41.駿府城 その1

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。

立地と歴史(家康が3回住んだ城)

イントロダクション

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。一回目のときは今川氏の城で、二回目に家康自身の城になったのですが、このときまでの城の姿は謎に満ちているのです。それに大御所時代に築かれた巨大な天守は、短期間で燃えてしまい、日本最大と言われる天守台も明治期に壊されてしまいました。しかし近年発掘調査が行われ、明らかになりつつあります。この記事では、家康が住んでいた3つの時代毎に、駿府城の歴史と謎をご説明したいと思います。家康後の歴史もあります。

駿府城になる徳川家康銅像

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竹千代がいた今川氏の城

室町時代に駿河国守護だった今川氏が、いつ本拠地を駿府に置いたのかははっきりしません。しかし四代目の範政が、将軍・足利義教を「府中」に迎えているので、これ以降本拠であったことは確実です。駿府は、南を駿河湾、残り三方を山に囲まれていて、鎌倉のような地形になっています。要所には支城が築かれて、防御を固めていました。しかし、本拠にあった今川館(いまがわやかた)は、堀や土塁に囲まれてはいるものの、京都の公方亭のような華やかな建物だったと考えられています。今川氏の全盛期には、駿府は日本有数の平和で繁栄した街だったからです。

駿河国の範囲と駿府城の位置

城周辺の起伏地図

将軍亭「花の御所」、上杉本陶版「洛中洛外圖」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その今川館があった場所ははっきりとはわかっていません。現在残る本丸辺りだろうとも思えますが、城は後世かなり改変されてしまっているからです。発掘調査で発見された遺構や、文献資料などから、本丸・二の丸の範囲にあったことは確実なのですが、もっと絞れば、二の丸坤櫓辺りだろうとする意見があります。この辺が城内では標高が高く、富士山を望むような建物の配置になっていたと推定されるからです。この近くには、室町時代以来と思われる「四足御門」という名前の門が江戸時代までありました。

今川館の推定範囲(緑の線内)、駿府城東御門内にて展示

1549年(天文18年)、11代当主・今川義元の下、全盛期だった駿府城に、8歳の竹千代こと家康が、松平氏の人質としてやってきました。これまでこの「人質」時代は、家康の一生のなかで忍耐のときと捉えられてきましたが、実際には制限はあっても充実した生活を送っていたようです。有名な安倍川の石合戦のエピソードのほか、この頃から鷹狩りをしていました。そして今川氏からも配下の中で優遇され、元服後に義元から一字をもらって「元康」と名乗り、妻も義元の姪と言われる築山殿でした。更に「軍師」である太原雪斎から直接教育を受けました。家康は、今川氏の重臣となるよう期待されていたのでしょう。1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いの前には、今川氏の拠点、大高城に兵糧を運び入れる働きをしました。ところが、大将の義元が織田信長に討ち取られてしまったのです。家康はこれをきっかけに独立大名となります。

復元された「竹千代手習いの間」、駿府城巽櫓内にて展示

義元を失った今川氏は、凋落の道を辿ります。北は武田信玄、西は家康から圧迫を受け、1568年(永禄11年)ついに信玄は駿河侵攻を開始しました。後継ぎの今川氏真はそれに対峙しようとしますが、重臣の離反が相次ぎ、一戦も交えずに、西の掛川城に退去しました。駿府には武田軍が攻め込み、当時の駿府城・今川館も炎上しました。一つの時代が終わったことを象徴する出来事でした。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣大名・家康の城

織田信長が本能寺の変で倒れた後、家康は5か国を領有する大大名になっていました。当時の本拠地は浜松城でした。1584年(天正12年)には、天下人となる羽柴秀吉に小牧・長久手の戦いで対峙しました。その翌年(1585年、天正13年)、家康は駿府に本拠地を移しました。これは拡大した領国範囲に対応したものと言えますが、秀吉との再度の戦いに備えたものとも考えられます。その範囲は現在の本丸・二の丸程度でした。家臣の松平家忠の日記には、その築城過程が記録されています。築城は天正13年7月に始まり、翌年12月に家康が入城しました(下記補足1)。このときの城の姿は、それまでの浜松城などと同様、土造りの城であったと想定されています。家康は、本格的な石垣を築く技術や職人集団を持っていなかったのです。1587年、天正15年2月に城は一旦完成しました(「家忠日記」「当代記」)。

駿府城の航空写真(国土地理院)、二の丸ライン(赤線)を付加
家康時代の浜松城の想像図、現地説明パネルより

(補足1)「駿河府中普請」のため、家忠が出張(「家忠日記」天正十三年八月十四日付)「御かまへ二のくるわ堀(二の丸の堀)普請候」(同天正十五年二月五日付)「殿様今日駿へ御座候由候」(同天正十五年十二月四日付)

家忠日記(複製)、駿府城東御門内に展示

ところが、それと同時に新たな工事の準備が始まりました。石垣の工事でした(下記補足2)。その直前、1586年、天正14年10月、家康が上洛し秀吉に臣従していました。それを境に始まったのです。「石垣の城」を築かなかった家康に、豊臣政権が関与したことが記録上からも伺えます(下記補足3)。更には、「てんしゅ(天守)の材木を準備したという記録も見られます(下記補足4)。しかし記録からでは、石垣や天守の規模はわかりません。

(補足2)「城普請出来候、石とり候(「家忠日記」天正十七年二月付)」「来一日より駿河御城御普請候由、酒左衛門督(酒井忠次)より申来候」(同天正十五年九月十七日付)
(補足3)「てんしゅの才木てつたい普請あたり候」(「家忠日記」天正十六年五月十二日付)
(補足4)「駿河府中の石垣の普請あり、去る去る年より、事始めあると雖も、上方不快の間、指て事行ず。いま、秀吉公入魂せしめたまい、普請宜々、出来の間、浜松より北の方をも引越し給う。」(「当代記」天正十五年丁亥二月付)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

2016年、大御所時代の天守台の発掘調査が行われましたが、その下から天正時代の当時としては巨大な天守台と、大量の廃棄された金箔瓦が発見されました。天守台の大きさは秀吉の大坂城をもしのぎ、天下人クラスのものでした。そのため、当初は家康が築いたものとはされず、家康が関東に移った後駿府に来た、中村一氏のときに築かれたのではないかとされました。一氏は秀吉の家臣(当時は秀次家老)だったので、秀吉の肩入れで築かれたということです。関東周辺には、秀吉の家臣による総石垣・金箔瓦の天守がいくつも築かれ、家康包囲網ともいうべき城郭ネットワークが構成されました。駿府城もその一つと考えられたのです。見つかった金箔瓦は一か所に廃棄されていて、家康が再度城を築くときに意図的に壊されたとも言えるのです。

発掘された天正期の天守台
出土した金箔瓦、駿府城東御門内にて展示
中村一氏像、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところがまた事態は一変します。2019年に天守台に付随する小天守台が発見されたのです。これは家康家臣の記録の一つ「小傳主(小天守)を築く」と一致するということになったのです(下記補足5)。にわかにこの巨大天守は家康が築いたという可能性が出てきたのです。学者の中には、この時期に家康が独力で石垣・天守を築く能力を身に着けたと考える人もいます。しかし一方で、一連の石垣・天守工事は小田原合戦準備のため短期間で終わっていて、その間にこれだけのものを築けたのかという疑問もあります。また、家康が関東に移った当初の江戸城はとても質素で、豪華な石垣や天守は関ヶ原合戦の後と考えられているので、それとの整合性はどうなのでしょうか。それから見つかった金箔瓦は、織田系・豊臣系両方の特徴を示していて、独自性が感じられます。このことは家康築城説に有利なのかもしれません。発掘調査は2020年に終了しましたが、今後の研究成果が期待されます。

(補足5)「小傳主てつたい普請當候」(「家忠日記」天正十七年二月十一日付)

駿府城の金箔瓦(複製)、左側が豊臣系、右側が織田系の特徴をもつ、駿府城東御門内にて展示

天下人・大御所の城

関ヶ原合戦の勝利、征夷大将軍就任により天下人となった家康は、1605年(慶長10年)早くも将軍職を後継ぎの秀忠に譲りました。その隠居城となったのが駿府城です。馴染みのある地で余生を楽しむという感じも受けますが、実際には自由な立場で天下の政権運営を行うためでした。家康は将軍時代、ほとんど上方の伏見城にいたので、江戸との中間点で、両方目配せができる場所を選んだのでしょう。また、大坂城の豊臣方が西国大名とともに江戸を攻める場合、防衛線にもなりうる拠点でした。1607年(慶長12年)、天下普請により新たな築城が始まりました。その範囲は、現在の三の丸が追加される形と考えられますが、中身は大改修となりました。三の丸のラインが二の丸以内とずれているのは、城下から見て、富士山と天守が同時に視界に入る仕掛けと言われます。慶長12年中にほぼ完成していましたが、12月22日、本丸・天守が全焼してしまいました。これは奥女中の火の不始末が原因とされますが、火事は度々起きていて、豊臣方の策謀ではないかという説もあります。再建工事が直ちに開始され、翌1608年、慶長13年8月14日に家康が入城しています。

駿府城の航空写真(国土地理院)、三の丸ライン(緑線)を付加
石垣工事のジオラマ、駿府城東御門内にて展示

城の中で際立つのは、まず天守台です。2016年からの発掘調査の結果、一番下の部分(基底部)で東西約63m、南北約69m、という日本最大規模であったことがわかりました。残っている記録(陸軍実測図)によると、最も高い部分(天端)でも東西約48m、南北約50mで、最盛期の江戸城・大坂城をしのぐものでした。また、天守は天守台一杯に築かれたのではなく、周りを櫓と渡櫓が囲み、中心部に天守が立つという珍しいスタイルでした(環立式)。天守の建物は6重7階で、高さは約33mありました。屋根には貴重な銅瓦(+金属瓦)が用いられていました(家康時代の江戸城も銅瓦を使用)。ただしどんな外観だったかは、詳細な設計図がなく、短期間で焼失したため(1610年完成、1635年焼失)、よくわかっていません。いくつか絵図が残されていますが、異なった描き方をされています。今後の研究の進展が待たれます。

発掘された慶長期の天守台
天守台模型、駿府城東御門内にて展示
駿府城天守の模型、発掘情報館「きゃっしる」にて展示

城全体ですが、平城であっても三重の堀で囲まれ、戦いに備えていました。西側の方が標高が高く攻められやすいため、防御が厳重でした。三の丸西側には門がなく、二の丸西側の清水御門は上げ下ろしができる跳ね橋だったようです。坤櫓のような櫓も厳重に守りを固めていました。他の方角にある門も、大鉄砲等も破壊されにくい、内枡形構造となっていました。そのうちの一つ、東御門が現在復元されています。その他、城内を仕切るための仕切石垣も採用されていました。駿府城独特のものとしては、本丸堀と二の丸堀をつなぐ水路が作られ、堀の水位を保てるようになっていました。また、天守台には、全国的に珍しい井戸が設けられ、籠城にも備えていました。

駿府城模型、駿府城東御門内にて展示
復元された坤櫓
復元された東御門
二の丸水路

一方で大御所・家康がいた駿府城は、日本の政治の中心地の一つになりました。家康が生活し、政務を執ったのは本丸御殿です。本田正純などが側近として仕え、江戸の秀忠と分担して二元政治を行っていました。そのうち軍事・外交に関しては家康が取り仕切っていたため、駿府には、諸大名だけでなく、外国使節も訪れ、日本の首都機能の一翼を担うような都市になりました。1609年(慶長14年)からは、家康十男・頼宜が駿府城主になり、家康と一緒に過ごしました。1614年(慶長19年)、大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件が起こり、家康が、弁明のために駿府城に来た片桐且元には面会せず、後から来た大蔵卿には面会することで、豊臣方の分断を図ったというエピソードは有名です。家康は、大坂冬・夏の陣とも駿府城から出陣し、豊臣氏を滅ぼした翌年(1616年、元和2年)に亡くなった場所も駿府城でした。

家康の洋時計(複製)、発掘情報館「きゃっしる」にて展示
徳川頼宜肖像画、和歌山県立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

徳川頼宜は、1619年(元和5年)に和歌山に移っていきました。その後、秀忠の三男・忠長が駿府城主になりますが(1624年、寛永元年)、兄の3代将軍・家光により改易されました(1632年、寛永9年)。以降は幕府直轄になり、城代が置かれました。城外には城を警備する加番も置かれました。幕府の「聖地」を守るお役目です。1634年(寛永11年)には家光の宿泊所として使われましたが、翌年の火災で天守・御殿・櫓などが全焼、天守は再建されませんでした。その後も地震などで度々被害があり、将軍の上洛もなくなったことで、本丸御殿などの規模は縮小していきました。

加番の一つ、三加番の屋敷跡

そして幕末の動乱を迎えたとき、駿府城は再び注目を浴びました。鳥羽・伏見の戦いの後、新政府の東征軍が組織され、江戸に向かって行軍してきたのです。そのときは江戸の「最後の将軍」徳川慶喜は恭順の方針であり、名古屋城を擁する尾張藩も新政府に付いていました。最期の駿府城代・本多正納(まさもり)は城を開け渡ざるをえませんでした。1868年、慶応4年3月、新政府の拠点となった駿府に、慶喜・勝海舟の使者として山岡鉄舟がやってきました。彼は、新政府参謀の西郷隆盛と面会し、江戸開城の条件交渉を行いました。それが有名な勝・西郷会見につながったのです。江戸開城が成ると、慶喜を継いだ徳川家達(いえさと)が駿府藩主として駿府城に入城しました。家康の子孫がまた戻ってきたのです(廃藩置県後は東京に移住)。慶喜も水戸謹慎後は、駿府改め静岡に移住し、1897年(明治30年)まで暮らしました。

西郷・山岡会見の史跡碑
明治初期の徳川家達

明治時代になると、城は陸軍が管轄していましたが、建物は売却され、城内は荒れ果てていきました。三の丸の部分は市街地化しました。1889年(明治22年)になってようやく「廃城」扱いになり静岡市に払下げされましたが、その使い道は陸軍の誘致でした。1896年(明治29年)にはついに天守台が崩され、本丸堀が埋められました。二の丸以内が歩兵第34連隊の敷地になったのです。戦後は都市公園「駿府公園」として再出発しますが、堀の埋め立てや石垣の破壊が続いていました。1975年(昭和50年)から発掘調査が行われ、それから史跡として注目されるようになります。その到達点として、1996年(平成8年)東御門・巽櫓復元、2014年(平成26年)の坤櫓の復元があります。公園の名前も2012年(平成24年)に「駿府城公園」に変更されています。

駿府城の復元された巽櫓

「駿府城 その2」に続きます。

35.金沢城 その4

今回は、石川県にある辰巳ダム石碑の前からスタートします。このダムの近くに、辰巳用水の取水口があるのです。金沢城の歴史編のとき、兼六園の水は辰巳用水から引かれているとご説明しました。そもそも辰巳用水は何のために作られたかというと、金沢城の堀水や、生活・防火のためでした。辰巳用水を追えば、兼六園と金沢城がつながるのです。今回は、金沢城の番外編として、金沢城だけでなく、地域の重要なインフラとして使われている辰巳用水を取り上げます。

特徴・見どころ(辰巳用水紀行)

Introduction

今回は、石川県にある辰巳ダム石碑の前からスタートします。このダムの近くに、辰巳用水の取水口があるのです。金沢城の歴史編のとき、兼六園の水は辰巳用水から引かれているとご説明しました。そもそも辰巳用水は何のために作られたかというと、金沢城の堀水や、生活・防火のためでした。辰巳用水を追えば、兼六園と金沢城がつながるのです。今回は、金沢城の番外編として、金沢城だけでなく、地域の重要なインフラとして使われている辰巳用水を取り上げます。

辰巳ダム石碑

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辰巳用水の出発点

辰巳ダムは、洪水調節専用のダムとして、2012年に完成しました。「洪水調節専用」とは、普段は水を貯めこまず、大雨のときに貯水して、下流での被害を防ぐ用途です。当初の計画では、辰巳用水の取水口が水没する恐れがありましたが、ダムの位置が変更になり、辰巳用水用の放流口も設けられました。辰巳用水自体も、2010年に国の史跡に(一部)、2018年には土木学会選奨土木遺産になっています。辰巳用水の取水口はダムの上からも見ることができますが、ダム見学のための展望デッキがあって、そこからの方がよく見えると思います。ここにある「東岩取水口」は3代目で、当初下流にあったものを、取水量確保のために2度移したそうです。柵が付いているところが取水口です。そこから金沢城まで、約11キロメートル続いているのです。

辰巳ダム
東岩取水口

金沢では1631年(寛永8年)に大火があり、城や城下町に大きな被害がありました(寛永の大火)。時の藩主、前田利常は防火・生活用水確保のために城への用水開削を命じました。それを指揮したのが、小松出身の町人・板屋兵四郎で、わずか1年で完成させました。ところがその功績にも関わらず、藩の歴史書(正史)には用水のことは載らず、彼のこともほとんどわかっていないのです。工事が終わって亡き者にされたとも、別の所で活躍したとも言われています。真相は不明ですが、藩の最高機密だったことは確かでしょう。この用水で素晴らしいのが、取水口から自然の勾配のみで導かれていることです。当時は当たり前だったのでしょうが、今ではかえってすごいと思ってしまいます。特に取水口から約4キロメートルは、手掘りのトンネルを通っています。残念ながら、通常は見学できませんが、ほぼ正確な勾配(200分の1)で貫かれているそうです。技術もすごいですが(先進導坑工法・横穴工法など)、かなりの突貫工事だったようです(「加賀の四度飯」と言われた)。

江戸時代の辰巳用水を描いた「金城上水新川口図」、現地説明パネルより
手掘りのトンネル、現地説明パネルより

巧みに流れる用水

続いて、辰巳用水の流れを追ってみましょう。先ほどの辰巳ダムから1キロちょっと下流の地点に「三段石垣」があります。前方が小立野台地で、背後には犀川が流れています。その石垣の最上段のところを用水が流れているのですが(切石のアーチに覆われている)、台地の斜面が崩れやすく、用水の勾配を維持するために築かれたとのことです(全長260m)。この石垣はものすごく実用的で、「色紙短冊積み石垣」とはまるで用途がちがいます。

三段石垣
金沢城の色紙短冊積み石垣

次は、用水の中間点辺りの「土清水塩硝蔵跡(つっちょうずえんしょうぐらあと)」に来ました。金沢藩が、辰巳用水を利用した水車によって、火薬を製造していた場所です。用水とともに国の史跡に指定されています。足元の側溝を水が流れていますが、その元が辰巳用水で、オープンになっています(開渠)。今はきっと農業用水としても使われているのでしょう。こういうところも、自然に流れるようになっています。この辺りでは、辰巳用水沿いに、遊歩道が作られ、散策できるようになっています(約2km)。気持ちのよい散歩道です。もとは用水の見張りをするための道だったようです。:現在は、果樹園・雑木林・竹林に囲まれた道に整備されています。

土清水塩硝蔵跡
側溝を辰巳用水からの水が流れています
辰巳用水と遊歩道

いよいよ兼六園の近くまで来ました。古い土塀が続いていますが、加賀八家の一つ、奥村家(宗家)上屋敷跡の土塀です。この脇を流れているのが辰巳用水です。この用水の向かう先が兼六園です。ただ、現在では水質確保のため、ずっと上流から兼六園専用地下流路があるそうです。きわめて現代的な用水事情です。

奥村家(宗家)上屋敷跡の土塀と辰巳用水、その先が兼六園

この近くには、他のおすすめスポットもあって、一つは石川県立歴史博物館の屋外に、用水で使われた石管が展示されています。一瞬大砲の筒かと思ってしまうほどです。この辺りはかつて重臣たちの屋敷地で、ここには加賀八家の筆頭・本多氏が住んでいました。本多正純の弟、本多政重の家です。歴史博物館のとなりには、加賀本多博物館があって、ゆかりの品を見学できます。

展示されている石管
大砲の筒のようです
加賀本多博物館内の展示

それから兼六園入口近くには、石川県立伝統産業工芸館では、松平定信が揮毫した「兼六園」の扁額が展示されています。兼六園の命名者とも言われています。兼六園の名前の由来は、六つの名勝(宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望)を兼ね備えていることですが、少なくとも「水泉」は辰巳用水のおかげです。

「兼六園」の扁額

水泉の地・兼六園

兼六園にはいくつも入口がありますが、辰巳用水が流れてくる小立野口から入って、水の流れに沿ってご紹介したいと思います。

兼六園・小立野口

まず園内の水源を探します。沈砂池です。ここで用水から来た水を浄化します。そこから、山崎山の下の洞窟を通って、反対側に流れ出ています。それが「曲水」です。用水が自然の小川のように変身しています。辰巳用水の説明もあります。

沈砂池
山崎山
曲水
辰巳用水の説明板
曲水を渡る雁行橋

眺望台からの眺めもすばらしいです。その反対側では、曲水が霞ヶ池に注いでいます。あんなすばらしい眺望と、こんな豊かな池を一緒に見れるところが、またすごいです。これも、矛盾した名勝を実現したといわれる兼六園と辰巳用水のなせる技です。

眺望台からの眺め
曲水が霞ヶ池に合流する地点にある「瀬落とし」
霞ヶ池

ここからは、金沢城に向かって、栄螺山を見ながら下っていきます。また水路があります。瓢池(ひさごいけ)まで来ました。この辺りに「蓮池庭」を作ったのが、兼六園の始まりと言われています。ここには名所の「翠滝(みどりたき)」がありますが、さっきの水路から流れているようです。演出がすごいです。

栄螺山
途中にある水路
瓢池と翠滝

最後は、少し上の方に戻ってから、とっておきの見どころをご紹介します。噴水です。でもただの噴水ではなくて、水源の霞ヶ池との高低差を使った、動力を使わない「噴水」なのです。次の金沢城にも関係することですので、覚えておいてください。

噴水

辰巳用水 城での行方

金沢城の白鳥堀跡に来ました。上の方に、石川門の櫓が見えます。実はここも辰巳用水と関係あるのです。用水の水が、先ほどの兼六園の霞ヶ池から、石管でここまで落とされ、城内の内堀や二の丸御殿まで上げられたのです。機械もない時代にそんなことができたのは、先ほどの噴水と同じで、「逆サイフォンの原理」というそうですが、上流からの高い水圧を利用していたためです。これも、板屋兵四郎の功績とされています。当時、この原理は「伏越の理」と呼ばれていました。

白鳥堀跡
金沢城の給水の仕組み、現地説明パネルより

白鳥堀跡にはまだ水辺が残っていますが、現在は、井戸水を使っているそうです。堀跡は「白鳥路」という公園になっていて、これも気持ちのいい散歩道です。

堀跡に残る水辺
白鳥路

また、現在の内堀は復元されたもので、地下水を使っているとのことです。

復元された内堀

大手門跡の手前には、唯一そのまま残っている大手堀があるのですが、これも現在の水源は、井戸水と地下水になっています。

現存する大手堀

それでは、辰巳用水を使っている堀はなくなってしまったのかというと、そうでもありません。復元されている外堀(いもり堀)の一部分が、兼六園経由で辰巳用水から給水されているのです。これは、城にとっての、辰巳用水の復活といえるでしょう。それから、玉泉院丸庭園も復元されてから、いもり堀から給水されていますので、間接的に辰巳用水を使っていることになります。かつてのやり方と違う点はあるかもしれませんが、着々と城の再整備が進んでいるのは確かです。

復元されたいもり堀
玉泉院丸庭園

リンク、参考情報

歴史都市金沢のまちづくり、金沢市ウェブサイト
水土の礎
水の物語、兼六園観光協会

「金沢城その1」に戻ります。
「金沢城その2」に戻ります。
「金沢城その3」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

36.丸岡城 その2

丸岡城天守下の、駐車場に来ています。天守がある本丸は、ここから丘を登ったところにありますが、高さは20メートルもありませんし、通路もよく整備されています。城めぐりとしては、簡単に終わってしまいそうに思えます。しかし、今回は現地で唯一残っている天守を満喫したいので「天守尽くし」と称してご案内します。

特徴、見どころ

Introduction

丸岡城天守下の、駐車場に来ています。ここからなら、天守まですぐに行けそうです。ここはかつての二の丸で、裏門があった辺りでしょうか。天守がある本丸は、ここから丘を登ったところにありますが、高さは20メートルもありませんし、通路もよく整備されています。城めぐりとしては、簡単に終わってしまいそうに思えます。しかし、今回は現地で唯一残っている天守を満喫したいので「天守尽くし」と称してご案内します。

丸岡城駐車場

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

天守にアクセス

まず、天守に行くにも、2通りのルートを通って、天守の周りを見学します。最初は、駐車場から本丸の方に登っていきます。この通路は明治以降に作られたのですが(おそらく昭和時代に公園として整備されたとき)、現在、ビジターに一番よく使われています。階段を上がっていくと、すぐ本丸に着いてしまいます。

城周辺の地図

駐車場から本丸への通路

本丸に上がった所は「松の丸」とも呼ばれていて、本丸の正門と不明門(あかずのもん)がありました。実は不明門は、民家に移築されていて、調査により天守と同様の古さであることが証明されています。実は天守はひとりぼっちではなかったのです。現在券売所がある辺りにも埋門がありました。現代は関門がないので、簡単に天守の方に向かうことができます。

松の丸
不明門についての展示(丸岡城観光情報センター)
券売所周辺

もう一つのルートからアクセスしてみましょう。反対側から登ります。こちらも明治以降の通路になりますが、石垣が残っていて雰囲気が出ます(ここは通称「おとこざか」かもしれません)。途中から、天守の周りを歩いていけそうです。石垣が段状になっていて、腰曲輪のようです。昔の絵図(「越前国丸岡城之絵図」)も同じようになっています。城らしい場所です。

反対側からのルート
腰曲輪
「越前国丸岡城之絵図」の本丸部分、出展:国立公文書館

進んでいくと、井戸があります。説明板によると、一向一揆との戦いのときに、この井戸から大蛇が出て、霞をかけて城を守ったという伝説があるそうです。井戸から上がるところも、門の跡のようになっています。天守に着きました。

伝説をもつ井戸
天守の方に向かいます
天守に着きました

古風な天守を鑑賞

古風な天守のルックスを、改めて鑑賞しましょう。この姿を見ていると、どうしても現存最古の天守に思えてしまいます。無理もありません、この天守は古風な天守の特徴をいくつも持っているのです。

丸岡城天守

一つ目は、望楼型天守であることです。望楼型とは、大きな入母屋造りの建物の上に、望楼を乗せた形式で、初期の天守に見られた特徴です。例えば、新しい型式(層塔型)の福山城天守と比べると、全然違います。

望楼型天守の典型、犬山城天守
福山城天守(外観復元)

次に、最上階に廻縁や高欄(べランダ)が取り付けられていることが挙げられます。これも、初期の天守に用いられていました。でもこの天守には、当初は違うもの(腰屋根)がついていました。廻縁は、外には出られない飾りとして後付けされました。

当初の天守想像図、丸岡城観光情報センターにて展示

それから、板張りの多くの部分がむき出しになっていることも挙げられるでしょう。松本城天守などに、同様の特徴が見られます。松本城の場合は、黒い部分が漆塗の下見板張りになっています。

松本城天守

更には、石垣が古い形式(野面積み)であることと、石瓦を使っていることも、武骨で古風に見せています。丸岡城天守は、現存天守唯一の石瓦葺きで、近隣の北ノ庄城や、福井城も、石瓦を使っていました。寒冷地に適応できる耐久性があったことと、越前国では、笏谷石が優れた石材として知られていました。安土城天守台階段に、笏谷石を使ったタイルがありますが、柴田勝家が織田信長に献上した石を使ったと言われています。しかし、廻縁と一緒で、この天守は当初、こけら葺きで、後から石瓦葺きになったのです。現在まで必要に応じ、瓦の修理・交換が行われていますが、笏谷石の調達は困難になっているため、昭和時代から石川県産の石材を使っているそうです。

天守台石垣
笏谷石の石瓦、丸岡城観光情報センターにて展示
福井城の模型、福井市立郷土歴史博物館にて展示
安土城で使われている笏谷石のタイル
一時使われていた石製の鯱、丸岡城観光情報センターにて展示

最近行われた調査により、この天守は、現存最古ではないことがわかったのですが、天守を築いた本多成重やその跡継ぎたちが、意識して古風なスタイルにしたということなのです。どうしてなのでしょうか。そんなことを考えながら、天守の中に入りましょう。

現存天守に突入

いよいよ天守の中に入ります。この天守は、2重3階、高さは約12メートル、石垣を含めると約18メートルです。現存12天守中、11番目の高さです。でも、低いとは全然感じません。単独で立っている「独立式」だからでしょうか。このまっすぐな石階段も面白いのですが、調査によれば、かつては曲げられていた痕跡があったそうです。階段の脇の石垣に建物があった可能性もあるそうです。謎は尽きません。

天守への石階段

天守一階に入りました。すごい柱の数です。部屋の中だけで、26本もの柱があります。中央の6本を含め、多くは古材が今も使われています。天守全体の重さは公表されていませんが、石瓦だけでも約6千枚で120トンもあるそうです。柱は追加されたり入れ替えられたりしていますので、途中で石瓦に変わったことが関係しているかもしれません。

天守一階

部屋の中を歩いてみましょう。「石落とし」がありますが、実際には「格子出窓」と言っていいものです。狭間や通常の格子窓もあります。さすがにたくさん備えられています。城の模型もあります。

石落とし
格子窓、狭間
城の模型

二階に行きます。とんでもなく急な階段です。傾斜は65度あります。ロープまでついていて、これは大変です。

二階への階段

二階に昇りました。望楼型で、一階の屋根裏部屋の位置付けなのですが、意外と明るいです(狭間・屋根の窓から採光しています)。本多親子のディスプレイがあって、かっこいいです。二階は柱が少ない空間ですが、周りはいろいろあります。まず、東西にある破風の内側が部屋になっています。また、南北にある切妻屋根の中も出部屋になっていて、中に余裕で入れます。石瓦が間近に見学できます。守備兵がこもって戦うための場所だったのでしょう。

天守二階、本多親子のディスプレイ
破風の内側
切妻屋根の中の部屋
石瓦がよく見えます

そして、最上階への階段です。傾斜はさらにきつく、67度です。がんばって昇るしかありません。最上階は開放的で、昇った甲斐がありました。ここからは、東西南北全方位の眺めを楽しむことができます。昔は戦いのための物見をしたのでしょうが、今は平和で豊かな街を眺めることができます。屋根の骨組みも直接見えます。笏谷石で作ったかもしれない鬼瓦の裏面も見えます。

最上階への階段
天守最上階
屋根の骨組み
最上階からの眺め(西側)
鬼瓦の裏側

内堀ラインから天守を眺める

まずは、現在の地図と、昔の絵図を比べてみましょう。現在の地図の赤いラインが昔の内堀です。ただ、ほとんどは市街地になってしまっていますので、天守のビュースポットを探したり、これからの城跡の開発プランについて、紹介します。

現在の地図

「越前国丸岡城之絵図」の内堀部分、出展:国立公文書館

駐車場から、天守と反対方向に進みます。右側には「一筆啓上 日本一短い手紙の舘」があります。その辺りから左に曲がります。五角形の内堀の頂点の一つです。なぜ五角形の形をしているかというと、攻めてくる敵を混乱させるためにこうなったという説があります。

一筆啓上 日本一短い手紙の舘

北側から西側に回り込む辺りに追手門がありました。もうすぐ天守のビュースポットです。また天守が見えてきました。お天守前公園です。丸岡城天守は、丘と石垣と建物合わせて、高さが35メートル以上あるはずです。ここからだと、その高さを丸々感じることができます。石瓦の屋根もはっきり見えるので、渋さが光ります。

追手門があったと思われる辺り
お天守前公園
天守がよく見えます

先に進んで南側を回ります。民家が多い場所です。実は、この内堀を一部復活させる計画があるのです。もちろんすぐにはできませんが、半世紀くらいかけて、建て替えの際にお願いするなどして、公有地化を進めるそうです。遠大な計画です。現在は、丸岡城観光情報センターなど、天守周辺の整備を進めています。駐車場に戻ってきました。内堀一周、達成です。

民家の合間から見える天守
丸岡城観光情報センター
駐車場に戻ってきました

リンク、参考情報

丸岡城公式ウェブサイト
坂井市 丸岡城国宝化推進事業
・「丸岡城 ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎/吉田純一著」坂井市文化課丸岡城国宝化推進室
・「一筆啓上 家康と鬼の本多作左衛門/横山茂著」郁朋社
・丸岡城研究調査パンフレット「知られざる丸岡城」
・「丸岡城お天守物語~天守を守った人々~」坂井市
・「坂井市埋蔵文化財発掘調査報告書 丸岡城跡」2021 坂井市教育委員会
・「丸岡城周辺整備基本計画」坂井市
・「江戸期天守と大名支配」中尾七重氏研究論文
・「本多作左衛門重次と子孫たち」取手市埋蔵文化財センター第2回企画展資料
・「福井の戦国 歴史秘話 第5号」平成29年6月30日福井県発行資料

「丸岡城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

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