78.丸亀城 歴史編

丸亀城といえば、丸ごと石垣に覆われた山の上に、現存12天守の一つが乗っているといったイメージがあると思います。実際、標高66mの亀山に、4段の石垣があわせて約60mの高さに積まれています。「高さ日本一の石垣」「石垣の名城」と称されています。

イントロダクション

丸亀城といえば、丸ごと石垣に覆われた山の上に、現存12天守の一つが乗っているといったイメージがあると思います。実際、標高66mの亀山に、4段の石垣があわせて約60mの高さに積まれています。「高さ日本一の石垣」「石垣の名城」と称されています。(段落全体下記①を参考、以下番号のみ記載)

丸亀城の高石垣と天守

最初にこの城を本格的に築いたのは、豊臣大名の生駒氏ですが、その当時の痕跡はほとんど残っていないのです。現在目にする高石垣は、生駒氏の後に城主になった山崎家治が築き始めたものです。山崎家治は、大大名ではなく、全国的にはあまり知られていませんが、統治能力に優れ、「築城の名手」でもあったのです。そんな隠れた功労者の足跡を追ってみる必要がありそうです。

その後、京極氏が丸亀藩を受け継ぎ、城を完成させます。そして、現代まで高石垣と天守などは残されました。2018年、豪雨・台風の影響により、南西側の三の丸・帯曲輪の石垣が大規模に崩落しました。そのこと自体は大変痛ましいことで、」現在(2026年10月)も復旧に向けて工事が進められています。しかしその中で、高石垣に関する新たな事実も判明したのです。今回は、丸亀城の歴史とともに、高石垣の「ひみつ」についても迫ってみたいと思います。

石垣復旧工事現場

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(丸亀城、日本一の石垣のひみつ)

生駒氏による丸亀築城

丸亀城がある讃岐平野(丸亀平野)は、ほとんど起伏がない平野ですが、ところどころ孤立した山地や丘陵地があります。これらは「おむすび山」と呼ばれ、太古の火山活動と浸食により形作られました。「讃岐富士」と呼ばれる飯野山(いいのやま、標高422m)がその代表です。城が築かれた亀山も同じようなプロセスでできたと考えられますが、標高はずっと低かったので、かえって築城の適地とされたのかもしれません、(②③)

城周辺の起伏地図

丸岡城から見える「讃岐富士」こと飯野山

丸亀城の前身は、室町・戦国期に細川氏の家臣・奈良氏が支城として築いたと言われています。。しかし本格的な築城は、1587年(天正15年)に生駒親正が讃岐国の大名になってからです。1597年(慶長2年)から5年かけて、親正とその子・一正が築いたのが丸亀城です。親正は本城・高松城、一正が支城・丸亀城に入りました。1602年(慶長7年)に一正が跡を継いで高松城に移りました。丸亀城には子の正俊が入ったと考えられます(一時城代が置かれた)。1610年(慶長15年)に正俊が跡を継ぎ、高松城に移りますが、その代に丸亀から商人を移して、高松の「丸亀町(まるがめまち)」を作ったとされています。(段落全体②④)

城の位置

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
生駒一正肖像画、龍源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

生駒時代の丸亀城については、絵図が残されています(「諸国居城図 讃州丸亀」、丸亀市立資料館展示)。それによると、山上には4段の曲輪があり、天守は現在の本丸北端ではなく、真ん中の方にありました。また、現在はないものとして、山上と麓をつなぐ2つの登り石垣が設けられています。これは、生駒氏が参陣した朝鮮侵攻のときに現地で築かれた倭城の縄張りから取り入れたのかもしれません。(②④⑤)

「諸国居城図 讃州丸亀」(上が北側)、丸亀市立資料館展示

残念ながら生駒期の遺構はほとんど残っていません。本丸で見つかった埋没石垣のほか、東南山麓に残っている野面積みの古風な石垣は、元は生駒時代に築かれたと考えられるものの、多く(基底部分以外)は江戸時代以降に積み直されたものとのことです。(②④)

東南山麓の野面積み石垣

生駒氏3代目の正俊は大坂の陣に出陣しますが、豊臣氏滅亡後の一国一城令により、丸亀城は一旦廃城になったと考えられます。1627年(寛永4年)の幕府隠密の記録(「讃岐伊予土佐阿波探索書」)に丸亀城の記述はなく、1633年(寛永10年)頃の讃岐国絵図に丸亀城は描かれていません。(以上②④⑤⑮)やがて4代目の高俊のとき、藩内での内部対立「生駒騒動」が起こり、生駒氏は改易となってしまいました(1640年、寛永17年)。丸亀城は廃城になったまま、次の主を迎えることになります。

隠れた「築城の名手」山崎家治

山崎氏は近江出身で、家治の祖父(片家)の代に豊臣秀吉によって大名に取り立てられました。父の家盛は因幡国若桜藩主になり、家治はその2代目でした。父を継いだ直後の大坂の陣で戦功を上げ、備中国成羽(なりわ)藩に加増転封になりました(1617年、元和3年、3→3.5万石)。そこから彼は幕府に忠勤を尽し、大いに評価されることになるのです(下記)。藩内においても新田開発を進めました。
・1619年:備後三原城城番(福島氏改易時)
・1620~27年:大坂城石垣修築(現在も天守入口右下石垣に刻印あり、⑮)
・1634年:伊予松山城城番(蒲生氏改易時)
・1636年:江戸城外堀石垣普請
そのとき築かれた江戸城外堀の石垣は、小石川後楽園に移設されていて、山崎家の刻印とともに見学することができます。
(段落全体⑥⑯)

小石川後楽園西側築地塀
山崎家の刻印

島原の乱後には、幕府から天草地方の復興を託され、肥後富岡藩に転封になりました(1638年、寛永15年、4.2万石)。実際、領地はかなり荒廃していました(総高の4分の1近く、そのため幕府が補償として銀三百貫目を家治に与えている)。家治は富岡城の再建、城下町の整備(海の埋立、町割り)を行いました。しかし、農民の逃亡や流行病が発生、奉公人も集まらず、かなり苦労したようです。(段落全体⑰)

富岡城(photoACより)

1641年(寛永18年)家治は、西讃岐5万3千石の領主になりました(丸亀藩)。当時そこには城はなかったので、丸亀城を再興することにしました。幕府は家治に対し、銀300貫を提供し、参勤交代も免除、城の構造は幕府の指図に従うよう指示しました。(下記補足1、以上②④⑦)こうして現在までに残る「石垣の名城」の建設が始まったのです。この時期の大規模な築城は異例で、山崎氏は財力のある大大名でもなく、幕府のバックアップによるものでした(⑧)。また、石垣を築いたのは、羽坂重三郎と伝えられています(⑮)。このような築城の狙いとしては、瀬戸内海の交通の監視のほか、島原の乱後のキリシタン蜂起に備えるものであったとも言われます(⑨)。家治は城下町の拡大、新田開発も進めました(⑮)。

(補足1)
猶以差上候木形絵図之外
城普請無用候 以上

丸亀城取立候ニ付而(丸亀城取立候について、)
銀三百貫目被下之候(銀三百貫目これを下され候、) 
則大坂御金奉行衆江(すなわち大坂御金奉行衆え、)
添状相調越候間可被(添状相調え越候間受け取らるべく候、)
請取候然者差当普請(然れば差し当たり普請の外は、)
之外者以連々可申付之旨(連々以て申しつくべきの旨)
被仰出候因茲当年(仰せいだされ候、因って当年)
参勤之儀被成御赦置候間(参勤の儀は御赦し置きなされ候間、)
可被得其意候 恐々謹言(其意を得られ可く候、恐々謹言)
 二月六日
     阿部對馬守 重次(花押)
     阿部豊後守 忠秋(花押)
     松平伊豆守 信綱(花押)
山崎甲斐守殿
(寛永20年2月6日 幕府老中連署状、山崎家文書)

山崎家治宛て幕府老中連署状、丸亀市立資料館にて展示

藩が1645年(正保2年)に幕府に提出した絵図(「正保城絵図」)によると、既に現在の縄張と似たものになっています。天守は本丸北側にあり、これが現存する天守につながると考えられます。違っている所としては、登り石垣がまだあります(一例)。(以上④⑦)それからこの時点では工事はまだまだ進行中で、例えば、三の丸南西の坤櫓の石垣は描かれていません。

「讃岐国丸亀絵図」(「正保城絵図」、上が北側)、出展:国立公文書館
上記絵図の三の丸南西、坤櫓部分

その石垣は、その4年後(1649年、慶安2年)に家治の跡継ぎ・山崎俊家に対して修築許可が出ているので、その間に築いたものが破損していたことがわかります(下記補足2)。1657年(明暦3年)頃の山崎時代の丸亀城郭図を見ると、その櫓と石垣は完成しています。(以上⑤➉)

(補足2)
 以上
圓亀之城三丸坤之(丸亀の城の三の丸坤の)
角石垣破損付而(角の石垣破損について、)
同所之櫓毀之石垣(同所の櫓の壊れた石垣の)
築直之櫓立之事(築き直し、櫓立てること、)
幷親父甲斐守代(並びに親甲斐守家治が)
伺 上意候普請之(上意を伺ってあった)
所々之内石垣櫓門(所々の普請の内、石垣・櫓門)
多門山下之屋敷(・多門・山下の屋敷構えの)
構之石垣等同東南(石垣等、同じく東南の)
之方堀浚之事(堀浚えの事、)
絵図之通得其意候(絵図のとおり其意を得候、)
最前被守奉書之(もっとも前の奉書の趣を守られ、)
旨普請以連々(普請連々以て)
可被申付候恐々(申し付けられ可く候、)
謹言

慶安二丑
正月廿三日
  阿部豊後守 忠秋(花押)
  阿部對馬守 重次(花押)
  松平伊豆守 信綱(花押)
山崎志摩守殿
(慶安2年正月23日 幕府老中連署状、山崎家文書)

山崎俊家宛て幕府老中連署状、丸亀市立資料館にて展示
山崎時代の丸亀城郭図(上が北側)、丸亀市立資料館展示
上記絵図の三の丸南西、坤櫓部分

その間、初代の家治(1648年、慶安元年)2代目の俊家(1651年、慶安5年)が亡くなり、その後を3歳で継いだ治頼まで8歳で亡くなっていました(1657年、明暦3年)。築城工事はずっと続いていたものの、城主の山崎氏が世継ぎがないことで改易になってしまったのです。(段落全体⑦)

京極氏による城の完成

1658年(万治元年)、播磨国龍野から京極高和が6万(余)石で丸亀に入りました。高和は幕府の許可を得て改修を続け(補足3)、1660年(万治3年)に天守を完成させたとされています。天守は現在は単独で立っていますが、当時は渡櫓によって他の櫓(姫櫓など)と連結されていました。(段落全体②⑤)

(補足3)
円亀城、此の以前、山崎甲斐守木形絵図を以て、先御代(家光)の上意を得、普請申し付け候処、山上の櫓六か所、山下の櫓四か所は、櫓台の石垣これを築き、櫓建の事、山上東の方の石垣、山下居屋敷廻りの石垣、同三か所の虎口石垣築の事、其外多門塀立の事、未首尾につき普請これ有り度きの由承り届け候、次に、山下の塀艮より坤迄の間埋候、同惣構の堀北方の外三方埋候に付て、浚えの事、絵図書付の通り、其意を得候、連々以て普請申し付らる可く候、恐々謹言
 万治三子三月二十六日
  稲葉美濃守 (花押)
  阿部豊後守 (花押)
  松平伊豆守 (花押)
  酒井雅樂頭 (花押)
京極刑部少輔殿
(慶安3年3月26日 幕府老中連署状、丸亀市立資料館蔵)

京極高知肖像画、丸亀市立資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現存天守
天守模型(右側は姫櫓)、中津万象園にて展示

2代目の高豊のときの1670年(寛文10年)城の大手を北に定め、門や枡形を整備しました。この大手門は現存しています。この時代に城と城下町がほぼ完成しました。城は、最高所に本丸、東に一段下がったところに二の丸があり、石垣上の建物が連結していました。更に三の丸・帯曲輪が取り巻き、それらを支える石垣は3~4段に巡っていました。京極氏の統治は幕末まで7代続きます。(段落全体②⑤)

大手門
丸亀城木図写真、丸亀市立資料館にて展示

藩主の居館は京極氏時代に山麓に建てられましたが(⑮)、高豊は1688年(貞享4年)藩主別邸と庭園を造りました。これが「中津万象園」です。京極氏の出身地である近江の琵琶湖をかたどった池があり、近江八景になぞらえた8つの島を配置しています。1500本以上の老松も見事です。(以上⑦)

中津万象園

城下町は生駒・山崎・京極時代を通じて拡張しました。江戸中期から流行した金毘羅信仰により、丸亀は金刀比羅宮に向かう参詣客の寄港地として大変賑わいました。参詣客の増加に伴い港も整備されました。新しい船着き場として、1806年(文化3年)に福島湛甫が、1833年(天保4年)に新堀湛甫(しんぼりたんぽ)が構築されました。このうち新堀湛甫は現在も港として使われていて、照明・目印のために建てられた3基の青銅製燈籠のうち1基が残っています(2基は戦中に回収)。(以上⑦⑮)

金毘羅講燈籠

1859年、安政6年9月、長岡藩士の河井継之助は、金刀比羅宮へ向かう途中、丸亀に立ち寄り、その様子を記しています。(下記補足4)

(補足4)少し寝ると思いしに、はや丸亀へ着く。暁七ツ前の由。晴故に、月星照りかがやきて、風景妙なり。十里の海上、早きには感心のものなり。丸亀の船宿へ入りけれども、出来合い飯もなき様子故、支度を直して直ちに出懸ける。
廿日 晴 早き故、月はあれども、しかと湊の様子も分からず、城を左にして金毘羅さして行ける、丸亀は高の割より、城市共に宜敷様に思わる。此の辺は相応に土地も開け、左に讃岐富士、小さき山なれども形は好、先に見る江州のぬかで山に能く似たる山なり。其の外、形の好き小山数々あり。砂糖の草、往来に植えけるを見るに、黍に似たりと聞けれども、すすきの穂なきものの様なり。莖を取りて拵える由。(中略)金毘羅の手前五六町此の方にて、日漸く出。新たに見る所故か、風景面白く覚ゆ。さすがの街道、路幅も広く、所々に堂ありて、茶をわかす処あり、其の前に必ず石籠あり。(河井継之助旅日記「塵壺」、現地河井継之助顕彰碑より)

新堀湛甫にある河井継之助顕彰碑
丸亀市内の金毘羅街道沿いに残る石燈籠

その後(明らかになった高石垣の真実)

明治維新後、城は陸軍の管轄となり(1872年、明治6年~)、建物は取り壊されていきました。それでも、天守・大手門などが地元の要望により残されました。1919年(大正8年)には山上部が亀山公園となり公開されました。戦後は、公園整備が進み、天守・大手門が国の重要文化財に、内堀以内が国の史跡に指定されています。(段落全体②⑤⑧)

2018年(平成30年)7月から10月にかけて、大雨や台風の影響により、丸亀城南西部の帯曲輪・三の丸石垣が崩落しました。それまでも変形が激しく、解体修理を行うことになっていた箇所でした。もともと谷地形であり、築城当初から雨水が集まりやすい場所で、クラック(亀裂)が発生していました。豪雨により水圧が上がり、帯曲輪がまず崩落、押さえを失った三の丸も崩落したのです。(②⑪)

崩落前の写真、現地説明パネルより
崩落後の写真、現地説明パネルより

丸亀市は更なる崩落を防ぐため、応急対策工事(押え盛土、斜面安定、石垣撤去、表面排水)を行い、グランドアンカーなどで斜面を固定させながら、1万2千個近く(11,746個)の石垣の石を回収しました(解体含む、以上⑪)。これらはそのまま使える石、別の場所に使う「転用石材」に分類され、「新石材」とともに石垣復旧工事に使われます。(以上⑫)

解体回収された隅石
出番を待つ新石材

その工事のための準備・調査の中で見つかったのが埋没石垣です。その一部(「埋没石垣1」)は、山崎氏時代に一旦築いた後に崩れた石垣である可能性が高いとのことです。また、石垣を安定させる「栗端止(ぐりはと)」「敷金(しきがね)」「胴木(どうぎ)」といった仕組みや部材が使われていることがわかりました。(以上⑤➉)胴木は通常湿潤な環境で使われるので、当時から水が集まる場所と認識されていたと考えられます。江戸時代から苦労していたのでしょう。

埋没石垣1

そして何よりも大きな発見は、帯曲輪石垣の内側にある三の丸坤櫓跡の石垣の高さがわかったことです。それまで、三の丸の石垣は帯曲輪石垣の天辺辺りから立ち上がり、17mくらいの高さだと想定されていました。それが今回、石垣取外しの結果、31mもの高さと判明したのです。これは単独の石垣としては、日本で2番目の高さになります。(下記補足4、以上⑬)丸亀城を再興した山崎家治は、1位の大坂城の石垣工事にも参加しています。また「築城の名手」として家治より有名な藤堂高虎は、3位の伊賀上野城を築き、大坂城では縄張り・石垣工事に関わっています。両者とも「築城の名手」というにふさわしいのではないでしょうか。

(補足4)近世城郭の単独石垣高ランキング
・1位:徳川大坂城本丸東側 32m
・2位:丸亀城三の丸坤櫓台 31m
・3位:伊賀上野城本丸東側 30m

三の丸坤櫓石垣の高さがわかる展示、丸亀城石垣崩落復旧整備事業PR館にて展示

これまで全国で実施された石垣修理工事では、30mを超える石垣を修復した実績はなく、未知の経験を含む復旧工事になります(⑬)。2026年(令和8年)現在、三の丸石垣の基礎工事が行われ、年度中に帯曲輪・三の丸石垣の途中(標高それぞれ22m、26m)まで積み上げる予定です。(⑭)復旧工事の完了は2030年度末(2031年3月)とのことです。(①)

復旧工事現場

リンク、参考情報

① 丸亀城、丸亀市公式ホームページ
②「史跡丸亀城跡保存活用計画」令和3年3月 丸亀市
③ おむすび山の秘密、ビジネス香川
④「四国の名城を歩く 徳島・香川編」吉川弘文館
⑤ 丸亀市立資料館展示
⑥ Wikipedia
⑦「いにしえのときを刻む丸亀城」丸亀市観光協会
⑧ 丸亀城石垣崩落復旧整備事業PR館での説明
⑨「幕府に遠慮しながらも大きく見せたい「丸亀城」天守の涙ぐましさ──世界とつながっている日本の城 第12回」 
➉「丸亀城管理室だより(No.5・11・13)」丸亀城文化財保存活用課
⑪「丸亀城管理室だより(No.12・17・19)」丸亀城文化財保存活用課
⑫ 丸亀城石垣復旧工事パンフレット
⑬「丸亀城管理室だより(No.15)」丸亀城文化財保存活用課
⑭「丸亀城管理室だより(No.24)」丸亀城文化財保存活用課
⑮「新編 丸亀市史」
⑯「成羽町史」
⑰「苓北町史」

「丸亀城 現地編」に続きます。

79.今治城 その2

今回は、港をスタート地点にして、今治城に入城しましょう。そうすれば、海城らしさを感じられると思います。城の中心部分は、現在の天守がメインになりますが、当時の痕跡も探してみましょう。その後が、高虎築城術の神髄で、再建された櫓群を巡ってみます。最後は、内堀の外側を歩いてみます。今残っている範囲で、高虎築城術を感じられそうです。

イントロダクション

今治港に来ています。港湾都市らしく、立派な建物があります。海城を感じてみたいので、最初に来てみました。船がいるところに移動すると、ヨットなどが並んでいます。実は、ここはもう今治城内だったのです。中堀の船入だったところが、港の一部になっているのです。さすが今治です。しかも、残っている内堀は、こちらから取水しているのです。ここをカギ型で曲がる道路も、城の名残りのような感じです。天守も見えます。

みなと交流センター「はーばりー」
今治港
港から内堀への取水口
振り返ると天守が見えます

今回は、港をスタート地点にして、今治城に入城しましょう。そうすれば、海城らしさを感じられると思います。城の中心部分は、現在の天守がメインになりますが、当時の痕跡も探してみましょう。その後が、高虎築城術の神髄で、再建された櫓群を巡ってみます。最後は、内堀の外側を歩いてみます。今残っている範囲で、高虎築城術を感じられそうです。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴・見どころ(海城と高虎築城術を感じるツアー)

海城を感じつつ入城

城周辺の航空写真

まず、道路を気を付けて渡ってから、内堀への水路を追ってみましょう。

内堀への水路

今治城に出ました。やはり、広い堀に城の姿が映えています。内堀には、魚も放流されているそうです。

水路から出たところ
内堀に浮かんでいるような今治城
「魚放流」の看板

それでは城の入口に向かいましょう。ずいぶん長い橋を渡ります。内堀を渡る土橋です。その手前の場所は、その土橋に接続された馬出しでした。その馬出しには、両側に枡形が備えられていました。今は何気ない城の入口が、そんな厳重な場所だったなんて、信じられません。

城の入口(土橋の前)

土橋を渡りましょう。渡っている間には、内堀と石垣を支える犬走りが見えます。

内堀と犬走りに支えられた石垣

復元された鉄御門(くろがねごもん)の枡形に入っていきます。枡形なので、手前に高麗門もあったのですが、ここは車も通りますので、そこまで復元しなかったのかもしれません。

鉄御門の枡形
枡形についての現地説明パネル
車も通ります

それでも、迫力は十分ですし、正面に巨石がはめこまれています。これは「勘兵衛石」といい、重さ約16トン、名称は築城の奉行を務めたと言われる渡辺勘兵衛にちなみます。こんなすごい枡形が、かつてはいくつもあったのでしょう。正面右側の鉄門(櫓門)から枡形を出ましょう。枡形を出ても、まだ別の櫓に囲まれています。こちらも復元された、武具櫓です。油断がなりません。中に入っていくと、天守が現れました。

勘兵衛石
鉄門(櫓門)
武具櫓
天守が見えてきました

現代の天守と当時の痕跡

現在ある天守は、1980年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。位置はかつての北隅櫓の位置にあり、形も層塔型でなく、望楼型風です。よって、天守の分類としては「模擬天守」に分類されています。それでも城のシンボルになっています。城の中のビューポイントは、天守だけではありません。藤堂高虎の像も立てられました。甲冑姿ではありませんが、これもいいと思います。絵になる取り合わせです。

天守と藤堂高虎公像

しかし、それ以外は中はなにもない感じです。現在は本丸周辺に神社と模擬天守がある以外は広場になっていて、当時を物語るものは、この環境で真水が出たという「蒼吹の井」くらいでしょうか。

現地案内図
蒼吹の井

ただ、もともと城の中心部は3つの方形の曲輪を組み合わせたシンプルなもので、天守がなくなってからは、二の丸に御殿があるのが目立つくらいだったようです。3つの曲輪には仕切りがありました。

城中心部の模型(今治城天守内にて展示)

それを覚えておいて、天守に向かいましょう。すると、仕切りのような石垣が残っています。本丸の入口手前の石垣のようです。ということは、現代の天守への門は、本来は本丸の門だったのでしょう。門を入ると折れ曲がって、枡形風になっています。そして、本丸には現在は吹揚神社がありますが、かつては天守があったと考えられます。かつての姿をチェックできたので、現代の天守に入ります。

天守に向かいます
仕切りの石垣の一部か
本丸御門跡
本丸にある吹揚神社

天守の入口1階は、観覧券売場と売店になります。2階から上は歴史博物館になっています。藤堂高虎コーナーも、城の絵図などもあります。「徳川家康の盃」というのも展示されていますが、藤堂氏の後の久松松平氏が家康の親戚ということで、伝来したのでしょう。

天守入口
藤堂高虎展示コーナー
「正保今治城絵図(複製)」
徳川家康の盃

最上階6階は、お約束の展望台です。どんな景色が見えるのでしょう。まず、北側です。前回行った来島海峡や、今回のスタート地点の今治港が見えます。

天守から北側の眺め

東の方はどうでしょうか。瀬戸内海の島々が見えます。

天守から東側の眺め

続けて南側です。四国の山々が見えます。高虎が当初拠点にしようとした国府山城は、真ん中辺りの小山のようです。

天守から南側の眺め

西側の眺めは、主に市街地になります。堀の広さが目立ちます。元あった天守からも、こんな眺めだったのでしょうか。現代の天守も、十分楽しみました。

天守から西側の眺め

櫓に見る高虎築城術

ここからは、再建された櫓群を巡りながら、高虎築城術を探ります。

城周辺の地図

最初は、御金櫓(おかねやぐら)です。金蔵だったのでその名前になったそうです。「東隅櫓」とも呼ばれました。現在の建物は、1985年に鉄筋コンクリート造りで外観復元されています。中は、現代美術館として使われています。

御金櫓
御金櫓(内部)

以下が外側の外観ですが、隅を守る重要な櫓なので、二階には大砲用の窓(大狭間)も設けられていました(山里櫓・武具櫓にもあり)。

御金櫓(外側外観)、大狭間は二階の下部

次は、山里櫓です。こちらも1990年に外観復元されたのですが、木造です。中は古美術館になっています。

山里櫓
山里櫓(内部)
山里櫓(外側外観)、手前は山里門

そして、最後に是非行っていただきたいのが、山里櫓から塀づたいに進んだ先の、鉄御門と武具櫓です。2つの建物は、再建時期や建て方は違うのですが、(武具櫓:1980年鉄筋コンクリート造外観復元、鉄門:2007年木造復元)中が多聞櫓でずっとつながっていて、高虎築城術でどうお城を守っていたか、わかりやすい展示になっているのです。

正面が武具櫓入口、右側が鉄御門
内部案内図
武具櫓(外側外観)

武具櫓から入っていきましょう。中から内堀などが見えたり、鉄御門の模型が展示してあったりします。鉄御門の方に進みましょう。

武具櫓(内部)
鉄御門の模型があります

鉄御門の中では、兵士のフィギアによって防御方法の展示があります。石落としなどです。また、格子窓からは勘兵衛石が見えます。

鉄御門(内部)
石落としの展示
勘兵衛石が見えます

回り込んでいくと何が見えるでしょうか。城の入口の土橋が見えます。

回り込んだところにもフィギアがいます
入口の土橋が見えます

更に回り込んでいくと、鉄御門が見えます。つまり、枡形を多聞櫓が取り囲んでいるのです。

鉄砲兵のフィギア
鉄御門が見えます

櫓はまだまだ続いていて、土橋を渡る敵を側面攻撃できるようになっていました。水も漏らさぬ防衛態勢です。

土橋を斜めからうかがえます

海の続き!内堀を歩く

内堀を見学するのに、裏門の山里門から出ていくことにします。まず、山里櫓とセットになっている山里櫓門です。

山里櫓門

階段を下るときに見上げる天守もかっこいいです。城の現役時代には北隅櫓があったので、そこからにらみをきかせたのでしょう。

階段を下りながら天守を見上げます

折り返した先にまた門があるのです。山里門(高麗門)です。これも枡形の一種でしょうか。橋を渡ると、隠居屋敷・庭園があった「山里」です。

山里門

振り返ると、以下のように見えます。裏門とは言え、抜かりはないようです。

裏門の防御態勢

少し移動して、内堀の堀端にきました。城の曲輪ががへこんでいる部分なので、堀がすごく広く見えます。ここからずっと歩いていきましょう。

内堀端(西側)

本丸の裏側が見えます。左から西隅櫓、南隅櫓がありました。

本丸裏側

南の隅に来ました。櫓がなくても迫力があります。まるで堀に浮かぶ要塞のようです。遠巻きから石垣と犬走りも観察しましょう。

内堀南隅から見た今治城
石垣と犬走りが目立ちます

東側に向かっていきます。先ほど見学した御金櫓が見えてきました。こうやって見ていると、こちらから鉄砲や矢を放っても、まともに届かないように感じます。逆に、城からは高さがあるので、そこから放つ鉄砲や矢は有効なのでしょう(石垣の高さ9~13m、堀の幅約50m)。高虎はそんなことも計算して、このお城を作ったのではないでしょうか。それこそが高虎築城術かもしれません。

御金櫓(東隅櫓)のところまできました

最終コーナーを回ります。正面の、鉄御門が見えてきました。

御金櫓のところを回り込みます
正面入口に戻ってきました

リンク、参考情報(追加分)

・「よみがえる日本の城10」学研

「今治城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

79.今治城 その1

今治と言えば、やはり今治城が思い当たります。そして今治城を築いたのが、加藤清正・黒田官兵衛と並ぶ築城の名手、藤堂高虎です。藤堂高虎と言えば、何度も主君を変えた武将としても知られていますが、その分、築城にかかわった城も多いのです。その中で今治城は、高虎の築城術が確立した金字塔とも言える存在だと思います。そこで今回は、藤堂高虎の武将人生を辿りながら、今治城築城までに至った経緯、今治城の特徴、そしてその後の今治城をご紹介します。

イントロダクション

前回は、能島城跡の島に上陸し、来島城跡を望む来島海峡まで来ました。これらの史跡は現在では愛媛県今治市域に当たります。今治と言えば、やはり今治城が思い当たります。そして今治城を築いたのが、加藤清正・黒田官兵衛と並ぶ築城の名手、藤堂高虎です。藤堂高虎と言えば、何度も主君を変えた武将としても知られていますが、その分、築城にかかわった城も多いのです。その中で今治城は、高虎の築城術が確立した金字塔とも言える存在だと思います。そこで今回は、藤堂高虎の武将人生を辿りながら、今治城築城までに至った経緯、今治城の特徴、そしてその後の今治城をご紹介します。

来島海峡
今治市域(地図素材サイト「マップイット」より)
今治城

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(藤堂高虎築城術の金字塔・今治城の歴史)

高虎の出世街道

藤堂高虎は1556年(弘治2年)、近江国犬上郡甲良荘藤堂村に生まれました(生年1556年~没年1630年)。藤堂氏は、公家の広橋氏に仕えてきた有力領主でした。また、当時の近江国は築城が盛んな国で(観音寺城・小谷城など)、近くには大工で有名な甲良家の存在がありました。こういった環境が後の高虎のコネクションや仕事に関わったものと思われます(参考資料①②より、以下番号のみ記載)。高虎自身の覚書などを基にした藩の記録類(「高山公実録」など)によれば、彼は幼少期から大柄、怪力で、成人後は身長約190センチ(六尺二寸)、体重は百キロを超えていたと言われます。当時の男子平均身長が約150センチなので「大巨人」のように見えたでしょう。母親(妙清院・とら)や子(高次)も大柄だったとのことです(①)。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そんな高虎は、その恵まれた体格をもって大名に仕官し、戦功を上げますが、主君に恵まれない不遇の時代が続きました(①③、下記補足1)。
1.浅井氏(15歳、1570年~17歳、1572年)
 姉川の戦い・小谷城籠城戦などに参戦、同僚と喧嘩・成敗して出奔
2.阿閉氏(~18歳、1573年)
 「らう(牢)人分」として仕官、同僚を成敗したため出奔
3.磯野氏(~20歳、1575年?)
 織田信長に降伏した磯野員昌(佐和山城主)に仕官、80石を拝領
4。織田氏(~21歳、1576年)
 佐和山城主になった信長の甥、信澄に仕官、戦功を上げたが80石のままだったのでまた浪人に
最初の頃は、高虎自身も相当荒くれ者だったように感じます。

(補足1)織田・浅井両将の軍、姉川の辺で合戦。浅井氏は敗北し、居城の小谷に退く。白雲君(虎高)は浅井家に従いてこの役に出陣。公(高虎)は志学の齢といえども、父君に伴なって姉川に赴き、この日、敵の首一級を得る。敗軍の武功はことに難しい(「親筆留書」)

江戸時代の浮世絵に描かれた磯野員昌 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして21歳のとき、5人目の主君として豊臣秀長に300石で仕官してから、運が開けてくるのです。そのとき秀長は、兄の秀吉とともに播州三木城攻めを行っていました(①、下記補足2)。秀長は並行して但馬国(兵庫県北部)の平定も行っていて、竹田城を本拠として、拠点城郭を整備しました。その中に有子山城があって、そこに築かれた高石垣は高虎が関与した可能性があります(①)。そうであれば、戦そのものだけでなく、築城という分野にもかかわっていたのです。その後は、天下統一にまい進する秀吉・秀長の下で出世街道を進みます(④)。
・1581年:3300石(但馬一揆をおさめた功)
・1583年:4600石(賤ヶ岳の戦いの功)
・1585年:紀伊国粉河1万石(紀州攻めの功)
・1587年:2万石(丹羽長秀の子、高吉を養子とする)

(補足2)やまと大納言殿へ御出成なされ、播州三木の城主別所小三郎・しやてい弐人、あき(安芸)のもり(毛利)ニしたかひ、秀吉公をそむき申し付けて、御おしよせ成され候処ニ(「藤堂家覚書」)

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
有子山城本丸の石垣

高虎が、秀長の重臣時代に築いた城の例としては、赤木城が挙げられます。1585年(天正13年)、秀吉・秀長は紀州攻めを行い、紀伊国は秀長の領地になりますが、その後も反抗する一揆勢を抑え込むために、高虎が築城したとされています(③、下記補足3)。コンパクトですが、技巧に富んだ総石垣の城で、高虎流築城の原点ともいえる城です(③)。

(補足3)吉野郡赤木というところに、高虎君が取り立て御座した城跡がある。今、ここに野長瀬某の末孫がいる。当時は高弐万石ほどの郷士であった。この者も高虎君に敵して戦死した(「高山公実録」のうち「累世記事」)

赤木城の石垣
赤木城の縄張り、現地説明パネルより

やがて徳川家康が秀吉に臣従すると、高虎は家康の京都屋敷建築の奉行になりました。高虎は、渡された設計図には警固に難点があるとして、独断で設計を変更しました。家康がこのことを尋ねると、高虎は「天下の武将である家康様に不慮のことがあれば、主人である秀長の不行届き、関白様の御面目にかかわると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興の節は御容赦なくお手討ちください」と答えました。家康は心遣いに感謝し、後の両者のきずなにつながったとのことです(③)。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小田原合戦後に秀長がなくなると、高虎は、秀長の養子・秀保に後見人として仕えました。朝鮮侵攻のときの、肥前名護屋の秀保の陣屋は、諸大名の中で最も大きいものでしたが、これも高虎が築いたと言われています(③)。高虎自身も水軍の大将の一人として朝鮮に渡ったのですが、1595年(文禄4年)秀保が17歳で亡くなると、秀長以来の大和豊臣家は断絶となりました。そこで高虎がとった行動は、主君の死を悼み、高野山に行って出家しようとしたことだったのです(①)。主家を断絶させた秀吉への反発だったのではという意見もあるそうです(③)。

豊臣秀保、「義烈百人一首」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
朝鮮侵攻に使われた安宅船の模型(名護屋城博物館にて展示)

独立大名になってから今治城築城まで

高虎の才能を惜しんだ秀吉は、使者を2回、高虎に派遣しました。2回目に派遣したのは、高虎と親しかった生駒親正(孫の正俊の正室が高虎の娘)で、その説得の結果、高虎は秀吉に仕えることになりました。後に高虎は、生駒高松藩の幼君・高俊の後見役になっています(①)。

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高虎は、伊予板島7万石の独立大名になりました。板島城に入城し、城を天守・石垣を備える近世城郭に改修しました。これが宇和島城になります。高虎が築いた天守が初代、現存する天守は2代目です。そして引き続き水軍大将として慶長の役にも参陣します。しかしこのとき、戦功をめぐって同じ伊予の大名・加藤嘉明といさかいを起こしました。関山沖の勝利の功労者は高虎であるという武将たちに対して、嘉明は自分が一番功労者であると言い張ったのです。「自分で武功を誇るより、同僚たちの意見を聞いたらどうだ」と反発したのです(④)。その朝鮮での戦功で、1万石加増となり、新領地で大洲城の改修も行いました。

宇和島城
右が高虎が築いた天守、現地説明パネルより
加藤嘉明肖像画、藤栄神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉が没すると、高虎は徳川家康に接近します。秀吉に恩義があるのにどうして豊臣に身を捧げなかったのかという批判がありますが、高虎の年譜「高山公実録」は「高虎の行動は、天下の形勢からみて、家康が天下を治めるに一番ふさわしい人物と考えたためである」と述べています(④)。家康も高虎を信頼していました。関ヶ原の戦いの前、上杉攻めから西上するとき、高虎は黒田長政・福島正則らの先発隊に入り、家康との連絡役を務めました。この戦いでは小早川秀秋の寝返りが有名ですが、高虎も、同郷(近江)の大名(脇坂安治・小川祐忠ら)の内応工作を担当したのです(①)。

脇坂安治肖像画、龍野神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関ヶ原後、高虎は伊予半国・20万石の大大名になりました。ところが、それまでの伊予は6つの大名によって分割されていて、負けた方が没落して、2つの大名に機械的に振り分けられたため、双方の領域は国内で入り乱れる結果になりました。そのもう一つの大名とは、因縁の加藤嘉明です(①③)。
・藤堂高虎(宇和郡など8万石)→20万石
・加藤嘉明(久米・温泉など10万石)→20万石
・小川祐忠(今治府中7万石)→西軍から東軍に寝返ったが領地没収
・安国寺恵瓊(和気郡6万石)→西軍参加により処刑
・来島康親(来島など1.4万石)→西軍参加により改易
・池田高祐(喜多郡1.2万石)→西軍参加により改易

高虎は、新たに得た東予地域の支配のため、そこにある国分山城を拠点にしようとしました。この地は古くは伊予の国府があり、その城は村上武吉が築城したと言われ、福島正則や前領主の小川祐忠も入っていました。ところが、その地域でさえ加藤氏と折半していたため、加藤氏も目と鼻の先に拠点・拝志城を築城するのです。そのような場所では領地全体の統治は難しく、芸予諸島の監視や水運の活用という面でも新しい拠点が必要と考えたのでしょう。それが今治城だったのです(①④、下記補足4)。

(補足4)国府の城は河野家代々の城地であったが、地勢要害で公の心にかなわなかったので、これを神君に報告して国府の城を廃し、今治に新城を築いてゆくゆくは居城にしようと石畳・堀溝・矩縄などに心を砕いた。というのも、今治の地は越智郡の海辺で、北は蒼海、東に国府川が流れ、西南は曠野にて平原の地である。海陸の通達が自在で、九州の通船はこの沖を漕がなければ船行することができない。(「公室年譜略」現代語訳は③より)

今治周辺の地図

今治城、何がすごい?

今治城が築かれる今治平野には、古くから国府があり、中世には「今治津」という港もありました。その港があっと考えられる川(浅川、あさかわ)と蒼社川(そうじゃがわ)に挟まれた砂浜に城が築かれました(⑤)。今治城の別名「吹揚城(ふきあげじょう)」は「砂が吹き揚げられてできた砂浜」に築かれた城という意味です。城は、1602年(慶長7年)から2年間かけて築かれました。

「正保今治城絵図(複製)」、城の右側が浅川、左側が蒼社川(今治城天守内にて展示)

今治城は「日本三大海城」の一つと言われています(あとの2つは高松城、中津城、別バターンもあり)。その名にふさわしく、三重の堀に囲まれ、海水が引かれました。以前の港の機能も引き継ぎ、城内の中堀北側に船入(港)が設けられました。中堀の内側は上級武士の屋敷地となりました。その内側の内堀は幅が54メートル(30間)もあります(④⑤)。

高松城
中津城

城の中心部は、シンプルな方形の本丸と二の丸が組み合わされていて、高虎築城術の特徴の一つです(③)。これによって、御殿の敷地が確保され、ある程度の人数も収容できます。シンプルな形の分、防御力が弱そうに見えますが、広い内堀の他、曲輪を高石垣とその上に建てられた櫓群で囲みました。もと砂浜だった土地の地盤を安定させるために、石垣のベースに「犬走り」とよばれるテラスが作られました。ここは城が攻められたときにも、楯を立てて防御に使われることになっていました(④)。石垣は自然石などを積む野面積みで、高虎の出身地・近江の「穴太衆」にちなむと考えられます(④)。更に出入口の門は、枡形構造で防御力を高めました。その先には角馬出しを付属させ、反撃能力も備えています(①)。

今治城の高石垣と櫓群
犬走りと野面積みの石垣
鉄御門の枡形、現地説明パネルより

また城のシンボルである天守も、新しい型式が今治城で導入されたと言われています。その天守(五重)は、本丸の中央に独立して築かれたと考えられています(①③)。そしてその形式とは層塔型天守です。それまでの天守は望楼型で、入母屋屋根を持つ主殿建築の上に望楼を乗せた複合建造物でした。構造的に弱く、使い勝手も悪かったのです。層塔型は、多層塔のような外観で、上層になるに従い徐々に狭くなる階を積み上げていきます。規格化された部材を組み上げるもので、構造的に強く、シンプルなので工期も短く、費用も安く済んだのです。天守台を方形に作れる技術の進歩も関係していました。城郭の中心は御殿に移っていくので、時代の流れにも沿っていました(①④)。

現在の今治城本丸(吹揚神社)
望楼型天守の例(犬山城)
層塔型天守の例(島原城)

しかしその天守は短期間で、移築されてしまいます。高虎が伊勢・伊賀に転封になったとき(1608年、慶長13年)、移動先の伊賀上野城に移すつもりが、天下普請で築かれることになった丹波亀山城の天守として幕府に献上することになったというのです。家康は大喜びだったそうです(③、下記補足5)。残念ながら今治城ではこの天守の痕跡は残っていないようです。天守台の石材も一緒に運ばれてしまったと考えられます。想定として、本丸の中央に独立天守として建てられたのではないかという意見があります(③)。

(補足5)亀山に御城普請あり。しかるところに、高虎公が今治の殿主を破壊して大坂につけ置くところの良材あり。高虎公の兼ねての御心中には、伊賀上野の殿主に組み建つべしと御用意ありけるところに、亀山の城郭が専なるによりて駿府へ仰せ上られけるは、幸いに今治の殿主は大坂にあり。この殿閣をそのままにして、丹州亀山に造立すべしと望ませたまう。大御所公は御喜悦の上意にて、高虎公にこれを任す(「高山公言行録」)

亀山城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この今治城の築城プランは、後の高虎自身の城や、幕府が主導する天下普請の城にも引き継がれました。例として、丹波篠山城、伊勢津城などが挙げられるでしょう(③)。層塔型天守の採用も、江戸城・大坂城などの天守の先駆けになりました(①)。今治城は、高虎築城術だけでなく、日本城郭史の画期になったのです。

篠山城の縄張り図、現地説明パネルより
江戸城寛永天守の模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示

その後の高虎と今治城

高虎の伊勢・伊賀への移動は、家康による大坂包囲網形成に連動していました。これは、豊臣氏や恩顧の西国大名を監視するために作られた城郭ネットワークです。高虎と姫路城の池田氏は豊臣恩顧であっても、積極的に包囲網作りに協力したのです。懸念のある大名はその範囲外に移動になりました。幕府の本城・江戸城拡張にも甲良大工の動員や石材の切り出しなどで貢献しました。また、江戸城(龍口)と駿府城(大手門正面)のすぐ近くに藩邸を与えられ、家康と密接な連絡を取っていました。その藩邸には度々「御成」もありました。家康の臨終に当たっては、高虎は来世での奉公を誓い、宗派替え(日蓮宗→天台宗)を行い、家康は有事の際は高虎を先鋒とするよう指示したそうです。後継ぎの徳川秀忠・家光にも信頼され、1620年(元和6年)の秀忠の娘・和子(まさこ)の入内には、朝廷との交渉役を務めました。その後は幕閣のような、西国大名の取次役をこなし、1630年(寛永7年)に75歳で亡くなりました(①)。

姫路城
徳川和子(東福門院)肖像画、光雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ちなみに、加藤嘉明とはどうなったかというと、1627年(寛永4年)会津藩・蒲生氏が改易になった時、その後釜として、高虎は自分の替わりに(高齢が理由)喜明を幕府に推挙したのです。喜明は大変感謝し、和解したそうです(④)。

今治城はどうなったかというと、高虎転封後は養子の高吉が今治城を預かりました(高虎22万石のうち2万石)。高吉(生年:1579年~没年:1670年)は、織田信長の重臣・丹羽長秀の三男として生まれ、豊臣秀長の養子になったのが、秀吉の甥・秀保が取って代わったため、高虎の養子にスライドしたのです(1587年)。ところが、1601年(慶長6年)、高虎46歳にして待望の嫡男・高次が生まれたため、微妙な立場になってしまいました。高虎は高吉に領地を分け与えるつもりでしたが、高虎が亡くなると、高次はそれを阻止し、高吉を家臣にしたのです。1635年(寛永12年)高吉は伊勢国に転封になり、最終的に名張陣屋に落ち着きました(名張藤堂家として存続、石高2万石)(④)。

藤堂高次肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後に、幕末まで今治藩主・城主になったのは久松松平氏でした。家康の母・於大が、家康を生んだ後に嫁いだのが久松氏でした。よって、於大が久松家で生んだ定勝も松平氏を名乗りました。今治に来たのは定勝の五男・定房で、石高は3万石でした。兄(次男)の定行もとなりの松山藩の藩主(15万石)になっています。彼らは家康の異父弟に当たるので、幕府から信頼されたのです。親藩大名として、四国大名の監視を期待されたのでしょう。明治維新のときの藩主は10代・定法(さだのり)でした。廃藩置県(1871年)により城は廃城になり、建物は撤去、堀も徐々に埋められていきました。しかし城内と城下町の港が、港湾都市・今治の発展の基礎になりました。

松平定勝肖像画、今治城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平定法 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク・参考資料

①「ミネルヴァ日本評伝選 藤堂高虎/藤田達夫著」ミネルヴァ書房
② 五目ひじき
③「図説・日本の城郭シリーズ④ 築城の名手・藤堂高虎/福井健二」戒光祥出版
④「今治城の謎/土井中照著」メイドインしまなみ事務局
⑤「海と高虎-瀬戸内が育んだ今治の歴史-」高虎サミットin今治実行委員会

「今治城 その2」に続きます。

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