イントロダクション
浜松駅から少し離れた「連尺交差点」に来ています。国道が交わっていてすごい交通量です。ここは江戸時代も、東海道が曲がり、その先も姫街道になっていました。今も昔も交通の要所なのです。その手前には堀を隔てて、大手門がありました。


通りを進んでいくと、浜松市役所があります。この辺りからが二の丸でした。市役所は現代の御殿といったところでしょうか。向こうには天守も見えます。少し先には、ここから左に行くと「浜松城公園」という案内があります。


ただ、今回はいろんな時代からの史跡を紹介したいので、まずは、浜松城の出発点となった「引間城跡」に行ってみます。
城周辺の地図今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。
特徴、見どころ(浜松城と三方原合戦 現地ツアー)
城の出発点・引間城
更に進んでいき、最初の信号を渡って、脇道に入っていきます。この辺りは、浜松城時代は「古城」と呼ばれた引間城の堀だったようです。やがて、道路が曲がっているところがあります。これが城門の跡で、「霜垂口(しもだれぐち)」と案内があります。

今度は来た方に戻って、旧引間城の本丸に行ってみます。現在そこには、明治時代に創建された元城町東照宮があります。また傍らには「二公像」として、徳川家康に加え、豊臣秀吉の像まであります。少年時代の秀吉が、仕えていた今川家臣の松下加兵衛とともにここを訪れたという説明があります。家康築城の20年近く前とのことです。


ここから天守は見えるのかチェックしたところ、間にある建物の上に、なんとか見えました。

戻りは、もう一つの門跡を通ります。けっこう下っていきます。曲輪の側面が、崖のようになっているのがわかります。その途切れる辺りが城門の跡で、「玄黙口(げんもくぐち)」と呼ばれています。三方原合戦で敗れた家康が、ここに退却したそうです。きっと厳重な構えだったのでしょう。


改めて、城の中心部に向かいます。
古風な石垣と再建天守
それでは、さっき通った案内のところから入っていきます。案内の辺りに二の丸裏門があって、通路がある場所は、御殿のど真ん中だったようです。

通路が突き当たりますが、実は、ここはもう本丸です。本丸が半分くらい崩されてしまっているのです。ではどうやって天守に行くかというと、突き当たった左右どちらからでも行くことができます。今回は右側(北側)から回り込んでみます。そこからの登り口は、山の上のお城に行くという雰囲気があります。

ずっと登っていくと、天守と石垣が見えてきました。反対側は富士見櫓の跡です。名前からして富士山が見えたのでしょうし、説明パネルにも富士山の写真があります。今日はちょっと残念という感じです。


石垣を見ながら、残された本丸に下っていくと、若き日の徳川家康公像があります。

いよいよ、天守曲輪に行きます。まず現れる石垣は、上に櫓があった感じです。その上では、石垣が築かれたとされる堀尾氏時代の櫓跡が発見されています。石垣は、古風で荒々しい野面積みです。復元された天守門(2014年に木造で復元)ともよく合っています。


脇にある巨石も迫力があります。鏡石ということなのでしょう。天守曲輪に入ったら、改めて再建天守(1958年鉄筋コンクリート造で再建)を眺めます。元あった天守はもっと大きかったということですが、確かに天守台の石垣が余っています。どうして石垣に合わせて再建しなかったかというと、予算不足だったようです。


天守に入りましょう。現在の入口手前にかつては付櫓があったと考えられます。中は資料館として2021年にリニューアルされました。おすすめは地下にある井戸です。天守を築いたとされる堀尾氏が、後に築いた松江城天守の地下にも井戸があります。

一階は若き家康の足跡、二階は浜松城の歴史の展示があります。一番上(三階)はやはり展望台です。三方原は北の方、さっき行った引間城は東の方に見えます。


曲輪群の痕跡を探る
これから周りの曲輪に行きますが、その前に天守曲輪の屏風折れの石垣を見学します。埋門の跡から天守曲輪の外側に出ます。一旦下ってから、屏風折れの石垣にアクセスします。側面攻撃ができるよう折り曲げ、実戦的に作ったといわれますが、今では優雅にも見えます。土塁の上の部分に築いた「鉢巻石垣」の造りです。石垣自体を屏風折れにするのは全国的にも珍しいそうです。



それでは、北側にあった「作左曲輪」の跡に行ってみましょう。「作左」とは「日本一短い手紙」で有名な家康の重臣、本多作左衛門重次のことです。三方原合戦の後になりますが(1579年、天正7年)、作左曲輪の工事をしたと考えられる記録があります。城の重要拠点の守りを任されていたのです。現在は主に学校の敷地になっていますので、雰囲気を感じるべく、近くの展望広場に行ってみます。幟が立っていて、曲輪という雰囲気があります。早速天守が見えるかチェックしてみます。方角が変わると、違った形に見えます。



天守曲輪の南側に戻ってきました。次は、更に南側にある出丸の跡に行ってみます。まず遠くから見てみると、建物がたっています。出丸の跡は、図書館の敷地になっているのです。図書館の曲輪に登っていきます。「浜松城出丸跡」という案内があります。図書館があるのはいいとしても、天守の見え方をチェックしたいところです。裏手の駐車場がいいようです。見えました。方角は逆ですが、さっきの展望広場と同じように見えます。一番最初の「古城」引間城を含めて、さまざまな曲輪が城を囲んで守っていたのがわかります。




「三方原」の史跡を巡る
城周辺の地図最後のセクションでは、城の近く(市役所南バス停)からバスに乗って、三方原古戦場まで行ってみます。約10km、20分くらいのバス旅です。三方原墓園バス停で降りると、古戦場碑はすぐ近くにあります。ここで合戦があったのだろうと思ってしまいますが、実は、それがよくわからないのです。なんと主戦場について4つも説があり、場所もバラバラなのです(根洗松、大谷、小豆餅、大柴原)。


ここはいさぎよく撤退しましょう。家康が撤退したときの伝説地をめぐります。反対側のバスに乗って、葵町バス停で降ります。この付近には「小豆餅」という地名があり、家康が小豆餅を食べた場所とされています。今も小豆餅を売っている店があります。家康は、追手が迫ったので代金を払わず行ってしまいました。店のおばあさんは怒って家康を追いかけました。代金取立てまでを追ってみます。



歩きやすい道を選び、バス通りに並行する廃線跡の通りを歩きます(軽便通り、奥山線跡)。ところで、家康が撤退したのは夜だったのですが、お店はやっていたのかとも思ってしまいます。ただ、伝説は伝説として楽しむのがよいのでしょう。バス通りに戻ると、「銭取」バス停がありました。小豆餅~銭取間は約2kmの道のりでした。


次はバスに乗って「さいが崖」で降ります。徳川軍が反撃した場所です。ここにも伝説があって、崖に布を渡して橋に見せかけ、誤った多くの武田兵が崖に落ちたというものです。それにちなんだ「布橋」という地名もあります。崖の下には行けないそうですが、見晴台があるので見学します。草木が茂っていますが、なんとか底は見えます。こういう自然の地形も活用して城を守っていたのです。隣接する犀ヶ崖資料館では、合戦のジオラマなどを楽しめます。




ここから先はまた歩きます。さっきの廃線跡のルートが遊歩道になっているのです。この道を行けば、浜松城公園に出られるとのことです。公園に着いたところで、見覚えがある小山がありました。最初に行った「古城」の引間城跡です。三方原合戦の後、家康が戻ったのはそこにある城門でした。よって、その場所をゴールにしました。そういえば城の方でも、わざと城門を開いてかがり火をたき、追撃してきた武田軍をかえって警戒させたという伝説がありました。(空城の計)浜松城は、歴史と伝説に彩られた城だと思いました。



これで終わります。ありがとうございました。

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