台でもかなり大きかったのです(東西約33m、南北約37m)。家康が豊臣大名時代に築いたものなのでしょうか。

天正期大天守当面の石垣
丸い形の自然石(あるいは粗割り石を使った野面積みです

続いて、慶長期天守台の方に向かいます。小天守台の石垣が見えます。途中では、天正期の金箔瓦が出土したところや、本丸西側の石垣を回り込んでいきます。すると、巨大な天守台が姿を現します。

慶長期小天守台東面の石垣
天正期の金箔瓦出土地点
慶長期本丸西側の石垣
慶長期大天守台南面の石垣

巨大でもあるし、石の形も整えられています。南東側は、地震があって積み直したので、より新しい方式(切り込みハギ)になったそうです(東西約61m、南北68m)。

慶長期大天守台南西隅

北側に向かって歩きます。北西隅まで来ました。先ほどの南西隅より石の形が粗くなっています。こちらは家康時代のオリジナルとのことです。

北側に向かっています
慶長期大天守台北西隅

そして、見学ゾーンの北の端まで来ました。見えているのは、北側の石垣です。ちょっと上を見ていただくと、ポールが立っています。かつて、天守台はあの高さまであったそうです(地上12m、堀水際から19m)。

慶長期大天守台北面の石垣
かつての天守台の高さを示すポール

最後に興味部会ものをお見せします。本丸掘から出た石、とあります。天守台を崩して、堀を埋めるのに使われたのです。元は天守台にあったということです。何とか復元できないかと思ってしまいますが、とんでもないパズルになってしまうでしょう。当面は、現状の天守台の展示施設を作るということです。

石置き場にあるかつて天守台を構成した石たち

まだまだある見どころ

次は復元された坤櫓です。内側にも格子窓がたくさんあるのは、敵が曲輪に侵入しても、反撃できるようにするためと言われています。内部の展示はシンプルなのですが、屋根までの木組みの構造や、床下まで見学することができます。格子窓から外を見ると、ここも角地だとわかります。

復元された坤櫓(内側)
坤櫓(内部)
二階三階の一部の床板が外されていて、木組みを見学できます
一階の床の一部がガラス張りになっています

堀の外からも見学しましょう。重要なポジションを守る櫓だとわかります。外側にはばっちり石落としもあって、かっこいいです。

坤櫓(外側)

少し足を延ばして、西側の三の丸堀を歩きましょう。立派な櫓台があります。ただ、昔の絵図でもここに建物があったかわからないそうです。三の丸堀は残っているだけでも相当長そうです。近くには、城を警備した加番の屋敷跡の一つがあります。

三の丸堀にある櫓台
三の丸堀(南から北に向かって)
二加番屋敷跡

最後は、二の丸に北御門から入ってみましょう。入ったところに、土塁の上を歩ける遊歩道があるのです。内側は紅葉山庭園になっています。北東の角地を過ぎて進んでいきます。こうやって見ると、城の土塁をずいぶん高くしてあることがわかります。こちら側は標高が低いということなので、かなり盛ったのでしょう。さっき見た二の丸水路のところに出ました。駿府城、歩いただけ新たな発見がありそうです。

北御門跡
土塁の上の遊歩道
柵の向こうの紅葉山庭園
二の丸北東隅
堀や道路を見下ろしています
二の丸水路に至ります

最後は静岡県庁舎別館、21階富士山展望ロビーに行きます。現代の天守に登れるのです。まず、今日行った駿府城を確認しましょう。ここからでも天守台の巨大さがわかります。富士山の方はどうでしょうか。ガラス越しになりますが、よく見えました。

あの高いところに登ります
展望ロビーからの眺め(北側)
発掘調査現場
富士山

リンク、参考情報

駿府城公園、公式ウェブサイト
・「駿府城まるわかり(駿府城ガイドブック)」静岡市
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「静岡の城/加藤理文著」サンライズ出版
・「歴史群像129号 戦国の城 駿河駿府城/樋口隆晴著」ONE PUBLISHING
・「シンポジウム 今川館の姿にせまる 資料集」静岡市
・「最後のサムライ 山岡鐵舟」教育評論社
・「山岡鉄舟 決定版/小島英記」日本経済新聞出版社
・歴史秘話ヒストリア 「駿府城大発掘!家康VS.秀吉 知られざる攻防」2019年放送
Youtube「小和田哲男:今川「人質」時代、徳川家康の実像を物語る3つのエピソード」テンミニッツ・アカデミー – 1話10分で学ぶ大人の教養講座

「駿府城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

183.久留米城 その2

城の石垣がいまだに健在です。

特徴、見どころ

本丸に残る素晴らしい石垣

現在、久留米城跡として本丸のみが残っています。城跡には城の建物はありませんが、その石垣がいまだにほとんど元のまま残っています。この曲輪はそれ程大きくはなく、南北約150m、東西約100mの大きさです。このような限られたスペースに、7基もの三階櫓が全て二階建ての多聞櫓によってつながっていたことを想像するだけでも驚きです。今、この曲輪には有馬氏を祀る篠山神社があります。

城周辺の地図

本丸だけ残る久留米城跡
篠山神社

南側の新しい石垣

この曲輪の正面は南を向いていて、神社の入口にもなっています。唯一残っている水堀がこの方角にあります。15mの高さがある素晴らしい高石垣を見ることができます。この南側の石垣は、四角に成形された石を整然と積んで築かれており、布積みと呼ばれる方式です。この方式は、この城の他の石垣より新しいもので、有馬氏によって築かれたと考えられます。

南側の入口
南側の高石垣

この石垣の上には、3基の三階櫓(巽(たつみ)櫓、太鼓櫓、坤(ひつじさる)櫓)が立っていました。特に、巽櫓は最も大きく、城のシンボルとして天守の代わりとなっていました。

巽櫓跡
巽櫓跡下の石垣

本丸の内部

舗装され左側に曲がる通路上にある冠木御門(かぶきごもん)跡を通ってこの曲輪に入っていきます。この通路の途中には、桝形と呼ばれる四角い防御のための空間があったのですが、この通路が舗装されたときに一部改変されてしまい、今でははっきりとは見ることはできません。

冠木御門跡
本丸に入っていきます

本丸には、篠山神社とは別に有馬記念館があり、有馬氏の事績を展示しています。この記念館は、坤櫓と西下櫓の跡地にあります。他の櫓跡の上または傍らには地元の歴史に関する記念碑があります。例えば、太鼓櫓跡には1871年藩難事件の犠牲者の追悼碑(西海忠士之碑}があり、その周辺からは素晴らしい高石垣を間近に見ることができます。

太鼓櫓跡
太鼓櫓跡にある西海忠士之碑(右側  (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)
太鼓櫓跡から見た高石垣

また、艮(うしとら)櫓跡の傍らには旧日本陸軍の「菊歩兵第五十六連隊記念碑」があり、その周辺からは筑後川を眺めることができます。

菊歩兵第五十六連隊記念碑
艮櫓跡
筑後川の眺め

東側の古い石垣

本丸の東側でも、素晴らしい石垣を見ることができます。こちらの石垣は、粗く加工された石を積み、その隙間を小さい石を埋める方式で築かれました。この方式は打ち込みハギと呼ばれます。一方この石垣の角部分は、長方形に加工された石を互い違いに積む算木積みという方式で築かれています。これらの方式は、本丸の南側よりも古いものであり、これらの石垣は毛利氏か田中氏によって築かれたとも考えられます。

東側の石垣
角部分の算木積みの石垣

こちら側には月見櫓跡の傍らに、もう一つの入口が石段とともにあります。これもまた、こちら側がもともと本丸の正面だったときの正面口だったのかもしれません。櫓跡からは、かつては城の水堀であった、久留米大学のグラウンドが見えます。

月見櫓跡
月見櫓脇の東側入口
久留米大学のグラウンド

「久留米城その3」に続きます。
「久留米城その1」に戻ります。

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