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特徴、見どころ
本丸内のたくさんの神社
本丸には、中津神社、中津大神宮、奥平神社などたくさんの神社があります。その中でも興味深い存在が城井神社で、この城の中で孝高の息子、黒田長政に殺された地場の戦国大名であった城井鎮房(きいしげふさ)を祀っています。言い伝えによれば、長政は鎮房の恨みによる亡霊に苦しめられ、自身の行為を後悔してこの神社を創設したとのことです。
本丸周辺の地図三の丸と二の丸
三の丸は本丸のとなりにありますが、現在では市街地となっています。ここには城の中心部に向かうための大手門の跡があります。城があったときに本丸の椎木門に至るためには、もう一つの門(黒門)も通っていく必要がありました。現代の住宅街の合い間に、大手門の立派な石垣の一部が残っています。
城周辺の地図本丸の向こう隣りの場所、二の丸は公園になっていて、武家屋敷跡の礎石がいくらか残っています。
福沢諭吉旧居
他のお勧めの場所は、二の丸の東方約1kmのところにある福沢諭吉の旧居でしょう。福沢は16歳のときにこの家を買い、19歳のときまで住んでいました。彼は中津藩の下級武士階級出身であるので、この家屋は当時の下級武士が住んでいた家屋の一例と言えるでしょう。この家屋はよくメンテナンスされていて、例えば茅葺の屋根は、角材によって下から支えられています。土蔵造りの倉庫も残っていて、ここの2階で福沢が勉強していたそうです。
その後
明治維新後、中津城は廃城となり、本丸の御殿を除く全ての城の建物は撤去されました。御殿はしばらくは役所として使われましたが、1877年に西南戦争が起こったときにその混乱の中で焼け落ちてしまいました。その後、城跡は神社の敷地として使われたり、1964年には模擬天守が建てられました。この城跡に関する最近のトピックは、2002年に中津市の組織内で、川沿いの反対側にある本丸石垣を修理する際に論争があったことです。担当部署は、石垣を積み直す際、古い石を新しいものに交換しようと考えていました。その石垣が城のオリジナルであると思っていなかったからです。その工事がまさに行われようとしたとき、文化財部門が石垣はオリジナルではないか、そうであれば保存されるべきだと言ってきたのです。調査の結果、石垣は黒田孝高が最初に城を築いた当時のものだと判明し、古い石をそのまま使って積み直されました。中津市は、この石垣は九州地方で最も古い現存石垣であると言っています。
私の感想
現在の中津城を訪れてみて、最初は少々違和感を覚えました。そこにはオリジナルのものもあれば、模擬天守や神社のような後の時代に加えられたものが多く混在していたからです。しかし、この城や中津の先人の歴史を学んでみると、これらの文物は城や遺跡をいかに維持していこうとする彼らの努力の結果だということがわかりました。また、継続的に利益を出す必要がある民間企業にとって、城の建物を経営していくのは大変なことだということも理解できました。もし中津市周辺を旅行されるのであれば、中津城に寄ってあげてほしいです。
ここに行くには
車で行く場合:中津日田道路の定留(さだのみ)ICから約15分かかります。公園周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR中津駅から歩いて約15分かかります。
東京または大阪から中津駅まで:飛行機で大分空港に行って、そこから高速バスで大分駅に行き、日豊本線の列車に乗ってください。
リンク、参考情報
・中津城公式ホームページ
・中津城(奥平家歴史資料館)、中津耶馬渓観光協会
・破壊の危機からうまれたもの -中津市の事例-、文化遺産の世界
・「人物叢書315 黒田孝高/中野等著」吉川弘文館
・「シリーズ藩物語 中津藩/三谷紘平著」現代書館
・「歴史群像123号、戦国の城 豊前中津城」学研
・「よみがえる日本の城20」学研
・「日本の城改訂版第14号」デアゴスティーニジャパン
これで終わります。ありがとうございました。
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