36.丸岡城 その3

天守には2回の危機がありました。

その後

明治維新後、丸岡城は廃城となりました。天守を含む城の全ての建物は入札にかけられました。ところが、天守の建物の落札額はとても低いものでした。通常の役所や住居として使うことができなかったからです。また、解体して廃材にしたり移設するにはあまりに低い金額でした。落札者は結局天守に何も手をつけることができず、その間他の建物は移設されたり、撤去されていきました。全ての水堀は埋められ、市街地として使われました。天守の所有者はついに、1901年に天守を公共に寄付することにしたのです。そのため、天守だけが今に残っているのです。

天守内にある丸岡城の模型、天守以外の建物は全て売却、撤去されました

1948年、天守と天守台石垣は福井地震により崩壊しました。しかし、地元の人たちは1955年に天守をほとんど元通りに復元しました。これは、地震の8年前に天守を修理した際、その詳細を調査してあったから可能だったのです。復元にあたっては、元から使っていた部材の約7割を再利用しました。日本の他の城の建物を修理するときにも通常、同様のやり方で行われています。つまり、丸岡城天守は、地震の前と同等の価値を維持したと言えるのです。

福井地震の際、落下した石製の鯱

私の感想

丸岡城天守の中を見た後、お時間があれば、内堀の痕跡に沿って城の周りを歩いてみてはいかがでしょう。堀自体は市街地になってしまっていますが、堀の外側の輪郭線は道路として残っています。その道路に沿って歩いてみると、丘の上にある美しい天守の姿を見上げることができます。自分で歩いてみたとき、正直毎日その天守の姿を見ている人たちを羨ましく思いました。実は坂井市は、城の魅力アップのために50年かけて内堀の一部を復元し、その内側を公園化することを検討しています。(現在そのエリアに住んでいる人が住居の建て替えをする際、公有地化をお願いするようです。)

元の内堀ラインから見える丸岡城天守

道路として残っている内堀のライン

別の場所からもう一枚

ここに行くには

車で行く場合:北陸自動車道の丸岡ICから約10分かかります。城がある公園に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR丸岡駅から永平寺駅前行きのバスに乗って、丸岡バスターミナルバス停で降りてください。
そこから歩いて約5分のところです。
東京から丸岡駅まで:北陸新幹線に乗って、金沢駅で北陸線に乗り換えてください。
大阪から:特急サンダーバード号に乗って、福井駅で北陸線の普通列車に乗り換えてください。

リンク、参考情報

丸岡城 公式サイト
・「丸岡城~ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎~/吉田純一著」坂井市文化課丸岡城国宝化推進室
・「よみがえる日本の城8」「天守のすべて①」学研
・「城の科学 個性豊かな天守の「超」技術/萩原さち子著」ブルーバックス新書
・「丸岡城周辺整備基本計画」坂井市

これで終わります。ありがとうございました。
「丸岡城その1」に戻ります。
「丸岡城その2」に戻ります。

36.丸岡城 その1

越前国北部にあった城

立地と歴史

柴田勝豊が戦国時代に築城

丸岡城は、現在の坂井市にあたる、越前国の北部にありました。この城には日本に12基ある現存天守のうちの一つがあります。この城は、最初は戦国時代の1576年に柴田勝豊によって築かれました。彼の親族である柴田勝家が越前国を領有しているときでした。1583年に柴田氏が羽柴秀吉に倒された後は、松平氏などいくつかの氏族がこの城を所有しました。この城の初期の頃について詳細は分かっていませんが、その頃から初代の天守がそこにあったと考えられています。初代天守のために作られた現存する石垣が、現在ある天守より古いものだからです。

城の位置

丸岡城の現存天守
丸岡城天守の石垣

本多成重が丸岡藩として独立

1624年、松平氏の家老であった本多成重(なりしげ)が丸岡藩の創始者として、独立した丸岡城城主となりました(彼の父、本多重次が家族に宛てた手紙が「日本一短い手紙」として有名であり、現在の丸岡城でも顕彰されています)。彼は城の大改修を始め、現在ある天守の再建築などを行いました。この改修は、成重の息子の代になって完了しました。

天守内にある本田成重のイラストレーション(左側、右側は父親の本多重次)

天守がある本丸は丘陵の上にありました。二の丸御殿がある二の丸は、本丸脇の平地にありました。これらの曲輪は、内堀に囲まれていましたが、その内堀は五角形のような形をしていました。この堀の形は、敵が攻めてきたときに、その敵を混乱させるためにこのようになったと言われています。また、武家屋敷があった三の丸と外堀が、内堀の更に外側にありました。

天守内にある城の模型(左側が本丸、右側が二の丸)
越前国丸岡城之絵図、江戸時代(出展:国立公文書館)

有馬氏が幕末まで統治

1695年、本多氏はお家騒動のために徳川幕府により改易となってしまいます。その後、有馬氏が丸岡城と丸岡藩の領主となりました。有馬氏は、江戸時代末期まで城を維持し、藩を統治しました。(キリシタン大名として有名な有馬晴信の家系に当たります。)

有馬氏の家紋、有馬瓜  (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)

「丸岡城その2」に続きます。