78.丸亀城 現地編

丸亀駅前に来ています。ここから、丸亀城に向けて出発します。商店街、市役所に沿って行けば、どんどん城が迫ってきます。大手口の前に着きました。この城は、見どころがてんこ盛りなので、丸ごとめぐっていきます。

イントロダクション

丸亀駅前に来ています。ここから、丸亀城に向けて出発しますが、もう天守を見学できます。ビルの合間から天守が見えるのです。

丸亀駅
ビルの合間から見える天守

これならば方角はまちがわないので、商店街を進みます。大きな通りに出ますが、かつてはここが外堀でした。その通りに沿って市役所の方に行きます。お堀端を歩いている感じです。城の石垣の山が見えてきました。

商店街を抜けたところがかつての外堀
正面に見える丸亀城

今度は市役所に沿って行けば、どんどん城が迫ってきます。城めぐりへの期待も高まってきます。大手口の前に着きました。この城は、見どころがてんこ盛りなので、丸ごとめぐっていきます。

迫ってくる丸亀城
大手口

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(「石垣の名城」丸亀城 丸ごとめぐり)

城周辺の航空写真

大手口から三の丸へ

内堀を渡って、大手口に入ります。まず、高麗門形式の「大手二の門」です。中は、広い枡形になっていて、鏡石もあります。そして櫓門形式の「大手一の門」です。定番ですが、、やはり威厳を感じます。

大手二の門
大手二の門
大手一の門

門を抜けたら左手の坂を登ります。「見返り坂」という急勾配の長い坂(長さ150m、斜度約10度)で、時々立ち止まって振り返ってしまうことから名づけられたそうです。確かにどのくらい来たか、振り返ってみたくなってしまいます。

見返り坂
見返り坂を振り返る

でも早速、登った御褒美があります。三の丸北側の高石垣で、高さは20メートル以上あります。隅のラインは「扇の勾配」と呼ばれていて、美しいです。

三の丸北側の高石垣

三の丸へは、まだ坂が続きます。しかも両側から攻められそうな感じです。やっと着いたと思ったら、また素晴らしいものが見えます。讃岐富士(飯野山)です。

三の丸への坂
三の丸から見える讃岐富士

奥の方には櫓跡があります。月見櫓跡です。ここからは、讃岐富士だけでなく、城の裏手もばっちり見えます。搦手口です。

讃岐富士と月見櫓跡
月見櫓跡から見える搦手口

三の丸の表側もチェックしてみましょう。ここにも櫓跡のような場所があります。三の丸東張出石垣といって、建物はなかったようです。ここも眺望がすばらしいです。先ほどの高石垣が並び立っています。

三の丸東張出石垣
三の丸東張出石垣からの眺め
三の丸東張出石垣から見える高石垣

三の丸・二の丸で石垣・景色三昧

次はそのまま二の丸に行く人が多いのですが、もっと石垣と景色を楽しみたいので、まだ三の丸を巡ります。二の丸入口(大手)の脇の方を進みます。向こうに見えるのは、二の丸の鬼門櫓(番頭櫓)跡の石垣です。三の丸の上は景色もいいですが、二の丸の石垣が迫って、ものものしい感じです。

二の丸大手
二の丸鬼門櫓跡石垣

もっとものものしいところもあります。高石垣の上です。下にいる人が全然見えないほどです。

三の丸上
高石垣上

天守のすぐ下の、二の丸のもう一つの入口(搦手)を過ぎます。次は、戌亥櫓(七間櫓)跡です。ここも、いい景色です。

二の丸搦手
戌亥櫓跡

三の丸の最後は、坤櫓(水手櫓)跡です。しかしその場所は、2018年に石垣が崩落したところです。行けるところまで行ってみましょう。立入禁止となっていますが、上から復旧現場を見学できるスペースがあります。石垣を積み始めたところのように見えます(2026年8月中旬時点)。

三の丸から見た本丸、坤櫓跡は右手奥
立入禁止箇所
石垣崩落復旧現場
復旧現場(ズーム)

二の丸大手入口に戻って、二の丸に入っていきます。これも頑丈そうな門跡です。

二の丸大手の石垣
二の丸内部

二の丸のおすすめは井戸です。この井戸は、深さが65メートルもあって、今でも水をたたえています。なんと石垣を築いた石工(羽坂重三郎)が、ここで亡き者にされたという伝説もあるのです。

二の丸井戸
二の丸井戸の底

次は先ほど下から見た、鬼門櫓跡です。一段上がると、景色がどう変わるのでしょか。讃岐富士から、瀬戸大橋までもよく見えます。

鬼門櫓跡
鬼門櫓跡からの眺め

二の丸搦手入口にも行ってみます。これもさっき下から見ています。この入口は、長崎櫓のほか、天守によっても守られていたのです。確かに石落としがこちらを向いています。

二の丸搦手
二の丸搦手を守る天守
石落とし

本丸から天守の中へ

これから天守がある本丸に乗り込みます。本丸の門跡から入っていきます。かつては天守と櫓群が連結していましたが、現在は天守単独でお出迎えです。現存の3重天守のなかで一番小さいとは言いますが、城下から見える北側に、長い面や、破風を配置して大きく見せています。本丸からは反対側になりますが、すごく優美に見えます。

本丸門跡
現存天守(南面)

天守の中に入ります。まず、天守一階です。すごい柱の数で、50本もあるそうです。荒々しく加工されていて、時代を感じます。天守を囲む壁は「太鼓壁」といって、漆喰が分厚く塗られています。

天守一階
太鼓壁

そして、内部外側の武者走りの、特に北側に防御の仕掛けが集中しています。矢や鉄砲で攻撃するための狭間が並んでいます。更に先ほど下から見た「石落とし」です。

狭間と石落とし

二階に行きます。オリジナルだけあって、急階段です。二階に上がったら、ちょっと外を見てみましょう。目の前に屋根が見えて、唐破風のところのようです。内部の見どころとしては、大砲狭間(おおづつさま)があります。

二階への階段
二階から見た唐破風
大砲狭間

ついに、最上階です。一番上なので、コンパクトな空間ですが、ここからの景色に期待してしまいます。丸亀の街と海が一望です。

天守三階
天守三階からの眺め

本丸の櫓跡にも行ってみましょう。本丸からは「こんぴらさん」がある象頭山も見えます。一番人気に見える姫櫓跡に行ってみます。ここからは、先ほどの象頭山から、城の西側がずうっと見渡せます。丸亀城は、全方位対応なのです。

姫櫓跡
姫櫓跡からの眺め、象頭山は左側

搦手口、そして復旧現場へ

帰りは、三の丸まで戻って、搦手口から山を下ります。城の裏口ということですが、そんな感じではないのです。途中にも玉櫓跡があって、振り返ると、二の丸五番櫓跡が控えています。更に下った先には栃の木門跡があります。とても裏門とは思えない厳重さです。これは、京極氏が大手門を北側に作るまでは、こちらの南側が大手だったということがあるのでしょう。

搦手口、奥が五番櫓跡
栃の木門跡

山を下りきったところには、古風な石垣(東南山麓の野面積み石垣)があります。上にある石垣とのコントラストが良いです。

東南山麓の野面積み石垣(下の方)

搦手門跡はシンプルです。周りも土塁になっていて、石垣で固めている場所とは雰囲気が違います。

搦手門跡
この城では珍しいかもしれない土塁

次は、石垣崩落復旧現場です。2018年に崩落した南西部分の石垣復旧工事が行われています。「石垣復旧PR館(略称)」では、崩落から現在までの復旧状況がわかる展示を行っています。PR館屋上からは、復旧現場全体を見渡すことができます。傍らには江戸時代に損傷したと考えられ、今回掘り出された「埋没石垣」も展示されています。復旧が無事進むよう祈ります。現場を見ながら、大手口の方に戻っていきます。

石垣復旧PR館
PR館屋上から見た復旧現場
埋没石垣
復旧現場全体

最後は、山麓にあった藩主御殿の門を見学します。御殿そのものは、明治の初めに焼失し、門と番所などがなんとか残りました。これからも大事にしてほしいです。

玄関先御門(御殿表門)

関連史跡

余勢をかって「こんぴらさん」(金刀比羅宮)まで来てみました。御本宮まで785段登りました。ここからは讃岐富士がよく見えます。もっと上に行けば、丸亀城が見えるかもしれません。

金刀比羅宮・御本宮
御本宮から見える讃岐富士

がんばって奥社までトータル1368段登っていくと、鳥居の脇から丸亀城が見えました!「石垣の名城」というのがここからでもわかります。満願成就した気分です。うどんもおいしいことでしょう。

金刀比羅宮・奥社
奥社から見える丸亀城(ズーム画像)

リンク、参考情報(追加分)

・丸亀城パンフレット

「丸亀城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

79.今治城 その1

今治と言えば、やはり今治城が思い当たります。そして今治城を築いたのが、加藤清正・黒田官兵衛と並ぶ築城の名手、藤堂高虎です。藤堂高虎と言えば、何度も主君を変えた武将としても知られていますが、その分、築城にかかわった城も多いのです。その中で今治城は、高虎の築城術が確立した金字塔とも言える存在だと思います。そこで今回は、藤堂高虎の武将人生を辿りながら、今治城築城までに至った経緯、今治城の特徴、そしてその後の今治城をご紹介します。

イントロダクション

前回は、能島城跡の島に上陸し、来島城跡を望む来島海峡まで来ました。これらの史跡は現在では愛媛県今治市域に当たります。今治と言えば、やはり今治城が思い当たります。そして今治城を築いたのが、加藤清正・黒田官兵衛と並ぶ築城の名手、藤堂高虎です。藤堂高虎と言えば、何度も主君を変えた武将としても知られていますが、その分、築城にかかわった城も多いのです。その中で今治城は、高虎の築城術が確立した金字塔とも言える存在だと思います。そこで今回は、藤堂高虎の武将人生を辿りながら、今治城築城までに至った経緯、今治城の特徴、そしてその後の今治城をご紹介します。

来島海峡
今治市域(地図素材サイト「マップイット」より)
今治城

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(藤堂高虎築城術の金字塔・今治城の歴史)

高虎の出世街道

藤堂高虎は1556年(弘治2年)、近江国犬上郡甲良荘藤堂村に生まれました(生年1556年~没年1630年)。藤堂氏は、公家の広橋氏に仕えてきた有力領主でした。また、当時の近江国は築城が盛んな国で(観音寺城・小谷城など)、近くには大工で有名な甲良家の存在がありました。こういった環境が後の高虎のコネクションや仕事に関わったものと思われます(参考資料①②より、以下番号のみ記載)。高虎自身の覚書などを基にした藩の記録類(「高山公実録」など)によれば、彼は幼少期から大柄、怪力で、成人後は身長約190センチ(六尺二寸)、体重は百キロを超えていたと言われます。当時の男子平均身長が約150センチなので「大巨人」のように見えたでしょう。母親(妙清院・とら)や子(高次)も大柄だったとのことです(①)。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そんな高虎は、その恵まれた体格をもって大名に仕官し、戦功を上げますが、主君に恵まれない不遇の時代が続きました(①③、下記補足1)。
1.浅井氏(15歳、1570年~17歳、1572年)
 姉川の戦い・小谷城籠城戦などに参戦、同僚と喧嘩・成敗して出奔
2.阿閉氏(~18歳、1573年)
 「らう(牢)人分」として仕官、同僚を成敗したため出奔
3.磯野氏(~20歳、1575年?)
 織田信長に降伏した磯野員昌(佐和山城主)に仕官、80石を拝領
4。織田氏(~21歳、1576年)
 佐和山城主になった信長の甥、信澄に仕官、戦功を上げたが80石のままだったのでまた浪人に
最初の頃は、高虎自身も相当荒くれ者だったように感じます。

(補足1)織田・浅井両将の軍、姉川の辺で合戦。浅井氏は敗北し、居城の小谷に退く。白雲君(虎高)は浅井家に従いてこの役に出陣。公(高虎)は志学の齢といえども、父君に伴なって姉川に赴き、この日、敵の首一級を得る。敗軍の武功はことに難しい(「親筆留書」)

江戸時代の浮世絵に描かれた磯野員昌 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして21歳のとき、5人目の主君として豊臣秀長に300石で仕官してから、運が開けてくるのです。そのとき秀長は、兄の秀吉とともに播州三木城攻めを行っていました(①、下記補足2)。秀長は並行して但馬国(兵庫県北部)の平定も行っていて、竹田城を本拠として、拠点城郭を整備しました。その中に有子山城があって、そこに築かれた高石垣は高虎が関与した可能性があります(①)。そうであれば、戦そのものだけでなく、築城という分野にもかかわっていたのです。その後は、天下統一にまい進する秀吉・秀長の下で出世街道を進みます(④)。
・1581年:3300石(但馬一揆をおさめた功)
・1583年:4600石(賤ヶ岳の戦いの功)
・1585年:紀伊国粉河1万石(紀州攻めの功)
・1587年:2万石(丹羽長秀の子、高吉を養子とする)

(補足2)やまと大納言殿へ御出成なされ、播州三木の城主別所小三郎・しやてい弐人、あき(安芸)のもり(毛利)ニしたかひ、秀吉公をそむき申し付けて、御おしよせ成され候処ニ(「藤堂家覚書」)

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
有子山城本丸の石垣

高虎が、秀長の重臣時代に築いた城の例としては、赤木城が挙げられます。1585年(天正13年)、秀吉・秀長は紀州攻めを行い、紀伊国は秀長の領地になりますが、その後も反抗する一揆勢を抑え込むために、高虎が築城したとされています(③、下記補足3)。コンパクトですが、技巧に富んだ総石垣の城で、高虎流築城の原点ともいえる城です(③)。

(補足3)吉野郡赤木というところに、高虎君が取り立て御座した城跡がある。今、ここに野長瀬某の末孫がいる。当時は高弐万石ほどの郷士であった。この者も高虎君に敵して戦死した(「高山公実録」のうち「累世記事」)

赤木城の石垣
赤木城の縄張り、現地説明パネルより

やがて徳川家康が秀吉に臣従すると、高虎は家康の京都屋敷建築の奉行になりました。高虎は、渡された設計図には警固に難点があるとして、独断で設計を変更しました。家康がこのことを尋ねると、高虎は「天下の武将である家康様に不慮のことがあれば、主人である秀長の不行届き、関白様の御面目にかかわると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興の節は御容赦なくお手討ちください」と答えました。家康は心遣いに感謝し、後の両者のきずなにつながったとのことです(③)。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小田原合戦後に秀長がなくなると、高虎は、秀長の養子・秀保に後見人として仕えました。朝鮮侵攻のときの、肥前名護屋の秀保の陣屋は、諸大名の中で最も大きいものでしたが、これも高虎が築いたと言われています(③)。高虎自身も水軍の大将の一人として朝鮮に渡ったのですが、1595年(文禄4年)秀保が17歳で亡くなると、秀長以来の大和豊臣家は断絶となりました。そこで高虎がとった行動は、主君の死を悼み、高野山に行って出家しようとしたことだったのです(①)。主家を断絶させた秀吉への反発だったのではという意見もあるそうです(③)。

豊臣秀保、「義烈百人一首」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
朝鮮侵攻に使われた安宅船の模型(名護屋城博物館にて展示)

独立大名になってから今治城築城まで

高虎の才能を惜しんだ秀吉は、使者を2回、高虎に派遣しました。2回目に派遣したのは、高虎と親しかった生駒親正(孫の正俊の正室が高虎の娘)で、その説得の結果、高虎は秀吉に仕えることになりました。後に高虎は、生駒高松藩の幼君・高俊の後見役になっています(①)。

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高虎は、伊予板島7万石の独立大名になりました。板島城に入城し、城を天守・石垣を備える近世城郭に改修しました。これが宇和島城になります。高虎が築いた天守が初代、現存する天守は2代目です。そして引き続き水軍大将として慶長の役にも参陣します。しかしこのとき、戦功をめぐって同じ伊予の大名・加藤嘉明といさかいを起こしました。関山沖の勝利の功労者は高虎であるという武将たちに対して、嘉明は自分が一番功労者であると言い張ったのです。「自分で武功を誇るより、同僚たちの意見を聞いたらどうだ」と反発したのです(④)。その朝鮮での戦功で、1万石加増となり、新領地で大洲城の改修も行いました。

宇和島城
右が高虎が築いた天守、現地説明パネルより
加藤嘉明肖像画、藤栄神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉が没すると、高虎は徳川家康に接近します。秀吉に恩義があるのにどうして豊臣に身を捧げなかったのかという批判がありますが、高虎の年譜「高山公実録」は「高虎の行動は、天下の形勢からみて、家康が天下を治めるに一番ふさわしい人物と考えたためである」と述べています(④)。家康も高虎を信頼していました。関ヶ原の戦いの前、上杉攻めから西上するとき、高虎は黒田長政・福島正則らの先発隊に入り、家康との連絡役を務めました。この戦いでは小早川秀秋の寝返りが有名ですが、高虎も、同郷(近江)の大名(脇坂安治・小川祐忠ら)の内応工作を担当したのです(①)。

脇坂安治肖像画、龍野神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関ヶ原後、高虎は伊予半国・20万石の大大名になりました。ところが、それまでの伊予は6つの大名によって分割されていて、負けた方が没落して、2つの大名に機械的に振り分けられたため、双方の領域は国内で入り乱れる結果になりました。そのもう一つの大名とは、因縁の加藤嘉明です(①③)。
・藤堂高虎(宇和郡など8万石)→20万石
・加藤嘉明(久米・温泉など10万石)→20万石
・小川祐忠(今治府中7万石)→西軍から東軍に寝返ったが領地没収
・安国寺恵瓊(和気郡6万石)→西軍参加により処刑
・来島康親(来島など1.4万石)→西軍参加により改易
・池田高祐(喜多郡1.2万石)→西軍参加により改易

高虎は、新たに得た東予地域の支配のため、そこにある国分山城を拠点にしようとしました。この地は古くは伊予の国府があり、その城は村上武吉が築城したと言われ、福島正則や前領主の小川祐忠も入っていました。ところが、その地域でさえ加藤氏と折半していたため、加藤氏も目と鼻の先に拠点・拝志城を築城するのです。そのような場所では領地全体の統治は難しく、芸予諸島の監視や水運の活用という面でも新しい拠点が必要と考えたのでしょう。それが今治城だったのです(①④、下記補足4)。

(補足4)国府の城は河野家代々の城地であったが、地勢要害で公の心にかなわなかったので、これを神君に報告して国府の城を廃し、今治に新城を築いてゆくゆくは居城にしようと石畳・堀溝・矩縄などに心を砕いた。というのも、今治の地は越智郡の海辺で、北は蒼海、東に国府川が流れ、西南は曠野にて平原の地である。海陸の通達が自在で、九州の通船はこの沖を漕がなければ船行することができない。(「公室年譜略」現代語訳は③より)

今治周辺の地図

今治城、何がすごい?

今治城が築かれる今治平野には、古くから国府があり、中世には「今治津」という港もありました。その港があっと考えられる川(浅川、あさかわ)と蒼社川(そうじゃがわ)に挟まれた砂浜に城が築かれました(⑤)。今治城の別名「吹揚城(ふきあげじょう)」は「砂が吹き揚げられてできた砂浜」に築かれた城という意味です。城は、1602年(慶長7年)から2年間かけて築かれました。

「正保今治城絵図(複製)」、城の右側が浅川、左側が蒼社川(今治城天守内にて展示)

今治城は「日本三大海城」の一つと言われています(あとの2つは高松城、中津城、別バターンもあり)。その名にふさわしく、三重の堀に囲まれ、海水が引かれました。以前の港の機能も引き継ぎ、城内の中堀北側に船入(港)が設けられました。中堀の内側は上級武士の屋敷地となりました。その内側の内堀は幅が54メートル(30間)もあります(④⑤)。

高松城
中津城

城の中心部は、シンプルな方形の本丸と二の丸が組み合わされていて、高虎築城術の特徴の一つです(③)。これによって、御殿の敷地が確保され、ある程度の人数も収容できます。シンプルな形の分、防御力が弱そうに見えますが、広い内堀の他、曲輪を高石垣とその上に建てられた櫓群で囲みました。もと砂浜だった土地の地盤を安定させるために、石垣のベースに「犬走り」とよばれるテラスが作られました。ここは城が攻められたときにも、楯を立てて防御に使われることになっていました(④)。石垣は自然石などを積む野面積みで、高虎の出身地・近江の「穴太衆」にちなむと考えられます(④)。更に出入口の門は、枡形構造で防御力を高めました。その先には角馬出しを付属させ、反撃能力も備えています(①)。

今治城の高石垣と櫓群
犬走りと野面積みの石垣
鉄御門の枡形、現地説明パネルより

また城のシンボルである天守も、新しい型式が今治城で導入されたと言われています。その天守(五重)は、本丸の中央に独立して築かれたと考えられています(①③)。そしてその形式とは層塔型天守です。それまでの天守は望楼型で、入母屋屋根を持つ主殿建築の上に望楼を乗せた複合建造物でした。構造的に弱く、使い勝手も悪かったのです。層塔型は、多層塔のような外観で、上層になるに従い徐々に狭くなる階を積み上げていきます。規格化された部材を組み上げるもので、構造的に強く、シンプルなので工期も短く、費用も安く済んだのです。天守台を方形に作れる技術の進歩も関係していました。城郭の中心は御殿に移っていくので、時代の流れにも沿っていました(①④)。

現在の今治城本丸(吹揚神社)
望楼型天守の例(犬山城)
層塔型天守の例(島原城)

しかしその天守は短期間で、移築されてしまいます。高虎が伊勢・伊賀に転封になったとき(1608年、慶長13年)、移動先の伊賀上野城に移すつもりが、天下普請で築かれることになった丹波亀山城の天守として幕府に献上することになったというのです。家康は大喜びだったそうです(③、下記補足5)。残念ながら今治城ではこの天守の痕跡は残っていないようです。天守台の石材も一緒に運ばれてしまったと考えられます。想定として、本丸の中央に独立天守として建てられたのではないかという意見があります(③)。

(補足5)亀山に御城普請あり。しかるところに、高虎公が今治の殿主を破壊して大坂につけ置くところの良材あり。高虎公の兼ねての御心中には、伊賀上野の殿主に組み建つべしと御用意ありけるところに、亀山の城郭が専なるによりて駿府へ仰せ上られけるは、幸いに今治の殿主は大坂にあり。この殿閣をそのままにして、丹州亀山に造立すべしと望ませたまう。大御所公は御喜悦の上意にて、高虎公にこれを任す(「高山公言行録」)

亀山城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この今治城の築城プランは、後の高虎自身の城や、幕府が主導する天下普請の城にも引き継がれました。例として、丹波篠山城、伊勢津城などが挙げられるでしょう(③)。層塔型天守の採用も、江戸城・大坂城などの天守の先駆けになりました(①)。今治城は、高虎築城術だけでなく、日本城郭史の画期になったのです。

篠山城の縄張り図、現地説明パネルより
江戸城寛永天守の模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示

その後の高虎と今治城

高虎の伊勢・伊賀への移動は、家康による大坂包囲網形成に連動していました。これは、豊臣氏や恩顧の西国大名を監視するために作られた城郭ネットワークです。高虎と姫路城の池田氏は豊臣恩顧であっても、積極的に包囲網作りに協力したのです。懸念のある大名はその範囲外に移動になりました。幕府の本城・江戸城拡張にも甲良大工の動員や石材の切り出しなどで貢献しました。また、江戸城(龍口)と駿府城(大手門正面)のすぐ近くに藩邸を与えられ、家康と密接な連絡を取っていました。その藩邸には度々「御成」もありました。家康の臨終に当たっては、高虎は来世での奉公を誓い、宗派替え(日蓮宗→天台宗)を行い、家康は有事の際は高虎を先鋒とするよう指示したそうです。後継ぎの徳川秀忠・家光にも信頼され、1620年(元和6年)の秀忠の娘・和子(まさこ)の入内には、朝廷との交渉役を務めました。その後は幕閣のような、西国大名の取次役をこなし、1630年(寛永7年)に75歳で亡くなりました(①)。

姫路城
徳川和子(東福門院)肖像画、光雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ちなみに、加藤嘉明とはどうなったかというと、1627年(寛永4年)会津藩・蒲生氏が改易になった時、その後釜として、高虎は自分の替わりに(高齢が理由)喜明を幕府に推挙したのです。喜明は大変感謝し、和解したそうです(④)。

今治城はどうなったかというと、高虎転封後は養子の高吉が今治城を預かりました(高虎22万石のうち2万石)。高吉(生年:1579年~没年:1670年)は、織田信長の重臣・丹羽長秀の三男として生まれ、豊臣秀長の養子になったのが、秀吉の甥・秀保が取って代わったため、高虎の養子にスライドしたのです(1587年)。ところが、1601年(慶長6年)、高虎46歳にして待望の嫡男・高次が生まれたため、微妙な立場になってしまいました。高虎は高吉に領地を分け与えるつもりでしたが、高虎が亡くなると、高次はそれを阻止し、高吉を家臣にしたのです。1635年(寛永12年)高吉は伊勢国に転封になり、最終的に名張陣屋に落ち着きました(名張藤堂家として存続、石高2万石)(④)。

藤堂高次肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後に、幕末まで今治藩主・城主になったのは久松松平氏でした。家康の母・於大が、家康を生んだ後に嫁いだのが久松氏でした。よって、於大が久松家で生んだ定勝も松平氏を名乗りました。今治に来たのは定勝の五男・定房で、石高は3万石でした。兄(次男)の定行もとなりの松山藩の藩主(15万石)になっています。彼らは家康の異父弟に当たるので、幕府から信頼されたのです。親藩大名として、四国大名の監視を期待されたのでしょう。明治維新のときの藩主は10代・定法(さだのり)でした。廃藩置県(1871年)により城は廃城になり、建物は撤去、堀も徐々に埋められていきました。しかし城内と城下町の港が、港湾都市・今治の発展の基礎になりました。

松平定勝肖像画、今治城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平定法 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク・参考資料

①「ミネルヴァ日本評伝選 藤堂高虎/藤田達夫著」ミネルヴァ書房
② 五目ひじき
③「図説・日本の城郭シリーズ④ 築城の名手・藤堂高虎/福井健二」戒光祥出版
④「今治城の謎/土井中照著」メイドインしまなみ事務局
⑤「海と高虎-瀬戸内が育んだ今治の歴史-」高虎サミットin今治実行委員会

「今治城 その2」に続きます。

71. 福山城 その2

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

福山駅福山城口
二の丸の高石垣

ところで、その石垣の周りに堀は見られません。堀はみんな埋められてしまったのです。この駅前の広場(北口広場)が内堀の名残となっています。

広場では、内張が水辺として再現されています

駅近なので いきなり本丸へ

それでは、内堀を乗り越えるつもりで、二の丸の石垣沿いを歩いてみましょう。石垣の石が変色していますが、これは第二次世界大戦での空襲の火災で焼けた痕なのだそうです。歩いてみると、迫力を感じます。現代のビルにも負けていない感じです。

二の丸石垣

現代に作られた石段を登っていくと、どっしりとした伏見櫓が急に現れます。空襲を生き延びた現存建物の一つで、国の重要文化財に指定されています。その前は伏見城にあったことを示す刻印(「松ノ丸ノ東やくら」)も発見されています。つまり、言い伝えだけでなく、証明されているわけです。伏見城は3代あって、この櫓は3代目のものだろうと言われていますが、転用材が多く、地震の跡急拵えした2代目のものではないかという意見もあります(愛媛大学社会共創学部紀要「福山城伏見櫓に関する考察」)。

伏見櫓

先に進むと、これも現存している、本丸の正門・筋鉄御門(すじがねごもん、国の重要文化財)が控えています。敵だったら、伏見櫓と挟まれて、攻撃されそうです。こちらも伏見城から移されたと言われていて、名前の通り、その扉は筋金入りなのです。さすが本丸の正門だけのことはあります。

筋鉄御門
筋金入りの扉

本丸に入ると、伏見御殿跡があります。これも伏見城からの移築とされています。天守が向こうに見えます。

伏見御殿跡
外観復元天守

本丸には、もう一つ、現存建物があって、それが鐘櫓(かねやぐら、福山市重要文化財)です。「時の鐘」として城下に時間を知らせていたのですが、今でも自動で鳴っているそうです。

鐘櫓

二の丸を歩いてみよう

今度は、本丸下の二の丸をぐるりと歩いて、天守の裏側と本丸の搦手門(棗門)に回り込んでみます。まずは本丸の、復元された御湯殿を見上げてみましょう。これも元は伏見城からの移築と言われています。蒸し風呂(サウナ)と、せりだした座敷(物見の間)のセットになっています。ただし、時代によって間取りは異なっていたようです。本丸側からでは正直よくわからなかったのですが、二の丸側から見ると目立ちます。こういう造りを「懸け造り」といって、城郭建築では珍しい事例です。

御湯殿(二の丸側)
御湯殿(本丸側)

次に進むと、角のところに櫓が見えます。外観復元された月見櫓で、現在は貸会場や、   「キャッスルステイ」の宿泊場所になっているそうです。城も多角化の時代です。

月見櫓

角を曲がって見えるのが、もう一つの外観復元された「鏡櫓」です。現在は「文書館」として使われています。

鏡櫓

更に進むと、公園の入口がまたあります。「東側階段ルート」で、北側や南側より緩やかになっています。現代になって 作られた通路です。

東側階段ルート

その脇には別の入口もあります。こちらが城のオリジナルの門跡です(東上り楯門跡)。ただし、本丸に直通はしていません。せっかくなので、こちらに進みましょう。

東上り楯門跡

そして、二の丸を回り込むと、外観復元天守の北側が見えるところに至り、黒い鉄板張りの面がよく見えます。この鉄板張りは、北側の防御のためとも、風雨への備えとも言われています。オリジナル天守の資料を参考に、現在の天守リニューアル(2022年)のときに復元されました。

外観復元天守(北側鉄板張り)
オリジナル天守の北側鉄板張りの古写真、現地説明パネルより

その先の、本丸搦手門(棗門)を通って行けば、天守の表側に到着します。

搦手門付近から見た天守

天守の中は歴史博物館になっていて、外観と一緒にリニューアルされました。水野勝成の放浪時代についての展示もあります(撮影できる範囲は限られています)。

天守内部の展示の一例
水野勝成のコーナー

最上階からは街を展望できます。南側は先ほど見学した本丸です。次は、北側に向かってみます。

天守からの眺め(東側)
天守からの眺め(南側)
天守からの眺め(北側)
天守からの眺め(北側)

城の弱点? 北側を歩く

これから、城の北側が弱点ということで、幕末に長州軍が大砲を放ったという、円照寺がある山に行ってみます。その途中では、長州軍と福山城兵が戦った場所という赤門や、水野勝成が上水道の水を溜めるために作った蓮池を、見学するといいと思います。

赤門、福山市HPより引用
蓮池

円照寺の標柱があるところから登っていきます。

山への登り口

寺の入口がありますが、まだ登り道が続きます。

円照寺入口

上の方は神社になっています(本庄八幡神社)。

本庄八幡神社

境内の奥の方が開けています。

境内の脇に進みます

この辺が頂上のようです。城は見えるでしょうか。

頂上付近

なんとか見えました、ツートンカラーの天守です。

円照寺山から見える天守

福山の歴史スポット巡り(関連史跡)

鞆の浦

最初の関連史跡として、鞆の浦(鞆ノ津)に来てみました。鞆の浦のシンボルとして常夜灯が有名です。また、古い町並みが残っていることでも知られています。

常夜灯
古い町並み

史跡としては、江戸時代に港として使われた、5つのアイテム(常夜灯、雁木、波止、船番所、焚場)が残っていることがとても貴重なのです。常夜灯は、そのうちの一つです。

雁木
波止
船番所
焚場(たでば、ドッグのような施設)

こちらは、鞆城跡です、江戸時代には奉行所が置かれていました。今は、歴史民俗資料館の敷地になっています。やはりここはいい場所で、鞆の浦全体を見渡すことができます。

鞆城跡
鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡からの眺め

おすすめは、朝鮮通信使が宿泊した場所の一つ、福禅寺です。境内の対潮楼からの景色は「日本で一番美しい景勝地(日東第一形勝)」として賞賛されました。柱が額縁みたいで、絵になる風景です。

福禅寺
対潮楼からの眺め

草戸千軒

次のスポットは、中世の港町・草戸千軒跡です。ここは、近くにある明王院です。背景の五重塔・本堂は、鎌倉・室町時代に建てられたもので、国宝に指定されています。草戸千軒の町と同じ頃から存在していました。当時は常福寺といって、草戸千軒はその門前町でもあったそうです。

明王院

町は、ここから見える芦田川の中州あたりにありました。当時、川は別の所を流れていて、町は三角州の上にあったようです。環境の変化(自然及び社会)によって町が消滅し、伝説的存在になっていましたが、芦田川の改修作業中に遺跡が見つかり、発掘されたのです。幻の町が発見されたのです。でも、川の中の遺跡には行けません。

草戸千軒町遺跡

そこで、現地で発掘されたものや、研究の成果が、福山城近くの広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)で展示されています。

広島県立歴史博物館
発掘・展示されている遺物(貯蔵用の陶器)
発掘・展示されている遺物(建築部材の一つ、壁木舞)
発掘・展示されている遺物(舶来磁器)
発掘・展示されている遺物(信仰に関するもの)

それらを基に、復原された町並みを歩いてみることもできます。草戸千軒は地域の港町だったので、こういう町がいろんな所にあったのでしょう。

復原された町並み

神辺城

最後は、神辺城跡です。福山城の前にあった城です。黄葉山(こうようざん)という山の上に築かれましたが、近くに神辺歴史民俗資料館があって、山頂近くまで車で上がってくることができます。

神辺歴史民俗資料館
資料館の駐車場

さっそく城跡に進みましょう。山道をまっすぐ進むと、鬼門櫓跡に着きます。景色がよくて、周辺一帯を見渡すことができます。このあたりは、備後国分寺が置かれるなど、古代から栄えた場所だったのです。

鬼門櫓跡
備後国分寺の模型、神辺歴史民俗資料館にて展示

それでは、本丸に向かいましょう。今は曲輪の敷地が残っているだけです。しかし福島正則の領地だったときには、石垣の上に神辺一番櫓(天守)がありました。福山城築城時に石垣と一緒に移されたのです。福山城にその跡があります。神辺城本丸の回りには、わずかながら石垣が残っています。

本丸
福山城に移された神辺一番櫓の古写真、福山城現地説明パネルより
福山城の神辺一番櫓跡
神辺城本丸周りに残る石垣

本丸下には段状に曲輪が続いています。それぞれに「二番櫓」「三番櫓」「四番櫓」があって、これらも福山城に移されました。山の上にこんなに櫓が並んでいたのです。

本丸下に続く曲輪群
神辺城の二番櫓跡
福山城の神辺二番櫓跡
神辺城想像図、現地説明パネルより

こちら側の景色もいいです。この城は、この辺りでは最適の拠点だったことがわかります。

三番櫓跡からの眺め

私の感想

神辺城を見てから再認識したのですが、福山城は、ただ新しいお城として作られたのではなく、新しい町と土地を開発するために築かれたのではないでしょうか。現地に行って感じることがとても大事だと、改めて思いました。

ライトアップされた伏見櫓
ライトアップされた御湯殿
ライトアップされた天守

リンク、参考情報

・福山城博物館
・広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)
・福山の郷土史、大和建設株式会社
・御湯殿の変遷について、備後歴史訪訪倶楽部
・「放浪武者 水野勝成/森本繁著」洋泉社
・「初代刈谷藩主 水野勝成展」刈谷市歴史博物館
・「中世瀬戸内の港町 草戸千軒町遺跡 改訂版/鈴木康之著」新泉社
・「新版 福山城」福山市文化財協会
・「シリーズ藩物語 福山藩/八幡浩二著」現代書館
・「阿部正弘/後藤敦史著」戎光祥選書ソレイユ
・「青年宰相 阿部正方」福山城博物館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「史跡福山城跡整備基本計画」2020年10月28日 福山市教育委員会
・「福山城伏見櫓に関する考察/佐藤大規氏論文」愛媛大学社会共創学部紀要第7巻第2号

「福山城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

error: Content is protected !!