209.「桶狭間」の城砦群 その1

近年、桶狭間の戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきたのです。

イントロダクション

桶狭間の戦いといえば、まだ尾張国の一大名だった織田信長が、駿河・遠江・三河三カ国の太守・今川義元を討ち取った戦いとして有名です。戦いのイメージとしては、「桶狭間」という地名から、谷間で行われた野戦という印象が一般的でしょう。また、兵の少ない軍勢が、奇襲で大軍を打ち破ったという印象もあると思います。

桶狭間古戦場公園の織田信長・今川義元像

しかし近年、この戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきました。

今回は、桶狭間の戦いの背景と、その展開についての従来説・現時点での定説・最近出された新設をご紹介するとともに、戦いにまつわる城砦群もご紹介したいと思います。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(桶狭間の戦いと城砦群)

桶狭間への道

織田信長は、1534年(天文3年)織田信秀の嫡男として勝幡(しょばた)城で生まれました(参考資料①②より、以下番号のみ記載)。信秀は、尾張の守護代の重臣(清州三奉行)の一人でしたが、人望と経済力により、大きな勢力になっていました(①)。また信長が成長する間、当時の戦国大名としては珍しく、居城を勝幡→那古野→古渡→末森と移していて、信長にも影響を与えたと言われています(③)。他国に対しても威勢を示していて、例えば三河に対しては、1547年(天文16年)には岡崎城を攻め、松平広忠を降伏させています(嫡男竹千代が人質に)。また、美濃にも攻め込みますが大敗しています(1544年)。やがて、三河方面で太原雪斎率いる今川勢の攻勢が始まると、美濃の斎藤道三と和睦、信長と道三の娘(濃姫)が結婚することになります。(①)

織田信秀木像、萬松寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そんな中、信秀は病に倒れ、1552年(天文21年)までに亡くなりました。そのときは天皇による停戦勧告(1550年)により今川とも一時的に平和が保たれていましたが、尾張国内は不安定でした。実はこのとき信長は完全に家督を継承していたわけではなく、弟の信勝には本城・末森城や柴田勝家など重臣の大半が付いていたのです(信長は1542年から那古野城主、下記補足1)。信秀法要(葬儀または法事)のとき、信長がバサラな格好で焼香を投げつけた一方、信勝は家督継承者にふさわしい佇まいで座っていたというエピソードもそれを表しています。(ときに信長19歳、①②)

(補足1)一、末盛の城、勘十郎公(信勝)へまいり、柴田権六・佐久間治右衛門、此外歴々相添へ御譲りなり(「信長公記」原文)

また、信長の家(織田弾正忠家)の上位の守護代家の一つ(織田大和守家)も清州城に健在でした。この状況下で、織田方の山口教継が今川方に寝返り、鳴海城などに立てこもりました。また、守護斯波氏の家臣(小守護代)の坂井大膳(さかいたいぜん)らも今川方につこうとしていました。(①)

これに対し、信長は敢然と今川方に反抗し、赤塚の戦い、萱津の戦いにより、今川義元への対決姿勢を示しました(1552年)。尾張・美濃国境の聖徳寺で、斎藤道三と会見し、バサラの恰好から正装に変身し、自慢の長槍隊・鉄炮隊を見せつけたのは翌年のことです。そして、坂井大膳・織田大和守家によるクーデター(守護殺害)に乗じて、清州城を攻め、ここに入城したのです(中市場の戦い、1553年)。協力者の叔父・信光が亡くなると、信長は尾張下四郡を支配下に置きました(①)

試練はまだ続きます。1556年(弘治2年)、舅の斎藤道三が、その子の義龍に討たれたのです。この事件後、斎藤氏と尾張のもう一つの守護代家・織田伊勢守家(岩倉)が、反信長に転じます。そしてこの状況を見た信長家臣(林秀貞ら)まで、弟の信勝をかついで敵対してきたのです。この危機においても、信長は稲生の戦いで勝利し、1558年(永禄元年)には織田伊勢守家にも勝利しました。これにより尾張をほぼ統一したのです。この裏では、守護の斯波氏を追放し、信勝も粛清しています。(①)

斎藤道三肖像画、常在寺蔵・東京大学史料編纂所模写 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その頃、今川方でも軍師の太原雪斎が亡くなって混乱状態にありました(1557年織田・今川間で再度の停戦成立)。しかし尾張における今川の拠点として、鳴海城の外、調略により大高城を手に入れていました。(1559年、①③)近年この大高城が注目されています。当時、この城は海に接していて、ここからは陸海両方から、信長の本拠地・清州城や商港・熱田に迫ることができるのです。城自体も巨大な空堀に囲まれていて、当時としては最先端の防御力を備えていました。(③④)実際、桶狭間の戦いのときには、今川方の軍船千艘が、大高城の下の河口まで乗り入れています(下記補足2)。この城は尾張確保のホットスポットだったのです。

(補足2)河内二の江の入道、うぐいらの服部友定は、義元に味方するといって、軍船千艘ばかり、海上に蜘蛛の子を散らしたように並べ、大高城の下、黒末川の河口まで乗り入れた(⑤)

「「尾州大高城図」(国立国会図書館デジタルコレクション)

信長は、今川方の補給を防ぎ、監視するため、鳴海城の近くに丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、大高城には鷲津砦・丸根砦を築きました。また都に上洛し、そのことを通じ、六角氏と結んで背後を固め、最新の武器も調達したとも考えられています(③)。

城砦群の位置

1560年、永禄3年5月12日、今川義元は尾張攻略のために自ら駿府を出陣しました。具体的には、大高城・鳴海城への後詰を行うことです。家督はそれまでに息子の氏真に譲っていました。その軍勢は2万5千と言われています。(①④)今川重臣(関口氏純)の書状にも、義元は尾張国の「境目」地域に出陣する、と書かれているので、最現在では上洛説は否定されています(➉)。しかし、義元は貴族が都で使う塗輿に乗って出陣しているので、あわよくばと思っていたかもしれません(③)。一方、27歳になっていた信長の兵力は3千でした。(①④)信長が追い詰められていたのか、それとも義元が出陣せざるをえなくなったのか、見方は分かれますが、尾張の重要拠点をめぐる戦いが起こったことは確かでしょう。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
今川義元肖像画、高徳寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

従来説・桶狭間の戦い(迂回奇襲説)

まず従来説として「日本戦史 桶狭間役」に基づき、戦の経緯を追ってみましょう。内容としては「迂回・奇襲説」になります。このときの義元の目的は都への上洛でした(下記補足3)。5月18日、今川軍は沓掛城にて翌日の分担を定め、翌19日明け方から松平元康らが、丸根・鷲津砦を攻撃、これを落として大高城に入りました。

(補足3)今川義元近隣諸国ノ方サニ無事ナルヲ好時機ト為シ京師ニ詣リ将軍足利義輝ニ謁シ以テ威名ヲ揚ケント欲シ永禄三年五月朔日出兵ノ令ヲ領邑諸将士ニ発ス蓋シ沿道諸国ノ我行ヲ遮ル者ヲ伐ントスルナリ(⑥)

旧日本陸軍参謀本部「日本戦史 桶狭間役」(Google Booksより)

織田方は今川方に対処するため、清州城で軍議を開いていました。家老たちは、兵が少ない状況での野戦を避け、籠城策を主張しましたが、信長は城外で戦うことを決します。しかし18日夜、丸根砦より警報が来ても動かず、翌19日未明(午前2時頃)になって突然出陣を命じたのです。そして朝、熱田神宮を経由して鳴海方面に向かう途中、丸根・鷲津砦から立ち上る煙を見て、その陥落を知りました。織田軍は、丹下砦を経由し、善照寺砦に集結しました。

善照寺砦跡

織田軍の一部、佐々政次ら(3百人)は、鷲津砦を落とした今川隊に対し攻撃を仕掛けましたが、散々に打ち破られました(政次も討死)。これを見た信長は憤激に絶えず、敵前の中島砦に進もうとしますが、家老が必死に止めました。そのとき、梁田政綱の間者が、義元の本体は大高城に入るため、桶狭間に向かっていて、その近くの田楽狭間で休息していると告げました。政綱は、敵は勝利により油断していて、兵を潜め、不意に本隊を攻撃すれば、必ず討ち取ることができると進言したのです(下記補足4)。信長はこの策を取り、迂回路を通って義元に迫りました。

(補足4)政綱乃チ信長ニ勧メテ曰ク東軍霎時(しょうじ)ニ両砦ヲ陥レ必ス驕リテ備エサラン今兵ヲ潜メテ其不意ニ出テ本軍ヲ擣(つ)カハ義元ヲ獲ル必セリト(⑥)

案の定、義元本隊は勝利に浮かれ、酒宴を催し、警備を怠っていました。しかも織田軍が迫った正午ごろ、俄かに暴風雨となり、その接近は気づかれず、その間に山に潜みました。そして雨が上がったところで(午後2時ころ)義元めがけて突撃、見事首級を挙げたのです。この戦いでの一番の戦功は、義元を討ち取った者(毛利秀高または新介)ではなく、梁田政綱でした(沓掛城及び三千貫)。

「尾州桶狭間合戦」、歌川豊宣作(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大軍を少人数の奇襲で打ち負かすという、日本人好みのストーリーだったことで、この説は長い間史実と信じられてきました。しかし現在では信頼できないものとされています。多くの部分は、後世の軍記物などからのフィクションによって構成されたものだったからです。従来説を作った参謀本部はこのストーリーを、明治の新興日本の弱小軍隊が大国に勝利するために採るべき戦術の模範例として創作したのです。(⑦⑧)

定説・桶狭間の戦い(正面攻撃説)

次に現在定説となっている正面攻撃説(藤本正行氏による)をご紹介します。この説は、信長家臣・太田牛一が著した信長の伝記で信頼性があるとされる「信長公記」を基にしています。従来説と違いが大きいところを述べてみます。なお、義元出陣の目的は、大高・鳴海城への補給と、織田方による封鎖の解除と考えられています。

「信長公記」、陽明文庫蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

まず今川軍ですが、義元は5月17日に沓掛城に到着、19日朝まで滞在したとしています。そして18日夜から松平元康隊が大高城に兵糧を入れています。(⑦⑧、補足5)

(補足5)五月十七日、一、今川義元沓懸に参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、(「信長公記」原文)

一方、清州城の信長は、家老たちとは世間話だけで帰宅させました。家老たちは信長を嘲笑していました。夜明け方、砦が攻撃されていると聞くと、信長は「敦盛」の舞を舞いました。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」という有名な場面です。そして出陣したのです。

ここから織田軍が善照寺砦に集結したところに飛びます。このとき今川義元は「桶狭間山」に陣を張っていたのです。つまり義元がいたのは谷間の低地ではないのです。また、元康隊には大高城で休息を取らせていました。(⑦⑧下記補足6)

(補足6)御敵今川義元は四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり。(中略)今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高に兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依て、人馬の息を休め、大高に居陣なり。(「信長公記」原文)

そして、佐々政次らが討ち取られた場面を、義元も上から見て、勝利の謡をうたったのです。つまり織田・今川両軍は真正面に対峙していたことになります(下記補足7)。

(補足7)是を見て、義元が矛先には天魔鬼神も忍(たまる)べからず。心地はよしと悦んで、緩々(ゆるゆる)として謡をうたはせ陣を居(すえ)られ候。(「信長公記」原文)

善照寺砦や中島砦方面の眺望がきく高根山からの景色

信長はといえば、家老が止めるのも聞かず、迂回どころか、敵の目下の中島砦に向かったのです。そして家臣たちにこう訓示しました。「皆、よく聞けよ。今川の兵は、宵に腹ごしらえをして夜どおし行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手を焼き、辛労して疲れている者どもだ。こっちは新手の兵である。少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は点にある。」しかし、眼前の敵は砦を攻めた兵ではないはずなので、これは信長の誤認とされています(⑤⑦⑧)。

中島砦跡付近

織田軍が山際まで進んだ時に暴風雨となり、雨は敵の顔、味方の後方に降りかかりました(東向き)。「沓掛の峠」のクスノキが雨で、東の方に倒れたほどです。雨が止むと信長は「それ、掛かれ、掛かれ」と叫び攻めかかりました。敵は後ろに崩れ、本陣に対して五度も攻撃を加え、ついに義元を討ち取ったのです(⑤)。これが「正面攻撃」たるゆえんです。

「沓掛の峠」かと思われる場所

しかしこの定説においても疑問点は残ります。主なものを3つ挙げます。
1,信長が、正面の義元の軍を「疲れている者」としたのは本当に誤認だったのか(⑦)。そうだとしても、わざわざ伝記に書く必要があるのか。
2.義元が織田軍を見下ろしたとされる一帯と、現在「桶狭間古戦場」とされる一帯は1km以上離れている。織田軍が押したとしても、離れすぎてはいないか。
3.義元は5月17日に沓掛城に着いて、19日まで宿泊したことになっているが、18日はなにをやっていたのか。

新説・桶狭間の戦い(後退追撃説)

これらの疑問点に答えるものとして最近出されたのが、義元が大高城に入城し、城確保という目的を果たしたので撤退していたという説です(かぎや散人による)。この説では、今川方だった徳川家臣・大久保彦左衛門の「三河物語」も活用しています。

「三河物語」に書かれた義元の行動は、5月17日に知立(池鯉鮒)に着き、翌18日に大高城に行って丸根砦を巡検し、軍議の結果、19日に元康に攻めさせたと解釈できるというのです(①⑦、下記補足8)。

(補足8)永禄三年五月十九日に義元は、(前日に)知立から手順どおりに大高城に行って、丸根砦をつくづくと巡検して、諸大名を集めて少し長い時間、軍評定を行って、それならば攻め取ろうと(中略)もとから逸る気持ちの松平元康だったので、丸根砦に押寄せ攻めたてた(「三河物語」、現代語訳は⑦より)

ここからは想定になりますが、義元は、救援にかけつけるであろう信長を討つために、古くからある小川道を通って、鳴海方面を一望できる漆山に布陣したと考えられます。しかし信長は来ず、砦は陥落し、当初の目的は果たしたので、大高城には元康を置き、義元は撤退を決めたのです。これも古くからの長坂道を通って高根山に至ります。ここからは善照寺砦も見えるので、敵勢を討ち取り、義元が謡をうたったのはこの場所と考えられます。そこから更に撤退して、現・桶狭間古戦場付近(桶狭間村)の山に至ったのです。

桶狭間周辺の起伏地図

漆山付近からの眺望

この状況は「三河物語」の記述からある程度裏付けられます。三河の兵士たちは、義元が討ち取られる前から撤退を急いでいた、及び織田軍を山から見下ろしていたという記述がみられるのです(①⑦、下記補足9)。

(補足9)(石川六左衛門尉がいうは)「ここに押しよせたなら、すぐに棒山を攻め落とし、番手を早く入れかえ、いったん退却しなくてはならなかったのを、あまりにぐずぐずしていて、決断が遅れた。よい結果にはなるまい。すぐに帰陣せよ」
(石川六左衛門尉が織田の軍勢を見て)「敵の人数は少なく見積もっても五千はある」という。そのときみなが笑って「どうして五千もあろうか」という。そのとき六左衛門尉笑って、「みなさまは人の数のみかたをご存じない。高いところにいる敵を下から見上げたときはすくない人数も多くにみえるものだし、また下にいる敵を高いところから見下ろすと多くの軍勢もすくなくみえるものだ。」(⑨)

信長は、今川軍が大高城から山の上を撤退していたのを、追っていたのです。ですので、信長の訓示は誤解でもなんでもなかったのです。信長は今川軍と同じ長坂道を登っていくつもりでしたが、ここで暴風雨となり、方針を変えます。その頃は間道だった現・東海道を東へ進み、太子ヶ根(現在の大将ヶ根交差点付近)と呼ばれるところに至ります。ここであれば、沓掛の峠で倒れるクスノキも見ることができたはずです。ここから南に折れ、谷筋(現・釜ヶ谷)を通って義元本陣に突入しました。この攻撃は雨を利用した「迂回・奇襲」策でもあったのです(①⑦)。

大将ヶ根交差点

個人的には、義元はこんなに危ない目に合うなら、大高城にいたはずではないかと思ってしまいます。実は、江戸時代から同じ議論があったそうです(①、補足10)。一体、義元の意図はなんだったのか、上洛か、尾張奪取か、信長征伐か、大高城に絞っていたのか、古くて新しいこの議論がますます活発になってほしいと思います。

(補足10)「一説には十八日に義元が大高城へ行き、大高城で評議をして丸根・鷲津の両砦を落としたあと、桶狭間山の北に陣を敷くというものがあるが、この説は間違っている。もし義元が丸根・鷲津の砦を攻め落としたら、鳴海にも近いため、善照寺砦や中島砦を攻め取れそうなものだし、さらに熱田方面へ侵攻することもできよう。そしてまた、敵地だからと用心するなら大高城に入っていればいいのに、なぜそこから後退して桶狭間の山の上などに陣を置いたというのか。そんな行動は理解できないゆえ、この説は間違っている」(尾張藩主従医・山崎真人「桶狭間合戦記」、現代語訳は①より)

大高城跡

「「桶狭間」の城砦群 その2」に続きます。

リンク、参考情報

①「若き信長の知られざる半生/水野誠志朗著」ぴあ株式会社
②「中世武士選書10 織田信長の尾張時代/横山住雄著」戒光祥出版
③「英雄たちの選択「ここまでわかった!若き信長の「桶狭間の戦い」」」NHK BS放送
④「ブラタモリ「なぜ織田信長は“桶狭間の戦い“に勝てたのか?」NHK放送
⑤「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑥「日本戦史 桶狭間役」旧日本陸軍参謀本部
⑦「歴史群像157号 新解釈・桶狭間の戦い/かぎや散人・水野誠志朗著」Gakken
⑧「信長の戦国軍事学/藤本正行著」洋泉社
⑨「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
➉「織田信長 戦国時代の「正義」を貫く/柴裕之著」平凡社

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