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立地と歴史
浅井氏が本拠地として築城
小谷城は、現在の滋賀県にあたる近江国のうち、北部にあった大規模な山城です。戦国時代の1520年代頃に、この地方の戦国大名であった浅井氏がこの城を築きました。ところが、浅井氏は不幸にも1573年にこの城で滅ぼされてしまったため、浅井の悲劇とともに人々に記憶されることになりました。
近江国の範囲と城の位置近江国は、東日本と西日本をつなぐとても重要な位置にありました。歴代の将軍や天下人たちは、この国を統治するか、思いのままにコントロールしたがっていました。そのため、例えば織田信長は、1568年に上洛する前に、彼の妹お市を、浅井氏の当主であった長政に嫁がせ同盟を結んだのです。ところが長政は、1570年に信長が浅井氏のもう一つの同盟先である朝倉氏を攻めたとき、信長に反旗を翻しました。信長と長政の長い戦いはこうして始まりました。
織田信長との戦いのために強化
小谷城は、小谷山(標高495m)の尾根上に築かれました。館を伴う多くの曲輪があり、石垣に囲まれていました。城の初期の段階では、これらの構築物は戦うためというよりも、居住のためや権威を象徴するものであったと考えられています。それは、この城の城主が敵から攻撃されたとき、度々城から逃亡していたからです。しかし、信長と戦うことになってからは、朝倉氏からの協力によって、城は強固な要塞として改良されました。また、この城には多くの支城がありました。例えば、大嶽(おおずく)城は小谷山の頂上にあり、峰上にある小谷城の背後を守っていました。
城周辺の起伏地図長政と朝倉氏は、1570年の姉川の戦いで、信長と野戦を行いましたが、敗れてしまいます。そのため、長政は小谷城に籠ることにし、信長包囲網と呼ばれる他の味方の大名たちが信長を倒すのを待つことにしました。信長は、城を力攻めにすることは諦め、その代わりに少しずつ城を孤立化する策を講じました。羽柴秀吉などの信長の部下たちは、長政の家臣を説得し、信長の味方に引き入れました。その結果、いくつもの小谷城の支城は、戦うことなしに信長側についたのです。
長期戦により孤立、そして落城
信長はまた、小谷城の正面に、陣城として虎御前山(とらごぜやま)城を築き本陣としました。このことで、信長側の補給は安定し、一方の長政側は困難となりました。1573年、信長は、最も重要な支城であった大嶽城に滞陣し守っていた朝倉氏を追い払いました。その上で、信長は朝倉氏を、本拠地である一乗谷城まで追跡し、ついには滅ぼしてしまったのです。その結果、小谷城は完全に孤立しました。
城周辺の起伏地図峰上にある城において、長政は低い方にあった本丸にいました。彼の父親である久政は高い方にあった小丸にいました。信長の部下、羽柴秀吉は麓から一気に駆け上がって中間地点にあった京極丸を占拠しました。それが8月27日のことです。城とそこにいる浅井一族は分断されてしまったのです。久政は混乱に陥り、その日のうちに切腹して果ててしまいます。長政の方は、何日間か持ちこたえましたが、父親と同じように自害しました。城は9月1日に落城しました。
浅井長政の妻子の運命
信長の妹のお市は、長政の妻でもあったので、まだ城に留まっており、信長によって救助されました。彼女と長政の間には3人の娘と少なくとも1人の息子がいました。この娘たちも同様に救われ、後に浅井三姉妹として知られるようになります。長女の茶々は、秀吉が天下人となった後にその妻となりました。息子の万福丸は、その当時の習わしとして、成人してから復讐できないよう不幸にも殺されてしまいます。長政と久政の首は、これも当時の習いとして京都の公衆の面前に晒されました。信長は、彼らの頭蓋骨を使って髑髏(どくろ)杯を作らせ、宴会で部下たちに披露しました。当時は現在のわれわれとは全く違った多くの風習があったのです。(髑髏杯については、信長だけの特異な行動だったのかもしれませんし、これを敗れた部将への敬意によるものと考える人さえいます。)
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