148.浜松城 歴史編

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。

イントロダクション

今回は、浜松城を取り上げます。浜松城といえば、その別名として「出世城」というのがあります。その由来はまず第一に城を築いた若かりし徳川家康が、後の天下統一に向けて基礎作りをしていたということ、もう一つは江戸時代に城主となった大名の多くが、老中などの重要ポストについたことです。(以上下記①を参考、以下番号のみ記載)

浜松城にある徳川家康像

しかし、家康在城時代には数々の困難に見舞われました。三方原合戦、妻と子の粛清、本能寺の変、小牧・長久手の戦いなどです。このうち、浜松城と関連し、家康の生涯唯一の大敗と言われているのが「三方原合戦」です。この戦いは、家康が城を築く以前からの武田信玄との関係が伏線になっています。よって、浜松城と三方原合戦をメインストーリーとして展開していきたいと思います。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また現在残っている古風な石垣と、元あった天守は、家康と江戸時代の大名たちの間に城主になった堀尾吉晴が築いたとされています。最後の方では、その吉晴と江戸時代の大名たちの時代も触れてみます。

再建天守と現存石垣

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(浜松城と三方原合戦)

家康、遠江国に進出

1560年(永禄3年)桶狭間合戦が起こり、今川義元が織田信長に討ち取られると、今川方部将だった家康は岡崎城に入りました。これをもって家康自立と思ってしまいますが、実はこれは今川当主・氏真の許可・指示によるものだったのです。事実、家康は翌年(1561年)まで織田方と戦っています。しかし家康は苦戦し、氏真からの援軍もなかった(当時上杉謙信に対抗する北条氏の方に援軍を送っていた)ため、織田信長との同盟に踏み切ったのです。氏真は三河侵攻を計画しますが、間の遠江国で「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる反乱が起こり、それどころではなくなりました(三河侵攻のために課税したのに実施しなかったことが一因と言われます)。一方、家康のお膝元でも「三河一向一揆」が起こります。しかし1566年(永禄9年)までに一揆を鎮圧し、三河国を統一しました(永禄9年12月29日、徳川三河守家康)。(段落全体②)

「集外三十六歌仙」の今川氏真  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1568年(永禄11年)、前年に美濃を平定した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛しようとしていました。彼はそのことについて、上杉・武田・朝倉の了解を取り付けていました。問題は、留守中に今川に背後を衝かれる可能性です。そのため、信長は武田の今川攻めを認めたのです。その一翼を担ったのが家康です。徳川と武田は、今川攻めに関わる同盟を結びました。その内容は、大井川を境に駿河を武田、遠江を徳川が領有するというものでした(下記補足1)。(段落全体②)

(補足1)扨(さて)又、甲斐ノ武田之信玄ト仰合て、家康ハ遠江ヲ河切に取給え、我ハ駿河ヲ取ント仰合て、両国へ出給ふ(「三河物語」永禄十一年・第二中)
さて、甲斐の国の武田信玄を連絡をとって「家康は遠江を大井川までとれ、わたしは駿河をとろう」と申しあわせて、駿河・遠江両国へ出陣した(現代語訳③)

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

両軍は一斉に今川領に侵攻しました。武田軍は駿河に侵攻、今川氏真は掛川(懸川)城に退去しました。しかし今川と同盟を維持していた北条氏の反撃を受けます(一旦駿河から撤退)。一方、徳川軍の遠江侵攻は順調で、二俣城・引間(曳馬)城・高天神城などを開城させ、氏真が籠る掛川城を包囲しました。実は武田は、徳川との境界線を遠江の天竜川と考えていたらしく、遠江にも出兵してきましたが、家康が信玄に抗議し、撤兵させました。(下記補足2)家康が強気に出られる状況だったのです。(段落全体③)

(補足2)家康は使いをやった。「大井川を境に、駿河を信玄の領分、大井川を境に遠江が(家康の)領分と定まっているのに、秋山が出陣してきたのは横車を押すことになる。すぐに引きかえされよ」とおっしゃった。(「三河物語」現代語訳③)

現在の掛川城

1569年、永禄12年5月、家康は今川・北条と和睦し、掛川城も開城となり、今川氏真は北条氏に引き渡されました。ここに遠江国はほぼ家康の支配下に入りました。しかしこの和睦は武田との盟約違反でした。翌年(1570年、元亀元年)、家康は武田信玄と断交、信玄の宿敵・上杉謙信と同盟を結びました。信玄は激怒、ところが何もできませんでした。ここで家康と開戦すれば、織田・上杉・北条から一斉に攻められる可能性があったからです。信玄のこの憤懣は三方原合戦の伏線になっていきます。

浜松築城

遠江を支配することになった家康は、支配を安定させ、武田の脅威に備えるため、国府があった見付に居城を移すことにし、築城工事を始めました(城之崎城)。しかし途中で中止しました。仮に信玄と戦うことになった場合、西側の天竜川を背後にする「背水の陣」になってしまうためと言われます。町としての発展や、本国・三河や織田信長との連携も考慮したのでしょう。また、信玄が家康が見付に本拠を置くことを有利とみてほくそ笑み、信長がその危うさを悟って家康を説得したとする史料まであります(下記補足3)。そこで家康は、川の西側の「浜松荘(はままつのしょう)」の中心であった「引間城」「引間(曳馬)宿(ひくまのしゅく)」の地に居城を作り直すことにしました。これが浜松城で、1570年(元亀元年)のことでした。家康は29歳から45歳(1586年)までここを本拠にしました。(段落全体②④⑤⑥、下記補足4)

(補足3)右のやうす甲州へ聞え家康様を信玄ことことしく御ほめの由、上方へももれ聞へて信長公より御異見有て、見付の新城やめさせられ候、(「石川正四見聞集」)

(補足4)然間、見付之国府ヲ御住所に被成、城ヲ取、原に各々屋敷取ヲシテ住マせ給ひケルガ、爰(ここ)ハ不被可然トテ、浜松え引カせラレ給ひて、御城ヲコシラエ給ひ、御住所ヲ定サせ給ふ(「三河物語」)

遠江国の範囲と浜松城の位置

見付の城(城之崎城)跡

元あった引間城は、宿場を見下ろす丘陵に築かれ、水堀に囲まれていました。更には、東側は当時あった天竜川のもう一本の本流(小天竜)、北側は崖地帯、南から東にかけては低湿地という自然の障壁によって守られていました。家康は、西側の丘陵地帯に城域を拡大し、そちらを中心部とし、名も「浜松城」と改めました。引間城の地は「古城」と呼ばれ、新城の一部になりました。城は更に南に拡大していきます。(段落全体⑥)

城周辺の起伏地図

家康時代の浜松城の姿ははっきりしません。しかも城の本格的な改修が始まるのは1577年(天正5年)です。三方原合戦(1572年)のころは、武田侵攻に備え支城網の改修を優先していたと考えられます。それでも、合戦に敗れ家康が城に撤退したときの記録に「西の門」「大手の門」古城にあった「玄黙口」というのが出てくるので(下記補足5)、新城に古城が取り込まれた形にはなっていたのでしょう。(段落全体⑤⑥)やがて武田との戦いの中で、武田築城術を取り込み、浜松城にも生かしていったと考えられます。例えば「横堀」の採用により、北側の「佐左曲輪」や南側の出丸を取り込んだことが挙げられます。(以上⑤⑥)東海道も城近くに付け替え、城下町も造られました。(②)家康により拡張された浜松城は、江戸時代天守曲輪・本丸・二の丸・西端城曲輪・清水曲輪・作左曲輪・出丸等の範囲と考えられます。(⑦)

(補足5)三方ヶ原を退き西の門からは入られず、遥かに大手の門より門外に乗廻し、東に向ひ北に至て、玄黙口より入られた(「鳥居家中興譜」)

家康在城時の浜松城のイメージ図、現地説明パネルより

家康の居住空間は、最高地点の現・天守曲輪だったと考えられますが、面積は狭く、自然地形を生かしたものでした。また、城は土造りで、曲輪は土塁で囲まれ、屋敷も板葺きだったと想定されています。その頃、織田信長や有力家臣は瓦葺きの天守・石垣を持った城を築いていました。徳川氏はそのような城を築かせる技術者集団をまだ使うことができなかったのです。家康が石垣の城を築くのは、次の居城・駿府城からになります。(段落全体⑤⑥⑦)

家康在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

決戦!三方原

1571年(元亀2年)信玄は領国内で大動員を開始しました。翌年にかけては北条との同盟を復活させました。一方、織田との同盟を強化すると見せかけながら、家康家臣の調略も行っていました。1572年、元亀3年10月、ついに信玄は出陣、遠江に侵攻しました。信玄は「三ヶ年の鬱憤を散じるため」と喧伝しています。それだけ家康を恨んでいたのです。信玄はまず要衝の高天神城を確保、掛川城を孤立させて、西に進みました。家康はこれ以上の落城・家臣の離反を防ぐため、天竜川を越えて出陣しました。しかし不利と見て撤退しようとしたところ、武田軍の動きが速く、追いつかれてしまい、一言坂合戦が起こりました。ここで家康の窮地を救ったのが本多忠勝です。この様子を武田家臣(小松右近助の近習)が歌に詠んでいます(下記補足6)。家康は無事浜松に戻りましたが、以前築城した見付まで武田に制圧されました。(段落全体②)

(補足6)家康に すぎたるものハふたつあり からのかしらに 本多平八(「軍艦」)

高天神城跡
一言坂の戦跡
本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田の別働隊(山県・秋山勢)も北遠江・奥三河に侵入しました。長篠城・井伊谷(いいのや)が武田の手に落ちました。そして信玄本隊は、天竜川をさかのぼり、徳川方の要衝・二俣城も11月末日(晦日)に落城させました。浜松城は、北・東を包囲され、連絡道は西の浜名湖(今切)経由だけになってしまったのです。(段落全体②)

長篠城跡

信玄は二俣城を本陣とし、12月22日に再び動き出しました。武田軍は浜松城を目指しているかに見えましたが、北西の三方原台地に上がりました。徳川方は、武田の目標が本国三河にあると想定しました。家康は直ちに出陣し、その途上で軍議を行いました(下記補足7,従来は浜松城で軍議を行ったという記述が多かった)。しかしすぐ開戦になったわけではなく、徳川軍は武田軍を追いながら機会を伺っていたのです(台地(祝田坂)を下り始めるのを待っていたようです)。(段落全体②➉)

(補足7)元亀三年壬申十二月廿二日、家康、浜松より三理に及で打出させ給いて、御合戦を可被成と仰けれバ、各々年寄共の申上けるハ、今日之御合戦、如何に御座可有候う哉、敵之人数を見奉るに、三万余と見申候、其上、信玄ハ老武者と申、度々の合戦になれたる人なり、御味方はわづか八千之内外御座可有哉と申上けれバ、其儀ハ何共あれ、多勢にて我屋敷之背戸をふミきりて通らんに、内に有ながら、出てとがめざる者哉あらん、負くれバとて、出てとがむべし、そのごとく、我国をふミきりて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉、菟角、合戦をせずしてハおくまじき、陣ハ多勢・無勢にハよるべからず、天道次第と仰せけれバ、各々是非に不及とて、押寄けり、(「三河物語」)
元亀三年十二月二十二日、家康は敵が浜松から三里のところまでやってきて、出撃する。「一合戦しよう」とおっしゃると、年寄たちが皆「今日の合戦はどうでしょうか。敵の人数は三万あまりと思われます。信玄は熟練の武者でもあり、たびたびの合戦をへた手だれの者です。しかも、味方はわずかに八千ほどでございますから」と申し上げる。「そのことはしょうがない。多勢が自分の屋敷の裏口をふみ破って通ろうとしているのに、家のなかにいて、でてとがめだてしない者があろうか。負けたら負けたときと、でてとがめるであろう。それと同じで、自分の国をふみ破って通るのに、多勢だからといってどうして、出陣して、とがめないでおかりょうか。ともかく合戦をしないでは、おかれまい。戦さは多勢無勢で結果が決まるわけではない。天運のままだ」とおっしゃると、みなもあれこれいうこともなく、攻めよせた。(現代語訳③)

三方原古戦場碑

最近の説では、開戦のきっかけは、武田軍が再度進路を変更し、浜名湖の半島にある堀江城に向かったこととされます。織田信長の伝記「信長公記」にそれを裏付ける記述があります(下記補足8)。堀江城は浜名湖水運を掌握する要所であり、もし敵の手に落ちると浜松城が完全に孤立してしまいます。信玄の狙いはそこにあり、家康としては絶対阻止しなければならなかったのです。(段落全体②)

(補足8)これは遠江方面でのことである。十一月下旬、武田信玄が二俣の城を包囲した、という徳川家康からの報告が到着した。そこで、信長の家老衆、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元を大将として、軍勢を浜松へ参陣させた。しかし、すでに二俣の城は落城し、その勢いに乗って武田信玄は堀江の城をめざして進軍していた。(⑧)

徳川方の人数は、徳川約8千に織田援軍を加えると約1万1千、武田方は「三河物語」に3万とありましたが、約2万ではないかと言われます。いずれにせよ徳川方が不利です。信玄も慎重に様子を見ていたため、合戦が始まったのは午後4時頃(申刻)でした。足軽同士の小競り合いから本格的な戦いに発展したようです。天候は曇りから雪になり、酷寒の中での合戦でした。合戦の様子も「三河物語」に描写されています(下記補足9)。徳川方は善戦したものの、武田方の反撃で中央を突破、分断され、後は各個撃破されていきました。決着がついたのは午後6時頃(酉刻)と言われます。(段落全体②)

(補足9)信玄はたびたびの合戦に場慣れしていたので、すぐに魚鱗の陣をしき敵に向かった。家康は鶴翼の陣をしいたが、小勢だったので、手薄とみえた。信玄はまず足軽たちを送り、小石を投げさせた。それを家康の軍は相手にせず、いっせいに切ってかかると、早速一陣二陣を打ち破る。つづいて敵は新手を向けてきたが、その新手も破って、信玄の本陣に殺到した。信玄の本陣からも、いっせいに鬨の声をあげて攻めかかる。わずか八千の兵だったので、三万余の大敵と、粉骨砕身せりあったが、信玄の本陣に攻めかえされて、敗退した。(③)

徳川家康本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示
武田信玄本陣ジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

家康主従は、夜の闇のなか、一体になって撤退しました。家康の身代わりや殿になって討たれた家臣もいました(成瀬藤蔵、夏目広次、本多忠真など)。家康自身も、敵の待ち伏せにあい、自分の弓で射倒し、窮地を脱したといいます(下記補足10)。

(補足10)家康は、戦線の中央部を切り破られ、乱戦に巻き込まれた。左へ逃げて、三方ガ原の崖ぎわの一本道を退却した。敵は先回りして待ち受け、戦いを挑んだ。それを家康は馬上から弓で射倒し、駆け抜けて、浜松へ帰城した。この時に限らず、家康の弓の腕前は今に始まったことではなかった。(⑧)

敗走する家康主従のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

徳川方は大混乱に陥っていて、浜松城では家康が討たれたとの虚報が飛び交っていました。討たれた人数は、織田軍の大将の一人・平手汎秀を含め、約千名と言われています。浜松城に帰れなかった家臣も大勢いたようです(主な者・下記補足11)。浜松各地には家康が隠れた,匿われたという伝承が多くありますが、このことが元になっているのかもしれません。

(補足11)
・榊原康政:家康とはぐれ、西島に逃れた
・水野信元(織田援軍):今切の渡(浜名湖)または岡崎まで逃走
・中河兄弟:懸川城に逃れた
・山田平一郎:岡崎城に逃れ、家康が討たれたと知らせた

家康が城に戻った場所と言われる玄黙門跡

武田軍は追撃を続け、浜松城に迫りました。これを食い止めた場所が、浜松城北方の要害・犀ヶ崖です。崖の手前に留まった武田軍に対し、大久保忠世・天野康景の鉄砲隊が夜襲をかけました。混乱した武田の兵が崖に落ちたと伝えられています。(⑨)

犀ヶ崖
反撃する徳川軍鉄砲隊のジオラマ、犀ヶ崖資料館展示

武田軍は深追いをせず、翌12月23日には、目標としていた堀江城を攻撃しましたが落とせず、翌年元亀4年2月に野田城を攻略しました。ここから渥美半島の方に向かっても、浜松城と三河国を分断することができます。しかし武田軍が次に向かったのは、逆方向の長篠城でした。信玄の病のためと言われます。4月12日、信玄は信濃への撤退の途中で亡くなりました。家康と浜松城は、絶対絶命の危機を脱したのです。(②)

堀尾氏による改修、そして出世城へ

1586年(天正14年)、5か国の太守となっていた家康は、居城を東の駿府城に移しました。浜松城は家臣の菅沼定政に預けました(城代)。そして1590年(天正18年)に徳川氏が関東に移されると、浜松には豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が入城しました。秀吉の家康に対する備えの一環でした。現在残る天守曲輪・本丸の石垣は、この時代に築かれたと考えられています。天守門脇には巨石が配され、豊臣政権の権威を見せつけました。一方、天守曲輪西側の「屏風折れの石垣」は、城から側面攻撃ができるようにした実戦的な作りです。記録はありませんが、天守台石垣の上には天守も築かれたと考えられます(当時の瓦が見つかっています)。現在ある再建天守(3重)より大きく、堀尾氏が後に築いた松江城を参考に、4重天守が想定されています。2代目の忠氏のとき(吉晴は隠居)1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでの武功により、堀尾氏は加増転封となりました(12→24万石)。(段落全体④⑤)

堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
天守門の石垣
屛風折れの石垣
堀尾吉晴在城時の城中枢部想像図、現地説明パネルより

江戸時代になると、浜松城は浜松藩の本拠、譜代大名の城として、なんと10家・22代の城主が入れ替わりました(下記補足12、家康からだと25代)。その中から老中6人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を輩出し「出世城」と呼ばれるようになります。なかでも天保の改革で有名な水野忠邦は、家康にあやかりたいと浜松城主に志願したと言われます。忠邦は見事老中に出世するのですが、失脚すると転封になり、以前の井上氏が復帰しています。(段落全体⑤⑪)

(補足12)歴代浜松城主となった大名家(江戸時代、⑪)
・1601~09年:桜井松平氏(1代、5万石)
・1609~19年:水野氏(1代、2.5→3.5万石)
・1619~38年:高力氏(1代、3.1→3万石)
・1638~44年:大給松平氏(1代、3.5万石)乗寿が老中
・1644~78年:太田氏(2代、3.5→3.2万石)
・1678~1702年:青山氏(3代、5万石)宗俊が老中
・1702~29年:本庄松平氏(2代、7万石)
・1729~49年:大河内・長沢松平氏(2代、7万石)信祝が老中
・1749~58年:本庄松平氏(再任・2代、7万石)
・1758~1817年:井上氏(3代、6万石)正経が老中
・1817~45年:水野氏(2代、6→7万石)忠邦が老中
・1845~68年:井上氏(再任・2代、6万石)正直が老中

水野忠邦肖像画、東京都立大学図書情報センター蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天守は早期に失われたようで、天守曲輪には天守門と裏門の埋門だけが残りました。本丸には鉄門や富士見櫓などがありました(建物については不明)。二の丸には城主屋敷や藩庁があり、藩政の中心になっていました。その南側には三の丸が整備され、侍屋敷が置かれ、南端に大手門が築かれました。その大手門を基点に東海道が設定され、その街道沿いには町屋が形成されました。(段落全体⑦⑪⑫)

江戸時代(廃城時点)の城中枢部想像図、現地説明パネルより
浜松城略絵図(安政年間)、現地説明パネルより

リンク、参考情報

①「市長コラム 平成24年4月」浜松市ウェブサイト
②「新説 家康と三方原合戦/平山優著」NHK出版新書
③「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
④「静岡の城/加藤理文著」サンライズ出版
⑤「東海の名城を歩く 静岡編/中井均・加藤理文編」吉川弘文館
⑥「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
⑦「浜松城の変遷」浜松市ウェブサイト
⑧「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑨ 犀ヶ崖資料館展示
➉「徳川家康と9つの危機/河合敦著」PHP新書
⑪「浜松市史」
⑫ 浜松城展示

「浜松城 現地編」に続きます。

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