74.岩国城 その1

岩国城の歴史は、どうやら吉川広家の武将人生と大きく関係しているようです。今回はまず、広家の関ヶ原の戦い前後の動向をチェックしてから、岩国城の築城、そして早すぎる「廃城」をご説明したいと思います。最後は、「陣屋」としての岩国城のその後、そして錦帯橋の歴史にも触れていきます。

イントロダクション

岩国といえば、まず錦帯橋を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。また岩国城といえば、その天守が錦帯橋の背景として、セットで思い浮かべる人もおられるでしょう。しかし、その天守は現代になって再建されたもので、実際には天守を含む城は、公式にはわずか7年しか存在しなかったのです。城主だった吉川氏は、城の一部を「陣屋」として存続させました。

錦帯橋と背景の岩国城再建天守

岩国城を築いたのは、吉川氏の初代当主・広家でした。広家といえば、関ヶ原の戦いで西軍方の主家・毛利勢を参戦させず、東軍の勝利にも関わらず、大名家として存続させた「救世主」という評価があります。しかし一方、西軍は敗退し、毛利氏は大幅に領地を減らされたこともあって、当時から「裏切者」との見方もされてきました。現時点で振り返ってみた場合、どういうことが言えるでしょうか。

岩国城の歴史は、どうやら吉川広家の武将人生と大きく関係しているようです。そこで、今回はまず、広家の関ヶ原の戦い前後の動向をチェックしてから、岩国城の築城、そして早すぎる「廃城」をご説明したいと思います。最後は、「陣屋」としての岩国城のその後、そして錦帯橋の歴史にも触れていきます。

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立地と歴史(吉川広家と岩国城の歴史)

実は迷っていた?関ヶ原前の吉川広家

吉川広家は1561年(永禄4年)、吉川元春の三男として生まれました(参考資料①より、以下番号のみ記載)。吉川元春は、毛利元就の次男で、三男の小早川隆景とともに、主家の毛利氏が中国地方の大大名になることに貢献しました。戦国時代末期の毛利当主は、元就の孫・輝元でした。豊臣秀吉による天下統一のフェーズになると、毛利氏は秀吉に味方し、領土を安堵されましたが、その代わりに容赦なく戦いに動員されました。1586年(天正14年)に始まった九州平定において、元春と跡継ぎの長男・元長が相次いで病没してしまうのです(①)。元長が亡くなった翌年(1588年)、広家は吉川家を継ぎました。広家は月山戸田城を居城とし、朝鮮侵攻に動員されるのですが、その最中(1597年、慶長2年)、小早川隆景が亡くなっています。つまり、秀吉没後の関ヶ原の戦い直前には、広家は、主家を支える毛利一門の最重要人物いう立場になっていたのです。

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1600年、慶長5年6月、五大老筆頭の徳川家康は、上洛を拒否した上杉景勝を征伐するために出陣しました(会津征伐)。毛利輝元・吉川広家にも参加を命じたのです。しかし、石田三成たち奉行衆は、その隙を狙って家康排除のために挙兵しました。安国寺恵瓊は、奉行衆とともに輝元を説得し、「西軍」の総大将に担ぎ上げました。7月19日輝元は、以前家康がいた(③)大坂城西の丸に入城しました。広家は西軍に身を置きながら、毛利氏の取次だった黒田如水経由で親交があった黒田長政を通して、密かに「東軍」の家康に連絡を取りました。西軍の勝利はありえないと確信していたのです。広家は(事実かどうかは別として)「輝元様の大坂城入城は家康様打倒計画とは無縁ですべて恵瓊の企てである(④)」と釈明しました。8月までに、西軍による伏見城、安濃津城攻めがありましたが、立場上広家も参加せざるを得ませんでした。そして、関ヶ原近くの南宮山に、毛利勢の総大将・毛利秀元とともに着陣したのです。黒田長政は当然、広家の行動に疑いを持ちました。広家は、他の重臣(福原弘俊)と諮り、毛利家存続のためには東軍に内通するしかないと決断しました。合戦前日の9月14日、東軍に人質を差し出し、合戦では中立を守るという条件で、毛利領はそのまま安堵されるという約束を取り付けました(下記補足1)。合戦当日、広家は最前線に陣取り、後方(長宗我部軍)から毛利秀元に催促が来ても、一切動かせませんでした。関ヶ原合戦は周知の通り、わずか一日で東軍の大勝利に終わりました。広家は合戦直後の17日、それまでの事情を記した「関ヶ原始末書」を輝元に提出しています。(段落全体①②)。

(補足1)9月14日付吉川広家・福原広俊宛井伊直政・本多忠勝起請文
一.輝元に対して、家康が粗略にしないこと。
一.吉川広家と福原広俊が家康に忠節を尽くすうえは、家康が粗略にしないこと。
一.忠節が明らかになれば、家康の直書を輝元に渡すこと(分国の安堵も相違なし)。
(「毛利家文書」、現代語訳は⑦より)

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし最近の研究によると、広家は必ずしも一貫した態度をとっていた訳ではないようです。順を追って、根拠を示します(段落全体③)。
1.決起当初の7月14日付の家康家臣・榊原康政宛の広家書状案文(発送されなかった)は、毛利氏の西軍参加は恵瓊の独断である旨を知らせようとした内容でしたが、実際は後日作成されたか、内容が事実と異なる(輝元も了解していた)可能性があります。
2.現在確認できる東軍との最初の接触は、7月28日頃駿府に届いた広家の書状(詳細内容不明)、発送したのは7月25日頃とみられます。西軍は19日に伏見城攻撃を開始しましたが、城代・鳥居元忠らの頑強な抵抗にあっていました。その返事として、8月8日付黒田長政宛徳川家康書状(下記補足2)、8月17日付広家宛黒田長政宛書状(下記補足3)が送られました。

(補足2)吉川殿からの書状を詳細に読みました。(広家の)ご弁明については、もれなく了解しました。輝元とは兄弟のように相談して決めることとしていたので、(今回の行動を)不審に思っていたところ、(反徳川闘争の企てを)知らなかったということを聞いて、気が晴れました。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

(補足3)このたびの決起について、輝元はご存じなかったのですね。安国寺が一人で企てたことであると、家康公も認識されました。そこで、輝元に対して、このことを念には念を入れておっしゃって、家康公と(輝元とが)懇意になるように、(広家の)工夫が最も大切です。あなた次第で、こちらは私が調えます。合戦でこちらが勝利した後では、講和することも不可能ですので、前もってご油断しないで思案されることが道理に叶っていると思います。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

3.上記に対する広家の返答は直ちにはなく、黒田長政が8月25日に督促の書状(下記補足4)を送っています。この頃は8月1日に伏見城が落城し、戦闘が一段落していました。

(補足4)先の書状で申し入れましたが、届きましたか。とにかく、毛利家が存続するように(あなたが)ご思案されることが道理に叶っています。詳しいことを記したご返事の書状を送ってください。(中略)家康が早くも駿河国府中まで出陣したという情報が、昨夜届きました(実際には9月1日江戸出発)。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

8月23日東軍が西軍の岐阜城を攻略、そして翌日西軍も東軍の安濃津城を落としたものの大損害を出しました。広家勢も300人以上もの死傷者を出しています(⑤)。黒田如水からも9月3日付で家康との講和を勧める書状が送られてきました(⑥、下記補足5)。このような状況と、家康西上の情報を得て、交渉を再開したものと考えられます。

(補足5)家康が西上しているとの噂です。間違いないでしょう。家康が来る方面にあなた(広家)が居られるので、大変心配しています。失敗しないように判断することが大事です。上方の軍勢はすべて家康に同心するようですので、あなたの(判断が)大事です。(「吉川家文書」、現代語訳は⑥より)

毛利輝元も実際には阿波や伊予への侵攻を行っていましたが、一方で家康とも何らかの連絡を取っていたようです。そして現地に対しても、家老の一人・福原広俊を通じて状況を把握し、コントロールを行っていました。吉川広家の動きも「小早川秀秋と西軍から離反する」という噂になっていたので、把握していたと見るべきでしょう。つまり、毛利勢はどのみちどちらにもつけない状態でした。広家が東軍との交渉を主導していたことは確かですが、その他の勢力も虚々実々の駆け引きを行っていたのです。(参考③⑥)

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関ヶ原後、岩国築城へ

関ヶ原後、毛利輝元は領地安堵を前提に、大坂城を退去しました。ところが、家康が大坂入城後に精査したところ、輝元は中立的立場ではなく、西軍の盟主として行動していたことが発覚しました。家康は激怒し、毛利の全領地を没収し、そのうち周防・長門の二カ国を広家に与えることにしたのです。しかし広家が、切々と毛利本家の存続を懇願した結果、10月10日、家康はその二カ国を、毛利輝元・秀就(ひでなり)父子に与える誓書を書きました(補足6)。広家に対しては、輝元に命じて、周防国の東部を割譲させました。これが岩国築城につながります。(①)

(補足6)周防、長門の両国を据え置くこと、輝元・秀就父子の身命には異議のないこと、(大坂城をめぐる)虚説について究明すること(毛利輝元・秀就宛徳川家康誓書、毛利博物館蔵、現代語訳は①より)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかしこの経緯の元ネタは、吉川家の記録(「吉川家譜」)にしかなく、歴史家によると、後に吉川家が藩内での家格を高めるために作ったものだろうとされています。つまり、家康は毛利の抵抗を恐れて、輝元が大坂城を退去するまでは所領安堵を匂わせておいて、退去後にそれを反故にしたのです。輝元としても、関ヶ原敗戦で権威が失墜し、抵抗する力もなく、減封を拒否することは不可能でした。せめて実子の秀就の地位を保証されることで妥協したものと考えられます(それまでの跡継ぎは養子の秀元だった)。(段落全体③)

これでは、広家は窮地に落とされたことになります。見方によっては、西軍敗北だけでなく、毛利の大減封(約119→30万石)の一大原因を作ったことになってしまうからです。広家自身も、独立大名格から毛利家臣扱いになり、石高も減らされました(約11万5千→3万4千石)。(参考③)広家は関ヶ原の翌年に、輝元宛に長文の書状を認め、思いを伝えようとしていますが(下記補足7、④)、その当時の広家の苦しい立場を反映しているのではないでしょうか。

(補足7)毛利輝元様
このたび、関ヶ原の合戦の和睦は整い、私ども満足しております。私のこの戦いにおける行動が西軍大敗の一因と世間で批判されていることは遺憾に思います。私は和睦が成立した後に申し開きをしたいと思っておりましたが、これまで時間がかかりましたので今まで出来ませんでしたが、一書をもって一部始終申し上げます。(④、冒頭部分)

実は、この頃の広家には、毛利から出奔しようとした形跡があるのです。一つは、関ヶ原の年の11月に、黒田長政が広家を自分の藩に誘っていると取れる書状が残っているのです(下記補足8)。その3年後には、広家が独立大名になる交渉が行われた形跡もあります(下記補足9)。実際に毛利家臣は総じて大幅減封になっていたので、出奔する者もいたのです。しかし広家は最終的に毛利に残る決断をしました。(段落全体③)

(補足8)慶長5年11月18日付吉川広家宛黒田長政書状(一部)
ご知行などについて、かねての首尾と異なる状況になりましたら、私の領内においてでも提供いたしますので、ご心配されませんように。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

(補足9)慶長8年7月16日付吉川広家宛末長良昧書状(一部)
先日の箇条書きについて、大部分は決着しましたので、ご安心ください。江戸において長政は私へ「広家に対して知行を与えるとのことだ」と言われましたので、恐れ多いことですが、喜ばしいことと存じ申し上げます。(「吉川家文書」、現代語訳は③より)

毛利氏の新領国となった長州藩は、萩城を本城とし、国境については東に吉川広家を、西に以前の跡継ぎだった毛利秀元を配置しました。広家は萩城の縄張りに関わったと言われています。広家・秀元は、毛利家臣でありながら、独立大名的な性格も持っていました。その一つが、居城の設置を許可されたことでした。秀元の居城は櫛崎城で、広家の場合、それが岩国城だったのです。(以上③)もしかすると、広家の残留条件だったのかもしれません。

萩城天守の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長州藩(現山口県)の範囲と城の位置

堅固な城、しかし突然の「廃城」

岩国城は大きく蛇行する錦川に囲まれた標高約210mの城山を中心に築かれました。川を下れば港(今津)に近く、川の対岸には山陽道・石州街道が通っていました。つまり、城の地は水上交通、陸上交通の結節点だったのです。そこは「横山」と呼ばれていて、広家の祖父・毛利元就は1557年、中国平定(大内氏討伐)のとき、ここを本陣にしました。広家の当時は、寺(永興寺)があったものの荒廃していました。(段落全体⑧⑨)

城周辺の起伏地図

当時、新規築城の山城は珍しく、さらなる戦いが起こると想定していたのかもしれません。ただし居館(御土居)部分は山麓にあって、工事はこちらから始まりました(1603年)。山上部分は本丸・北の丸・二の丸を中心に総石垣で築かれ、枡形、連結された櫓群、空堀などで守られた近世城郭となりました。完成は1608年(慶長13年)とされています。(段落全体➉)

山上部分の縄張り図、岩国城天守内にて展示

広家が、岩国城の縄張りについて出した細かい指示が記録として残っています。これによると、広家が縄張りに精通し強いこだわりを持っていたこと、実践的な構造だけでなく、見栄えも重視していたことがわかります。(段落全体③、下記補足10)

(補足10)慶長9年5月28日付吉川広家条々写(一部)
一.南の小丸くびの門の位置については、地形にあわせて設置せよ。東の方の尾崎側でも構わない。
一.尾くび左の櫓は、麓からの見える場所なので、長い方を見せるのが適切である。
一.天守は御庄側の切り立った部分を延ばした場所を防御するためのものである。また、一つには、山頂部の平地があまりに広いため、本丸部の段差を大きくして、二の丸を防御するためにも、本丸内におさめて石垣を築造することは当然であるので、両方の用途を対照して判断し、適切に造成せよ。
一.天守の大きさは六間×八間とすべきである。東西を長辺として普請しなさい。
一.天守と尾くびの櫓を連結する石垣について、時間・労力を費やしてでも、切り立った部分を延ばすので、丁寧にじっくりと申し付けなさい。(「藩中諸家古文書纂」、現代語訳は③より)

天守は4重6階で、3重目の上部分(4階)が下部分(3階)より張り出していました。4重目も同じようになっています。この形式は「南蛮造」「唐造」と呼ばれる珍しいものです。他には小倉城、高松城天守が同様の形式でした。(以上➉)現在再建されている天守は、観光のため、錦帯橋が望める位置に築かれましたが、もとは櫓があった場所でした。また再建天守は、天守の古図(「天守構造図」)を基に設計されています。また、オリジナルの天守台は元の場所に復元されています。(以上⑧)よって、オリジナルの天守がどんな風だったかイメージすることはできます。

岩国城再建天守
復元されたオリジナルの天守台

ところが、その城の命は、わずか7年で終わりました。豊臣氏が滅亡した1615年(慶長20年)、幕府は「一国一城令」を制定しました。大名が居住する城郭を除いて、すべて廃城にせよという厳しいものでした。文字通りとれば、周防国には他に城はないので取り壊す必要はないという理屈も成り立ちます。しかし、同じような立場の毛利秀元は居城(櫛崎城)を取り壊していて、毛利本家の意向もあり、吉川氏も従わざるをえなかったとされます。(段落全体①③)山上の城部分が破却され、山麓の居館部分が「陣屋」として継続しました。

山麓の居館「御土居」跡

ただし、山上については、建物は除去されたものの、石垣の壊し方には特徴があります。現在、街道がある西側では徹底的に破却されたと見えるものの、居館・城下町がある東側ではかなり残っているのです。これは石垣がいつ壊されたかによりますが(島原の乱後という説もある)、広家の考えによるものかもしれません。実際、彼は表の目立つ箇所のみ石垣を崩すという形式的な破城で済まそうとしているのです(下記補足11)。(以上③⑧➉)広家は、唯々諾々と従っていたわけではないのです。心血を注いで築いた城を少しでも残そうとする意志と、難局を乗り切ってきた戦国大名としての意地を感じるのです。

(補足11)元和元年10月9日付家臣宛吉川広家書状(一部)
諸国の城を破却することについて、続いて情報を収集したところ、おそらく石垣まで破却するとのことです。そこで、岩国城の石垣についてももう少し崩すのがよいだろうと思います。(中略)また、城の表の方をとくに崩すのが適切なのではないでしょうか。人数が足りなければ、十~十五日間のことですので、皆々、雇傭しなさい。これは公儀のことですので、いずれにせよ、山麓からも城の方からもよく見比べて破却しなさい。(岩国徴古館蔵、現代語訳は③より)

北の丸西側の石垣
本丸東側の石垣

その後の「岩国藩」

吉川広家は、1625年(寛永2年)65歳で亡くなりました。広家の領地は、現代では、長州藩の支藩「岩国藩」として吉川氏に代々受け継がれていったと理解されています。しかし当時は、毛利氏一族の支藩(長府藩、清末藩、徳山藩)は大名格(従五位下以上)として公に認められた一方、岩国藩は家臣扱いのままでした。(以上①参考)長州藩設立以来の因縁かと思ってしまいますが、実際には将軍との距離感(お目見え・江戸在府期間・官位など)で決まっていったようです(⑪)。岩国藩は、その家格を上げるため運動を続けていくことになります。広家が自ら大名になることを拒絶してまで毛利本家の危機を救ったとする物語は、その一環でできたと考えられます(③)。それが岩国藩が関わってできた軍記物「陰徳太平記」など(他には「関ヶ原軍記大成」など)によって広まっていったのです(③⑪)。

そんな中で、3代目藩主・吉川 広嘉(ひろよし)は、有名な錦帯橋を創建しました。城から錦川の対岸には城下町がありましたが、錦川は暴れ川で、2代・広正が架けた橋が、たった2年で洪水により流出していました。流れない橋は架けられないかと広嘉は考えたのです。各地の名橋を見聞し、人材を集めました。そして、1673年(延宝元年)に初代・錦帯橋が架けられたのです。流されないために橋台の数を押さえ、かつ石積みで強固にし、アーチ型の木製の橋梁部を渡し、全く独創的な橋になりました。実は初代は8ヶ月に流出してしまうのですが、改良・再建(1674年)したものが276年間保たれたのです(改良、補強、補修、定期的な架け替えが行われた)。残念ながら1950年の台風が原因で流出してしまいますが、また再建され、現在も変わらぬ姿を見せています。(段落全体①)

吉川 広嘉像
錦帯橋の橋台
葛飾北斎「諸国名橋奇覧」より「すほうの国きんたいはし」、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

時代は幕末、12代藩主・吉川経幹(つねまさ)のときに飛びます。長州藩は幕府に反抗したので、東国境の岩国が、戦いの最前線になったのです。岩国藩と経幹はその立地や立場から重要な役割を果たしました。1864年(元治元年)の第一次長州征討では、幕府と長州藩との講和の折衝役を務めました。1866年(慶応2年)の第二次長州征討では「芸州口」として国境が戦場になりました。数の上では圧倒的に不利だったため、経幹は山上の城跡に籠城することまで考えたそうです。幕府軍の先鋒は井伊・榊原隊で関ヶ原のときのような兵装でした。その再現を狙っていたのかもしれません。しかし、長州・岩国隊は今回は結束し、武器の性能も上回っていました。幕府軍を撃退したのです。岩国隊はその後も活躍し、1868年(明治元年)経幹は、新政府から大名格(従五位下)に任じられました。ここに岩国藩の悲願が達成されたのですが、そのときすでに経幹は亡くなっていたのです(死が伏せられていた)。その地位は子(経健)が受け継ぎましたが、1871年(明治4年)には廃藩置県を迎えることになるのです(吉川家は子爵、男爵に)。(段落全体①)

吉川経幹 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

①「岩国を築いた英智の三藩主/藤井淳史著」吉川報效会
「吉川広家公没後400年記念 開館30周年記念展 第三期 広家の関ケ原」吉川史料館
③「毛利氏の御家騒動 折れた三本の矢/光成準治著」平凡社
④「吉川広家自筆覚書案(慶長6年、毛利輝元宛書状下書き、現代語訳は「吉川史料館たより第91号」による)
⑤「吉川史料館たより第74号」
⑥「関ヶ原前夜 西国大名たちの戦い/光成準治著」日本放送出版協会
⑦「黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原/渡邊大門著」角川選書
⑧「山陰・山陽の名城を歩く 広島・山口編」吉川弘文館
⑨「吉川史料館たより第84号」
➉「歴史群像シリーズ よみがえる日本の城7」学研
⑪「シリーズ・織豊大名の研究4 吉川広家/光成準治編著」戒光祥出版

「岩国城 その2」に続きます。

209.「桶狭間」の城砦群 その1

近年、桶狭間の戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきたのです。

イントロダクション

桶狭間の戦いといえば、まだ尾張国の一大名だった織田信長が、駿河・遠江・三河三カ国の太守・今川義元を討ち取った戦いとして有名です。戦いのイメージとしては、「桶狭間」という地名から、谷間で行われた野戦という印象が一般的でしょう。また、兵の少ない軍勢が、奇襲で大軍を打ち破ったという印象もあると思います。

桶狭間古戦場公園の織田信長・今川義元像

しかし近年、この戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきました。

今回は、桶狭間の戦いの背景と、その展開についての従来説・現時点での定説・最近出された新設をご紹介するとともに、戦いにまつわる城砦群もご紹介したいと思います。

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立地と歴史(桶狭間の戦いと城砦群)

桶狭間への道

織田信長は、1534年(天文3年)織田信秀の嫡男として勝幡(しょばた)城で生まれました(参考資料①②より、以下番号のみ記載)。信秀は、尾張の守護代の重臣(清州三奉行)の一人でしたが、人望と経済力により、大きな勢力になっていました(①)。また信長が成長する間、当時の戦国大名としては珍しく、居城を勝幡→那古野→古渡→末森と移していて、信長にも影響を与えたと言われています(③)。他国に対しても威勢を示していて、例えば三河に対しては、1547年(天文16年)には岡崎城を攻め、松平広忠を降伏させています(嫡男竹千代が人質に)。また、美濃にも攻め込みますが大敗しています(1544年)。やがて、三河方面で太原雪斎率いる今川勢の攻勢が始まると、美濃の斎藤道三と和睦、信長と道三の娘(濃姫)が結婚することになります。(①)

織田信秀木像、萬松寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そんな中、信秀は病に倒れ、1552年(天文21年)までに亡くなりました。そのときは天皇による停戦勧告(1550年)により今川とも一時的に平和が保たれていましたが、尾張国内は不安定でした。実はこのとき信長は完全に家督を継承していたわけではなく、弟の信勝には本城・末森城や柴田勝家など重臣の大半が付いていたのです(信長は1542年から那古野城主、下記補足1)。信秀法要(葬儀または法事)のとき、信長がバサラな格好で焼香を投げつけた一方、信勝は家督継承者にふさわしい佇まいで座っていたというエピソードもそれを表しています。(ときに信長19歳、①②)

(補足1)一、末盛の城、勘十郎公(信勝)へまいり、柴田権六・佐久間治右衛門、此外歴々相添へ御譲りなり(「信長公記」原文)

また、信長の家(織田弾正忠家)の上位の守護代家の一つ(織田大和守家)も清州城に健在でした。この状況下で、織田方の山口教継が今川方に寝返り、鳴海城などに立てこもりました。また、守護斯波氏の家臣(小守護代)の坂井大膳(さかいたいぜん)らも今川方につこうとしていました。(①)

これに対し、信長は敢然と今川方に反抗し、赤塚の戦い、萱津の戦いにより、今川義元への対決姿勢を示しました(1552年)。尾張・美濃国境の聖徳寺で、斎藤道三と会見し、バサラの恰好から正装に変身し、自慢の長槍隊・鉄炮隊を見せつけたのは翌年のことです。そして、坂井大膳・織田大和守家によるクーデター(守護殺害)に乗じて、清州城を攻め、ここに入城したのです(中市場の戦い、1553年)。協力者の叔父・信光が亡くなると、信長は尾張下四郡を支配下に置きました(①)

試練はまだ続きます。1556年(弘治2年)、舅の斎藤道三が、その子の義龍に討たれたのです。この事件後、斎藤氏と尾張のもう一つの守護代家・織田伊勢守家(岩倉)が、反信長に転じます。そしてこの状況を見た信長家臣(林秀貞ら)まで、弟の信勝をかついで敵対してきたのです。この危機においても、信長は稲生の戦いで勝利し、1558年(永禄元年)には織田伊勢守家にも勝利しました。これにより尾張をほぼ統一したのです。この裏では、守護の斯波氏を追放し、信勝も粛清しています。(①)

斎藤道三肖像画、常在寺蔵・東京大学史料編纂所模写 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その頃、今川方でも軍師の太原雪斎が亡くなって混乱状態にありました(1557年織田・今川間で再度の停戦成立)。しかし尾張における今川の拠点として、鳴海城の外、調略により大高城を手に入れていました。(1559年、①③)近年この大高城が注目されています。当時、この城は海に接していて、ここからは陸海両方から、信長の本拠地・清州城や商港・熱田に迫ることができるのです。城自体も巨大な空堀に囲まれていて、当時としては最先端の防御力を備えていました。(③④)実際、桶狭間の戦いのときには、今川方の軍船千艘が、大高城の下の河口まで乗り入れています(下記補足2)。この城は尾張確保のホットスポットだったのです。

(補足2)河内二の江の入道、うぐいらの服部友定は、義元に味方するといって、軍船千艘ばかり、海上に蜘蛛の子を散らしたように並べ、大高城の下、黒末川の河口まで乗り入れた(⑤)

「「尾州大高城図」(国立国会図書館デジタルコレクション)

信長は、今川方の補給を防ぎ、監視するため、鳴海城の近くに丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、大高城には鷲津砦・丸根砦を築きました。また都に上洛し、そのことを通じ、六角氏と結んで背後を固め、最新の武器も調達したとも考えられています(③)。

城砦群の位置

1560年、永禄3年5月12日、今川義元は尾張攻略のために自ら駿府を出陣しました。具体的には、大高城・鳴海城への後詰を行うことです。家督はそれまでに息子の氏真に譲っていました。その軍勢は2万5千と言われています。(①④)今川重臣(関口氏純)の書状にも、義元は尾張国の「境目」地域に出陣する、と書かれているので、最現在では上洛説は否定されています(➉)。しかし、義元は貴族が都で使う塗輿に乗って出陣しているので、あわよくばと思っていたかもしれません(③)。一方、27歳になっていた信長の兵力は3千でした。(①④)信長が追い詰められていたのか、それとも義元が出陣せざるをえなくなったのか、見方は分かれますが、尾張の重要拠点をめぐる戦いが起こったことは確かでしょう。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
今川義元肖像画、高徳寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

従来説・桶狭間の戦い(迂回奇襲説)

まず従来説として「日本戦史 桶狭間役」に基づき、戦の経緯を追ってみましょう。内容としては「迂回・奇襲説」になります。このときの義元の目的は都への上洛でした(下記補足3)。5月18日、今川軍は沓掛城にて翌日の分担を定め、翌19日明け方から松平元康らが、丸根・鷲津砦を攻撃、これを落として大高城に入りました。

(補足3)今川義元近隣諸国ノ方サニ無事ナルヲ好時機ト為シ京師ニ詣リ将軍足利義輝ニ謁シ以テ威名ヲ揚ケント欲シ永禄三年五月朔日出兵ノ令ヲ領邑諸将士ニ発ス蓋シ沿道諸国ノ我行ヲ遮ル者ヲ伐ントスルナリ(⑥)

旧日本陸軍参謀本部「日本戦史 桶狭間役」(Google Booksより)

織田方は今川方に対処するため、清州城で軍議を開いていました。家老たちは、兵が少ない状況での野戦を避け、籠城策を主張しましたが、信長は城外で戦うことを決します。しかし18日夜、丸根砦より警報が来ても動かず、翌19日未明(午前2時頃)になって突然出陣を命じたのです。そして朝、熱田神宮を経由して鳴海方面に向かう途中、丸根・鷲津砦から立ち上る煙を見て、その陥落を知りました。織田軍は、丹下砦を経由し、善照寺砦に集結しました。

善照寺砦跡

織田軍の一部、佐々政次ら(3百人)は、鷲津砦を落とした今川隊に対し攻撃を仕掛けましたが、散々に打ち破られました(政次も討死)。これを見た信長は憤激に絶えず、敵前の中島砦に進もうとしますが、家老が必死に止めました。そのとき、梁田政綱の間者が、義元の本体は大高城に入るため、桶狭間に向かっていて、その近くの田楽狭間で休息していると告げました。政綱は、敵は勝利により油断していて、兵を潜め、不意に本隊を攻撃すれば、必ず討ち取ることができると進言したのです(下記補足4)。信長はこの策を取り、迂回路を通って義元に迫りました。

(補足4)政綱乃チ信長ニ勧メテ曰ク東軍霎時(しょうじ)ニ両砦ヲ陥レ必ス驕リテ備エサラン今兵ヲ潜メテ其不意ニ出テ本軍ヲ擣(つ)カハ義元ヲ獲ル必セリト(⑥)

案の定、義元本隊は勝利に浮かれ、酒宴を催し、警備を怠っていました。しかも織田軍が迫った正午ごろ、俄かに暴風雨となり、その接近は気づかれず、その間に山に潜みました。そして雨が上がったところで(午後2時ころ)義元めがけて突撃、見事首級を挙げたのです。この戦いでの一番の戦功は、義元を討ち取った者(毛利秀高または新介)ではなく、梁田政綱でした(沓掛城及び三千貫)。

「尾州桶狭間合戦」、歌川豊宣作(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大軍を少人数の奇襲で打ち負かすという、日本人好みのストーリーだったことで、この説は長い間史実と信じられてきました。しかし現在では信頼できないものとされています。多くの部分は、後世の軍記物などからのフィクションによって構成されたものだったからです。従来説を作った参謀本部はこのストーリーを、明治の新興日本の弱小軍隊が大国に勝利するために採るべき戦術の模範例として創作したのです。(⑦⑧)

定説・桶狭間の戦い(正面攻撃説)

次に現在定説となっている正面攻撃説(藤本正行氏による)をご紹介します。この説は、信長家臣・太田牛一が著した信長の伝記で信頼性があるとされる「信長公記」を基にしています。従来説と違いが大きいところを述べてみます。なお、義元出陣の目的は、大高・鳴海城への補給と、織田方による封鎖の解除と考えられています。

「信長公記」、陽明文庫蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

まず今川軍ですが、義元は5月17日に沓掛城に到着、19日朝まで滞在したとしています。そして18日夜から松平元康隊が大高城に兵糧を入れています。(⑦⑧、補足5)

(補足5)五月十七日、一、今川義元沓懸に参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、(「信長公記」原文)

一方、清州城の信長は、家老たちとは世間話だけで帰宅させました。家老たちは信長を嘲笑していました。夜明け方、砦が攻撃されていると聞くと、信長は「敦盛」の舞を舞いました。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」という有名な場面です。そして出陣したのです。

ここから織田軍が善照寺砦に集結したところに飛びます。このとき今川義元は「桶狭間山」に陣を張っていたのです。つまり義元がいたのは谷間の低地ではないのです。また、元康隊には大高城で休息を取らせていました。(⑦⑧下記補足6)

(補足6)御敵今川義元は四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり。(中略)今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高に兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依て、人馬の息を休め、大高に居陣なり。(「信長公記」原文)

そして、佐々政次らが討ち取られた場面を、義元も上から見て、勝利の謡をうたったのです。つまり織田・今川両軍は真正面に対峙していたことになります(下記補足7)。

(補足7)是を見て、義元が矛先には天魔鬼神も忍(たまる)べからず。心地はよしと悦んで、緩々(ゆるゆる)として謡をうたはせ陣を居(すえ)られ候。(「信長公記」原文)

善照寺砦や中島砦方面の眺望がきく高根山からの景色

信長はといえば、家老が止めるのも聞かず、迂回どころか、敵の目下の中島砦に向かったのです。そして家臣たちにこう訓示しました。「皆、よく聞けよ。今川の兵は、宵に腹ごしらえをして夜どおし行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手を焼き、辛労して疲れている者どもだ。こっちは新手の兵である。少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は点にある。」しかし、眼前の敵は砦を攻めた兵ではないはずなので、これは信長の誤認とされています(⑤⑦⑧)。

中島砦跡付近

織田軍が山際まで進んだ時に暴風雨となり、雨は敵の顔、味方の後方に降りかかりました(東向き)。「沓掛の峠」のクスノキが雨で、東の方に倒れたほどです。雨が止むと信長は「それ、掛かれ、掛かれ」と叫び攻めかかりました。敵は後ろに崩れ、本陣に対して五度も攻撃を加え、ついに義元を討ち取ったのです(⑤)。これが「正面攻撃」たるゆえんです。

「沓掛の峠」かと思われる場所

しかしこの定説においても疑問点は残ります。主なものを3つ挙げます。
1,信長が、正面の義元の軍を「疲れている者」としたのは本当に誤認だったのか(⑦)。そうだとしても、わざわざ伝記に書く必要があるのか。
2.義元が織田軍を見下ろしたとされる一帯と、現在「桶狭間古戦場」とされる一帯は1km以上離れている。織田軍が押したとしても、離れすぎてはいないか。
3.義元は5月17日に沓掛城に着いて、19日まで宿泊したことになっているが、18日はなにをやっていたのか。

新説・桶狭間の戦い(後退追撃説)

これらの疑問点に答えるものとして最近出されたのが、義元が大高城に入城し、城確保という目的を果たしたので撤退していたという説です(かぎや散人による)。この説では、今川方だった徳川家臣・大久保彦左衛門の「三河物語」も活用しています。

「三河物語」に書かれた義元の行動は、5月17日に知立(池鯉鮒)に着き、翌18日に大高城に行って丸根砦を巡検し、軍議の結果、19日に元康に攻めさせたと解釈できるというのです(①⑦、下記補足8)。

(補足8)永禄三年五月十九日に義元は、(前日に)知立から手順どおりに大高城に行って、丸根砦をつくづくと巡検して、諸大名を集めて少し長い時間、軍評定を行って、それならば攻め取ろうと(中略)もとから逸る気持ちの松平元康だったので、丸根砦に押寄せ攻めたてた(「三河物語」、現代語訳は⑦より)

ここからは想定になりますが、義元は、救援にかけつけるであろう信長を討つために、古くからある小川道を通って、鳴海方面を一望できる漆山に布陣したと考えられます。しかし信長は来ず、砦は陥落し、当初の目的は果たしたので、大高城には元康を置き、義元は撤退を決めたのです。これも古くからの長坂道を通って高根山に至ります。ここからは善照寺砦も見えるので、敵勢を討ち取り、義元が謡をうたったのはこの場所と考えられます。そこから更に撤退して、現・桶狭間古戦場付近(桶狭間村)の山に至ったのです。

桶狭間周辺の起伏地図

漆山付近からの眺望

この状況は「三河物語」の記述からある程度裏付けられます。三河の兵士たちは、義元が討ち取られる前から撤退を急いでいた、及び織田軍を山から見下ろしていたという記述がみられるのです(①⑦、下記補足9)。

(補足9)(石川六左衛門尉がいうは)「ここに押しよせたなら、すぐに棒山を攻め落とし、番手を早く入れかえ、いったん退却しなくてはならなかったのを、あまりにぐずぐずしていて、決断が遅れた。よい結果にはなるまい。すぐに帰陣せよ」
(石川六左衛門尉が織田の軍勢を見て)「敵の人数は少なく見積もっても五千はある」という。そのときみなが笑って「どうして五千もあろうか」という。そのとき六左衛門尉笑って、「みなさまは人の数のみかたをご存じない。高いところにいる敵を下から見上げたときはすくない人数も多くにみえるものだし、また下にいる敵を高いところから見下ろすと多くの軍勢もすくなくみえるものだ。」(⑨)

信長は、今川軍が大高城から山の上を撤退していたのを、追っていたのです。ですので、信長の訓示は誤解でもなんでもなかったのです。信長は今川軍と同じ長坂道を登っていくつもりでしたが、ここで暴風雨となり、方針を変えます。その頃は間道だった現・東海道を東へ進み、太子ヶ根(現在の大将ヶ根交差点付近)と呼ばれるところに至ります。ここであれば、沓掛の峠で倒れるクスノキも見ることができたはずです。ここから南に折れ、谷筋(現・釜ヶ谷)を通って義元本陣に突入しました。この攻撃は雨を利用した「迂回・奇襲」策でもあったのです(①⑦)。

大将ヶ根交差点

個人的には、義元はこんなに危ない目に合うなら、大高城にいたはずではないかと思ってしまいます。実は、江戸時代から同じ議論があったそうです(①、補足10)。一体、義元の意図はなんだったのか、上洛か、尾張奪取か、信長征伐か、大高城に絞っていたのか、古くて新しいこの議論がますます活発になってほしいと思います。

(補足10)「一説には十八日に義元が大高城へ行き、大高城で評議をして丸根・鷲津の両砦を落としたあと、桶狭間山の北に陣を敷くというものがあるが、この説は間違っている。もし義元が丸根・鷲津の砦を攻め落としたら、鳴海にも近いため、善照寺砦や中島砦を攻め取れそうなものだし、さらに熱田方面へ侵攻することもできよう。そしてまた、敵地だからと用心するなら大高城に入っていればいいのに、なぜそこから後退して桶狭間の山の上などに陣を置いたというのか。そんな行動は理解できないゆえ、この説は間違っている」(尾張藩主従医・山崎真人「桶狭間合戦記」、現代語訳は①より)

大高城跡

リンク、参考情報

①「若き信長の知られざる半生/水野誠志朗著」ぴあ株式会社
②「中世武士選書10 織田信長の尾張時代/横山住雄著」戒光祥出版
③「英雄たちの選択「ここまでわかった!若き信長の「桶狭間の戦い」」」NHK BS放送
④「ブラタモリ「なぜ織田信長は“桶狭間の戦い“に勝てたのか?」NHK放送
⑤「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑥「日本戦史 桶狭間役」旧日本陸軍参謀本部
⑦「歴史群像157号 新解釈・桶狭間の戦い/かぎや散人・水野誠志朗著」Gakken
⑧「信長の戦国軍事学/藤本正行著」洋泉社
⑨「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
➉「織田信長 戦国時代の「正義」を貫く/柴裕之著」平凡社

「「桶狭間」の城砦群 その2」に続きます。

96.飫肥城 その1

宮崎県日南市にある飫肥は、飫肥城跡と、武家屋敷や城下町の町割りや雰囲気を残す人気のある観光地になっています。「南九州の小京都」とも言われ、1977年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉の産地としても知られています。

イントロダクション

宮崎県日南市にある飫肥は、飫肥城跡と、武家屋敷や城下町の町割りや雰囲気を残す人気のある観光地になっています。「南九州の小京都」とも言われ、1977年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉の産地としても知られています。

復元された飫肥城大手門
旧本丸の飫肥杉

一方、飫肥城は「南九州型城郭」といわれるシラス台地に築かれた城の代表的なものの一つです。しかし、志布志城や佐土原城のように荒々しい台地の削り跡が残る城に比べると、飫肥城はずいぶん洗練されているように見えます。それはどうしてでしょうか。

志布志城の搦手口
佐土原城の大手口

もちろん、前者は江戸時代初期に廃城になり、飫肥城は幕末まで続いたという理由があります。しかしそれに加えて、飫肥城そのものと、飫肥藩の歴史が関わっているように思います。その背景には、ほとんどの期間城主だった伊東氏の栄光・凋落、そして復活劇があったのです。

飫肥城の旧本丸

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史

初期の飫肥城と争奪戦

飫肥は、日向国南部にあり、志布志とともに重要な拠点でした。志布志は港として繁栄しましたが、飫肥の近くにも油津(当時は「油浦」)がありました。室町時代には遣明船の中継地点になり、戦国時代になると海外貿易も行われました。志布志を含めた南日向の沿岸地域は、領主たちの争奪戦の対象になったのです。(参考資料①②より、以下番号のみ記載)

日南市の範囲と城の位置

飫肥は戦国時代前期から、島津氏の一族である豊州家島津氏が治めていました(一時新納氏、③)。そして志布志も、島津本家の家督争いに乗じて豊州家島津氏が手に入れました(1538年)。しかし戦国時代後期になると、南日向の重要性から、北からは伊東氏が、南からは肝付氏が侵攻してくるのです。

飫肥城がいつ築かれたか定かではありませんが、遅くとも、豊州家島津氏の初代・島津季久(すえひさ)が飫肥の領主になった頃(15世紀中頃)には築かれたと考えられています(③)。初期の城の姿もはっきりしませんが、一般的にシラス台地に築かれた城は、台地を削りながら築かれるので、同じような高さと規模の曲輪が立ち並ぶ「群郭式城郭」の特徴があります。江戸時代以来飫肥城と言われる場所は、本丸・大手門の辺りに集中していますが、地形図を見ると、曲輪がその名前とともにずっと広がっていたことがわかります。飫肥城も当初は、他のシラス台地の城、知覧城や志布志城のような外観をしていたのかもしれません。

代表的なシラス台地の城の一つ、知覧城の航空写真、南九州市ウェブサイトより引用
志布志城の航空写真、現地説明パネルより

飫肥城周辺の起伏地図、曲輪名は参考情報➉より

伊東氏は南北朝時代に北朝方として日向国に派遣されて以来、日向国中部で着々と勢力を広げてきました。1484年から伊東祐国が2度飫肥城を包囲していますが、本格的に飫肥攻めを行ったのは、伊東義祐(よしすけ)です(約25年間、③)。義祐(生年:1513年~没年:1585年)の特徴の一つは、その官位の高さです。伊東氏は伝統的な九州の大名家(大友・島津・菊池・少弐など)ではないので、それまでは「大和守」が慣例でした。義祐は将軍家などに工作を行い、とんとん拍子に出世しました。
・1541年(天文10年):従五位下・大膳大夫
・1542年(天文11年):従四位下
・1561年(永禄4年):従三位(公卿)、相判衆(将軍に近侍する役柄)
それ相応の物入りだったことはもちろんですが、当時の将軍家(足利義晴・義輝)にとっても、遠隔地大名に栄典を与えることで、将軍権威の浮揚を図ったのです(①)。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

義祐は、早くから仏門に入っていたので「三位入道」と呼ばれました。優れた文人でもあったらしく、京都の文化を本拠地の佐土原に導入したそうです。当然武人としても秀でていなければ戦国の世は乗り切れないので、「日(日向)、薩(薩摩)、隅(大隅)三州太守」と称して領土を拡大しました。そして同じように「三州太守」と称していた島津氏と対決したのです(④)。

伊東氏の栄光と凋落

義祐は1543年(天文12年)頃、初めて飫肥に侵攻して以来、なんと約25年もの期間をかけて飫肥城を手に入れました。整理すると三次にわたって飫肥城攻めを行ったとのことです。
第一次(1543年頃~):島津貴久からの援軍により撃退された
第二次(1551年~):島津本家が肝付氏に敗れ飫肥から引き上げ、伊東氏が飫肥城の一角を奪った。1562年豊州家は伊東氏に一旦引き渡すが、隙をみて奪回
第三次(1563年~):戦いは膠着状態になるが、島津本家からの援軍が少ないときに伊東氏が攻勢をかけ大勝、1568年に豊州家は都城に撤退。(③⑤)
その間将軍・足利義輝が調停に乗り出したのですが、伊東氏は「将軍義政から三カ国守護に任ぜられ、飫肥・庄内は伊東領」だと主張、島津氏も「自らが三国守護で伊東の飫肥・庄内の権益は虚言だ」と反論し、失敗しました(①)。

結果、義祐は人生の多くをかけて飫肥を攻略し、伊東氏史上、最大領土を得て全盛期を迎えました。本城・佐土原城(または都於郡城)を中心に、飫肥城を含む48の支城を支配したことで「伊東四十八城」と呼ばれました。飫肥城には息子の祐兵(すけたけ、三男)を配置しました(③)。

伊東祐兵肖像画、日南市教育委員会蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかしこの栄光は長くは続きませんでした。飫肥城攻略のわずか4年後(1572年)、島津義弘の飯野・加久藤城を攻めた大軍の伊東軍は、小勢の島津軍に大敗しました(木崎原合戦)。島津氏は伊東氏家臣の調略、城の攻略を急速に進めます。
1573年:須木城の米良氏などを調略
1576年:高原城を攻略
そして1577年(天正3年)野尻城の伊東重臣・福永氏を調略すると、一気に伊東氏の本拠(都於郡)に攻め込みました。他の多くの家臣も離反したことで、義祐・祐兵は一戦も交えずに、縁戚のある大友氏の下に落ち延びました。飫肥城も放棄されました(①)その途中の財部城の落合氏も離反していたため、一行は高千穂の山岳地帯を進みました。折しも真冬で吹雪の中の逃避行であったといいます。(④)この出来事は「伊東崩れ」「日向崩れ」と呼ばれています。

島津義弘肖像画、尚古集成館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊東氏一行は大友宗麟に保護されますが、翌年(1578年)大友氏が伊東領奪回を名目に出陣した耳川の戦いで島津氏に大敗してしまいます。居づらくなった伊東一行はわずか20名ほどで四国伊予の河野氏家臣(大内氏)のもとに移りました。祐兵の妻(松寿院)を奪い取られそうになり、脱出したとも言われています。伊予での暮らしは貧しく、家臣は酒造り、機織りをしてしのぎました。(⑥)

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて祐兵は仕官しましたが、義祐は仏僧・文人であったため、気ままな旅暮らしをしていました。ところが現在の山口県あたりで家臣とはぐれてしまいます。祐兵の屋敷のあった堺に向けて船に乗ったところ、体調を崩し、堺についたところで行き倒れになってしまいました。その噂を聞きつけた家人たちによって屋敷に運ばれますが、ついに享年73で亡くなりました。1585年のことで「三位入道」波乱の人生でした。(⑥)

伊東氏の復活劇、飫肥藩の成立

伊東祐兵が仕官したのは、中国攻めを行っていた織田信長の家臣・羽柴秀吉でした。本能寺の変が起こる半年前のことでした(1582年)。まさに秀吉が天下統一に乗り出さんとするタイミングだったのです。遠縁の秀吉家臣(伊東掃部介)の仲介で一旦断られますが、秀吉に直接目通りすると、即時仕官が決まったそうです(下記補足1)。

(補足1)秀吉の言葉「いかにもたくましい勇士である(「日向記」)」「これから中国地方の毛利氏を攻めるにあたり、九州から自分を頼ってくる者があるとは、目出度い(「川崎私記」)(現代語訳は飫肥城松の丸展示より)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

祐兵(1559年生まれ)の同年配には、大谷吉継(同年)、石田三成(60年)、福島正則(61年)、加藤清正(62年)などがいました。当初は30人扶持(「日向記」)でしたが、彼らと出世を競い合い、仕官翌年には500石を得ています。そして1587年(天正15年)の九州平定には、豊臣秀長が総大将、黒田官兵衛(孝高、如水)が指揮する軍の配下で日向国に攻め入っています。道案内ということもあったのでしょう。その結果、戦後の論功行賞で飫肥を与えられ、10年ぶりに飫肥城に戻ってくることになったのです(石高2万8千石余→後に検地で5万7千石余→分知により5万1千石余)。放浪時代に世話になった大内氏も重臣として迎えられました。(③⑥)

しかし旧城主の上原氏が城をなかなか明け渡さず、祐兵の入城は翌年になってしまいました(①)。また家臣(川崎家)の記録には、取次ぎを行う黒田官兵衛が秀吉から不興をかったために「祐兵は飫肥城を与えられたものの、大封を得られず2万石余に留まり、「残念至極の事」」と記されています(⑥)。

黒田如水肖像画、崇福寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佑兵は関ヶ原の戦い前に病気になり、跡継ぎの祐慶(すけのり)が九州で東軍に参加することで、領地を安堵され、これが飫肥藩になります。飫肥の地は、蛇行する酒谷川に三方を囲まれた要害の地で、その背後のシラス台地に城が築かれていました。飫肥城の近代化は、まずこの2代に間に行われました。群郭式の城の中で、本丸、中の丸、松尾の丸などが中核の曲輪群として整備されました(⑤)。松尾の丸に残る石垣は、この当時のものと考えられます(⑦)。

江戸時代に城、城下町として整備された範囲、飫肥城歴史資料館にて展示
左側が松尾の丸の石垣

ところで因縁の島津氏との関係ですが、幕府・各藩と協調の方針をとった島津義弘が健在のころは良好でした。幕府が島津征伐を計画している噂が流れると、義弘は飫肥藩に真偽を問い合わせ、伊東祐慶は母・松寿院などからの情報をもとに噂を否定、急いで上洛して将軍に挨拶するよう勧めています。(⑥)

飫肥城を守り、現代へ継承

飫肥藩は、伊東氏14代によって幕末維新まで治められました(最後の代は知藩事、⑧)。しかし困難はありました。まず地震の被害です。17世紀後半、3度に渡って大地震が起こり(1662、1680、1684年)石垣が破損したほか、藩主寝所下に地割れが生じ、本丸建物が維持できなくなりました。そこで、中の丸を新本丸とし、大改修が行われました。(⑤)現在見られる城内の石垣の大半は地震後に改修されたものです(⑨)。
1691年:石垣完成、1693年:新本丸御殿完成、1713年:大手門完成(③⑨)同時期に二階櫓も建築(⑤)

本丸石垣
大手門(建物は復元)

次には薩摩藩との確執が挙げられます。島津義弘が亡くなると(1619年)飫肥藩と薩摩藩の間で境目論争が起こり(1624頃~)再び険悪な関係になります。この論争は幕府の裁定により飫肥藩の勝訴に終わるのですが(1675年)両藩の緊張関係は幕末まで続きました。飫肥藩は領内の要所に藩士を配置し続ける体制をとっていました。また興味深いことに、薩摩側(都城島津邸)には江戸後期の飫肥城本丸内の配置を記した絵図が残っています。(③⑥)薩摩藩の密偵が潜入し、情報収集していたのでしょう。

薩摩側が持っていた飫肥城の絵図、飫肥城歴史資料館にて展示

一方、先ほどの境目論争に勝訴したことで、飫肥藩は豊かな山林資源を確保しました。飫肥杉です。実は江戸中期までは松や楠の巨木だったのですが、枯渇してしまったので、藩民をあげて飫肥杉の大植林を行ったのです。成長が早く、船材に適していました。飫肥杉は、江戸後期から昭和時代まで、飫肥の経済をけん引する産業になりました。その飫肥杉などが積み出されたのが、戦国時代まで海外貿易で栄えた油津です。切り出した木材を港まで運ぶために「油津堀川」が開削されました。(②③)これらが藩の財政を支えましたが、藩士の生活はきびしかったようです。藩ができたときに、かつて大大名だったときの家臣を大勢召し抱えたため、石高ににしては藩士の数が多かったからです。

飫肥杉植林の様子、飫肥城歴史資料館にて展示
油津堀川の様子、飫肥城歴史資料館にて展示

幕末が近くなると、藩校・振徳堂が開設されました。ここから輩出された人物で有名なのは、日露戦争のポーツマス条約を締結した明治時代の外務大臣・小村寿太郎でしょう。現在、小村寿太郎記念館なども飫肥観光スポットの一つになっています。幕末維新の飫肥を支えた重要人物としては、家老の平部嶠南(ひらべきょうなん)が挙げられます。1868年、鳥羽伏見の戦いでの幕府の敗戦を聞くと、彼は薩摩藩に新政府への恭順の意を示し、薩摩藩家老(桂久武)と面会し、関係改善を果たしました。ただし、飫肥藩の兵は警戒されて、前線には出されなかったそうです。また、明治になって城の建物が撤去され、石垣も撤去される入札が実施されると聞いた嶠南は、石垣だけは残す努力をしたそうです。これも、現在の城や町の佇まいを残すことにつながっているのでしょう。(③)

修復、復元された振徳堂
小村寿太郎(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

①「地域から見た戦国150年 九州・琉球の戦国史/福島金治著」ミネルヴァ書房
「飫肥杉の積出港として賑わった油津の流通産業」みなと事業研究事業ウェブサイト
③ 飫肥城歴史資料館展示
④「三位入道/松本清張著」講談社「奥州の二人」より
⑤「九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編」吉川弘文館
⑥ 飫肥城松尾の丸展示
⑦「歴史群像シリーズ よみがえる日本の城18」学研
⑧ 飫肥城パンプレット
⑨ 飫肥城現地説明パネル
➉ 「古地図から読み解く飫肥城」戦国を歩こう

「飫肥城 その2」に続きます。

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