204.佐和山城 その2

今回この記事では、彦根駅から佐和山城跡まで徒歩でいく場合の道順をご紹介します。城跡がある佐和山は、彦根駅の東口方面となります。改札から東口に出る途中に、石田三成と佐和山上のディスプレイがあって、気分が盛り上がります。東口から出たすぐのところに佐和山城跡の標識があります。

ここに行くには

今回この記事では、彦根駅から佐和山城跡まで徒歩でいく場合の道順をご紹介します。城跡がある佐和山は、彦根駅の東口方面となります。改札から東口に出る途中に、石田三成と佐和山上のディスプレイがあって、気分が盛り上がります。東口から出たすぐのところに佐和山城跡の標識があります。

彦根駅内の石田三成と佐和山城のディスプレイ
彦根駅東口
東口前の標識

駅から見て、駅前通りを左(北)に進み、突き当たった所を左に曲がります。案内版もあります。車道は高架になって鉄道を越えますが、われわれは脇道を進みます。

駅前通り
通りの突き当たり
脇道を歩いていきます

踏切を渡ると、また案内板がありますので、右に曲がって高架をくぐります。すると、道が二又に分かれますので、左の方に進みます。わかりづらいですが、左側のポールの上に案内が表示されています。

踏切
右に曲がったところです
二又に分かれる地点

そこからは、水路に沿って道が進むので、迷うことはないと思います。右手に佐和山も見えてきます。

水路に沿って進みます
佐和山

そのうちに公園らしい風景になってきて、佐和山城跡の看板が見えます。東山公園です。天守の模型や駐車場もあって、着いたような感覚になりますが、城跡はもう少し先です。

道は公園に至ります
「佐和山城跡」の看板
東山公園

先に進むときれいな道に出ます。井伊家の菩提寺、清凉寺・龍潭寺が並んでいます。そして、城跡登り口(ハイキングコース入口)に到着です。

お寺が並ぶ道
清涼寺
城跡登り口(ハイキングコース入口)周辺

特徴、見どころ

ハイキングコースに挑む!

佐和山城は歴史が長いので、山の峰上に多くの曲輪(区画)が作られました。城跡にはハイキングコース設定されていますが、カバーしているのは、曲輪群の一部です。山はお寺の所有になっているので、コースを外れないようにしましょう。コースの最初の部分は、城の北側を走っていた昔の街道と重なっているようです。

佐和山城城跡マップ、「佐和山城跡のご案内」彦根観光協会パンフレットより引用

それでは、ハイキングコースに進みましょう。ハイキングコースは、龍潭寺の境内を通るので、時間制限があります。石田三成像がお出迎えです。そして、寺の山門を入っていきます。

ハイキングコース入口
ハイキングコースの注意書き
石田三成像
龍潭寺山門

山に入るときに見える谷の部分は自然物に見えますが、敵の移動を防ぐための竪堀だったようです。自然の谷を利用して、更に加工したのかもしれません。

山の入口にある竪堀

少し登ると、切通しに着きます。街道が山の峰を抜けていくためと、城にとっては端っこを守る意味もあったのでしょう。関ケ原の戦い後の佐和山城攻めのときには、この道の両側から東軍が攻めてきたそうです。

切通し

ここからハイキングコースは山の峰を登っていきます。城としては「西の丸」に当たり、3段の曲輪で構成されていました。各段の間には、それぞれ竪堀も掘られていました。東軍に攻められた時には、河瀬織部という三成の家臣が守っていたそうです。

峰の上を登っていきます
西の丸上段に残る竪堀

まず、下段の曲輪に着きます。「塩硝櫓跡」という標柱があり、その後ろには大穴が開いています。説明パネルには「塩櫓」とありましたので、塩か火薬の蔵だったのでしょう。

西の丸下段曲輪(塩硝櫓跡)
説明パネルには「塩櫓」とあります

登り続けると、「西の丸」の説明パネルがある上段曲輪に着きます。上の方に、土塁の高まりのようなものがあるので、行ってみましょう。土塁が壁のようになっています。そこから見ると、上段曲輪がお見通しです。どんな風に守っていたかがわかります。

「西の丸」説明パネル
背後にある土塁の高まり
土塁の壁
土塁から上段曲輪を見ています

本丸に到着!

いよいよ本丸に行きますが、そこまでは本当にハイキングです。本丸には残念ながら、お城らしさは全然ありません。城の石碑があるくらいです。彦根城築城のときに、建物・石垣ごと持ち去られてしまったのですから仕方ないでしょう。

本丸にある石碑

しかし、山麓からの高さは130メートルくらいありますので、景色はすばらしいです。彦根城もばっちり見えます(本丸から西方)。

本丸から見える彦根城

北の方の景色もすばらしく、琵琶湖がきれいです。

本丸から見える琵琶湖

登ってきたのと反対側に「南口降り口」の案内板があります。城跡マップ(ハイキングコース)には、別の登山口の案内はありませんが、マップ上の「隅石垣」の方向なので、そちらに行ってみましょう。

「南口降り口」の案内板
本丸南側の地図、滋賀県教育委員会「埋蔵文化財活用ブックレット5(近江の城郭1) 佐和山城跡」より引用

本丸を下ると、少し平らなところに出ます。「石垣」という標柱がありますが、「隅石垣」のことを言っているのでしょう。そちらの方向に行くと、四角い大石が2つあります。これが隅石垣で、本丸石垣隅の基礎部分と考えられます。よく残っていたと思いますが、埋もれていたか、取り出すのが危険だったのか、どうなのでしょう。

「石垣」の標柱
隅石垣

もう一つ下るとまた平らな場所があって、その先が「千貫井」です。山の上にあるので「千貫」の価値があるほど貴重な井戸だったのでしょう。それで長い籠城戦にも耐えられたのです。しかし、現場は荒れている感じがします。戦前(第二次大戦前)に掘り返されてしまった影響もあるのでしょう(「近江佐和山城・彦根城」による情報)。

千貫井

千貫井から戻ったところの平地が、ハイキングコースの最後のポイント「登城道」のようです。近くには「女郎谷」という案内もあります。関ケ原後のこの城での戦いのとき、本丸には石田三成の父・正継たちがいて、よく敵を防いでいました。ところが敵に内応する者が出て、天守は炎上、正継たちは自害しました。そして逃げ惑う子女たちが身を投げたのが、この先にある女郎谷だということです。

「登城道」と思われる場所
「女郎谷」の案内

ハイキングコースは「登城道」から同じ道を戻る設定になっているので、コース入口に戻ります。

プラスアルファにチャレンジ!

駅への帰り道に他のスポットにも行ってみましょう。まず「石田三成屋敷跡」があります。来るときに通った東山公園のところを曲がって、山の方に行きます。下から見た「佐和山城跡」看板の裏を通っていきます。

東山公園、この手前を左(山の方)に曲がります
城跡看板の裏を通ります

しばらく行くと、石垣が見えてきます。城跡への案内板がありますが、ちょっと変です。その近くに「石田三成屋敷跡」の石碑がありました。例の石垣は史跡ではないようです。もしあったら彦根城に持っていかれてしまったでしょうから。

謎の石垣
石垣の前には案内板
石垣から少し離れたところに石碑があります
石田三成屋敷跡

本日最後のチャレンジは登山道「南口」探しです。旧中山道の国道8号線に出たら、登山口らしい場所がありました。「石田三成 佐和山城跡」という案内板がありますが、「南口」とは書かれていません。位置関係から言えば、ここが南口なのでしょう。

登山道南口?
現地にある案内板

閉鎖はされていませんし、近くに法華丸(曲輪の一つ)がありますので、少しだけ行ってみましょう。竹林がきれいです。段々に整地されていますので、これが法華丸の一部ではないでしょうか。

竹林に囲まれた遺跡
法華丸跡か?

私の感想

佐和山城は「徹底的に破壊された」とよく言われますが、残っているものは意外とあるということがわかりました。今後整備されて見学できる場所が増えるといいと思います。実は、大手門跡にも行ってみたかったのですが、今回は彦根駅からの徒歩であり、遠くなるのでパスしました。次の機会に行ってみたいです。

大手門跡、彦根観光協会ホームページから引用

また、琵琶湖を擁する滋賀県は、今でも多くの名物(近江牛、鮒ずし、赤こんにゃく、ニジマス、サラダパン、バウムクーヘンなど)があり、豊かな国と言えるでしょう。

琵琶湖岸
近江牛料理の一例

これで終わります。ありがとうございました。
「佐和山城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

203.前橋城 その2

残念ながら現状では、前橋城に関わる遺跡はあまり残っておらず、史跡としてもよく整備されているとは言えません。しかし、今後の整備に向けた動きも出始めているため、期待を込めて、今回は4つのエリアに分けてご紹介します。

その後

再築前橋城はわずかな期間で取り壊されましたが、その有形無形の遺産は、後の前橋に生かされました。明治時代に、群馬県の県庁を前橋、高崎どちらにするか綱引きがあったときに、城の敷地と、城を誘致した商人たちの活動が、前橋が県庁所在地になる決め手になったからです。城の本丸御殿は、昭和初期まで県庁舎として使われ、その後建て替えられた本庁舎は「昭和庁舎」として今も保存活用されています。その傍らには、都道府県庁舎として2番目の高さを誇る現・県庁舎ビルがそびえています。

県庁舎として使われた本丸御殿の模型(臨江閣にて展示)
昭和庁舎
現・県庁舎ビル

特徴、見どころ

残念ながら現状では、前橋城に関わる遺跡はあまり残っておらず、史跡としてもよく整備されているとは言えません。しかし、今後の整備に向けた動きも出始めているため、期待を込めて、今回は4つのエリアに分けてご紹介します。

風呂川と旧利根川の痕跡

前橋城周辺の地図(Google Mapを利用)

まず、城の初期からあった風呂川と、東側の旧利根川によってできた崖地帯をめぐってみましょう。例えば前橋公園から風呂川に向かう場合、とても急な坂の階段を登っていきます。この坂は、江戸後期に利根川の流路が、風呂川に迫った時にできた崖の痕跡のようです。

風呂川と前橋公園の間の急坂

風呂川は、この周辺では一番高い所を流れており、不思議な感じがします。用水路として作られたこの川の由来によるものなのでしょう。

風呂川
右側の石堤の上を風呂川が流れています。

やがて、明治時代に作られた迎賓館「臨江閣」の前に出ます。臨江閣の庭園は、城の一番北の空堀の底に当たります(当時は「虎ヶ渕」と呼ばれました)。この空堀は、古い利根川の流路の名残りとも言われていて、先ほどの公園と風呂川の間の坂よりも時代が古いことになります。

臨江閣
臨江閣の庭園

風呂川に戻って進んでいくと、空堀の底は遊園地となります。臨江閣の庭園とは地下道でつながっていて、ここもなんとも不思議な空間です。「前橋の恩人」安井与左衛門の顕彰碑もひっそりと佇んでいます。

遊園地の脇を流れる風呂川
空堀の底にある遊園地「るなぱあく」
遊園地と庭園をつなぐ地下道
与左衛門の顕彰碑

風呂川と空堀と別れ、市街地に出ても、崖の痕跡は続きます。国道を越えて商店街に入っていくと、馬場川通りがあります。馬場川は風呂川から分かれ、崖の縁を流れています。この通りの傍らに「船つなぎ石」が展示されていて、利根川が以前この辺りを流れていた時に使われていたそうです。また、この通りの片側の住居の敷地は、通りより一段高くなっていて、崖の地形の特徴がよくわかります。

馬場川通り
船つなぎ石
崖の地形により、一段高くなっている住居の敷地

大手門からの登城ルート

新旧前橋城の範囲(Google Mapを利用)

商店街から少し戻って、大手門から本丸までのルートをたどってみましょう。2021年のビル工事の際、酒井氏時代の前橋城(この記事では以後「旧前橋城」と呼びます)の大手門の遺構が発見されました。保存のため埋め戻されましたが、今後何らかの形での公開が検討されるそうです。なお、再築前橋城の大手門は、現在は国道などになっている場所にありました。

旧前橋城の大手門があった場所
再築前橋城の大手門があった場所

次の登城ルートの関門は「車橋門」です。幸いなことに、この門の石垣の一部が残っています。この門は、旧前橋城でも再築前橋城でも、同じ場所に同じ名前でありました。残っているのは、再築前橋城時代のものです。通るところの幅が狭いのは、区画整理によって、左側の石垣が内側に8m移動させられたからです。

ちょっと見逃してしまいそうな所にあります。
車橋門の石垣

それでは、県庁舎ビルの方に向かっていきましょう。どこからでも見えるので、まるで天守のようでわかりやすいです。県庁舎がある場所は、利根川の浸食の影響で、旧前橋城では三の丸でしたが、再築前橋城では本丸でした。県庁舎ビル(1999年完成)を建設するときには、旧前橋城三ノ門の遺構が発見されました。2001年には、再築前橋城の本城門の土橋と堀の遺構が発見されました。いずれも埋め戻されています。

県庁舎の敷地

現代の前橋城、県庁舎ビルの32階は、展望ホールとして一般に開放されていて、地上127mから、群馬の山々や、前橋の市街地、そして城があったところも見渡すことができます。

県庁舎ビル入口
エレベーターホール
展望ホール
北方向の眺め(赤城山、城跡など)
東方向の眺め(市街地)

残っている土塁を歩く

城の遺構は、少ないながら他にもあります。再築前橋城の本丸と北曲輪の土塁の一部です。県庁舎から近いのは本丸の土塁で、砲台があったところに前橋城跡の碑があり、ここまでは登っていくことができます。ただし、そこから先の土塁上は、保存のため歩くことはできません。

本丸土塁(砲台跡)
本丸土塁の他の部分は、周りを歩いて見学しましょう

県庁の裏手には、ここに旧前橋城本丸の天守があったことを示す説明パネルがあります。その向こう側は利根川が近いですので、ここから先の旧前橋城の本丸敷地は、浸食によって崩れてしまったのでしょう。見学した日の利根川は穏やかに見えましたが、自然の力とはやはりすごいものです。

旧前橋城本丸天守の説明パネル
利根川がすぐ近くです

北曲輪は、前橋公園の一部になっています。西側の土塁の根元から見ると、結構な高さで10m近くはあるでしょうか。この土塁の上は歩けますので、登ってみるといい景色です。しかし、この土塁の北端まで行って下り、改めて西側から見てみると崖の地肌が露出しています。これは、江戸後期の利根川の蛇行により、削られた痕跡のようです。この土塁は、敵からだけでなく、川からも城を守るために築かれたのかもしれません。

北曲輪の土塁(南端)
北曲輪の土塁から見た前橋公園(西側)
土塁北端の根元部分を西側から見ると、利根川によって削られたと思われる崖があります

与左衛門の石堤?

最後に、安井与左衛門が築いたと思われる石堤を見に行ってみましょう。場所はグリーンドーム前橋の北の方、岩神ポンプ場の手前です。この周辺で南北に伸びる石堤のうち、北側の方が古い時代のものと考えられます。現地に説明パネルなどはなく、土木遺産にはなっているようですが、史跡として与左衛門時代のものとは確定されてはいません。現在使われている利根川の堤防はここよりずっと西にありますが、現代でも洪水の被害は発生しています。この石堤は、地域を守るための戦いの原点と言えるのではないでしょうか。

城周辺の地図

与左衛門が築いたと思われる石堤

私の感想

現代の前橋でさえ洪水の被害が発生しているのですから、昔はもっと大変だったと思います。以下にあげる本などを読み、そんなところでも要害の地として築城したのが現在の前橋の基になっていることを知り、今回取り上げてみました。このような歴史を、もっと多くの人にわかってもらえるよう、目に見える形で史跡の整備を進めてほしいと思います。地域の人たちも、先人たちがこんなにがんばっていたことがわかれば、活力が沸いてくるのではないでしょうか。

大渡橋から見た県庁と前橋城跡

リンク、参考情報

幻の名城 前橋城、前橋まるごとガイド(前橋観光コンベンション協会)
・「前橋城考/野本文幸著」上毛新聞社
・「知られざる13の謎に挑む 前橋歴史断簡/野本文幸著」上毛新聞社
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「企画展 越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
・「関東の華・前橋城」前橋市観光協会リーフレット
・「前橋城絵図帳 前橋市立図書館所蔵資料」前橋市教育委員会
・「まえばし地下マップ(中央地区)」前橋市教育委員会リーフレット

これで終わります。ありがとうございました。
「前橋城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

178.能島城 その3

もしここに行くのにたっぷり時間がある方は、自転車を使って行ってみてはいかがでしょうか。この城跡の近くを、「しまなみ海道」サイクリングロードが通っているからです。

特徴、見どころ

二の丸を歩いて回る

二の丸は、三の丸より一段高くなっていて、本丸を通路のように囲んでいます。この曲輪は、住居や見張りのための場所として使われたと考えられています。ここを歩きながら眼下の見どころもチェックできます。例えば、先ほど沖合の船から見た船溜まりなどです。その海岸上には、人工的な溝があり、通路と波打ち際を仕切っています。

城周辺の地図

二の丸
二の丸から見た船溜まり
船溜まりにある人口の溝

また、「矢びつ」と呼ばれる曲輪が、島の北西の岬上にあります。この場所では水兵たちが、対岸の鵜島に向かって矢を射る練習をしていたと言われています。

二の丸から見た「矢びつ」
カレイ山から見た「矢びつ」

今も昔も絶景を楽しんだ本丸

そしてついに、頂上の本丸に到着します。ここでは360度周りを見渡すことができ、まさに絶景です。昔の水兵たちは、この海峡で起こったことは全て、ここから把握できたことでしょう。発掘調査によると、ここには物見櫓があり、多くの「かわらけ」と呼ばれる陶器が発見されました。「かわらけ」は当時、宴会や儀式の都度、使い切りで用いられていました。すなわち、水軍のメンバーたちは、このような景色を見ながら、この島の頂で宴会を楽しんでいたということになります。

本丸に上っていきます(右側)
本丸の上
北側の景色(瀬戸内海)
東側の景色(鵜島)
南側の景色(鯛崎島)
西側の景色(大島)
カレイ山から見た本丸

また、この島の別の岸では不思議な大穴(直径が約1m、深さが約2m)が見つかっています。歴史家たちは貯水池として使われたのではないかと言っていますが、ガイドの方はこれがお風呂だったらさぞ面白いだろうと想像を逞しくされていました。

大穴のレプリカ、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

その後

この島は村上水軍が引き上げから後、江戸時代には畑地として利用されていました。しかし前述の通り、いつしか無人島になっていました。1931年に、島には桜の木が植えられました。それ以来、桜の名所となり、開花の季節には地元の人たちを乗せた船が通っていました。ところが最近その桜の木は、その根が城跡を破壊しているということで全部伐採されてしまいました。現地では、わずかに残っている切株がベンチ代わりに使われています。一方、城跡自体は、1953年に国の史跡に指定されています。また、近年では村上水軍の城として、日本中で人気が高まってきています。

ベンチとなっている切り株

私の感想

これまでどの城にも船で乗り付けたことはなかったので、能島城跡への訪問は特別な経験となりました。今回のツアーに参加することで、城がどのように使われ、今はどのように注意深く保全されているのか理解することができました。また、このような場所では他とは全く違う暮らし方をした人たちがいたことも教えられました。もしかすると私が知らないだけで、現在でも似たような生活をしている人たちがいるのかもしれません。それから、もっとこの城跡に人気が出て、城跡への定期船が運行されるようになってほしいとも思いました。

村上海賊ミュージアムも見どころの一つです

ここに行くには

ここに行くには基本的には車を使われることをお勧めします。本州方面からは西瀬戸自動車道北大島ICから約5分、四国方面からは西瀬戸自動車道南大島ICから約15分かかります。宮窪漁港または村上海賊ミュージアムの駐車場を使うことができます。

但し、もしここに行くのにたっぷり時間がある方は、自転車を使って行ってみてはいかがでしょうか。この城跡の近くを、「しまなみ海道」サイクリングロードが通っているからです。例えば、四国の今治市にいたならば、今治駅で自転車を借りて、すぐにサイクリングロードに乗り出すことができます。

今治市側のサイクリングロード

来島海峡にかかっている来島海峡大橋を渡り、しばらくは大島を進んでいきます。

来島海峡にかかる来島海峡大橋
大橋の上
大島上のサイクリングロード

ツアー船が出る港は、大島の北端にあります。今治駅から約22km離れたところです。

自転車で現地に到着です

リンク、参考情報

能島城跡、今治地方観光協会
今治市村上海賊ミュージアム
・「日本の城改訂版第126号」デアゴスティーニジャパン
・「瀬戸内の海賊/山内譲著」新潮選書
・「村上水軍全紀行/森本繁著」新人物往来社
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社編

これで終わります。ありがとうございました。
「能島城その1」に戻ります。
「能島城その2」に戻ります。