159.芥川山城 現地編

大阪府の高槻駅前に来ています。芥川山城跡はここから距離がありますので、今回はパスで行くことにしました。市営バスの塚脇行きに乗って、15分くらいのバス旅です。

ここに行くには

大阪府の高槻駅前に来ています。芥川山城跡はここから距離がありますので、今回はパスで行くことにしました。市営バスの塚脇行きに乗って、15分くらいのバス旅です。

塚脇行き高槻市営バス

塚脇バス停で降ります。ここから、三好山の山頂にある、芥川山城・主郭を目指します。途中から周遊コースになるのですが、大手石垣が残る「大手筋ルート」を進みます。

塚脇バス停
三好山(城跡)へのルートマップ(高槻市ウェブサイトより引用)

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

城周辺の地図

大手筋ルートへ進む

バス停から通りを渡ったところの道に入ります。坂が急になってきました。

バス停から住宅街を進みます

周りが山っぽくなってくると、周遊ルートの分岐点に着きます。

周遊ルートの分岐点

右側の山道入口のところに「三好山へ40分」とあります。ついついこちらに進んでしまいそうになりますが、大手石垣(大手筋ルート)へは、ここで左に進む必要があります。

山道入口にある案内

左側の舗装道を進むと「山頂・主郭」の案内があります。迷わず進みましょう。

「山頂・主郭」への案内

途中には石垣もあって、城のものかと思ってしまいますが、ほとんどが農業用に積まれたもののようです。

途中にある石垣

いよいよ山の中に入ってきて、左奥の方に誘導されますが、案内は「大堀切・土塁」とあります。こちらは新たに加わったルートのようで、大手石垣に行くには、右手に進みます。

「大堀切・土塁」へのルート

右手に行くと、猪除けの柵があり、開け閉めをして進みます。

猪除けの柵

その先は谷筋なので、足元にも気を付けて歩いていくと、大手石垣が現れました。

大手石垣

大手石垣と大堀切・土塁を見学

この城で石垣は何ヶ所か見つかっていますが、ビジターが通常見学できるのはここだけだそうです。下の方に石が転がっていて、元は大手石垣として積まれていたのでしょう。現在は、真ん中が崩れてしまっていますが、当然続いていましたし(約12m)、高さも現在(2m前後か)の倍くらいあったのではという意見があります。

大手石垣
下の方に転がっている石
真ん中が崩れている石垣

上に登っていき、山の上の通路に出ました。

山の上の通路

もう少し進むと、急に視界が開けました。主郭の下の方にある曲輪です(曲輪11)。せっかくなので、主郭の前に「大堀切・土塁」まで行ってみたいと思います。先ほど左に枝分かれしたルートの行先です。

曲輪11

一旦、主郭への登り口まで行ってみます。右に行くと主郭ですが、今は左の方に下ります。

左に行くと大堀切・土塁、右に行くと主郭

大堀切・土塁まで下ってきました。左側の土塁と、右側の大堀切で、尾根伝いに攻めてくる敵を防いでいました。更に右側の曲輪との落差がものすごいです。

大堀切(真ん中)・土塁(左)

改めて主郭の方に登っていきます。きつい登りです。

上の曲輪への通路

平らなところに出ました。大堀切の上にある田ノ丸(曲輪12)です。ここは、城の南西側を守る要の曲輪でした。ここから大堀切は下すぎて全然見えません。

田ノ丸(曲輪12)
田ノ丸から下を見ています

長慶のいる主郭に到着

主郭に向けて、登ります。主郭の周りは、曲輪が段のようになっています。例えば、主郭の手前下にある曲輪(曲輪3)では、「塼(せん)」と呼ばれる建物の外壁を支える基礎材料や、硯がいくつか発見されています。蔵があったと考えられています。

曲輪3
曲輪3で発掘された塼(高槻市立しろあと歴史館にて展示)

最後の登りで主郭に到着です!まずはどうしても景色に期待してしまいます。すばらしい眺めです。右手に大阪のビル群も見えます。それから、長慶のもう一つの居城、飯盛城があった山(飯盛山)ですが、正面に見える低い方の山だと思います。2つの城が向かい合っていたのです。

主郭(下段)
三好山と三好長慶のディスプレイ
主郭からの眺め
飯盛山(手前)

続いて、主郭の奥の方(上段)に行ってみましょう。その途中に三好長慶公祭祀祠というお堂があるのですが、これがけっこう重要なのです。三好長慶は、近くの村の水争いの裁決を行いましたが、なんとその裁決は江戸時代も有効だったのです。水の権利を保障された村(郡家村)の人々は、長慶を神として城跡の山に祀りました。それが今ある祠に引き継がれています。地元の人たちにとって三好長慶はまるで今でも現役のようです。

三好長慶公祭祀祠
三好長慶水論裁許井手絵図・裁許状(高槻市立しろあと歴史館にて展示)

主郭の奥の方には、長慶もいたであろう御殿がありました。発掘調査によると、御殿が立っていた礎石や、宴会で使用されたと思われる皿(かわらけ)が見つかっています。御殿そのものについては、屋根の天辺に乗せる瓦(雁振瓦)だけ見つかっていて、残りは板葺きだっただろうとの意見があります。信長、秀吉に比べるとまだ質素だったようです。

主郭御殿跡周辺
主郭で見つかった雁振瓦(中央奥)、かわらけ(中央手前)、高槻市立しろあと歴史館にて展示

主郭の周りはどうなっているかというと、ロープが張ってあって、ものすごい急坂で危険ということなのでしょう。この下は、摂津峡がぐるりと取り囲んでいるはずです。

主郭周囲

塚脇ルートから撤収

大手筋ルートの終点まで戻ってきました。先ほど登ってきたところです。ここから、枝分かれしている塚脇ルートを通って撤収します。城の東側を通るルートです。

右側が大手筋ルート、左側が塚脇ルート

進んでいく右手には、案内はありませんが、通称「出丸」という主郭周辺に次ぐ曲輪群があります。主郭の反対側から大手道を守っていたのでしょう。関門のようなところに至りました。「出丸」エリアの出入口と思われます。

「出丸」エリアの虎口か

反対側からここに入ってみましょう。反対側の手前が、すごく細い通路になっています。堀切に挟まれた土橋です。簡単に入れないようになっていたのです。土橋を渡ってみると、左側(南)は谷、右側(北)は堀という感じです。先ほどの関門は虎口だったのでしょう。

土橋

土橋の更に手前にも防御の仕組みがあります。南側の斜面に注目です。なにか盛り上がっています。斜面を移動してくる敵を防ぐための、竪土塁です。

竪土塁

その東側にも曲輪群がありました。土塁に囲まれた比較的小規模なもので、居住地区か、兵の駐屯する場所として使われたのではないかと言われています。現在は、その多くが農地や墓地などに転用されているそうです。

東側の曲輪群

その先に行くとまた石垣がありますが、ぱっと見、城の時代のものに思えてしまいます。下っていくときの景色もなかなかいいです。城があったときもこのように見えたのでしょうか。

途中にある石垣
下りの景色

最初の分岐点に着きました。ここにある案内を見たら、無事戻ってきたと感じました。

最初の分岐点にある案内

バスは循環ルートなので帰りも同じ所から乗ります。駅に着いたら、向こう側にある高槻市立しろあと歴史館に行ってみるのもいいと思います。館内には芥川山城(芥川城)についての展示のほか、この場所にあった高槻城についての展示もあります。和田惟政、高山右近、そして江戸時代の高槻藩に引き継がれました。

高槻市立しろあと歴史館
高槻城の模型、高槻市立しろあと歴史館にて展示

リンク、参考情報(追加分)

・「大阪府中世城館事典/中西裕樹著」戒光祥出版

「芥川山城・飯盛城 歴史編」に戻ります。
「飯盛城 現地編」に続きます。

159.芥川山城 その1

三好氏が治めた戦国時代の代表的な山城

立地と歴史

戦国時代の山城

戦国時代の16世紀、近畿地方では戦は日常茶飯事でした。戦国大名たちは普段は京都のような平坦地にある館に住み、非常時に山城を使っていました。ところが、そのやり方は、次の戦がいつ起こるのかわからない中では大変危険なことになったのです。その結果、彼らは常に山城に住むようになりました。その山城の頂上には館があり強力な防衛システムを備えていました。芥川山城は、この地方の代表的な山城だったのです。

城の位置

三好長慶が本拠地とする

この城は最初は1516年に、足利幕府の重臣であった細川高国によって築かれましたが、三好長慶の本拠地として有名です。長慶は四国の阿波国(現在の徳島県)出身で、細川氏に仕えていました。彼は、他の幕府の家臣たちが内輪もめを続ける一方で、政治軍事両面で力をつけていきます。彼の実力が将軍であった足利義輝に拮抗した時、義輝は長慶を殺そうとしました。長慶は将軍を京都から追放し、1553年に彼自身による統治を開始しました。同じ年に彼はまた芥川山城に居を定めるのです。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

防御力と権威を備えた山城

この城は、摂津国(ほぼ現在の大阪府北部に当たる)三好山の頂上にありました。この山自身が非常に防御力が強く、北と西側は摂津峡に囲まれていました。この城に行くには、東側から峰伝いに行く方法と、南側から谷沿いに行く方法がありました。長慶自身も以前にこの城を攻めたことがあり、そのときにこの城の強さを認識したようです。

城周辺の起伏地図

城の復元想像図(現地説明板より)

山の頂上は本郭となっていて、御殿がありました。他の多くの曲輪が本郭東側の峰の周辺に配置されていました。通路はこれらの曲輪に沿っていて、土塁・土橋・空堀・食い違い虎口などの構造物により、容易に進めないようになっていました。また、大手道が本郭の南側を通っていましたが、とても急であり、石垣を備えた大手門によって守られていました。この石垣は、この城の権威をも表していて、日本の城の中では石垣を意識的に使った最も早い事例の一つであるとされています。

本郭周辺の想像図(現地説明板より)
本郭東側の曲輪群想像図(現地説明板より)
大手道と石垣の想像図(現地説明板より)

織田信長も一時滞在

長慶は1560年に彼の息子にこの城を譲り、飯盛城に移っていくのですが、芥川山城は三好氏の重要な拠点として使われ続けました。1568年、織田信長が近畿地方を制するために上洛します。このとき信長は芥川山城を占領、滞在し、部下にこの城を与えました。しかし、信長が天下統一を進めていくにつれ、芥川山城のような城は必要なくなってしまいます。この城はその後廃城となりました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「芥川山城その2」に続きます。

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