160.飯盛城 現地編

大阪府の四条畷駅前に来ています。ここから飯盛城跡に向けて出発します。城の防御の仕組みや景色も楽しみますが、飯盛城は「石垣の城」として有名になってきましたので、石垣探しもやってみたいと思います。

ここに行くには

大阪府の四条畷駅前に来ています。ここから飯盛城跡に向けて出発します。

四条畷駅前

ここで大東市発行の河内飯盛山ハイキングマップを拝借します。現在城跡を見学するには、飯盛山ハイキングコースを通って行きます。今回は、四条畷駅を出発する「飯盛山展望コース」と呼ばれるルートで登って、野崎駅に向かう「七曲りコース」で下りますが、野崎駅手前の大東市立歴史民俗資料館をゴールにします。

河内飯盛山ハイキングマップ、大東市発行

とりあえず登り口の四条畷神社まで行きます。駅からの道が参道になっています。四条畷神社は、南北朝時代の四条畷の戦いで敗れ自害した楠木正行を祀っている神社です。

四条畷神社の参道
神社と背後の飯盛山

神社に着きました。登る前に、これも大東市発行の城跡案内図を見てみます。城の防御の仕組みや景色も楽しみますが、飯盛城は「石垣の城」として有名になってきましたので、ハイキングコースから見られる範囲になりますが、石垣探しもやってみたいと思います。

四条畷神社
飯盛城跡案内図、大東市発行

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

城周辺の航空写真

いりなり登山ですごい景色

神社の裏手の方から登っていきます。飯盛山は標高が314メートルあるので、麓からは300メートル近くの登りになります。急な坂です。自然の障壁を自ら体感です。

飯盛山登山道

景色が良くなってきました。休憩所まであと100メートルとあります。まだ登りは続きますが、なんとか休憩所に着きました。ここは、北の方にある曲輪で、数字の番号で「Ⅵ郭」というそうです。城の案内図だと端っこに着いたという感じです。

中腹からの眺め
休憩所への案内
Ⅵ郭(史跡碑があるので、別名「史跡碑郭」)

まずは景色を楽しみましょう。いきなりすごい景色です。芥川山城からも見えた大阪のビル群が見えます。(残念ながら芥川山城跡(三好山)の位置はわかりませんでした)

Ⅵ郭からの眺め(大阪方面)

少し北側に移動すると、京都方面も見えます。ズーム画像ですが、京都タワーらしきものも見えました。

京都タワーか

山城で石垣探し

次に現れるのが、堀切です。敵が攻めてくるであろう北側と守りの南側では全然高さがちがいます。芥川山城にあった大堀切と一緒です。

堀切

続いて最初の石垣です。次の曲輪に登っていく途中にあるのです。見つかった石垣にも番号が付けられていて、こちらは「石垣18」とのことです。

石垣18

次の曲輪はⅤ郭「御体塚郭」です。ゴツゴツした岩があって、名前も意味深です。もともと宗教施設として作られたと考えられていて、名前の由来は、亡くなった三好長慶を仮埋葬したことだそうです。

Ⅴ郭「御体塚郭」

次の石垣はここから下ったところにあります。「石垣14」とあります。現在は目立たないところにありますが、往時の登城道は、今回来たのと逆の東側にあったと考えられます。この石垣はその登城道に沿っていたらしいのです。少し移動すると、かつては石垣14から続いていたと思われる「石垣15」が見えます。

石垣14
石垣15(中央奥)

石垣探しの続きは、曲輪の側面のハイキングコースをずっとたどって、もっともよく残っていると言われる石垣に行ってみます(「石垣1と69」)。途中の分岐点を左に行きます。山腹を通るので、見上げると他の石垣をいくつか見つけることができます。目的の石垣が見えてきました。「石垣1」で、長さ約24メートル、高さは最大で約2.6メートルあります。一部は崩落防止対策がされています。なんとか維持して、できたら元の姿を見てみたいものです。この下にもう一段あって、それが、長さ約44メートル残っている「石垣69」です。ただ、それはハイキングコースの下にあるのです。位置関係は大東市立歴史民俗資料館で展示されている写真で確認できます。

分岐点
山腹を進むハイキングコース
石垣1
石垣1(ズーム画像)
石垣69写真、大東市立歴史民俗資料館にて展示
石垣1(上)69(下)写真、大東市立歴史民俗資料館にて展示

先ほどの分岐点に戻って、もう一つ石垣を見てみます。Ⅲ郭という曲輪の西側にある石垣です。(「石垣6・7」)こちらは山麓などから見える位置に築いて、城主の権威を示そうとしたと考えられます。ただ、この石垣も保護が必要な状態になっていて、近くに立入ることはできず、遠巻きに眺めるしかありません。石垣たちには是非ともがんばってほしいです。

石垣6・7

山頂に到着、まだ石垣探し

いよいよⅡ郭(本郭)に行きます。「展望台曲輪」とも呼ばれるそうです。曲輪への階段を昇っていくのですが、その前に曲輪脇にある石垣をチェックします(「石垣3・4」)。下に見える道はさき程歩いたルートなので、下から見上げた石垣だったかもしれません。この一段下にも石垣がありました。(「石垣54」)石垣が段々に積み上げられていたことがわかります。

Ⅱ郭への階段、石垣は左脇にあります
石垣3・4
石垣54

Ⅱ郭に登っていくと、展望台があります。ここも素晴らしい景色です。「大阪眺望之図」という案内板を見ると、明石海峡大橋や大阪城が見えるとあります。さっそく探してみると、明石海峡大橋が見えます。三好長慶の時代はあの場所も領国の範囲内でした。大阪城も見つかりましたが、意外と小さく感じます。周りに高層ビル群があるからでしょう。

展望台があるⅡ郭、その向こうがⅠ郭
展望台からの眺め
「大阪眺望之図」
明石海峡大橋(ズーム画像)
大阪城(ズーム画像)

そして、最高地点のⅠ郭(高櫓郭)です。最初の頃通った、四条畷神社に祀られている楠木正行の銅像があります。かつては名前の通り、櫓が立っていたのかもしれません。

Ⅰ郭にある楠木正行銅像

城の範囲を大きく2つに分けると、このⅠ郭から北が防御空間で、それより南の曲輪が居住空間になっていました。つまりこれから行くところが境目ということになります。まず、細い通路を下っていくと、土橋になっています。両脇の堀切で細くしているのです。芥川山城にもありました。城を守る定番アイテムです。

土橋

更に下ると、ちょっと開けたところに出ます。実は、ここも堀切だったのです。かつてはここも、すごく深かったのでしょう。

堀切

ここからもう一か所、石垣を見に行ってみます。下の方にある「石垣94」です。道路の下にあるのですが、道路側から見学することができます。この辺りにも登城道が通っていたと考えられています。

石垣94

こうやって見てくると、石垣は天守や櫓を支えるものという、従来ありそうなイメージとは違います。技術的な違いもあるのでしょうが、ここでは曲輪そのものを支えたり、通路の壁として見せている感じがします。三好長慶の石垣の城、とても個性的です。

長慶がいた千畳敷

それでは、居住空間だったⅧ郭(千畳敷郭)に進みましょう。すごそうな建物がありますが、曲輪の一部にNHKのFM送信所が建てられているのです。建物を越えていきます。やっと曲輪らしいところに出ました。しかも今までの曲輪より広い感じです。この曲輪は盛り土をして広げられたのです。建物の礎石や、茶道具など生活用具も発見されています。きっとこの曲輪のどこかに長慶の御殿があったのでしょう。

NHK・FM送信所
Ⅷ郭(千畳敷郭)

更に南に進みます。行先が2つあります。右に行くとⅨ郭(南丸)、左に行くと出入口の虎口です。まず、南丸の方に行ってみます。ここは、城の南側の守りを固める曲輪で、虎口を攻める敵を側面攻撃することもできました。行き止まりになってしまいました。最南端にある曲輪なので仕方ないです。

左に行くと虎口、右に行くとⅨ郭(南丸)
Ⅸ郭(南丸)

さっきのところに戻って、虎口から出ましょう。門は上の方にあったと考えられています。ここにも石垣があります。虎口と石垣がセットになっているのです。一部しか残っていませんが、大きな石を使っていて、鏡石の役割があったのではないかと言われています。さすが戦国最初の天下人の城です。信長の安土城の門にも大石が使われていました。飯盛城は、後の天下人に引き継がれた城でもあったのです。

虎口と石垣30・31
安土城黒金門跡

帰りは、予定通り七曲りコースで下ります。カーブがたくさんあって、七曲りどころではないのですが、その分、傾斜が抑えられているのでしょう。麓の街が見えてきました。城の時代には城下町はありませんでしたが、長慶はキリスト教の布教を認めたので、周辺には教会が建てられました。(三箇・岡山など)そして宣教師は本国に長慶が日本の統治者であると伝えたのです。

七曲りコース

ゴールの大東市立歴史民俗資料館に到着しました。ここでは、城や地元の歴史などを学ぶことができます。

大東市立歴史民俗資料館

リンク、参考情報(追加分)

・大東市立歴史民俗資料館展示
・「飯盛城跡石垣ガイド」大東市・四条畷市教育委員会
・「よみがえる飯盛城~「天下人」三好長慶最後の居城」Youtube大東市公式ちゃんねる
・「クローズアップ飯盛城2022」Youtube四条畷市公式動画チャンネル

「芥川山城・飯盛城 歴史編」に戻ります。
「芥川山城 現地編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

160.飯盛城 その2

過去には石垣によって覆われていました。

特徴

四条畷神社からの山道

現在、飯盛城跡を通る山道はとても人気のあるハイキングコースとなっています。城跡を訪れる場合、いくつかあるコースから選ぶことができます。今回はJR四条畷駅から四条畷神社を経由するコースをご紹介します。四条畷神社は、14世紀の南北朝時代の武将、楠木正行を祀っています。彼は楠木正成の息子で、南朝方に属していましたが、1348年の四条畷の戦いで足利幕府軍に倒されてしまいました。足利幕府は北朝方で、飯盛山に陣地を構え、正行を破ったのです。

城周辺の航空写真

四条畷神社への参道
四条畷神社

北部の曲輪群と広大な景色

神社の裏手から伸びる山道は長くて急です。山を300m近く登っていく必要があります。山道は全て山の西側にあるため、頂上に着くまでは石垣を見ることはできません。坂を登り切ると、城の北側部分に到着します。この部分は狭く、小さな曲輪がいくつか見られます。突然、京都から大坂まで含む広大な街の景色が目に飛び込んできます。山の東側では現存している石垣も見ることができます。しかし、石垣より下の方に行くことはできません。山の東側の道は放棄されているままで危険だからです。この周辺には御体塚と呼ばれる三好長慶の墳墓もあります。

山頂へ伸びる山道
北部の曲輪群からの景色
北部の曲輪群に残る石垣

南部の曲輪群~本丸と千畳敷

山道を南の方に進むと、城の南側部分の入口で道は二つに分かれます。右側に行くと山の頂上にある本丸に着きます。いくつか登山客のための見所があります。展望台、正行の銅像、第二次世界大戦以前に使われた国旗掲揚台跡、城の標柱などです。ここでも西方に大阪平野の素晴らしい景色を楽しめます。先ほどの分かれ道を左の方に行った場合には、本丸の東側にある多くの石垣を見ることができます。最近、石垣に関する新しい発見が次から次へと報告されています。

山道の分岐点
楠木正行の銅像 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)
国旗掲揚台跡
本丸からの大阪平野の眺め
本丸東側に残る石垣(大東市ウェブサイトから引用)

本丸の南側には、城で一番大きな曲輪があり、千畳敷と呼ばれています。ここには長慶の御殿があったと考えられていて、現在は放送塔の設備があります。この曲輪の北側は細い土橋により、南側は石垣を伴った虎口により守られていました。両方の遺跡を現場で見ることができます。

放送塔設備がある千畳敷曲輪
曲輪の北側にある土橋
曲輪の南側にある虎口跡

「飯盛城その3」に続きます。
「飯盛城その1」に戻ります。

160.飯盛城 その1

最初の天下人、三好長慶の城

立地と歴史

三好長慶の本拠地となる

飯盛城は、河内国(現在の大阪府東部)の標高314mの飯盛山の上に築かれました。この山はまた、河内国と大和国(現在の奈良県)の国境であった生駒山地の北西支脈に当たりました。幾筋もの街道が山麓に通っており、城の近くには過去には深野池という池があり、大阪湾から城の周辺地まで船を使っての移動が可能でした。この城がいつ最初に築かれたかは不明ですが、1530年頃、木沢氏がこの城を拡張して、河内国の中では最大の城となりました。当時は山城が最もよく利用されていたのです。

飯盛城の位置と河内国の範囲

三好長慶は16世紀中頃の有力な戦国大名でした。彼の勢力は将軍であった足利義輝に拮抗し、この将軍を京都から追放することで、彼自身による統治を始めました。そのため、最近では、長慶は日本の中心地を支配したという意味で最初の天下人と見なされています。彼は幕府の権威なしで、それをなし遂げたのです(もっとも、通常は織田信長が最初の天下人とされていますが)。長慶は摂津国(現在の大阪府北部)の芥川山城を本拠地としていましたが、河内国と飯盛城を領有していた畠山氏を倒し、1560年に飯盛城に移ってきたのです。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

石垣を権威の象徴として利用

飯盛城の範囲は、南北約700m、東西約400mに及びます。城には多くの曲輪があり、2つのグループに分かれていました。北部の曲輪群は、とても狭い峰上にあり、防御陣地として使われたと考えられています。一方、南部の曲輪群は比較的広く、住居として使われたと言われています。北側、東側、西側はとても急な坂となっていました。南側は緩い坂となっていましたが、その分城に至る道はとても距離がありました。

飯盛城の模型(大東市立歴史民俗資料館)

歴史家は、城に至る大手道は東側と考えています。この方面から川筋や谷筋に沿って城に向かうことができたからです。なぜ城の正面が東側であったのかもう一つ理由があります。最近、ほとんどの曲輪の東側は石垣に覆われていたことが分かったのです。これらの石垣は建物のためではなく、曲輪を支えるためだけに使われました。これは、恐らく石垣が正面に向いて、訪問者に対して城の権威を示していたのだと考えられます。信長の安土城が、城のために石垣を使った最初の例と言われてきました。ところが、この飯盛城の事例は安土城よりも20年近く早いのです。これが長慶が最初の天下人と言われるもう一つの理由になるかもしれません。

山の東側に現存している石垣

織田信長が廃城とする

長慶は近畿地方を支配し、敵と頻繁に交戦しました。彼は在城していた数年間で、時々連歌の会を開き、宣教師をも招いたりしました。ところが、1564年に彼は突然死んでしまいました。三好一族はまだこの城を維持していましたが、内紛を起こします。織田信長はこの状況を利用して1568年に上洛したのです。信長は天下統一を進めていく中で、1575年には飯盛城の破却を命じます。そしてこの城は廃城となりました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「飯盛城その2」に続きます。

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