148.浜松城 現地編

浜松駅から少し離れた「連尺交差点」に来ています。国道が交わっていてすごい交通量です。ここは江戸時代も、東海道が曲がり、その先も姫街道になっていました。今も昔も交通の要所なのです。その手前には堀を隔てて、大手門がありました。

イントロダクション

浜松駅から少し離れた「連尺交差点」に来ています。国道が交わっていてすごい交通量です。ここは江戸時代も、東海道が曲がり、その先も姫街道になっていました。今も昔も交通の要所なのです。その手前には堀を隔てて、大手門がありました。

連尺交差点
大手門跡

通りを進んでいくと、浜松市役所があります。この辺りからが二の丸でした。市役所は現代の御殿といったところでしょうか。向こうには天守も見えます。少し先には、ここから左に行くと「浜松城公園」という案内があります。

浜松市役所の向こうに見える天守
浜松城公園の案内

ただ、今回はいろんな時代からの史跡を紹介したいので、まずは、浜松城の出発点となった「引間城跡」に行ってみます。

城周辺の地図

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(浜松城と三方原合戦 現地ツアー)

城の出発点・引間城

更に進んでいき、最初の信号を渡って、脇道に入っていきます。この辺りは、浜松城時代は「古城」と呼ばれた引間城の堀だったようです。やがて、道路が曲がっているところがあります。これが城門の跡で、「霜垂口(しもだれぐち)」と案内があります。

霜垂口

今度は来た方に戻って、旧引間城の本丸に行ってみます。現在そこには、明治時代に創建された元城町東照宮があります。また傍らには「二公像」として、徳川家康に加え、豊臣秀吉の像まであります。少年時代の秀吉が、仕えていた今川家臣の松下加兵衛とともにここを訪れたという説明があります。家康築城の20年近く前とのことです。

元城町東照宮(引間城本丸跡)
二公像

ここから天守は見えるのかチェックしたところ、間にある建物の上に、なんとか見えました。

引間城跡から見える天守

戻りは、もう一つの門跡を通ります。けっこう下っていきます。曲輪の側面が、崖のようになっているのがわかります。その途切れる辺りが城門の跡で、「玄黙口(げんもくぐち)」と呼ばれています。三方原合戦で敗れた家康が、ここに退却したそうです。きっと厳重な構えだったのでしょう。

曲輪の側面
玄黙口

改めて、城の中心部に向かいます。

古風な石垣と再建天守

それでは、さっき通った案内のところから入っていきます。案内の辺りに二の丸裏門があって、通路がある場所は、御殿のど真ん中だったようです。

二の丸を貫く通路

通路が突き当たりますが、実は、ここはもう本丸です。本丸が半分くらい崩されてしまっているのです。ではどうやって天守に行くかというと、突き当たった左右どちらからでも行くことができます。今回は右側(北側)から回り込んでみます。そこからの登り口は、山の上のお城に行くという雰囲気があります。

北側から中心部への登り口

ずっと登っていくと、天守と石垣が見えてきました。反対側は富士見櫓の跡です。名前からして富士山が見えたのでしょうし、説明パネルにも富士山の写真があります。今日はちょっと残念という感じです。

天守と石垣
富士見櫓跡

石垣を見ながら、残された本丸に下っていくと、若き日の徳川家康公像があります。

若き日の徳川家康公像

いよいよ、天守曲輪に行きます。まず現れる石垣は、上に櫓があった感じです。その上では、石垣が築かれたとされる堀尾氏時代の櫓跡が発見されています。石垣は、古風で荒々しい野面積みです。復元された天守門(2014年に木造で復元)ともよく合っています。

かつて櫓があった石垣
復元された天守門

脇にある巨石も迫力があります。鏡石ということなのでしょう。天守曲輪に入ったら、改めて再建天守(1958年鉄筋コンクリート造で再建)を眺めます。元あった天守はもっと大きかったということですが、確かに天守台の石垣が余っています。どうして石垣に合わせて再建しなかったかというと、予算不足だったようです。

天守門脇の巨石
再建天守

天守に入りましょう。現在の入口手前にかつては付櫓があったと考えられます。中は資料館として2021年にリニューアルされました。おすすめは地下にある井戸です。天守を築いたとされる堀尾氏が、後に築いた松江城天守の地下にも井戸があります。

地下にある井戸

一階は若き家康の足跡、二階は浜松城の歴史の展示があります。一番上(三階)はやはり展望台です。三方原は北の方、さっき行った引間城は東の方に見えます。

天守一階の展示
天守東側の眺め

曲輪群の痕跡を探る

これから周りの曲輪に行きますが、その前に天守曲輪の屏風折れの石垣を見学します。埋門の跡から天守曲輪の外側に出ます。一旦下ってから、屏風折れの石垣にアクセスします。側面攻撃ができるよう折り曲げ、実戦的に作ったといわれますが、今では優雅にも見えます。土塁の上の部分に築いた「鉢巻石垣」の造りです。石垣自体を屏風折れにするのは全国的にも珍しいそうです。

埋門跡
屏風折れの石垣
石垣自体を折り曲げています

それでは、北側にあった「作左曲輪」の跡に行ってみましょう。「作左」とは「日本一短い手紙」で有名な家康の重臣、本多作左衛門重次のことです。三方原合戦の後になりますが(1579年、天正7年)、作左曲輪の工事をしたと考えられる記録があります。城の重要拠点の守りを任されていたのです。現在は主に学校の敷地になっていますので、雰囲気を感じるべく、近くの展望広場に行ってみます。幟が立っていて、曲輪という雰囲気があります。早速天守が見えるかチェックしてみます。方角が変わると、違った形に見えます。

作左曲輪跡
展望広場
展望広場から見える天守

天守曲輪の南側に戻ってきました。次は、更に南側にある出丸の跡に行ってみます。まず遠くから見てみると、建物がたっています。出丸の跡は、図書館の敷地になっているのです。図書館の曲輪に登っていきます。「浜松城出丸跡」という案内があります。図書館があるのはいいとしても、天守の見え方をチェックしたいところです。裏手の駐車場がいいようです。見えました。方角は逆ですが、さっきの展望広場と同じように見えます。一番最初の「古城」引間城を含めて、さまざまな曲輪が城を囲んで守っていたのがわかります。

出丸跡(遠景)
図書館への入口
出丸跡の案内
出丸跡から見える天守

「三方原」の史跡を巡る

城周辺の地図

最後のセクションでは、城の近く(市役所南バス停)からバスに乗って、三方原古戦場まで行ってみます。約10km、20分くらいのバス旅です。三方原墓園バス停で降りると、古戦場碑はすぐ近くにあります。ここで合戦があったのだろうと思ってしまいますが、実は、それがよくわからないのです。なんと主戦場について4つも説があり、場所もバラバラなのです(根洗松、大谷、小豆餅、大柴原)。

遠州鉄道のバス
三方原合戦古戦場碑

ここはいさぎよく撤退しましょう。家康が撤退したときの伝説地をめぐります。反対側のバスに乗って、葵町バス停で降ります。この付近には「小豆餅」という地名があり、家康が小豆餅を食べた場所とされています。今も小豆餅を売っている店があります。家康は、追手が迫ったので代金を払わず行ってしまいました。店のおばあさんは怒って家康を追いかけました。代金取立てまでを追ってみます。

葵町バス停
「小豆餅」の住所表示
小豆餅を売っている店

歩きやすい道を選び、バス通りに並行する廃線跡の通りを歩きます(軽便通り、奥山線跡)。ところで、家康が撤退したのは夜だったのですが、お店はやっていたのかとも思ってしまいます。ただ、伝説は伝説として楽しむのがよいのでしょう。バス通りに戻ると、「銭取」バス停がありました。小豆餅~銭取間は約2kmの道のりでした。

軽便通り
「銭取」バス停

次はバスに乗って「さいが崖」で降ります。徳川軍が反撃した場所です。ここにも伝説があって、崖に布を渡して橋に見せかけ、誤った多くの武田兵が崖に落ちたというものです。それにちなんだ「布橋」という地名もあります。崖の下には行けないそうですが、見晴台があるので見学します。草木が茂っていますが、なんとか底は見えます。こういう自然の地形も活用して城を守っていたのです。隣接する犀ヶ崖資料館では、合戦のジオラマなどを楽しめます。

「さいが崖」バス停
犀ヶ崖
浜松市犀ヶ崖資料館
三方原合戦のジオラマ

ここから先はまた歩きます。さっきの廃線跡のルートが遊歩道になっているのです。この道を行けば、浜松城公園に出られるとのことです。公園に着いたところで、見覚えがある小山がありました。最初に行った「古城」の引間城跡です。三方原合戦の後、家康が戻ったのはそこにある城門でした。よって、その場所をゴールにしました。そういえば城の方でも、わざと城門を開いてかがり火をたき、追撃してきた武田軍をかえって警戒させたという伝説がありました。(空城の計)浜松城は、歴史と伝説に彩られた城だと思いました。

廃線跡の遊歩道(亀山トンネル跡)
「古城」引間城跡
家康が戻ったとされる玄黙口

「浜松城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

148.浜松城 その3

この城にはまだ多くの謎があります。

特徴、見どころ

城の周りの見どころ

城周辺の地図

もしお時間があるようでしたら、現在は東照宮となっている引間城跡に行ってはいかがでしょうか。そこからは遠くに現在の浜松城がよく見えて、そこが良い立地だということがわかると思います。

引間城跡
引間城跡にある東照宮

また、三方ヶ原の戦いの跡地として、犀ヶ崖を訪れてみることもお勧めです。そこにある谷は元は約40mもあったといいますが、現在でも13mの深さがあります。傍らには犀ヶ崖資料館があり、家康の半生を振り返るような展示があります。

現在の犀ヶ崖
出撃する家康のジオラマ(犀ヶ崖資料館)

資料館の北方約10kmのところには、三方ヶ原の戦いの記念碑があります。

三方ヶ原の戦いの記念碑

その後

明治維新後、浜松城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されました。多くの城の敷地は市街地となっていき、中心部分だけが展望台として残りました。第二次世界大戦後、浜松市がその地を買い上げ、浜松城公園として公開しました。浜松市は、できるだけ城の昔の姿を再現しようと検討しているところです。

復興天守
復元された天守門

私の感想

私はかつて、浜松城に残っている石垣は家康が築いたと思っていました。しかし調べてみると、この城の遺産は、多くの時代の大名たちによって残されたのだとわかりました。また、この城にはまだ多くの謎が残っていることも学びました(オリジナルの天守の姿、家康に関する伝説など)。今後発掘や研究が進むことで、これらの謎が少しずつ明らかになることを望みます。

天守曲輪の現存石垣
天守曲輪の石垣越しに見える復興天守

ここに行くには

車で行く場合、東名自動車道の浜松ICから約30分かかります。公園にビジター用の駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR浜松駅から歩いて約20分かかります。
東京か大阪から行く場合:東海道新幹線に乗ってください。

リンク、参考情報

・浜松城公園
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「よみがえる日本の城11」学研
・「日本の城改訂版第77号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「浜松城その1」に戻ります。
「浜松城その2」に戻ります。

148.浜松城 その1

徳川家康の出世城

立地と歴史

徳川家康の独立後の本拠地

浜松城は遠江国の中心地にあった城で、現在の静岡県西部にある浜松市に当たります。この城は、後に徳川幕府の創始者となる徳川家康が若かりし頃住んでいた場所として知られています。このことが、この城が「出世城」とも呼ばれている理由の一つとなります。浜松城の前身は、引間(ひくま)城と呼ばれており、天竜川の支流の近くにあった丘の上に築かれました。15世紀頃に築かれたようですが、誰が築いたかはわかっていません。戦国時代の16世紀前半には、駿河国(現在の静岡県中部)を本拠地としていた有力戦国大名、今川氏がこの城を勢力下に収めていました。

遠江国の範囲と浜松城の位置

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康はもともと、遠江国の西の三河国を本拠地としていて、今川氏の配下となっていました。今川氏の力が衰えると、家康は独立を果たし、遠江国に侵攻しようとしました。1568年、家康は引間城及び遠江国を手に入れることに成功しました。しかし、家康はこの城に満足しませんでした。彼は、遠江国のとなりの駿河国に侵攻した武田氏との来たるべき戦いに備える必要があったのです。家康はこの城を西方にあった丘の方にまで拡張し、浜松城という名前に改めました。浜松城の拡張した方の丘にはいくつもの曲輪があり、古い引間城は新しい城の一部となりました。これらの曲輪は土造りで、そこにあった建物は板葺きであったと考えられています。その当時の家康は、家康の同盟者の織田信長が築いた安土城のような城を築く先進的な技術やそのための職人集団を持っていなかったからです。

城周辺の起伏地図

家康時代の浜松城の想像図、現地説明板より
安土城の想像図(岐阜城展示室)

三方ヶ原の戦いの舞台

家康が浜松城に住んでいた時の最もインパクトがあった出来事は、何といっても1573年に起こった三方ヶ原の戦いでしょう。有力な戦国大名、武田信玄が家康や信長の領地に侵入し、二俣城などの家康の支城をいくつも奪取したのです。信玄は、浜松城の周りで示威行動を行い、家康を城から三方ヶ原におびき寄せました。家康は信玄の罠に引っ掛かり、完膚なきまでの敗戦を喫したのです。彼は、命からがら城に逃げ込みました。信玄の軍勢はやがて翌年の信玄の病死により引き上げていき、家康は事なきを得たのでした。この敗戦の後に家康のとった行動がいくつか伝えられています。一つは、信玄の軍勢が家康を追ってきたとき、家康は浜松城の門を開けたままにさせました。信玄の軍勢はこれを罠ではないかと怪しみ、引き上げていったというものです(いわゆる「空城の計」)。もう一つは、犀ヶ崖(さいががけ)と呼ばれる深い谷に布製の橋を渡し、信玄の軍勢に反撃を加えて、(本物の橋と誤認させることで)谷の底に突き落としたというものです。しかし、これらの話が本当のことだったかどうかはわかりません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
敗走する家康軍のジオラマ(犀ヶ崖資料館)
犀ヶ崖古戦場

堀尾吉晴が城を改良

1590年に天下人の豊臣秀吉により家康が(現在の東京にある)江戸城に移されたため、秀吉配下の堀尾吉晴が浜松城を治めることになりました。吉晴は、丘上の天守曲輪に石垣と天守を築き、城を進化させました。現存している石垣と、天守台石垣は吉晴によって築かれたものです。しかし、天守がどのような姿をしていたかは全く不明です。それに関する記録がないからです。天守の屋根瓦と井戸が発掘されているのみです。歴史家は、1600年に堀尾氏が浜松から移された後に築いた松江城の現存天守のような姿をしていたのではないかと推測しています。双方の天守台石垣が似通っており、堀尾氏が松江城を築く際、浜松城の設計を参考にしたとも考えられるからです。

堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉晴時代の浜松城の想像図、現地説明板より
松江城

譜代大名の出世コース

家康は17世紀の初めに天下を掌握し、徳川幕府を創設しました。それ以来、浜松城は江戸時代を通じて9つの譜代大名家により受け継がれました。この城の城主は、度々老中などの幕府の要職の地位につきました。この城が「出世城」と呼ばれているもう一つの理由です。例えば、19世紀初頭に唐津城主であった水野忠邦は、浜松城主になることを志願しました。その結果、彼は浜松城主になるとともに、老中首座として天保の改革を主導しました。城自体に関して言えば、天守はやがて失われ、丘上には天守門だけが城のシンボルとして残りました。城の中心部は丘の傍らにある二の丸に移りました。そこには城主のための御殿があり、そこから城がある地の浜松藩を統治しました。

水野忠邦肖像画、東京都立大学図書情報センター蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
唐津城
江戸時代の浜松城の想像図、現地説明板より

「浜松城その2」に続きます。

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