181.小倉城 歴史編

小倉城には、再建された天守がありますが、細川忠興が城の大改修を行ったときに建てたオリジナル天守とは全然違う姿をしています。また、小倉の近くでは有名な「巌流島の決闘」も行われました。しかし有名な謎に包まれているのです。両者の真の姿を追ってみたいと思います。

イントロダクション

今回は、小倉城をご紹介します。前回、明石城をご紹介しましたが、明石城を築いた小笠原忠真が移ってきた先が小倉城だったのです。その際、明石の城や町に関わった宮本武蔵も一緒に移ってきて、小倉にも足跡を残しました。また、明石以前の修行時代には、小倉のすぐ近くで有名な「巌流島の決闘」が行われました。しかし実はこの出来事は、有名な割には謎に包まれているのです。その真の姿はどうだったのかひも解いてみたいと思います。

巌流島にある佐々木小次郎(左)宮本武蔵(右)像

小倉城の方は戦国時代から存在が確かめられていますが、関ヶ原の戦い後に小倉藩藩主となった細川忠興が大改修を行いました。そのときに天守も築かれるのですが、現在、その場所には再建された天守が建っています。しかし実はこの天守も、全然違う姿だったのです。城全体も幕末の動乱、近代以降の開発により、ほとんどが失われてしまっているので、こちらも真の姿を探っていく必要がありそうです。

小倉城の再建天守

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(小倉城と巌流島の決闘、真の姿とは?)

小倉城の築城と大改修

小倉を含む北九州地域は、関門海峡に面し、九州の玄関口として海上交通の要衝でした。小倉には鎌倉時代から城が築かれたという伝承がありますが、同時代の記録があるのは戦国時代からです。1569年(永禄12年)に毛利元就が「小倉津」に「平城」を築き部下(南条勘兵衛尉)に守備させたというものです(下記補足1)当時は北九州をめぐって毛利氏と・大友氏が争っていたのです。(段落全体①②を参考、以下番号のみ記載)

(補足1)永禄十一年戊辰八月上旬、(中略)翌年筑前表可有陣替之由、到芸州註進之、故元就御父子三人、輝元長府江御着陣、警固船数百艘乗浮之、為通路小倉津構平城、伯州南条勘兵衛尉被差籠、在津(1578年、天正6年「宗像大社辺津宮置札」)

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州平定がなされると、秀吉は近習の毛利勝信(もとは森吉成といったが、秀吉の命により改姓)に小倉の地を与えました。勝信は小倉城の改修に着手し、石垣を積み、建物には金箔瓦を載せました。現在も本丸一部に当時の石垣が残り、瓦の一部も見つかっています。ただし城の範囲は、小倉津がある紫川河口の西岸、後の本丸・松の丸・北の丸くらいと考えられています。しかし勝信は、関ヶ原の戦いで西軍に属したので改易になってしまいます。(段落全体①②⑥)

毛利勝信時代の多聞口横の石垣(右手前)、photoACより
毛利勝信時代の鬼瓦(一部)、小倉城天守内にて展示

関ヶ原後は、細川忠興が豊前一国と豊後の一部、30万石(表高)でこの地に入ってきました。細川氏はそれまで京都近辺にいたので、「思ヒ之外遠国」と感じたそうです。忠興は最初は黒田氏がいた中津城に入りましたが、1602年(慶長7年)に小倉城の大改修を始め、その年の内に本丸が完成したので本拠地として移りました。隣国の黒田氏・毛利氏への備えと、水陸交通の利便性を考慮したと思われます。天守の建築まで、その後更に数年を要しました。(段落全体①②⑥)

細川忠興肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊前国の範囲と城の位置

忠興は、城の範囲も大幅に拡張しました。城の中心部があった部分について、河口デルタの地形を利用し、東側の紫川と西側の板櫃川を天然の堀として、南側(海岸線から1.5~1.8kmの場所)に外堀を掘り、この中を「西曲輪」としました。その間は中堀・内堀など堀が幾重にも巡っています。更に紫川に東から流れ込む寒竹川(かんたけがわ、現在の神嶽川)も堀として活用し、そこから海に向かって外堀を作りました(現在の砂津川)。その中は「東曲輪」として町人地となりました(その後「帯曲輪」も追加)。その結果、全体は南北約1.6km、東西約1.75kmの広大な惣構えの城になりました。周囲は約8kmにも及んだそうです。その出入口は10ヶ所あり、門司往還とつながる門司口、長崎街道につながる到津(いとうづ)口など、主要街道と連動していました(下記補足2)。敵に攻められた時には、これらの出入口を堅く閉じ、堀を溢れさせる戦術を考えていたそうです。(段落全体①③④⑥)

(下記補足2)小倉城10口(④)
・門司口~門司往還
・中津口~中津街道
・香春口~秋月街道
・到津口~長崎街道
・溜池口~唐津街道
・他に、富野口、篠崎口、蟹喰口、紺屋町口、清水口

「小倉藩士屋敷絵図」、城の全体の姿がわかります、現地説明板より

小倉城が本格的に整備されているとき、近くで起こった出来事が、後に有名になる「巌流島の決闘」です。

「巌流島の決闘」真の姿は?

「巌流島の決闘」は、一般には1612年(慶長17年)の頃とされていますが、実ははっきりしないのです。武蔵が書いたとされる「五輪書」では、修業時代は13歳から28、9歳までとなっていますが、「巌流島」のことは一言も書かれていません。初めてこのことが出てくるのは、武蔵没後に養子の伊織が建てた「小倉碑文」です。ところがここにも時期は書かれていません。その後の諸説により、小倉に細川氏がいた頃だろうとされているのです。

小倉碑文 (licensed by 速日 via Wikimedia Commons)

一般的には一対一の決闘で、長い太刀と「燕返し」の技を持つ佐々木小次郎が待つ島に、舟の櫂を削って作った木刀を持った武蔵はわざと遅れて到着したとされます。怒って刀の鞘を海に投げ捨てた小次郎に対し「小次郎敗れたり」と言った武蔵のセリフも知られています。ところが一番古い「小倉碑文」には、兵術の達人で三尺の真剣を持つ「岩流」と、武蔵が同時に会して、武蔵が木刀の一撃で倒したということくらいしか書かれていないのです(下記補足3)。「佐々木小次郎」の名もなく、合っているのは場所と勝敗と、刀の種類くらいです。

(補足3)小倉に兵術の達人で岩流と名乗る者がいたので、武蔵は彼に試合を申し込んだ。岩流は真剣で戦おうと言ったが、武蔵は「そちらは真剣で、私は木刀でその術を尽くそう」とこたえた。堅く約束をして長門と豊前の際の舟島で、両者同時に会した。岩流は三尺の真剣を手にやってきて、命を顧みず術を尽した。武蔵は木刀の一撃をもってこれを殺した。電光もなお遅いとおもわせるような早業であった。そこで俗に、舟島を改めて岩流島というようになった。(「小倉碑文」、現代語訳は⑤より)

小倉城天守内の宮本武蔵展示

その後書かれた多くの「武蔵伝」の中で、比較的信憑できる史料(「兵法大祖武州玄信公伝来」)ではどうなっているでしょうか。
・成立:1727年(享保12年)福岡藩・立花専太夫著
・時期:武蔵19歳のとき
・相手と武装:長府の者・津田小次郎、通称「巌流」、二尺七寸の青江の刀
・武蔵の境遇・武装:摂津国あたりから豊前にやってきた、舟の櫂を四尺に切った木刀、刃には二寸釘多数
・到着:武蔵が待ち、小次郎が小舟で到着
・周囲:武蔵と入魂の「門司の城主何某(細川越中守家臣)ほか見物人多数
・勝敗:武蔵の木刀2撃(頭)で、小次郎絶命

「武蔵伝」で最も普及していると言われる「二天記」ではどうでしょうか。
・成立:1778年(安永5年)肥後八代・豊田景英著
・時期:武蔵29歳、慶長17年4月
・相手と武装:越前出身・岩流佐々木小次郎、細川忠興に召し抱えられ、三尺余の刀(備前長光)
・武蔵の境遇・武装:都から豊前にやってきた、舟の櫂を削って作った木刀
・到着:小次郎が忠興の船で先に到着、武蔵が小舟で遅れて到着、怒った小次郎に「小次郎負たり」
・周囲:検使警固の者たち
・勝敗:武蔵の木刀2撃(頭・脇腹)後、武蔵が小次郎の様子を伺うが、絶命か

熊本藩の家老の家の記録(「沼田家記」)にはとんでもない記述があります。
・成立:1672年(寛文12年)編さん
・時期:細川氏重臣・沼田氏が門司にいたとき
・相手:小次郎と申す者、豊前で岩流の兵法の師範
・武蔵の境遇:豊前で二刀兵法の師範
・到着:(特に記述なし)
・周囲:武蔵方の弟子が数人隠れていた
・勝敗:小次郎は武蔵に打たれるが蘇生、その後武蔵の弟子たちにより打たれ絶命

これらの共通項は、現・巌流島で武蔵と岩流(巌流)が勝負をして武蔵が勝ったということだけです。結局、一番古い「小倉碑文」に戻ってしまうような感じですが、仮にこの決闘が武蔵29歳(1612年、慶長17年)のときのことだとすると、2年後に始まる大坂の陣を機に、修行時代を終わらせたのかもしれません。(セクション全体⑤)

現在の巌流島

小倉城、真の姿は?

現在再建され、小倉のシンボルとなっている天守ですが、オリジナルは1610年、慶長15年11月、天守五段目に「不動尊の御札」を納めて完成となりました。当時も城郭最大の建築物で、城主の権力と富の象徴であり、籠城の際の最後の砦として築かれました。残念ながらこの天守は、1837年(天保8年)の火災で焼失してしまいました。残された史料が少なく、外観も4重なのか5重なのか議論がありましたが、現在では4重5階だったという結論になっています。(段落全体①③)

オリジナル天守の模型、小倉城天守内にて展示

建物の高さは22.8メートルで、一階部分の面積は当時日本最大級の広さでした。現在の天守と違って、最上階を除いて屋根の破風はなく、「層塔型」という四角い箱を積み上げたようなシンプルなスタイルでした。特徴的なのは、四階と五階の間に屋根がなく、しかも五階が四階より張り出していました。これは「唐造り」と呼ばれますが、回りを黒戸板で囲っていて、当時は「黒段」と呼ばれていました。細川忠興自慢の天守だったようです。この天守の様式は、他の城の天守にも影響を与え、例として津山城、高松城が挙げられます。また現在残る天守台石垣も藩主の自慢で、安定させるよう「輪取り(石垣をわざと内側に湾曲させる)」や「顎止め(下部の石垣をやや張り出させる)」などの技法が使われています。石垣の高さは18.8mあるので、天守全体では約42mにもなったのです。(段落全体①③⑥)

小倉城創建当時の天守規模比較、小倉城天守内にて展示
天守を含む津山城の古写真、明治初期、松平国忠撮影 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城天守の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天守が置かれた位置も重要で、本丸の北東側にあって、この方面(虎ノ門)から本丸を目指して攻めてくる敵に対して、次の門(北口門、大手前門)の手前で攻撃することができました。更に大手門まで攻められたとしても、攻撃できる位置に作られたのです。(段落全体①)

「豊前国小倉城絵図」の城中心部分、出展:国立公文書館

このように城を完成させた細川忠興ですが、次の代の忠利の1632年(寛永9年)に熊本藩の加藤忠広が改易となり、細川氏はその後釜になりました。小倉城には明石から、小笠原忠真が移ってきました(明石10万石→15万石、一族を合わせると30万石余)。譜代大名として「九州探題(九州の外様大名監視の任)」を期待されたのです。もちろん家老の宮本伊織とその養父・宮本武蔵も一緒です。(段落全体①③)

小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は、明石から小倉に来たときの宮本武蔵についても、記録が少ないのです。唯一知られるのは島原の乱(「有馬陣」)への参陣です。武蔵は55歳になっていました。藩主・小笠原忠真、養子の伊織(侍大将兼惣軍奉行)とともに出陣しました。1638年、寛永15年2月28、29日の総攻撃直後に出された武蔵書状によると、一揆軍の投げた石に当たり、足が立たなくなったとのことです。(下記補足4)もっともこの書状は一種の戦功証明書でもあるため、武蔵自身が前線に出て、勇敢に戦いの場に臨んだということも主張していると考えられます。

(補足4)(私のことを)おもいつきいただき、お手紙忝く存じます。さて、倅伊織(の戦功)がお耳に立ちましたこと、大変よろこばしく存じています。私の方は老足のほど御推量ください。貴侯様の仰せのように、御家中衆へも私の手先から(互いの戦功の証人となるように)約束いたしました。ことに貴方様父子(有馬直純・康純)ともに、本丸まで早々に(攻め上られ)たことには驚きました。私も(攻め上りましたが、一揆軍の投げた)石に当たり、足が立たなくなりましたので(上使松平信綱様の)御目見えにも伺候しませんでした。では、重ねて御意を得たいと存じます。即刻ご返事まで。
 玄信(花押)
(有馬直純宛宮本武蔵書状、現代語訳は⑤より)

島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

その2年後(1640年)、武蔵は細川忠利の招きにより熊本に移りました。その際の家老(長岡興長)宛て武蔵書状によると、島原の乱以前から交流があり、乱後の武蔵は江戸・上方にいたことがわかります(以下補足5)。このことから、小笠原氏下の小倉時代には、家老・宮本伊織の養父としてかなり自由に動き回っていたと想像できます。(以上⑤)

(補足5)一筆申し上げます。有馬陳(陣)の折りには御使者を寄越され、殊に御音信(贈り物)など御気遣いいただき、過分の極みと存じております。私はその後江戸や上方におりましたが、今こちらに参っておりますのは御不審におもわれることでしょう。少しばかり用事がありましたのでやって参りました。逗留いたしますので祇候いたしたいとおもいます。恐惶謹言。
 (寛永十七年)七月十八日 玄信(花押)
(長岡佐渡守興長宛宮本武蔵書状、現代語訳は⑤より)

宮本武蔵肖像画、島田美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後、小笠原氏は10代にわたり幕末まで小倉藩と小倉城を統治しました。天守最上階には大太鼓が置かれ、事が起きたとき、城下の人々に急を告げていたそうです。城下町は交通の要所として繁栄し、商人・旅人・参勤交代の大名の宿場にもなりました。中でも、諸街道の起点であり、紫川河口近くにかかって「西曲輪」と「東曲輪」を結ぶ常盤橋周辺は特に賑わいました。その辺りは湊でもあったので、多くの船も停泊していました。1859年(安政6年)小倉に一泊した長岡藩士・河井継之助はその様子を記しています。(下記補足6,以上①④)

(補足6)「城下へ入りてより大橋(常盤橋)を渡り、宿屋までは余程長かりし様に覚ゆ。大橋は則ち船着にて、此の辺り随一に賑やかなり。宿屋も其の近辺なり」(「塵壺」)

小笠原流流鏑馬のジオラマ、小倉城天守内にて展示
常盤橋のジオラマ、小倉城天守内にて展示

しかし幕末以降、小倉と城は大きな試練を迎えることになります。

小倉城炎上から天守再建まで

1866年(慶応2年)第二次長州征討が起こり、小倉口の戦いで小倉藩領が戦場になったのです。幕府方は小倉を本営とし、小倉藩の親戚、唐津藩・小笠原長行(ながみち)が征長軍総督となっていました。軍勢は小倉藩に、援軍の熊本・久留米・柳川藩などを加え約2万でした。しかし小倉藩では前年に藩主(小笠原忠幹、ただよし)が亡くなり、跡継ぎの4歳の幼君(豊千代丸)を重臣たちが補佐する体制だったのです。長州勢は千人でしたが、高杉晋作に率いられた奇兵隊などの精鋭でした。慶応2年6月17日、長州勢の奇襲により戦いが始まり、27日の3度目の攻撃は、熊本藩勢の反撃により撃退されました。(段落全体①⑦)

小笠原長行肖像画、国立国会図書館デジタルコレクションより (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが7月30日、大坂城での将軍・徳川家茂病没の知らせを受けた総督・小笠原長行が、突然逃げ帰ってしまったのです(富士山艦で長崎へ)。それを知った諸藩も国元に引き上げました。小倉藩は孤立してしまったのです。重臣たちはその日の夜評定を開き、単独での防戦は困難で、城を「開城」し、要害に籠って防戦するとの結論に達しました。翌8月1日、城には火がつけられ、3万の住民たちも避難しました。この突然の大事件は「丙寅御変動(へいいんごへんどう)」として語り継がれますが、幕府による九州支配の崩壊も現していました。小倉城は長州藩により占領されますが、幼君は熊本藩に身を寄せ、藩士たちは領内の香春(かわら)を拠点に翌年1月まで長州勢と戦いました(下記補足7、段落全体①⑦)。

(補足7)小倉藩は居城の小倉城を自焼し、領地を侵害されても、なお死力を尽くして代々の幕府の恩に報いた。力尽き、万策尽きるまで長州藩と戦った小倉藩の働きは「実に義を重んずるの挙動なり」と言える。他日、徳川幕府の歴史を編纂する者は、この小倉藩の事績を大書、特書するべきである(山県有朋「懐旧記事」、現代語訳は①)

当時の瓦版「九州小倉合戦図」、出典:文化庁文化遺産オンライン

明治維新後、小倉を含む北九州地域には、国防の要衝として軍隊やその施設が多く配備されました。小倉城内に限ると主には以下のように推移しました。
・1898年(明治31年):本丸に第12師団司令部開設(1925年久留米に移転)
・1925年(大正15年):松の丸に野戦重砲兵第2旅団司令部
・1928年(昭和3年):上記司令部が小倉連隊区司令部とともに旧第12師団司令部庁舎に移転
・1933年(昭和8年):三の丸跡を含む区域に小倉工廠設置
・1937年(昭和12年):本丸跡に西部防衛司令部設置(1940年福岡に移転)
中でも小倉工廠は、関東大震災で壊滅した東京工廠が移転してできたもので、西日本最大級の軍事工場でした。この工場は「小倉陸軍造兵廠」という名前になりますが、ここが1945年(昭和20年)8月9日、米軍B29爆撃機「ボックスカー」による原子爆弾投下の第一目標地になったのです。(段落全体①⑧)

小倉工廠配置図、北九州平和のまちミュージアムにて展示
国立アメリカ空軍博物館に展示されるボックスカー (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「ボックスカー」は、3回爆撃航程をとりましたが、「もや」と「煙」で目標が見えなかったため、第二目標地の長崎に向かったのです。一般にこれは天候のためと言われてきましたが、実は前日(8月8日)にとなりの八幡市(当時)で大空襲(犠牲者約2900人)があり、その被害による煙だったという説が出てきています(他にも八幡製鉄所による煙幕説もあり)。現在、三の丸跡には「原爆犠牲者慰霊平和祈念碑」があります。(段落全体⑧)

三の丸にある原爆犠牲者慰霊平和祈念碑

戦後、小倉城跡はアメリカ軍により接収され、その駐留は1959年(昭和34年)まで続きました。返還を受けた小倉市(当時)は、勝山公園として城跡を整備することにしました。その目玉として、天守が焼亡以来122年ぶりに再建されました(鉄筋コンクリート造)。その天守の屋根には、かつては存在しなかった破風がいくつも付けられました。オリジナルの外観を正確に復元はしていないものの、以前と同じ場所に建てられたものとして「復興天守」に分類されています。設計者の方(藤岡通夫氏)は当初、4重5階の層塔型としてオリジナルに近い形にしたかったようですが、地元の要望により設計変更せざるをえなかったとのことです。(下記補足8、段落全体①④)

(補足8)依頼者である会社(小倉観光株式会社)の人から各重に破風がないのは天守らしくない、破風がなく観光客に訴える力がないと強硬に責められるので、仕方なくくっつけたが、やはり本当はない方がよかったのだ(「小倉城 小倉城調査報告書」より天守完成時の座談会での設計者の説明とされる内容)

小倉城の復興天守

私の感想

現在の小倉城天守を見ると、ぱっと見、大阪城天守を連想します。小倉城天守を再建した当時は、天守と言えば、派手な飾りがあるものという常識があったのかもしれません。現在であれば、破風がないオリジナルデザインの方が、史跡という意味以外に、個性的でかえって人気が出るかもしれません。しかし現在の小倉城天守は、そのときの人々の考えを反映した、昭和時代の史跡とも言えるのではないでしょうか。

大阪城天守

リンク、参考情報

①「小倉城と城下町/北九州市立自然史・歴史博物館編」海鳥社
②「日本の城改訂版第95号」デアゴスティーニジャパン
③ 小倉城天守内外展示
④ 小倉城 公式サイト
⑤「人物叢書 宮本武蔵/大倉隆二」吉川弘文館
⑥「よみがえる日本の城20」学研
⑦「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
⑧ 北九州平和のまちミュージアム展示

「小倉城 現地編」に続きます。

79.今治城 その1

今治と言えば、やはり今治城が思い当たります。そして今治城を築いたのが、加藤清正・黒田官兵衛と並ぶ築城の名手、藤堂高虎です。藤堂高虎と言えば、何度も主君を変えた武将としても知られていますが、その分、築城にかかわった城も多いのです。その中で今治城は、高虎の築城術が確立した金字塔とも言える存在だと思います。そこで今回は、藤堂高虎の武将人生を辿りながら、今治城築城までに至った経緯、今治城の特徴、そしてその後の今治城をご紹介します。

イントロダクション

前回は、能島城跡の島に上陸し、来島城跡を望む来島海峡まで来ました。これらの史跡は現在では愛媛県今治市域に当たります。今治と言えば、やはり今治城が思い当たります。そして今治城を築いたのが、加藤清正・黒田官兵衛と並ぶ築城の名手、藤堂高虎です。藤堂高虎と言えば、何度も主君を変えた武将としても知られていますが、その分、築城にかかわった城も多いのです。その中で今治城は、高虎の築城術が確立した金字塔とも言える存在だと思います。そこで今回は、藤堂高虎の武将人生を辿りながら、今治城築城までに至った経緯、今治城の特徴、そしてその後の今治城をご紹介します。

来島海峡
今治市域(地図素材サイト「マップイット」より)
今治城

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(藤堂高虎築城術の金字塔・今治城の歴史)

高虎の出世街道

藤堂高虎は1556年(弘治2年)、近江国犬上郡甲良荘藤堂村に生まれました(生年1556年~没年1630年)。藤堂氏は、公家の広橋氏に仕えてきた有力領主でした。また、当時の近江国は築城が盛んな国で(観音寺城・小谷城など)、近くには大工で有名な甲良家の存在がありました。こういった環境が後の高虎のコネクションや仕事に関わったものと思われます(参考資料①②より、以下番号のみ記載)。高虎自身の覚書などを基にした藩の記録類(「高山公実録」など)によれば、彼は幼少期から大柄、怪力で、成人後は身長約190センチ(六尺二寸)、体重は百キロを超えていたと言われます。当時の男子平均身長が約150センチなので「大巨人」のように見えたでしょう。母親(妙清院・とら)や子(高次)も大柄だったとのことです(①)。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そんな高虎は、その恵まれた体格をもって大名に仕官し、戦功を上げますが、主君に恵まれない不遇の時代が続きました(①③、下記補足1)。
1.浅井氏(15歳、1570年~17歳、1572年)
 姉川の戦い・小谷城籠城戦などに参戦、同僚と喧嘩・成敗して出奔
2.阿閉氏(~18歳、1573年)
 「らう(牢)人分」として仕官、同僚を成敗したため出奔
3.磯野氏(~20歳、1575年?)
 織田信長に降伏した磯野員昌(佐和山城主)に仕官、80石を拝領
4。織田氏(~21歳、1576年)
 佐和山城主になった信長の甥、信澄に仕官、戦功を上げたが80石のままだったのでまた浪人に
最初の頃は、高虎自身も相当荒くれ者だったように感じます。

(補足1)織田・浅井両将の軍、姉川の辺で合戦。浅井氏は敗北し、居城の小谷に退く。白雲君(虎高)は浅井家に従いてこの役に出陣。公(高虎)は志学の齢といえども、父君に伴なって姉川に赴き、この日、敵の首一級を得る。敗軍の武功はことに難しい(「親筆留書」)

江戸時代の浮世絵に描かれた磯野員昌 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして21歳のとき、5人目の主君として豊臣秀長に300石で仕官してから、運が開けてくるのです。そのとき秀長は、兄の秀吉とともに播州三木城攻めを行っていました(①、下記補足2)。秀長は並行して但馬国(兵庫県北部)の平定も行っていて、竹田城を本拠として、拠点城郭を整備しました。その中に有子山城があって、そこに築かれた高石垣は高虎が関与した可能性があります(①)。そうであれば、戦そのものだけでなく、築城という分野にもかかわっていたのです。その後は、天下統一にまい進する秀吉・秀長の下で出世街道を進みます(④)。
・1581年:3300石(但馬一揆をおさめた功)
・1583年:4600石(賤ヶ岳の戦いの功)
・1585年:紀伊国粉河1万石(紀州攻めの功)
・1587年:2万石(丹羽長秀の子、高吉を養子とする)

(補足2)やまと大納言殿へ御出成なされ、播州三木の城主別所小三郎・しやてい弐人、あき(安芸)のもり(毛利)ニしたかひ、秀吉公をそむき申し付けて、御おしよせ成され候処ニ(「藤堂家覚書」)

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
有子山城本丸の石垣

高虎が、秀長の重臣時代に築いた城の例としては、赤木城が挙げられます。1585年(天正13年)、秀吉・秀長は紀州攻めを行い、紀伊国は秀長の領地になりますが、その後も反抗する一揆勢を抑え込むために、高虎が築城したとされています(③、下記補足3)。コンパクトですが、技巧に富んだ総石垣の城で、高虎流築城の原点ともいえる城です(③)。

(補足3)吉野郡赤木というところに、高虎君が取り立て御座した城跡がある。今、ここに野長瀬某の末孫がいる。当時は高弐万石ほどの郷士であった。この者も高虎君に敵して戦死した(「高山公実録」のうち「累世記事」)

赤木城の石垣
赤木城の縄張り、現地説明パネルより

やがて徳川家康が秀吉に臣従すると、高虎は家康の京都屋敷建築の奉行になりました。高虎は、渡された設計図には警固に難点があるとして、独断で設計を変更しました。家康がこのことを尋ねると、高虎は「天下の武将である家康様に不慮のことがあれば、主人である秀長の不行届き、関白様の御面目にかかわると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興の節は御容赦なくお手討ちください」と答えました。家康は心遣いに感謝し、後の両者のきずなにつながったとのことです(③)。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小田原合戦後に秀長がなくなると、高虎は、秀長の養子・秀保に後見人として仕えました。朝鮮侵攻のときの、肥前名護屋の秀保の陣屋は、諸大名の中で最も大きいものでしたが、これも高虎が築いたと言われています(③)。高虎自身も水軍の大将の一人として朝鮮に渡ったのですが、1595年(文禄4年)秀保が17歳で亡くなると、秀長以来の大和豊臣家は断絶となりました。そこで高虎がとった行動は、主君の死を悼み、高野山に行って出家しようとしたことだったのです(①)。主家を断絶させた秀吉への反発だったのではという意見もあるそうです(③)。

豊臣秀保、「義烈百人一首」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
朝鮮侵攻に使われた安宅船の模型(名護屋城博物館にて展示)

独立大名になってから今治城築城まで

高虎の才能を惜しんだ秀吉は、使者を2回、高虎に派遣しました。2回目に派遣したのは、高虎と親しかった生駒親正(孫の正俊の正室が高虎の娘)で、その説得の結果、高虎は秀吉に仕えることになりました。後に高虎は、生駒高松藩の幼君・高俊の後見役になっています(①)。

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高虎は、伊予板島7万石の独立大名になりました。板島城に入城し、城を天守・石垣を備える近世城郭に改修しました。これが宇和島城になります。高虎が築いた天守が初代、現存する天守は2代目です。そして引き続き水軍大将として慶長の役にも参陣します。しかしこのとき、戦功をめぐって同じ伊予の大名・加藤嘉明といさかいを起こしました。関山沖の勝利の功労者は高虎であるという武将たちに対して、嘉明は自分が一番功労者であると言い張ったのです。「自分で武功を誇るより、同僚たちの意見を聞いたらどうだ」と反発したのです(④)。その朝鮮での戦功で、1万石加増となり、新領地で大洲城の改修も行いました。

宇和島城
右が高虎が築いた天守、現地説明パネルより
加藤嘉明肖像画、藤栄神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉が没すると、高虎は徳川家康に接近します。秀吉に恩義があるのにどうして豊臣に身を捧げなかったのかという批判がありますが、高虎の年譜「高山公実録」は「高虎の行動は、天下の形勢からみて、家康が天下を治めるに一番ふさわしい人物と考えたためである」と述べています(④)。家康も高虎を信頼していました。関ヶ原の戦いの前、上杉攻めから西上するとき、高虎は黒田長政・福島正則らの先発隊に入り、家康との連絡役を務めました。この戦いでは小早川秀秋の寝返りが有名ですが、高虎も、同郷(近江)の大名(脇坂安治・小川祐忠ら)の内応工作を担当したのです(①)。

脇坂安治肖像画、龍野神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関ヶ原後、高虎は伊予半国・20万石の大大名になりました。ところが、それまでの伊予は6つの大名によって分割されていて、負けた方が没落して、2つの大名に機械的に振り分けられたため、双方の領域は国内で入り乱れる結果になりました。そのもう一つの大名とは、因縁の加藤嘉明です(①③)。
・藤堂高虎(宇和郡など8万石)→20万石
・加藤嘉明(久米・温泉など10万石)→20万石
・小川祐忠(今治府中7万石)→西軍から東軍に寝返ったが領地没収
・安国寺恵瓊(和気郡6万石)→西軍参加により処刑
・来島康親(来島など1.4万石)→西軍参加により改易
・池田高祐(喜多郡1.2万石)→西軍参加により改易

高虎は、新たに得た東予地域の支配のため、そこにある国分山城を拠点にしようとしました。この地は古くは伊予の国府があり、その城は村上武吉が築城したと言われ、福島正則や前領主の小川祐忠も入っていました。ところが、その地域でさえ加藤氏と折半していたため、加藤氏も目と鼻の先に拠点・拝志城を築城するのです。そのような場所では領地全体の統治は難しく、芸予諸島の監視や水運の活用という面でも新しい拠点が必要と考えたのでしょう。それが今治城だったのです(①④、下記補足4)。

(補足4)国府の城は河野家代々の城地であったが、地勢要害で公の心にかなわなかったので、これを神君に報告して国府の城を廃し、今治に新城を築いてゆくゆくは居城にしようと石畳・堀溝・矩縄などに心を砕いた。というのも、今治の地は越智郡の海辺で、北は蒼海、東に国府川が流れ、西南は曠野にて平原の地である。海陸の通達が自在で、九州の通船はこの沖を漕がなければ船行することができない。(「公室年譜略」現代語訳は③より)

今治周辺の地図

今治城、何がすごい?

今治城が築かれる今治平野には、古くから国府があり、中世には「今治津」という港もありました。その港があっと考えられる川(浅川、あさかわ)と蒼社川(そうじゃがわ)に挟まれた砂浜に城が築かれました(⑤)。今治城の別名「吹揚城(ふきあげじょう)」は「砂が吹き揚げられてできた砂浜」に築かれた城という意味です。城は、1602年(慶長7年)から2年間かけて築かれました。

「正保今治城絵図(複製)」、城の右側が浅川、左側が蒼社川(今治城天守内にて展示)

今治城は「日本三大海城」の一つと言われています(あとの2つは高松城、中津城、別バターンもあり)。その名にふさわしく、三重の堀に囲まれ、海水が引かれました。以前の港の機能も引き継ぎ、城内の中堀北側に船入(港)が設けられました。中堀の内側は上級武士の屋敷地となりました。その内側の内堀は幅が54メートル(30間)もあります(④⑤)。

高松城
中津城

城の中心部は、シンプルな方形の本丸と二の丸が組み合わされていて、高虎築城術の特徴の一つです(③)。これによって、御殿の敷地が確保され、ある程度の人数も収容できます。シンプルな形の分、防御力が弱そうに見えますが、広い内堀の他、曲輪を高石垣とその上に建てられた櫓群で囲みました。もと砂浜だった土地の地盤を安定させるために、石垣のベースに「犬走り」とよばれるテラスが作られました。ここは城が攻められたときにも、楯を立てて防御に使われることになっていました(④)。石垣は自然石などを積む野面積みで、高虎の出身地・近江の「穴太衆」にちなむと考えられます(④)。更に出入口の門は、枡形構造で防御力を高めました。その先には角馬出しを付属させ、反撃能力も備えています(①)。

今治城の高石垣と櫓群
犬走りと野面積みの石垣
鉄御門の枡形、現地説明パネルより

また城のシンボルである天守も、新しい型式が今治城で導入されたと言われています。その天守(五重)は、本丸の中央に独立して築かれたと考えられています(①③)。そしてその形式とは層塔型天守です。それまでの天守は望楼型で、入母屋屋根を持つ主殿建築の上に望楼を乗せた複合建造物でした。構造的に弱く、使い勝手も悪かったのです。層塔型は、多層塔のような外観で、上層になるに従い徐々に狭くなる階を積み上げていきます。規格化された部材を組み上げるもので、構造的に強く、シンプルなので工期も短く、費用も安く済んだのです。天守台を方形に作れる技術の進歩も関係していました。城郭の中心は御殿に移っていくので、時代の流れにも沿っていました(①④)。

現在の今治城本丸(吹揚神社)
望楼型天守の例(犬山城)
層塔型天守の例(島原城)

しかしその天守は短期間で、移築されてしまいます。高虎が伊勢・伊賀に転封になったとき(1608年、慶長13年)、移動先の伊賀上野城に移すつもりが、天下普請で築かれることになった丹波亀山城の天守として幕府に献上することになったというのです。家康は大喜びだったそうです(③、下記補足5)。残念ながら今治城ではこの天守の痕跡は残っていないようです。天守台の石材も一緒に運ばれてしまったと考えられます。想定として、本丸の中央に独立天守として建てられたのではないかという意見があります(③)。

(補足5)亀山に御城普請あり。しかるところに、高虎公が今治の殿主を破壊して大坂につけ置くところの良材あり。高虎公の兼ねての御心中には、伊賀上野の殿主に組み建つべしと御用意ありけるところに、亀山の城郭が専なるによりて駿府へ仰せ上られけるは、幸いに今治の殿主は大坂にあり。この殿閣をそのままにして、丹州亀山に造立すべしと望ませたまう。大御所公は御喜悦の上意にて、高虎公にこれを任す(「高山公言行録」)

亀山城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この今治城の築城プランは、後の高虎自身の城や、幕府が主導する天下普請の城にも引き継がれました。例として、丹波篠山城、伊勢津城などが挙げられるでしょう(③)。層塔型天守の採用も、江戸城・大坂城などの天守の先駆けになりました(①)。今治城は、高虎築城術だけでなく、日本城郭史の画期になったのです。

篠山城の縄張り図、現地説明パネルより
江戸城寛永天守の模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示

その後の高虎と今治城

高虎の伊勢・伊賀への移動は、家康による大坂包囲網形成に連動していました。これは、豊臣氏や恩顧の西国大名を監視するために作られた城郭ネットワークです。高虎と姫路城の池田氏は豊臣恩顧であっても、積極的に包囲網作りに協力したのです。懸念のある大名はその範囲外に移動になりました。幕府の本城・江戸城拡張にも甲良大工の動員や石材の切り出しなどで貢献しました。また、江戸城(龍口)と駿府城(大手門正面)のすぐ近くに藩邸を与えられ、家康と密接な連絡を取っていました。その藩邸には度々「御成」もありました。家康の臨終に当たっては、高虎は来世での奉公を誓い、宗派替え(日蓮宗→天台宗)を行い、家康は有事の際は高虎を先鋒とするよう指示したそうです。後継ぎの徳川秀忠・家光にも信頼され、1620年(元和6年)の秀忠の娘・和子(まさこ)の入内には、朝廷との交渉役を務めました。その後は幕閣のような、西国大名の取次役をこなし、1630年(寛永7年)に75歳で亡くなりました(①)。

姫路城
徳川和子(東福門院)肖像画、光雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ちなみに、加藤嘉明とはどうなったかというと、1627年(寛永4年)会津藩・蒲生氏が改易になった時、その後釜として、高虎は自分の替わりに(高齢が理由)喜明を幕府に推挙したのです。喜明は大変感謝し、和解したそうです(④)。

今治城はどうなったかというと、高虎転封後は養子の高吉が今治城を預かりました(高虎22万石のうち2万石)。高吉(生年:1579年~没年:1670年)は、織田信長の重臣・丹羽長秀の三男として生まれ、豊臣秀長の養子になったのが、秀吉の甥・秀保が取って代わったため、高虎の養子にスライドしたのです(1587年)。ところが、1601年(慶長6年)、高虎46歳にして待望の嫡男・高次が生まれたため、微妙な立場になってしまいました。高虎は高吉に領地を分け与えるつもりでしたが、高虎が亡くなると、高次はそれを阻止し、高吉を家臣にしたのです。1635年(寛永12年)高吉は伊勢国に転封になり、最終的に名張陣屋に落ち着きました(名張藤堂家として存続、石高2万石)(④)。

藤堂高次肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後に、幕末まで今治藩主・城主になったのは久松松平氏でした。家康の母・於大が、家康を生んだ後に嫁いだのが久松氏でした。よって、於大が久松家で生んだ定勝も松平氏を名乗りました。今治に来たのは定勝の五男・定房で、石高は3万石でした。兄(次男)の定行もとなりの松山藩の藩主(15万石)になっています。彼らは家康の異父弟に当たるので、幕府から信頼されたのです。親藩大名として、四国大名の監視を期待されたのでしょう。明治維新のときの藩主は10代・定法(さだのり)でした。廃藩置県(1871年)により城は廃城になり、建物は撤去、堀も徐々に埋められていきました。しかし城内と城下町の港が、港湾都市・今治の発展の基礎になりました。

松平定勝肖像画、今治城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平定法 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク・参考資料

①「ミネルヴァ日本評伝選 藤堂高虎/藤田達夫著」ミネルヴァ書房
② 五目ひじき
③「図説・日本の城郭シリーズ④ 築城の名手・藤堂高虎/福井健二」戒光祥出版
④「今治城の謎/土井中照著」メイドインしまなみ事務局
⑤「海と高虎-瀬戸内が育んだ今治の歴史-」高虎サミットin今治実行委員会

「今治城 その2」に続きます。

91.島原城 その1

島原の乱に宿命づけられた城

立地と歴史

松倉氏が本拠地として築城

島原城は、九州地方の西部分に位置する島原半島にある城です。中世の期間、この半島の周辺地は、基本的には有馬氏が支配していました。16世紀後半の有馬氏の当主であった有馬晴信は、キリシタン大名として知られていました。そのため、キリスト教はこの半島周辺に急速に広まったのです。ところが、彼は1612年に徳川幕府により罰せられてしまいます。彼の息子も1614年に他の地に移されました。その後、松倉重政が1616年に徳川幕府により島原藩主として宛がわれました。彼は最初は有馬氏が居城としていた日野江城に住んでいましたが、すぐに自身の本拠地として新しい城を築くことを決めました。これが島原城で、1624年に完成しました。

城の位置

有馬晴信像複製、福井県坂井市台雲寺蔵、有馬キリシタン遺産記念館にて展示

島原藩は比較的小規模の藩であり、4万3千石の石高を有していました。ところが、この城は10万石の規模の藩の城に値すると言われていました。このことは、島原藩の領民が高い年貢に苦しみ、城の建設にも多くの労役に駆り出されていたことを意味します。この城には3つの曲輪があり、南から北に向かって一列に並んでいました。本丸と二の丸は内堀に囲まれており、廊下橋によってのみつながっていました。城の外から敵が本丸を攻めようとしても、まず二の丸の入口を攻撃する必要があったのです。

「島原城廻之絵図」部分に加筆、熊本県立図書館蔵、島原城天守閣の展示より
廊下橋跡

高石垣と5層の天守

また、全ての曲輪は屏風折れの高石垣に囲まれており、守備兵から見て死角をなくし、敵に対して側面攻撃を可能としていました。特に本丸には、天守と11もの櫓がありました。天守は5層で、典型的な層塔型に作られていました。他の城にある天守は通常、破風や火灯窓などの装飾がありました。島原城の天守は単純に四角いフロアが、上階に向かって逓減して積まれており、屋根も最小限のものでした。この方式により、天守の建設がより効率的になり、防衛にも適していました。

本丸の屏風折れの高石垣
復元された層塔型の天守

松倉氏の圧政により島原の乱が勃発

重政は、領民に圧政を加え、より多くの収入を得るために重税を課しました。徳川幕府がキリスト教を禁じた後は、改宗しないキリシタンを拷問しました。これは、幕府に忠誠を誓う彼なりのやり方だったようです。重政が亡くなった後、彼の息子、勝家は父親のやり方を踏襲し、更にエスカレートしました。クリスチャンを含む島原半島の人々は憤激し、1637年に島原の乱を起こしました。彼らはまず島原城を攻撃しました。反乱軍は、以前有馬氏に仕えていた浪人たちによって相当高いレベルまで訓練されていました。勝家はそのとき、城ではなく江戸に滞在していました。しかし、彼の部下たちが反乱軍を撃退しました。島原城は皮肉にも、住民たちと戦うことでその強さを証明したのです。

松倉氏の圧政の様子を再現した展示、有馬キリシタン遺産記念館
「島原の乱大手門の戦い」、島原城天守閣にて展示

反乱軍の人たちは、原城に3ヶ月籠城した後鎮圧されました。幕府は松倉氏に対して、島原藩の藩主から改易処分を言い渡しました。松倉勝家は、失政のかどで処刑されました。その後、いくつかの大名家が島原藩と島原城を江戸時代末まで統治しました。1792年、松平氏の施政下において、島原大変と呼ばれる大規模な天災が発生しました。雲仙岳で発生した噴火と地震が、その手前にある眉山の崩壊を引き起こしたのです。山からの土石流により、多くの人々が亡くなりました。島原城もこの災害により一部が破壊されました。

島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より
原城跡
島原大変を記録した絵図、島原城天守閣にて展示

「島原城その2」に続きます。

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