50.彦根城 その2

見どころが山ほどある城です。

特徴、見どころ

佐和口から入城

現在、彦根城は、中堀(内堀から数えて2番目の堀)の内側がビジター向けによく整備されています。過去と同じようにこの堀を超えて中に入って行く道が3つあります(佐和口、京橋口、船町口)。その内、彦根駅に一番近く正面口となっている佐和口から行くのが最も一般的でしょう。もしこのルートを通ってみる場合は、最初に左手に、現存する佐和口多聞櫓と天守の遠景が見えてくるでしょう。城への入口は、この櫓と、右手の復元された櫓から構成されています。ここから入ると、現存する馬屋も見えてきます。日本の城の中に残っている唯一の馬屋です。

城周辺の航空写真

佐和口多聞櫓と天守の遠景
佐和口
佐和口の内部
現存する馬屋
馬屋の内部

彦根城博物館の豊富な展示

内堀にかかる橋を渡って、城の正面入り口である表門跡に入って行きます。門跡の内側には彦根城博物館があり、同じ場所にあったかつての表御殿と同じ外観で建てられています。この博物館は井伊氏と彦根藩に関する9万以上の文物を収蔵し、その内約100点を展示しています。

内堀を渡る橋
内堀
表門跡
彦根城博物館

博物館では、例えば赤鎧、刀剣、茶道具、能面、そして現存する能舞台を見学することができます。博物館の奥の方には城主の奥向(日常生活の場)と庭園が一部復元されており見ものです。これらは記録や発掘の成果に基づき、木材を使った伝統的工法で建てられました。

井伊直政所用と伝わる鎧、彦根城博物館にて展示
茶壷「瀬戸鉄釉四耳壺(せとてつゆうしじこ)」、彦根城博物館にて展示
現存する能舞台、彦根城博物館にて展示
復元された奥向の「御座の御間」、彦根城博物館にて展示
復元された庭園、彦根城博物館にて展示

強力な大堀切周辺の防御線

次に城の中心部分に向かって、山を登ってみましょう。長く幅広い石段を登っていくと、橋がかかっている巨大な深い堀切が見えてきます。城の中心部に向かうには、堀切の右側にある太鼓丸を通って行く必要があります。しかし、それにはまず堀切の底を通って、左に曲がり、左側の別の曲輪である鐘の丸に行き、その後橋を渡って太鼓丸に行き着きます。もし敵であったなら、堀切の底で両側の曲輪から攻撃を受け、橋は落とされてしまうでしょう。橋の背後には天秤櫓が立っており、太鼓丸を守っています。この櫓は、長浜城の大手門を移築したものだと言われています。

城の中心部へ向かう石段
天秤櫓前の大堀切
過去の大堀切周辺の絵図(現地説明板より)に進行ルートを追記(赤矢印)
左折して鐘の丸へ
橋を渡って天秤櫓へ
橋の上から大堀切を見下ろす
天秤櫓から橋を見下ろす

対照的な天守の外装と内装

太鼓丸を通り過ぎると、本丸の入口である、現存する太鼓門櫓に至ります。本丸には、天守だけが残っていますが、とても華麗な外観です。

本丸へ向かいます
現存する太鼓門櫓
本丸からの眺め
本丸の現存天守

この三層の天守には、金飾りがある唐破風、入母屋破風、切妻破風、花頭窓、高欄付きの回り縁など多くの装飾がなされているからです。

唐破風
入母屋破風
切妻破風
花頭窓と高欄付き回り縁

天守の中に入って一階から最上階の三階まで見て回ることができます。天守の内装は、外観と比べると実用的です。壁には多くの隠し狭間が備えてあり、使うときには外側の壁を壊すようになっていました。実際に使う機会がなかったので、隠されたままだったということになります。また、調査によりこの天守は、大津城の4層天守を移築し、3層に減じて建てられたことがわかっています。

天守入口の鉄扉
天守一階
壁に備わった隠し狭間
天守二階
天守最上階へ
天守最上階
回り縁には出られません

「彦根城その3」に続きます。
「彦根城その1」に戻ります。

83.宇和島城 その1

藤堂高虎が築き、伊達氏が維持した城

立地と歴史

藤堂高虎が築城

宇和島城は、過去には伊予国といった愛媛県の南部地方(南予地方)にある城です。伊予国は、15世紀後半から16世紀までの戦国時代には多くの戦国大名によって分割されていました。後に宇和島城が築かれることになる山には、板島丸串(いたじままるぐし)城という城があり、西園寺氏が居城していました。豊臣秀吉が天下統一事業を進めているとき、秀吉の家臣、藤堂高虎が1595年に南予地方の領主となりました。高虎は、築城の名手として知られるようになるのですが、このとき初めて独立した領主になったのです。彼は本拠地として、もと板島丸串城だった山を選びました。そして1596年に宇和島城の築城を始めたのです。

伊予国の範囲と宇和島城の位置

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

板島丸串城は、シンプルな山城でした。高虎はそれを、当時最新の技術と彼の構想によって、近代的な城に作り変えました。その山は、北側と西側が宇和島湾に面していました。そこで高虎は、南側と東側も海水を引き込んで堀としたのです。その海岸と堀から作られる形は五角形のようになっていて、敵が城を攻撃してきたときに惑わせる効果もあったようです。高虎は、山を覆うような石垣や、敵の攻撃を防ぐための桝形と呼ばれる四角いスペースを備えた虎口(入口)も築きました。更には、山の頂上の自然の岩の上に、三層の天守が築かれました。城の建設は、1601年に完了しました。

宇和島御城下絵図、元禄16年(1703年)、宇和島伊達文化保存会蔵(現地説明板より)

その一方でこの城には、本丸、二の丸、三の丸、長門丸といった小さな曲輪がたくさんありました。これは古い山城の特徴の一つであり、前身の板島丸串城もそうでした。宇和島城はその特徴を引き継がざるをえなかった訳です。次に、天守は廃材を利用して建造されましたが、その完成の60年後には老朽化が激しくなってしまいました。また、高虎の伝記によれば、高虎の領地にあった支城の河後森城の天守が、1604年に宇和島城に移築されてきて櫓として使われたとあります。これらの状況を勘案すると、当時の高虎には理想の城を完成させるには十分なリソースがなかったのかもしれません。1600年には、高虎は新しい領地の今治城に移っていきました(領地替えではなく、今治の地を加増され、宇和島城は家臣が城主となりました)。

密集している曲輪の配置図、現地説明板より
河後森城跡

立て替えられた天守

1614年、伊達氏が宇和島城主と宇和島藩主となり、江戸時代末期までこの地を統治しました。2代目藩主、宗利(むねとし)は、1660年代に老朽化と地震の被害による城の大改修を行いました。特に、天守は完全に新しいものに置き換えられます。新しい天守は古いものと同じ三階建てでしたが、外観は全く違っていました。古い方は望楼型であり、新しい方は層塔型でした。しかし、新しい天守における一番重要なことは、それが平和の時代に建てられたということです。天守は、他の建物に連結されるのではなく、独立して本丸の中心にある石垣上に建てられました。そして、天守には見栄えをよくするための装飾が多く付けられ、戦いのための装備はわずかでした。総じて、この天守はしばしば「太平の世を象徴する天守」と言われたりします。それが現在われわれが目にしている天守です。

旧天守(右側)と新天守(左側)との比較、現地説明板より
宇和島城の現存天守

幕末に多彩な人材が結集

8代目藩主の宗城(むねなり)は、幕末の日本政界で大変活躍しました(いわゆる四賢侯の一人とされます)。強力な西洋の蒸気船が日本に現れ、日本が脅威にさらされる中、宗城は藩独自の蒸気船を建造しようとしました。彼はこれを成し遂げるために、異才を放つ人材を招きます。例えば、医者で後に初期の日本陸軍の指導者となる村田蔵六、こちらも医者で幕府から追われる身であった高野長英、そして下層の職人たち(前原功山など)です。彼の試みは成功します(藩としては薩摩藩に次ぐ2番目、純国産では最初との評価もあります)。宗城は、宇和島城を新しい状況に適用させるのは難しいと考え、蒸気船を動く城として作り上げたのかもしれません。

伊達宗城、「徳川慶喜公伝」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
村田蔵六、「近世名士写真 其2」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高野長英肖像画、高野長英記念館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「宇和島城その2」に続きます。

36.丸岡城 その3

天守には2回の危機がありました。

その後

明治維新後、丸岡城は廃城となりました。天守を含む城の全ての建物は入札にかけられました。ところが、天守の建物の落札額はとても低いものでした。通常の役所や住居として使うことができなかったからです。また、解体して廃材にしたり移設するにはあまりに低い金額でした。落札者は結局天守に何も手をつけることができず、その間他の建物は移設されたり、撤去されていきました。全ての水堀は埋められ、市街地として使われました。天守の所有者はついに、1901年に天守を公共に寄付することにしたのです。そのため、天守だけが今に残っているのです。

天守内にある丸岡城の模型、天守以外の建物は全て売却、撤去されました

1948年、天守と天守台石垣は福井地震により崩壊しました。しかし、地元の人たちは1955年に天守をほとんど元通りに復元しました。これは、地震の8年前に天守を修理した際、その詳細を調査してあったから可能だったのです。復元にあたっては、元から使っていた部材の約7割を再利用しました。日本の他の城の建物を修理するときにも通常、同様のやり方で行われています。つまり、丸岡城天守は、地震の前と同等の価値を維持したと言えるのです。

福井地震の際、落下した石製の鯱

私の感想

丸岡城天守の中を見た後、お時間があれば、内堀の痕跡に沿って城の周りを歩いてみてはいかがでしょう。堀自体は市街地になってしまっていますが、堀の外側の輪郭線は道路として残っています。その道路に沿って歩いてみると、丘の上にある美しい天守の姿を見上げることができます。自分で歩いてみたとき、正直毎日その天守の姿を見ている人たちを羨ましく思いました。実は坂井市は、城の魅力アップのために50年かけて内堀の一部を復元し、その内側を公園化することを検討しています。(現在そのエリアに住んでいる人が住居の建て替えをする際、公有地化をお願いするようです。)

元の内堀ラインから見える丸岡城天守

道路として残っている内堀のライン

別の場所からもう一枚

ここに行くには

車で行く場合:北陸自動車道の丸岡ICから約10分かかります。城がある公園に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR丸岡駅から永平寺駅前行きのバスに乗って、丸岡バスターミナルバス停で降りてください。
そこから歩いて約5分のところです。
東京から丸岡駅まで:北陸新幹線に乗って、金沢駅で北陸線に乗り換えてください。
大阪から:特急サンダーバード号に乗って、福井駅で北陸線の普通列車に乗り換えてください。

リンク、参考情報

丸岡城 公式サイト
・「丸岡城~ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎~/吉田純一著」坂井市文化課丸岡城国宝化推進室
・「よみがえる日本の城8」「天守のすべて①」学研
・「城の科学 個性豊かな天守の「超」技術/萩原さち子著」ブルーバックス新書
・「丸岡城周辺整備基本計画」坂井市

これで終わります。ありがとうございました。
「丸岡城その1」に戻ります。
「丸岡城その2」に戻ります。