79.今治城 その2

今回は、港をスタート地点にして、今治城に入城しましょう。そうすれば、海城らしさを感じられると思います。城の中心部分は、現在の天守がメインになりますが、当時の痕跡も探してみましょう。その後が、高虎築城術の神髄で、再建された櫓群を巡ってみます。最後は、内堀の外側を歩いてみます。今残っている範囲で、高虎築城術を感じられそうです。

イントロダクション

今治港に来ています。港湾都市らしく、立派な建物があります。海城を感じてみたいので、最初に来てみました。船がいるところに移動すると、ヨットなどが並んでいます。実は、ここはもう今治城内だったのです。中堀の船入だったところが、港の一部になっているのです。さすが今治です。しかも、残っている内堀は、こちらから取水しているのです。ここをカギ型で曲がる道路も、城の名残りのような感じです。天守も見えます。

みなと交流センター「はーばりー」
今治港
港から内堀への取水口
振り返ると天守が見えます

今回は、港をスタート地点にして、今治城に入城しましょう。そうすれば、海城らしさを感じられると思います。城の中心部分は、現在の天守がメインになりますが、当時の痕跡も探してみましょう。その後が、高虎築城術の神髄で、再建された櫓群を巡ってみます。最後は、内堀の外側を歩いてみます。今残っている範囲で、高虎築城術を感じられそうです。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴・見どころ(海城と高虎築城術を感じるツアー)

海城を感じつつ入城

城周辺の航空写真

まず、道路を気を付けて渡ってから、内堀への水路を追ってみましょう。

内堀への水路

今治城に出ました。やはり、広い堀に城の姿が映えています。内堀には、魚も放流されているそうです。

水路から出たところ
内堀に浮かんでいるような今治城
「魚放流」の看板

それでは城の入口に向かいましょう。ずいぶん長い橋を渡ります。内堀を渡る土橋です。その手前の場所は、その土橋に接続された馬出しでした。その馬出しには、両側に枡形が備えられていました。今は何気ない城の入口が、そんな厳重な場所だったなんて、信じられません。

城の入口(土橋の前)

土橋を渡りましょう。渡っている間には、内堀と石垣を支える犬走りが見えます。

内堀と犬走りに支えられた石垣

復元された鉄御門(くろがねごもん)の枡形に入っていきます。枡形なので、手前に高麗門もあったのですが、ここは車も通りますので、そこまで復元しなかったのかもしれません。

鉄御門の枡形
枡形についての現地説明パネル
車も通ります

それでも、迫力は十分ですし、正面に巨石がはめこまれています。これは「勘兵衛石」といい、重さ約16トン、名称は築城の奉行を務めたと言われる渡辺勘兵衛にちなみます。こんなすごい枡形が、かつてはいくつもあったのでしょう。正面右側の鉄門(櫓門)から枡形を出ましょう。枡形を出ても、まだ別の櫓に囲まれています。こちらも復元された、武具櫓です。油断がなりません。中に入っていくと、天守が現れました。

勘兵衛石
鉄門(櫓門)
武具櫓
天守が見えてきました

現代の天守と当時の痕跡

現在ある天守は、1980年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。位置はかつての北隅櫓の位置にあり、形も層塔型でなく、望楼型風です。よって、天守の分類としては「模擬天守」に分類されています。それでも城のシンボルになっています。城の中のビューポイントは、天守だけではありません。藤堂高虎の像も立てられました。甲冑姿ではありませんが、これもいいと思います。絵になる取り合わせです。

天守と藤堂高虎公像

しかし、それ以外は中はなにもない感じです。現在は本丸周辺に神社と模擬天守がある以外は広場になっていて、当時を物語るものは、この環境で真水が出たという「蒼吹の井」くらいでしょうか。

現地案内図
蒼吹の井

ただ、もともと城の中心部は3つの方形の曲輪を組み合わせたシンプルなもので、天守がなくなってからは、二の丸に御殿があるのが目立つくらいだったようです。3つの曲輪には仕切りがありました。

城中心部の模型(今治城天守内にて展示)

それを覚えておいて、天守に向かいましょう。すると、仕切りのような石垣が残っています。本丸の入口手前の石垣のようです。ということは、現代の天守への門は、本来は本丸の門だったのでしょう。門を入ると折れ曲がって、枡形風になっています。そして、本丸には現在は吹揚神社がありますが、かつては天守があったと考えられます。かつての姿をチェックできたので、現代の天守に入ります。

天守に向かいます
仕切りの石垣の一部か
本丸御門跡
本丸にある吹揚神社

天守の入口1階は、観覧券売場と売店になります。2階から上は歴史博物館になっています。藤堂高虎コーナーも、城の絵図などもあります。「徳川家康の盃」というのも展示されていますが、藤堂氏の後の久松松平氏が家康の親戚ということで、伝来したのでしょう。

天守入口
藤堂高虎展示コーナー
「正保今治城絵図(複製)」
徳川家康の盃

最上階6階は、お約束の展望台です。どんな景色が見えるのでしょう。まず、北側です。前回行った来島海峡や、今回のスタート地点の今治港が見えます。

天守から北側の眺め

東の方はどうでしょうか。瀬戸内海の島々が見えます。

天守から東側の眺め

続けて南側です。四国の山々が見えます。高虎が当初拠点にしようとした国府山城は、真ん中辺りの小山のようです。

天守から南側の眺め

西側の眺めは、主に市街地になります。堀の広さが目立ちます。元あった天守からも、こんな眺めだったのでしょうか。現代の天守も、十分楽しみました。

天守から西側の眺め

櫓に見る高虎築城術

ここからは、再建された櫓群を巡りながら、高虎築城術を探ります。

城周辺の地図

最初は、御金櫓(おかねやぐら)です。金蔵だったのでその名前になったそうです。「東隅櫓」とも呼ばれました。現在の建物は、1985年に鉄筋コンクリート造りで外観復元されています。中は、現代美術館として使われています。

御金櫓
御金櫓(内部)

以下が外側の外観ですが、隅を守る重要な櫓なので、二階には大砲用の窓(大狭間)も設けられていました(山里櫓・武具櫓にもあり)。

御金櫓(外側外観)、大狭間は二階の下部

次は、山里櫓です。こちらも1990年に外観復元されたのですが、木造です。中は古美術館になっています。

山里櫓
山里櫓(内部)
山里櫓(外側外観)、手前は山里門

そして、最後に是非行っていただきたいのが、山里櫓から塀づたいに進んだ先の、鉄御門と武具櫓です。2つの建物は、再建時期や建て方は違うのですが、(武具櫓:1980年鉄筋コンクリート造外観復元、鉄門:2007年木造復元)中が多聞櫓でずっとつながっていて、高虎築城術でどうお城を守っていたか、わかりやすい展示になっているのです。

正面が武具櫓入口、右側が鉄御門
内部案内図
武具櫓(外側外観)

武具櫓から入っていきましょう。中から内堀などが見えたり、鉄御門の模型が展示してあったりします。鉄御門の方に進みましょう。

武具櫓(内部)
鉄御門の模型があります

鉄御門の中では、兵士のフィギアによって防御方法の展示があります。石落としなどです。また、格子窓からは勘兵衛石が見えます。

鉄御門(内部)
石落としの展示
勘兵衛石が見えます

回り込んでいくと何が見えるでしょうか。城の入口の土橋が見えます。

回り込んだところにもフィギアがいます
入口の土橋が見えます

更に回り込んでいくと、鉄御門が見えます。つまり、枡形を多聞櫓が取り囲んでいるのです。

鉄砲兵のフィギア
鉄御門が見えます

櫓はまだまだ続いていて、土橋を渡る敵を側面攻撃できるようになっていました。水も漏らさぬ防衛態勢です。

土橋を斜めからうかがえます

海の続き!内堀を歩く

内堀を見学するのに、裏門の山里門から出ていくことにします。まず、山里櫓とセットになっている山里櫓門です。

山里櫓門

階段を下るときに見上げる天守もかっこいいです。城の現役時代には北隅櫓があったので、そこからにらみをきかせたのでしょう。

階段を下りながら天守を見上げます

折り返した先にまた門があるのです。山里門(高麗門)です。これも枡形の一種でしょうか。橋を渡ると、隠居屋敷・庭園があった「山里」です。

山里門

振り返ると、以下のように見えます。裏門とは言え、抜かりはないようです。

裏門の防御態勢

少し移動して、内堀の堀端にきました。城の曲輪ががへこんでいる部分なので、堀がすごく広く見えます。ここからずっと歩いていきましょう。

内堀端(西側)

本丸の裏側が見えます。左から西隅櫓、南隅櫓がありました。

本丸裏側

南の隅に来ました。櫓がなくても迫力があります。まるで堀に浮かぶ要塞のようです。遠巻きから石垣と犬走りも観察しましょう。

内堀南隅から見た今治城
石垣と犬走りが目立ちます

東側に向かっていきます。先ほど見学した御金櫓が見えてきました。こうやって見ていると、こちらから鉄砲や矢を放っても、まともに届かないように感じます。逆に、城からは高さがあるので、そこから放つ鉄砲や矢は有効なのでしょう(石垣の高さ9~13m、堀の幅約50m)。高虎はそんなことも計算して、このお城を作ったのではないでしょうか。それこそが高虎築城術かもしれません。

御金櫓(東隅櫓)のところまできました

最終コーナーを回ります。正面の、鉄御門が見えてきました。

御金櫓のところを回り込みます
正面入口に戻ってきました

リンク、参考情報(追加分)

・「よみがえる日本の城10」学研

「今治城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

191.中津城 その3

中津市が石垣を積み直す際、古い石を新しいものに交換しようと考えていました。その石垣が城のオリジナルであると思っていなかったからです。

特徴、見どころ

本丸内のたくさんの神社

本丸には、中津神社、中津大神宮、奥平神社などたくさんの神社があります。その中でも興味深い存在が城井神社で、この城の中で孝高の息子、黒田長政に殺された地場の戦国大名であった城井鎮房(きいしげふさ)を祀っています。言い伝えによれば、長政は鎮房の恨みによる亡霊に苦しめられ、自身の行為を後悔してこの神社を創設したとのことです。

本丸周辺の地図

中津神社
中津大神宮
奥平神社(左側)
城井神社(中津耶馬渓観光協会ホームページより引用)
城井鎮房肖像画、天徳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三の丸と二の丸

三の丸は本丸のとなりにありますが、現在では市街地となっています。ここには城の中心部に向かうための大手門の跡があります。城があったときに本丸の椎木門に至るためには、もう一つの門(黒門)も通っていく必要がありました。現代の住宅街の合い間に、大手門の立派な石垣の一部が残っています。

城周辺の地図

現在の三の丸
大手門の石垣、手前が黒田時代のもので、奥の方は細川時代に桝形空間を作るために増築されました
かつてはこのようになっていました、現地説明版より(白枠内が残存部分)

本丸の向こう隣りの場所、二の丸は公園になっていて、武家屋敷跡の礎石がいくらか残っています。

二の丸公園
武家屋敷跡

福沢諭吉旧居

他のお勧めの場所は、二の丸の東方約1kmのところにある福沢諭吉の旧居でしょう。福沢は16歳のときにこの家を買い、19歳のときまで住んでいました。彼は中津藩の下級武士階級出身であるので、この家屋は当時の下級武士が住んでいた家屋の一例と言えるでしょう。この家屋はよくメンテナンスされていて、例えば茅葺の屋根は、角材によって下から支えられています。土蔵造りの倉庫も残っていて、ここの2階で福沢が勉強していたそうです。

福沢諭吉旧居
家の内部
支えられている茅葺屋根
福沢が勉強していた土蔵

その後

明治維新後、中津城は廃城となり、本丸の御殿を除く全ての城の建物は撤去されました。御殿はしばらくは役所として使われましたが、1877年に西南戦争が起こったときにその混乱の中で焼け落ちてしまいました。その後、城跡は神社の敷地として使われたり、1964年には模擬天守が建てられました。この城跡に関する最近のトピックは、2002年に中津市の組織内で、川沿いの反対側にある本丸石垣を修理する際に論争があったことです。担当部署は、石垣を積み直す際、古い石を新しいものに交換しようと考えていました。その石垣が城のオリジナルであると思っていなかったからです。その工事がまさに行われようとしたとき、文化財部門が石垣はオリジナルではないか、そうであれば保存されるべきだと言ってきたのです。調査の結果、石垣は黒田孝高が最初に城を築いた当時のものだと判明し、古い石をそのまま使って積み直されました。中津市は、この石垣は九州地方で最も古い現存石垣であると言っています。

オリジナルの石を使って修繕された石垣

私の感想

現在の中津城を訪れてみて、最初は少々違和感を覚えました。そこにはオリジナルのものもあれば、模擬天守や神社のような後の時代に加えられたものが多く混在していたからです。しかし、この城や中津の先人の歴史を学んでみると、これらの文物は城や遺跡をいかに維持していこうとする彼らの努力の結果だということがわかりました。また、継続的に利益を出す必要がある民間企業にとって、城の建物を経営していくのは大変なことだということも理解できました。もし中津市周辺を旅行されるのであれば、中津城に寄ってあげてほしいです。

川岸から見た模擬天守

ここに行くには

車で行く場合:中津日田道路の定留(さだのみ)ICから約15分かかります。公園周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR中津駅から歩いて約15分かかります。
東京または大阪から中津駅まで:飛行機で大分空港に行って、そこから高速バスで大分駅に行き、日豊本線の列車に乗ってください。

本丸脇の駐車場

リンク、参考情報

中津城公式ホームページ
中津城(奥平家歴史資料館)、中津耶馬渓観光協会
破壊の危機からうまれたもの -中津市の事例-、文化遺産の世界
・「人物叢書315 黒田孝高/中野等著」吉川弘文館
・「シリーズ藩物語 中津藩/三谷紘平著」現代書館
・「歴史群像123号、戦国の城 豊前中津城」学研
・「よみがえる日本の城20」学研
・「日本の城改訂版第14号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「中津城その1」に戻ります。
「中津城その2」に戻ります。

191.中津城 その2

一般的には新しい石垣はより加工された石を使います。ところが、中津城の石垣の場合は真逆のように見えるのです。

特徴、見どころ

民営となっている模擬天守

現在、中津城跡は「中津城公園」という観光地として整備されています。そのように言う理由は、城跡の本丸石垣の角に、大変よく目立つ五層の天守があるからです。しかし、これは模擬天守であり、元はオリジナルの他の櫓があった場所に建てられたものです。以前城主であった奥平家が経営していた会社が、観光振興のために建設したのです。その経緯によりこの天守では、奥平家歴史資料館として奥平氏が支配した中津藩の歴史を主に展示しています。しかし赤字運営のために、奥平家は天守を他の民間会社に売却しました。現在の中津城は、唯一の民間経営の城とされていて、現地では民間企業らしくお客を呼び込む従業員の姿が見られるかもしれません。もし、城の創立者である黒田孝高のことをより知りたければ、天守の手前にあって、中津市が運営している黒田官兵衛資料館に行ってみてはいかがでしょう。

中津城の模擬天守
模擬天守の入口側
天守(奥平家歴史資料館)の中の様子
展望台から見える中津川の眺め
黒田官兵衛資料館の展示の一部

黒田時代と細川時代の石垣が共存

城に関する歴史的遺物は、石垣や水堀など、主に本丸にあります。本丸北側の石垣を見てみると、石垣は右側の古い部分と左側の新しい部分に分かれています。古い部分のかつては角であった継ぎ目がはっきりと見て取れます。一般的には新しい石垣はより加工された石を使います。ところが、中津城の石垣の場合は真逆のように見えるのです。左側の新しい石垣の石は自然石で、右側の古い石垣の石は前者よりずっと加工されているのです。その理由は、創始者の黒田孝高が新しい城の建設を急ぐために、近くにある古代山城の唐原山城(とばるさんじょう)の石を運んできて使ったからだそうです。

城周辺の航空写真

左側が細川時代の新しい石垣、右側が黒田時代の古い石垣
天守の石垣は細川時代のものか?

本丸は今でも中津川沿いに位置していますが、その間は遊歩道があるコンクリートの護岸壁となっています。川と城を一緒に眺めながら遊歩道を歩いてみるのもよいでしょう。古代山城にあった石を使って築かれた石垣が、川沿いに並んでいます。この石垣の上に建物を築くことで、川の方から見た城の見栄えが良くなるようにしていたと思われます。しかし今ではその石垣の上に現代の住居や神社の建物があって、面白いコントラストとなっています。本丸の端には水門の石垣があって、過去には城と川が直接つながっていたことがわかります。

川沿いの遊歩道へ
川沿いに残る黒田時代の石垣
この石垣台の上に天守のような大櫓があったかもしれないようです
石垣の一部には現代住宅が乗っかっています
水門跡の石垣 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)

川の反対側には、孝高が最初に築いた別のタイプの石垣があります。この石垣は長く伸びていますが、そんなに高くはありませんし、細川氏の時代に使われていたものより小さな自然石を使って築かれています。最近になって手前にある水堀と一緒に修繕されて、その周りを歩いてみることができます。

川と反対側にある石垣と堀
向かい側には遊歩道と中津市歴史博物館があります

本丸の新旧正門

更には、神社の鳥居がある本丸の正面入口では、その石垣の断面を見ることができます。それは、この入口が明治時代にこの石垣を壊した場所に作られたからで、鳥居は昭和になってから建てられました。

本丸の正面入口
石垣の断面(内部に見える石垣が黒田時代のもので、細川時代に積み増しているようです)
入口のもう片側の石垣は上半分が撤去されていましたが復元されています

この現在の正面入口の近くには、オリジナルの本丸正門である椎木門(しいきもん)跡があります。この場所は今も石垣に囲まれています。この門の背後には防衛のために別の石垣で囲まれた扇形のスペースがあったのですが、今では一部しか残っていません。

椎木門跡
扇形の石垣のうち残存部分
かつてはこのようになっていました、現地説明版より(赤枠内が残存部分)
今は門の内側は開けています

「中津城その3」に続きます。
「中津城その1」に戻ります。

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