195.延岡城 その2

城のハイライト、千人殺しの石垣

その後

明治維新後、延岡城は廃城となり、ほとんどの城の建物は撤去されました。太鼓櫓などいくつかの建物はしばらくの間残っていました。ところがこの櫓も焼け落ちてしまいました。1877年の西南戦争として知られる、維新の英雄であった西郷隆盛が政府に対して反乱を起こしたときです。西郷の軍は南方の鹿児島から熊本城への攻撃を開始したのですが、城の占領に失敗し撤退を強いられ、今度は九州各地で戦いを展開しました。延岡はそのうちの一つでした。実は延岡城は既に政府軍によって確保されていたのですが、味方の海軍が誤って城に砲撃を始めました。城にいた友軍は城は既に落ちていることを示すために自ら櫓に火をつけたのです。

延岡の地で西郷軍と政府軍との間で行われた和田越決戦の碑  (licensed by shikabane taro via Wikimedia Commons)

もう一つのこの城の興味深いエピソードは、千人殺しの石垣に関するものです。実は、このニックネームは城が廃城になった後、明治時代に初めて現れたのです。石垣の基礎となった石には隙間があり、そこに子供たちが入って遊んでいたと言われています。そのような様子を見た誰かが想像し、この石垣の素晴らしさを表わすために千人殺しのストーリーを考えたのではないでしょうか。

千人殺しの石垣

特徴、見どころ

市街地となった砂州

現在、JR延岡駅から歩いて延岡城跡に向かう場合は、五ヶ瀬川にかかる橋の一つを渡っていきます。橋からは、城跡がある丘が少し遠くの方に見えます。2つの川に挟まれた砂州は、多くの官公庁ビルが建つ現代的な市街地になっています。かつてあった堀も残っていません。そのため、簡単に城跡の東端に到着します。

延岡周辺の地図

城山公園となった城跡

城跡は城山公園という名の公園になっていて、北側と南東側に2つの入口があります。前者は城の大手道であり、後者は搦手道でした。両方ともビジター向けによく整備されています。もし北側の入口に行こうとして、丘の周りを歩いていくと、古い石垣が部分的に丘を覆っているのが見えます。そして、復元された北大手門を通って公園に入っていきます。

城周辺の地図

復元された北大手門 (licensed by ja:User:Sanjo via Wikimedia Commons)

ニックネームがあったために石垣を改修

門を通り過ぎて、二の丸に入っていくと、早くも城のハイライトである千人殺しの石垣が姿を現します。この石垣は二の丸のすぐ上にある本丸を囲んでいるので、二の丸からは間近に見ることができます。見るからに壮観であり、石工たちが粗野な自然石を使ってどうやって19mもの高さに積み上げたのか想像だにできません。石垣の隅の基部の石、つまり石垣の崩壊を起こすかもしれなかった石を見てみると、コンクリートで固められています。その場の説明版を読んでみると、1935年の昭和天皇のこの城への訪問前に固められたとあります。事実としては千人殺しの石垣という異名は廃城後に作られた、素晴らしい石垣であることを表わす誇張表現だったのです。ところが、天皇は第二次世界大戦前は「現人神」という扱いだったため、延岡の人たちは万万が一にも不祥事が起こらないよう石に手を加えたのでしょう。

この写真では基部のコンクリートで固められた部分がよく見えます (licensed by ja:User:Sanjo via Wikimedia Commons)

「延岡城その3」に続きます。
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97.鹿児島城 その3

武士と城の時代が終わった場所

特徴、見どころ

物悲しい西郷洞窟

最後に、西郷隆盛と西南戦争の最後の場所となった西郷洞窟を訪れてみてはいかがでしょうか。この場所は、市街地と山の頂上を結ぶ車道の中間地点にあります。したがって、頂上まで行くときかそこから帰るときかどちらでもよいでしょう。ここも著名な史跡となっていますが、そこには崖に沿っていくつか洞窟が並んでいるだけです。洞窟を見ていると、西郷とのその兵たちが城のような場所でなく、このような場所を最後の地に選ばざるをえなかったことに悲しさを覚えるかもしれません。

城周辺の起伏地図

西郷洞窟沿いの車道
西郷洞窟

その後

西南戦争では、二の丸にあった城の現存建物も焼けてしまいました。その後、山麓の城跡は鹿児島大学のような学校施設として使われました。鹿児島大学が他の地へ移転した後は、1983年に本丸に黎明館が開館しました。史跡としては、城山の部分が1931年に最初に国の史跡に指定されました。更には、山麓の部分が最近の発掘の成果をもとに国の史跡に追加指定されました。鹿児島県は将来、櫓や堀(一部埋められていた部分)のような本丸の他の構造物の復元を検討しているところです。

城山への歩道から見た黎明館
鹿児島城本丸の夜景

私の感想

西郷洞窟を見たとき、西郷はまるでゲリラ戦をしたかのように感じました。もし西郷が戦国時代に最後の戦いをしようとしていたら、1615年の大坂城での大坂夏の陣の豊臣氏のように天守のような城の建物に籠城していたでしょう。または、1333年の千早城の戦いでの楠木正成のように山上に立てこもっていたでしょう。しかし、それらの時代からは状況や技術が大きく変わってしまっていたのです。西南戦争は、武士の時代の終わりとともに、(本来の使われ方という意味での)日本の城の時代の終わりを示していたのだと思います。

西郷の最後の戦いの場所
大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
千早城合戦図、歌川芳員筆、江戸時代、湊川神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:九州自動車道の鹿児島北ICから約20分かかります。城跡周辺にいくつか駐車場があります。黎明館に入館する方は、そこの駐車場を使うこともできます。
公共交通機関を使う場合は、鹿児島中央駅から鹿児島シティビューバスに乗って薩摩義士碑前バス停で降りるか、鹿児島駅前行きの市電に乗って市役所前停留所で降りてください。
福岡から鹿児島中央駅まで:九州新幹線に乗ってください。
東京から鹿児島中央駅まで:飛行機で鹿児島空港に行き、高速バスに乗ってください。

市電市役所前停留所

リンク、参考情報

鹿児島県歴史・美術センター黎明館、鹿児島県
・「よみがえる日本の城18」学研
・「日本の城改訂版第128、155号」デアゴスティーニジャパン
・「戦況図解 西南戦争/原口泉監修」サンエイ新書

これで終わります。ありがとうございました。
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「鹿児島城その2」に戻ります。

97.鹿児島城 その2

博物館の中だけでも見るものがたくさんあります。

特徴、見どころ

城らしさを残す本丸

現在鹿児島城跡は、本丸は鹿児島県歴史・美術センター「黎明館」に、二の丸は他の公共施設に、そして城山は城山公園となっています。特に本丸は今日でも城のように見えます。周りを囲む石垣が今でも健在であり、更に最近正門が復元されたからです。本丸の手前に立ってみると、島津氏の本拠地としての威厳を感じます。

城周辺の航空写真

鹿児島城本丸

水堀に囲まれている石垣は、よく加工された石を精密に積み上げて築かれており、この技法は「切り込みハギ」と呼ばれています。この石垣に関して面白いのは、一か所の角の石が内側に向かって屈曲していて、これは「入隅(いりすみ)」と言います。この角部分は北東側を向いており、鬼門として不吉な方角とされていました。よって築城者は、このような特殊な築き方をすることで、この方角からの災厄を防ぐことができると考えたのです。

本丸の石垣
入隅となっている北東角

正門の「御楼門」は石垣の間でとても目立っています。この門は日本の城門の中でも最大級のものと言われていて、その高さと幅はともに約20mあります。1873年に焼失して以来、147年経った2020年に古写真や現存する礎石に基づき、木造建築として復元されました。

復元された御楼門
太い木材が使われています

門前の堀を渡る現存する石橋を渡って門に入っていきます。門の内側には別の石垣が立ちはだかっているので、右に曲がる必要があり、更に曲がりくねった石段を登って曲輪の中心部に至ります。その石垣には無数のへこみがあります。これらは西南戦争のときの政府軍による砲撃の弾痕であり、いかにこの攻撃がすさまじかったかがわかります。

現存する石橋を渡っていきます
門の内側
西南戦争時の弾痕

黎明館のすばらしい展示

黎明館は優れた歴史博物館で、鹿児島県に関する数多の歴史、民俗、芸術品を展示しています。館内では鹿児島城を含む県の歴史や文化について学ぶことができます。あまりにも見るものが多くて一日では回り切れない程です。その中でも、鹿児島城、志布志城(県内にある城)、出水外城(麓)などの歴史的文物の模型が素晴らしいので見学することをお勧めします。

黎明館
鹿児島城の模型
出水外城の模型

また、歴史的出来事を再現したジオラマもたくさんあり、ビジターがより理解できるようになっています。このような活動をこれからも続けていただき、この施設ももっと人気が出ればよいと思います。

大正時代の天文館通りのジオラマ
鳥羽伏見の戦いのジオラマ

自然公園のような城山

本丸の裏手にある城山公園はとても行きやすい場所です。山自体は標高107mでそんなに高くないからです。山頂には山道をウォーキング感覚で登って行くことができ、史跡というよりも自然公園といった感じです。これは、薩摩藩が城の一部としてはこの山をほとんど使わなかったことと、江戸時代の間、民衆の立ち入りを禁止していたからと思われます。わずかに、島津氏以前にここに山城を築いた上山氏の遺跡として、土塁に囲まれている曲輪の跡が残っている程度です。

頂上に向かう歩道
土塁に囲まれている場所

ただ、頂上は桜島(活火山島)と鹿児島市街地が望める人気のビュースポットとなっているので、景色を楽しんでください。

頂上近くの展望台
展望所からの景色、桜島は雲に隠れています

「鹿児島城その3」に続きます。
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